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|出典の明記 = 2013年7月 |
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|大言壮語=2013年7月 |
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{{基礎情報 軍人 |
{{基礎情報 軍人 |
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| 氏名 = ウィリアム・ウォレス |
| 氏名 = ウィリアム・ウォレス |
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'''ウィリアム・ウォレス'''({{lang-en|William Wallace}}、 |
[[サー]]・'''ウィリアム・ウォレス'''({{lang-en|Sir '''William Wallace'''}}、[[1270年]]頃 - [[1305年]][[8月23日]])は、[[スコットランド]]の愛国者、騎士、軍事指導者。 |
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[[イングランド]]王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、[[1297年]]の[[スターリング・ブリッジの戦い]]でイングランド軍に勝利をおさめた。この戦功で「[[ジョン・ベイリャル (スコットランド王)|ジョン]]王のスコットランド王国の守護官」に任じられるも、[[1298年]]の[[フォルカークの戦い]]でイングランド軍に敗れたため、職を辞した。その後も反エドワード活動を継続したが、スコットランド貴族の裏切りにあってエドワードに捕らえられ、残虐刑で処刑された。しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至った<ref>[[#世界(1980,2)|世界伝記大事典 世界編2巻(1980)]] p.212-213</ref>。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 出自・前半生など === |
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ウィリアム・ウォレスの出自について明らかでない。ウォレスという姓はWelshman、すなわちウェールズ人という意味である。のちの吟遊詩人ブラインド・ハリーは、ウィリアムの祖先は12世紀半ばの宮宰リチャード・ウォレスで、その曾孫マルコムはペイズリー近郊に領地を持っていたと伝える。ウィリアムはマルコムの子ということになっているが、これは伝承にすぎない。記録に出てくるなかでは、[[1296年]]8月にパースでWilliam le Waleysなる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない<ref>Andrew Fisher, ''Wallace, Sir William'', Oxford Dictionary of National Biography, vol.56, Oxford University Press, 2004, p947.</ref>。 |
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ウォレスの前半生についてはほぼ不明だが<ref name="世界(1980,2)212">[[#世界(1980,2)|世界伝記大事典 世界編2巻(1980)]] p.212</ref>、[[レンフルーシャー]]のエルダズリーの地主マルコム・ウォレスの子とも伝わる<ref name="トラ(1997)98">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.98</ref>。 |
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「ウォレス」というのは「ウェルシュ」がなまったものだが、これは[[ウェールズ人]]であることを意味しない。北方[[ゲール]]系[[ケルト人]]でなく、南部キムルー・ストラスクライド系ケルト人だったことを意味している<ref name="トラ(1997)98">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.98</ref>。 |
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ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は[[1297年]]で、イングランド人の[[w:en:High Sheriff|州長官]]ヘッセルリグを殺害した事件がそれである。この殺害について、ウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐と言われてきたが、これも伝承とされる<ref>''Ibid''.</ref>。イングランド式の統治を進めたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団が、ヘッセルリグの殺害を計画・実行したのが実際のところで、この一団にウィリアムが関わっていた<ref>''Ibid''.記録はほぼイングランド側のものであり、したがってウィリアムへの記述もThief(盗人)もしくはBrigand(山賊)などと書かれている。</ref>。 |
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=== 抵抗運動の始まり === |
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やがて、彼のもとに集まった民衆を指揮してゲリラ戦を行い、ラウドン・ヒル([[w:Loudoun Hill]])と[[エア (サウス・エアーシャー)|エア]]で勝利を得、同年9月アンドリュー・マリー(Sir [[w:Andrew Moray]])の指揮下[[スターリング・ブリッジの戦い]]でサリー伯の率いるイングランド軍と戦い、これを破った。この戦いの後、ロバート・ブルース(のちのスコットランド王[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]])は彼を[[ナイト]]に叙し、「スコットランド王国の守護者及び王国軍指揮官」の称号を与えた。が、平民出身の彼はスコットランド貴族から最後まで積極的な支持を得られなかった(称号を与えたロバート・ブルースさえもウォレスの旗色が悪くなり出すと、途端に支援を打ち切り距離を置いた)。1298年、[[フォルカークの戦い]]で敗れてからは、スコットランド貴族側で講和の機運が高まり、さらに支持者を失った。その後、一時はフランスに亡命し、帰還後の1303年2月24日の[[ロスリンの戦い]](The Battle of RoslinもしくはRosslyn)でイングランド軍に勝利するなど、7年間に渡ってゲリラ戦を続けてきたが、スコットランド貴族の裏切りにより、1305年、[[グラスゴー]]付近で生け捕りにされた。その後ロンドンに移送され、謀反人として残酷な方法([[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑|四つ裂き]]"hanging, drawing, and quartering")で処刑された。 |
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記録に出てくるなかでは、[[1296年]]8月にパースで「William le Waleys」なる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない<ref name="Fi(2004)947">[[#Fi(2004)|Fisher(2004)]] p.947</ref>。 |
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ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は[[1297年]]5月で、[[ラナーク]]の{{仮リンク|ハイ・シェリフ|en|High Sheriff}}を務めるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグを殺害した事件がそれである。この殺害について、ウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐という伝承もあるが<ref name="Fi(2004)947"/>、実際にはイングランド式の統治を推し進めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団がヘッセルリグの殺害を計画・実行し、この一団にウィリアムが関わっていたものと見られる<ref name="Fi(2004)947"/>。 |
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ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げた<ref name="世界(1980,2)212"/><ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。分散的だったスコットランド人の抵抗運動はウォレスの指導下にナショナルなゲリラ的抵抗の形をもって統一されていった<ref name="青山(1991)354"/>。一方スコットランド大貴族は親イングランド的だったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった<ref name="世界(1980,2)212"/><ref name="トラ(1997)100">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.100</ref>。 |
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=== スターリング・ブリッジの戦い === |
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[[File:The Battle of Stirling Bridge.jpg|250px|thumb|[[スターリング・ブリッジの戦い]]を描いた絵画]] |
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スコットランド北部で抵抗運動を行う{{仮リンク|アンドルー・モレー|en|Andrew Moray}}の軍と合流し、[[1297年]][[9月11日]]には[[スターリング (スコットランド)|スターリング・ブリッジ]]において、第6代{{仮リンク|サリー伯爵|en|Earl of Surrey}}{{仮リンク|ジョン・ド・ワーレン (第6代サリー伯爵)|label=ジョン・ド・ワーレン|en|John de Warenne, 6th Earl of Surrey}}率いるイングランド軍と戦った([[スターリング・ブリッジの戦い]])<ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。 |
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兵力はイングランド軍の方が優勢であり<ref name="世界(1980,2)212"/>、またイングランド軍は騎兵隊やウェールズ弓隊を擁していた<ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。しかしウォレスは[[フォース川]]の架橋地点とその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かしてイングランド軍の騎兵隊の機動力を奪い、勝利を収めることに成功した<ref name="トラ(1997)100">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.100</ref>。 |
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イングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]が前月8月からフランス出兵でイングランドを不在にしており、直接指揮をとっていなかったとはいえ、この勝利はスコットランド人の自信を大いに高めた<ref name="トラ(1997)100">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.100</ref>。 |
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この戦功でウォレスは[[ナイト]]に叙され、「[[サー]]」の称号を得た。誰がウォレスをナイトに叙したのかは判然としないが、イングランド側の記録には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されている<ref name="トラ(1997)102">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.102</ref>。当時イングランドに対して蜂起していたスコットランド伯爵は{{仮リンク|レノックス伯爵|en|Earl of Lennox}}{{仮リンク|メオル・チョルイム1世 (レノックス伯爵)|label=メオル・チョルイム|en|Maol Choluim I, Earl of Lennox}}と{{仮リンク|キャリック伯爵|en|Earl of Carrick}}[[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート・ブルース]](後のスコットランド王ロバート1世)の二人だけなので、そのどちらかと思われる<ref name="トラ(1997)102">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.102</ref>{{#tag:ref|{{仮リンク|ナイジェル・トランター|en|Nigel Tranter}}はレノックス伯はスターリングブリッジの戦い以前はイングランド派だった人物で、戦いの後にスコットランド派に寝返った日和見的な貴族なので、ウォレスが彼に好感を持っていたとは思えないとして、ブルースがウォレスを騎士に叙したのであろうと推測している<ref name="トラ(1997)102"/>。|group=注釈}}。 |
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さらに{{仮リンク|セルカーク|en|Selkirk, Scottish Borders}}における会議で<ref name="トラ(1997)102"/>、「[[ジョン・ベイリャル (スコットランド王)|ジョン]]王のスコットランド王国の守護官」に任じられた<ref name="世界(1980,2)212"/>。 |
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ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部[[ノーサンバーランド]]や[[カンバーランド]]に進攻した<ref name="青山(1991)354">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.354</ref>。 |
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=== フォルカークの戦い === |
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しかしウォレスの破竹の勢いも長くは続かなかった。彼は貴族階級から軽蔑され続けたし、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られなかった<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、[[1298年]]1月に急遽フランス王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]と講和し、イングランドに舞い戻ってきた<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。 |
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エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗したが、徐々に追い詰められていき、[[1298年]][[7月22日]]にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍と[[フォルカーク]]での野戦を余儀なくされた([[フォルカークの戦い]])<ref>[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.102-103</ref>。ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したが、戦闘中、貴族率いる騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされた<ref name="世界(1980,2)212"/><ref name="トラ(1997)103">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.103</ref>。 |
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この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは責任を取って「スコットランド王国の守護官」の職を辞した<ref name="世界(1980,2)212"/>。ウォレスの退任後はブルースと{{仮リンク|バデノッホ卿|en|Lord of Badenoch}}{{仮リンク|ジョン・コミン3世 (バデノッホ卿)|label=ジョン・コミン|en|John III Comyn, Lord of Badenoch}}が同職に就任した<ref name="トラ(1997)104">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.104</ref>。 |
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この後の[[1298年]]から[[1303年]]にかけてのウォレスの動向はよく分かっていない。[[フランス]]や[[ローマ]]を訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたるも失敗したことのみ判明している<ref name="世界(1980,2)213">[[#世界(1980,2)|世界伝記大事典 世界編2巻(1980)]] p.213</ref>。 |
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一方フォルカークの戦いに勝利したエドワード1世は、[[1300年]]からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう[[1303年]]5月に制圧に成功した<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。 |
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=== 捕縛・処刑 === |
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[[File:The Trial of William Wallace at Westminster.jpg|250px|thumb|大逆罪で[[ウェストミンスター]]の裁判所にかけられるウォレスを描いた絵画({{仮リンク|ダニエル・マクリース|en|Daniel Maclise}}画)]] |
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ウォレスはスコットランドに帰国したが、エドワード1世から執拗な追撃を受けた<ref name="世界(1980,2)213"/>。エドワード1世は「大逆者」ウォレスを捕らえようと血眼になり、賄賂と脅迫によってウォレスの部下たちにウォレスに対する裏切りを仕向けた<ref name="トラ(1997)103"/>。 |
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[[1305年]][[8月5日]]、ウォレスはかつての部下だった[[ダンバートン]]総督{{仮リンク|ジョン・ド・メンティス|en|John de Menteith}}の裏切りにあってイングランドに引き渡された<ref name="世界(1980,2)213"/><ref name="トラ(1997)103"/>{{#tag:ref|このためジョン・ド・メンティスは「不実なるメンティス」と呼ばれ、今日に至るまでスコットランド人から忌み嫌われている<ref name="トラ(1997)103"/>。しかしナイジェル・トランターは直接ウォレスを裏切って捕らえたラルフ・ド・ハリバートンが最も罪が重く、メンティスの罪は副次的であるとしている<ref name="トラ(1997)103"/>。|group=注釈}}。 |
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イングランドで裁判にかけられたウォレスはエドワード1世への大逆罪で有罪となり、[[8月23日]]に[[首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑]]という残虐刑で処刑された<ref name="世界(1980,2)213"/><ref name="トラ(1997)104">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.104</ref>。遺体の首は[[ロンドン橋]]に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4つの城で晒し物とされた<ref name="世界(1980,2)213"/>。 |
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エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったが、それは成功しなかった<ref name="トラ(1997)103"/><ref name="世界(1980,2)213"/>。逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになる<ref name="世界(1980,2)213"/>。 |
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== 人物・評価 == |
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当時スコットランドに国民や国家のような概念がほとんどない中で、スコットランド人を愛国精神で立ち上がらせることに成功した人物である点が特筆される<ref name="トレ(1973)210-211">[[#トレ(1973)|トレヴェリアン(1973)]] p.210-211</ref><ref name="トラ(1997)99">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.99</ref>。 |
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これについて{{仮リンク|ナイジェル・トランター|en|Nigel Tranter}}はウォレスを「スコットランド愛国精神の発明者」と評価している<ref name="トラ(1997)99"/>。一方{{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=ジョージ.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}は、明確に発露したり自覚したりすることこそなかったものの、当時スコットランド国民にはすでに国民的感情や民主的感情があり、ウォレスは行動に移すことを呼びかけた人物であると評価している<ref name="トレ(1973)211">[[#トレ(1973)|トレヴェリアン(1973)]] p.211</ref>。 |
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スコットランドでは現在に至るまで英雄として崇拝されている<ref name="トラ(1997)99">[[#トラ(1997)|トランター(1997)]] p.99</ref>。「スコットランドの[[オリヴァー・クロムウェル]]」とも渾名されている<ref name="青山(1991)355">[[#青山(1991)|青山(1991)]] p.355</ref>。 |
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{{Gallery |
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|File:Sir William Wallace statue.jpg|[[スコットランド]]・[[エディンバラ城]]のウォレス像 |
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|File:Wallace Statue, Dryburgh.jpg|スコットランド・{{仮リンク|ドライボロ|en|Dryburgh}}に立つウォレス像 |
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|File:The wallace tower ayr.JPG|スコットランド・[[エア (サウス・エアーシャー)|エア]]に立つウォレス・タワー |
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|File:Wallace Monument , Stirling, Scotland, in Autumn.jpg|スコットランド・{{仮リンク|アビー・クレイグ|en|Abbey Craig}}に立つ[[ナショナル・ウォレス・モニュメント]] |
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|File:Wallace's Monument, Elderslie.jpg|スコットランド・{{仮リンク|エルダスリー|en|Elderslie}}に立つウォレス・モニュメント |
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|File:Wm Wallace Druid Hill 1893.JPG|[[アメリカ]]・[[ボルチモア]]・{{仮リンク|ドルイド・ヒル・パーク|en|Druid Hill Park}}に立つウォレス像 |
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== その他 == |
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[[1995年]]公開のアメリカ映画『[[ブレイブハート]]』で主人公として描かれた。映画では[[メル・ギブソン]]が演じている<ref>{{Cite web |url=http://www.imdb.com/title/tt0112573/fullcredits?ref_=tt_cl_sm#cast |title=Braveheart (1995) Full Cast & Crew|accessdate= 2014-4-26|author= [[インターネット・ムービー・データベース|IMDb]] |work= [http://www.imdb.com/?ref_=nv_home IMDb] |language= 英語 }}</ref>。 |
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* [[ナショナル・ウォレス・モニュメント]] |
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* [[ブレイブハート]] |
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* [[テンプル騎士団]] |
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== 脚注 == |
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<!-- 典拠として用いられているとは思えないためいったんコメントアウトします。ノート参照のこと。 S kitahashi |
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{{脚注ヘルプ}} |
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== 典拠 == |
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=== 注釈 === |
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{{reflist|group=注釈|1}} |
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=== 出典 === |
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<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|1}}</div> |
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== 参考文献 == |
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*Brown, Chris. ''William Wallace. The True Story of Braveheart''. Stroud: Tempus Publishing Ltd, 2005. ISBN 0-7524-3432-2. |
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*{{Cite book|和書|editor=[[青山吉信]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈1〉先史~中世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460102|ref=青山(1991)}} |
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*Clater-Roszak, Christine. "Sir William Wallace ignited a flame." ''Military History'' 14 (1997): 12–15. . |
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*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ナイジェル・トランター|en|Nigel Tranter}}|translator=[[杉本優]]|date=1997年(平成9年)|title=スコットランド物語|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469244014|ref=トラ(1997)}} |
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*''Folklore, Myths and Legends of Britain''. London: The Reader’s Digest Association, 1973, 519-20. |
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*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン|label=G.M.トレヴェリアン|en|G. M. Trevelyan}}|translator=[[大野真弓]]|date=1973年(昭和48年)|title=イギリス史 1|publisher=[[みすず書房]]|isbn=978-4622020356|ref=トレ(1973)}} |
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*Harris, Nathaniel. ''Heritage of Scotland: A Cultural History of Scotland & Its People''. London: Hamlyn, 2000. ISBN 0-600-59834-9.. |
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*{{Cite book|和書|date=1980年(昭和55年)|title=世界伝記大事典〈世界編 2〉ウイーオ|publisher=[[ほるぷ出版]]|asin=B000J7XCOU|ref=世界(1980,2)}} |
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*MacLean, Fitzroy. ''Scotland: A Concise History''. London: Thames & Hudson, 1997. ISBN 0-500-27706-0. |
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*{{Cite book|author=Andrew Fisher|date=2004|title=Wallace, Sir William|series = Oxford Dictionary of National Biography, vol.56|publisher=Oxford University Press|ref=Fi(2004)}} |
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*Morton, Graeme. ''William Wallace''. London: Sutton, 2004. ISBN 0-7509-3523-5. |
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*Reese, Peter. ''William Wallace: A Biography''. Edinburgh: Canongate, 1998. ISBN 0-86241-607-8. |
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*Scott, Sir Walter. "Exploits and death of William Wallace, the 'Hero of Scotland'." |
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*Stead, Michael J., and Alan Young. ''In the Footsteps of William Wallace''. London: Sutton, 2002. |
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*Wallace, Margaret. ''William Wallace: Champion of Scotland''. Musselborough: Goblinshead, 1999. ISBN 1-899874-19-4. |
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== 脚註 == |
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<references/> |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commonscat|William Wallace}} |
{{commonscat|William Wallace}} |
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{{Wikisource1911Enc|Wallace, Sir William}} |
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* [http://www.braveheart.co.uk/macbrave/history/wallace/elder01.htm Location of William Wallace's home] |
* [http://www.braveheart.co.uk/macbrave/history/wallace/elder01.htm Location of William Wallace's home] |
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*[http://skyelander.orgfree.com/menu3.html William Wallace and Battles of Stirling and Falkirk] |
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*[http://www.stirling.gov.uk/services/education-and-learning/local-history-and-heritage/local-history/wallace-and-bruce Wallace and Bruce] |
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*[http://www.scottisharchivesforschools.org/ffa/lubeck.asp The Lübeck letter] |
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*[http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-14959390?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter Wallace letters to go on show] |
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* {{npg name|id=67461|name=Sir William Wallace}} |
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2014年5月14日 (水) 07:01時点における版
ウィリアム・ウォレス William Wallace | |
---|---|
アバディーンにあるウォレスの像 | |
生誕 |
1270年頃 スコットランド |
死没 |
1305年8月23日 イングランド王国、ロンドン |
軍歴 | 1297年 - 1305年 |
サー・ウィリアム・ウォレス(英語: Sir William Wallace、1270年頃 - 1305年8月23日)は、スコットランドの愛国者、騎士、軍事指導者。
イングランド王エドワード1世の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、1297年のスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に勝利をおさめた。この戦功で「ジョン王のスコットランド王国の守護官」に任じられるも、1298年のフォルカークの戦いでイングランド軍に敗れたため、職を辞した。その後も反エドワード活動を継続したが、スコットランド貴族の裏切りにあってエドワードに捕らえられ、残虐刑で処刑された。しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至った[1]。
生涯
出自・前半生など
ウォレスの前半生についてはほぼ不明だが[2]、レンフルーシャーのエルダズリーの地主マルコム・ウォレスの子とも伝わる[3]。
「ウォレス」というのは「ウェルシュ」がなまったものだが、これはウェールズ人であることを意味しない。北方ゲール系ケルト人でなく、南部キムルー・ストラスクライド系ケルト人だったことを意味している[3]。
抵抗運動の始まり
記録に出てくるなかでは、1296年8月にパースで「William le Waleys」なる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない[4]。
ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は1297年5月で、ラナークのハイ・シェリフを務めるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグを殺害した事件がそれである。この殺害について、ウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐という伝承もあるが[4]、実際にはイングランド式の統治を推し進めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団がヘッセルリグの殺害を計画・実行し、この一団にウィリアムが関わっていたものと見られる[4]。
ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げた[2][5]。分散的だったスコットランド人の抵抗運動はウォレスの指導下にナショナルなゲリラ的抵抗の形をもって統一されていった[5]。一方スコットランド大貴族は親イングランド的だったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった[2][6]。
スターリング・ブリッジの戦い
スコットランド北部で抵抗運動を行うアンドルー・モレーの軍と合流し、1297年9月11日にはスターリング・ブリッジにおいて、第6代サリー伯爵ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍と戦った(スターリング・ブリッジの戦い)[5]。
兵力はイングランド軍の方が優勢であり[2]、またイングランド軍は騎兵隊やウェールズ弓隊を擁していた[5]。しかしウォレスはフォース川の架橋地点とその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かしてイングランド軍の騎兵隊の機動力を奪い、勝利を収めることに成功した[6]。
イングランド王エドワード1世が前月8月からフランス出兵でイングランドを不在にしており、直接指揮をとっていなかったとはいえ、この勝利はスコットランド人の自信を大いに高めた[6]。
この戦功でウォレスはナイトに叙され、「サー」の称号を得た。誰がウォレスをナイトに叙したのかは判然としないが、イングランド側の記録には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されている[7]。当時イングランドに対して蜂起していたスコットランド伯爵はレノックス伯爵メオル・チョルイムとキャリック伯爵ロバート・ブルース(後のスコットランド王ロバート1世)の二人だけなので、そのどちらかと思われる[7][注釈 1]。
さらにセルカークにおける会議で[7]、「ジョン王のスコットランド王国の守護官」に任じられた[2]。
ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部ノーサンバーランドやカンバーランドに進攻した[5]。
フォルカークの戦い
しかしウォレスの破竹の勢いも長くは続かなかった。彼は貴族階級から軽蔑され続けたし、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られなかった[8]。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、1298年1月に急遽フランス王フィリップ4世と講和し、イングランドに舞い戻ってきた[8]。
エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗したが、徐々に追い詰められていき、1298年7月22日にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍とフォルカークでの野戦を余儀なくされた(フォルカークの戦い)[9]。ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したが、戦闘中、貴族率いる騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされた[2][10]。
この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは責任を取って「スコットランド王国の守護官」の職を辞した[2]。ウォレスの退任後はブルースとバデノッホ卿ジョン・コミンが同職に就任した[11]。
この後の1298年から1303年にかけてのウォレスの動向はよく分かっていない。フランスやローマを訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたるも失敗したことのみ判明している[12]。
一方フォルカークの戦いに勝利したエドワード1世は、1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう1303年5月に制圧に成功した[8]。
捕縛・処刑
ウォレスはスコットランドに帰国したが、エドワード1世から執拗な追撃を受けた[12]。エドワード1世は「大逆者」ウォレスを捕らえようと血眼になり、賄賂と脅迫によってウォレスの部下たちにウォレスに対する裏切りを仕向けた[10]。
1305年8月5日、ウォレスはかつての部下だったダンバートン総督ジョン・ド・メンティスの裏切りにあってイングランドに引き渡された[12][10][注釈 2]。
イングランドで裁判にかけられたウォレスはエドワード1世への大逆罪で有罪となり、8月23日に首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑された[12][11]。遺体の首はロンドン橋に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4つの城で晒し物とされた[12]。
エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったが、それは成功しなかった[10][12]。逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになる[12]。
人物・評価
当時スコットランドに国民や国家のような概念がほとんどない中で、スコットランド人を愛国精神で立ち上がらせることに成功した人物である点が特筆される[13][14]。
これについてナイジェル・トランターはウォレスを「スコットランド愛国精神の発明者」と評価している[14]。一方ジョージ.トレヴェリアンは、明確に発露したり自覚したりすることこそなかったものの、当時スコットランド国民にはすでに国民的感情や民主的感情があり、ウォレスは行動に移すことを呼びかけた人物であると評価している[15]。
スコットランドでは現在に至るまで英雄として崇拝されている[14]。「スコットランドのオリヴァー・クロムウェル」とも渾名されている[8]。
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スコットランド・ドライボロに立つウォレス像
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スコットランド・エアに立つウォレス・タワー
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スコットランド・アビー・クレイグに立つナショナル・ウォレス・モニュメント
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スコットランド・エルダスリーに立つウォレス・モニュメント
その他
1995年公開のアメリカ映画『ブレイブハート』で主人公として描かれた。映画ではメル・ギブソンが演じている[16]。
脚注
注釈
出典
- ^ 世界伝記大事典 世界編2巻(1980) p.212-213
- ^ a b c d e f g 世界伝記大事典 世界編2巻(1980) p.212
- ^ a b トランター(1997) p.98
- ^ a b c Fisher(2004) p.947
- ^ a b c d e 青山(1991) p.354
- ^ a b c トランター(1997) p.100
- ^ a b c d トランター(1997) p.102
- ^ a b c d 青山(1991) p.355
- ^ トランター(1997) p.102-103
- ^ a b c d e f トランター(1997) p.103
- ^ a b トランター(1997) p.104
- ^ a b c d e f g 世界伝記大事典 世界編2巻(1980) p.213
- ^ トレヴェリアン(1973) p.210-211
- ^ a b c トランター(1997) p.99
- ^ トレヴェリアン(1973) p.211
- ^ IMDb. “Braveheart (1995) Full Cast & Crew” (英語). IMDb. 2014年4月26日閲覧。
参考文献
- 青山吉信編 編『イギリス史〈1〉先史~中世』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460102。
- ナイジェル・トランター 著、杉本優 訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年(平成9年)。ISBN 978-4469244014。
- G.M.トレヴェリアン 著、大野真弓 訳『イギリス史 1』みすず書房、1973年(昭和48年)。ISBN 978-4622020356。
- 『世界伝記大事典〈世界編 2〉ウイーオ』ほるぷ出版、1980年(昭和55年)。ASIN B000J7XCOU。
- Andrew Fisher (2004). Wallace, Sir William. Oxford Dictionary of National Biography, vol.56. Oxford University Press