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「ボスニア王国」の版間の差分

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'''ボスニア王国'''([[ボスニア語]]:Bosansko kraljevstvo)は、[[中世]]に[[ボスニア]]に存在した国である。この王国はスチェパン・トヴルトコ1世が王になったことにより成立し、その後1463年に[[オスマン帝国]]により滅ぼされた
'''ボスニア王国'''({{lang-bs|Banovina Bosna/Босɖɴскɖ бɖɴоvнɴɖ}})は、中世[[ボスニア]]に存在していた国である。


== 史 ==
== 史 ==
=== 成立の経緯 ===
{{main|{{仮リンク|中世のボスニア・ヘルツェゴビナ|en|Bosnia and Herzegovina in the Middle Ages}}}}
[[1180年]]ごろからボスニアは[[バン (称号)|バン]](首長)の支配下の元に独立し、時には他国の君主に臣従を誓っていた<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、24頁</ref>。[[1318年]]にボスニアのバンとなった{{仮リンク|スチェパン2世|en|Stephen II, Ban of Bosnia}}の時代にボスニアは勢力を拡大し、同盟者である[[ハンガリー王国]]の保護下で北西に支配領域を広げ、[[1326年]]に[[セルビア王国 (中世)|セルビア]]の支配下に置かれていたフム({{仮リンク|ザクルミア|en|Zachlumia}})を併合した<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、28頁</ref>。


[[1353年]]にスチェパン2世が没した後、彼の甥である{{仮リンク|スチェパン・トヴルトコ1世|en|Tvrtko I of Bosnia}}が地位を継承するが、即位直後に多くの領土を喪失する<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、36-37頁</ref>。1360年代にトヴルトコ1世は支配権を回復し、1370年代にはフム全域とセルビアの支配下に置かれていた[[サンジャク (地名)|サンジャク]]地方の大部分を併合した。[[1371年]]にセルビアの[[ネマニッチ朝]]が断絶した後、セルビア王[[ステファン・ドラグティン]]のひ孫にあたるトヴルトコ1世はセルビア王位を請求した<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38頁</ref>。1377年にトヴルトコ1世は<!-- 「トヴルトコ1世が戴冠式を行った場所は諸説ある」(唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、200-202頁) -->「セルビアとボスニアの王」として戴冠し、トヴルトコ1世以降のボスニアの君主は王を称する<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38-39頁</ref>。
[[:bs:Bosanska kneževina]](600 – 1137)。[[12世紀]]以降、ボスニアは[[ハンガリー王国]]の支配下に入ったが([[:en:Banate of Bosnia|Bosanska banovina]]、1137 – 1377)、ハンガリーの支配は名目的で、実際はボスニアの貴族が太守や[[総督]]を意味する「[[バン (称号)|バン]]」という称号を名乗り支配していた。


トヴルトコ1世の時代、ボスニアは没落したセルビアに代わるバルカン半島最大の国家となる<ref>柴宜弘『図説バルカンの歴史』増補改訂新版(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年10月)、31頁</ref>。即位後、トヴルトコ1世はハンガリーの内乱に干渉し、[[クロアチア]]、[[ダルマチア]]に勢力を広げる。セルビア侯[[ラザル・フレベリャノヴィチ]]からは、援助の見返りとして{{仮リンク|トラヴニャ|en|Travunia}}から[[コトル]]に至る[[アドリア海]]沿岸部の地域を割譲された<ref name="kri73">クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、73頁</ref>。[[1378年]]にトヴルトコ1世は[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]]の皇女と結婚しており、この婚姻よりトヴルトコ1世にはアドリア海から[[黒海]]に至る大国を建設する野心があったと推測する意見もある<ref name="kri73"/>。[[1390年]]にトヴルトコ1世は自身が用いる称号に「クロアチアとダルマチアの王」を加えた<ref name="df39">ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、39頁</ref>。しかし、アドリア海沿岸部の都市のうち、[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]の支配下にあった[[ザダル]](ザラ)、ハンガリー王国の保護下にあった[[ドゥブロヴニク]](ラグーザ)はボスニアの支配から離れていた<ref>クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、58頁</ref>。
== 歴史 ==

=== 建国期 ===
トヴルトコ1世はセルビアと連合して[[オスマン帝国]]のバルカン半島への進出の阻止を試みたが、[[1389年]]の[[コソヴォの戦い]]でオスマン軍に敗北を喫する<ref name="kri73"/>。トヴルトコ1世の没後、[[1398年]]にボスニアに初めてオスマン軍が侵入する<ref name="kri74">クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、74頁</ref>。
[[1377年]]に当時の「バン」のスチェパン・トヴルトコ1世は、称号をそれまでの「バン」から「王」へと改め、この王国が成立した。しかし、スチェパン・トヴルトコ1世の死後は衰退した。

=== 王国の内争、オスマン帝国の進出 ===
[[15世紀]]に入ると国王と諸侯の抗争が頻発し、オスマン帝国、ハンガリー、セルビア公国が内訌に介入した<ref name="df39"/>。トヴルトコ1世の死後に弱体の国王が相次いで即位すると大貴族の王位への影響力が増し、王国で選挙王政の原則が構築される<ref name="kara99">唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、99頁</ref>。

[[1398年]]に即位した国王{{仮リンク|スチェパン・オストヤ|en|Stephen Ostoja of Bosnia}}は外国との関係を緊密にしようと努力した<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、104頁</ref>。[[1403年]]にオストヤは大貴族との協定を破って、大貴族の一人であるパヴレ・クレシッチの氏族地を没収する<ref name="kara102">唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、102頁</ref>。オストヤはクレシッチの亡命先であるドゥブロヴニクと彼の引き渡しを巡って争うが敗北し、国内の大貴族はより結束を強めた<ref name="kara102"/>。[[1404年]]にオストヤは廃位されてハンガリーに追放され、この年からボスニアで選挙王政が確立する<ref name="kara102"/>。

オストヤの廃位後に{{仮リンク|スチェパン・トヴルトコ2世|en|Tvrtko II of Bosnia}}が国王に選出されるが、トヴルトコ2世の即位を知ったハンガリー王[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジグモンド]]([[神聖ローマ皇帝]]ジギスムント)はボスニアを執拗に攻撃したハンガリーへの敗戦によって支持を失ったトヴルトコ2世は[[1409年]]に国外に亡命し、選挙を経てオストヤが国王に再選した。オストヤの復位後、大貴族のフルヴォイエはオスマン軍の力を借りてボスニア内に駐屯するハンガリー軍を追放しようと試みた。[[1415年]]にハンガリーから報復の軍隊が派兵され、{{仮リンク|ラシュヴァ渓谷|en|Lašva Valley}}近辺の戦いでボスニア・オスマン連合軍はハンガリーに勝利を収めた<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、106頁</ref>。戦後、ボスニアはセルビアの支配下に置かれていた[[スレブレニツァ]]の銀山を奪回する。

[[1421年]]にオストヤの長子スチェパン・オストイチが王位を追われ、トヴルトコ2世が復位する。[[1428年]]にボスニアはオスマン帝国に従属<ref>佐原徹哉「オスマン支配の時代」『バルカン史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年10月)、123頁</ref>、1430年代に[[セルビア公国 (中世)|セルビア公国]]がオスマン帝国から圧迫を受けると東ボスニアにセルビア人難民がなだれ込んだ<ref name="df40">ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、40頁</ref>。[[1448年]]にフムの支配者であるステファン・ヴクチッチ・コサチャはボスニアへの臣従を破棄して「フムと沿岸地方のヘルツェグ(公爵)」を名乗り、ステファンの支配地は[[ヘルツェゴヴィナ]]と呼ばれるようになる<ref name="df40"/>。国王{{仮リンク|スチェパン・トマシュ|en|Stephen Thomas of Bosnia}}はドゥブロヴニクと同盟を結んでヴクチッチに対抗し、孤立したヴクチッチは[[1454年]]にボスニア、ドゥブロヴニクと和約を結んだ<ref name="kara114">唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、114頁</ref>。

やがてオスマン帝国はボスニアへの圧力も強め、[[1451年]]にヴルフボスナ(現在の[[サラエヴォ]])が陥落する<ref name="df40"/>。[[1448年]]から[[1453年]]にかけて、ヴルフボスナ北部にボスニア最初のオスマン帝国の行政区画が設置された<ref name="kara114"/>。[[1453年]]にビザンツ帝国([[東ローマ帝国]])の首都[[コンスタンティノープル]]が[[コンスタンティノープルの陥落|陥落]]、[[1459年]]6月にセルビアがオスマン帝国の軍門に下ると、オスマン軍のボスニアへの進路が完全に開かれる<ref name="kri74"/>。[[1460年]]にボスニアはオスマン軍の攻撃を受けるが、教皇庁、ハンガリーから援軍は送られなかった<ref name="kri74"/>。

=== 滅亡 ===
[[1461年]]の{{仮リンク|スチェパン・トマシェヴィチ|en|Stephen Tomašević of Bosnia}}の戴冠式には、[[教皇|ローマ教皇]][[ピウス2世 (ローマ教皇)|ピウス2世]]が授与した王冠が使用される<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、116-117頁</ref>。ピウス2世からの使節に勇気づけられたトマシェヴィチはセルビア王位継承権を有する妻から権利を相続してセルビアの王位を請求し、オスマン帝国への貢納を拒絶した<ref name="kro155">アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)、155頁</ref>。[[1463年]]5月にオスマン皇帝[[メフメト2世]]は、ボスニアがハンガリーと同盟を結んだことを理由にボスニアへの遠征を実施した<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、117-118頁</ref>。遠征の開始から数週間後にボスニアはオスマン帝国によって征服され<ref name="df42">ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、42頁</ref>、首都の[[ヤイツェ]]を放棄して[[クリュチ]]に逃亡したトマシェヴィチは城塞に立て籠もって間もなく降伏した<ref name="kro155"/>。オスマン軍に捕らえられたトマシェヴィチは斬首され、ボスニア王国は滅亡する<ref name="kri74"/><ref name="df42"/>。

ボスニア征服の完了後にオスマン帝国は軍を引き上げたため、ボスニアの一部はハンガリーによって占領される<ref name="df42"/>。しかし、ハンガリーの支配は長く続かず、[[1465年]]末までにボスニアの大部分がオスマン帝国の支配下に入った<ref name="df42"/>。首都ヤイツェはハンガリーの支配下に置かれ、[[1527年]]/[[1528年|28年]]までオスマン帝国からの独立を維持した。

== 社会 ==
14世紀初頭にスチェパン2世が中央集権化を進めた時、ボスニアの大貴族は中央権力の統制に抵抗しつつ、自らの司法上の特権を拡大した<ref name="kara93">唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、93頁</ref>。スチェパン2世の跡を継いだトヴルトコ1世は関税徴収の強化、官制改革を実施し、大貴族の反発を受ける<ref name="kara99"/>。15世紀に入るとルサーグと呼ばれる大貴族の集団が議会において強い影響力を有するようになる<ref name="kara93"/>。中小貴族の立場は不安定であり、多くが大貴族に取り込まれた<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、126頁</ref>。

貴族たちは王位を統制する権利、国王による不当な逮捕や東国から守られる権利を有していた<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、91頁</ref>。15世紀初頭には広義の[[選挙王政]]が成立し、2人以上の国王候補が現れた場合には政治集会の場で協議が行われた<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、94頁</ref>。


== 宗教 ==
=== オスマン帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ侵攻 ===
ハンガリーから派遣された司法が追放されて以来、ボスニアには独立した教会({{仮リンク|ボスニア教会|en|Bosnian Church}})が存在していた<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、24頁</ref>。およそ100年の間ボスニアには[[カトリック教会]]の勢力が及ばない状態が続いていたが、1340年代に[[異端]]の非難を避けようと試みたスチェパン2世によって、[[フランシスコ会]]の宣教師が招かれた<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、28-29頁</ref>。フランシスコ会の修道士は中世・オスマン支配時代を通してボスニア唯一のカトリックの聖職者であり、オスマン帝国のボスニア征服までに10数個の修道院が建立された<ref name="df29">ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、29頁</ref>。1347年ごろにスチェパン2世はカトリック教会に改宗し、ステファン・オストヤを除いた全てのボスニアの王たちがカトリック教会の信徒となった<ref name="df29"/>。
{{main|{{仮リンク|オスマン帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ侵攻|ru|Османское завоевание Боснии и Герцеговины|en|Ottoman conquest of Bosnia and Herzegovina}}}}


君主がカトリックに改宗した後もボスニア教会は国家から許容されていたが、政治的な影響力を持つことはほとんど無かった<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、29-30頁</ref>。[[1459年]]、[[教皇|ローマ教皇]]に支援を求めたボスニア王スチェパン・トマシュに対し、教皇側は援助と引き換えにボスニア教会への迫害を要請した<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、30頁</ref>。教会の聖職者は改宗か国外追放かの二択を攻められ、多くがカトリックを受容し、少数の人間が隣接するヘルツェゴヴィナに移動した<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、30-31頁</ref>。<!-- 1463年のオスマン帝国の遠征においては、カトリック教会や正教会から迫害を受けていたボスニア教会の信徒(元の文ではボゴミル教徒)はオスマン帝国の支配を歓迎し、多くがイスラームに改宗した
[[1384年]]頃から、[[オスマン帝国]]は欧州への侵攻を開始した。この王国は[[1428年]]にオスマン帝国の属国となり、[[1463年]]に国王スチェパン・トマシェヴィチが廃されオスマン帝国の直接支配を受けるようになり、滅亡した。
<ref>クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、74-75頁</ref>。 -->基盤に大打撃を受けたボスニア教会はオスマン帝国のボスニア征服後間も無く消滅し、教会の信者は[[ギリシャ正教]]、カトリック、[[イスラーム]]を受け入れた<ref>ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、31頁</ref>。
{{節stub}}


== 影響 ==
== 歴代国王 ==
# スチェパン・トヴルトコ1世(在位:1377年 - [[1391年]])
=== オスマン帝国 ===
# スチェパン・ダビシャ(在位:1391年 - [[1395年]]) - トヴルトコ1世の叔父
{{main|{{仮リンク|オスマン帝国期のボスニア・ヘルツェゴビナ|en|Ottoman Bosnia and Herzegovina}}|{{仮リンク|ボスニア・エヤレト|en|Bosnia Eyalet}}|{{仮リンク|ボスニア・ヴィライェト|en|Bosnia Vilayet}}}}
# イェレナ(在位:1395年 - [[1398年]]) - ダビシャの妃<ref>唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、101頁</ref>
# スチェパン・オストヤ(在位:1398年 - [[1404年]]) - トヴルトコ1世の庶子の家系の出身<ref name="karasawa100">唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、100頁</ref>
# スチェパン・トヴルトコ2世(在位:1404年 - [[1409年]]) - トヴルトコ1世の嫡子
# スチェパン・オストヤ(在位:1409年 - [[1418年]]) - 復位
# スチェパン・オストイチ(在位:1418年 - [[1421年]]) - オストヤの長子
# スチェパン・トヴルトコ2世(在位:1421年 - [[1443年]]) - 復位
# スチェパン・トマシュ(在位:1443年 - [[1461年]]) - オストイチの弟
# スチェパン・トマシェヴィチ(在位:1461年 - [[1463年]])


== 脚注 ==
{{節stub}}<!-- 第一次世界大戦に急に飛ぶのはなぜでしょうか? -->
{{Reflist}}


== 参考文献 ==
=== 第一次世界大戦後 ===
* 唐澤晃一『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』(刀水書房, 2013年2月)
その後、[[第一次世界大戦]]に負けたオスマン帝国や[[オーストリア=ハンガリー帝国]]からの領土譲渡により、[[ユーゴスラビア王国]]が成立。[[第二次世界大戦]]時に[[ナチス・ドイツ]]に占領され、この最中に[[1943年]]に[[ユーゴスラビア民主連邦]]が反ナチスとして結成され、(後に連邦人民共和国、社会主義連邦共和国と国号を変更している)その構成国として[[ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国]]が設置されたが、ボスニア([[ボスニア・ヘルツェゴビナ]])が独立を回復したのはユーゴスラビア崩壊時の[[1992年]]であった。独立後、[[ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争]]が起こった。
* 柴宜弘編『バルカン史』(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年10月)、付録92頁収録の表
* ロバート.J.ドーニャ、ジョン.V.A.ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』(佐原徹哉、柳田美映子、山崎信一訳, 恒文社, 1995年11月)
* スティーヴン・クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』増補版(柴宜弘、高田敏明、田中一生訳, 恒文社, 1993年3月)


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2014年8月6日 (水) 00:38時点における版

ボスニア王国
Bosansko kraljevstvo
:en:Banate of Bosnia 1377年 - 1463年 オスマン帝国
ボスニア王国の国旗
(国旗)
ボスニア王国の位置
1180年から1391年にかけてのボスニアの支配領域の変化
首都 ヴィソコヤイツェ
国王
1377年 - 1391年 スチェパン・トヴルトコ1世
1461年 - 1463年スチェパン・トマシェヴィチ
変遷
スチェパン・トヴルトコ1世の戴冠 1377年
オスマン帝国の征服1463年

ボスニア王国ボスニア語: Banovina Bosna/Босɖɴскɖ бɖɴоvнɴɖ)は、中世のボスニアに存在していた国家である。

歴史

成立の経緯

1180年ごろからボスニアはバン(首長)の支配下の元に独立し、時には他国の君主に臣従を誓っていた[1]1318年にボスニアのバンとなったスチェパン2世英語版の時代にボスニアは勢力を拡大し、同盟者であるハンガリー王国の保護下で北西に支配領域を広げ、1326年セルビアの支配下に置かれていたフム(ザクルミア英語版)を併合した[2]

1353年にスチェパン2世が没した後、彼の甥であるスチェパン・トヴルトコ1世英語版が地位を継承するが、即位直後に多くの領土を喪失する[3]。1360年代にトヴルトコ1世は支配権を回復し、1370年代にはフム全域とセルビアの支配下に置かれていたサンジャク地方の大部分を併合した。1371年にセルビアのネマニッチ朝が断絶した後、セルビア王ステファン・ドラグティンのひ孫にあたるトヴルトコ1世はセルビア王位を請求した[4]。1377年にトヴルトコ1世は「セルビアとボスニアの王」として戴冠し、トヴルトコ1世以降のボスニアの君主は王を称する[5]

トヴルトコ1世の時代、ボスニアは没落したセルビアに代わるバルカン半島最大の国家となる[6]。即位後、トヴルトコ1世はハンガリーの内乱に干渉し、クロアチアダルマチアに勢力を広げる。セルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチからは、援助の見返りとしてトラヴニャ英語版からコトルに至るアドリア海沿岸部の地域を割譲された[7]1378年にトヴルトコ1世はブルガリア帝国の皇女と結婚しており、この婚姻よりトヴルトコ1世にはアドリア海から黒海に至る大国を建設する野心があったと推測する意見もある[7]1390年にトヴルトコ1世は自身が用いる称号に「クロアチアとダルマチアの王」を加えた[8]。しかし、アドリア海沿岸部の都市のうち、ヴェネツィアの支配下にあったザダル(ザラ)、ハンガリー王国の保護下にあったドゥブロヴニク(ラグーザ)はボスニアの支配から離れていた[9]

トヴルトコ1世はセルビアと連合してオスマン帝国のバルカン半島への進出の阻止を試みたが、1389年コソヴォの戦いでオスマン軍に敗北を喫する[7]。トヴルトコ1世の没後、1398年にボスニアに初めてオスマン軍が侵入する[10]

王国の内争、オスマン帝国の進出

15世紀に入ると国王と諸侯の抗争が頻発し、オスマン帝国、ハンガリー、セルビア公国が内訌に介入した[8]。トヴルトコ1世の死後に弱体の国王が相次いで即位すると大貴族の王位への影響力が増し、王国で選挙王政の原則が構築される[11]

1398年に即位した国王スチェパン・オストヤ英語版は外国との関係を緊密にしようと努力した[12]1403年にオストヤは大貴族との協定を破って、大貴族の一人であるパヴレ・クレシッチの氏族地を没収する[13]。オストヤはクレシッチの亡命先であるドゥブロヴニクと彼の引き渡しを巡って争うが敗北し、国内の大貴族はより結束を強めた[13]1404年にオストヤは廃位されてハンガリーに追放され、この年からボスニアで選挙王政が確立する[13]

オストヤの廃位後にスチェパン・トヴルトコ2世英語版が国王に選出されるが、トヴルトコ2世の即位を知ったハンガリー王ジグモンド神聖ローマ皇帝ジギスムント)はボスニアを執拗に攻撃したハンガリーへの敗戦によって支持を失ったトヴルトコ2世は1409年に国外に亡命し、選挙を経てオストヤが国王に再選した。オストヤの復位後、大貴族のフルヴォイエはオスマン軍の力を借りてボスニア内に駐屯するハンガリー軍を追放しようと試みた。1415年にハンガリーから報復の軍隊が派兵され、ラシュヴァ渓谷英語版近辺の戦いでボスニア・オスマン連合軍はハンガリーに勝利を収めた[14]。戦後、ボスニアはセルビアの支配下に置かれていたスレブレニツァの銀山を奪回する。

1421年にオストヤの長子スチェパン・オストイチが王位を追われ、トヴルトコ2世が復位する。1428年にボスニアはオスマン帝国に従属[15]、1430年代にセルビア公国がオスマン帝国から圧迫を受けると東ボスニアにセルビア人難民がなだれ込んだ[16]1448年にフムの支配者であるステファン・ヴクチッチ・コサチャはボスニアへの臣従を破棄して「フムと沿岸地方のヘルツェグ(公爵)」を名乗り、ステファンの支配地はヘルツェゴヴィナと呼ばれるようになる[16]。国王スチェパン・トマシュ英語版はドゥブロヴニクと同盟を結んでヴクチッチに対抗し、孤立したヴクチッチは1454年にボスニア、ドゥブロヴニクと和約を結んだ[17]

やがてオスマン帝国はボスニアへの圧力も強め、1451年にヴルフボスナ(現在のサラエヴォ)が陥落する[16]1448年から1453年にかけて、ヴルフボスナ北部にボスニア最初のオスマン帝国の行政区画が設置された[17]1453年にビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープル陥落1459年6月にセルビアがオスマン帝国の軍門に下ると、オスマン軍のボスニアへの進路が完全に開かれる[10]1460年にボスニアはオスマン軍の攻撃を受けるが、教皇庁、ハンガリーから援軍は送られなかった[10]

滅亡

1461年スチェパン・トマシェヴィチの戴冠式には、ローマ教皇ピウス2世が授与した王冠が使用される[18]。ピウス2世からの使節に勇気づけられたトマシェヴィチはセルビア王位継承権を有する妻から権利を相続してセルビアの王位を請求し、オスマン帝国への貢納を拒絶した[19]1463年5月にオスマン皇帝メフメト2世は、ボスニアがハンガリーと同盟を結んだことを理由にボスニアへの遠征を実施した[20]。遠征の開始から数週間後にボスニアはオスマン帝国によって征服され[21]、首都のヤイツェを放棄してクリュチに逃亡したトマシェヴィチは城塞に立て籠もって間もなく降伏した[19]。オスマン軍に捕らえられたトマシェヴィチは斬首され、ボスニア王国は滅亡する[10][21]

ボスニア征服の完了後にオスマン帝国は軍を引き上げたため、ボスニアの一部はハンガリーによって占領される[21]。しかし、ハンガリーの支配は長く続かず、1465年末までにボスニアの大部分がオスマン帝国の支配下に入った[21]。首都ヤイツェはハンガリーの支配下に置かれ、1527年/28年までオスマン帝国からの独立を維持した。

社会

14世紀初頭にスチェパン2世が中央集権化を進めた時、ボスニアの大貴族は中央権力の統制に抵抗しつつ、自らの司法上の特権を拡大した[22]。スチェパン2世の跡を継いだトヴルトコ1世は関税徴収の強化、官制改革を実施し、大貴族の反発を受ける[11]。15世紀に入るとルサーグと呼ばれる大貴族の集団が議会において強い影響力を有するようになる[22]。中小貴族の立場は不安定であり、多くが大貴族に取り込まれた[23]

貴族たちは王位を統制する権利、国王による不当な逮捕や東国から守られる権利を有していた[24]。15世紀初頭には広義の選挙王政が成立し、2人以上の国王候補が現れた場合には政治集会の場で協議が行われた[25]

宗教

ハンガリーから派遣された司法が追放されて以来、ボスニアには独立した教会(ボスニア教会)が存在していた[26]。およそ100年の間ボスニアにはカトリック教会の勢力が及ばない状態が続いていたが、1340年代に異端の非難を避けようと試みたスチェパン2世によって、フランシスコ会の宣教師が招かれた[27]。フランシスコ会の修道士は中世・オスマン支配時代を通してボスニア唯一のカトリックの聖職者であり、オスマン帝国のボスニア征服までに10数個の修道院が建立された[28]。1347年ごろにスチェパン2世はカトリック教会に改宗し、ステファン・オストヤを除いた全てのボスニアの王たちがカトリック教会の信徒となった[28]

君主がカトリックに改宗した後もボスニア教会は国家から許容されていたが、政治的な影響力を持つことはほとんど無かった[29]1459年ローマ教皇に支援を求めたボスニア王スチェパン・トマシュに対し、教皇側は援助と引き換えにボスニア教会への迫害を要請した[30]。教会の聖職者は改宗か国外追放かの二択を攻められ、多くがカトリックを受容し、少数の人間が隣接するヘルツェゴヴィナに移動した[31]。基盤に大打撃を受けたボスニア教会はオスマン帝国のボスニア征服後間も無く消滅し、教会の信者はギリシャ正教、カトリック、イスラームを受け入れた[32]

歴代国王

  1. スチェパン・トヴルトコ1世(在位:1377年 - 1391年
  2. スチェパン・ダビシャ(在位:1391年 - 1395年) - トヴルトコ1世の叔父
  3. イェレナ(在位:1395年 - 1398年) - ダビシャの妃[33]
  4. スチェパン・オストヤ(在位:1398年 - 1404年) - トヴルトコ1世の庶子の家系の出身[34]
  5. スチェパン・トヴルトコ2世(在位:1404年 - 1409年) - トヴルトコ1世の嫡子
  6. スチェパン・オストヤ(在位:1409年 - 1418年) - 復位
  7. スチェパン・オストイチ(在位:1418年 - 1421年) - オストヤの長子
  8. スチェパン・トヴルトコ2世(在位:1421年 - 1443年) - 復位
  9. スチェパン・トマシュ(在位:1443年 - 1461年) - オストイチの弟
  10. スチェパン・トマシェヴィチ(在位:1461年 - 1463年

脚注

  1. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、24頁
  2. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、28頁
  3. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、36-37頁
  4. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38頁
  5. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38-39頁
  6. ^ 柴宜弘『図説バルカンの歴史』増補改訂新版(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年10月)、31頁
  7. ^ a b c クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、73頁
  8. ^ a b ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、39頁
  9. ^ クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、58頁
  10. ^ a b c d クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、74頁
  11. ^ a b 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、99頁
  12. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、104頁
  13. ^ a b c 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、102頁
  14. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、106頁
  15. ^ 佐原徹哉「オスマン支配の時代」『バルカン史』収録(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年10月)、123頁
  16. ^ a b c ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、40頁
  17. ^ a b 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、114頁
  18. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、116-117頁
  19. ^ a b アンドレ・クロー『メフメト2世 トルコの征服王』(岩永博、佐藤夏生、井上裕子、新川雅子訳, りぶらりあ選書, 法政大学出版局, 1998年6月)、155頁
  20. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、117-118頁
  21. ^ a b c d ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、42頁
  22. ^ a b 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、93頁
  23. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、126頁
  24. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、91頁
  25. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、94頁
  26. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、24頁
  27. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、28-29頁
  28. ^ a b ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、29頁
  29. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、29-30頁
  30. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、30頁
  31. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、30-31頁
  32. ^ ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、31頁
  33. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、101頁
  34. ^ 唐澤『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』、100頁

参考文献

  • 唐澤晃一『中世後期のセルビアとボスニアにおける君主と社会』(刀水書房, 2013年2月)
  • 柴宜弘編『バルカン史』(新版世界各国史, 山川出版社, 1998年10月)、付録92頁収録の表
  • ロバート.J.ドーニャ、ジョン.V.A.ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』(佐原徹哉、柳田美映子、山崎信一訳, 恒文社, 1995年11月)
  • スティーヴン・クリソルド編『ユーゴスラヴィア史』増補版(柴宜弘、高田敏明、田中一生訳, 恒文社, 1993年3月)