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「アレッサンドラ・ムッソリーニ」の版間の差分

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'''アレッサンドラ・ムッソリーニ'''('''Alessandra Mussolini'''、[[1962年]][[12月30日]] - )は、[[イタリア]]の[[政治家]]。[[欧州議会]]議員、[[ラティーナ県|ラティーナ県議]]
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== 概要 ==
== 概要 ==
===生い立ち===
イタリアの首相[[ベニート・ムッソリーニ]]の三男で[[ジャズ]]・ピアニストで評論家の[[ロマーノ・ムッソリーニ]] と妻[[アンナ・マリア・シッコローネ]]との間に生まれた。アンナ・マリアは女優[[ソフィア・ローレン]]の妹で、アレッサンドラはソフィア・ローレンの姪に当たる。
[[1962年]][[12月30日]]、[[イタリア共和国]][[ラツィオ州]][[ローマ]]に音楽家[[ロマーノ・ムッソリーニ]]とアンナ・マリア・シッコローネの長女として生まれる。父ロマーノは名が示す通り、王政期のイタリアで独裁体制を築いた[[ファシスト党|国家ファシスト党]](PNF)の[[ベニート・ムッソリーニ]]首相とその後妻[[ラケーレ・グイーディ]]の三男(前妻イーダ・ダルセルとの子を含めれば四男)であったが、政治とは距離を取ってピアニストとして生計を立てていた。その為、[[第二次世界大戦]]前後の騒乱に巻き込まれず、[[共和制]]に移行した戦後イタリアで静かな日々を送っていた。


===芸能活動と学業===
若い頃は[[モデル (職業)|モデル]]・[[俳優|女優]]・[[歌手]]として活動しており、[[PLAYBOY]](イタリア版)にて[[ヌード]]を披露したことがある。また[[日本]]の[[アルファレコード]]から日本語歌詞のポップスを多数収録した[[アルバム]]をリリースしている。
一方、母アンナもアカデミー賞女優として知られる[[ソフィア・ローレン]]の実妹であり、むしろ当初はこちらの血縁の方が彼女の人生に強い影響を与えた。1970年代からソフィアの元で養育を受け、アカデミー賞及びゴールデングローブ賞の外国映画部門にノミネートされた『[[特別な一日]]』で映画デビューを果たし、主演を務める叔母と共演した。以後、「大女優の姪」として[[俳優|女優]]の他に[[モデル (職業)|モデル]]・[[歌手]]など様々な活動を展開した。


歌手業では1982年に[[日本]]の[[アルファレコード]]から日本語歌詞のポップスを多数収録した[[アルバム]]を限定リリース、日本のみの展開という事もあって欧米諸国で話題を集めた<ref name=Orrore>{{cite news|url=http://www.orrorea33giri.com/2007/04/alessandra-mussolini-amore-1982.html|work=Orrore a 33 Giri|title=Alessandra Mussolini - Amore (1982)|date=13 April 2007|accessdate=3 january 2008|archiveurl= http://web.archive.org/web/20080209003430/http://www.orrorea33giri.com/2007/04/alessandra-mussolini-amore-1982.html| archivedate=9 February 2008 <!--DASHBot-->|deadurl= no}}</ref>。モデル業では肉感的な体を武器にしていた叔母ソフィアに倣って[[:en:Glamour photography|グラマー写真]]を中心に活動<ref name=BBC20040109>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/3382151.stm|work=[[BBC News]]|title=Italy's post-fascists to regroup|date=9 January 2004|accessdate=3 January 2008|author=Jan Repa}}</ref>、イタリア版及びドイツ版[[PLAYBOY]]では[[ヌード]]撮影にも挑んでいる<ref name=PBCoversIT>{{cite news|url=http://www.pbcovers.com/pbcovers.php?c=it&y=1983&cover=it_198308|work=PBCovers|title=Playboy Italy - Covers of 1983|date=August 1983|accessdate=3 January 2008|archiveurl= http://web.archive.org/web/20071225234659/http://www.pbcovers.com/pbcovers.php?c=it&y=1983&cover=it_198308|archivedate=25 December 2007<!--DASHBot-->|deadurl= no}}</ref><ref name=PBCoversDE>{{cite news|url=http://www.pbcovers.com/pbcovers.php?c=de&y=1983&cover=de_198311|work=PBCovers|title=Playboy Germany - Covers of 1983|date=November 1983|accessdate=3 January 2008}}</ref>。
1986年にリミニ大学で[[医学]]と[[外科]]の[[修士号]]を取得し、[[外科医]]となる。さらに[[ファシズム]]政党[[イタリア社会運動|イタリア社会運動・国民右翼]](現在の[[国民同盟 (イタリア)|国民同盟]]の前身)に入党し、政治家に転身した。


精力的な芸能活動の傍ら、学業では[[アメリカンスクール]]を経て[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学]][[医学部]]に入校して医師免許取を取得、1986年に修士課程も修了している。1989年、税関吏マウロ・フロリアーニと結婚、翌年にイスラエル映画『[[:en:HaDerekh LeEin Harod|הדרך לעין חרוד]]』(Ha-Derech L'Ein Harod)を最後に芸能界からは引退した。引退後は医師活動と家庭生活に専念して、外科医として勤務しつつカテリーナ、クラリッサ、ロマーノの一男二女を育てた。その際、子供たちが母方の姓も名乗れるようにするための複雑な法的手続きを行っている。
[[2003年]]、[[ジャンフランコ・フィーニ]]党首のファシズム否定発言に反発して国民同盟を離党、極右政党「行動の自由 ([[:it:Libertà di Azione]]」(現在の「[[社会行動 (イタリア)|社会行動]]《[[:it:Azione Sociale]]》」) を結党し、その党首となった。現在は[[欧州議会]]議員、[[イタリア]]下院議員、イタリア[[赤十字社]]の名誉会員を務めている。


===政界進出===
私生活では税関吏のマウロ・フロリアーニと結婚。カテリーナ、クラリッサ、ロマーノの3人の子供に恵まれた。子供たちが母方の姓も名乗れるようにするため、複雑な法的手続きを行った。
1992年、[[共和ファシスト党]](PFR)の後継政党である[[イタリア社会運動]](MSI)からムッソリーニの孫娘として下院選挙の[[カンパニア州]][[ナポリ]]選挙区に擁立され、新人候補ながら初当選を勝ち取って[[下院議員]]となった。1993年11月、今度はナポリ[[市長]]選挙に出馬したが、これはイタリア[[民主党]]の[[:en:Antonio Bassolino|アントニオ・バッソリーノ]]候補に敗れて落選した。1994年、[[ナポリ]]選挙区の下院議員に再選され、再選回数を重ねていく。

1990年代から2000年代にかけて行われた[[ジャンフランコ・フィーニ]]書記長による穏健化改革が進み、[[イタリア社会運動]]が[[国民同盟]](AN)に再編され、2001年には悲願であった政権参加が達成される。こうした中で一旦は[[国民同盟]]に加わったが、次第にファシズム運動の穏健化を進めるフィーニとの政治的対立が生じる様になった。特に副首相となったフィーニがイスラエル訪問時にファシスト政権時代の行為について『まったくの悪 (the absolute evil) 』と謝罪した事に激怒し<ref>{{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/2003/novembre/28/Mussolini_lascia_Gianfranco_tradito__co_0_031128096.shtml|title=La Mussolini lascia An "Gianfranco ha tradito"|accessdate=8 July 2008}}</ref>、国民同盟から離党した。離党後は個人政党として[[社会行動 (イタリア)|社会行動]](AS)を結党、実質的には無所属議員として活動した。

[[2004年]]、[[下院]]から[[欧州議会]]への鞍替え出馬を行うべく他のネオ・ファシスト運動と連携して「社会的選択 (Alternativa Sociale) 」を結成、[[:en:Central Italy (European Parliament constituency)|中部イタリア選挙区]]で当選して[[欧州議会議員]]となった。離党の原因となったイスラエルやユダヤ教徒との友好については賛意を示している他<ref>{{cite web|url=http://www.haaretz.com/hasen/pages/ShArt.jhtml?itemNo=364285&contrassID=1&subContrassID=1&sbSubContrassID=0&listSrc=Y|title=Mussolini: World should 'beg forgiveness of Israel'|accessdate=8 July 2008}}</ref>、社会行動自体も同性婚の容認など幾分進歩的な政策を標榜するなど、自身も穏健派のファシストとして行動した<ref>{{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/1994/agosto/11/Mussolini_macche_omicidio_cosi_criminalizzano_co_0_9408115537.shtml|title=la Mussolini: macche' omicidio cosi' si criminalizzano le donne|accessdate=8 July 2008}}</ref><ref>{{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/1997/febbraio/04/Embrioni_Mussolini_Melandri_ancora_polemica_co_0_9702048957.shtml|title=Embrioni, da Mussolini a Melandri e' ancora polemica|accessdate=8 July 2008}}</ref><ref>{{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/2004/febbraio/11/Fecondazione_Parlamento_vara_regole_co_9_040211027.shtml|title=Fecondazione, il Parlamento vara le regole|accessdate=8 July 2008}}</ref><ref>{{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/1995/gennaio/06/Destra_gay_pace_vicina_Alessandra_co_0_9501062501.shtml|title=Destra e gay, pace vicina. Alessandra Mussolini: tra loro ho molti amici|accessdate=8 July 2008}} See also: {{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/1996/febbraio/09/Alessandra_per_una_volta_sono_co_8_9602091092.shtml|title=Alessandra: per una volta sono vicina alla sinistra|accessdate=8 July 2008}} and {{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/1997/febbraio/08/Mussolini_piace_gay_mette_imbarazzo_co_0_9702088459.shtml|title=La Mussolini piace ai gay e mette in imbarazzo An|accessdate=8 July 2008}}</ref><ref>{{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/2003/ottobre/24/Turco_Mussolini_Thelma_Louise_della_co_0_031024128.shtml|title=Turco-Mussolini, Thelma e Louise della politica "Tanta invidia ma andiamo avanti lo stesso"|accessdate=8 July 2008}} See also: {{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/2003/ottobre/21/Raddoppiano_coppie_fatto_Polo_contro_co_0_031021030.shtml|title=Raddoppiano le coppie di fatto Polo contro la proposta Mussolini|accessdate=8 July 2008}}</ref><ref>{{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/2003/luglio/08/Alessandra_Mussolini_ora_serve_nuovo_co_0_030708057.shtml|title=Alessandra Mussolini: ora serve un nuovo femminismo|accessdate=8 July 2008}}</ref><ref>{{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/1996/maggio/31/Buttafuoco_Mussolini_vattene_con_Ulivo_co_0_96053111728.shtml|title=Buttafuoco: Mussolini, vattene con l' Ulivo Alessandra: triste non sapere dove buttarsi|accessdate=8 July 2008}}</ref><ref>{{cite web|url=http://archiviostorico.corriere.it/2005/marzo/25/interroga_Alessandra_destra_femminista__co_9_050325040.shtml|title=An s' interroga su Alessandra "E' di destra o femminista?"|accessdate=8 July 2008}}</ref>。一方で2006年に下院選挙に復帰した際、対立候補となった[[:en:Vladimir Luxuria|ウラジーミル・ルクスリア]]議員([[トランスジェンダー]]として初めてイタリア議会に当選)に対して「[[ホモ]]や[[オカマ]]よりも[[ファシスト]]になる方がよい(Meglio fascista che frocio)」という差別的なキャンペーンも行っている<ref>[http://www.repubblica.it/2006/c/sezioni/politica/versoelezioni35/muslux/muslux.html "Mussolini a Vladimir Luxuria 'Meglio fascista che frocio'"], ''[[La Repubblica]],'' 9 March 2006 {{it icon}}</ref>。同年の選挙で当選して欧州議会議員から下院議員に復帰した。

2007年、欧州会派「[[:en:Identity, Tradition, Sovereignty|アイデンティティ、伝統、主権]]」の不法移民問題についての会合で「[[ルーマニア人]]は不法滞在しか職業がない」と罵倒した事で[[大ルーマニア党]]の党首と口論になり、大ルーマニア党は会派を離脱した<ref>[http://www.guardian.co.uk/eu/story/0,,2211166,00.html "Xenophobia destroys EU's ultra-rightwing MEP group"], ''[[The Guardian]]'', 15 November 2007</ref>。

[[2009年]]、[[フォルツァ・イタリア]]党と[[国民同盟]]を母体とする新党「[[自由の人民]]」が結党されると、[[社会行動 (イタリア)|社会行動]]も提案を受け入れて合流した<ref name=chamberSite />。自由の人民内では旧国民同盟党系の議員よりもフォルツァ・イタリア党系の議員と行動し、2013年に自由の人民が分裂すると再結党された[[フォルツァ・イタリア]]党に参加した。


== 略歴 ==
== 略歴 ==
*[[1962年]]、[[ベニート・ムッソリーニ]]の三男[[ロマーノ・ムッソリーニ]](Romano Mussolini) とアンナ・マリア・シコローネ (Anna Maria Scicolone) との間に[[ローマ]]で生まれる。
*[[1962年]]、[[ベニート・ムッソリーニ]]の三男[[ロマーノ・ムッソリーニ]](Romano Mussolini) とアンナ・マリア・シコローネ (Anna Maria Scicolone) との間に[[ローマ]]で生まれる。
*[[1977年]]、映画『特別な一日』(Una giornata particolare、[[エットレ・スコーラ]]監督)でマリア・ルイサ役として母方の伯母[[ソフィア・ローレン]]と共演。
*[[1977年]]、映画『特別な一日』(Una giornata particolare、[[エットレ・スコーラ]]監督)でマリア・ルイサ役として母方の伯母[[ソフィア・ローレン]]と共演。
*[[1986年]]、[[ローマ・ラ・サピエンツァ大学]][[医学]][[修士課程]]修了。外科医として医師免許を取得。
*[[1990年]]、税関吏マウロ・フロリアーニと結婚、一男二女を儲ける。
*[[1990年]]、映画"Ha-Derech L'Ein Harod"にリオラ役で出演。最後の映画出演となる。
*[[1990年]]、映画"Ha-Derech L'Ein Harod"にリオラ役で出演。最後の映画出演となる。
*[[1992年]]、総選挙で下院議員に[[ナポリ]]から立候補し当選。
*[[1992年]]、総選挙で下院議員に[[ナポリ]]から立候補し当選。
*[[1993年]]11月、ナポリ市長戦に立候補するも決選投票でやぶれる。
*[[1993年]]、ナポリ市長戦に立候補するも決選投票でやぶれる。
*[[2003年]]
*[[2003年]]11月、[[ジャンフランコ・フィーニ]]副首相の[[エルサレム]]での発言(ベニート・ムッソリーニが1938年に施行した人種法について謝罪し、[[ファシズム]]を『まったくの悪 (the absolute evil) 』と表現した)に対して反発し、フィーニの[[国民同盟 (イタリア)|国民同盟]] (Alleanza Nazionale) からの離党を表明。
**[[ジャンフランコ・フィーニ]]副首相の[[エルサレム]]での発言(ベニート・ムッソリーニが1938年に施行した人種法について謝罪し、[[ファシズム]]を『まったくの悪 (the absolute evil) 』と表現した)に対して反発し、[[国民同盟 (イタリア)|国民同盟]] からの離党を表明。
*離党後、極右政党「行動の自由 (Libertà di Azione) 」(現在の名称・社会行動 Azione Sociale)を結成した。また欧州議会選挙に向け、他のネオ・ファシスト運動と連携して会派「社会的選択 (Alternativa Sociale) 」を結成した。
**離党後、極右政党「行動の自由」(後に社会行動に改称)を結成した。また欧州議会選挙に向け、他のネオ・ファシスト運動と連携して会派「社会的選択」を結成した。
*[[2004年]]6月、欧州議会選挙での「社会的選択」の得票率は1.2%に達し、欧州議会の議員に当選。
*[[2004年]]、欧州議会選挙での「社会的選択」の得票率は1.2%に達し、欧州議会の議員に当選。

*[[2005年]]、下院議員に復帰。
*[[2009年]]、[[自由の人民]]に合流する。
*[[2013年]]、[[フォルツァ・イタリア]]党の再結成に参加。
== ディスコグラフィー ==
== ディスコグラフィー ==
=== アルバム ===
=== アルバム ===
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*[[1982年]] 「ラヴ・イズ・ラヴ」("Love Is Love") (アルファレコード ALFA ALR 755)
*[[1982年]] 「ラヴ・イズ・ラヴ」("Love Is Love") (アルファレコード ALFA ALR 755)
*[[1982年]] 「Tokio Fantasy」(アルファレコード ALFA ALR 756)
*[[1982年]] 「Tokio Fantasy」(アルファレコード ALFA ALR 756)

==出典==
<references/>


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2014年1月24日 (金) 16:27時点における版

アレッサンドラ・ムッソリーニ
Alessandra Mussolini
2007年、ミラノにて
生年月日 1962年12月30日
出生地 イタリア共和国ラツィオ州ローマ
出身校 ローマ・ラ・サピエンツァ大学
前職 医師女優歌手モデル
所属政党 イタリア社会運動(MSI)
→国民同盟(AN)
社会行動(AS)
自由の人民(PdL)
フォルツァ・イタリア(FI)
配偶者 マウロ・フロリアーニ
親族 ベニート・ムッソリーニ(祖父)
ロマーノ・ムッソリーニ(父)
ソフィア・ローレン(叔母)

当選回数 5回
在任期間 第一期 1992年6月28日 - 2004年
第二期 2008年4月29日 - 現在

当選回数 1回
在任期間 2004年7月20日 - 2008年4月28日
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アレッサンドラ・ムッソリーニAlessandra Mussolini1962年12月30日 - )は、イタリア医師女優政治家赤十字社名誉会員。

ジャズピアニストロマーノ・ムッソリーニの長女で、ファシズム思想の創始者ベニート・ムッソリーニの孫娘にあたる。また女優ソフィア・ローレンの姪(母マリアがソフィアの実妹)でもある。

概要

生い立ち

1962年12月30日イタリア共和国ラツィオ州ローマに音楽家ロマーノ・ムッソリーニとアンナ・マリア・シッコローネの長女として生まれる。父ロマーノは名が示す通り、王政期のイタリアで独裁体制を築いた国家ファシスト党(PNF)のベニート・ムッソリーニ首相とその後妻ラケーレ・グイーディの三男(前妻イーダ・ダルセルとの子を含めれば四男)であったが、政治とは距離を取ってピアニストとして生計を立てていた。その為、第二次世界大戦前後の騒乱に巻き込まれず、共和制に移行した戦後イタリアで静かな日々を送っていた。

芸能活動と学業

一方、母アンナもアカデミー賞女優として知られるソフィア・ローレンの実妹であり、むしろ当初はこちらの血縁の方が彼女の人生に強い影響を与えた。1970年代からソフィアの元で養育を受け、アカデミー賞及びゴールデングローブ賞の外国映画部門にノミネートされた『特別な一日』で映画デビューを果たし、主演を務める叔母と共演した。以後、「大女優の姪」として女優の他にモデル歌手など様々な活動を展開した。

歌手業では1982年に日本アルファレコードから日本語歌詞のポップスを多数収録したアルバムを限定リリース、日本のみの展開という事もあって欧米諸国で話題を集めた[1]。モデル業では肉感的な体を武器にしていた叔母ソフィアに倣ってグラマー写真を中心に活動[2]、イタリア版及びドイツ版PLAYBOYではヌード撮影にも挑んでいる[3][4]

精力的な芸能活動の傍ら、学業ではアメリカンスクールを経てローマ・ラ・サピエンツァ大学医学部に入校して医師免許取を取得、1986年に修士課程も修了している。1989年、税関吏マウロ・フロリアーニと結婚、翌年にイスラエル映画『הדרך לעין חרוד』(Ha-Derech L'Ein Harod)を最後に芸能界からは引退した。引退後は医師活動と家庭生活に専念して、外科医として勤務しつつカテリーナ、クラリッサ、ロマーノの一男二女を育てた。その際、子供たちが母方の姓も名乗れるようにするための複雑な法的手続きを行っている。

政界進出

1992年、共和ファシスト党(PFR)の後継政党であるイタリア社会運動(MSI)からムッソリーニの孫娘として下院選挙のカンパニア州ナポリ選挙区に擁立され、新人候補ながら初当選を勝ち取って下院議員となった。1993年11月、今度はナポリ市長選挙に出馬したが、これはイタリア民主党アントニオ・バッソリーノ候補に敗れて落選した。1994年、ナポリ選挙区の下院議員に再選され、再選回数を重ねていく。

1990年代から2000年代にかけて行われたジャンフランコ・フィーニ書記長による穏健化改革が進み、イタリア社会運動国民同盟(AN)に再編され、2001年には悲願であった政権参加が達成される。こうした中で一旦は国民同盟に加わったが、次第にファシズム運動の穏健化を進めるフィーニとの政治的対立が生じる様になった。特に副首相となったフィーニがイスラエル訪問時にファシスト政権時代の行為について『まったくの悪 (the absolute evil) 』と謝罪した事に激怒し[5]、国民同盟から離党した。離党後は個人政党として社会行動(AS)を結党、実質的には無所属議員として活動した。

2004年下院から欧州議会への鞍替え出馬を行うべく他のネオ・ファシスト運動と連携して「社会的選択 (Alternativa Sociale) 」を結成、中部イタリア選挙区で当選して欧州議会議員となった。離党の原因となったイスラエルやユダヤ教徒との友好については賛意を示している他[6]、社会行動自体も同性婚の容認など幾分進歩的な政策を標榜するなど、自身も穏健派のファシストとして行動した[7][8][9][10][11][12][13][14]。一方で2006年に下院選挙に復帰した際、対立候補となったウラジーミル・ルクスリア議員(トランスジェンダーとして初めてイタリア議会に当選)に対して「ホモオカマよりもファシストになる方がよい(Meglio fascista che frocio)」という差別的なキャンペーンも行っている[15]。同年の選挙で当選して欧州議会議員から下院議員に復帰した。

2007年、欧州会派「アイデンティティ、伝統、主権」の不法移民問題についての会合で「ルーマニア人は不法滞在しか職業がない」と罵倒した事で大ルーマニア党の党首と口論になり、大ルーマニア党は会派を離脱した[16]

2009年フォルツァ・イタリア党と国民同盟を母体とする新党「自由の人民」が結党されると、社会行動も提案を受け入れて合流した[17]。自由の人民内では旧国民同盟党系の議員よりもフォルツァ・イタリア党系の議員と行動し、2013年に自由の人民が分裂すると再結党されたフォルツァ・イタリア党に参加した。

略歴

ディスコグラフィー

アルバム

  • 1982年 「アモーレ」(Amore) (アルファレコード ALFA ALR 22002)

シングル

  • 1982年 「ラヴ・イズ・ラヴ」("Love Is Love") (アルファレコード ALFA ALR 755)
  • 1982年 「Tokio Fantasy」(アルファレコード ALFA ALR 756)

出典

  1. ^ “Alessandra Mussolini - Amore (1982)”. Orrore a 33 Giri. (13 April 2007). オリジナルの9 February 2008時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20080209003430/http://www.orrorea33giri.com/2007/04/alessandra-mussolini-amore-1982.html 3 january 2008閲覧。 
  2. ^ Jan Repa (9 January 2004). “Italy's post-fascists to regroup”. BBC News. http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/europe/3382151.stm 3 January 2008閲覧。 
  3. ^ “Playboy Italy - Covers of 1983”. PBCovers. (August 1983). オリジナルの25 December 2007時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20071225234659/http://www.pbcovers.com/pbcovers.php?c=it&y=1983&cover=it_198308 3 January 2008閲覧。 
  4. ^ “Playboy Germany - Covers of 1983”. PBCovers. (November 1983). http://www.pbcovers.com/pbcovers.php?c=de&y=1983&cover=de_198311 3 January 2008閲覧。 
  5. ^ La Mussolini lascia An "Gianfranco ha tradito"”. 8 July 2008閲覧。
  6. ^ Mussolini: World should 'beg forgiveness of Israel'”. 8 July 2008閲覧。
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  17. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「chamberSite」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません

外部リンク