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'''フェイ・ヴィンセント'''(Francis Thomas "Fay" Vincent, Jr. [[1938年]][[5月29日]] - )は、8代目の[[MLBコミッショナー]](1989年9月13日から1992年9月13日まで),弁護士。コロムビア・ピクチャー、コカコーラを経て、1988年に副コミッショナーとして球界入り。コミッショナーの[[A・バートレット・ジアマッティ]]はヴィンセントの友人。1989年ジアマッティが急死すると、ヴィンセントがコミッショナーに昇格した。 |
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|name = フェイ・ヴィンセント<br />Fay Vincent |
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|image = Fay Vincent2.jpg |
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|imagesize = 250px |
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|caption = フェイ・ヴィンセント |
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|birth_date = {{生年月日と年齢|1938|5|29}} |
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|birth_place = {{USA}}<br />[[コネチカット州]][[ウォーターバリー (コネチカット州)|ウォーターバリー]] |
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|death_date = |
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|death_place = |
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|order = [[MLBコミッショナー]] |
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|office = |
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|term_start = 1989年9月13日 |
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|term_end = 1992年9月7日 |
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|predecessor = [[A・バートレット・ジアマッティ]] |
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|successor = [[バド・セリグ]](代行) |
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|nationality = |
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|alma_mater = [[ウィリアムズ大学]]<br />[[イェール・ロー・スクール]] |
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|occupation = [[弁護士]]、[[実業家]]、[[投資家]]、[[著作家]] |
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|signature = |
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{{Portal|野球}} |
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'''フランシス・トーマス・ヴィンセント・ジュニア'''({{Lang-en|'''Francis Thomas "Fay" VincentJr.'''}} , [[1938年]][[5月29日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[弁護士]]、[[実業家]]、[[投資家]]、[[著作家]]。 |
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前任者の[[A・バートレット・ジアマッティ]]の急死に伴い、1989年9月13日に第8代[[MLBコミッショナー]]に選出された。同年[[10月17日]]に[[ロマ・プリータ地震]]が発生し、[[1989年のワールドシリーズ]]第3戦を10日後に延期することを決定した。{{仮リンク|1990年のMLBロックアウト|en|1990 Major League Baseball lockout|label=1990年のロックアウト}}では自ら介入して経営者側の譲歩を引き出し、わずか32日間で終結させた。この他にもオーナーたちの意に反する[[政策]]を立て続けに行ったために彼らからの支持を失い、就任してから3年にも満たない1992年9月7日に「ザ・グレートレイクス・ギャング」が主導する事実上の[[クーデター]]が原因で辞任に追い込まれた。 |
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コミッショナー在任中における重要な出来事として以下の3つあげられる。一つは、[[ニューヨーク・ヤンキース]]のオーナーの[[ジョージ・スタインブレナー]]を当時事実上永久追放したこと、もう一つは、[[ナショナルリーグ]]を拡大して発生した収入を[[アメリカンリーグ]]にも一部分配したことである。そして、1990年の労使交渉において、コミッショナーの権限を行使し、オーナー側が実施したスプリングキャンプのロックアウトを解除したことである。 |
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== 初期の人生・経歴 == |
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== ジョージ・スタインブレナーとスピラ事件 == |
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フェイ・ヴィンセントは[[1938年]][[5月29日]]に[[アメリカ合衆国]]の[[コネチカット州]][[ウォーターバリー (コネチカット州)|ウォーターバリー]]にて出生し<ref name="MLB.com">{{cite web|url=http://mlb.mlb.com/mlb/history/mlb_history_people.jsp?story=com_bio_8|title=Commissioners | MLB.com: History Francis T. Vincent, Jr.|publisher=[[MLB.com]]|language=英語|accessdate=2015年4月16日}}</ref>、[[アイルランド系アメリカ人]]の一家で育った<ref name="NY3">{{cite web|author=Roger Cohn|url=http://www.nytimes.com/1990/06/03/magazine/nothing-but-curve-balls.html?pagewanted=3|title=NOTHING BUT CURVE BALLS|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ|NYTimes.com]]|page=3|language=英語|date=1990年6月3日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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ニューヨーク・ヤンキースのオーナーの[[ジョージ・スタインブレナー]]は、1980年のオフに[[デーブ・ウィンフィールド]]と大型契約を結ぶが、1981年の[[ワールドシリーズ]]で不振だったことを根に持ち、両者は確執を起こすことになる。そして1990年のシーズン途中に[[カリフォルニア・エンゼルス]]にトレードされる。 |
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[[ウィリアム・H・T・ブッシュ]](のちの第41代[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・H・W・ブッシュ]]の弟)は{{仮リンク|ホッチキス・スクール|en|Hotchkiss School}}時代の同期生である<ref name="NY4">{{cite web|author=Roger Cohn|url=http://www.nytimes.com/1990/06/03/magazine/nothing-but-curve-balls.html?pagewanted=4|title=NOTHING BUT CURVE BALLS|publisher=NYTimes.com|page=4|language=英語|date=1990年6月3日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。2人は夏休み期間中に一緒に遊び、[[ブッシュ家]]の邸宅で短時間の滞在を楽しんだこともあった<ref name="Holtzman">{{cite web|author=Jerome Holtzman|url=https://www.nytimes.com/books/first/h/holtzman-commissioners.html|title=The Commissioners Baseball's Midlife Crisis|publisher=NYTimes.com|language=英語|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。その後に進学した[[ウィリアムズ大学]]では[[オフェンシブガード|ガード]]として[[アメリカンフットボール]]チームで活躍していたが、1年生の時にルームメイトのいたずらで寮の部屋の中に閉じ込められてしまい、部屋から脱出するために4階の建物の上によじ登った時に氷で滑って落下して背骨を破砕骨折・足が麻痺する怪我を負ってしまう。手術とその後の{{仮リンク|トラクション (整形外科)|en|Traction (orthopedics)|label=トラクション}}に3か月を費やした<ref name="NY4" />。初期診断ではもう二度と歩けないだろうと言われたが、大学を卒業する頃には杖を必要としなくなるまでに回復した(しかし、1985年頃に[[関節炎]]を発症してからは再び杖が欠かせなくなる)<ref name="NY4" />。ウィリアムズ大学とその後に通った[[イェール・ロー・スクール]]はどちらも優秀な成績で卒業したヴィンセントであったが、事故の後は二度とスポーツをプレーすることはなかった<ref name="FOX">{{Cite web|author=Erik Malinowski|url=http://www.foxsports.com/mlb/just-a-bit-outside/story/profile-fay-vincent-1989-mlb-world-series-earthquake-101414|title=Fay Vincent Gets The Last Word|publisher=[[FOXスポーツ|FoxSports.com]]|language=英語|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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ウィンフィールドはテン・アンド・ファイブ・ルール(メジャーリーグに10年在籍した選手に与えられるトレードの拒否権)を主張し、スタインブレナーと話し合いになったが、これに対してエンゼルス側が「不正な根回しがあった」として抗議したのである。結局、エンゼルス側の主張が認められてスタインブレナーは[[タンパリング]]のかどでコミッショナーから罰せされる。 |
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イェール・ロー・スクールを卒業した後は[[ニューヨーク]]にあるホイットマン・アンド・ランサム[[法律事務所]]のアソシエイト、次いで[[ワシントンD.C.]]にあるキャプリン・アンド・ドライスデール法律事務所のパートナーとして働いた<ref name="MLB.com" />。[[証券取引委員会|アメリカ証券取引委員会]](SEC)法人金融部のアソシエイト・ディレクターを務めたのもこの頃である<ref name="MLB.com" />。 |
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この取調べの中で、スタインブレナーがハワード・スピラというとばく屋と交際し、そしてスピラにウィンフィールドを密かに尾行させて私生活を調べさせようとした行為が発覚した。こうして、ヴィンセントはスタインブレナーを無期限のオーナー資格の停止処分とした。 |
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1978年に[[コロンビア ピクチャーズ|コロンビア・ピクチャーズ]]の社長兼[[最高経営責任者]](CEO)に指名された<ref name="MLB.com" />。1982年3月にコロンビア・ピクチャーズが[[ザ コカ・コーラ カンパニー|コカ・コーラ社]]に買収されたのに伴い、コカ・コーラ社の[[シニア・バイス・プレジデント|シニア・バイスプレジデント]](専務)に任命され、さらに1986年4月にはエグゼクティブ・バイスプレジデント(副社長)に昇進して同社の[[エンターテインメント]]活動全般を担当するようになった<ref name="MLB.com" />。 |
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== 1990年の労使交渉 == |
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1990年の労使交渉に際して、オーナー側はスプリングキャンプの32日のロックアウトを強行した(レギュラーシーズンの開幕は遅れたが、変則的な日程をこなして全試合消化された)。これに対してヴィンセントはコミッショナー権限を行使してロックアウトを解除しようとしたため、オーナー側の憤激を買うことになった。 |
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== コミッショナーとして == |
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10年来の友人である[[メジャーリーグベースボール]](MLB)の[[MLBコミッショナー|コミッショナー]]、[[A・バートレット・ジアマッティ]]からの要請を受けて{{by|1989年}}4月1日に副コミッショナーとして球界入りした<ref name="FOX" />。ところが、ジアマッティはそのわずか5か月後の同年9月1日に急死してしまう<ref>{{cite web|author=Robert D. McFadden|url=http://www.nytimes.com/1989/09/02/obituaries/giamatti-scholar-and-baseball-chief-dies-at-51.html|title=Giamatti, Scholar and Baseball Chief, Dies at 51|publisher=NYTimes.com|language=英語|date=1989年9月2日|accessdate=2015年5月12日}}</ref>。[[9月13日]]に26球団のオーナーは[[全会一致]]でヴィンセントを第8代MLBコミッショナーに選出し<ref>{{cite web|author=Murray Chass|url=http://www.nytimes.com/1989/09/14/sports/vincent-succeeds-giamatti-as-commissioner.html|title=Vincent Succeeds Giamatti as Commissioner|publisher=NYTimes.com|language=英語|date=1989年9月14日|accessdate=2015年5月12日}}</ref>、ジアマッティの本来の残りの任期(1994年まで)を務めさせることにした<ref>[[#ジンバリスト(1993年)|ジンバリスト(1993年)]] p.94</ref>。 |
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1993年からナショナルリーグ2球団を誕生させることになり、MLBはフランチャイズ都市を募集するべく競売にかけた。そうして、2つのグループが競り落とし、この2グループがMLBに支払った加盟料の金額は約9500万ドルと巨額なものとなった。それまで、新球団の誕生の際にはリーグに対して加盟料を支払いリーグ内に留保されていたが、ヴィンセントはこれをアメリカンリーグの一部にも配分したのである。これは、両リーグから反発を招くことになる。ヴィンセントはさらにアメリカンリーグとナショナルリーグに当時属していた球団を一部入れ替える措置もとった。これもまたオーナーにとっての反発材料になってしまった。 |
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=== ピート・ローズの追放 === |
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== 辞任へ == |
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[[ピート・ローズ]]の野球界からの永久追放処分にも関わっていた。調査を主導し、交渉を担当していたのは当時副コミッショナーのヴィンセントであった<ref>{{cite web|author=Roger Cohn|url=http://www.nytimes.com/1990/06/03/magazine/nothing-but-curve-balls.html?pagewanted=2|title=NOTHING BUT CURVE BALLS|publisher=NYTimes.com|page=2|language=英語|date=1990年6月3日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。2002年12月にローズの追放処分の解除が検討された時には「馬鹿げている」と怒りを露わにした<ref>{{cite web|url=http://articles.philly.com/2002-12-18/sports/25358476_1_pete-rose-fay-vincent-famers|title=Hall of Famers making a plea for Rose|publisher=Philly.com|language=英語|date=2002年12月18日|accessdate=2015年5月12日}}</ref>。2015年1月に掲載された「{{仮リンク|トレジャーコースト新聞|en|Treasure Coast Newspapers}}」の[[社説]]の中ではローズは[[クーパーズタウン]]([[アメリカ野球殿堂]])から永久に排除されるべきだと述べている<ref>{{cite web|author=Jerry Crasnick|url=http://espn.go.com/mlb/story/_/id/11384095/mlb-pete-rose-walking-contradiction-25-years-ban|title=Pete Rose: 25 years in exile|publisher=[[ESPN|ESPN.com]]|language=英語|date=2015年1月21日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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1990年の労使交渉と、ナショナルリーグの拡大による加盟料の分配方法は、どれもオーナーを満足させるものではなかった。オーナーの一部から、コミッショナーはよりオーナーの利益にかなう行動を取るべきだという反発の声が上がり、そうした動きに対してヴィンセントはコミッショナー権限の無限拡大を訴えた。そして、一部のオーナーが結託してヴィンセントの追放を画策した。1992年のオーナー会議で18対9の不信任となり、それを受けてヴィンセントは辞任した。 |
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2004年に製作された[[テレビ映画]]『{{仮リンク|堕ちた打撃王 ピート・ローズ|en|Hustle (2004 film)}}』ではアラン・ジョーダンがヴィンセントを演じた<ref>{{cite web|url=https://www.imdb.com/title/tt0405980/fullcredits?ref_=tt_cl_sm#cast|title=Hustle (2004 TV Movie) Full Cast & Crew|publisher=[[インターネット・ムービー・データベース|IMDb.com]]|language=英語|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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以下の4名が暗躍したといわれ、一部メディアはThe Great Lakes Gangと呼んだ。 |
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=== 1989年のワールドシリーズ === |
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*[[バド・セリグ]]([[ミルウォーキー・ブルワーズ]]のオーナー) |
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[[1989年]][[10月17日]]17時4分に[[ロマ・プリータ地震]]が発生した時、ヴィンセントは30分後に[[オークランド・アスレチックス]]対[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]の[[1989年のワールドシリーズ|ワールドシリーズ]]第3戦が行われる予定の場所、[[サンフランシスコ]]市内[[キャンドルスティック・パーク]]の三塁側{{仮リンク|ダグアウト (野球)|en|Dugout (baseball)|label=ダグアウト}}後方のフィールドボックスに着座していた<ref name="FOX" />。大きな揺れが球場内を襲った後、フィールド内に突入した[[サンフランシスコ市警察]]の[[パトロールカー|ポリスカー]]のスピーカーより、市警察の指揮を執るアイザイア・ネルソンが試合を延期するというヴィンセントによる説明を中継して球場内の観客に伝えた<ref name="FOX" />。姿が見えるようにしておくだけで観客が安心するとネルソンから忠告され、ヴィンセントは5時間近くもフィールド内あるいはその近くにとどまり続けた<ref name="FOX" />。 |
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*[[ジェリー・ラインズドルフ|ジェリー・ラインスドーフ]]([[シカゴ・ホワイトソックス]]のオーナー) |
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*[[スタントン・クック]]([[シカゴ・トリビューン]]社長) |
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*[[カール・ポーラド]]([[ミネソタ・ツインズ]]のオーナー) |
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第3戦は5日後に延期されたが、[[インフラストラクチャー|インフラ]]の問題が原因で試合の開催はさらに5日先延ばしにされた<ref>{{Cite web|author=Mike Axisa|url=http://www.cbssports.com/mlb/eye-on-baseball/24756663/years-ago-today-loma-prieta-earthquake-interrupts-world-series|title=25 Years Ago Today: Loma Prieta earthquake interrupts World Series|publisher=Mercurynews.com|language=英語|date=2014年10月17日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。当初は[[サンフランシスコ市長]]{{仮リンク|アート・アグノス|en|Art Agnos}}がシリーズの再開を1か月後まで延期するように主張したため、ヴィンセントは[[リグレー・フィールド|リグレーフィールド]]、[[コミスキー・パーク|コミスキーパーク]]、[[キングドーム]]、[[リライアント・アストロドーム|アストロドーム]]、[[ヤンキー・スタジアム (1923年)|ヤンキースタジアム]]、[[シェイ・スタジアム|シェイスタジアム]]ですぐに試合が行えるようにスタンバイさせておいた<ref>{{cite web|author=Jim Reeves|url=http://www.star-telegram.com/sports/mlb/texas-rangers/article3880441.html|title=1989 World Series: ppd.|publisher=Star-Telegram.com|language=英語|date=2014年10月15日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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ヴィンセントの後任には、バド・セリグがコミッショナー代行に就任した。 |
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[[マービン・ミラー]]は[[メジャーリーグベースボール選手会|MLB選手会]](MLBPA)会長を退任した後に著した『FAへの死闘』の中で、コミッショナーに就任したばかりのヴィンセントを昼食に招いて意見の交換を行い、その際に受けた印象として、[[ボウイ・キューン]]よりも知性的であり、[[ピーター・ユベロス]]よりずっと[[野球]]および球界事情に通じており、A・バートレット・ジアマッティのような気取りもなく、労使の立場の違いを理解していたし、それまでのコミッショナーたちのように救世主的な役割を演ずる気持ちもなかったように見受けられ、前の3人を上回る最高のコミッショナーになると期待したと述べている<ref>[[#ミラー(1993年)|ミラー(1993年)]] p.277</ref>。ところが、ロマ・プリータ地震が発生した直後に[[マスコミュニケーション|マスコミ]]関係者は救世主を探し求め、シリーズの延期あるいは中止、続行しても大丈夫かの判断を下すように、一斉にヴィンセントに結論を求めた。「常識を備え、バランス感覚にも優れた待望のコミッショナー」は[[マスメディア|メディア]]の圧力によって歪められてしまい、「[[サンフランシスコ・ベイエリア|ベイエリア]]で別人になってしまった」と嘆いている<ref>[[#ミラー(1993年)|ミラー(1993年)]] pp.277-278</ref>。 |
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{{MLBコミッショナー}} |
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=== 1990年のロックアウト === |
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{{DEFAULTSORT:ういんせんと ふえい}} |
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{{by|1990年}}[[シーズン (スポーツ)|シーズン]]開始前の労使交渉は行き詰まりを見せ<ref name="MLB.com" />、同年2月15日に経営者側は[[スプリングトレーニング]]のキャンプを閉鎖して[[ロックアウト]]({{仮リンク|1990年のMLBロックアウト|en|1990 Major League Baseball lockout}})を強行した<ref name="エイブラムス145">[[#エイブラムス(2006年)|エイブラムス(2006年)]] p.145</ref>。経営者側が選手会に対して交渉で持ち出した提案は実績が6年以下の選手に出来高に基づく[[年俸]]水準を求めることで[[参稼報酬調停|年俸調停]]と個々の選手が[[スポーツエージェント|代理人]]を使う必要をなくし、[[NBA]]が採用している[[サラリーキャップ]]([[NBAサラリーキャップ]])をモデルに収益を分け合うというものであったが、ヴィンセントが介入したことで1週間後にはこの提案を取り下げた<ref name="エイブラムス145" />。ヴィンセントの仲介の下で労使双方は意見の食い違いに妥協して制度を大幅に変更することもなく<ref name="エイブラムス145" />、3月18日にロックアウトは解除された<ref>{{cite web|author=Ross Newhan|url=http://articles.latimes.com/1990-03-19/sports/sp-486_1_lockout-ends|title=Lockout Ends; Season to Start April 9 : Baseball: Openers are delayed for one week after a four-year agreement is reached. Negotiations began Nov. 28.|publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ|LATimes.com]]|language=英語|date=1990年3月19日|accessdate=2015年5月12日}}</ref>。翌19日に労使間が基本合意に達した新[[労働協約]]では選手の最低年俸を68000ドルから10万ドルに引き上げ<ref name="Lockout">{{cite web|author=Michael Bamberger,Glen Macnow|url=http://articles.philly.com/1990-03-20/sports/25904465_1_lockout-arbitration-owners|title=For Baseball, Fallout From The Lockout|publisher=Philly.com|language=英語|date=1990年3月20日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>、2つの経営者-選手委員会(経済構造を調査するための委員会と労使関係を改善させるための委員会)を設立し<ref name="Lockout" />、オーナーの{{仮リンク|メジャーリーグベースボールにおける共同謀議|en|Major League Baseball collusion|label=共同謀議}}に対して選手の保護を強化することなどが規定された<ref name="エイブラムス145" />。ヴィンセントが選手会側から称賛を獲得したのも束の間、彼は交渉中に開いた[[記者会見]]でシーズン中に[[ストライキ]]([[プロ野球ストライキ]])をしないという選手会の誓約を交換条件としてキャンプを開くように経営者側に提案したため、選手会専務理事の{{仮リンク|ドナルド・フェア|en|Donald Fehr}}から「売名行為」だと非難されることになった<ref name="NY3" />。 |
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1990年シーズンの開幕戦はスプリングトレーニングに十分な時間を費やすために1週間遅れになったが、早期和解は162試合制のレギュラーシーズンをフルに実施することを可能にした<ref name="MLB.com" />。1990年6月に「[[ベースボール・アメリカ]]」誌から将来の労使交渉について尋ねられたヴィンセントは「次の交渉では対立はありませんなどと皆さんやアメリカの大衆に約束するなんて、非現実的で甘いと思います」と悲観的観測を述べている<ref>[[#エイブラムス(2006年)|エイブラムス(2006年)]] p.172</ref>。 |
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=== ジョージ・スタインブレナーの追放 === |
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[[ニューヨーク・ヤンキース]]のオーナー、[[ジョージ・スタインブレナー]]はチーム所属選手[[デーブ・ウィンフィールド|デイヴ・ウィンフィールド]]との確執に起因して、彼の「[[不祥事|スキャンダル]]」探しのために[[賭博師|ギャンブラー]]のハワード・スピラに4万[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]を支払った。この事件に憤慨したヴィンセントは1990年7月30日にスタインブレナーに野球界からの永久追放処分を科した<ref>{{cite web|author=Tom LaMarre|url=http://articles.latimes.com/1990-07-31/news/mn-1197_1_george-steinbrenner|title=Steinbrenner Ordered to Yield Control of Yankees|publisher=LATimes.com|language=英語|date=1990年7月31日|accessdate=2015年5月13日}}</ref>。ヴィンセントが当初2年間の処分を提案したのに対し、スタインブレナーは「サスペンション」(停職)という語が彼の[[アメリカオリンピック委員会|全米オリンピック委員会]]の会員資格を脅かすことになると考え、自ら永続的な処分を求めた<ref>{{cite web|author=Luke O'Brien|url=http://deadspin.com/5883511/fbi-docs-how-george-steinbrenner-helped-kill-off-baseballs-last-real-commissioner|title=FBI Docs: How George Steinbrenner Helped Kill Off Baseball's Last Real Commissioner|publisher=Deadspin.com|language=英語|date=2012年2月28日|accessdate=2015年5月12日}}</ref>。スタインブレナーに対する裁定は他球団のオーナーにとっても納得出来るものであった。ところが、ヴィンセントはスタインブレナーがヤンキースの株を49%保持することを認め、その後にスピラの恐喝事件についても無罪放免にしたために、この裁定との整合性が取れなくなってしまった<ref>[[#ジンバリスト(1993年)|ジンバリスト(1993年)]] pp.94-95</ref>。 |
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{{by|1992年}}7月24日にヴィンセントはスタインブレナーの永久追放を取り消し、彼が次の年の3月1日にオーナー職に復帰出来ることを発表した<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/1992/07/25/sports/transactions-882992.html|title=TRANSACTIONS|publisher=NYTimes.com|language=英語|date=1992年7月25日|accessdate=2015年5月13日}}</ref>。スタインブレナーは予定通りの{{by|1993年}}3月1日にオーナー職に復帰した<ref>{{cite web|url=http://www.baseballlibrary.com/ballplayers/player.php?name=george_steinbrenner&page=chronology|title=George Steinbrenner Chronology|publisher=Baseballlibrary.com|language=英語|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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=== 1993年のエクスパンションに備えて === |
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ヴィンセントの任期中に{{by|1977年}}以来の[[エクスパンション]]({{仮リンク|1993年のMLBエクスパンション|en|1993 Major League Baseball expansion}})を実施することで[[ナショナルリーグ]]に新たに2球団が加わり、MLBは1993年シーズンから28球団に増加することが決まった<ref name="MLB.com" />。{{by|1991年}}6月にはヴィンセントはナショナルリーグのエクスパンションによる1億9000万ドルの収入のうち、[[アメリカンリーグ]]は4200万ドルを受け取ることになり、その見返りとしてアリーグはナリーグ(新規球団の[[コロラド・ロッキーズ]]と[[マイアミ・マーリンズ|フロリダ・マーリンズ]]も含む)が実施する[[エクスパンション・ドラフト|エクスパンションドラフト]]([[1992年のMLBエクスパンションドラフト]])に選手を提供することになるだろうと言明した<ref>{{cite web|url=http://www.baseball-almanac.com/articles/fay_vincent_biography.shtml|title=Commissioner Fay Vincent Biography|publisher=Baseball-Almanac.com|language=英語|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。[[ミネソタ・ツインズ]]のオーナー、{{仮リンク|カール・ポーラッド|en|Carl Pohlad}}が「これがいい裁定だと思っている人にお目にかかったことがない」と述べているように、この中間を取った解決策はナリーグとアリーグ両方のオーナーから不評を招く結果となった<ref>[[#ジンバリスト(1993年)|ジンバリスト(1993年)]] p.95</ref>。 |
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=== 記録に関する特別委員会 === |
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ヴィンセントは154試合制でシーズン[[本塁打]]記録を樹立した[[ベーブ・ルース]]と162試合制でシーズン本塁打記録を樹立した[[ロジャー・マリス]]の両者の記録が併記されている問題を検討する特別委員会の開催を明らかにしたさい、「記録は統一されるべきであり、マリスは誰よりも多くの本塁打を記録した」との見解を示している<ref>[[#千葉(2001年)|千葉(2001年)]] pp.332,335</ref>。ヴィンセントを委員長として8人の委員で構成されるこの「記録に関する特別委員会」は1991年9月4日に、{{by|1961年}}の[[フォード・フリック]](第3代MLBコミッショナー)の決定を覆してマリスが唯一のシーズン本塁打記録保持者であるとの判断を全会一致で下した<ref name="Maris">{{cite web|url=http://articles.latimes.com/1991-09-05/sports/sp-2370_1_home-run|title=BASEBALL / DAILY REPORT : AROUND THE MAJOR LEAGUES : Maris Has Home Run Record to Himself; 50 No-Hitters Are Dropped From List|publisher=LATimes.com|language=英語|date=1991年9月5日|accessdate=2015年5月12日}}</ref><ref>{{cite web|author=Murray Chass|url=http://www.nytimes.com/1991/09/05/sports/baseball-maris-s-feat-finally-recognized-30-years-after-hitting-61-homers.html|title=BASEBALL; Maris's Feat Finally Recognized 30 Years After Hitting 61 Homers|publisher=NYTimes.com|language=英語|date=1991年9月5日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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委員会は同じ日に、従来の[[ノーヒットノーラン]]の[[定義]]を変更した。「少なくとも9[[投球回|回]]を投げ、なおかつ無[[安打]]に抑えたまま試合を終える」とした<ref name="Maris" />。このため、1990年8月1日にヤンキースの{{仮リンク|アンディ・ホーキンス|en|Andy Hawkins}}が[[シカゴ・ホワイトソックス]]を相手に8回を無安打に抑えながら4失点で[[敗戦投手]]となった試合を含め<ref>{{cite web|url=http://www.baseball-almanac.com/players/player.php?p=hawkian01|title=Andy Hawkins Stats|publisher=Baseball-Almanac.com|language=英語|accessdate=2015年4月16日}}</ref>、それまで認められていた275試合のうち50試合(内訳:8回を無安打に抑えた38試合と9回を無安打に抑えたものの、[[延長戦]]に突入した後に安打を打たれた12試合)が[[ノーヒットノーラン達成者一覧|ノーヒットノーラン達成試合]]から除外されることになった<ref name="Maris" />。 |
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=== シアトル・マリナーズ球団の売却問題 === |
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ヴィンセントは1990年に「長年にわたり相当額の赤字を出している。球場設備が標準以下で、改善される見込みもない。市側がプロ野球に無関心で、支援する意味もないことを何らかの形で表明している。そして、その[[共同体|コミュニティ]]にとどまり、[[プロ野球地域保護権|フランチャイズ]]を再建しようとすることがまったく無駄だと判断出来る」というフランチャイズの移転を承認するための条件を示している<ref>[[#ジンバリスト(1993年)|ジンバリスト(1993年)]] p.220</ref>。 |
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1991年9月に[[シアトル・マリナーズ]]のオーナー、{{仮リンク|ジェフ・スマリアン|en|Jeff Smulyan}}は球団経営が非常に苦しいと信じ込ませることで[[シアトル]]市と地元経済界からさらなる資金援助を引き出そうと目論んだ<ref>[[#ジンバリスト(1993年)|ジンバリスト(1993年)]] pp.221-222</ref>。翌1992年1月23日に[[任天堂]]のアメリカ支社と他の地元企業4社で構成する企業グループが1億ドルでマリナーズ球団を買収する計画を発表し、さらに[[運転資本]]として2500万ドルを提示した<ref>[[#ジンバリスト(1993年)|ジンバリスト(1993年)]] p.225</ref>。この計画に対し、ヴィンセントは[[北アメリカ]](アメリカ合衆国と[[カナダ]])以外の[[出資]]を認めないという従来の方針を再確認している<ref>{{cite web|author=Ross Newhan|url=http://articles.latimes.com/1992-01-25/sports/sp-562_1_baseball-policy|title=Closing Door on Japan Isn't a Smart Play|publisher=LATimes.com|language=英語|date=1992年1月25日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。オーナー会議で全会一致で任天堂のマリナーズ球団買収が承認されたのは買収契約が成立した1992年4月3日より、2か月以上も後の6月9日のことである。オーナーとなる[[山内溥]]は持ち株を半分以下に抑え、ヴィンセントは懸念が解消されたと述べた<ref>{{cite web|author=Tom Farrey, Joni Balter|url=http://community.seattletimes.nwsource.com/archive/?date=19920609&slug=1496316|title=M's Sale Gets Go-Ahead -- Full Acceptance Of Offer Predicted For Tomorrow|publisher=[[シアトル・タイムズ|Seattletimes.com]]|language=英語|date=1992年6月9日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。この承認の背景には、シアトル市による訴訟の可能性と[[アメリカ合衆国下院議長|下院議長]][[トーマス・フォーリー|トム・フォーリー]]がMLB機構の[[反トラスト法]]([[クレイトン法]])適用除外という特権を解除する法案を提出するという新たな脅威が出てきたこともあった<ref>[[#ジンバリスト(1993年)|ジンバリスト(1993年)]] p.226</ref>。 |
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=== スティーヴ・ハウの追放 === |
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ヴィンセントは改訂版「プロ野球薬物政策および防止計画」に関する1991年の政策について、選手は違法薬物の検査を受けなければならないわけではないが、違法薬物の使用をこれまでに認めている選手や使用が発見されている選手は選手生活の長さを考慮して、強制的な検査を受けなければならないと述べている<ref name="エイブラムス163">[[#エイブラムス(2006年)|エイブラムス(2006年)]] p.163</ref>。 |
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薬物・アルコール関連の7度目の騒動を起こしたヤンキースの[[投手]][[スティーヴ・ハウ (野球)|スティーヴ・ハウ]]に対し、その翌年の1992年6月8日に野球界からの永久追放処分を科した<ref>{{cite web|url=http://articles.chicagotribune.com/1992-11-13/sports/9204130071_1_george-nicolau-steve-howe-fay-vincent|title=Howe`s `Lifetime Ban` Lifted|publisher=[[シカゴ・トリビューン|Chicagotribune.com]]|language=英語|date=1992年11月13日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。ヤンキースの上級幹部の3人([[バック・ショーウォルター]]、[[ジーン・マイケル]]、ジャック・ローン)がハウに代わって証言することに同意した時、ヴィンセントは彼らも追放すると警告した<ref name="JamieD">{{cite web|author=JamieD|url=http://www.totalprosports.com/2013/06/24/this-day-in-sports-history-june-24th-steve-howe/|title=This Day In Sports History (June 24th) — Steve Howe|publisher=TotalProSports.com|language=英語|date=2013年6月24日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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処分からわずか数か月後にヴィンセントはコミッショナーを解任されることになった<ref name="JamieD" />。仲裁人のジョージ・ニコラウは約束していた補導と薬物検査の支援をコミッショナー事務局が与えていなかったのだからこの処分は厳し過ぎるとして<ref name="エイブラムス163" />、1992年11月12日にヴィンセントの決定を覆す判断を下した<ref>{{cite web|author=Jack Curry|url=http://www.nytimes.com/1992/11/13/sports/baseball-arbitrator-puts-howe-back-in-major-leagues.html|title=BASEBALL; Arbitrator Puts Howe Back in Major Leagues|publisher=NYTimes.com|language=英語|date=1992年11月13日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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=== 1992年の地区再編問題 === |
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ヴィンセントは1992年7月6日に「球界の利益のため」という名目で強権を発動してオーナー会議の決定を覆し<ref name="福島23">[[#福島(1997年)|福島(1997年)]] p.23</ref>、エクスパンションに対処するために[[シカゴ・カブス]]と[[セントルイス・カージナルス]]を[[ナショナルリーグ西地区|西地区]]に、[[アトランタ・ブレーブス]]と[[シンシナティ・レッズ]]を[[ナショナルリーグ東地区|東地区]]に編入させて翌シーズンを開始出来るように再編成をするよう、ナリーグ機構に命じた<ref name="Change Divisions">{{cite web|author=Murray Chass|url=http://www.nytimes.com/1992/07/07/sports/4-teams-to-change-divisions-as-baseball-s-map-is-redrawn.html|title=4 Teams to Change Divisions As Baseball's Map Is Redrawn|publisher=NYTimes.com|page=1|language=英語|date=1992年7月7日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。ナリーグ会長{{仮リンク|ビル・ホワイト (内野手)|en|Bill White (first baseman)|label=ビル・ホワイト}}はリーグの承認なしに再編を行うのはナリーグの規約に違反しているとヴィンセントを批判した<ref name="Change Divisions" />。 |
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これは地元テレビ局と巨額契約を結ぼうとしているシカゴ・カブス球団にとっては死活問題であった。[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]の試合は[[中部標準時|シカゴ時間]]の21時に開始されるために地元テレビ局は十分な[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]収入が得られなくなるからである<ref>[[#北矢(1994年)|北矢(1994年)]] p.122</ref>。カブス球団は[[トリビューン・カンパニー|トリビューン社]](カブス球団と地元テレビ局の両方を所有する企業)の収入が減少してしまうのを懸念して反対し<ref>{{cite web|author=Frank Dolson|url=http://articles.philly.com/1992-07-08/sports/26029158_1_fundamental-business-question-cubs-major-league-agreement|title=Cubs Sue Commissioner Over Realignment Order The Team Challenges Fay Vincent's Authority.It Says He Can't Override The National League's Constitution.|publisher=Philly.com|language=英語|date=1992年7月8日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>、命令の無効を主張して{{仮リンク|アメリカ地方裁判所|en|United States district court|label=地方裁判所}}に[[訴訟]]を提起した<ref>{{cite web|author=Ross Newhan|url=http://articles.latimes.com/1992-07-08/sports/sp-1452_1_chicago-cubs|title=Vincent Sued by Cubs to Halt Realignment : Baseball: The commissioner exceeded his authority in ordering Chicago and St. Louis to the NL West, suit contends.|publisher=LATimes.com|language=英語|date=1992年7月8日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。7月23日に仮{{仮リンク|差し止め命令|en|Injunction}}が付与されたため、ヴィンセントは即座に[[抗告]]する意思を表明した<ref>{{cite web|author=Ross Newhan|url=http://articles.latimes.com/1992-07-24/sports/sp-4104_1_chicago-cubs|title=Court Rules for the Cubs : Jurisprudence: U.S. district judge says Vincent overstepped his authority in moving team to West. Appeal filed.|publisher=LATimes.com|language=英語|date=1992年7月24日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。[[口頭弁論]]は8月30日に予定されたが、訴訟を再開する前にヴィンセントがコミッショナーを辞任したため、カブス球団は訴訟を取り下げた<ref name="Holtzman" />。 |
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=== その他 === |
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1990年8月10日の[[フィラデルフィア・フィリーズ]]対[[ニューヨーク・メッツ]]戦の試合中に発生した[[乱闘]]をおさめようとして、[[審判員 (野球)|審判員]][[ジョー・ウェスト (審判員)|ジョー・ウェスト]]はフィリーズの投手[[デニス・クック]]の体を地面へ投げ倒した<ref>{{cite web|author=Paul Hagen|url=http://articles.philly.com/1990-08-15/sports/25930355_1_phillies-and-mets-phillies-catcher-darren-daulton-dennis-cook|title=9 Penalized, But Brawl Not Over Yet|publisher=Philly.com|language=英語|date=1990年8月15日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。ナリーグ会長ビル・ホワイトはウエストの[[出場停止]]処分を検討したが、ヴィンセントが介入して不問に付した<ref>{{cite web|author=Murray Chass|url=http://www.nytimes.com/1990/09/05/sports/baseball-white-umpire-dispute-is-defused-by-vincent.html|title=White-Umpire Dispute Is Defused by Vincent|publisher=NYTimes.com|language=英語|date=1990年9月5日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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アリーグの[[指名打者]]制度に反対する考えの持ち主であり、その廃止を検討していた<ref>{{cite web|author=Roger Cohn|url=http://www.nytimes.com/1990/06/03/magazine/nothing-but-curve-balls.html?pagewanted=5|title=NOTHING BUT CURVE BALLS|publisher=NYTimes.com|page=5|language=英語|date=1990年6月3日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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=== 辞任へ === |
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MLB球団のオーナーとコミッショナー間の関係は希薄であった。オーナーの多くはヴィンセントがしばしば強権的に振る舞うのを嫌い、1990年のロックアウトの際には彼があまりにも多くの問題で選手会側に味方したと見ていた<ref>{{cite web|author=Mike Tanier|url=http://bleacherreport.com/articles/2205074-goodell-is-the-commissioner-nfl-owners-want-and-he-isnt-going-away|title=Goodell Is the Commissioner NFL Owners Want, and He Isn't Going Away|publisher=Bleacherreport.com|language=英語|date=2014年9月20日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。ヴィンセントはコミッショナーというものはオーナーの味方をするためにあるのでなく、オーナー、[[プロ野球選手|選手]]、[[審判員 (野球)|審判員]]、ファンを代表して公正な立場を貫くべき存在だと考えていた<ref>[[#北矢(1994年)|北矢(1994年)]] p.121</ref>。それに対し、球団経営者としては「我々がコミッショナーを雇っているのだから」という思いが強く、彼らはオーナー側に立つコミッショナーを求めていた<ref name="福島23" />。 |
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1992年9月3日に開催されたオーナー会議では賛成18・反対9([[棄権]]1)でコミッショナーの不信任が決議された<ref>{{cite web|author=Glen Macnow|url=http://articles.philly.com/1992-09-04/news/26024040_1_eighth-commissioner-major-league-agreement-fay-vincent|title=Baseball Owners Demand That Fay Vincent Quit The Commissioner Says He Won't Go.A Battle Could Delay Realignment, Tv Negotiations And Labor Talks.|publisher=Philly.com|language=英語|date=1992年9月4日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。9月7日にヴィンセントはコミッショナー職を辞任する意思を表明、「長引く戦いを避けるため」とその理由を説明した<ref>{{cite web|author=Scott Howard Cooper|url=http://articles.latimes.com/1992-09-08/news/mn-216_1_fay-vincent|title=Fay Vincent Gives Up Post as Baseball Commissioner : Sports: He rejects litigation, saying he yielded to pressure from owners to avoid 'a protracted fight.'|publisher=LATimes.com|language=英語|date=1992年9月8日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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ヴィンセントを失脚させるために暗躍した以下の5人の実力者をマスコミは「ザ・グレートレイクス([[五大湖]])・ギャング」と名付けた<ref name="Holtzman" />。 |
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* [[バド・セリグ]]([[ミルウォーキー・ブルワーズ]]のオーナー) |
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* [[ジェリー・ラインズドルフ]]([[シカゴ・ホワイトソックス]]のオーナー) |
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* [[ピーター・オマリー]]([[ロサンゼルス・ドジャース]]のオーナー) |
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* カール・ポーラッド(ミネソタ・ツインズのオーナー) |
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* スタントン・クック(シカゴ・カブスを所有するトリビューン社の社長) |
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一方でヴィンセント支持派の筆頭は30年来の知り合いの[[テキサス・レンジャーズ]]のオーナー、[[ジョージ・W・ブッシュ]](のちのアメリカ合衆国第43代大統領)であった。3日前にヴィンセントと話をした時に受けた印象として彼は辞任しないだろうと考えていたので、突然の辞任表明には驚きを隠し切れなかった<ref>{{cite web|author=Ross Newhan|url=http://articles.latimes.com/1992-09-08/sports/sp-261_1_decision-surprises|title=Decision Surprises the Rangers' Bush : Reaction: As the most vocal supporter of the commissioner, he had expected his longtime friend to fight.|publisher=LATimes.com|language=英語|date=1992年9月8日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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ヴィンセントは辞任に際し、次のように述べている<ref name="Holtzman" />。 |
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{{cquote|''オーナーの機嫌を損ねずに仕事をするなんて不可能です。28人のボス全員を幸せにすることなんて出来ません。人々は私が最後のコミッショナーだと言ってきた。もしそうなら、それは悲しいことだ。手遅れにならないうちに、彼ら(オーナー連中)が失敗から学ぶことを願っています。'' |
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}} |
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1992年9月10日にコミッショナー代行に指名されたバド・セリグは臨時の役割を果たすのは選手会との新しい取り決めがまとまるまでの間に限るという誓約を交わした<ref>[[#エイブラムス(2006年)|エイブラムス(2006年)]] p.173</ref>。 |
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== コミッショナー退任後の人生 == |
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{{External media |
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|width=250px |
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|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=X1phKLQZ1ks 「WPBF 25 News」のインタビューに答えるヴィンセント] |
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}} |
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ヴィンセントはコミッショナーを辞任した後に[[個人投資家]]となった<ref>{{cite web|author=Jerome Holtzman|url=http://articles.chicagotribune.com/1993-09-05/sports/9309050279_1_fay-vincent-all-powerful-cigars|title=Vincent At Ease In Retirement|publisher=Chicagotribune.com|language=英語|date=1993年9月5日|accessdate=2015年5月12日}}</ref>。 |
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[[1994年から1995年のMLBストライキ|1994-95年のストライキ]]突入直後に「セリグとラインズドルフが共同謀議を働いて([[フリーエージェント_(プロスポーツ)#メジャーリーグベースボール|フリーエージェント]](FA)の権利を行使した)選手たちから2億8000万ドルの窃盗を行っているので、組合は基本的に経営者を信用していないのです」との見解を述べている<ref>{{cite web|author=James Edward Sved|url=https://www.linkedin.com/pulse/20140405212528-28232017-the-2-3-medical-excise-tax|title=Bud Selig culpable (again) in latest steroid scandal.|publisher=[[LinkedIn|LinkedIn.com]]|language=英語|date=2014年4月5日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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1997年後半から2003年まで{{仮リンク|ニューイングランド大学対抗野球リーグ|en|New England Collegiate Baseball League}}(NECBL)の会長を務め、再び脚光を浴びることになった<ref>{{cite web|url=http://www.necbl.com/view/necbl/league-49|title=New England Collegiate Baseball League|publisher=NECBL.com|language=英語|date=|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。 |
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2002年に''『The Last Commissioner: A Baseball Valentine』''と題する[[自伝]]を執筆した<ref>{{cite web|url=http://www.amazon.com/Last-Commissioner-Baseball-Valentine/dp/0743244524/ref=asap_bc?ie=UTF8|title=The Last Commissioner: A Baseball Valentine|publisher=[[Amazon.com]]|language=英語|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。他にも[[野球の歴史]]を[[話題|テーマ]]とした彼の3冊の著書が出版されている<ref>{{cite web|url=http://worldcat.org/identities/lccn-n2002-107615/|title=Vincent, Fay|publisher=[[WorldCat|WorldCat.org]]|language=英語|accessdate=2015年5月12日}}</ref>。 |
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2005年7月にはコミッショナー在任中に自身が[[メジャーリーグベースボールのドーピング問題|ドーピング問題]]を過小評価していたことを認め、選手会が同問題に対して依然として及び腰であると指摘した<ref>{{cite web|author=Sam Carchidi|url=http://articles.philly.com/2005-07-14/sports/25433066_1_fay-vincent-steroid-problem-baseball-problem|title=Vincent: Baseball reflection of society The ex-commissioner was in Camden to address business and community leaders.|publisher=Philly.com|language=英語|date=2005年7月14日|accessdate=2015年4月16日}}</ref>。[[ジョージ・J・ミッチェル]]は{{by|2007年}}に公表した「[[ミッチェル報告書]]」の中で、ヴィンセントがドーピング問題は{{by|1919年}}の[[ブラックソックス事件]]以来、野球界が直面している最も深刻な課題であることを話していたと述べている<ref>{{cite web|url=https://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/12/13/AR2007121301076.html|title=All-Star Roster Shows Up on Mitchell Report|publisher=[[ワシントン・ポスト|WashingtonPost.com]]|language=英語|date=2007年12月13日|accessdate=2015年5月1日}}</ref>。 |
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2006年に[[ニグロリーグ]]やそれ以前の[[アフリカ系アメリカ人]]の野球リーグで活躍した選手と発展に貢献した人物の合わせて17名をアメリカ野球殿堂入り表彰者として選出した[[ニグロリーグ特別委員会]]の投票委員会および審査委員会の議長を務めた<ref>{{cite web|url=http://www.nlbpa.com/news/july-30-2006|title=Seventeen from Negro Leagues, Pre-Negro leagues Eras inducted to the Hall of Fame|publisher=NLBPA.com|language=英語|date=2006年7月30日|accessdate=2015年4月23日}}</ref>。 |
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また、ウィリアムズ大学、[[ケニオン大学]]、[[カールトン・カレッジ|カールトン大学]]、[[カニシャス大学]]、{{仮リンク|セントラルコネチカット州立大学|en|Central Connecticut State University}}、{{仮リンク|フェアフィールド大学|en|Fairfield University}}などの大学から[[名誉博士]]号を授与されている<ref>{{cite web|author=Robert L. Dilenschneider|url=http://www.dilenschneider.com/consultants.php|title=Principals and Counselors|publisher=Dilenschneider.com|language=英語|accessdate=2015年4月23日}}</ref>。 |
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== 著書 == |
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* ''The Last Commissioner: A Baseball Valentine'' (2002年) (ISBN 978-0743244527) |
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* ''The Only Game in Town: Baseball Stars of the 1930s and 1940s Talk About the Game They Loved: Volume 1'' (2006年) (ISBN 978-0743273176) |
|||
* ''We Would Have Played for Nothing: Baseball Stars of the 1950s and 1960s Talk About the Game They Loved'' (2008年) (ISBN 978-1416553427) |
|||
* ''It's What's Inside the Lines That Counts: Baseball Stars of the 1970s and 1980s Talk About the Game They Loved'' (2010年) (ISBN 978-1439159217) |
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== 脚注 == |
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{{Reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=Andrew Zimbalist|others=[[広岡達朗]] (監修), [[竹内靖雄]] (監修)|year=1993|title=球界裏・二死満塁―野球ビジネスと金|publisher=[[同文書院]]インターナショナル|isbn=978-4810380170|ref=ジンバリスト(1993年)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=Marvin Miller|authorlink=マービン・ミラー|others=武田薫|year=1993|title=FAへの死闘 大リーガーたちの権利獲得闘争記|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|isbn=978-4583030944|ref=ミラー(1993年)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=Roger I. Abrams|others=[[大坪正則]]|others2=中尾ゆかり|year=2006|title=実録 メジャーリーグの法律とビジネス|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469266092|ref=エイブラムス(2006年)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=千葉功|title=プロ野球 記録の手帖|year=2001|publisher=ベースボールマガジン社|isbn=978-4583036373|ref=千葉(2001年)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=福島良一|authorlink=福島良一|year=1997|title=大リーグ雑学ノート|publisher=[[ダイヤモンド社]]|isbn=978-4478960509|ref=福島(1997年)}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=北矢行男|year=1994|title=ベースボール経営革命|publisher=[[実業之日本社]]|isbn=978-4408101422|ref=北矢(1994年)}} |
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== 外部リンク == |
|||
* [http://www.c-span.org/video/?25719-1/professional-baseball-issues# 1992年4月22日、61分。プロ野球を取り巻く諸問題について] (英語) - [[C-SPAN]] |
|||
* [http://www.c-span.org/video/?35885-1/baseball-antitrust-law 1992年12月10日、340分。野球と独占禁止法] (英語) - C-SPAN |
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{{MLBコミッショナー}} |
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{{Good article}} |
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{{DEFAULTSORT:ういんせんと ふえい}} |
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[[Category:アメリカ合衆国の弁護士]] |
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[[Category:アメリカ合衆国の実業家]] |
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[[Category:アメリカ合衆国の投資家]] |
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[[Category:アメリカ合衆国のノンフィクション作家]] |
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[[Category:MLBコミッショナー]] |
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[[Category:ウィリアムズ大学出身の人物]] |
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[[Category:イェール大学出身の人物]] |
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[[Category:アイルランド系アメリカ人]] |
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[[Category:コネチカット州ウォーターバリー出身の人物]] |
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[[Category:1938年生]] |
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[[Category:存命人物]] |
[[Category:存命人物]] |
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2024年12月17日 (火) 22:45時点における最新版
フェイ・ヴィンセント Fay Vincent | |
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フェイ・ヴィンセント | |
MLBコミッショナー | |
任期 1989年9月13日 – 1992年9月7日 | |
前任者 | A・バートレット・ジアマッティ |
後任者 | バド・セリグ(代行) |
個人情報 | |
生誕 | 1938年5月29日(86歳) アメリカ合衆国 コネチカット州ウォーターバリー |
出身校 | ウィリアムズ大学 イェール・ロー・スクール |
職業 | 弁護士、実業家、投資家、著作家 |
フランシス・トーマス・ヴィンセント・ジュニア(英語: Francis Thomas "Fay" VincentJr. , 1938年5月29日 - )は、アメリカ合衆国の弁護士、実業家、投資家、著作家。
前任者のA・バートレット・ジアマッティの急死に伴い、1989年9月13日に第8代MLBコミッショナーに選出された。同年10月17日にロマ・プリータ地震が発生し、1989年のワールドシリーズ第3戦を10日後に延期することを決定した。1990年のロックアウトでは自ら介入して経営者側の譲歩を引き出し、わずか32日間で終結させた。この他にもオーナーたちの意に反する政策を立て続けに行ったために彼らからの支持を失い、就任してから3年にも満たない1992年9月7日に「ザ・グレートレイクス・ギャング」が主導する事実上のクーデターが原因で辞任に追い込まれた。
初期の人生・経歴
[編集]フェイ・ヴィンセントは1938年5月29日にアメリカ合衆国のコネチカット州ウォーターバリーにて出生し[1]、アイルランド系アメリカ人の一家で育った[2]。
ウィリアム・H・T・ブッシュ(のちの第41代アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュの弟)はホッチキス・スクール時代の同期生である[3]。2人は夏休み期間中に一緒に遊び、ブッシュ家の邸宅で短時間の滞在を楽しんだこともあった[4]。その後に進学したウィリアムズ大学ではガードとしてアメリカンフットボールチームで活躍していたが、1年生の時にルームメイトのいたずらで寮の部屋の中に閉じ込められてしまい、部屋から脱出するために4階の建物の上によじ登った時に氷で滑って落下して背骨を破砕骨折・足が麻痺する怪我を負ってしまう。手術とその後のトラクションに3か月を費やした[3]。初期診断ではもう二度と歩けないだろうと言われたが、大学を卒業する頃には杖を必要としなくなるまでに回復した(しかし、1985年頃に関節炎を発症してからは再び杖が欠かせなくなる)[3]。ウィリアムズ大学とその後に通ったイェール・ロー・スクールはどちらも優秀な成績で卒業したヴィンセントであったが、事故の後は二度とスポーツをプレーすることはなかった[5]。
イェール・ロー・スクールを卒業した後はニューヨークにあるホイットマン・アンド・ランサム法律事務所のアソシエイト、次いでワシントンD.C.にあるキャプリン・アンド・ドライスデール法律事務所のパートナーとして働いた[1]。アメリカ証券取引委員会(SEC)法人金融部のアソシエイト・ディレクターを務めたのもこの頃である[1]。
1978年にコロンビア・ピクチャーズの社長兼最高経営責任者(CEO)に指名された[1]。1982年3月にコロンビア・ピクチャーズがコカ・コーラ社に買収されたのに伴い、コカ・コーラ社のシニア・バイスプレジデント(専務)に任命され、さらに1986年4月にはエグゼクティブ・バイスプレジデント(副社長)に昇進して同社のエンターテインメント活動全般を担当するようになった[1]。
コミッショナーとして
[編集]10年来の友人であるメジャーリーグベースボール(MLB)のコミッショナー、A・バートレット・ジアマッティからの要請を受けて1989年4月1日に副コミッショナーとして球界入りした[5]。ところが、ジアマッティはそのわずか5か月後の同年9月1日に急死してしまう[6]。9月13日に26球団のオーナーは全会一致でヴィンセントを第8代MLBコミッショナーに選出し[7]、ジアマッティの本来の残りの任期(1994年まで)を務めさせることにした[8]。
ピート・ローズの追放
[編集]ピート・ローズの野球界からの永久追放処分にも関わっていた。調査を主導し、交渉を担当していたのは当時副コミッショナーのヴィンセントであった[9]。2002年12月にローズの追放処分の解除が検討された時には「馬鹿げている」と怒りを露わにした[10]。2015年1月に掲載された「トレジャーコースト新聞」の社説の中ではローズはクーパーズタウン(アメリカ野球殿堂)から永久に排除されるべきだと述べている[11]。
2004年に製作されたテレビ映画『堕ちた打撃王 ピート・ローズ』ではアラン・ジョーダンがヴィンセントを演じた[12]。
1989年のワールドシリーズ
[編集]1989年10月17日17時4分にロマ・プリータ地震が発生した時、ヴィンセントは30分後にオークランド・アスレチックス対サンフランシスコ・ジャイアンツのワールドシリーズ第3戦が行われる予定の場所、サンフランシスコ市内キャンドルスティック・パークの三塁側ダグアウト後方のフィールドボックスに着座していた[5]。大きな揺れが球場内を襲った後、フィールド内に突入したサンフランシスコ市警察のポリスカーのスピーカーより、市警察の指揮を執るアイザイア・ネルソンが試合を延期するというヴィンセントによる説明を中継して球場内の観客に伝えた[5]。姿が見えるようにしておくだけで観客が安心するとネルソンから忠告され、ヴィンセントは5時間近くもフィールド内あるいはその近くにとどまり続けた[5]。
第3戦は5日後に延期されたが、インフラの問題が原因で試合の開催はさらに5日先延ばしにされた[13]。当初はサンフランシスコ市長アート・アグノスがシリーズの再開を1か月後まで延期するように主張したため、ヴィンセントはリグレーフィールド、コミスキーパーク、キングドーム、アストロドーム、ヤンキースタジアム、シェイスタジアムですぐに試合が行えるようにスタンバイさせておいた[14]。
マービン・ミラーはMLB選手会(MLBPA)会長を退任した後に著した『FAへの死闘』の中で、コミッショナーに就任したばかりのヴィンセントを昼食に招いて意見の交換を行い、その際に受けた印象として、ボウイ・キューンよりも知性的であり、ピーター・ユベロスよりずっと野球および球界事情に通じており、A・バートレット・ジアマッティのような気取りもなく、労使の立場の違いを理解していたし、それまでのコミッショナーたちのように救世主的な役割を演ずる気持ちもなかったように見受けられ、前の3人を上回る最高のコミッショナーになると期待したと述べている[15]。ところが、ロマ・プリータ地震が発生した直後にマスコミ関係者は救世主を探し求め、シリーズの延期あるいは中止、続行しても大丈夫かの判断を下すように、一斉にヴィンセントに結論を求めた。「常識を備え、バランス感覚にも優れた待望のコミッショナー」はメディアの圧力によって歪められてしまい、「ベイエリアで別人になってしまった」と嘆いている[16]。
1990年のロックアウト
[編集]1990年シーズン開始前の労使交渉は行き詰まりを見せ[1]、同年2月15日に経営者側はスプリングトレーニングのキャンプを閉鎖してロックアウト(1990年のMLBロックアウト)を強行した[17]。経営者側が選手会に対して交渉で持ち出した提案は実績が6年以下の選手に出来高に基づく年俸水準を求めることで年俸調停と個々の選手が代理人を使う必要をなくし、NBAが採用しているサラリーキャップ(NBAサラリーキャップ)をモデルに収益を分け合うというものであったが、ヴィンセントが介入したことで1週間後にはこの提案を取り下げた[17]。ヴィンセントの仲介の下で労使双方は意見の食い違いに妥協して制度を大幅に変更することもなく[17]、3月18日にロックアウトは解除された[18]。翌19日に労使間が基本合意に達した新労働協約では選手の最低年俸を68000ドルから10万ドルに引き上げ[19]、2つの経営者-選手委員会(経済構造を調査するための委員会と労使関係を改善させるための委員会)を設立し[19]、オーナーの共同謀議に対して選手の保護を強化することなどが規定された[17]。ヴィンセントが選手会側から称賛を獲得したのも束の間、彼は交渉中に開いた記者会見でシーズン中にストライキ(プロ野球ストライキ)をしないという選手会の誓約を交換条件としてキャンプを開くように経営者側に提案したため、選手会専務理事のドナルド・フェアから「売名行為」だと非難されることになった[2]。
1990年シーズンの開幕戦はスプリングトレーニングに十分な時間を費やすために1週間遅れになったが、早期和解は162試合制のレギュラーシーズンをフルに実施することを可能にした[1]。1990年6月に「ベースボール・アメリカ」誌から将来の労使交渉について尋ねられたヴィンセントは「次の交渉では対立はありませんなどと皆さんやアメリカの大衆に約束するなんて、非現実的で甘いと思います」と悲観的観測を述べている[20]。
ジョージ・スタインブレナーの追放
[編集]ニューヨーク・ヤンキースのオーナー、ジョージ・スタインブレナーはチーム所属選手デイヴ・ウィンフィールドとの確執に起因して、彼の「スキャンダル」探しのためにギャンブラーのハワード・スピラに4万ドルを支払った。この事件に憤慨したヴィンセントは1990年7月30日にスタインブレナーに野球界からの永久追放処分を科した[21]。ヴィンセントが当初2年間の処分を提案したのに対し、スタインブレナーは「サスペンション」(停職)という語が彼の全米オリンピック委員会の会員資格を脅かすことになると考え、自ら永続的な処分を求めた[22]。スタインブレナーに対する裁定は他球団のオーナーにとっても納得出来るものであった。ところが、ヴィンセントはスタインブレナーがヤンキースの株を49%保持することを認め、その後にスピラの恐喝事件についても無罪放免にしたために、この裁定との整合性が取れなくなってしまった[23]。
1992年7月24日にヴィンセントはスタインブレナーの永久追放を取り消し、彼が次の年の3月1日にオーナー職に復帰出来ることを発表した[24]。スタインブレナーは予定通りの1993年3月1日にオーナー職に復帰した[25]。
1993年のエクスパンションに備えて
[編集]ヴィンセントの任期中に1977年以来のエクスパンション(1993年のMLBエクスパンション)を実施することでナショナルリーグに新たに2球団が加わり、MLBは1993年シーズンから28球団に増加することが決まった[1]。1991年6月にはヴィンセントはナショナルリーグのエクスパンションによる1億9000万ドルの収入のうち、アメリカンリーグは4200万ドルを受け取ることになり、その見返りとしてアリーグはナリーグ(新規球団のコロラド・ロッキーズとフロリダ・マーリンズも含む)が実施するエクスパンションドラフト(1992年のMLBエクスパンションドラフト)に選手を提供することになるだろうと言明した[26]。ミネソタ・ツインズのオーナー、カール・ポーラッドが「これがいい裁定だと思っている人にお目にかかったことがない」と述べているように、この中間を取った解決策はナリーグとアリーグ両方のオーナーから不評を招く結果となった[27]。
記録に関する特別委員会
[編集]ヴィンセントは154試合制でシーズン本塁打記録を樹立したベーブ・ルースと162試合制でシーズン本塁打記録を樹立したロジャー・マリスの両者の記録が併記されている問題を検討する特別委員会の開催を明らかにしたさい、「記録は統一されるべきであり、マリスは誰よりも多くの本塁打を記録した」との見解を示している[28]。ヴィンセントを委員長として8人の委員で構成されるこの「記録に関する特別委員会」は1991年9月4日に、1961年のフォード・フリック(第3代MLBコミッショナー)の決定を覆してマリスが唯一のシーズン本塁打記録保持者であるとの判断を全会一致で下した[29][30]。
委員会は同じ日に、従来のノーヒットノーランの定義を変更した。「少なくとも9回を投げ、なおかつ無安打に抑えたまま試合を終える」とした[29]。このため、1990年8月1日にヤンキースのアンディ・ホーキンスがシカゴ・ホワイトソックスを相手に8回を無安打に抑えながら4失点で敗戦投手となった試合を含め[31]、それまで認められていた275試合のうち50試合(内訳:8回を無安打に抑えた38試合と9回を無安打に抑えたものの、延長戦に突入した後に安打を打たれた12試合)がノーヒットノーラン達成試合から除外されることになった[29]。
シアトル・マリナーズ球団の売却問題
[編集]ヴィンセントは1990年に「長年にわたり相当額の赤字を出している。球場設備が標準以下で、改善される見込みもない。市側がプロ野球に無関心で、支援する意味もないことを何らかの形で表明している。そして、そのコミュニティにとどまり、フランチャイズを再建しようとすることがまったく無駄だと判断出来る」というフランチャイズの移転を承認するための条件を示している[32]。
1991年9月にシアトル・マリナーズのオーナー、ジェフ・スマリアンは球団経営が非常に苦しいと信じ込ませることでシアトル市と地元経済界からさらなる資金援助を引き出そうと目論んだ[33]。翌1992年1月23日に任天堂のアメリカ支社と他の地元企業4社で構成する企業グループが1億ドルでマリナーズ球団を買収する計画を発表し、さらに運転資本として2500万ドルを提示した[34]。この計画に対し、ヴィンセントは北アメリカ(アメリカ合衆国とカナダ)以外の出資を認めないという従来の方針を再確認している[35]。オーナー会議で全会一致で任天堂のマリナーズ球団買収が承認されたのは買収契約が成立した1992年4月3日より、2か月以上も後の6月9日のことである。オーナーとなる山内溥は持ち株を半分以下に抑え、ヴィンセントは懸念が解消されたと述べた[36]。この承認の背景には、シアトル市による訴訟の可能性と下院議長トム・フォーリーがMLB機構の反トラスト法(クレイトン法)適用除外という特権を解除する法案を提出するという新たな脅威が出てきたこともあった[37]。
スティーヴ・ハウの追放
[編集]ヴィンセントは改訂版「プロ野球薬物政策および防止計画」に関する1991年の政策について、選手は違法薬物の検査を受けなければならないわけではないが、違法薬物の使用をこれまでに認めている選手や使用が発見されている選手は選手生活の長さを考慮して、強制的な検査を受けなければならないと述べている[38]。
薬物・アルコール関連の7度目の騒動を起こしたヤンキースの投手スティーヴ・ハウに対し、その翌年の1992年6月8日に野球界からの永久追放処分を科した[39]。ヤンキースの上級幹部の3人(バック・ショーウォルター、ジーン・マイケル、ジャック・ローン)がハウに代わって証言することに同意した時、ヴィンセントは彼らも追放すると警告した[40]。
処分からわずか数か月後にヴィンセントはコミッショナーを解任されることになった[40]。仲裁人のジョージ・ニコラウは約束していた補導と薬物検査の支援をコミッショナー事務局が与えていなかったのだからこの処分は厳し過ぎるとして[38]、1992年11月12日にヴィンセントの決定を覆す判断を下した[41]。
1992年の地区再編問題
[編集]ヴィンセントは1992年7月6日に「球界の利益のため」という名目で強権を発動してオーナー会議の決定を覆し[42]、エクスパンションに対処するためにシカゴ・カブスとセントルイス・カージナルスを西地区に、アトランタ・ブレーブスとシンシナティ・レッズを東地区に編入させて翌シーズンを開始出来るように再編成をするよう、ナリーグ機構に命じた[43]。ナリーグ会長ビル・ホワイトはリーグの承認なしに再編を行うのはナリーグの規約に違反しているとヴィンセントを批判した[43]。
これは地元テレビ局と巨額契約を結ぼうとしているシカゴ・カブス球団にとっては死活問題であった。西海岸の試合はシカゴ時間の21時に開始されるために地元テレビ局は十分なコマーシャル収入が得られなくなるからである[44]。カブス球団はトリビューン社(カブス球団と地元テレビ局の両方を所有する企業)の収入が減少してしまうのを懸念して反対し[45]、命令の無効を主張して地方裁判所に訴訟を提起した[46]。7月23日に仮差し止め命令が付与されたため、ヴィンセントは即座に抗告する意思を表明した[47]。口頭弁論は8月30日に予定されたが、訴訟を再開する前にヴィンセントがコミッショナーを辞任したため、カブス球団は訴訟を取り下げた[4]。
その他
[編集]1990年8月10日のフィラデルフィア・フィリーズ対ニューヨーク・メッツ戦の試合中に発生した乱闘をおさめようとして、審判員ジョー・ウェストはフィリーズの投手デニス・クックの体を地面へ投げ倒した[48]。ナリーグ会長ビル・ホワイトはウエストの出場停止処分を検討したが、ヴィンセントが介入して不問に付した[49]。
アリーグの指名打者制度に反対する考えの持ち主であり、その廃止を検討していた[50]。
辞任へ
[編集]MLB球団のオーナーとコミッショナー間の関係は希薄であった。オーナーの多くはヴィンセントがしばしば強権的に振る舞うのを嫌い、1990年のロックアウトの際には彼があまりにも多くの問題で選手会側に味方したと見ていた[51]。ヴィンセントはコミッショナーというものはオーナーの味方をするためにあるのでなく、オーナー、選手、審判員、ファンを代表して公正な立場を貫くべき存在だと考えていた[52]。それに対し、球団経営者としては「我々がコミッショナーを雇っているのだから」という思いが強く、彼らはオーナー側に立つコミッショナーを求めていた[42]。
1992年9月3日に開催されたオーナー会議では賛成18・反対9(棄権1)でコミッショナーの不信任が決議された[53]。9月7日にヴィンセントはコミッショナー職を辞任する意思を表明、「長引く戦いを避けるため」とその理由を説明した[54]。
ヴィンセントを失脚させるために暗躍した以下の5人の実力者をマスコミは「ザ・グレートレイクス(五大湖)・ギャング」と名付けた[4]。
- バド・セリグ(ミルウォーキー・ブルワーズのオーナー)
- ジェリー・ラインズドルフ(シカゴ・ホワイトソックスのオーナー)
- ピーター・オマリー(ロサンゼルス・ドジャースのオーナー)
- カール・ポーラッド(ミネソタ・ツインズのオーナー)
- スタントン・クック(シカゴ・カブスを所有するトリビューン社の社長)
一方でヴィンセント支持派の筆頭は30年来の知り合いのテキサス・レンジャーズのオーナー、ジョージ・W・ブッシュ(のちのアメリカ合衆国第43代大統領)であった。3日前にヴィンセントと話をした時に受けた印象として彼は辞任しないだろうと考えていたので、突然の辞任表明には驚きを隠し切れなかった[55]。
ヴィンセントは辞任に際し、次のように述べている[4]。
「 | オーナーの機嫌を損ねずに仕事をするなんて不可能です。28人のボス全員を幸せにすることなんて出来ません。人々は私が最後のコミッショナーだと言ってきた。もしそうなら、それは悲しいことだ。手遅れにならないうちに、彼ら(オーナー連中)が失敗から学ぶことを願っています。 | 」 |
1992年9月10日にコミッショナー代行に指名されたバド・セリグは臨時の役割を果たすのは選手会との新しい取り決めがまとまるまでの間に限るという誓約を交わした[56]。
コミッショナー退任後の人生
[編集]映像外部リンク | |
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「WPBF 25 News」のインタビューに答えるヴィンセント |
ヴィンセントはコミッショナーを辞任した後に個人投資家となった[57]。
1994-95年のストライキ突入直後に「セリグとラインズドルフが共同謀議を働いて(フリーエージェント(FA)の権利を行使した)選手たちから2億8000万ドルの窃盗を行っているので、組合は基本的に経営者を信用していないのです」との見解を述べている[58]。
1997年後半から2003年までニューイングランド大学対抗野球リーグ(NECBL)の会長を務め、再び脚光を浴びることになった[59]。
2002年に『The Last Commissioner: A Baseball Valentine』と題する自伝を執筆した[60]。他にも野球の歴史をテーマとした彼の3冊の著書が出版されている[61]。
2005年7月にはコミッショナー在任中に自身がドーピング問題を過小評価していたことを認め、選手会が同問題に対して依然として及び腰であると指摘した[62]。ジョージ・J・ミッチェルは2007年に公表した「ミッチェル報告書」の中で、ヴィンセントがドーピング問題は1919年のブラックソックス事件以来、野球界が直面している最も深刻な課題であることを話していたと述べている[63]。
2006年にニグロリーグやそれ以前のアフリカ系アメリカ人の野球リーグで活躍した選手と発展に貢献した人物の合わせて17名をアメリカ野球殿堂入り表彰者として選出したニグロリーグ特別委員会の投票委員会および審査委員会の議長を務めた[64]。
また、ウィリアムズ大学、ケニオン大学、カールトン大学、カニシャス大学、セントラルコネチカット州立大学、フェアフィールド大学などの大学から名誉博士号を授与されている[65]。
著書
[編集]- The Last Commissioner: A Baseball Valentine (2002年) (ISBN 978-0743244527)
- The Only Game in Town: Baseball Stars of the 1930s and 1940s Talk About the Game They Loved: Volume 1 (2006年) (ISBN 978-0743273176)
- We Would Have Played for Nothing: Baseball Stars of the 1950s and 1960s Talk About the Game They Loved (2008年) (ISBN 978-1416553427)
- It's What's Inside the Lines That Counts: Baseball Stars of the 1970s and 1980s Talk About the Game They Loved (2010年) (ISBN 978-1439159217)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h “Commissioners” (英語). MLB.com. 2015年4月16日閲覧。
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- ^ “Seventeen from Negro Leagues, Pre-Negro leagues Eras inducted to the Hall of Fame” (英語). NLBPA.com (2006年7月30日). 2015年4月23日閲覧。
- ^ Robert L. Dilenschneider. “Principals and Counselors” (英語). Dilenschneider.com. 2015年4月23日閲覧。
参考文献
[編集]- Andrew Zimbalist『球界裏・二死満塁―野球ビジネスと金』広岡達朗 (監修), 竹内靖雄 (監修)、同文書院インターナショナル、1993年。ISBN 978-4810380170。
- Marvin Miller『FAへの死闘 大リーガーたちの権利獲得闘争記』武田薫、ベースボール・マガジン社、1993年。ISBN 978-4583030944。
- Roger I. Abrams『実録 メジャーリーグの法律とビジネス』大坪正則、大修館書店、2006年。ISBN 978-4469266092。
- 千葉功『プロ野球 記録の手帖』ベースボールマガジン社、2001年。ISBN 978-4583036373。
- 福島良一『大リーグ雑学ノート』ダイヤモンド社、1997年。ISBN 978-4478960509。
- 北矢行男『ベースボール経営革命』実業之日本社、1994年。ISBN 978-4408101422。
外部リンク
[編集]- 1992年4月22日、61分。プロ野球を取り巻く諸問題について (英語) - C-SPAN
- 1992年12月10日、340分。野球と独占禁止法 (英語) - C-SPAN