コンテンツにスキップ

「甑島列島」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 上甑島下甑島の一部より転記
上甑島・下甑島の内容に列島全体の歴史的観点を追加して加筆
タグ: サイズの大幅な増減
1行目: 1行目:
{{統合文字|甑}}
[[画像:Koshikijima Islands.png|thumb|right|300px|甑島列島の位置]]
[[画像:Koshikijima Islands.png|thumb|right|300px|甑島列島の位置]]
[[ファイル:Koshikijima Map ja.png|thumb|150px|甑島列島の大字]]
'''甑島列島'''(こしきじまれっとう)は、[[東シナ海]]に位置し、[[鹿児島県]][[薩摩川内市]]に属する[[列島]]。'''甑列島'''(こしきれっとう)ともいう。北東から南西に連なる'''上甑島'''・'''中甑島'''・'''下甑島'''の主な3島と、付属するいくつかの島から構成される。


'''甑島列島'''(こしきじまれっとう)は、[[東シナ海]]にあり、[[鹿児島県]][[薩摩川内市]]に属する[[列島]]。'''甑列島'''(こしきれっとう)ともいう。'''[[上甑島]]'''(かみこしきじま)、'''中甑島'''(なかこしきじま)、'''[[下甑島]]'''(しもこしきじま)の有人島3島と多数の小規模な無人島からなる<ref name="鹿の子百合の咲く島">三浦 (2007)</ref>。中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした巨石を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては子敷島、古志岐島とも書いた<ref name="島嶼大事典221頁">日外アソシエーツ (1991)、221頁</ref><ref name="日本の島事典172頁">菅田正昭編(1995)、172頁</ref>。列島全体では人口5,576人、面積117.56km<sup>2</sup>、海岸線延長183.3kmである<ref name="離島統計年報2011">日本離島センター (2011)</ref>。
鹿児島県[[いちき串木野市]]の[[串木野港|串木野新港]]から約38[[キロメートル|km]]西方に位置する。


== 主な島 ==
== 地理 ==
[[ファイル:Koshikijima Map ja.png|thumb|220px|甑島列島の大字]]
* [[上甑島]] 面積 45.08 [[平方キロメートル|km&sup2;]] 人口2750人(2005年国勢調査)

* 中甑島 面積 7.29 km&sup2; 人口347人(2005年国勢調査)
{|class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
* [[下甑島]] 面積 66.27 km&sup2; 人口3109人(2005年国勢調査)
|-
* [[筒島]](カセトウ)
! colspan=5| 各島の大字
* [[野島 (鹿児島県)|野島]]
|-
! !! [[里村|里地域]] !! [[上甑村|上甑地域]] !! [[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島地域]] !! [[下甑村|下甑地域]]
|-
! [[上甑島]]
| style="text-align:left" | [[里町里|里]] || style="text-align:left" | [[上甑町中甑|中甑]]、[[上甑町中野|中野]]、[[上甑町江石|江石]]、[[上甑町小島|小島]]、[[上甑町瀬上|瀬上]]、[[上甑町桑之浦|桑之浦]] || ||
|-
! 中甑島
| || style="text-align:left" | [[上甑町平良|平良]] || ||
|-
! [[下甑島]]
| || || style="text-align:left" | [[鹿島町藺牟田|藺牟田]] || [[下甑町手打|手打]]、[[下甑町片野浦|片野浦]]、[[下甑町瀬々野浦|瀬々野浦]]、[[下甑町青瀬|青瀬]]、[[下甑町長浜|長浜]]
|}

甑島列島は[[鹿児島県]][[いちき串木野市]]の沖合約45kmにあり、列島全体の長さは38km、幅は10kmである。その隔絶性から、歴史と民俗の宝庫とされてきた<ref name=" UターンとIターン資料">高橋 (2007)</ref>。かつての山脈の頂上部が海上に残ったとされ、[[リアス式海岸]]と起伏に富んだ地形がある<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。北東から南西にかけて[[上甑島]]、中甑島、[[下甑島]]の有人島3島が並んでおり、それらに付随する小規模な無人島もある。中甑島は面積も人口も規模が小さく、上甑島と合わせて考えられることが多い。中甑島は集落名から平良島(たいらじま)または単に平良と呼ばれることもある<ref group="注">1964年発行の『離島の人文地理』では平良島と表記している。</ref><ref name="過疎化の進行と近年の変化">浮田 (1993)</ref><ref name="京都園芸">菊池立身「甑島の自然 -園芸植物と山草・野草」『京都園芸 第84集』京都園芸倶楽部、1989年、69-72頁</ref><ref name="日本の島事典173頁">菅田正昭編(1995)、173頁</ref>。面積は上甑島が44.14km<sup>2</sup>、中甑島が7.31km<sup>2</sup>、下甑島が66.12km<sup>2</sup>であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島の約4/5である<ref name="甑島地域離島振興計画">[http://www.pref.kagoshima.jp/ac07/documents/33648_20130816104500-1.pdf 甑島地域離島振興計画]鹿児島県</ref>。鹿児島県の離島の面積は[[奄美大島]]、[[屋久島]]、[[種子島]]、[[徳之島]]、[[沖永良部島]]、[[長島 (鹿児島県)|長島]]、[[加計呂麻島]]、下甑島、[[喜界島]]、上甑島の順となり、下甑島の面積は[[山手線]]の内側とほぼ等しい。2010年(平成22年)の国勢調査による人口は上甑島が2,488人、中甑島が308人、下甑島が2,780人であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島にほぼ等しい。最高標高地点は上甑島が423mの遠目木山<ref name="島嶼大事典161頁">日外アソシエーツ (1991)、161頁</ref>、中甑島が294mの木の口山<ref name="島嶼大事典361頁">日外アソシエーツ (1991)、361頁</ref>、下甑島が604mの尾岳<ref name="島嶼大事典268頁">日外アソシエーツ (1991)、268頁</ref>であり、尾岳の尾根には[[航空自衛隊]]の[[下甑島分屯基地]]がある。第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されており、2009年(平成21年)3月に[[大陸間弾道ミサイル|大陸間弾道弾]]も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー([[J/FPS-5]])への更新工事が完了した。

甑島列島は全体的に山肌が海にせまり、沖積平野の発達が極めて少ない<ref name="離島の人文地理10頁">藤岡 (1964) 10頁</ref>。[[上甑島]]と中甑島は比較的緩やかな丘陵が広がるが、[[下甑島]]は400-500m台の山地が卓越し、特に西岸には切り立った断崖が点在する。上甑島は縦の変化に乏しい一方で、里集落の[[陸繋砂州]](トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜、奥地まで海が入り組んだ[[リアス式海岸]]の浦内湾など、横の地形的な変化が豊かである。甑島列島の平均気温は18.5度と温暖であり、本土の同緯度地域(阿久根市)よりもやや気温が高い<ref name="離島の人文地理6-7頁">藤岡 (1964) 6-7頁</ref>。夏・秋には台風、冬には季節風の影響を強く受け<ref name="甑島地域離島振興計画"/>、台風の影響は列島の西海岸よりも東海岸のほうが著しい<ref name="離島の人文地理6-7頁"/>。降水量は年2,500mmほどであり、本土(鹿児島市)よりもやや多い<ref name="離島の人文地理6-7頁"/>。

=== おもな島 ===
; 有人島
* [[上甑島]](かみこしきじま)
* 中甑島(なかこしきじま)
* [[下甑島]](しもこしきじま)

; 無人島
* 筒島 (かせとう)
* 野島
* 犬島
* 犬島
* [[近島]]
* 近島
* [[双子島 (鹿児島県)|双子島]]
* 双子島
* [[沖の島 (鹿児島県)|沖の島]]
* 沖の島
* [[弁慶島]]
* 弁慶島
* 面積 計118.68 km&sup2; 人口計6206人(2005年国勢調査)


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 古代・中世 ===
古くは[[薩摩国]][[甑島郡]]に属し、14[[村]]があったが、[[1889年]]の市町村制施行後は[[上甑村]]・[[下甑村]]の2村となった。[[1896年]]には[[薩摩郡]]に統合された。その後[[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島村]]・[[里村]]が分立して4村となり、[[2004年]]にいわゆる[[日本の市町村の廃置分合#平成の大合併|平成の大合併]]で薩摩川内市となった。
2008年(平成20年)、[[下甑島]]の[[鹿島町藺牟田]](いむた)にある[[中生代]][[白亜紀]]後期の地層から恐竜の歯や肋骨の化石が発見された<ref name="甑島振興だよりNo.12">「甑島振興だよりNo.12」薩摩川内市、2010年3月</ref>。詳細な分類は不明だが、3m以上の[[肉食恐竜]]のものとみられており、恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてである。藺牟田にある地層からは[[翼竜]]や[[ワニ]]など爬虫類の化石も発見されている<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。[[上甑島]]の[[里町里|里]]遺跡は、[[縄文土器]]が出土した甑島列島唯一の縄文式遺跡である<ref name="離島の人文地理55頁">藤岡 (1964) 55頁</ref>。上甑島の里遺跡、[[上甑町江石|江石]]遺跡、[[上甑町桑之浦|桑之浦]]遺跡、下甑島の[[下甑町手打|手打]]遺跡、[[下甑町片野浦|片野浦]]遺跡は弥生式遺跡であり、[[弥生土器]]、[[土師器]]、[[須恵器]]などが出土している<ref name="離島の人文地理55頁"/>。

上甑島の桑之浦には[[神功皇后]]の[[三韓征伐]]に関する伝説が残る<ref name="離島の人文地理3頁">藤岡 (1964) 3頁</ref>。[[奈良時代]]には薩摩[[隼人]]族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される<ref name="離島の人文地理3頁"/><ref name="島嶼大事典221頁"/>。[[平安時代]]初期に編纂された『[[続日本紀]]』には[[遣唐使]]船が甑島に停泊したことが記され、中期に編纂された『[[和名抄]]』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する<ref name="離島の人文地理3頁"/>。甑島列島の各地に[[平家の落人]]伝説が残っている<ref name="離島の人文地理3頁"/>。[[鎌倉時代]]中期から370年間、13代に渡って[[小川#日本の氏族|小川氏]]が統治を行ない<ref name="甑島の内侍舞とその周辺">吉川 (2009)、79-93頁</ref><ref name="島嶼大事典161頁"/>、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された<ref name="離島の人文地理3頁"/>。里には[[承久の乱]]で功績を挙げた[[小川季直]]が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の[[日置郡]]田布施(現[[南さつま市]])に移封されて甑島の統治から離れた<ref name="日本の島事典172-173頁">菅田正昭編(1995)、172-173頁</ref>。

=== 近世・近代 ===
[[江戸時代]]には[[島津藩]]の直轄地となって[[地頭]](領主)が派遣され、里・[[上甑町中甑|中甑]]・手打に地頭仮屋が置かれた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ<ref name="日本の島100 178-179頁">山と渓谷社 (2006)、178-179頁</ref>、薩摩藩の[[南蛮貿易]]の中継基地にもなった<ref name="日本島図鑑306頁">加藤 (2013)、306頁</ref>。甑島列島は[[天草]]や[[長崎]]と同じく[[キリシタン]]文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には甑島列島に潜んでいた[[島原の乱]]の残党35人が処刑されて殉教した<ref name="鹿児島島嶼の列島性"/>。1780年代の[[天明の大飢饉]]の際には、下甑島の百姓が出水(現在の[[出水市]])に、郷士が串良(現在の[[肝属郡]][[串良町]])に集団移住した<ref name="日本の島事典173-174頁">菅田正昭編(1995)、173-174頁</ref>。江戸時代には薩摩藩が[[浄土真宗]]を禁じたため、1835年(天保6年)には下甑島の長浜村が焼き払われるという「天保の法難」が、1862年(文久2年)には下甑島全島の住民が取り調べられるという「文久の法難」が起こった<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。1871年(明治4年)には[[鹿児島県]]に所属<ref name="日本の島事典172頁"/>。1889年(明治22年)に[[町村制]]が施行されると、上甑島7村と中甑島1村が[[甑島郡]][[上甑村]](かみこしきむら)となり、役場は中甑に置かれた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。1891年(明治24年)には山地によって隔てられている里が上甑村から分離して[[里村]](さとむら)となり、上甑島・中甑島はそれから1世紀以上も2村体制が続いた<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/><ref name="日本の島事典172-173頁"/>。下甑島も6村が合併して[[下甑村]](しもこしきそん)となったが、1949年(昭和24年)、やはり地理的に隔てられた藺牟田が分離して単独で[[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島村]](かしまむら)となった<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。下甑島の最高峰である尾岳北側にある分水嶺が2村の行政界となっている<ref name="鹿児島大百科辞典224頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、224頁</ref>。明治10年代には台風・飢饉・悪疫流行などがあり、上甑島からは[[種子島]]に33戸、本土の薩摩郡[[高江村]](現[[薩摩川内市]])に6戸が移住し<ref name="日本の島事典172-173頁"/>、下甑島からは395戸1732人が種子島に集団移住した<ref name="日本の島事典173-174頁"/>。1896年(明治29年)には甑島郡が[[薩摩郡]]に編入。1901年(明治34年)には上甑島に本土からの海底電信が到達し、[[九州商船]]によって串木野航路が開かれた<ref name="鹿児島大百科辞典255頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、255頁</ref>。

=== 現代 ===
[[国勢調査]]が始まった1920年(大正9年)から1940年代まで甑島列島の人口は2万人強で推移し、1950年(昭和25年)には24,744人とピークに達した。1950年から1980年(昭和55年)の人口減少が著しく、いずれの集落でも1/2から1/3に減少しており、この期間中に1/4以下となった集落も存在する<ref name="地域と歴史134頁">鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 134頁</ref>。[[奄美大島]]の[[瀬戸内町]]や[[宇検村]]と並んで、甑島列島は鹿児島県の離島の中で特に過疎化が著しい地域である<ref name="地域と歴史134頁"/>。[[高度成長期]]における県外転出者は、昭和30年代初めは近隣の熊本県が多かったが、その後は約半数が近畿地方に転出しており、大阪府と兵庫県の2府県で45%弱を占めた<ref name="地域と歴史126頁">鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 126頁</ref>。1951年(昭和26年)に九州を襲った[[ルース台風]]では甑島列島も大きな被害を受け、里では護岸が900mに渡って破られたほか、500もの住居が潮水に呑まれた<ref name="離島の人文地理37頁">藤岡 (1964) 37頁</ref>。


里村は上甑島の東側半分を占め、単独で村を構成する大字[[里町里|里]]に人家が集中していた。上甑村は上甑島の西側半分と中甑島の全域を占め、役場がある[[上甑町中甑|中甑]]に加えて、[[上甑町中野|中野]]、[[上甑町江石|江石]]、[[上甑町小島|小島]]、[[上甑町瀬上|瀬上]]、[[上甑町桑之浦|桑之浦]](いずれも上甑島)、[[上甑町平良|平良]](中甑島)の計7つの大字に人家が分散していた。鹿島村は下甑島の北側1/3を占め、大字[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]が単独で村を構成していた。下甑村は下甑島の南側2/3を占め、[[下甑町手打|手打]]、[[下甑町片野浦|片野浦]]、[[下甑町瀬々野浦|瀬々野浦]]、[[下甑町青瀬|青瀬]]、[[下甑町長浜|長浜]]などの集落に人家が分散していた。甑島列島の4村は2004年(平成16年)に本土の川内市ほか4町と新設合併し、それぞれの町が[[薩摩川内市]]の大字となった。合併後は「従前の村名を町名とし、従前の大字名を冠したものをもって大字とし」たため、薩摩郡里村里が薩摩川内市里町里、薩摩郡下甑村手打が薩摩川内市下甑町手打などという表記をされている<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。
=== 沿革 ===
* 1889年([[明治]]22年)[[4月1日]] - [[町村制]]施行により以下の2村が発足。
** 甑島郡:上甑村・下甑村
* 1891年(明治24年) - 里村が上甑村から分立。
* 1896年(明治29年)[[3月29日]] - 薩摩郡に編入される。
* [[1949年]]([[昭和]]24年)4月1日 - 鹿島村が下甑村から分立。
* 2004年([[平成]]16年)[[10月12日]] - 島内の全4村が[[川内市]]・[[樋脇町]]・[[入来町]]・[[東郷町 (鹿児島県)|東郷町]]・[[祁答院町]]と合併し、薩摩川内市となる。


=== 行政区画の変遷 ===
=== 行政区画の変遷 ===
35行目: 60行目:
| 郡 || 明治22年以前 || 明治22年 || 明治23年-明治45年 || 大正1年-大正15年 || 昭和1年-昭和64年 || 平成1年-現在
| 郡 || 明治22年以前 || 明治22年 || 明治23年-明治45年 || 大正1年-大正15年 || 昭和1年-昭和64年 || 平成1年-現在
|-
|-
| rowspan=14| [[薩摩郡]]<ref group="注">明治29年以前は[[甑島郡]]</ref> || 里村 || rowspan=8| 明治22年合併<br>[[上甑村]] || 明治24年<br>[[里村]] || 里村 || 里村 || rowspan=14| 平成16年[[川内市]]ほかと合併<br>'''[[薩摩川内市]]'''
| rowspan=14| [[薩摩郡]]<ref group="注">明治29年以前は[[甑島郡]]</ref> || 里村 || rowspan=8| 明治22年合併<br>[[上甑村]] || 明治24年一部分離<br>[[里村]] || 里村 || 里村 || rowspan=14| 平成16年[[川内市]]ほかと合併<br>'''[[薩摩川内市]]'''
|-
|-
| 中甑村 || rowspan=7| 明治24年<br>上甑村 || rowspan=7| 上甑村 || rowspan=7| 上甑村
| 中甑村 || rowspan=7| 明治24年一部分離<br>上甑村 || rowspan=7| 上甑村 || rowspan=7| 上甑村
|-
|-
| 中野村
| 中野村
51行目: 76行目:
| 平良村
| 平良村
|-
|-
| 藺牟田村 || rowspan=6| 明治22年合併<br>[[下甑村]] || rowspan=6| 下甑村 || rowspan=6| 下甑村 || 昭和24年<br>[[鹿島村]]
| 藺牟田村 || rowspan=6| 明治22年合併<br>[[下甑村]] || rowspan=6| 下甑村 || 昭和24年一部分離<br>[[鹿島村 (鹿児島県)|鹿島村]] || 鹿島村
|-
|-
| 手打村 || rowspan=5| 昭和24年<br>下甑村
| 手打村 || rowspan=5| 昭和24年一部分離<br>下甑村 || rowspan=5| 下甑村
|-
|-
| 片野浦村
| 片野浦村
63行目: 88行目:
| 長浜村
| 長浜村
|}
|}

=== 人口数の変遷 ===
<!--
人口の1/50に換算したグラフを使用しています。(m01=50人、m100=人口5,000人)
-->
: 出典 : 国勢調査
: [[画像:m10.png]]里地域 [[画像:g10.png]]上甑地域 [[画像:r10.png]]下甑地域 [[画像:b10.png]]鹿島地域
: いずれの自治体も、2004年に川内市などと合併して薩摩川内市の一部となった。

{|class="wikitable"
|-
| 1920年(大正9年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]] || 20,061人
|-
| 1930年(昭和5年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]] || 21,435人
|-
| 1940年(昭和15年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g01.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]] || 20,815人
|-
| 1950年(昭和25年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:r100.png]][[画像:r100.png]][[画像:r10.png]][[画像:b50.png]][[画像:b50.png]] || 24,744人
|-
| 1960年(昭和35年)
|| [[画像:m50.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g100.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g01.png]][[画像:r100.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:b50.png]][[画像:b05.png]][[画像:b01.png]] || 20,496人
|-
| 1970年(昭和45年)
|| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g50.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:b10.png]][[画像:b10.png]][[画像:b05.png]] || 11,750人
|-
| 1980年(昭和55年)
|| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:m01.png]][[画像:g50.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:g01.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:b10.png]][[画像:b10.png]] || 9,428人
|-
| 1990年(平成2年)
|| [[画像:m01.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g05.png]][[画像:g01.png]][[画像:r50.png]][[画像:r10.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:r01.png]][[画像:b10.png]][[画像:b10.png]] || 6,268人
|-
| 2000年(平成12年)
|| [[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:m10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:r50.png]][[画像:r05.png]][[画像:r01.png]][[画像:b10.png]][[画像:b05.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]] || 5,860人
|-
| 2010年(平成22年)
|| [[画像:m01.png]][[画像:m10.png]][[画像:m05.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:g10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r10.png]][[画像:r05.png]][[画像:b05.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]][[画像:b01.png]] || 5,576人
|}
<!--
基データは以下の通りです。
立項初版ではこの中から10年刻みで表を作成しました。
{|class="wikitable"
|-
| 1920年(大正9年)
|| 里村3,009人、上甑村5,517人、下甑村11,535人、鹿島村存在せず、合計20,061人
|-
| 1925年(大正14年)
|| 里村3,017人、上甑村5,509人、下甑村11,745人、鹿島村存在せず
|-
| 1930年(昭和5年)
|| 里村3,174人、上甑村5,878人、下甑村12,383人、鹿島村存在せず、合計21,435人
|-
| 1935年(昭和10年)
|| 里村3,029人、上甑村5,652人、下甑村12,152人、鹿島村存在せず
|-
| 1940年(昭和15年)
|| 里村2,928人、上甑村6,053人、下甑村11,834人、鹿島村存在せず、合計20,815人
|-
| 1945年(昭和20年)
|| 里村3,678人、上甑村7,155人、下甑村13,670人、鹿島村存在せず、合計24,504人
|-
| 1950年(昭和25年)
|| 里村3,870人、上甑村7,296人、下甑村10,546人、鹿島村3,032人、合計24,744人
|-
| 1955年(昭和30年)
|| 里村3,692人、上甑村7,009人、下甑村9,918人、鹿島村3,010人
|-
| 1960年(昭和35年)
|| 里村3,357人、上甑村6,091人、下甑村8,237人、鹿島村2,811人、合計20,496人
|-
| 1965年(昭和40年)
|| 里村2,834人、上甑村4,730人、下甑村6,483人、鹿島村2,254人
|-
| 1970年(昭和45年)
|| 里村2,183人、上甑村3,426人、下甑村4,864人、鹿島村1,277人、合計11,750人
|-
| 1975年(昭和50年)
|| 里村1,926人、上甑村2,877人、下甑村4,176人、鹿島村1,023人
|-
| 1980年(昭和55年)
|| 里村1,920人、上甑村2,728人、下甑村3,752人、鹿島村1,028人、合計9,428人
|-
| 1985年(昭和60年)
|| 里村1,967人、上甑村2,651人、下甑村3,577人、鹿島村1,072人
|-
| 1990年(平成2年)
|| 里村1,753人、上甑村2,315人、下甑村3,247人、鹿島村1,033人、合計6,268人
|-
| 1995年(平成7年)
|| 里村1,676人、上甑村2,234人、下甑村3,017人、鹿島村999人
|-
| 2000年(平成12年)
|| 里村1,517人、上甑村2,008人、下甑村2,803人、鹿島村892人、合計7,220人
|-
| 2005年(平成17年)
|| 里地域1,405人、上甑地域1,692人、下甑地域2,545人、鹿島地域564人 ※2004年に合併して薩摩川内市の一部に
|-
| 2010年(平成22年)
|| 里地域1,260人、上甑地域1,536人、下甑地域2,289人、鹿島地域491人、合計5,576人
|}
-->


== 交通 ==
== 交通 ==
=== 列島外部との交通 ===
[[ファイル:Ferry New Koshiki.jpg|thumb|串木野港と甑島各港を結ぶフェリーニューこしき]]
[[File:Ferry New Koshiki.jpg|thumb|right|200px|フェリーニューこしき]]
[[File:Kamikoshiki Island Fureai Bus 2013-08A.JPG|thumb|甑ふれあいバス(上甑島)]]


=== 航路 ===
==== 交通の歴史 ====
甑島列島は[[琉球諸島]]から[[天草]]・[[長崎]]・[[朝鮮半島]]・[[日本海]]に向かう船の通り道にあり、琉球とのつながりが深い<ref name="鹿児島島嶼の列島性">長嶋 (2011)</ref>。戦前までは鹿児島本土よりも天草(特に南端の[[牛深市|牛深]])や長崎などとのつながりの方が強い時代があった。1901年(明治34年)には[[九州商船]]が本土と甑島列島の間に航路を開き、長崎-天草(西と牛深)-[[里町里|里]]-[[下甑町手打|手打]]を結んでいたが、1928年(昭和3年)にはこの航路が廃止され、[[いちき串木野市|串木野]]と甑島を結ぶ航路が開かれた<ref name="離島の人文地理154頁">藤岡 (1964) 154頁</ref>。1951年(昭和26年)には[[阿久根市|阿久根]]と甑島を結ぶ航路が2日に1便就航し、1952年(昭和27年)からは毎日就航に変更された<ref name="離島の人文地理154頁"/>。地理学者の[[藤岡謙二郎]]らが調査した1964年(昭和39年)時点では、[[串木野港]]と中甑港を結ぶ航路には200トン船が、[[阿久根港]]と里港を結ぶ航路には75トン船が運航されていた<ref name="離島の人文地理2頁">藤岡 (1964) 2頁</ref>。いずれも一日一便であり、東岸伝いに[[下甑島]]の主要港まで航行していた。阿久根港・里港間の33kmを約2時間で結んでいたが、台風の前後には欠航が相次いだという。九州商船の他には、1956年(昭和31年)から保健船が週2便運航され、平良・中甑間には[[艀]](はしけ)が一日数便運航されていた<ref name="離島の人文地理154頁"/>。2002年(平成14年)までは串木野から長崎に大型フェリーが運行され、甑島列島-串木野-長崎は経済的なつながりが続いていた<ref name="鹿児島島嶼の列島性"/>。
串木野からの[[フェリー]]と[[高速船]]があるが、市域内である川内からの船は少ない。ただし、高速船については、新船を新造の上で本土側の発着港を川内港へ移す計画が甑島航路改善協議会の航路改善計画に盛り込まれており、これが実現すれば、薩摩川内市の発足以来初めて定期航路で市内が結ばれることになる。
* [[甑島商船]] - ([[九州商船]]と鹿児島県の薩摩川内市といちき串木野市の共同出資。)


=== 路 ===
==== 現在の航====
; 串木野-甑島列島
島内に国道・有料道路・鉄道は無いが、県道や市道などがあり、路線バスが走っている。現在、有人3島を架橋で結ぶ構想がある。上甑島と中甑島は、[[1993年]]開通の[[甑大明神橋]]と[[鹿の子大橋]]で結ばれている。
本土から甑島列島までの主要な交通手段は、[[甑島商船]]が[[いちき串木野市]]の[[串木野港|串木野新港]]から運航している高速船とフェリーである。「高速船シーホーク」と「フェリーニューこしき」は、一日あたりそれぞれ往復2便が運航されており、高速船は上甑島の里港まで約50分、フェリーは約75分である。いずれも起点は串木野新港であり、終点は下甑島の長浜港であるが、便によって立ち寄り先が異なり、下甑島の鹿島港などに立ち寄る場合がある。2013年(平成25年)7月1日時点での自動車航送を含まない料金は、高速船が3,610円(串木野-長浜)、フェリーが2,330円(串木野-長浜)である。高速船とフェリー以外では、五色産業が貨物フェリーと高速チャーター船を運航している。
* [[薩摩川内市甑島コミュニティバス]] - [[南国交通]]が委託。
* [[五色タクシー]]


串木野新港と[[JR九州|JR]][[鹿児島本線]][[串木野駅]]間には、船の発着時間に合わせたバスが運行されており、所要時間は約12分である。串木野駅から鹿児島駅までは在来線で約35分である。串木野新港と[[川内駅]]間にも船の発着時間に合わせた直行バスが運行されており、所要時間は約34分である。川内駅から[[博多駅]]までは[[九州新幹線]]で最速71分であり、川内駅から[[鹿児島空港]]まではバスで約70分である。串木野新港から鹿児島インターチェンジまでは自動車で約40分であり、[[九州縦貫自動車道]]や[[南九州西回り自動車道]]などを経由する。
==== 離島架橋 ====
上甑島と中甑島間は甑大明神橋と鹿の子大橋によって結ばれており、2013年現在中甑島と下甑島間を結ぶ藺牟田瀬戸架橋事業が実施されている。
{{main|日本の離島架橋}}


; 薩摩川内-甑島列島
=== 空路 ===
老朽化した「高速船シーホーク」の代替船として「高速船甑島」が2014年(平成26年)春に就航予定である<ref name="47news">[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=50040 名称は「高速船 甑島」 14年春就航の川内甑島航路 ] 47news、2013年1月13日</ref>。[[新幹線800系電車]]「つばめ」など、九州地方の輸送機関のデザインを数多く手掛けている[[水戸岡鋭治]]がデザインを担当した<ref name="47news"/>。「フェリーニューこしき」はこれまで通り串木野新港を発着するが、高速船の本土側寄港地は甑島列島が属する[[薩摩川内市]]の[[川内港]]に移設される予定である。川内港と薩摩川内市街地はやや離れているため、[[JR九州|JR]][[鹿児島本線]][[川内駅]]と川内港の間にシャトルバスが運行される予定である。
島内に空港は無く、また空港建設の議論も皆無である。


== 地理・自然 ==
=== 列島内部の交通 ===
1950年(昭和25年)時点での陸上交通の大部分が徒歩であり、自転車でさえもほとんどみられなかった<ref name="離島の人文地理153頁">藤岡 (1964) 153頁</ref>。1961年(昭和36年)時点での陸上交通の主流は自転車であり、甑島列島全体で616台の自転車が存在したが、この頃にはまだ自動車はほとんどみられず、トラック・乗用車合わせて10数台があるのみだった<ref name="離島の人文地理153頁"/>。
[[File:Kamikoshiki Island Nagame-no-hama 2013-08A.JPG|thumb|200px|長目の浜の湖沼群]]


現在では上甑島・下甑島のいずれでもレンタカー、タクシー、レンタサイクルが利用可能である。薩摩川内市は公用車として3台の電気自動車(EV)を甑島に導入している<ref name="373news.com">[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=50040 甑島で8月から導入 小型電気自動車を公開 薩摩川内市] 373news.com、2013年7月23日</ref><ref name="日本ユニシス">[http://www.unisys.co.jp/news/nr_130801_smartoasis.html 薩摩川内市「EV導入実証事業」を甑島(こしきしま)で開始] 日本ユニシス、2013年8月1日</ref><ref name="Sankei Biz">[http://www.sankeibiz.jp/business/news/130805/bsa1308050600001-n1.htm 甑島でEVレンタカー実証 日本ユニシスと鹿児島県薩摩川内市] Sankei Biz、2013年8月5日</ref>。2013年(平成25年)8月には1人乗りEV「コムス」(トヨタ車体製、原動機付自転車扱い)を20台導入し、「甑島電気自動車レンタカー導入実証事業」として観光客へのEVの貸し出しも行なっている<ref name="373news.com"/><ref name="日本ユニシス"/><ref name="Sankei Biz"/>。
[[甑島県立自然公園]]に含まれる。上甑島は、[[なまこ池]]([[海水]])、[[貝池]]、[[鍬崎池|鍬崎(かざき)池]]([[淡水]])など総称して長目の浜と呼称される湖沼群や[[砂州|陸繋砂州]]など特徴的な地形が見られる。貝池は、上層が淡水、深層が海水で安定した層を成しており([[部分循環湖]])、水深5m付近の厚さ50cmほどの層には、世界で3ヶ所しか確認されていない光合成細菌の一種[[クロマチウム目|クロマチウム]]が生息し<ref>[[信州大学]]理学部物質循環学科環境地球化学研究室[http://science.shinshu-u.ac.jp/~fukushima/koshikijima.htm 「鹿児島県薩摩郡上甑村海鼠池、貝池、鍬崎池」]</ref>、保護活動や世界遺産登録を視野に入れた調査活動が行われている。


==== 甑島コミュニティバス ====
下甑島は、南北に走る山がちな地形が一本の山脈状になっている。その尾根には、航空自衛隊第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されているが、2009年3月に大陸間弾道弾も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー ([[J/FPS-5]]) への更新工事が完了した。
[[上甑島]]と中甑島では「甑ふれあいバス」(里・上甑地域コミュニティバス)、[[下甑島]]では「甑かのこゆりバス」(鹿島・下甑地域コミュニティバス)という名称の定期路線バス([[薩摩川内市甑島コミュニティバス]])が[[南国交通]]によって運行されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。基本的にどの路線も定期船の発車時刻に合わせたダイヤが組まれており、一日あたり4-7便が運行されている。

甑ふれあいバスは里線、浦内・桑之浦線、平良線、江石線の4路線に分かれており、すべての路線が中甑にある南国交通の営業所を始発としている。里線は[[上甑町中甑|中甑]]- [[上甑町中野|中野]]-[[里町里|里]]を結び、浦内・桑之浦線は中甑-[[上甑町小島|小島]]-[[上甑町瀬上|瀬上]]- [[上甑町桑之浦|桑之浦]]を結び、平良線は中甑-[[上甑町平良|平良]]を結び、江石線は中甑-[[上甑町江石|江石]]を結んでいる。江石線の上り便(中甑行き)は[[デマンドバス|デマンド運行]]となり、事前の予約が必要である。江石線の下り便(江石行き)は条件付き運行となり、中甑港で乗客がいる場合のみ江石まで運行する。

甑かのこゆりバスは手打・長浜線、手打・片野浦線、長浜・瀬々野浦線、長浜・鹿島線の4路線に分かれており、2路線ずつが長浜港と手打港をターミナルとしている。手打・長浜線は[[下甑町手打|手打]]-[[下甑町青瀬|青瀬]]-[[下甑町長浜|長浜]]を結び、手打・片野浦線は手打-[[下甑町片野浦|片野浦]]を結び、長浜・瀬々野浦線は長浜-[[下甑町瀬々野浦|瀬々野浦]]を結び、長浜・鹿島線は長浜-[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]を結んでいる。手打・片野浦線の上り便(手打行き)はデマンド運行となり、事前の予約が必要である。手打・片野浦線の下り便(片野浦行き)は条件付き運行となり、手打トンネルで乗客がいる場合のみ片野浦まで運行する。

==== 列島内の架橋 ====
上甑島の南には無人島の平良島を挟んで中甑島があり、1994年(平成6年)に開通した甑大明神橋(上甑島-平良島)と鹿の子大橋(平良島-中甑島)の2本の橋が架かっている。中甑島と下甑島は最狭部で1.3kmほどであり、2006年(平成18年)から藺牟田(いむた)瀬戸架橋事業が進行中である<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。中甑島の南側半分には人家がなく、車が通行可能な道路もないが、この事業では中甑島の[[上甑町平良|平良]]から下甑島の[[鹿島町藺牟田|藺牟田]]まで自動車道路を整備し、海峡を1,533mのPC連続橋桁橋でつなぐ。上甑島の里港と下甑島の長浜港は一日2往復のフェリーで約115分かかっているが、24時間通行可能な藺牟田瀬戸架橋が完成すると自動車で約50分に短縮されるという。中央部の橋梁の中央径165mは、PC連続橋桁橋としては日本国内最大級である。総事業費は220億円であり、完成予定は2017年(平成29年)である。

平良島と中甑島、中甑島と下甑島は海で隔てられてはいるが、前者の間には沖の串と呼ばれる浅瀬があり、また後者の間にも沖の瀬上やヘタノ瀬上などの浅瀬があるため、かつては上甑島から下甑島まで一続きの島であったと考えられている<ref name="離島の人文地理1頁">藤岡(1964) 1頁</ref>。甑大明神橋・鹿の子大橋の架橋前も、干潮時には上甑島と平良島、平良島と中甑島が陸続きになったという<ref name="島嶼大事典361頁"/>。1984年(昭和59年)に芦浜トンネルが開通すると陸路で旧鹿島村と旧下甑村の往来が可能となり、両地域の交流が活発化した。2011年(平成23年)には[[下甑町長浜|長浜]]・[[下甑町青瀬|青瀬]]と[[下甑町手打|手打]]をトンネルなどで結ぶ手打バイパスが開通し、安全性や利便性が大幅に向上した。

==== 観光遊覧船 ====
水中展望船「きんしゅう」、観光船「かのこ」、観光船「おとひめ」の3つの観光遊覧船が運航されている。「きんしゅう」は上甑島の里港を出港し、里集落沖合の海中を泳ぐ魚を水中から展望する。沖合には出ずに引き返して里港に戻る。

2011年に運航を開始した「かのこ」は西海岸コースと東海岸コースがあり、いずれも上甑島の中甑港を出港する。西海岸コースは甑大明神橋をくぐって島の東岸に出た後、下甑島の西岸に沿って南下し、鹿島断崖、山から海に滝が流れ落ちる内川内海岸、海食崖が垂直にそびえ立つコシ瀬、数百トンの巨石が崖に腰かけている壁立断崖、ナポレオンの横顔に似た奇石ナポレオン岩などを間近に見る。ナポレオン岩を過ぎてから180度向きを変えてルートを引き返し、中甑島と下甑島の海峡を東進して中甑島の東岸に出て、北上して中甑港に着く。東海岸コースは中甑港を出港して南下し、中甑島東南端にある小島(弁慶島)との間をすり抜けて下甑島の東岸を進む。下甑島の地峡部付近で引き返し、来たルートをそのまま引き返して中甑港に着く。

「おとひめ」にも西海岸コースと東海岸コースがあり、いずれも下甑島の手打港を出港する。西海岸コースは下甑島の南端を時計回りに回って西岸に向かい、ローソク岩、鷹の巣、ナポレオン岩、壁立、コシ瀬などを間近に見る。下甑島中央部の金山海岸を過ぎたあたりで180度向きを変え、北ルートを引き返して手打港に着く。東海岸コースは手打港から下甑島の東岸を北上し、青瀬集落や長浜集落に接近した後、下甑島中央部の尾山の鼻を過ぎたあたりで180度向きを変えて引き返す。

== 自然・地形・地質 ==
甑島列島には約8000万年前の[[白亜紀]]の地層が残っている。日本国内では初めて[[ケラトプス]]の化石が発見され、アジアを見渡しても貴重な発見とされている。1981年(昭和56年)には甑島列島が甑島県立自然公園に指定され<ref>[https://www.pref.kagoshima.jp/ad04/kurashi-kankyo/kankyo/sizenkouen/kennai/koshiki.html 甑島県立自然公園]鹿児島県</ref>、2009年(平成21年)には[[下甑島]]の鹿島断崖が[[日本の地質百選]]に選出された<ref name="甑島地域離島振興計画"/><ref name="ジオサイト地質百選Ⅱ">「Number 81 甑島」全国地質調査業協会連合会『日本列島ジオサイト地質百選Ⅱ』オーム社、162-163頁</ref>。中甑島北部には巨大な正断層である鹿の子断層があり、北西-南東方向に発達した断層が露頭している<ref name="日本の地質構造100選">「No.016 甑島の鹿の子断層」日本地質学会構造地質部会『日本の地質構造100選』朝倉書店、26-27頁</ref>。海岸には[[ウミガメ]]が上陸する。甑島列島は熱帯性の木生シダである[[ヘゴ]]の自生北限地のひとつであり、[[カラスバト]]の自生地とともに1952年(昭和27年)に国指定天然記念物に指定された<ref name="島嶼大事典161頁"/><ref name="甑島地域離島振興計画"/><ref group="注">『自然紀行 日本の天然記念物』講談社、308頁によると、ヘゴの自生北限地は東京都[[八丈町]]([[八丈島]])、長崎県[[五島市]]([[福江島]]、鹿児島県肝属郡[[南大隅町]]・[[肝付町]]([[大隅半島]])、川辺郡[[南さつま市]]([[薩摩半島]])、宮崎県[[日南市]]に加えて甑島列島である。</ref>。

=== カノコユリの自生地 ===
[[File:W kanokoyuri4082.jpg|thumb|right|200px|甑島列島に自生するカノコユリ]]

薩摩川内市の市花は[[カノコユリ]]であり、甑島列島はカノコユリの日本唯一の自生地とされている<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。下甑島の百合高原などで夏場に薄紅色の花を咲かせるが、本来、湿気に弱いはずのカノコユリがなぜ高温多湿の甑島列島に自生するのかは解明されていない<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。

[[天明の飢饉]]の際、島民はカノコユリの鱗茎を食糧とした<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[江戸時代]]には[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]が球根を日本から持ち出してヨーロッパで知られるようになり、[[明治時代]]には煮て乾かした球根が菓子原料として中国に輸出された<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[大正時代]]には球根がアメリカに輸出され、クリスマス用の生花に用いられた<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。1929年(昭和4年)が球根生産のピークのひとつであり、野掘り(野生)と畑掘りが半分ずつで67万球・39万円の売り上げがあった<ref name="京都園芸"/>。[[太平洋戦争]]後には海外で観賞用花としての需要が高まり、1964年(昭和39年)をピークとして甑島列島で栽培された球根が高値で輸出された<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。干した[[甘藷]]の相場が41kg1000円だった時代に、カノコユリは1kg100円の高値で取引されたという<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。[[高度成長期]]には良質なユリを生み出すための品種改良が行なわれたが、1969年(昭和44年)以降には海外での需要が減少。その後は日本国内中心に出荷していたが、1980年代には一般ユリ・系統ユリ(品種改良した球根)ともに国内向けの出荷を終了し<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>、現在では鹿の子百合生産振興協議会が細々と出荷しているのみである<ref name="鹿の子百合の咲く島"/>。

=== 里集落の陸繋砂州===
[[File:Sato Shoal.jpg|thumb|right|200px|里集落の陸繋砂州{{国土航空写真}}]]

上甑島北端にある遠見山はかつて独立した島だったが、流砂によって上甑島本島と陸続きとなり、沿岸流と波の作用で海底の砂礫が水面上に現れたのが[[陸繋砂州]](トンボロ)である<ref name="島嶼大事典161頁"/>。その上に形成された里集落は、陸繋砂州上にある集落としては日本国内最大規模であり<ref name="南の島大図鑑">加藤庸ニ『ニッポン南の島大図鑑』阪急コミュニケーションズ、24-25頁</ref>、[[函館市|函館]](北海道)や[[串本町|串本]](和歌山県)と並んで日本三大トンボロに数えられることもある<ref name="かごしま よかとこ旅">『かごしま よかとこ旅』トライ社、2010年、219頁</ref>。砂州の全長は約1,400m、全幅は最狭部で250m、標高2.3m<ref>[http://www.koshikijima.net/sato/index.html 薩摩川内市里町(旧薩摩郡里村)]甑島観光協会</ref>であり、半島のように突き出た遠見山と島の南側をつないでいる<ref name="離島の人文地理24頁">藤岡 (1964) 、24頁</ref>。この砂州は10cm×5cmほどの礫で構成されており、一般的な砂丘や砂嘴にみられる細砂礫が少ないが、西岸は西之浜海水浴場となっている<ref name="離島の人文地理25頁">藤岡 (1964) 、25頁</ref>。先史時代の遺跡や藩政時代の士族居住地は山麓に形成され、真水に恵まれない沿岸部には被支配者層が居住した<ref name="離島の人文地理25頁"/>。

下甑島の手打でも、手打湾と手打港の間に小規模な陸繋砂州が形成されている<ref name="離島の人文地理29頁">藤岡 (1964) 29頁</ref>。1889年(明治22年)や1951年(昭和26年)([[ルース台風]])には砂州が切断されたといい、現在は防潮堤が張り巡らされているが、高潮時にはしばしば手打湾から手打港に水があふれる<ref name="離島の人文地理29頁"/>。

=== 長目の浜(甑四湖) ===
[[File:Kamikoshiki Island Nagame-no-hama 2013-08B.JPG|thumb|right|200px|長目の浜の湖沼群]]

上甑島には長目の浜と呼ばれる、大小3つの池が[[砂州]]によって海と隔てられた景勝地がある<ref name="日本の島事典172-173頁"/>。北から[[なまこ池]](海鼠池)、貝池、鍬崎(かざき)池であり、似たような地形で隣接しながらも、それぞれ塩分濃度や成層状態が異なっており<ref name="湖水環境">久保ほか (1999)</ref>、1934年(昭和9年)の調査ではなまこ池の塩分濃度は25.25%、貝池は17.2%、鍬崎池は淡水、須口池は33.3%だった<ref name="離島の人文地理27頁">藤岡 (1964) 27頁</ref>。また、直接海と通じているわけではなく、礫洲を通じて湖水・海水の交換が行なわれるため、水位の変化は日本の他の汽水湖沼と比べて極めて小さい<ref name="湖水環境"/>。水位の変化はなまこ池で最大23cm、貝池で最大4cmであり、水位変化の周期は2湖で同じである<ref name="湖水環境"/>。なまこ池と貝池は細い水路でつながっているが、貝池の方がなまこ池よりも水位が高いため、常に貝池からなまこ池に池水が流出している<ref name="湖水環境"/>。これらの池は数千年前まで海岸線が入り組んだ入江だったが、崖の崩壊で崩れ落ちた岩石が堆積し、海面下で細長い洲となった。浜は10cm×5cm×厚さ3-4cm程度の礫が積み重なった礫浜であり<ref name="離島の人文地理27頁"/>、やがて海面が降下して砂州が地上に現れ、現在の長目の浜が形成された。第2代薩摩藩主の[[島津光久]]が景観を「眺めの浜」と称えたことが名称の由来である<ref name="島嶼大事典161頁"/><ref name="日本の島事典172-173頁"/>。

なまこ池は最大水深24mの汽水池であり、湖水面は海の干満に3-4時間遅れて上下する。[[薩摩藩]]の時代に[[大村湾]]からの搬送中に入れられたとされる[[海鼠]]が名称の由来であり、現在も繁殖している。湖岸には[[アコヤガイ]]が密生しており、[[ボラ]]、[[キス]]、[[シマイサキ科|シマイサキ]]などの魚介類が生息する。貝池は最大水深11mの汽水池である。上部は流れ込んだ雨水で低濃度の塩水となり、下部は春から夏に侵入した海水が停滞して高濃度の塩水となっている([[部分循環湖]])。下部の海水層は多量の[[硫化水素]]を含んでおり、特別な微生物しか生息できない。水深約5mにある上部と下部の境目には、バルト海沿岸の湖と貝池のみでしか確認されていないクロマチウムという光合成硫黄細菌が濃密に分布し<ref name="SHIMADAS1022頁">日本離島センター (1998)、1022頁</ref>、20cmの厚さの赤紫色の帯が広がっている<ref name="湖水環境"/><ref name="ジオサイト地質百選Ⅱ"/><ref>[http://science.shinshu-u.ac.jp/~fukushima/koshikijima.htm 鹿児島県薩摩郡上甑村海鼠池、貝池、鍬崎池]信州大学理学部物質循環学科環境地球化学研究室</ref>。長目の浜からやや東側に離れて、[[ウナギ]]やボラが生息している須口池があり、上述の3つの池と合わせて甑四湖と呼ばれる。甑四湖はいずれも、離島にある湖沼としては規模が大きく、面積0.56km<sup>2</sup>のなまこ池は日本第3位、面積0.16km<sup>2</sup>の貝池と鍬崎池は5位、面積0.10kmの須口池は8位である<ref name="SHIMADAS553頁">日本離島センター (1998)、553頁</ref>。

=== 武家屋敷跡の玉石垣 ===
下甑島の手打と上甑島の里には、小川氏の統治時代の名残である武家屋敷通りがあり、大きさの等しい玉石垣(丸石の石垣)が特徴である<ref name="島嶼大事典161頁"/>。手打の武家屋敷通りには御仮屋門や異国船を取り締まった津口番所跡などがある。2009年には里町にある武家屋敷跡の玉石垣が、日本の有人離島にある優れた景観を選定する「[[島の宝100景]]」([[国土交通省]])に選出された<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。「玉石の石垣が残る『たましいの島』」という短評が付いている。

== 経済 ==
2010年(平成22年)の[[国勢調査]]による甑島列島の産業分類別就業者数は、[[第一次産業]]が12.3%、[[第二次産業]]が19.4%、[[第三次産業]]が68.1%であり、第一次産業の内訳は農業が1.3%、林業が0%、水産業が10.9%である<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。就業者数・総生産額ともに、平均に比べて第一次産業(特に水産業)が大きな割合を占め、甑島列島の基幹産業は農林水産業である<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。

=== 水産業 ===
甑島列島周辺海域は[[アジ]]、[[サバ]]、[[ブリ]]などの回遊魚に加え、[[キビナゴ]]、[[バショウカジキ]]、[[アワビ]]などの水産資源が豊富で、鹿児島県内有数の漁場となっている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。[[江戸時代]]には[[イワシ]]や[[カツオ]]漁が盛んであり、薩摩[[干鰯]]の主要産地だったほか<ref name="離島の人文地理178頁">藤岡 (1964) 178頁</ref>、甑島産のカツオは[[土佐]]産に次ぐ質の高さとされた<ref name="日本の島事典172-173頁"/>。[[明治時代]]にはカツオ漁業が行き詰ったことから[[サンゴ]]採取が好況に沸いたが、すぐに採りつくして[[大正時代]]には急速に衰えた<ref name="離島の人文地理179頁">藤岡 (1964) 179頁</ref>。大正時代にはブリの定置網漁業が盛んとなり、戦後には巾着網漁業が活況を呈した<ref name="離島の人文地理179-180頁">藤岡 (1964) 179-180頁</ref>。甑島漁協の水揚げ量の45%を刺網漁業で漁獲したキビナゴが占め、鹿児島県最古の歴史を持つ定置網漁業や、[[カンパチ]]と[[マグロ]]の養殖漁業も行なっている<ref name="地域発展モデル"/>。キビナゴは一年中漁獲されるが、5月から7月の夏期がキビナゴ漁の最盛期であり、[[里町里|里]]が漁獲の中心となる<ref name="地域発展モデル"/>。キビナゴは冷凍加工品としても出荷されているが、多くは鮮魚として、いちき串木野市または阿久根市の卸売市場を経由して主に鹿児島市内に出荷されている<ref name="地域発展モデル"/>。

甑島は九州で唯一[[海洋深層水]]が取水されている場所であり、水深375mからくみ上げた海水で塩や[[にがり]]などの製造が行なわれている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。上甑島の浦内湾は[[リアス式海岸]]をなし、1950年(昭和25年)から[[真珠]]の養殖を行なっている<ref name="鹿児島大百科辞典107頁">南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、107頁</ref>。母貝には長崎県の[[大村湾]]から購入した[[アコヤガイ]]を使用している<ref name="離島の人文地理185頁">藤岡 (1964) 185頁</ref>。

=== 農林業 ===
急峻な地形のため耕地は少なく点在しているが、[[水稲]]、[[サツマイモ]](主に焼酎用)、[[ソラマメ]]、[[パッションフルーツ]]などが生産されており、肉用牛が放牧されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。森林面積における天然広葉樹林の割合が84%を占め、155ヘクタールの椿林を含む<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。特用林産物としてはシイタケ、椿の実、木炭などが生産されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。

=== 観光業 ===
2009年(平成21年)の上甑島への観光客は約21,400人、中甑島への観光客は約1,700人、下甑島への観光客は約14,100人であり、観光客は上甑島がもっとも多い<ref name="離島統計年報2011"/>。全体の観光客数は約37,200人であり、うち列島内での宿泊者数は約34,600人と93%を占める<ref name="離島統計年報2011"/>。2010年の甑島列島全体への入込客数は44,870人であり、薩摩川内市全体の約2%程度である<ref name="地域発展モデル">田中 (2012)</ref>。薩摩川内市全体の入込客数は右肩上がりであるが、甑島列島への入込客数は年によってばらつきがあり、2006年(平成18年)は31,528人、2008年は55,224人だった<ref name="地域発展モデル"/>。列島内にはキャンプ場、海水浴場、ダイビング場などの観光施設が整備されており、その他にも甑大明神マラソン大会、こしき島[[アクアスロン]]大会、甑島イカ釣り大会、竜宮文化フェスタなどのイベントが開催されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。里にある[[甑島風力発電所]]は観光名所のひとつとなっており、1990年(平成2年)に日本で初めて実用化された[[風力発電所]]である<ref name="日本の島事典172-173頁"/><ref name="SHIMADAS1020頁">日本離島センター (1998)、1020頁</ref>。

== 教育 ==
[[File:Kamikoshiki Island Sato School 2013-08.JPG|thumb|right|200px|里小中学校]]

; いずれも薩摩川内市立

{|class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;"
|-
! !! 区分 !! 所在島 !! 所在大字 !! 学校名 !! 開校/閉校年
|-
! rowspan=9| 現存する学校
| rowspan=4| 中学校
| rowspan=2| 上甑島
| 里 || [[薩摩川内市立里中学校|里中学校]] || 1947年開校
|-
| 中甑 || [[薩摩川内市立上甑中学校|上甑中学校]] || 1947年開校
|-
| rowspan=2| 下甑島
| 手打 || [[薩摩川内市立海陽中学校|海陽中学校]] ||
|-
| 長浜 || [[薩摩川内市立海星中学校|海星中学校]] ||
|-
| rowspan=5| 小学校
| rowspan=2| 上甑島
| 里 || 里小学校 || 1882年開校
|-
| 中甑 || 中津小学校 || 1877年開校
|-
| rowspan=3| 下甑島
| 鹿島 || 鹿島小学校 || 1880年開校
|-
| 手打 || 手打小学校 || 1874年開校
|-
| 長浜 || 長浜小学校 || 1880年開校
|-
! rowspan=6| 閉校した学校
| 中学校
| 下甑島 || 鹿島 || [[薩摩川内市立鹿島中学校|鹿島中学校]]
| 2012年3月末閉校
|-
| rowspan=5| 小学校
| 上甑島
| 瀬上 || 浦内小学校 || 1903年開校、2008年3月末閉校
|-
| 中甑島
| 平良 || 平良小学校 || 1879年開校、2011年3月末閉校
|-
| rowspan=3| 下甑島
| 瀬々野浦 || 西山小学校 || 1879年開校、2013年3月末閉校
|-
| 青瀬 || 青瀬小学校 || 1886年開校、2012年3月末閉校
|-
| 片野浦 || 子岳小学校 || 1886年開校、2012年3月末閉校
|}

2013年(平成25年)時点で甑島列島には薩摩川内市立中学校が4校、市立小学校が5校所在するが、いずれの学校も児童生徒数不足に悩まされている。2013年5月1日時点の各小中学校の児童生徒数は、[[薩摩川内市立里中学校|里中学校]]が17人、[[薩摩川内市立上甑中学校|上甑中学校]]が16人、[[薩摩川内市立海陽中学校|海陽中学校]]が18人、[[薩摩川内市立海星中学校|海星中学校]]が26人、里小学校が64人、中津小学校が41人、鹿島小学校が13人、手打小学校が52人、長浜小学校が59人である。甑島列島内に高校はなく、中学校卒業生の多くは本土に引っ越して本土の高校に進学する<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。[[高度成長期]]には、子どもの高校進学を機に一家揃って島外に移住する挙家離村も多くみられたが、1975年(昭和50年)以降には挙家離村はほとんどみられない<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。高度成長期の中学卒業生の就職先は、大阪府と兵庫県で6割を占めていた<ref name="過疎化の進行と近年の変化"/>。

=== 学校の統廃合 ===
2004年(平成16年)の合併後、薩摩川内市は大規模な小中学校の統廃合を進めた。上甑島の[[上甑町瀬上|瀬上]]には1903年(明治36年)に開校した浦内小学校があったが、2008年(平成20年)に[[上甑町中甑|中甑]]の中津小学校に統合され、106年(卒業生2,065人)の幕を閉じた。中甑島の[[上甑町平良|平良]]には1879年開校の平良小学校と平良中学校があったが、2001年(平成13年)には平良中学校が閉校となって上甑中学校に編入した。平良小学校の児童数は1950年(昭和25年)には226人を数えたが、2010年(平成22年)には7人となり、2011年(平成23年)に閉校となって中津小学校に統合された<ref name="教育基本方針">[http://www.satsumasendai.jp/www/contents/1297297422084/files/152-06-07.pdf 薩摩川内市立小・中学校の再編等に関する基本方針]薩摩川内市</ref>。現在、中甑島に住む児童生徒は橋を越えて上甑島の学校まで通っている。上甑島にある2つの中学校、里中学校と上甑中学校は、今後の生徒数の推移によっては統廃合が検討され、下甑島にある2つの中学校、海陽中学校と海星中学校も同様である<ref name="教育基本方針"/>。2012年(平成24年)には下甑島の鹿島中学校が休校となり、鹿島中学校に通っていた生徒は海星中学校に通うこととなった<ref name="教育基本方針"/>。鹿島中学校の学校再開や鹿島小学校の統廃合については、藺牟田瀬戸架橋完成後の状況変動などから判断される予定である<ref name="教育基本方針"/>。下甑島では2012年には青瀬小学校が長浜小学校に、子岳小学校が手打小学校に統合され、2013年には西山小学校が長浜小学校に統合された<ref name="教育基本方針"/>。

=== 山村留学制度 ===
薩摩川内市は下甑島で[[山村留学]]制度を実施している。鹿島小学校・鹿島中学校は1996年(平成8年)から「ウミネコ留学」を実施し、本土などから海村留学生(1年間)を年間10名程度受け入れている。留学生は里親の下で暮らし、長期休暇のみ実家に帰省していたが、近年では家族そろっての留学(移住)も増えているという。2007年度の鹿島小学校の全校生徒数は16人であり、このうち留学生は6人だった。愛称は下甑島が[[ウミネコ]]の繁殖南限地であることに由来する<ref name="鹿児島大百科辞典107頁"/>。西山小学校でも2000年(平成12年)から鹿島小中学校同様の「ナポレオン留学」を行なっていたが、近年は希望者がいなかったことから2011年に制度が廃止され、また西山小学校自体も2013年度に統廃合の対象となった<ref name="教育基本方針"/>。愛称は瀬々野浦集落北部にある奇岩「ナポレオン岩」に由来する。


== 文化 ==
== 文化 ==
2008年(平成20年)度から、甑島列島を高等教育機関の学外活動の場として提供する「こしきアイランドキャンパス事業」を進めている。2010年度には[[京都造形芸術大学]]、[[東京造形大学]]、[[鹿児島純心女子大学]]、[[鹿児島大学]]、[[熊本大学]]の5大学が文化交流・伝統食文化研究・化石発掘などを実施し、2011年度には熊本大学、[[宮崎大学]]、[[九州産業大学]]、鹿児島純心女子大学の4大学計6団体が、2012年度には熊本大学、[[九州情報大学]]、宮崎大学、[[鹿屋体育大学]]、[[鹿児島国際大学]]、九州産業大学の6大学が甑島列島で学外活動を行なった。
[[1977年]](昭和52年)に国の[[重要無形民俗文化財]]に指定されている「[[トシドン]]」が、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[無形文化遺産]]の候補に選ばれていた。その後、[[2009年]](平成21年)9月に開催された政府間委員会の決定により、無形文化遺産の代表一覧表へ正式に記載された。

鹿島村離島住民生活センターは国の登録有形文化財に指定されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。[[鹿島町藺牟田|鹿島町]]は中野姓が1/3、橋野姓が1/3、残りの1/3が小村姓などである<ref name="SHIMADAS1028頁">日本離島センター (1998)、1028頁</ref>。1949年(昭和24年)に下甑村から分村して以来、鹿島町は交通死亡事故ゼロを継続しており、2013年(平成25年)6月には日本記録が連続22,000日まで伸びた<ref name="SHIMADAS1028頁"/>。下甑町の歴史民俗資料館には、世界で一枚だけしかないビーダナシ([[フヨウ]]の織物)などが展示されている<ref name="SHIMADAS1029頁">日本離島センター (1998)、1029頁</ref><ref>[http://www.kagoshima-it.go.jp/pdf/shido_jirei/jirei_kagaku_21.pdf ビーダナシ(芙蓉布)の復元]鹿児島県工業技術センター</ref>。

=== 上甑島の内侍舞 ===
上甑島・中甑島の8集落には[[内侍舞]](ないしまい)が伝承されている<ref name="甑島地域離島振興計画"/>。中学生女子が舞妓となり、11月に里の八幡神社で行なわれる内侍舞は鹿児島県指定民俗文化財となっている<ref name="SHIMADAS1021頁">日本離島センター (1998)、1021頁</ref>。現在でも内侍舞が伝承されている地域は、鹿児島県では上甑島・中甑島と[[十島村]]([[トカラ列島]])だけとされている<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。地元では内侍舞という言い方はせず、「メシジョウ」「マチジョウ」などと呼んでいる<ref name="甑島の内侍舞とその周辺"/>。


=== 下甑島のトシドン ===
[[堀田善衛]]の『鬼無鬼島』のモデルとなったのが、下甑島である。また、下甑村(当時)の医師が漫画『[[Dr.コトー診療所]]』のモデルになり後にドラマ化もされたが、ロケ地は[[沖縄県]][[与那国島]]だった。
下甑島には秋田県の[[ナマハゲ]]に似た「[[トシドン]]」という伝統的な民俗行事がある<ref name="甑島振興だよりNo.12"/><ref name="島嶼大事典268頁"/>。大みそかの夜、地元の若者がトシドンという怪物に扮し、首なし馬に乗って家々を回る。子どもたちの素行や行儀を戒めて諭し、褒美として子どもに歳餅を与えて去ってゆく。[[シュロ]]の木の皮などで作った衣服をまとっており、[[ポリネシア]]の島々の祭礼を思わせる<ref name="日本の島100 199頁">山と渓谷社 (2006)、199頁</ref>。1977年(昭和52年)には国の[[重要無形民俗文化財]]の指定を受け、2009年(平成21年)には「甑島のトシドン」として[[国連教育科学文化機関]](UNESCO)の[[無形文化遺産]]に登録された<ref name="甑島振興だよりNo.12"/>。


=== 作品の舞台 ===
{{要出典範囲|島の人間の独自性が強い。|date=2013年9月}}
[[堀田善衛]]の『鬼無鬼島』のモデルは下甑島である。[[椋鳩十]]が書いた児童文学「孤島の野犬」は下甑島の野犬が主人公であり、手打にはこの作品に因んだ銅像が建てられている<ref>[http://satsumasendai.gr.jp/spotlist/%E5%AD%A4%E5%B3%B6%E3%81%AE%E9%87%8E%E7%8A%AC%E5%83%8F/ 孤島の野犬像]薩摩川内 観光物産サイト こころ</ref>。映画「[[釣りバカ日誌]]9」では下甑島がロケ地となった<ref name="鹿児島県観光サイト">[http://www.kagoshima-kankou.com/travel/2008/03/post-41.html 鹿島・下甑 甑島の旅]鹿児島県観光サイト</ref>。浜ちゃんの上司が結婚式を挙げたのは手打地区の民家であり、ラストシーンでは主人公ふたりが手打海岸でキス釣りをした。下甑島は[[森進一]]の母親の出身地であり、1999年(平成11年)には「[[おふくろさん]]」の歌碑が手打に建立された<ref>[http://www.jvcmusic.co.jp/mori/joho/bn.html 『おふくろさん』歌碑除幕式と記念コンサート行われる]森進一公式ウェブサイト</ref>。[[山田貴敏]]が描いた漫画「[[Dr.コトー診療所]]」の舞台である「古志木島」は下甑島がモデルであり<ref name="鹿児島県観光サイト"/>、30年間も離島医療に携わってきた手打診療所の瀬戸上健二郎医師が主人公のモデルだが、テレビドラマのロケは沖縄県の[[与那国島]]で行なわれた。下甑島の奇岩「ナポレオン岩」はDr.コトー診療所や[[ゆでたまご]]の「[[キン肉マン2世]]」などの漫画に登場する。


== 名産 ==
== 関連人物 ==
* [[梶原景季]] <ref name="SHIMADAS1023頁">日本離島センター (1998)、1023頁</ref> - 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。播磨を経て甑島に上陸したとされる。
各地域の民宿で、新鮮な魚介を味わうことができる。きびなご漁が盛んであることもあって、その刺し身や塩焼きは絶品である。また、他所では入手困難な「甑州」という焼酎も美味である。現地の酒屋には少数ながら置かれている。
* [[楠木正行]] <ref name="SHIMADAS1023頁"/> - 南北朝時代の武将。中甑で死没したとされる。
* [[町春草]] <ref name="SHIMADAS1031頁">日本離島センター (1998)、1031頁</ref> – 女流書家。1922年下甑村長浜生まれ。
* [[本田成親]] <ref name="SHIMADAS1021頁"/> - 数学者、文筆家。1942年神奈川県横浜市生まれ、里村育ち。
* [[斉藤きみ子]] <ref name="SHIMADAS1021頁"/> – 児童文学作家。1949年里村生まれ、大阪育ち。
* [[小倉一郎]] <ref name="SHIMADAS1031頁"/> – 俳優。1951年下甑村生まれ、東京都新宿区育ち。


== 伝承 ==
== ギャラリー ==
<gallery>
下甑島には、5月頃の深い霧の夜に山中から犬の鳴き声が聞こえてくる「犬の亡霊」(いんのもうれい)という怪異が伝わっている。これは、かつて狩りに行って命を落とした犬の霊が、そのまま山に残っているためといわれている<ref>{{Cite book|和書|author=[[柳田國男]]監修 民俗学研究所編|title=綜合日本民俗語彙|year=1955|publisher=[[平凡社]]|volume=第一巻|pages=132頁}}</ref>。
File:Kamikoshiki Island Suguchi Pond and Sato Village 2013-08.JPG|須口池と陸繋砂州(上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Nishinohama Beach 2013-08.JPG|西之浜海水浴場(上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Namako Pond 2013-08.JPG|なまこ池(上甑島/中甑)
File:Kamikoshiki Island Namako Pond Aerial photo.png|長目の浜の空中写真{{国土航空写真}}
File:Kamikoshiki Island Koshikijima-kan Hotel 2013-08.JPG|ホテル「甑島館」(上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Sato Branch Office 2013-08.JPG|薩摩川内市役所里支所]](上甑島/里)
File:Kamikoshiki Island Fureai Bus 2013-08A.JPG|甑ふれあいバス(上甑島)
File:Kibinago sashimi by jetalone in Kagoshima.jpg|名物であるキビナゴの刺身
</gallery>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注"/>
<references group="注"/>
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}


== 関連項目 ==
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Commonscat|Koshikijima Islands}}


== 参考文献 ==
* [[釣りバカ日誌]] - 映画『釣りバカ日誌9』のロケ地
; 書籍
* [[Dr.コトー診療所]] - 作中「古志木島」のモデル
* 『甑島調査報告』鹿児島縣農地部農業協同組合課、1949年
* [[おふくろさん]] - 下甑島に歌碑がある。
* 藤岡謙二郎編『離島の人文地理 – 鹿児島県甑島学術調査報告 - 』大明堂、1964年
* [[下甑島分屯基地]] - 航空自衛隊施設
* 『甑島・長島有形民俗資料調査報告書』鹿児島県明治百年記念館建設調査室、1970年
* 『研究報告No.182 甑島経済社会の現況と課題』九州経済調査協会、1978年
* 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年
* 田島康弘「甑島における過疎化と転出者の集団形成」『鹿児島の地域と歴史』鹿児島大学教育学部社会科教室、1983年
* 『島嶼大事典』日外アソシエーツ、1991年
* 菅田正昭編『日本の島事典』三交社、1995年
* 『日本の島ガイド SHIMADAS』日本離島センター、1998年
* 『地図帳 日本の島100』山と渓谷社、2006年
* 松原武実「甑島の内侍舞とその周辺」 吉川周平『京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究報告 民俗芸能における神楽の諸相』京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター、2009年
* 『離島統計年報 2011年版』日本離島センター(CD-ROM)
* 加藤庸ニ『原色日本島図鑑 – 日本の島443-有人島全収録-』新星出版社、2013年(改定第2版)

; 雑誌論文
* 田中史朗「離島における水産業を核とした地域発展モデル -鹿児島県甑島列島を事例として-」『鹿児島県立短期大学紀要 人文・社会科学篇』63巻、2012年、71-87頁
* 長嶋俊介「鹿児島島嶼の列島性 -連続的地域特性の現地確認(社会=生活環境・島嶼経営領域)-」『南太平洋海域調査研究報告』52巻、2011年、37-46頁
* 高橋さつき「『離島』里のUターンとIターン資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、59-62頁
* 三浦尚子「鹿の子百合の咲く島 : 里町における鹿の子百合栽培の変遷資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、54-58頁
* 久保尚子・沢井祐紀・鹿島薫「鹿児島県上甑島に分布する沿岸性汽水湖沼群の湖水環境」『汽水域研究』6巻、1999年、261-271頁
* 浮田典良「鹿児島県甑島における過疎化の進行と近年の変化」『関西学院大学 人文論究』43巻3号、1993年、59-71頁

; 映像資料
* 記録映画「甑島のトシドン」民俗文化映像研究所、1979年
* NHK特集名作100選「[http://www.youtube.com/watch?v=lGNX-CXGgoo NHK特集 不思議の島 湖沼群を潜る 東シナ海・甑島]」1984年9月2日放送

== 関連書籍 ==
* 柳田国男『日本昔話記録11 鹿児島県甑島昔話集』三省堂、1973年
* 荒木博之『昔話研究資料叢書5 甑島の昔話 – 鹿児島県薩摩郡上甑島・下甑島』三弥井書店、1975年
* 橋口実昭 写真集『甑島列島』南方新社、1998年


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Koshikijima Islands}}

* [http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/toppage/0000000000000/APM03000.html 薩摩川内市]
* [http://www.city.satsumasendai.lg.jp/www/toppage/0000000000000/APM03000.html 薩摩川内市]
* [http://www.koshikijima.net/index.html 甑島観光協会]
* [http://www.koshikijima.net/index.html 甑島観光協会]
* [http://www.pref.kagoshima.jp/pr/shima/gaiyo/koshiki/index.html かごしまの島々の紹介 甑島列島]鹿児島県公式ウェブサイト
* [http://www.nishiyama-chiku.com 西山地区コミュニティ協議会]
* [http://www.kashima-chiku.com 鹿島地区コミュニティ協議会]
* [http://www.koshiki-teuchi.com 手打地区コミュニティ協議会]
* [http://www.pref.kagoshima.jp/pr/shima/gaiyo/koshiki/index.html 鹿児島県公式サイト かごしまの島々の紹介 甑島列島]
* [http://imagic.qee.jp/sima4/kagosima/kosikijima.html 日本の島へ行こう 甑島列島]
* [http://imagic.qee.jp/sima4/kagosima/kosikijima.html 日本の島へ行こう 甑島列島]
* YouTube動画 [[NHK番組コレクション]]「[http://www.youtube.com/watch?v=lGNX-CXGgoo NHK特集 不思議の島 湖沼群を潜る 東シナ海・甑島]」1984年9月2日放送


[[Category:日本の島嶼群|こしきしまれつとう]]
[[Category:日本の島嶼群|こしきしまれつとう]]
[[Category:甑島列島|*]]
[[Category:甑島列島|*]]
[[Category:東シナ海|こしきしま]]
[[Category:東シナ海|こしきしま]]
{{Japan-geo-stub|こしきしまれつとう}}
{{coord|31|46|33.7|N|129|48|24.8|E|region:JP_type:isle|display=title}}

2013年10月1日 (火) 10:23時点における版

甑島列島の位置

甑島列島(こしきじまれっとう)は、東シナ海にあり、鹿児島県薩摩川内市に属する列島甑列島(こしきれっとう)ともいう。上甑島(かみこしきじま)、中甑島(なかこしきじま)、下甑島(しもこしきじま)の有人島3島と多数の小規模な無人島からなる[1]。中甑島北部にある「甑」(蒸籠)の形をした巨石を甑大明神として崇拝したことに由来し、かつては子敷島、古志岐島とも書いた[2][3]。列島全体では人口5,576人、面積117.56km2、海岸線延長183.3kmである[4]

地理

甑島列島の大字
各島の大字
里地域 上甑地域 鹿島地域 下甑地域
上甑島 中甑中野江石小島瀬上桑之浦
中甑島 平良
下甑島 藺牟田 手打片野浦瀬々野浦青瀬長浜

甑島列島は鹿児島県いちき串木野市の沖合約45kmにあり、列島全体の長さは38km、幅は10kmである。その隔絶性から、歴史と民俗の宝庫とされてきた[5]。かつての山脈の頂上部が海上に残ったとされ、リアス式海岸と起伏に富んだ地形がある[1]。北東から南西にかけて上甑島、中甑島、下甑島の有人島3島が並んでおり、それらに付随する小規模な無人島もある。中甑島は面積も人口も規模が小さく、上甑島と合わせて考えられることが多い。中甑島は集落名から平良島(たいらじま)または単に平良と呼ばれることもある[注 1][6][7][8]。面積は上甑島が44.14km2、中甑島が7.31km2、下甑島が66.12km2であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島の約4/5である[9]。鹿児島県の離島の面積は奄美大島屋久島種子島徳之島沖永良部島長島加計呂麻島、下甑島、喜界島、上甑島の順となり、下甑島の面積は山手線の内側とほぼ等しい。2010年(平成22年)の国勢調査による人口は上甑島が2,488人、中甑島が308人、下甑島が2,780人であり、上甑島と中甑島を合わせると下甑島にほぼ等しい。最高標高地点は上甑島が423mの遠目木山[10]、中甑島が294mの木の口山[11]、下甑島が604mの尾岳[12]であり、尾岳の尾根には航空自衛隊下甑島分屯基地がある。第9警戒隊の警戒管制レーダーが設置されており、2009年(平成21年)3月に大陸間弾道弾も追尾可能な最新鋭の警戒管制レーダー(J/FPS-5)への更新工事が完了した。

甑島列島は全体的に山肌が海にせまり、沖積平野の発達が極めて少ない[13]上甑島と中甑島は比較的緩やかな丘陵が広がるが、下甑島は400-500m台の山地が卓越し、特に西岸には切り立った断崖が点在する。上甑島は縦の変化に乏しい一方で、里集落の陸繋砂州(トンボロ)、3つの池と東シナ海とが砂州で区切られた長目の浜、奥地まで海が入り組んだリアス式海岸の浦内湾など、横の地形的な変化が豊かである。甑島列島の平均気温は18.5度と温暖であり、本土の同緯度地域(阿久根市)よりもやや気温が高い[14]。夏・秋には台風、冬には季節風の影響を強く受け[9]、台風の影響は列島の西海岸よりも東海岸のほうが著しい[14]。降水量は年2,500mmほどであり、本土(鹿児島市)よりもやや多い[14]

おもな島

有人島
  • 上甑島(かみこしきじま)
  • 中甑島(なかこしきじま)
  • 下甑島(しもこしきじま)
無人島
  • 筒島 (かせとう)
  • 野島
  • 犬島
  • 近島
  • 双子島
  • 沖の島
  • 弁慶島

歴史

古代・中世

2008年(平成20年)、下甑島鹿島町藺牟田(いむた)にある中生代白亜紀後期の地層から恐竜の歯や肋骨の化石が発見された[15]。詳細な分類は不明だが、3m以上の肉食恐竜のものとみられており、恐竜の化石が発見されたのは鹿児島県で初めてである。藺牟田にある地層からは翼竜ワニなど爬虫類の化石も発見されている[15]上甑島遺跡は、縄文土器が出土した甑島列島唯一の縄文式遺跡である[16]。上甑島の里遺跡、江石遺跡、桑之浦遺跡、下甑島の手打遺跡、片野浦遺跡は弥生式遺跡であり、弥生土器土師器須恵器などが出土している[16]

上甑島の桑之浦には神功皇后三韓征伐に関する伝説が残る[17]奈良時代には薩摩隼人族の一根拠地(甑島隼人)だったと推測される[17][2]平安時代初期に編纂された『続日本紀』には遣唐使船が甑島に停泊したことが記され、中期に編纂された『和名抄』には「甑島郡管管」、「甑島」という名前が登場する[17]。甑島列島の各地に平家の落人伝説が残っている[17]鎌倉時代中期から370年間、13代に渡って小川氏が統治を行ない[18][10]、この時代から行政単位が上下(上甑島・中甑島、下甑島)ふたつに区分された[17]。里には承久の乱で功績を挙げた小川季直が築城した亀城(かめじょう)があり、近隣の鶴城と合わせて鶴亀城と呼ばれている。1595年(文禄4年)、小川氏は本土の日置郡田布施(現南さつま市)に移封されて甑島の統治から離れた[19]

近世・近代

江戸時代には島津藩の直轄地となって地頭(領主)が派遣され、里・中甑・手打に地頭仮屋が置かれた[18]。藩政時代には下甑島東岸の金山海岸で銅・金・銀などの採掘が行なわれ[20]、薩摩藩の南蛮貿易の中継基地にもなった[21]。甑島列島は天草長崎と同じくキリシタン文化を受け入れた場所のひとつであり、1638年(寛永15年)には甑島列島に潜んでいた島原の乱の残党35人が処刑されて殉教した[22]。1780年代の天明の大飢饉の際には、下甑島の百姓が出水(現在の出水市)に、郷士が串良(現在の肝属郡串良町)に集団移住した[23]。江戸時代には薩摩藩が浄土真宗を禁じたため、1835年(天保6年)には下甑島の長浜村が焼き払われるという「天保の法難」が、1862年(文久2年)には下甑島全島の住民が取り調べられるという「文久の法難」が起こった[23]。1871年(明治4年)には鹿児島県に所属[3]。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、上甑島7村と中甑島1村が甑島郡上甑村(かみこしきむら)となり、役場は中甑に置かれた[18]。1891年(明治24年)には山地によって隔てられている里が上甑村から分離して里村(さとむら)となり、上甑島・中甑島はそれから1世紀以上も2村体制が続いた[18][19]。下甑島も6村が合併して下甑村(しもこしきそん)となったが、1949年(昭和24年)、やはり地理的に隔てられた藺牟田が分離して単独で鹿島村(かしまむら)となった[23]。下甑島の最高峰である尾岳北側にある分水嶺が2村の行政界となっている[24]。明治10年代には台風・飢饉・悪疫流行などがあり、上甑島からは種子島に33戸、本土の薩摩郡高江村(現薩摩川内市)に6戸が移住し[19]、下甑島からは395戸1732人が種子島に集団移住した[23]。1896年(明治29年)には甑島郡が薩摩郡に編入。1901年(明治34年)には上甑島に本土からの海底電信が到達し、九州商船によって串木野航路が開かれた[25]

現代

国勢調査が始まった1920年(大正9年)から1940年代まで甑島列島の人口は2万人強で推移し、1950年(昭和25年)には24,744人とピークに達した。1950年から1980年(昭和55年)の人口減少が著しく、いずれの集落でも1/2から1/3に減少しており、この期間中に1/4以下となった集落も存在する[26]奄美大島瀬戸内町宇検村と並んで、甑島列島は鹿児島県の離島の中で特に過疎化が著しい地域である[26]高度成長期における県外転出者は、昭和30年代初めは近隣の熊本県が多かったが、その後は約半数が近畿地方に転出しており、大阪府と兵庫県の2府県で45%弱を占めた[27]。1951年(昭和26年)に九州を襲ったルース台風では甑島列島も大きな被害を受け、里では護岸が900mに渡って破られたほか、500もの住居が潮水に呑まれた[28]

里村は上甑島の東側半分を占め、単独で村を構成する大字に人家が集中していた。上甑村は上甑島の西側半分と中甑島の全域を占め、役場がある中甑に加えて、中野江石小島瀬上桑之浦(いずれも上甑島)、平良(中甑島)の計7つの大字に人家が分散していた。鹿島村は下甑島の北側1/3を占め、大字藺牟田が単独で村を構成していた。下甑村は下甑島の南側2/3を占め、手打片野浦瀬々野浦青瀬長浜などの集落に人家が分散していた。甑島列島の4村は2004年(平成16年)に本土の川内市ほか4町と新設合併し、それぞれの町が薩摩川内市の大字となった。合併後は「従前の村名を町名とし、従前の大字名を冠したものをもって大字とし」たため、薩摩郡里村里が薩摩川内市里町里、薩摩郡下甑村手打が薩摩川内市下甑町手打などという表記をされている[18]

行政区画の変遷

明治22年以前 明治22年 明治23年-明治45年 大正1年-大正15年 昭和1年-昭和64年 平成1年-現在
薩摩郡[注 2] 里村 明治22年合併
上甑村
明治24年一部分離
里村
里村 里村 平成16年川内市ほかと合併
薩摩川内市
中甑村 明治24年一部分離
上甑村
上甑村 上甑村
中野村
江石村
小島村
瀬上村
桑之浦村
平良村
藺牟田村 明治22年合併
下甑村
下甑村 昭和24年一部分離
鹿島村
鹿島村
手打村 昭和24年一部分離
下甑村
下甑村
片野浦村
瀬々野浦村
青瀬村
長浜村

人口数の変遷

出典 : 国勢調査
ファイル:M10.png里地域 上甑地域 下甑地域 鹿島地域
いずれの自治体も、2004年に川内市などと合併して薩摩川内市の一部となった。
1920年(大正9年) ファイル:M50.pngファイル:M10.png 20,061人
1930年(昭和5年) ファイル:M50.pngファイル:M10.png 21,435人
1940年(昭和15年) ファイル:M50.png 20,815人
1950年(昭和25年) ファイル:M50.pngファイル:M10.pngファイル:M10.png 24,744人
1960年(昭和35年) ファイル:M50.pngファイル:M10.pngファイル:B01.png 20,496人
1970年(昭和45年) ファイル:M10.pngファイル:M10.pngファイル:M10.pngファイル:M10.png 11,750人
1980年(昭和55年) ファイル:M10.pngファイル:M10.pngファイル:M10.png 9,428人
1990年(平成2年) ファイル:M10.pngファイル:M10.png 6,268人
2000年(平成12年) ファイル:M10.pngファイル:M10.pngファイル:M10.pngファイル:B01.pngファイル:B01.png 5,860人
2010年(平成22年) ファイル:M10.pngファイル:B01.pngファイル:B01.pngファイル:B01.pngファイル:B01.png 5,576人

交通

列島外部との交通

フェリーニューこしき

交通の歴史

甑島列島は琉球諸島から天草長崎朝鮮半島日本海に向かう船の通り道にあり、琉球とのつながりが深い[22]。戦前までは鹿児島本土よりも天草(特に南端の牛深)や長崎などとのつながりの方が強い時代があった。1901年(明治34年)には九州商船が本土と甑島列島の間に航路を開き、長崎-天草(西と牛深)--手打を結んでいたが、1928年(昭和3年)にはこの航路が廃止され、串木野と甑島を結ぶ航路が開かれた[29]。1951年(昭和26年)には阿久根と甑島を結ぶ航路が2日に1便就航し、1952年(昭和27年)からは毎日就航に変更された[29]。地理学者の藤岡謙二郎らが調査した1964年(昭和39年)時点では、串木野港と中甑港を結ぶ航路には200トン船が、阿久根港と里港を結ぶ航路には75トン船が運航されていた[30]。いずれも一日一便であり、東岸伝いに下甑島の主要港まで航行していた。阿久根港・里港間の33kmを約2時間で結んでいたが、台風の前後には欠航が相次いだという。九州商船の他には、1956年(昭和31年)から保健船が週2便運航され、平良・中甑間には(はしけ)が一日数便運航されていた[29]。2002年(平成14年)までは串木野から長崎に大型フェリーが運行され、甑島列島-串木野-長崎は経済的なつながりが続いていた[22]

現在の航路

串木野-甑島列島

本土から甑島列島までの主要な交通手段は、甑島商船いちき串木野市串木野新港から運航している高速船とフェリーである。「高速船シーホーク」と「フェリーニューこしき」は、一日あたりそれぞれ往復2便が運航されており、高速船は上甑島の里港まで約50分、フェリーは約75分である。いずれも起点は串木野新港であり、終点は下甑島の長浜港であるが、便によって立ち寄り先が異なり、下甑島の鹿島港などに立ち寄る場合がある。2013年(平成25年)7月1日時点での自動車航送を含まない料金は、高速船が3,610円(串木野-長浜)、フェリーが2,330円(串木野-長浜)である。高速船とフェリー以外では、五色産業が貨物フェリーと高速チャーター船を運航している。

串木野新港とJR鹿児島本線串木野駅間には、船の発着時間に合わせたバスが運行されており、所要時間は約12分である。串木野駅から鹿児島駅までは在来線で約35分である。串木野新港と川内駅間にも船の発着時間に合わせた直行バスが運行されており、所要時間は約34分である。川内駅から博多駅までは九州新幹線で最速71分であり、川内駅から鹿児島空港まではバスで約70分である。串木野新港から鹿児島インターチェンジまでは自動車で約40分であり、九州縦貫自動車道南九州西回り自動車道などを経由する。

薩摩川内-甑島列島

老朽化した「高速船シーホーク」の代替船として「高速船甑島」が2014年(平成26年)春に就航予定である[31]新幹線800系電車「つばめ」など、九州地方の輸送機関のデザインを数多く手掛けている水戸岡鋭治がデザインを担当した[31]。「フェリーニューこしき」はこれまで通り串木野新港を発着するが、高速船の本土側寄港地は甑島列島が属する薩摩川内市川内港に移設される予定である。川内港と薩摩川内市街地はやや離れているため、JR鹿児島本線川内駅と川内港の間にシャトルバスが運行される予定である。

列島内部の交通

1950年(昭和25年)時点での陸上交通の大部分が徒歩であり、自転車でさえもほとんどみられなかった[32]。1961年(昭和36年)時点での陸上交通の主流は自転車であり、甑島列島全体で616台の自転車が存在したが、この頃にはまだ自動車はほとんどみられず、トラック・乗用車合わせて10数台があるのみだった[32]

現在では上甑島・下甑島のいずれでもレンタカー、タクシー、レンタサイクルが利用可能である。薩摩川内市は公用車として3台の電気自動車(EV)を甑島に導入している[33][34][35]。2013年(平成25年)8月には1人乗りEV「コムス」(トヨタ車体製、原動機付自転車扱い)を20台導入し、「甑島電気自動車レンタカー導入実証事業」として観光客へのEVの貸し出しも行なっている[33][34][35]

甑島コミュニティバス

上甑島と中甑島では「甑ふれあいバス」(里・上甑地域コミュニティバス)、下甑島では「甑かのこゆりバス」(鹿島・下甑地域コミュニティバス)という名称の定期路線バス(薩摩川内市甑島コミュニティバス)が南国交通によって運行されている[9]。基本的にどの路線も定期船の発車時刻に合わせたダイヤが組まれており、一日あたり4-7便が運行されている。

甑ふれあいバスは里線、浦内・桑之浦線、平良線、江石線の4路線に分かれており、すべての路線が中甑にある南国交通の営業所を始発としている。里線は中甑- 中野-を結び、浦内・桑之浦線は中甑-小島-瀬上- 桑之浦を結び、平良線は中甑-平良を結び、江石線は中甑-江石を結んでいる。江石線の上り便(中甑行き)はデマンド運行となり、事前の予約が必要である。江石線の下り便(江石行き)は条件付き運行となり、中甑港で乗客がいる場合のみ江石まで運行する。

甑かのこゆりバスは手打・長浜線、手打・片野浦線、長浜・瀬々野浦線、長浜・鹿島線の4路線に分かれており、2路線ずつが長浜港と手打港をターミナルとしている。手打・長浜線は手打-青瀬-長浜を結び、手打・片野浦線は手打-片野浦を結び、長浜・瀬々野浦線は長浜-瀬々野浦を結び、長浜・鹿島線は長浜-藺牟田を結んでいる。手打・片野浦線の上り便(手打行き)はデマンド運行となり、事前の予約が必要である。手打・片野浦線の下り便(片野浦行き)は条件付き運行となり、手打トンネルで乗客がいる場合のみ片野浦まで運行する。

列島内の架橋

上甑島の南には無人島の平良島を挟んで中甑島があり、1994年(平成6年)に開通した甑大明神橋(上甑島-平良島)と鹿の子大橋(平良島-中甑島)の2本の橋が架かっている。中甑島と下甑島は最狭部で1.3kmほどであり、2006年(平成18年)から藺牟田(いむた)瀬戸架橋事業が進行中である[15]。中甑島の南側半分には人家がなく、車が通行可能な道路もないが、この事業では中甑島の平良から下甑島の藺牟田まで自動車道路を整備し、海峡を1,533mのPC連続橋桁橋でつなぐ。上甑島の里港と下甑島の長浜港は一日2往復のフェリーで約115分かかっているが、24時間通行可能な藺牟田瀬戸架橋が完成すると自動車で約50分に短縮されるという。中央部の橋梁の中央径165mは、PC連続橋桁橋としては日本国内最大級である。総事業費は220億円であり、完成予定は2017年(平成29年)である。

平良島と中甑島、中甑島と下甑島は海で隔てられてはいるが、前者の間には沖の串と呼ばれる浅瀬があり、また後者の間にも沖の瀬上やヘタノ瀬上などの浅瀬があるため、かつては上甑島から下甑島まで一続きの島であったと考えられている[36]。甑大明神橋・鹿の子大橋の架橋前も、干潮時には上甑島と平良島、平良島と中甑島が陸続きになったという[11]。1984年(昭和59年)に芦浜トンネルが開通すると陸路で旧鹿島村と旧下甑村の往来が可能となり、両地域の交流が活発化した。2011年(平成23年)には長浜青瀬手打をトンネルなどで結ぶ手打バイパスが開通し、安全性や利便性が大幅に向上した。

観光遊覧船

水中展望船「きんしゅう」、観光船「かのこ」、観光船「おとひめ」の3つの観光遊覧船が運航されている。「きんしゅう」は上甑島の里港を出港し、里集落沖合の海中を泳ぐ魚を水中から展望する。沖合には出ずに引き返して里港に戻る。

2011年に運航を開始した「かのこ」は西海岸コースと東海岸コースがあり、いずれも上甑島の中甑港を出港する。西海岸コースは甑大明神橋をくぐって島の東岸に出た後、下甑島の西岸に沿って南下し、鹿島断崖、山から海に滝が流れ落ちる内川内海岸、海食崖が垂直にそびえ立つコシ瀬、数百トンの巨石が崖に腰かけている壁立断崖、ナポレオンの横顔に似た奇石ナポレオン岩などを間近に見る。ナポレオン岩を過ぎてから180度向きを変えてルートを引き返し、中甑島と下甑島の海峡を東進して中甑島の東岸に出て、北上して中甑港に着く。東海岸コースは中甑港を出港して南下し、中甑島東南端にある小島(弁慶島)との間をすり抜けて下甑島の東岸を進む。下甑島の地峡部付近で引き返し、来たルートをそのまま引き返して中甑港に着く。

「おとひめ」にも西海岸コースと東海岸コースがあり、いずれも下甑島の手打港を出港する。西海岸コースは下甑島の南端を時計回りに回って西岸に向かい、ローソク岩、鷹の巣、ナポレオン岩、壁立、コシ瀬などを間近に見る。下甑島中央部の金山海岸を過ぎたあたりで180度向きを変え、北ルートを引き返して手打港に着く。東海岸コースは手打港から下甑島の東岸を北上し、青瀬集落や長浜集落に接近した後、下甑島中央部の尾山の鼻を過ぎたあたりで180度向きを変えて引き返す。

自然・地形・地質

甑島列島には約8000万年前の白亜紀の地層が残っている。日本国内では初めてケラトプスの化石が発見され、アジアを見渡しても貴重な発見とされている。1981年(昭和56年)には甑島列島が甑島県立自然公園に指定され[37]、2009年(平成21年)には下甑島の鹿島断崖が日本の地質百選に選出された[9][38]。中甑島北部には巨大な正断層である鹿の子断層があり、北西-南東方向に発達した断層が露頭している[39]。海岸にはウミガメが上陸する。甑島列島は熱帯性の木生シダであるヘゴの自生北限地のひとつであり、カラスバトの自生地とともに1952年(昭和27年)に国指定天然記念物に指定された[10][9][注 3]

カノコユリの自生地

甑島列島に自生するカノコユリ

薩摩川内市の市花はカノコユリであり、甑島列島はカノコユリの日本唯一の自生地とされている[1]。下甑島の百合高原などで夏場に薄紅色の花を咲かせるが、本来、湿気に弱いはずのカノコユリがなぜ高温多湿の甑島列島に自生するのかは解明されていない[1]

天明の飢饉の際、島民はカノコユリの鱗茎を食糧とした[1]江戸時代にはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが球根を日本から持ち出してヨーロッパで知られるようになり、明治時代には煮て乾かした球根が菓子原料として中国に輸出された[1]大正時代には球根がアメリカに輸出され、クリスマス用の生花に用いられた[1]。1929年(昭和4年)が球根生産のピークのひとつであり、野掘り(野生)と畑掘りが半分ずつで67万球・39万円の売り上げがあった[7]太平洋戦争後には海外で観賞用花としての需要が高まり、1964年(昭和39年)をピークとして甑島列島で栽培された球根が高値で輸出された[1]。干した甘藷の相場が41kg1000円だった時代に、カノコユリは1kg100円の高値で取引されたという[1]高度成長期には良質なユリを生み出すための品種改良が行なわれたが、1969年(昭和44年)以降には海外での需要が減少。その後は日本国内中心に出荷していたが、1980年代には一般ユリ・系統ユリ(品種改良した球根)ともに国内向けの出荷を終了し[1]、現在では鹿の子百合生産振興協議会が細々と出荷しているのみである[1]

里集落の陸繋砂州

里集落の陸繋砂州国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

上甑島北端にある遠見山はかつて独立した島だったが、流砂によって上甑島本島と陸続きとなり、沿岸流と波の作用で海底の砂礫が水面上に現れたのが陸繋砂州(トンボロ)である[10]。その上に形成された里集落は、陸繋砂州上にある集落としては日本国内最大規模であり[40]函館(北海道)や串本(和歌山県)と並んで日本三大トンボロに数えられることもある[41]。砂州の全長は約1,400m、全幅は最狭部で250m、標高2.3m[42]であり、半島のように突き出た遠見山と島の南側をつないでいる[43]。この砂州は10cm×5cmほどの礫で構成されており、一般的な砂丘や砂嘴にみられる細砂礫が少ないが、西岸は西之浜海水浴場となっている[44]。先史時代の遺跡や藩政時代の士族居住地は山麓に形成され、真水に恵まれない沿岸部には被支配者層が居住した[44]

下甑島の手打でも、手打湾と手打港の間に小規模な陸繋砂州が形成されている[45]。1889年(明治22年)や1951年(昭和26年)(ルース台風)には砂州が切断されたといい、現在は防潮堤が張り巡らされているが、高潮時にはしばしば手打湾から手打港に水があふれる[45]

長目の浜(甑四湖)

長目の浜の湖沼群

上甑島には長目の浜と呼ばれる、大小3つの池が砂州によって海と隔てられた景勝地がある[19]。北からなまこ池(海鼠池)、貝池、鍬崎(かざき)池であり、似たような地形で隣接しながらも、それぞれ塩分濃度や成層状態が異なっており[46]、1934年(昭和9年)の調査ではなまこ池の塩分濃度は25.25%、貝池は17.2%、鍬崎池は淡水、須口池は33.3%だった[47]。また、直接海と通じているわけではなく、礫洲を通じて湖水・海水の交換が行なわれるため、水位の変化は日本の他の汽水湖沼と比べて極めて小さい[46]。水位の変化はなまこ池で最大23cm、貝池で最大4cmであり、水位変化の周期は2湖で同じである[46]。なまこ池と貝池は細い水路でつながっているが、貝池の方がなまこ池よりも水位が高いため、常に貝池からなまこ池に池水が流出している[46]。これらの池は数千年前まで海岸線が入り組んだ入江だったが、崖の崩壊で崩れ落ちた岩石が堆積し、海面下で細長い洲となった。浜は10cm×5cm×厚さ3-4cm程度の礫が積み重なった礫浜であり[47]、やがて海面が降下して砂州が地上に現れ、現在の長目の浜が形成された。第2代薩摩藩主の島津光久が景観を「眺めの浜」と称えたことが名称の由来である[10][19]

なまこ池は最大水深24mの汽水池であり、湖水面は海の干満に3-4時間遅れて上下する。薩摩藩の時代に大村湾からの搬送中に入れられたとされる海鼠が名称の由来であり、現在も繁殖している。湖岸にはアコヤガイが密生しており、ボラキスシマイサキなどの魚介類が生息する。貝池は最大水深11mの汽水池である。上部は流れ込んだ雨水で低濃度の塩水となり、下部は春から夏に侵入した海水が停滞して高濃度の塩水となっている(部分循環湖)。下部の海水層は多量の硫化水素を含んでおり、特別な微生物しか生息できない。水深約5mにある上部と下部の境目には、バルト海沿岸の湖と貝池のみでしか確認されていないクロマチウムという光合成硫黄細菌が濃密に分布し[48]、20cmの厚さの赤紫色の帯が広がっている[46][38][49]。長目の浜からやや東側に離れて、ウナギやボラが生息している須口池があり、上述の3つの池と合わせて甑四湖と呼ばれる。甑四湖はいずれも、離島にある湖沼としては規模が大きく、面積0.56km2のなまこ池は日本第3位、面積0.16km2の貝池と鍬崎池は5位、面積0.10kmの須口池は8位である[50]

武家屋敷跡の玉石垣

下甑島の手打と上甑島の里には、小川氏の統治時代の名残である武家屋敷通りがあり、大きさの等しい玉石垣(丸石の石垣)が特徴である[10]。手打の武家屋敷通りには御仮屋門や異国船を取り締まった津口番所跡などがある。2009年には里町にある武家屋敷跡の玉石垣が、日本の有人離島にある優れた景観を選定する「島の宝100景」(国土交通省)に選出された[15]。「玉石の石垣が残る『たましいの島』」という短評が付いている。

経済

2010年(平成22年)の国勢調査による甑島列島の産業分類別就業者数は、第一次産業が12.3%、第二次産業が19.4%、第三次産業が68.1%であり、第一次産業の内訳は農業が1.3%、林業が0%、水産業が10.9%である[9]。就業者数・総生産額ともに、平均に比べて第一次産業(特に水産業)が大きな割合を占め、甑島列島の基幹産業は農林水産業である[9]

水産業

甑島列島周辺海域はアジサバブリなどの回遊魚に加え、キビナゴバショウカジキアワビなどの水産資源が豊富で、鹿児島県内有数の漁場となっている[9]江戸時代にはイワシカツオ漁が盛んであり、薩摩干鰯の主要産地だったほか[51]、甑島産のカツオは土佐産に次ぐ質の高さとされた[19]明治時代にはカツオ漁業が行き詰ったことからサンゴ採取が好況に沸いたが、すぐに採りつくして大正時代には急速に衰えた[52]。大正時代にはブリの定置網漁業が盛んとなり、戦後には巾着網漁業が活況を呈した[53]。甑島漁協の水揚げ量の45%を刺網漁業で漁獲したキビナゴが占め、鹿児島県最古の歴史を持つ定置網漁業や、カンパチマグロの養殖漁業も行なっている[54]。キビナゴは一年中漁獲されるが、5月から7月の夏期がキビナゴ漁の最盛期であり、が漁獲の中心となる[54]。キビナゴは冷凍加工品としても出荷されているが、多くは鮮魚として、いちき串木野市または阿久根市の卸売市場を経由して主に鹿児島市内に出荷されている[54]

甑島は九州で唯一海洋深層水が取水されている場所であり、水深375mからくみ上げた海水で塩やにがりなどの製造が行なわれている[9]。上甑島の浦内湾はリアス式海岸をなし、1950年(昭和25年)から真珠の養殖を行なっている[55]。母貝には長崎県の大村湾から購入したアコヤガイを使用している[56]

農林業

急峻な地形のため耕地は少なく点在しているが、水稲サツマイモ(主に焼酎用)、ソラマメパッションフルーツなどが生産されており、肉用牛が放牧されている[9]。森林面積における天然広葉樹林の割合が84%を占め、155ヘクタールの椿林を含む[9]。特用林産物としてはシイタケ、椿の実、木炭などが生産されている[9]

観光業

2009年(平成21年)の上甑島への観光客は約21,400人、中甑島への観光客は約1,700人、下甑島への観光客は約14,100人であり、観光客は上甑島がもっとも多い[4]。全体の観光客数は約37,200人であり、うち列島内での宿泊者数は約34,600人と93%を占める[4]。2010年の甑島列島全体への入込客数は44,870人であり、薩摩川内市全体の約2%程度である[54]。薩摩川内市全体の入込客数は右肩上がりであるが、甑島列島への入込客数は年によってばらつきがあり、2006年(平成18年)は31,528人、2008年は55,224人だった[54]。列島内にはキャンプ場、海水浴場、ダイビング場などの観光施設が整備されており、その他にも甑大明神マラソン大会、こしき島アクアスロン大会、甑島イカ釣り大会、竜宮文化フェスタなどのイベントが開催されている[9]。里にある甑島風力発電所は観光名所のひとつとなっており、1990年(平成2年)に日本で初めて実用化された風力発電所である[19][57]

教育

里小中学校
いずれも薩摩川内市立
区分 所在島 所在大字 学校名 開校/閉校年
現存する学校 中学校 上甑島 里中学校 1947年開校
中甑 上甑中学校 1947年開校
下甑島 手打 海陽中学校
長浜 海星中学校
小学校 上甑島 里小学校 1882年開校
中甑 中津小学校 1877年開校
下甑島 鹿島 鹿島小学校 1880年開校
手打 手打小学校 1874年開校
長浜 長浜小学校 1880年開校
閉校した学校 中学校 下甑島 鹿島 鹿島中学校 2012年3月末閉校
小学校 上甑島 瀬上 浦内小学校 1903年開校、2008年3月末閉校
中甑島 平良 平良小学校 1879年開校、2011年3月末閉校
下甑島 瀬々野浦 西山小学校 1879年開校、2013年3月末閉校
青瀬 青瀬小学校 1886年開校、2012年3月末閉校
片野浦 子岳小学校 1886年開校、2012年3月末閉校

2013年(平成25年)時点で甑島列島には薩摩川内市立中学校が4校、市立小学校が5校所在するが、いずれの学校も児童生徒数不足に悩まされている。2013年5月1日時点の各小中学校の児童生徒数は、里中学校が17人、上甑中学校が16人、海陽中学校が18人、海星中学校が26人、里小学校が64人、中津小学校が41人、鹿島小学校が13人、手打小学校が52人、長浜小学校が59人である。甑島列島内に高校はなく、中学校卒業生の多くは本土に引っ越して本土の高校に進学する[6]高度成長期には、子どもの高校進学を機に一家揃って島外に移住する挙家離村も多くみられたが、1975年(昭和50年)以降には挙家離村はほとんどみられない[6]。高度成長期の中学卒業生の就職先は、大阪府と兵庫県で6割を占めていた[6]

学校の統廃合

2004年(平成16年)の合併後、薩摩川内市は大規模な小中学校の統廃合を進めた。上甑島の瀬上には1903年(明治36年)に開校した浦内小学校があったが、2008年(平成20年)に中甑の中津小学校に統合され、106年(卒業生2,065人)の幕を閉じた。中甑島の平良には1879年開校の平良小学校と平良中学校があったが、2001年(平成13年)には平良中学校が閉校となって上甑中学校に編入した。平良小学校の児童数は1950年(昭和25年)には226人を数えたが、2010年(平成22年)には7人となり、2011年(平成23年)に閉校となって中津小学校に統合された[58]。現在、中甑島に住む児童生徒は橋を越えて上甑島の学校まで通っている。上甑島にある2つの中学校、里中学校と上甑中学校は、今後の生徒数の推移によっては統廃合が検討され、下甑島にある2つの中学校、海陽中学校と海星中学校も同様である[58]。2012年(平成24年)には下甑島の鹿島中学校が休校となり、鹿島中学校に通っていた生徒は海星中学校に通うこととなった[58]。鹿島中学校の学校再開や鹿島小学校の統廃合については、藺牟田瀬戸架橋完成後の状況変動などから判断される予定である[58]。下甑島では2012年には青瀬小学校が長浜小学校に、子岳小学校が手打小学校に統合され、2013年には西山小学校が長浜小学校に統合された[58]

山村留学制度

薩摩川内市は下甑島で山村留学制度を実施している。鹿島小学校・鹿島中学校は1996年(平成8年)から「ウミネコ留学」を実施し、本土などから海村留学生(1年間)を年間10名程度受け入れている。留学生は里親の下で暮らし、長期休暇のみ実家に帰省していたが、近年では家族そろっての留学(移住)も増えているという。2007年度の鹿島小学校の全校生徒数は16人であり、このうち留学生は6人だった。愛称は下甑島がウミネコの繁殖南限地であることに由来する[55]。西山小学校でも2000年(平成12年)から鹿島小中学校同様の「ナポレオン留学」を行なっていたが、近年は希望者がいなかったことから2011年に制度が廃止され、また西山小学校自体も2013年度に統廃合の対象となった[58]。愛称は瀬々野浦集落北部にある奇岩「ナポレオン岩」に由来する。

文化

2008年(平成20年)度から、甑島列島を高等教育機関の学外活動の場として提供する「こしきアイランドキャンパス事業」を進めている。2010年度には京都造形芸術大学東京造形大学鹿児島純心女子大学鹿児島大学熊本大学の5大学が文化交流・伝統食文化研究・化石発掘などを実施し、2011年度には熊本大学、宮崎大学九州産業大学、鹿児島純心女子大学の4大学計6団体が、2012年度には熊本大学、九州情報大学、宮崎大学、鹿屋体育大学鹿児島国際大学、九州産業大学の6大学が甑島列島で学外活動を行なった。

鹿島村離島住民生活センターは国の登録有形文化財に指定されている[9]鹿島町は中野姓が1/3、橋野姓が1/3、残りの1/3が小村姓などである[59]。1949年(昭和24年)に下甑村から分村して以来、鹿島町は交通死亡事故ゼロを継続しており、2013年(平成25年)6月には日本記録が連続22,000日まで伸びた[59]。下甑町の歴史民俗資料館には、世界で一枚だけしかないビーダナシ(フヨウの織物)などが展示されている[60][61]

上甑島の内侍舞

上甑島・中甑島の8集落には内侍舞(ないしまい)が伝承されている[9]。中学生女子が舞妓となり、11月に里の八幡神社で行なわれる内侍舞は鹿児島県指定民俗文化財となっている[62]。現在でも内侍舞が伝承されている地域は、鹿児島県では上甑島・中甑島と十島村トカラ列島)だけとされている[18]。地元では内侍舞という言い方はせず、「メシジョウ」「マチジョウ」などと呼んでいる[18]

下甑島のトシドン

下甑島には秋田県のナマハゲに似た「トシドン」という伝統的な民俗行事がある[15][12]。大みそかの夜、地元の若者がトシドンという怪物に扮し、首なし馬に乗って家々を回る。子どもたちの素行や行儀を戒めて諭し、褒美として子どもに歳餅を与えて去ってゆく。シュロの木の皮などで作った衣服をまとっており、ポリネシアの島々の祭礼を思わせる[63]。1977年(昭和52年)には国の重要無形民俗文化財の指定を受け、2009年(平成21年)には「甑島のトシドン」として国連教育科学文化機関(UNESCO)の無形文化遺産に登録された[15]

作品の舞台

堀田善衛の『鬼無鬼島』のモデルは下甑島である。椋鳩十が書いた児童文学「孤島の野犬」は下甑島の野犬が主人公であり、手打にはこの作品に因んだ銅像が建てられている[64]。映画「釣りバカ日誌9」では下甑島がロケ地となった[65]。浜ちゃんの上司が結婚式を挙げたのは手打地区の民家であり、ラストシーンでは主人公ふたりが手打海岸でキス釣りをした。下甑島は森進一の母親の出身地であり、1999年(平成11年)には「おふくろさん」の歌碑が手打に建立された[66]山田貴敏が描いた漫画「Dr.コトー診療所」の舞台である「古志木島」は下甑島がモデルであり[65]、30年間も離島医療に携わってきた手打診療所の瀬戸上健二郎医師が主人公のモデルだが、テレビドラマのロケは沖縄県の与那国島で行なわれた。下甑島の奇岩「ナポレオン岩」はDr.コトー診療所やゆでたまごの「キン肉マン2世」などの漫画に登場する。

関連人物

  • 梶原景季 [67] - 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。播磨を経て甑島に上陸したとされる。
  • 楠木正行 [67] - 南北朝時代の武将。中甑で死没したとされる。
  • 町春草 [68] – 女流書家。1922年下甑村長浜生まれ。
  • 本田成親 [62] - 数学者、文筆家。1942年神奈川県横浜市生まれ、里村育ち。
  • 斉藤きみ子 [62] – 児童文学作家。1949年里村生まれ、大阪育ち。
  • 小倉一郎 [68] – 俳優。1951年下甑村生まれ、東京都新宿区育ち。

ギャラリー

脚注

注釈

  1. ^ 1964年発行の『離島の人文地理』では平良島と表記している。
  2. ^ 明治29年以前は甑島郡
  3. ^ 『自然紀行 日本の天然記念物』講談社、308頁によると、ヘゴの自生北限地は東京都八丈町八丈島)、長崎県五島市福江島、鹿児島県肝属郡南大隅町肝付町大隅半島)、川辺郡南さつま市薩摩半島)、宮崎県日南市に加えて甑島列島である。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 三浦 (2007)
  2. ^ a b 日外アソシエーツ (1991)、221頁
  3. ^ a b 菅田正昭編(1995)、172頁
  4. ^ a b c 日本離島センター (2011)
  5. ^ 高橋 (2007)
  6. ^ a b c d 浮田 (1993)
  7. ^ a b 菊池立身「甑島の自然 -園芸植物と山草・野草」『京都園芸 第84集』京都園芸倶楽部、1989年、69-72頁
  8. ^ 菅田正昭編(1995)、173頁
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 甑島地域離島振興計画鹿児島県
  10. ^ a b c d e f 日外アソシエーツ (1991)、161頁
  11. ^ a b 日外アソシエーツ (1991)、361頁
  12. ^ a b 日外アソシエーツ (1991)、268頁
  13. ^ 藤岡 (1964) 10頁
  14. ^ a b c 藤岡 (1964) 6-7頁
  15. ^ a b c d e f 「甑島振興だよりNo.12」薩摩川内市、2010年3月
  16. ^ a b 藤岡 (1964) 55頁
  17. ^ a b c d e 藤岡 (1964) 3頁
  18. ^ a b c d e f g 吉川 (2009)、79-93頁
  19. ^ a b c d e f g 菅田正昭編(1995)、172-173頁
  20. ^ 山と渓谷社 (2006)、178-179頁
  21. ^ 加藤 (2013)、306頁
  22. ^ a b c 長嶋 (2011)
  23. ^ a b c d 菅田正昭編(1995)、173-174頁
  24. ^ 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、224頁
  25. ^ 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、255頁
  26. ^ a b 鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 134頁
  27. ^ 鹿児島大学教育学部社会科教室 (1983) 126頁
  28. ^ 藤岡 (1964) 37頁
  29. ^ a b c 藤岡 (1964) 154頁
  30. ^ 藤岡 (1964) 2頁
  31. ^ a b 名称は「高速船 甑島」 14年春就航の川内甑島航路  47news、2013年1月13日
  32. ^ a b 藤岡 (1964) 153頁
  33. ^ a b 甑島で8月から導入 小型電気自動車を公開 薩摩川内市 373news.com、2013年7月23日
  34. ^ a b 薩摩川内市「EV導入実証事業」を甑島(こしきしま)で開始 日本ユニシス、2013年8月1日
  35. ^ a b 甑島でEVレンタカー実証 日本ユニシスと鹿児島県薩摩川内市 Sankei Biz、2013年8月5日
  36. ^ 藤岡(1964) 1頁
  37. ^ 甑島県立自然公園鹿児島県
  38. ^ a b 「Number 81 甑島」全国地質調査業協会連合会『日本列島ジオサイト地質百選Ⅱ』オーム社、162-163頁
  39. ^ 「No.016 甑島の鹿の子断層」日本地質学会構造地質部会『日本の地質構造100選』朝倉書店、26-27頁
  40. ^ 加藤庸ニ『ニッポン南の島大図鑑』阪急コミュニケーションズ、24-25頁
  41. ^ 『かごしま よかとこ旅』トライ社、2010年、219頁
  42. ^ 薩摩川内市里町(旧薩摩郡里村)甑島観光協会
  43. ^ 藤岡 (1964) 、24頁
  44. ^ a b 藤岡 (1964) 、25頁
  45. ^ a b 藤岡 (1964) 29頁
  46. ^ a b c d e 久保ほか (1999)
  47. ^ a b 藤岡 (1964) 27頁
  48. ^ 日本離島センター (1998)、1022頁
  49. ^ 鹿児島県薩摩郡上甑村海鼠池、貝池、鍬崎池信州大学理学部物質循環学科環境地球化学研究室
  50. ^ 日本離島センター (1998)、553頁
  51. ^ 藤岡 (1964) 178頁
  52. ^ 藤岡 (1964) 179頁
  53. ^ 藤岡 (1964) 179-180頁
  54. ^ a b c d e 田中 (2012)
  55. ^ a b 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室 (1981)、107頁
  56. ^ 藤岡 (1964) 185頁
  57. ^ 日本離島センター (1998)、1020頁
  58. ^ a b c d e f 薩摩川内市立小・中学校の再編等に関する基本方針薩摩川内市
  59. ^ a b 日本離島センター (1998)、1028頁
  60. ^ 日本離島センター (1998)、1029頁
  61. ^ ビーダナシ(芙蓉布)の復元鹿児島県工業技術センター
  62. ^ a b c 日本離島センター (1998)、1021頁
  63. ^ 山と渓谷社 (2006)、199頁
  64. ^ 孤島の野犬像薩摩川内 観光物産サイト こころ
  65. ^ a b 鹿島・下甑 甑島の旅鹿児島県観光サイト
  66. ^ 『おふくろさん』歌碑除幕式と記念コンサート行われる森進一公式ウェブサイト
  67. ^ a b 日本離島センター (1998)、1023頁
  68. ^ a b 日本離島センター (1998)、1031頁

参考文献

書籍
  • 『甑島調査報告』鹿児島縣農地部農業協同組合課、1949年
  • 藤岡謙二郎編『離島の人文地理 – 鹿児島県甑島学術調査報告 - 』大明堂、1964年
  • 『甑島・長島有形民俗資料調査報告書』鹿児島県明治百年記念館建設調査室、1970年
  • 『研究報告No.182 甑島経済社会の現況と課題』九州経済調査協会、1978年
  • 南日本新聞社鹿児島大百科辞典編纂室『鹿児島大百科事典』南日本新聞社、1981年
  • 田島康弘「甑島における過疎化と転出者の集団形成」『鹿児島の地域と歴史』鹿児島大学教育学部社会科教室、1983年
  • 『島嶼大事典』日外アソシエーツ、1991年
  • 菅田正昭編『日本の島事典』三交社、1995年
  • 『日本の島ガイド SHIMADAS』日本離島センター、1998年
  • 『地図帳 日本の島100』山と渓谷社、2006年
  • 松原武実「甑島の内侍舞とその周辺」 吉川周平『京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター研究報告 民俗芸能における神楽の諸相』京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター、2009年
  • 『離島統計年報 2011年版』日本離島センター(CD-ROM)
  • 加藤庸ニ『原色日本島図鑑 – 日本の島443-有人島全収録-』新星出版社、2013年(改定第2版)
雑誌論文
  • 田中史朗「離島における水産業を核とした地域発展モデル -鹿児島県甑島列島を事例として-」『鹿児島県立短期大学紀要 人文・社会科学篇』63巻、2012年、71-87頁
  • 長嶋俊介「鹿児島島嶼の列島性 -連続的地域特性の現地確認(社会=生活環境・島嶼経営領域)-」『南太平洋海域調査研究報告』52巻、2011年、37-46頁
  • 高橋さつき「『離島』里のUターンとIターン資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、59-62頁
  • 三浦尚子「鹿の子百合の咲く島 : 里町における鹿の子百合栽培の変遷資料」『お茶の水地理』47巻、2007年、54-58頁
  • 久保尚子・沢井祐紀・鹿島薫「鹿児島県上甑島に分布する沿岸性汽水湖沼群の湖水環境」『汽水域研究』6巻、1999年、261-271頁
  • 浮田典良「鹿児島県甑島における過疎化の進行と近年の変化」『関西学院大学 人文論究』43巻3号、1993年、59-71頁
映像資料

関連書籍

  • 柳田国男『日本昔話記録11 鹿児島県甑島昔話集』三省堂、1973年
  • 荒木博之『昔話研究資料叢書5 甑島の昔話 – 鹿児島県薩摩郡上甑島・下甑島』三弥井書店、1975年
  • 橋口実昭 写真集『甑島列島』南方新社、1998年

外部リンク