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この法律により、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]の権限が縮小され、[[庶民院]]の優越が明確になった。 |
この法律により、[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]の権限が縮小され、[[庶民院]]の優越が明確になった。 |
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== 議会法成立の経緯 == |
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現在の規定では、金銭法案(歳入や歳出を決める法案)は庶民院が可決すれば1ヶ月後に貴族院の賛否にかかわらず成立させることができる。それ以外の法案は庶民院で2[[会期]]連続で可決され、その間隔が1年以上あった場合は貴族院が反対しても成立する(イギリス議会の会期は1年間である)。 |
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=== 保守党の貴族院での反対闘争 === |
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[[File:Gws balfour 02.jpg|180px|thumb|[[保守党 (イギリス)|保守党]]党首[[アーサー・バルフォア]]<br/><small>保守党が半永久的に多数を占める[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]を使って反政府闘争を行った。</small>]] |
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[[1905年]]12月に成立した[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]内閣は、[[1906年]]1月の[[1906年イギリス総選挙|解散総選挙]]に大勝し、庶民院多数派を得たが、これに対して[[保守党 (イギリス)#党首一覧|保守党党首]]・{{仮リンク|保守党庶民院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Commons 1834–1922}}[[アーサー・バルフォア]]と{{仮リンク|保守党貴族院院内総務|en|Leaders of the Conservative Party#Leaders in the House of Lords 1834–present}}[[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ランズダウン侯爵]]に率いられる野党[[保守党 (イギリス)|保守党]]は、保守党が半永久的に多数を占める[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]から政府法案を否決するという反対闘争を展開した<ref name="坂井(1967)416-417">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.416-417</ref>。 |
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[[1906年]]4月には初等教育から宗教教育を排除することを目的とした「教育法案」が貴族院で否決された。これに対してキャンベル=バナマンは、[[1907年]]6月に庶民院の優越を定める法律を制定すべきとする決議案を議会に提出した。その決議案説明の中で{{仮リンク|ビジネス・イノベーション・職業技能大臣|label=通商大臣|en|President of the Board of Trade}}[[デビッド・ロイド・ジョージ]]は「貴族院は長きにわたり、[[イギリスの憲法|憲法]]の番犬だったが、今やバルフォアの[[プードル]]である。彼のために吠え、使い走りをし、彼がけしかけたどのような物にも噛みつく」と貴族院を批判した<ref name="坂井(1967)416-417"/>。 |
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この法案を利用し、法案成立当時少数政党であった[[アイルランド国民党]]は、それまで上院の否決のために成立しなかったアイルランド自治 (Home Rule) 法案が成立可能であると考え、[[1914年]][[アイルランド統治法 (1914年)|アイルランド自治法]]は成立するが、[[第一次世界大戦]]勃発を理由に施行は保留された。 |
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だが貴族院の態度は変わらず、首相が[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]に変わった後の[[1908年]]7月には醸造業者の独占制限を目的とする「酒類販売免許法案」を否決した。これに対して通商大臣[[ウィンストン・チャーチル]]は「我々は貴族院を震え上がらせるような予算案を提出するであろう。貴族院は階級闘争を開始したのだから」と述べたという<ref name="坂井(1967)417">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.417</ref>。 |
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決定的な契機となったのは、[[1909年]]に[[財務大臣 (イギリス)|大蔵大臣]]ロイド・ジョージの提出した「{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}」を貴族院が否決したことだった。この予算案は土地課税が盛り込まれており、地主貴族から土地の国有化を狙う「アカの予算」として強い反発を招いていたためだった<ref name="坂井(1967)427">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.420/427</ref>。しかし貴族院が金銭法案を否決するのは[[17世紀]]以来のことであったので大きな波紋を呼んだ<ref name="河合(1998)118">[[#河合(1998)|河合(1998)]] p.118</ref>。 |
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=== 議会法をめぐる紛糾 === |
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[[File:H H Asquith 1908.jpg|180px|thumb|[[自由党 (イギリス)|自由党]]の首相[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]<br/><small>貴族院を掌握すべく、貴族院拒否権制限を目指した。</small>]] |
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アスキス首相は[[庶民院]]を解散、[[1910年]]1月の{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910|label=総選挙}}は[[ハング・パーラメント]]となったものの、[[キャスティング・ボート]]を握った{{仮リンク|アイルランド議会党|en|Irish Parliamentary Party}}が「人民予算」を支持したため、自由党政権は「人民予算」の可決を目指した。その中でアスキス首相は[[3月29日]]に貴族院拒否権制限を盛り込んだ議会法案を庶民院に提出し、4月14日にこれを可決させた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.446-447</ref>。 |
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議会法案の貴族院送付をめぐって自由党政権と保守党が緊迫する中の1910年5月6日に国王[[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]が崩御し、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が即位した。政界に「新王をいきなり政治危機に晒してはならない」という融和ムードが広まり、両党幹部の会合「憲法会議」の場が設けられたが、妥結には至らなかった。この間にロイド・ジョージが提唱した自由党・保守党連立政権構想も空振りに終わった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.448-452</ref>。 |
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これを受けてアスキスは国王ジョージ5世から「総選挙を行い、政府がこれに勝利した場合には[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]で新貴族創設を行ってもよい」という秘密裏の確約を得て、1910年11月26日に庶民院を解散した。自由党は「貴族が統治するのか、平民が統治するのか」をスローガンにして選挙戦に臨んだが、国民は貴族院権限制限問題にはほぼ無関心であり、12月の{{仮リンク|1910年12月イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, December 1910|label=総選挙}}の結果は前回とほぼ変わらず、ハング・パーラメントのままだった。だが、友党アイルランド議会党の議席と足すと過半数を越えていたので、アスキスは議会法案の有権者のコンセンサスを得たと力説し、1911年2月にふたたび議会法案を庶民院に提出して5月に可決させた。しかし貴族院は否決の構えを見せていた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.454-455</ref>。 |
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=== 貴族院保守党の分裂と議会法可決 === |
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[[File:Passing of the Parliament Bill, 1911 - Project Gutenberg eText 19609.jpg|250px|thumb|議会法の貴族院通過を描いた絵画。<br/><small>自由党政権が[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]で新貴族創家を行うことを恐れた保守党貴族院議員の一部が議会法案に賛成票を投じた。その結果、可決成立した。</small>]] |
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アスキスは自由党系貴族創家の上奏の準備を進めつつ、[[1911年]][[7月18日]]にロイド・ジョージを保守党党首バルフォア、保守党貴族院院内総務ランズダウン侯爵の許に派遣し、国王から新貴族創家を行うことの承諾を得ている旨を彼らに通達した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.456</ref>。 |
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これを受けてバルフォアは[[7月21日]]にもシャドー・キャビネット([[影の内閣]])に所属する保守党幹部を召集して対策を話し合った。バルフォアやランズダウン侯爵、[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|カーゾン卿]]は「貴族の大量任命など行われたら世界中の文明国の笑い物になる」として譲歩するしかないと主張した<ref name="坂井(1967)457">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.457</ref>。バルフォアの考えるところ、自由党系の新貴族が任命されて自由党が恒久的に貴族院多数派になることの方がはるかに危険な「革命」であり、それに比べれば拒否権が失われるぐらいはまだマシだった<ref name="タックマン(1990)452">[[#タックマン(1990)|タックマン(1990)]] p.452</ref>。だが{{仮リンク|ハーディング・ギフォード (初代ハルズベリー伯爵)|label=ハルズベリー伯爵|en|Hardinge Giffard, 1st Earl of Halsbury}}や{{仮リンク|ウィリアム・パーマー (第2代セルボーン伯爵)|label=セルボーン伯爵|en|William Palmer, 2nd Earl of Selborne}}、[[オースティン・チェンバレン]]らは徹底抗戦すべしと主張して譲らなかった<ref name="坂井(1967)457">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.457</ref>。 |
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保守党貴族院議員は新貴族創家をちらつかせる政府の態度はハッタリと見る者が多く、徹底抗戦派の方が多かった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.458-459</ref>。彼らは「ダイ・ハード(頑強な抵抗者)」と名乗るグループを形成して議会法案反対運動を行った<ref name="タックマン(1990)452">[[#タックマン(1990)|タックマン(1990)]] p.452</ref>。 |
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しかしアスキス内閣は新貴族創家の方針を覆す意思を見せず、[[8月10日]]には議会法案の貴族院提出を強行し、その法案説明で「議会法を否決する投票は、すなわち多数の新貴族任命への賛成票ということになる」と明言した。バルフォアの息のかかった妥協派貴族院議員たちは当初棄権を考えていたが、棄権すると議会法案否決の公算が高いため、ついに議会法案賛成に回る決意を固めた。これにより議会法案は賛成131、反対114の僅差でなんとか貴族院を通過した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.459-460</ref>。37人の保守党貴族院議員と2人の大主教、1人の主教が賛成票を投じていた<ref name="タックマン(1990)465">[[#タックマン(1990)|タックマン(1990)]] p.465</ref> |
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こうして議会法が成立したが、保守党内に根深い亀裂が生じた。議会法の貴族院可決があった8月10日夜の保守党社交界{{仮リンク|カールトン・クラブ|en|Carlton Club}}の席上では議会法案に賛成票を投じた貴族院議員たちに「恥を知れ」「裏切り者」「[[イスカリオテのユダ|ユダ]]」といった罵倒が浴びせられた<ref name="タックマン(1990)465">[[#タックマン(1990)|タックマン(1990)]] p.465</ref>。また{{仮リンク|F.E.スミス (初代バーケンヘッド伯爵)|label=F.E.スミス|en|F. E. Smith, 1st Earl of Birkenhead}}や[[オースティン・チェンバレン]]を中心に「B・M・G(バルフォアよ、去れ)」運動が開始された<ref name="タックマン(1990)466">[[#タックマン(1990)|タックマン(1990)]] p.466</ref>。求心力を落としたバルフォアは[[11月8日]]に保守党党首職を辞することとなった<ref name="坂井(1967)497">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.497</ref>。 |
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== 議会法の内容 == |
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議会法第1条第1項は、金銭法案(Money Bill)について、庶民院通過後、会期終了一か月前までに貴族院に送付され、貴族院が無修正で可決しない場合、庶民院が反対しなければ、国王の裁可を得て議会制定法となることを定めている<ref name="田中(2009)231-232">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.231-232</ref>。 |
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同法2条1項は金銭法案以外の法案について、会期終了一か月前までに貴族院に送付され、庶民院の同意なく貴族院が三度目の否決を行った場合には、貴族院の同意がなくても国王の裁可を得て議会制定法となることを定めている。ただし第一回の会期の庶民院第二読会の日付と三回目の会期の庶民院通過の日付が2年以上離れていることを要求している<ref name="田中(2009)232">[[#田中(2009)|田中(2009)]] p.232</ref>。要するに貴族院は庶民院を通過した法案を2年引き延ばすことが可能だった<ref name="バー(2004)116">[[#バー(2004)|バーレント(2004)]] p.116</ref>。 |
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[[1949年]]には議会法の改正があり、貴族院が庶民院で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮された<ref name="バー(2004)116"/>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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*{{Cite book|和書|author=[[河合秀和 (政治学者)|河合秀和]]|date=1998年(平成10年)|title=チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版|series= [[中公新書]]530|publisher=[[中央公論社]]|isbn=978-4121905307|ref=河合(1998)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[坂井秀夫]]|date=1967年(昭和42年)|title=政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として|publisher=[[創文社]]|asin=B000JA626W|ref=坂井(1967)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[バーバラ・タックマン]]|translator=[[大島かおり]]|date=1990年(平成2年)|title=世紀末のヨーロッパ 誇り高き塔・第一次大戦前夜|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480855541|ref=タックマン(1990)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[エリック・バーレント]]|translator=[[佐伯宣親]]|date=2004年(平成16年)|title=英国憲法入門|publisher=[[成文堂]]|isbn=978-4792303808|ref=バー(2004)}} |
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2014年6月26日 (木) 16:36時点における版
議会法(ぎかいほう)
議会法(ぎかいほう)は、1911年にイギリスで成立した、議会での法案成立に関する手続きと条件を定めた法律。1911年議会法と、それを一部改正する1949年議会法があり、ともにイギリスの憲法を構成する法律群のなかのひとつである。
この法律により、貴族院の権限が縮小され、庶民院の優越が明確になった。
議会法成立の経緯
保守党の貴族院での反対闘争
1905年12月に成立した自由党政権ヘンリー・キャンベル=バナマン内閣は、1906年1月の解散総選挙に大勝し、庶民院多数派を得たが、これに対して保守党党首・保守党庶民院院内総務アーサー・バルフォアと保守党貴族院院内総務ランズダウン侯爵に率いられる野党保守党は、保守党が半永久的に多数を占める貴族院から政府法案を否決するという反対闘争を展開した[1]。
1906年4月には初等教育から宗教教育を排除することを目的とした「教育法案」が貴族院で否決された。これに対してキャンベル=バナマンは、1907年6月に庶民院の優越を定める法律を制定すべきとする決議案を議会に提出した。その決議案説明の中で通商大臣デビッド・ロイド・ジョージは「貴族院は長きにわたり、憲法の番犬だったが、今やバルフォアのプードルである。彼のために吠え、使い走りをし、彼がけしかけたどのような物にも噛みつく」と貴族院を批判した[1]。
だが貴族院の態度は変わらず、首相がハーバート・ヘンリー・アスキスに変わった後の1908年7月には醸造業者の独占制限を目的とする「酒類販売免許法案」を否決した。これに対して通商大臣ウィンストン・チャーチルは「我々は貴族院を震え上がらせるような予算案を提出するであろう。貴族院は階級闘争を開始したのだから」と述べたという[2]。
決定的な契機となったのは、1909年に大蔵大臣ロイド・ジョージの提出した「人民予算」を貴族院が否決したことだった。この予算案は土地課税が盛り込まれており、地主貴族から土地の国有化を狙う「アカの予算」として強い反発を招いていたためだった[3]。しかし貴族院が金銭法案を否決するのは17世紀以来のことであったので大きな波紋を呼んだ[4]。
議会法をめぐる紛糾
アスキス首相は庶民院を解散、1910年1月の総選挙はハング・パーラメントとなったものの、キャスティング・ボートを握ったアイルランド議会党が「人民予算」を支持したため、自由党政権は「人民予算」の可決を目指した。その中でアスキス首相は3月29日に貴族院拒否権制限を盛り込んだ議会法案を庶民院に提出し、4月14日にこれを可決させた[5]。
議会法案の貴族院送付をめぐって自由党政権と保守党が緊迫する中の1910年5月6日に国王エドワード7世が崩御し、ジョージ5世が即位した。政界に「新王をいきなり政治危機に晒してはならない」という融和ムードが広まり、両党幹部の会合「憲法会議」の場が設けられたが、妥結には至らなかった。この間にロイド・ジョージが提唱した自由党・保守党連立政権構想も空振りに終わった[6]。
これを受けてアスキスは国王ジョージ5世から「総選挙を行い、政府がこれに勝利した場合には国王大権で新貴族創設を行ってもよい」という秘密裏の確約を得て、1910年11月26日に庶民院を解散した。自由党は「貴族が統治するのか、平民が統治するのか」をスローガンにして選挙戦に臨んだが、国民は貴族院権限制限問題にはほぼ無関心であり、12月の総選挙の結果は前回とほぼ変わらず、ハング・パーラメントのままだった。だが、友党アイルランド議会党の議席と足すと過半数を越えていたので、アスキスは議会法案の有権者のコンセンサスを得たと力説し、1911年2月にふたたび議会法案を庶民院に提出して5月に可決させた。しかし貴族院は否決の構えを見せていた[7]。
貴族院保守党の分裂と議会法可決
アスキスは自由党系貴族創家の上奏の準備を進めつつ、1911年7月18日にロイド・ジョージを保守党党首バルフォア、保守党貴族院院内総務ランズダウン侯爵の許に派遣し、国王から新貴族創家を行うことの承諾を得ている旨を彼らに通達した[8]。
これを受けてバルフォアは7月21日にもシャドー・キャビネット(影の内閣)に所属する保守党幹部を召集して対策を話し合った。バルフォアやランズダウン侯爵、カーゾン卿は「貴族の大量任命など行われたら世界中の文明国の笑い物になる」として譲歩するしかないと主張した[9]。バルフォアの考えるところ、自由党系の新貴族が任命されて自由党が恒久的に貴族院多数派になることの方がはるかに危険な「革命」であり、それに比べれば拒否権が失われるぐらいはまだマシだった[10]。だがハルズベリー伯爵やセルボーン伯爵、オースティン・チェンバレンらは徹底抗戦すべしと主張して譲らなかった[9]。
保守党貴族院議員は新貴族創家をちらつかせる政府の態度はハッタリと見る者が多く、徹底抗戦派の方が多かった[11]。彼らは「ダイ・ハード(頑強な抵抗者)」と名乗るグループを形成して議会法案反対運動を行った[10]。
しかしアスキス内閣は新貴族創家の方針を覆す意思を見せず、8月10日には議会法案の貴族院提出を強行し、その法案説明で「議会法を否決する投票は、すなわち多数の新貴族任命への賛成票ということになる」と明言した。バルフォアの息のかかった妥協派貴族院議員たちは当初棄権を考えていたが、棄権すると議会法案否決の公算が高いため、ついに議会法案賛成に回る決意を固めた。これにより議会法案は賛成131、反対114の僅差でなんとか貴族院を通過した[12]。37人の保守党貴族院議員と2人の大主教、1人の主教が賛成票を投じていた[13]
こうして議会法が成立したが、保守党内に根深い亀裂が生じた。議会法の貴族院可決があった8月10日夜の保守党社交界カールトン・クラブの席上では議会法案に賛成票を投じた貴族院議員たちに「恥を知れ」「裏切り者」「ユダ」といった罵倒が浴びせられた[13]。またF.E.スミスやオースティン・チェンバレンを中心に「B・M・G(バルフォアよ、去れ)」運動が開始された[14]。求心力を落としたバルフォアは11月8日に保守党党首職を辞することとなった[15]。
議会法の内容
議会法第1条第1項は、金銭法案(Money Bill)について、庶民院通過後、会期終了一か月前までに貴族院に送付され、貴族院が無修正で可決しない場合、庶民院が反対しなければ、国王の裁可を得て議会制定法となることを定めている[16]。
同法2条1項は金銭法案以外の法案について、会期終了一か月前までに貴族院に送付され、庶民院の同意なく貴族院が三度目の否決を行った場合には、貴族院の同意がなくても国王の裁可を得て議会制定法となることを定めている。ただし第一回の会期の庶民院第二読会の日付と三回目の会期の庶民院通過の日付が2年以上離れていることを要求している[17]。要するに貴族院は庶民院を通過した法案を2年引き延ばすことが可能だった[18]。
1949年には議会法の改正があり、貴族院が庶民院で可決された法案の成立を引きのばせる期間はこれまでの2年から1年に短縮された[18]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 坂井(1967) p.416-417
- ^ 坂井(1967) p.417
- ^ 坂井(1967) p.420/427
- ^ 河合(1998) p.118
- ^ 坂井(1967) p.446-447
- ^ 坂井(1967) p.448-452
- ^ 坂井(1967) p.454-455
- ^ 坂井(1967) p.456
- ^ a b 坂井(1967) p.457
- ^ a b タックマン(1990) p.452
- ^ 坂井(1967) p.458-459
- ^ 坂井(1967) p.459-460
- ^ a b タックマン(1990) p.465
- ^ タックマン(1990) p.466
- ^ 坂井(1967) p.497
- ^ 田中(2009) p.231-232
- ^ 田中(2009) p.232
- ^ a b バーレント(2004) p.116
参考文献
- 河合秀和『チャーチル イギリス現代史を転換させた一人の政治家 増補版』中央公論社〈中公新書530〉、1998年(平成10年)。ISBN 978-4121905307。
- 坂井秀夫『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』創文社、1967年(昭和42年)。ASIN B000JA626W。
- バーバラ・タックマン 著、大島かおり 訳『世紀末のヨーロッパ 誇り高き塔・第一次大戦前夜』筑摩書房、1990年(平成2年)。ISBN 978-4480855541。
- 田中嘉彦『英国ブレア政権下の貴族院改革 第二院の構成と機能』(PDF)一橋大学、2009年 。
- エリック・バーレント 著、佐伯宣親 訳『英国憲法入門』成文堂、2004年(平成16年)。ISBN 978-4792303808。
- 「シリーズ憲法の論点⑥「二院制」」国立国会図書館調査及び立法考査局2005年3月[1]