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コンスタンス・ケントの、同時代の肖像

コンスタンス・エミリー・ケント(Constance Emily Kent, 1844年2月6日 - 1944年4月10日)は、自身が16歳であった時に起こった有名な児童殺害を認め、告白したイングランドの女性である。 1865年の「コンスタンス・ケント事件」は、イングランドにおける聖職者の悔悛の特権(priest-penitent privilege in England)にかんする一連の問題を提起した。 ケントは晩年に名前をルース・エミリー・ケー(Ruth Emilie Kaye)に変えた。

犯罪

1860年6月29日の夜と30日の朝のあいだのいつか、フランシス・「サヴィル」・ケント(Francis "Saville" Kent)(まもなく4歳)が、当時ウィルトシャー(Wiltshire)の、ロード(Rode)(当時の綴りは「Road」)の村の自宅ロード・ヒル・ハウス(Road Hill House)から姿を消した。 彼は、地所の付属建築物(便所)で遺体で見つかった。 まだナイトシャツ姿で、毛布にくるまれていた子は、胸と両手にナイフの傷が複数あったし、のどは、あまりに深く切られていたので、身体はほとんど切断されていた。 男児の女性子守が最初、拘束されたけれども、彼女はまもなく放免されたし、スコットランド・ヤードの巡査ジャック・ウィッチャー(Jack Whicher)の疑いは、少年の異母姉コンスタンス(16歳)に移った。 彼女は6月16日に逮捕されたが、公判なしに釈放された。 一家は、ウェールズの北部のレクサム(Wrexham)に移り、コンスタンスをフランスのディナン(Dinan)にある教養学校にやった。[1]

収監

コンスタンス・ケントは5年後、1865年に殺人罪で訴追された。 彼女は、アングロ=カトリックの聖職者アーサー・ワグナー師(Rev. Arthur Wagner)に犯行を告白したし、彼女は彼に、法に照らして処断してもらうという決心を述べた。 彼は彼女がこの決心を実行するのを手伝ったし、治安判事の前でこの陳述を証言した。 しかし彼は証言にさきだって、それは「サクラメントの告白」("sacramental confession")の守秘義務のもとに聴いたという理由で自分はこれ以上の情報をいっさい差し控えなければならないと宣言した。 彼はしかし、治安判事によって圧力を加えられた。[2]

告白の内容は、つぎのとおりであった。すなわち、彼女は、家族と召使いらが眠るまで待ち、客間に降り、鎧戸と窓を開け、小児用寝台のシーツと上掛け(両者ともに乱されていない、あるいはもとどおり整えられた、状態にして)の間から取った毛布で子をくるみ、家を出て、父から盗んだ剃刀で彼を便所で殺した。 彼女の殺害前の動作は、子供を両腕で抱えて行なわれた。 彼女は殺害行為ちゅうの明りのためにあらかじめマッチを便所に隠す必要があった。 殺害は自発的な行為ではなく、復讐のひとつであった、ように思われるし、--そしてコンスタンスは、ある時々は、心の平衡を失っていたことが示唆さえされた。[3]

当時、コンスタンス・ケントの告白はうそであるという推測が多かった。 多くの人の推定では、彼女の父サミュエル・サヴィル・ケント(Samuel Savill (あるいは Saville) Kent)[4]は、すでに知られた姦夫で、よちよち歩きの子の子守女性と情事を持っているところであったが、腹立ちまぎれに中絶性交(coitus interruptus)ののち子を殺害した。[5] それは、自分の1人目の妻メアリー・アン・ケント(Mary Ann Kent)旧姓ウィンダス(Windus)(コンスタンスの母)が死にかけているあいだに一家のナニー(nanny)であるメアリー・ドルー・プラット(Mary Drewe Pratt)(フランシスの母)に求愛し、そのご、彼女と結婚した大ケント(the senior Kent)とパターンが一致する。 ミスタ・ケントを最初から疑っていた人々は多かったし、そのなかには、小説家チャールズ・ディケンズもふくまれる。[6]

しかしながら、ケート・サマースケール(Kate Summerscale)は、2008年の著書『The Suspicions of Mr Whicher or The Murder at Road Hill House』で、次のような結論に至った。すなわち、もしコンスタンス・ケントの告白がほんとうに嘘で、たんに別人をかばう行為であるならば、それは、彼女の父のためではなく兄弟ウィリアム・サヴィル=ケントのためであったし、彼女はウィリアムとたいへん親密な兄弟=姉妹関係を共有したし、それは、父サミュエル・サヴィル・ケントが父親としての注意を、メアリー・アン・ウィンダス(Mary Ann Windus)との初婚の子らから、2人目の妻メアリー・ドルー・プラットとのあいだにもうけた子らに向けたという情況によっていっそう深められていた。 ウィリアム・サヴィル=ケントはじっさいに捜査ちゅうに嫌疑をかけられていたが、しかし決して訴えられなかった。 サマースケールは、たとえサヴィル・ケントが、フランシス・サヴィル・ケントの死亡に責任がある単独犯人でなかったとしても、彼はすくなくともコンスタンス・ケントの共犯者であったと述べている。

コンスタンス・ケントは、父の死後も兄弟の死後も、告白を決して撤回しなかった。 彼女はまた、殺害の動機についても沈黙を守った。

彼女は、すべての陳述において、自分は殺害された異母弟にたいして憎悪も嫉妬も抱いていないと強調した。 調査の結果として、サマースケールはつぎのような結論に至った、すなわち、フランシス・サヴィル・ケントの殺害は - それがコンスタンス・ケートあるいはウィリアム・サヴィル・ケントのいずれかひとりによるにせよあるいはその両者によるにせよ - サミュエル・サヴィル・ケントが注意を再婚の子らに向けたことへの復讐の行為であって、報道によれば彼らは彼のお気に入りであった。[7]

報道の興奮

巡回裁判で、コンスタンス・ケントは罪を認め、彼女の抗弁が認められたため、ワグナーはふたたび召喚されなかった。

ミスタ・ワグナーが治安判事の前でとった姿勢は、報道機関においておおいに議論を巻き起こした。 ミスタ・ワグナーは、彼が提出しているという理由で、国家に対して証言を差し控えるあらゆる権利を有していることは示唆されるべきであったという公衆の憤りのかなりの表現があった。 憤りは、サクラメントの告白が英国国教会に知られていたという憶測に対しておもに向けられていたように思われる。[2]

議会の論評

議会の質問が両院においてなされた。 貴族院において、大法官(Lord Chancellor)ロード・ウェストベリー(Lord Westbury)は、ウェストミース侯爵(Marquess of Westmeath)にこたえてつぎのように述べた:[2]

...訴訟あるいは刑事上の手続きにおいて英国国教会の聖職者は、正義の目的のために自分になされた質問に返答することを、自分の返答が何か告白において自分が知ったことを暴露することになろうという理由で、辞退する特権を有していないことは疑う余地はありません。その聖職者はそういう質問に答えなければなりませんし、イングランドの法は、答えることを断る特権を、信者に対応するローマ・カトリックの聖職者に拡張することさえしません。

彼は、法廷侮辱罪での収監の命令はじっさいにミスタ・ワグナーにたいして発せられていたように見えると述べた。 もしそうであれば、それは執行されなかった。[2]

同時に、元大法官ロード・チェルムスフォード(Lord Chelmsford)は、ミスタ・ワグナーは告白において彼が知った事実を言わないでいる特権をまったく有していない点で法は明白であると述べた。 ロード・ウェストミースは、最近、事件が2件あったが、うち1件はスコットランドの聖職者が証言することを拒んで収監されたと言った。 この事件にかんしてロード・ウェストミースは、内務大臣サー・ジョージ・グレー(Sir George Grey)にたいして聖職者の釈放が出願されつつあるのにたいして、ロード・ウェストミースは、 もし万一自分が、カトリックの聖職者がわでの誤りにかんする自認がないまま、また彼のがわでの同様の事件において同一の進路を取るであろうという確信がないまま判決を差し戻すならば、 彼(内務大臣)は、あらゆる宗派の聖職者が主張し得ないであろう、と自分は助言された、あらゆる教派の聖職者による特権の奪取を認可することになるであろうと述べた。 2つめの事件は1860年のen:R v Hay事件であった。[2]

貴族院におけるロード・ウェストベリーの陳述は、当時エクセター大主教(Bishop of Exeter)ヘンリー・フィルポッツ(Henry Phillpotts)からの抗議を受けたが、彼は彼あてに、ミスタ・ワグナーによって主張された特権を強く主張する手紙を書いた。 大主教は、この件にかんするカノン法は、いかなる否定も世俗的法廷からの反対もないまま認められたし、それは病人への見舞いの礼拝の『祈祷書』(Book of Common Prayer)によって確認され、したがって礼拝様式統一法(Act of Uniformity)によって是認されていたと主張した。 フィルポッツは、聖職者の悔悛の特権の問題にかんするパンフレットを著したエドワード・ロース・バデリー(Edward Lowth Badeley)[8]によって支持された。[9] 彼の手紙へのロード・ウェストベリーの返答への答えから、ロード・ウェストベリーが、1603年の113カノンはたんに「聖職者は、『単なる衝動で』(ex mero motu)、自発的に、法的義務なしに、告白において自分に伝えられたことを明らかにしてはならない」ということを意味するという意見を表明したことは明らかである。 また彼は、公衆は当時、そういう証言の開示を強制する規則のいっさいの改変に耐える気分ではなかったという意見を表わしているようである。[2]

判決

コンスタンス・ケントは死刑判決を受けたが、これは彼女の当時の若さと告白のおかげで終身刑に減刑された。 彼女は20年間、ミルバンク刑務所(Millbank Prison)をふくむおおくの刑務所で服役し、1885年、41歳で釈放された。 在監中、彼女は、セント・ポール大聖堂の地下室(crypt)のための作品をふくむ、多くの教会のためのモザイクを制作した。[10] ノエライン・カイル(Noeline Kyle)は著書『A Greater Guilt』で、コンスタンス・ケントが在監中にたずさわった作品、カイルがモザイクの奇蹟と評するものを論じた。[11]

後半生

ケントは1886年前半にオーストラリアに移住し、タスマニアにいる兄弟ウィリアム(William)と一緒になったが、そこで彼は政府の漁業顧問として働いた。[12] 彼女は名前をルース・エミリー・ケーに変え、メルボルンのプラーラン(Prahran)のアルフレッド病院(Alfred Hospital)で看護師として訓練を受け[5]、それからシドニーのリトル・べー(Little Bay)のコースト病院(Coast Hospital)でフィーメール・ラザレット(Female Lazaret)のシスター=イン=チャージ(sister-in-charge)に任命された。 彼女は、1898年から1909年までパラマッタ女子工業学校(Parramatta Industrial School for Girls)で10年間、働き、1年間、ニュー・サウス・ウェールズのミッタゴン(Mittagong)という田舎まちに住所を定め、それからイースト・メートランド(East Maitland)にあるピアス・メモリアル・ナースズ・ホーム(Pierce Memorial Nurses' Home)のマトロン(matron)にさせられ、そこに1911年から1932年の引退までそこに勤め、1944年4月10日、100歳で、シドニー郊外のストラスフィールド(Strathfield)にある私立病院で死去した。 『ザ・シドニー・モーニング・ヘラルド』(1944年4月11日付)は、彼女は近くのルックウッド・セメタリー(Rookwood Cemetery)に埋葬されると報じた。

トリヴィア

  • 1862年: 事件の諸要素はメアリー・エリザベス・ブラッドン(Mary Elizabeth Braddon)の『Lady Audley's Secret』(1862年)で用いられた。[13]
  • 1868年:事件の諸要素はウィルキー・コリンズの『月長石』(1868年)で用いられた。[5]
  • 1870年:チャールズ・ディケンズは『エドウィン・ドルードの謎』のヘレナ・ランドレスの駆落ちについてケントの前半生を基礎とした。[5]
  • 1945年:映画『Dead of Night』には別々の5話がふくまれるが、うち1つの話は「Christmas Party」で、サリー・アン・ハウズ(Sally Ann Howes)が出演する。この話は、コンスタンス・ケント事件におおまかに基づいている。「Christmas Party」は、映画脚本家アンガス・マックフェール(Angus MacPhail)によるオリジナルの話に基づく、オリジナルの映画脚本であった。古い家で隠れん坊あそびをしている間に、子供がすすり泣いているのがハウズに聞えたので、ある寝室にはいるとそこで、姉妹のコンスタンスには意地悪をしているフランシス・サヴィル・ケントという男児に会う。ハウズはその子をなぐさめ、それから子が眠ると子から離れる。それから彼女はパーティーからの他人を見つけ、フランシスは8年以上前にコンスタンスによって殺されたことを知る。

注釈

  1. ^ Summerscale (2008: 209)
  2. ^ a b c d e f Nolan (1913)
  3. ^ Glimpses into the 19th Century Broadside Ballad Trade No. 15: Constance Kent and the Road Murder
  4. ^ Saville, variously spelt "Savill" or Savile" was the maiden name of Samuel's mother, but "Saville" was the version adopted for the baptismal names, although some surviving records record "Savill": Summerscale (2008: 72); Kyle (2009: 127)
  5. ^ a b c d Davenport-Hines (2006)
  6. ^ Altick (1970: 131). Altick quotes from a letter Dickens wrote to Wilkie Collins at the time of the confession.
  7. ^ Summerscale (2008: 298–301)
  8. ^ Courtney (2004)
  9. ^ Badeley (1865)
  10. ^ Summerscale (2008: 278)
  11. ^ Kyle (2009)
  12. ^ Summerscale (2008: 288–9)
  13. ^ Summerscale (2008: 217–8)

伝記

  •  この記事にはパブリックドメインである次の百科事典本文を含む: Herbermann, Charles, ed. (1913). Catholic Encyclopedia. New York: Robert Appleton Company. {{cite encyclopedia}}: |title=は必須です。 (説明)

  • Altick, Richard (1970). Victorian Studies in Scarlet: Murders and Manners in the Age of Victoria. New York: Norton. ISBN 978-0-393-33624-5 
  • [Anon.] (1984) Australian Gemmologist, 15(5): February, 155
  • [Anon.] (2002) Protist (Germany), 153(4): 413
  • Atlay, J. B. (1897). “Famous trials: the Road mystery”. Cornhill Magazine 2: [3rd] ser., 80–94. 
  • Badeley, E. (1865). The Privilege of Religious Confessions in English Courts of Justice Considered, in a Letter to a Friend. London: Butterworths 
  • Bridges, Y. (1954). Saint — with Red Hands? The Chronicle of a Great Crime. London: Jarrolds 
  • Courtney, W. P. (2004) "Badeley, Edward Lowth (1803/4–1868)", rev. G. Martin Murphy, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, accessed 22 July 2007 (subscription required)
  • Davenport-Hines, R. (2006) "Kent, Constance Emilie (1844–1944)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, online edn, accessed 29 August 2007 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入)
  • Harrison, A. J. (1997). Savant of the Australian Seas: William Saville-Kent (1845-1908) and Australian Fisheries. Hobart: Tasmanian Historical Research Association 
  • — (2005) "Kent, Constance (1844-1944)", Australian Dictionary of Biography, Supplementary Volume, Melbourne University Press, pp352-353
  • Hartman, M. (1977). Victorian Murderesses. London: Robson Books Ltd. pp. 94–101, 107–12, 118–29. ISBN 0-86051-343-2 
  • Jesse, F. T. (1924). Murder and its Motives. London: Harrap. pp. 74–116 
  • Kyle, N.J. (2009). A Greater Guilt: Constance Emilie Kent & the Road Murder. Brisbane: Boolarong Press. ISBN 978-1-921555-34-3 
  • Nolan, R. S. (1913) "The Law of the Seal of Confession", Catholic Encyclopaedia
  • Rhode, J. (1928). The Case of Constance Kent. London: Geoffrey Bles 
  • Roughead, W. (1966). Classic Crimes 1: Katharine Nairn, Deacon Brodie, The West Port Murders, Madeleine Smith, Constance Kent and The Sandyford Mystery. London: Panther. pp. 137–70 ; originally in The Rebel Earl and Other Studies, (Edinburgh: W. Green & Son, Limited, 1926), as "Constance Kent's Conscience: A Mid-Victorian Mystery", p. 47-86
  • Stapleton, J. W. (1861). The Great Crime of 1860 
  • Summerscale, Kate (2008). The Suspicions of Mr Whicher, Or the murder at Road Hill House. Bloomsbury. ISBN 978-0-7475-8215-1 
  • Taylor, B. (1979). Cruelly Murdered: Constance Kent and the Killing at Road Hill House. London: Souvenir Press. ISBN 0-285-62387-7