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オートマット(Automat)は、アメリカ合衆国の画家エドワード・ホッパーの(1927年の)絵である。71.4センチメートル × 91.4センチメートル。キャンバスに油彩。 絵は、最初、1927年のヴァレンタインズ・デーにニュー・ヨークのレーン・ギャラリーズ(Rehn Galleries)で、ホッパーの2回目の個展の開幕で展示された。 それは4月までに1,200ドルで売られた。[1] 絵はこんにちアイオワのデ・モイン・アート・センター(Des Moines Art Center)によって所有される。
女
絵は、夜、オートマットでコーヒーのカップのなかをじっと見つめる、独りの女を描く。 夜のせいで黒くなったウィンドーのなかを、照明設備のうりふたつの列の反射像がひろがる。
ホッパーの妻ジョー(Jo)は、この女のモデルをつとめた。[2] しかしながらホッパーは彼女をより若くするために顔を変えた(1927年にジョーは44歳であった)。 彼はまた彼女の体つきをも変えた。 ジョーは、曲線の美しい、豊満な体つきの女であったのにたいして、ある批評家は絵の女は「『少年らしい』(すなわち、胸が平ら)」("'boyish' (that is, flat-chested)")と記述している[3]。
ホッパーの絵にはしばしばあることであるが、女の暮らし向きも気分も両者ともにあいまいである。 彼女は、身なりがきちんとしていて、化粧をしているが、これは、彼女が、容姿が重要である仕事に行く、あるいは、帰る途中であるか、または彼女が社交の場に行く、あるいは、帰る途中であるか、そのいずれかであることを示す。
彼女は手袋を片方のみ、とっているが、これは、彼女が取り乱していること、彼女が急いでいてちょっとの間しか待てないこと、あるいはただたんに彼女は外からはいってきてまだあたたまっていないことを示すであろう。 しかし、後者の可能性はありそうにない、というのも、彼女のカップと受け皿の前、テーブルの上にはからの皿があり、彼女が軽食を取り、しばらくの間この場所にすわっていたかもしれないことを示唆している。
晩い秋または冬という時は、女があたたかく着込んでいることから明白である。 しかし、この時季は昼間は短いから、時刻ははっきりしない。 たとえば、日没ちょくごで、オートマットが彼女が友人とランデヴーをする手筈を取った場所であるくらい宵の口であるということはあり得る。 あるいは夜更けで、女が交替勤務を終えたときでもあり得る。 あるいはまた、早朝、日の出のまえ、交替勤務が始まろうとするときでもあり得る。
時刻はいつであるにせよ、レストランはひとけが無いように見えるし、外の通りには活動の兆候は(あるいは生命の兆候はぜんぜん)無い。 これは、孤独感を増すし、絵を、都会の疎外という概念と広く結びつけさせている。 ある批評家は次のように述べている、すなわち、ホッパーの憂鬱な題材に典型的なポーズでは、「女の眼は下に向けられ、思いは内面に向かう。」[4] 別の批評家は、彼女を「コーヒー・カップを、それが彼女がたよりにし得る、世界で最後の物であるかのように見つめている」と記述している。[5] 1995年、『タイム (雑誌)』は、20世紀のストレスと鬱病にかんする記事のための表紙のイメージに『オートマット』を用いた。[6] 美術批評家イーヴォ・クランツフェルダー(Ivo Kranzfelder)はこの絵の題材(レストランでひとりで飲み物をちびりちびり飲んでいる若い女性)をエドゥアール・マネの『The Plum』およびエドガー・ドガの『L'Absinthe』と比較する[7]--ただし、ドガの絵における題材とはちがって、女は放蕩にふけるというよりもむしろ内省的である。
見る者の遠近法
キャンバスの右下隅の椅子の背もたれの存在は、見る者が近くのテーブルについていることを示唆するが、この視点からであれば、見知らぬ者は女に、招かれざるまま、目を向けることができるであろう。
革新的な手で、ホッパーは女の両脚を絵のなかで最も明るいところにしたし、それによって「彼女を欲望の対象にし」、「見る者を窃視者にした」。[8] こんにちの基準では、この記述は誇張に思われるが、しかし1927年には女の脚を公然と見せることはいまだ、比較的、新奇な現象であった。
ホッパーは、女の題材の組んだ両脚を、のちの多くの絵のほかの点では黒っぽいキャンバスでは最も明るいところにすることになるが、それらには『Compartment C, Car 293』(1938年)[1] と『Hotel Lobby』(1943年)[2]もふくまれる。[9] 1931年の絵『Barber Shop』[3] の女題材もまた、『オートマット』の女と、ポーズは類似しているし、見る者の彼女のイメージはおなじようにテーブルによって2分されている。 しかし題材を、真昼の明るい、ヒトが住む所に置くことで、女を、より孤独でなく、傷つきやすさを少なくし、したがって見る者の視線はより侵入的でなくなる。
レストラン
批評家キャロル・トローヤン(Carol Troyen)が注目するように、「絵のなかのどの細部よりもむしろ題名が、このレストランをオートマットと確認させる。」 しかしながら、トローヤンは続けて、レストランを、1920年代のニュー・ヨーカーにとって確認可能にしたであろう多くの特徴に注目する: 「それらは清潔で、能率的で、十分に照明され、そして--典型的には円いカラーラ(Carrera)大理石のテーブルとオーク無垢材の椅子が備え付けられて--上品ぶっていた。 ホッパーが絵を描くときまでに、オートマットは、働く女性がひとりで食事を取るのに安全かつ適当な場として利用が促進され始めていた。」[3] 1920年代のニュー・ヨーカーにとって、ホッパーの内部はただちに、オートマット(Automat)であると見分けがついたであろう。 タイムズスクエアのオートマットの1912年の写真は、ホッパーが描いたものと一致する、椅子と大理石の天板のテーブルの細部をすべて見せる。[10] しかしながら、これはタイムズ・スクエアのオートマットではない。 その場所の天井の照明は重大なことに、絵のそれよりもより装飾的であった。
オートマットは、終日、開いていたが、また「忙しい、騒がしい、そして匿名的。 それらはいちにち、1万人超の客に応対した。」[3] そのうえ、女は、レストラン全体で内観にはいちばん適していない場所にすわっている。 トローヤンが注目するように、彼女は出入り口に最も近いテーブルをえらんでいるし、背後、反対側にはレストランの地下階への階段がある。 たとえレストランが比較的すいていたにせよ、彼女のテーブルの横では常に足の往来があったであろう。 かくして、「人物の静かな、黙想的なようす」は、「都市のエネルギー、そのペース、その機械化されたリズムと歩調がずれて」いるし、彼女がすわるのに選んだ、特に忙しい場所によって、いっそう注目すべきである。
ウィンドー
ホッパーの絵はしばしば、見る者がウィンドーを、あるいはウィンドーごしに外をのぞき込むにつれて広がる小品文(vignette)をめぐって築き上げられる。 ときには、『Railroad Sunset』(1929年)、[4] 『ナイトホークス』(1942年)および『Office in a Small City』(1953年)の場合のように、 ホッパーが見る者の視線を2枚のガラス板ごしに導いたあとにさえ、場面の細部のむこうを見ることは、なおも可能である。 ホッパーは画面を暗くしたいと願望するとき、彼は、見る者の視点にたいして鋭角にウィンドーを置く、あるいは画面をカーテンあるいは鎧戸でさえぎる、傾向がある。 別のお気に入りの技法は--たとえば、『Conference at Night』(1949年)[5] に用いられている-- 太陽から、あるいは見えない街灯から鋭角に外部からあふれる、 明るい光を用い、 ウィンドーから遠い側から数インチ内の数個の世俗的な細部を照らし、そのことによって画面のより深い領域を影のなかに投じることである。
比較として、『オートマット』においては、ウィンドーは、絵を支配するし、それでいて「通りの何も、あるいは外のほかの何であれ、見られないことをゆるす。」[11] 夜のニュー・ヨークの通りは車および街灯からの光に満ちているから、外の真黒さは、ホッパーのいつもの技法からの、そしてリアリズムからの、両者からの出発である。 この完璧な空虚さは、内部からの反射像を、より劇的に目立たせ、見る者の女への焦点をはげしくさせることをゆるす。
ウィンドーは別の点で、写実主義的な画面ではなく、印象主義的な画面を伝える。 マーク・ストランド(Mark Strand)が注目するように、「ウィンドーは、天井照明の後退する2列のみを映し、オートマットの内部の他の何も映さない。」 ホッパーが、見る者を女からそらさせる注意散漫を避けるという目的でこれらの反射像を省略したことは、あり得る。 しかしながら、ストランドは、女の反射像が省略されていることの別の理由を示唆する:
「 | 絵はいくつかのことを示唆するが、しかし最も明白でもっとも反響を起こすのは、もしウィンドーが映すものが真であるならば、場面はリンボ(limbo)で起きているのであって、腰を下ろした女は幻影であるということである。
これは心を悩ませる考えである。 そしてもし女がこの文脈で自分自身のことを考えるならば、彼女はとうてい幸福であるはずがない。 しかしもちろん彼女は考えてはいないし、彼女は別の意志の所産、幻影、ホッパーの作り物である。[11] |
」 |
女の背後のうつろなウィンドーの焦点 効果は、ホッパーの後期の絵の1つ『Sunlight in a Cafeteria』(1958年)[6][12]と比較したとき、たいへんはっきりと見られ得る。 その絵においては、女題材と男題材は、『オートマット』の女題材と見る者によってそれぞれ占められるテーブルを思い出させる所の、他の点ではひとけの無い、カフェテリアにすわっている。 『オートマット』におけるウィンドーの下枠の果物のボウルは、『Sunlight in a Cafeteria』におけるウィンドーの下枠の小さな鉢植えの植物が相似者である。 しかし『Sunlight in a Cafeteria』においては、大きなウィンドーの外の十分に照らされた外の通りの場面は、一見したところでは、男の注意を相手役からそらし、そのために2つの題材は「いわば、同一の場面で演技していないように思われる。」[13] それとは対照的に、『オートマット』においては、見る者は女の存在にじゅうぶん注意を引かれている。
参照
- ^ Carol Troyen, Hopper in Gloucester, in Carol Troyen, Judith Barter, Janet Comey, Elliot Bostwick Davis and Ellen Roberts (eds.), Edward Hopper. Boston: MFA Publications (Museum of Fine Arts), 2007, p. 72.
- ^ Gail Levin, Edward Hopper: An Intimate Biography. New York: Rizzoli, (1995) 2007, p. 201.
- ^ a b c Carol Troyen, 'The Sacredness of Everyday Fact': Hopper’s Pictures of the City. In Carol Troyen, Judith Barter, Janet Comey, Elliot Bostwick Davis and Ellen Roberts (eds.), Edward Hopper. Boston: MFA Publications (Museum of Fine Arts), 2007, p. 118.
- ^ Iversen, Margaret, Edward Hopper. Tate Publishing, 2004, p. 57.
- ^ Schmied, Wieland, Edward Hopper: Portraits of America. Translated by John William Gabriel. Munich: Prestel, 1999, p. 76.
- ^ Time magazine, August 28, 1995.
- ^ Ivo Kranzfelder, Hopper. Cologne, Germany: Benedikt Taschen, 2010, p. 146.
- ^ Robert Hobbs, Edward Hopper. New York: Harry N. Abrams, 1987, p. 72.
- ^ The comparison between Automat and Hotel Lobby is made in Robert Hobbs, Edward Hopper. New York: Harry N. Abrams, 1987, p. 137.
- ^ See photograph in Lorraine B. Diehl and Marianne Hardart, The Automat: The History, Recipes, and Allure of Horn and Hardart's Masterpiece. New York: Clarkson Potter, 2002, p. 26.
- ^ a b Mark Strand, Hopper. New York: Knopf, 2007, p. 43.
- ^ The comparison between Automat and Sunlight in a Cafeteria is made in Ivo Kranzfelder, Hopper. Cologne, Germany: Benedikt Taschen, 2010, p. 146, and in Lloyd Goodrich, Edward Hopper. New York: Abradale Press / Harry N. Abrams, 1983, p. 133.
- ^ Rolf Gunter Renner, Edward Hopper. Cologne, Germany: Benedikt Taschen, 1990, p. 81.