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「モーシェ・ベン=マイモーン」の版間の差分

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|名前 = モーシェ・ベン=マイモーン
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|影響を受けた人物 = [[タルムード]]、[[アリストテレス]]、[[ファーラービー]]、[[アウィケンナ]]、[[イブン・バーッジャ]]、[[アウェロエス]]、[[ガザーリー]]<ref name = "H-Net">{{cite web | url = http://www.h-net.org/reviews/showrev.cgi?path=227091077594594 | title = H-Net|accessdate=1 January 2008}}</ref><ref name = "Islamic Influences">{{cite web | url = http://plato.stanford.edu/entries/maimonides-islamic/ | title = Maimonides Islamic Influences | work = Plato | publisher = Stanford|accessdate=1 January 2008}}</ref>
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|影響を与えた人物 = [[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]、[[トマス・アクィナス|アクィナス]]、[[ジャン・ボダン|ボーダン]]、[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]、[[モーデキャイ・カプラン|カプラン]]<ref>[http://www.muslimphilosophy.com/ip/rep/J014|Maimonides Moses (1138-1204)]{{dead link|date=March 2010}}</ref>、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]<ref>{{cite web|url=http://www.achgut.com/dadgdx/index.php/dadgd/article/issac_newton_judaic_monotheist_of_the_school_of_maimonides/ |title=Isaac Newton: “Judaic monotheist of the school of Maimonides” |publisher=Achgut.com |date=2007-06-19 |accessdate=2010-03-13}}</ref>、[[レオ・シュトラウス|シュトラウス]]
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ラビ・'''モーシェ・ベン=マイモーン'''({{lang-he|&#1512;&#1489;&#1497; &#1502;&#1513;&#1492; &#1489;&#1503; &#1502;&#1497;&#1497;&#1502;&#1493;&#1503;}} Mōšéh ben Mayimōn, {{ArB| ابو عمران موسى ابن عبيد اللّه ميمون القرطبي الإسرائيلي}} Abū ‘Imrān Mūsa ibn ‘Ubayd Allāh Maymūn al-Qurṭubī al-Isrā'īlī, [[スペイン語]]:Moises Maimonides, [[ラテン語]](本来は[[ギリシア語]]):Moses Maimonides, [[1135年]][[3月30日]] - [[1204年]][[12月13日]])は[[スペイン]]の[[ユダヤ教徒]]の[[ラビ]]であり、[[哲学者]]。[[医学]]・[[天文学]]・[[神学]]にも精通していた。[[カバラ|カバリスト]]、[[アリストテレス]]主義者、[[新プラトン主義]]者。
[[画像:Maimonides Memorial-Córdoba.jpg|thumb|300px||コルドバにあるマイモニデス像]]
ラビ・'''モーシェ・ベン=マイモーン'''({{lang-he|&#1512;&#1489;&#1497; &#1502;&#1513;&#1492; &#1489;&#1503; &#1502;&#1497;&#1497;&#1502;&#1493;&#1503;}} Mōšéh ben Mayimōn, {{ArB| ابو عمران موسى ابن عبيد اللّه ميمون القرطبي الإسرائيلي}} Abū ‘Imrān Mūsa ibn ‘Ubayd Allāh Maymūn al-Qurṭubī al-Isrā'īlī, [[スペイン語]]:Moises Maimonides, [[ラテン語]](本来は[[ギリシア語]]):Moses Maimonides, [[1135年]][[3月30日]] - [[1204年]][[12月13日]])は[[スペイン]]の[[ユダヤ教徒]]の[[ラビ]]であり、[[哲学者]]。[[アイユーブ朝]]前後のアラビア語資料ではイブン=マイムーンの名前で表れるが、一般にラテン語での'''マイモニデス'''という名前のほうが知られている。'''ラムバム''' RaMBaM ({{lang|he|&#1492;&#1512;&#1502;&#1489;"&#1501;}}) というヘブライ語的な略称でも知られる。[[医学]]・[[天文学]]・[[神学]]にも精通していた。[[カバラ|カバリスト]]、[[アリストテレス]]主義者、[[新プラトン主義]]者。


彼の業績は「モーシェの前にモーシェなく、モーシェの後にモーシェなし」と称賛され<ref name="sach305">ザハル『ユダヤ人の歴史』、305頁</ref>、[[ルネサンス]]の[[ヒューマニズム]]の先駆者と評価される<ref name="dim190">ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、190頁</ref>。
==生涯==
[[コルドバ]]出身。<ref name=WDL1>{{cite web|title=The Guide to the Perplexed|url=http://www.wdl.org/en/item/3963/|publisher=World Digital Library|accessdate=22 January 2013}}</ref>父ラビ・マイモーンは代々続くラビの名門の出身で、コルドバのユダヤ教徒社会の最高判事も務めた。モーシェ自身も青少年時代を同地で過ごし[[ユダヤ教学]]や哲学について研鑽に努め、同郷人であった[[イブン=ルシュド]]ともこの時代に知己を得ていたと伝えられる。


[[アイユーブ朝]]前後のアラビア語資料ではイブン・マイムーンの名前で表れるが、ラテン語での'''マイモニデス'''という名前でも知られている。'''ラムバム''' RaMBaM ({{lang|he|&#1492;&#1512;&#1502;&#1489;"&#1501;}}) という、「ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン」の頭文字をとったヘブライ語的な略称でも知られる<ref>矢島祐利『アラビア科学史序説』(岩波書店, 1977年3月)、235頁</ref>。
[[ムワッヒド朝]]による[[ユダヤ教]]・[[キリスト教]]徒への迫害・虐殺を避けるためイスラームに偽装改宗するが、それでも危険と判断しアルメリア地方へ移住。ここも程なくムワッヒド朝軍の侵攻に晒され、[[モロッコ]]の[[フェズ]]、[[パレスチナ]]、[[アレクサンドリア]]を経て、[[1165年]]頃[[カイロ]]南部の[[フスタート]]に移住。ここでイスラーム教徒の友人の助けを借りてイスラーム法廷で、本来ならば非常に難しいイスラームへの改宗の無効化を勝ち取る。


== 生涯 ==
現地のユダヤ教徒社会の指導者として活躍する。[[アイユーブ朝]]の[[サラーフッディーン]](サラディン)およびその子[[アル・アジーズ]]の侍医となる。「名医」と呼ばれ、イスラムの王侯貴族達を診察した。カイロのユダヤ教団を主宰し([[1177年]]来)、同地に没。[[モーセ]]の辿った道を運ばれて[[ティベリア]]に葬られ、その墓は今なお巡礼者が絶えない。カイロのラッビー・モーシェ・ベン・マイモーンの[[シナゴーグ]]の地下の一室は、病んで貧しいユダヤ教徒が夜を過して平癒を祈る所となる。
[[Image:Maimonides Memorial-Córdoba.jpg|thumb|200px||コルドバにあるマイモニデス像]]
[[Image:Maimonides stamp 1953.jpg|thumb|140px||1953年にイスラエルで発行された記念切手]]
[[コルドバ]]出身<ref name=WDL1>{{cite web|title=The Guide to the Perplexed|url=http://www.wdl.org/en/item/3963/|publisher=World Digital Library|accessdate=22 January 2013}}</ref><ref name="kobayashi">小林「イブン・マイムーン」『岩波イスラーム辞典』、165-166頁</ref>。代々続くラビの名門の出身で、一族は判事、学者、財政家を輩出した<ref>ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、189頁</ref>。モーシェの父ヨセフは学者として有名であり、コルドバのユダヤ教徒社会の最高判事も務めた。母はモーシェを生んだ直後に亡くなった<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、27頁</ref>。


モーシェ自身も青少年時代を同地で過ごし[[ユダヤ教学]]やアラビアの諸学問について研鑽に努める<ref name="kuroda">黒田「マイモニデス」『新イスラム事典』、446-447頁</ref>。ヨセフからは数学と天文学の基礎のほかに、ユダヤ神学とラビ文学を教わった<ref name="horupu">コートネイ「イブン・マイムーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、415-417頁</ref>。ヨセフの思いに反して幼いモーシェは学問に興味を示さず、父の厳格な教育に耐えかねて家出したことが伝えられている<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、28頁</ref>。同郷人であった[[イブン・ルシュド]](アヴェロエス)ともこの時代に知己を得ていたと伝えられる<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、30頁</ref>。
== 著作と思想 ==
著作はアラビア語で行われたが、それは直ちにヘブライ語に訳された。彼の死後数十年して、さらにラテン語に翻訳されたのだが、それはおそらく、神聖ローマ皇帝・[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]の依嘱によったものと思われる。


[[ムワッヒド朝]]による[[ユダヤ教]]と[[キリスト教徒]]への迫害・虐殺を避けるためイスラームに偽装改宗するが、それでも危険と判断しアルメリア地方へ移住。ここも程なくムワッヒド朝軍の侵攻に晒され、[[モロッコ]]の[[フェズ]]に移住した。放浪の旅の中での見聞は、モーシェの視野の成長に大きく寄与した<ref name="sach305"/>。モーシェは旅の合間に[[ユダヤ暦]]を扱った論文を書き上げ、『ミシュナー註解』の編集に取り掛かった<ref name="sach305"/>。
[[割礼]]法を改善し、痔疾は便秘より起るとし、その療法に野菜を主とする軽い食事を奨めた。『医学至言集 al-Fuṣūl fil-Ṭibb』がその医学関係著書のうちで最も有名。


フェズ居住中、モーシェは隠れユダヤ教徒(棄教を強制されて表面上は改宗したように見せかけたユダヤ教徒)を攻撃する匿名の書簡に反論する文書をしたためた。これが公刊された最初の論文となった<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、52-58頁</ref>。フェズでモーシェたちは強制的に改宗させられる危機に直面するが<ref name="sach306">ザハル『ユダヤ人の歴史』、306頁</ref><ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、62頁</ref>、一家は信仰の放棄と殉教のどちらも選択せず、1165年4月に[[パレスチナ]]行きの船に乗って出立した<ref name="horupu"/>。翌5月に[[アッコ|アッコン]]に到着、パレスチナでは[[十字軍]]に護衛されながらユダヤ教の聖地を訪問した。
モーシェ・ベン=マイモーンが残した最大の成果は、従来の膨大なユダヤ法に関する諸資料を体系的に分類し、かつ法典化した『[[ミシュネー・トーラー]]』である。同書はタルムード・アラム語ではなく、ミシュナの形式のヘブライ語で書かれている。
また、哲学書『[[迷える人々の為の導き]]』は、信仰を失った哲学者たちに呼びかけた著作で、その目的は、[[アリストテレス]]とユダヤ教神学とを宥和させることにあった。トーラーの聖句に隠された意味についてアリストテレス派・アラブ哲学者の見解を用いて読み解こうと試み、ユダヤ教神学を合理的に解釈した。アリストテレスは月下の世界に関する権威だが、啓示というものは天上の世界に関する権威である、と彼はいう。しかし神に関する知識において哲学と啓示とは合一するのであり、真理の追求は宗教的な義務であるという。後にラテン語に訳され、キリスト教神学者達、[[アルベルトゥス・マグヌス]]、[[トマス・アクィナス]]、[[エックハルト]]から高い評価を受ける。


[[1166年]]に[[カイロ]]南部の[[フスタート]](旧カイロ)に移住するが、同年に父ヨセフを亡くす<ref name="horupu"/>。ここでイスラーム教徒の友人の助けを借りてイスラーム法廷で、本来ならば非常に難しいイスラームへの改宗の無効化を勝ち取る。父の死後にラビ職に就くが、モーシェは報酬を受け取ろうとはしなかった<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、80頁</ref>。そのため、弟のダビデが遺産を元手に宝石商を始め、モーシェの代わりに一家を支えた<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、82頁</ref>。ヨセフの没後は宝石商を営む弟ダビデが生計を支えていたが、ダビデが海難事故で亡くなると一家は困窮し、モーシェは医業によって家計を支えることを決意する<ref name="horupu"/>。移住後、現地のユダヤ教徒社会の指導者として活躍し<ref name="kobayashi"/>、職務には無給で従事した<ref name="horupu"/>。ユダヤ人社会で起きた法的問題に当を得た回答をし、相談者たちはモーシェを称賛した<ref>ザハル『ユダヤ人の歴史』、308頁</ref>。しかし、健康を害して床に臥せることが多くなり、しばしば[[カライ派]]と対立した<ref name="sach306"/>。フスタート移住後、バビロニア派とパレスチナ派に分かれた、異なる宗教儀礼を行う現地のユダヤ人の統合を試みた<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、99-100頁</ref>。
彼は占星衝を退けている。[[モーゼ五書]]はかならずしも文字通りにとるべきではなく、文字通りの意味が理性に反する場合には、比喩的な解釈を求めねばならないという。また彼はアリストテレスに反対して、神は無から形相を創造したばかりでなく質料をも創造したのだ、と主張している。『[[ティマイオス]]』(このアラビア語訳を彼は知っていた)の概要をも述べていて、その[[プラトン]]の対話篇を若干の点でアリストテレスより優れたものであるという。


移住後にかねてから編集していた『ミシュナー註解』を完成させ、[[1168年]]に発表した。[[1173年]]、モーシェはエジプトを支配する[[アイユーブ朝]]の君主[[サラーフッディーン]](サラディン)の妃に仕えていた女性と結婚する<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、340-341頁</ref>。
さまざまな完全性を属性とする神の本質は知り得ないものである、とも彼はいう。ユダヤ人たちは彼を異端視し、キリスト教会の権威者たちを引きあいに出して、彼を論難するようなことまでやった。同胞から迫害されたところが、聖書を合理的に解釈してユダヤ教徒たちに破門されたスピノザと共通している。さらにスピノザの祖先がスペイン出身であったことなどから、マイモニデスから[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]への思想上の系譜を想定する学者もいるが、[[バートランド・ラッセル]]はそれは疑わしいとしている。


モーシェはアイユーブ朝の[[カーディー]]・[[アル・ファーディル]]と親交を結び、[[1185年]]<ref name="sach307">ザハル『ユダヤ人の歴史』、307頁</ref>(あるいは[[1187年]]ごろ<ref name="he216">ヘッシェル『マイモニデス伝』、216頁</ref>)に宮廷医に指名される。アル・ファーディルの信頼を得たことで医師としての名声が高まり、宮廷医としての名声は彼をカイロのユダヤ人共同体の指導者の地位に就けた<ref name="he216"/>。また、1185年にはモーシェに息子が生まれ、彼は子にアブラハムと名付けた<ref name="he216"/>。
==13の信仰箇条==

キリスト教と違ってユダヤ教には[[信仰]]箇条・[[信条]]というものは存在しないが(これもユダヤ教の広さの一つである)、歴史の中で試みがされなかったわけではない。代表的なものがマイモニデスによるものである。現在でもユダヤ教徒の間で個人的に使用されることがある。
モーシェはサラディンおよびその子[[アル・アジーズ]]の侍医となり、イスラムの王侯貴族達を診察した。[[イングランド王国|イングランド]]王[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード1世]]からイングランド王室の侍医になるよう打診されたが、モーシェは「野蛮」なヨーロッパ世界よりも「文明的」なイスラム世界を好み、勧誘を断った<ref name="dim190"/><ref name="kajita">梶田『医学の歴史』、149-150頁</ref>。

[[1204年]]にフスタートで没する。遺体は[[モーセ]]の辿った道を運ばれて[[ガリラヤ湖|ガリラヤ湖畔]]の[[ティベリア]]に葬られ、その墓は今なお巡礼者が絶えない。葬列は[[ベドウィン]]に襲われたが参列者の中に動揺する者は無く、ベドウィンたちも葬列に加わった伝承が残る<ref>ザハル『ユダヤ人の歴史』、309頁</ref>。カイロのラッビー・モーシェ・ベン=マイモーンの[[シナゴーグ]]の地下の一室は、病んで貧しいユダヤ教徒が夜を過して平癒を祈る所となった。

[[1953年]]に[[イスラエル]]で国際科学史会議が開催された記念として、モーシェの切手が発行された<ref>矢島祐利『アラビア科学の話』(岩波新書, 岩波書店, 1965年)、154頁</ref>。また、モーシェの肖像画はイスラエルで発行された紙幣にも採用された<ref>上田『ユダヤ人』、49頁</ref>。

== 著作 ==
モーシェは講義を好まず、著述によって自身の思想を伝えることを好んだ<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、94頁</ref>。著作はアラビア語で行われたが、それは直ちにヘブライ語に訳された。彼の死後数十年して、さらにラテン語に翻訳された。

=== ユダヤ神学、哲学 ===
モーシェ・ベン=マイモーンが残した最大の成果は、従来の膨大なユダヤ法に関する諸資料を体系的に分類し、かつ法典化した『[[ミシュネー・トーラー]]』である<ref name="kobayashi"/>。同書はタルムード・アラム語ではなく、ミシュナの形式のヘブライ語で書かれている。『ミシュネー・トーラー』は『ミシュナー註解』と合わせて、ユダヤ人社会で高い評価を受けた<ref name="horupu"/>。

また、哲学書『[[迷える人々の為の導き]]』は、信仰を失った哲学者たちに呼びかけた著作で、その目的は、[[アリストテレス]]とユダヤ教神学とを宥和させることにあった。トーラーの聖句に隠された意味についてアリストテレス派<ref name="kobayashi"/>と、[[ファーラービー]]や[[イブン・スィーナー]]らアラブ哲学者の見解を用いて読み解こうと試み<ref name="kuroda"/>、ユダヤ教神学を合理的に解釈した。アリストテレスは月下の世界に関する権威だが、啓示というものは天上の世界に関する権威である、と彼はいう。しかし神に関する知識において哲学と啓示とは合一するのであり、真理の追求は宗教的な義務であるという。イスラム世界では物議をかもし<ref name="kuroda"/>、保守的な思想を持つユダヤ人の一派はモーシェの哲学書を焼却した<ref>ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、190-191頁</ref>。その思想はあまりに合理的すぎると批判もされたが、聖書の哲学的解釈の先駆けとして後世に影響を与えた<ref name="kobayashi"/>。

後に『迷える人々の為の導き』はラテン語に訳され、[[アルベルトゥス・マグヌス]]、[[トマス・アクィナス]]、[[エックハルト]]らのキリスト教神学者達から高い評価を受ける<ref name="kobayashi"/><ref name="kuroda"/>。

モーシェは自身の思想は理解しがたい高度なものであると考えており、読者が一定の学識を有することを前提として著述を行った<ref name="dei191">ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、191頁</ref>。そこには無知な一般大衆を蔑視するモーシェの態度が表れているが<ref>上田『ユダヤ人』、50-51頁</ref>、それでも文章の表現は華美と評価されている<ref name="dei191"/>。もっとも、相手を嘲笑する文体はモーシェ自身も嫌悪しており、極力表現を抑えようと努力していた<ref name="hesc43">ヘッシェル『マイモニデス伝』、43頁</ref>。

=== 医学 ===
「真理の認識」には身体の健康と正しい生活様式が重要な役割を持つと、モーシェは考えていた<ref name="hesc34">ヘッシェル『マイモニデス伝』、34頁</ref>。「最も素晴らしい神を礼拝する行為の1つ」として、若いころから医学の研究に打ち込んでいた<ref name="hesc34"/>。

[[喘息]]、痔疾、性交、[[ヒポクラテス]]と[[ガレノス]]の箴言への注釈、[[養生論]]、[[毒性学|中毒学]]、[[医療倫理学]]など、多岐にわたる分野の著書を残した。『医学至言集 al-Fuṣūl fil-Ṭibb』が医学関係著書のうちで最も有名。[[割礼]]法を改善し、痔疾は便秘より起るとし、その療法に野菜を主とする軽い食事を奨めた。著書はアラビア語で書かれ、後にヘブライ語、ラテン語に訳された<ref>カステーヨ、カポーン『図説ユダヤ人の2000年 歴史篇』、143頁</ref>。さらに近代各国語にも訳され、死後にユダヤ人世界の医学聖人とされて尊敬を受ける<ref name="kajita"/>。

== 思想 ==
モーシェは過去のアラビア、ギリシャ、ユダヤの哲学者たちの思想を研究していたが、その中で師として認めていたのはアリストテレスだけだった<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、37頁</ref>。また彼はアリストテレスに反対して、神は無から形相を創造したばかりでなく質料をも創造したのだ、と主張している。『[[ティマイオス]]』(このアラビア語訳を彼は知っていた)の概要をも述べていて、その[[プラトン]]の対話篇を若干の点でアリストテレスより優れたものであるという。

同時代の人間が関心を持っていた歴史書、諸王の言行録、系譜図、歌謡集には興味を持たず、無為なものと考えていた<ref>ヘッシェル『マイモニデス伝』、35頁</ref>。同時代の低質な読み物と、その中で述べられている意見を冷たい目で見ていた<ref name="hesc43"/>。

モーシェ・ベン=マイモーンは占星衝を否定している。[[モーゼ五書]]はかならずしも文字通りにとるべきではなく、文字通りの意味が理性に反する場合には、比喩的な解釈を求めねばならないという。

さまざまな完全性を属性とする神の本質は知り得ないものである、とも彼はいう。ユダヤ人たちは彼を異端視し、キリスト教会の権威者たちを引きあいに出して、彼を論難するようなことまでやった。同胞から迫害されたところが、聖書を合理的に解釈してユダヤ教徒たちに破門された[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]と共通している。さらにスピノザの祖先がスペイン出身であったことなどから、モーシェからスピノザへの思想上の系譜を想定する学者もいるが、[[バートランド・ラッセル]]はそれは疑わしいとしている。

== 13の信仰箇条 ==
キリスト教と異なりユダヤ教には[[信仰]]箇条・[[信条]]というものは存在しないが、歴史の中でそれらを作成する試みがされなかったわけではない。代表的なものがモーシェ・ベン=マイモーンによるものである。モーシェの信仰箇条は、多くのユダヤ人から権威ある指針と見なされた<ref name="sach307"/>。


''[[:en:Jewish principles of faith]]'' も参照
''[[:en:Jewish principles of faith]]'' も参照
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Maimonides composed both works of Jewish scholarship, and medical texts. Most of Maimonides' works were written in [[アラビア語]]. However, ''Mishneh Torah'' was written in [[ヘブライ語]]. His Jewish texts were:
Maimonides composed both works of Jewish scholarship, and medical texts. Most of Maimonides' works were written in [[アラビア語]]. However, ''Mishneh Torah'' was written in [[ヘブライ語]]. His Jewish texts were:
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* ミシュナー註解 ''The Commentary on the Mishna''<!--, written in Arabic. This text was one of the first commentaries of its kind; its introductory sections are widely-quoted.--> See [[:en:Mishnah#Commentaries|Mishnah Commentaries]] を参照
* ミシュナー註解 ''The Commentary on the Mishna''<!--, written in Arabic. This text was one of the first commentaries of its kind; its introductory sections are widely-quoted.--> See [[:en:Mishnah#Commentaries|Mishnah Commentaries]] を参照
* [[セーフェル・ハン=ミツウォート]] ''[[:en:Sefer Hamitzvot|Sefer Hamitzvot]]'' ([[ミツワー]]の書 "The Book of Commandments"). ''[[613のミツワー]]'' を参照
* [[セーフェル・ハン=ミツウォート]] ''[[:en:Sefer Hamitzvot|Sefer Hamitzvot]]'' ([[ミツワー]]の書 "The Book of Commandments"). ''[[613のミツワー]]'' を参照
* [[ミシュネー・トーラー]] ''The [[:en:Mishneh Torah|Mishneh Torah]]'' ("Yad ha-Chazaka" とも)<!--, a comprehensive code of Jewish law;-->
* [[ミシュネー・トーラー]] ''The [[:en:Mishneh Torah|Mishneh Torah]]'' ("Yad ha-Chazaka" とも)<!--, a comprehensive code of Jewish law;-->
* [[迷える人々の為の導き]] ''The [[:en:Guide for the Perplexed|Guide for the Perplexed]]''<!--, a philosophical work harmonising and differentiating [[Aristotle|Aristotelian]] philosophy and Jewish theology;-->
* [[迷える人々の為の導き]] ''The [[:en:Guide for the Perplexed|Guide for the Perplexed]]''<!--, a philosophical work harmonising and differentiating [[Aristotle|Aristotelian]] philosophy and Jewish theology;-->
* [[テシューボート]] ''Teshuvot'' - [[レスポンサ]]<!--, collected correspondence and [[:en:responsa]], including a number of public letters (on resurrection and the [[:en:after-life]], on conversion to other faiths, and ''Iggereth Teiman'' - addressed to the oppressed Jewry of [[Yemen]]).-->
* [[テシューボート]] ''Teshuvot'' - [[レスポンサ]]<!--, collected correspondence and [[:en:responsa]], including a number of public letters (on resurrection and the [[:en:after-life]], on conversion to other faiths, and ''Iggereth Teiman'' - addressed to the oppressed Jewry of [[Yemen]]).-->
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Maimonides also wrote a number of medical texts; some of which are still in existence. The best known is his collection of [[medical]] [[aphorism]]s, titled ''Fusul Musa'' in Arabic ("Chapters of Moses", ピルケー・モーシェ ''Pirqey Mosheh'' in Hebrew).
Maimonides also wrote a number of medical texts; some of which are still in existence. The best known is his collection of [[medical]] [[aphorism]]s, titled ''Fusul Musa'' in Arabic ("Chapters of Moses", ピルケー・モーシェ ''Pirqey Mosheh'' in Hebrew).
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==文献案内==
== 脚註 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* 上田和夫『ユダヤ人』(講談社現代新書, 講談社, 1986年11月)、49-51頁
* [[梶田昭]]『医学の歴史』(講談社学術文庫, [[講談社]], 2003年9月)、149-150頁
* [[黒田壽郎]]「マイモニデス」『新イスラム事典』収録([[平凡社]], 2002年3月)
* 小林春夫「イブン・マイムーン」『岩波イスラーム辞典』収録([[岩波書店]], 2002年2月)
* エレーナ・ロメーロ・カステーヨ、ウリエル・マシーアス・カポーン『図説ユダヤ人の2000年 歴史篇』(那岐一尭訳, 同朋舎出版, 1996年7月)、143頁
* マックス.I.ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻(藤本和子訳, 朝日選書, 朝日新聞社, 1984年10月)
* ウィリアム.J.コートネイ「イブン・マイムーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録([[桑原武夫]]編, [[ほるぷ出版]], 1980年12月)
* [[アブラハム・ヨシュア・ヘッシェル|A・J・ヘッシェル]]『マイモニデス伝』(森泉弘次訳, ​​教​文​館, 2006年7月)
* アブラム・レオン・ザハル『ユダヤ人の歴史』(滝川義人訳, 世界歴史叢書, [[明石書店]], 2003年8月)

== 文献案内 ==
* Marvin Fox ''Interpreting Maimonides'', Univ. of Chicago Press 1990.
* Marvin Fox ''Interpreting Maimonides'', Univ. of Chicago Press 1990.
* [[ユリウス・グットマン]] Julius Guttman, ''Philosophies of Judaism'' Translated by David Silverman, JPS, 1964
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* ''Dogma in Medieval Jewish Thought'', Menachem Kellner, Oxford University press, 1986
* ''Dogma in Medieval Jewish Thought'', Menachem Kellner, Oxford University press, 1986
* ''Maimonides Thirteen Principles: The Last Word in Jewish Theology?'' Marc. B. Shapiro, ''The Torah U-Maddah Journal'', Vol. 4, 1993, Yeshiva University
* ''Maimonides Thirteen Principles: The Last Word in Jewish Theology?'' Marc. B. Shapiro, ''The Torah U-Maddah Journal'', Vol. 4, 1993, Yeshiva University
* ''A History of Jewish Philosophy'', Isaac Husik, Dover Publications, Inc., 2002. Originally published in 1941 by the Jewish Publication of America, Philadelphia, pp. 236-311
* ''A History of Jewish Philosophy'', Isaac Husik, Dover Publications, Inc., 2002. Originally published in 1941 by the Jewish Publication of America, Philadelphia, pp. 236-311
*[[アブラハム・ヨシュア・ヘッシェル|A・J・ヘッシェル]]『マイモニデス伝』(2006年、教文館)


== 外部リンク ==
==脚註==
{{Reflist}}

==外部リンク==
* [http://www.jnul.huji.ac.il/dl/mss/html/rambam_l.htm Treasures of the JNUL: Writings of Maimonides (Manuscripts and Early Print Editions)]
* [http://www.jnul.huji.ac.il/dl/mss/html/rambam_l.htm Treasures of the JNUL: Writings of Maimonides (Manuscripts and Early Print Editions)]
* [http://members.aol.com/LazerA/13yesodos.html The Foundations of Jewish Belief]
* [http://www.chabad.org/library/article.asp?AID=107769 マイモニデスの伝記(ハバド)]
* [http://www.chabad.org/library/article.asp?AID=107769 マイモニデスの伝記(ハバド)]
* [http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/biography/Maimonides.html Maimonides/Rambam] - [[Jewish Virtual Library]]
* [http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/biography/Maimonides.html Maimonides/Rambam] - [[Jewish Virtual Library]]
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* [http://www.jnul.huji.ac.il/dl/mss/html/rambam_l.htm Writings of Maimonides (Manuscripts and Early Print Editions)]
* [http://www.jnul.huji.ac.il/dl/mss/html/rambam_l.htm Writings of Maimonides (Manuscripts and Early Print Editions)]
* [http://www.panix.com/~jjbaker/rambam.html Maimonides Page: links to online resources]
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* [http://members.aol.com/LazerA/13yesodos.html The Foundations of Jewish Belief]
* [http://www.mechon-mamre.org/e/e0000.htm ミシュネー・トーラーへのラムバムの紹介(英訳)]
* [http://www.mechon-mamre.org/e/e0000.htm ミシュネー・トーラーへのラムバムの紹介(英訳)]
* [http://www.daat.ac.il/daat/mahshevt/hakdama/tohen-m-2.htm ミシュナー註解のラムバムの紹介 (ヘブライ語フルテキスト)]
* [http://www.daat.ac.il/daat/mahshevt/hakdama/tohen-m-2.htm ミシュナー註解のラムバムの紹介 (ヘブライ語フルテキスト)]
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[[Category:コルドバ出身の人物]]
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[[Category:アンダルス]]
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[[zh:邁蒙尼德]]

2013年6月21日 (金) 10:43時点における版

モーシェ・ベン=マイモーン
時代 中世哲学
地域 アラブ中世
学派 ユダヤ哲学ユダヤ法学ユダヤ倫理
テンプレートを表示

ラビ・モーシェ・ベン=マイモーンヘブライ語: רבי משה בן מיימון‎ Mōšéh ben Mayimōn, アラビア語 ابو عمران موسى ابن عبيد اللّه ميمون القرطبي الإسرائيلي‎ ​ Abū ‘Imrān Mūsa ibn ‘Ubayd Allāh Maymūn al-Qurṭubī al-Isrā'īlī, スペイン語:Moises Maimonides, ラテン語(本来はギリシア語):Moses Maimonides, 1135年3月30日 - 1204年12月13日)はスペインユダヤ教徒ラビであり、哲学者医学天文学神学にも精通していた。カバリストアリストテレス主義者、新プラトン主義者。

彼の業績は「モーシェの前にモーシェなく、モーシェの後にモーシェなし」と称賛され[5]ルネサンスヒューマニズムの先駆者と評価される[6]

アイユーブ朝前後のアラビア語資料ではイブン・マイムーンの名前で表れるが、ラテン語でのマイモニデスという名前でも知られている。ラムバム RaMBaM (הרמב"ם) という、「ラビ・モーシェ・ベン=マイモーン」の頭文字をとったヘブライ語的な略称でも知られる[7]

生涯

コルドバにあるマイモニデス像
1953年にイスラエルで発行された記念切手

コルドバ出身[8][9]。代々続くラビの名門の出身で、一族は判事、学者、財政家を輩出した[10]。モーシェの父ヨセフは学者として有名であり、コルドバのユダヤ教徒社会の最高判事も務めた。母はモーシェを生んだ直後に亡くなった[11]

モーシェ自身も青少年時代を同地で過ごしユダヤ教学やアラビアの諸学問について研鑽に努める[12]。ヨセフからは数学と天文学の基礎のほかに、ユダヤ神学とラビ文学を教わった[13]。ヨセフの思いに反して幼いモーシェは学問に興味を示さず、父の厳格な教育に耐えかねて家出したことが伝えられている[14]。同郷人であったイブン・ルシュド(アヴェロエス)ともこの時代に知己を得ていたと伝えられる[15]

ムワッヒド朝によるユダヤ教キリスト教徒への迫害・虐殺を避けるためイスラームに偽装改宗するが、それでも危険と判断しアルメリア地方へ移住。ここも程なくムワッヒド朝軍の侵攻に晒され、モロッコフェズに移住した。放浪の旅の中での見聞は、モーシェの視野の成長に大きく寄与した[5]。モーシェは旅の合間にユダヤ暦を扱った論文を書き上げ、『ミシュナー註解』の編集に取り掛かった[5]

フェズ居住中、モーシェは隠れユダヤ教徒(棄教を強制されて表面上は改宗したように見せかけたユダヤ教徒)を攻撃する匿名の書簡に反論する文書をしたためた。これが公刊された最初の論文となった[16]。フェズでモーシェたちは強制的に改宗させられる危機に直面するが[17][18]、一家は信仰の放棄と殉教のどちらも選択せず、1165年4月にパレスチナ行きの船に乗って出立した[13]。翌5月にアッコンに到着、パレスチナでは十字軍に護衛されながらユダヤ教の聖地を訪問した。

1166年カイロ南部のフスタート(旧カイロ)に移住するが、同年に父ヨセフを亡くす[13]。ここでイスラーム教徒の友人の助けを借りてイスラーム法廷で、本来ならば非常に難しいイスラームへの改宗の無効化を勝ち取る。父の死後にラビ職に就くが、モーシェは報酬を受け取ろうとはしなかった[19]。そのため、弟のダビデが遺産を元手に宝石商を始め、モーシェの代わりに一家を支えた[20]。ヨセフの没後は宝石商を営む弟ダビデが生計を支えていたが、ダビデが海難事故で亡くなると一家は困窮し、モーシェは医業によって家計を支えることを決意する[13]。移住後、現地のユダヤ教徒社会の指導者として活躍し[9]、職務には無給で従事した[13]。ユダヤ人社会で起きた法的問題に当を得た回答をし、相談者たちはモーシェを称賛した[21]。しかし、健康を害して床に臥せることが多くなり、しばしばカライ派と対立した[17]。フスタート移住後、バビロニア派とパレスチナ派に分かれた、異なる宗教儀礼を行う現地のユダヤ人の統合を試みた[22]

移住後にかねてから編集していた『ミシュナー註解』を完成させ、1168年に発表した。1173年、モーシェはエジプトを支配するアイユーブ朝の君主サラーフッディーン(サラディン)の妃に仕えていた女性と結婚する[23]

モーシェはアイユーブ朝のカーディーアル・ファーディルと親交を結び、1185年[24](あるいは1187年ごろ[25])に宮廷医に指名される。アル・ファーディルの信頼を得たことで医師としての名声が高まり、宮廷医としての名声は彼をカイロのユダヤ人共同体の指導者の地位に就けた[25]。また、1185年にはモーシェに息子が生まれ、彼は子にアブラハムと名付けた[25]

モーシェはサラディンおよびその子アル・アジーズの侍医となり、イスラムの王侯貴族達を診察した。イングランドリチャード1世からイングランド王室の侍医になるよう打診されたが、モーシェは「野蛮」なヨーロッパ世界よりも「文明的」なイスラム世界を好み、勧誘を断った[6][26]

1204年にフスタートで没する。遺体はモーセの辿った道を運ばれてガリラヤ湖畔ティベリアに葬られ、その墓は今なお巡礼者が絶えない。葬列はベドウィンに襲われたが参列者の中に動揺する者は無く、ベドウィンたちも葬列に加わった伝承が残る[27]。カイロのラッビー・モーシェ・ベン=マイモーンのシナゴーグの地下の一室は、病んで貧しいユダヤ教徒が夜を過して平癒を祈る所となった。

1953年イスラエルで国際科学史会議が開催された記念として、モーシェの切手が発行された[28]。また、モーシェの肖像画はイスラエルで発行された紙幣にも採用された[29]

著作

モーシェは講義を好まず、著述によって自身の思想を伝えることを好んだ[30]。著作はアラビア語で行われたが、それは直ちにヘブライ語に訳された。彼の死後数十年して、さらにラテン語に翻訳された。

ユダヤ神学、哲学

モーシェ・ベン=マイモーンが残した最大の成果は、従来の膨大なユダヤ法に関する諸資料を体系的に分類し、かつ法典化した『ミシュネー・トーラー』である[9]。同書はタルムード・アラム語ではなく、ミシュナの形式のヘブライ語で書かれている。『ミシュネー・トーラー』は『ミシュナー註解』と合わせて、ユダヤ人社会で高い評価を受けた[13]

また、哲学書『迷える人々の為の導き』は、信仰を失った哲学者たちに呼びかけた著作で、その目的は、アリストテレスとユダヤ教神学とを宥和させることにあった。トーラーの聖句に隠された意味についてアリストテレス派[9]と、ファーラービーイブン・スィーナーらアラブ哲学者の見解を用いて読み解こうと試み[12]、ユダヤ教神学を合理的に解釈した。アリストテレスは月下の世界に関する権威だが、啓示というものは天上の世界に関する権威である、と彼はいう。しかし神に関する知識において哲学と啓示とは合一するのであり、真理の追求は宗教的な義務であるという。イスラム世界では物議をかもし[12]、保守的な思想を持つユダヤ人の一派はモーシェの哲学書を焼却した[31]。その思想はあまりに合理的すぎると批判もされたが、聖書の哲学的解釈の先駆けとして後世に影響を与えた[9]

後に『迷える人々の為の導き』はラテン語に訳され、アルベルトゥス・マグヌストマス・アクィナスエックハルトらのキリスト教神学者達から高い評価を受ける[9][12]

モーシェは自身の思想は理解しがたい高度なものであると考えており、読者が一定の学識を有することを前提として著述を行った[32]。そこには無知な一般大衆を蔑視するモーシェの態度が表れているが[33]、それでも文章の表現は華美と評価されている[32]。もっとも、相手を嘲笑する文体はモーシェ自身も嫌悪しており、極力表現を抑えようと努力していた[34]

医学

「真理の認識」には身体の健康と正しい生活様式が重要な役割を持つと、モーシェは考えていた[35]。「最も素晴らしい神を礼拝する行為の1つ」として、若いころから医学の研究に打ち込んでいた[35]

喘息、痔疾、性交、ヒポクラテスガレノスの箴言への注釈、養生論中毒学医療倫理学など、多岐にわたる分野の著書を残した。『医学至言集 al-Fuṣūl fil-Ṭibb』が医学関係著書のうちで最も有名。割礼法を改善し、痔疾は便秘より起るとし、その療法に野菜を主とする軽い食事を奨めた。著書はアラビア語で書かれ、後にヘブライ語、ラテン語に訳された[36]。さらに近代各国語にも訳され、死後にユダヤ人世界の医学聖人とされて尊敬を受ける[26]

思想

モーシェは過去のアラビア、ギリシャ、ユダヤの哲学者たちの思想を研究していたが、その中で師として認めていたのはアリストテレスだけだった[37]。また彼はアリストテレスに反対して、神は無から形相を創造したばかりでなく質料をも創造したのだ、と主張している。『ティマイオス』(このアラビア語訳を彼は知っていた)の概要をも述べていて、そのプラトンの対話篇を若干の点でアリストテレスより優れたものであるという。

同時代の人間が関心を持っていた歴史書、諸王の言行録、系譜図、歌謡集には興味を持たず、無為なものと考えていた[38]。同時代の低質な読み物と、その中で述べられている意見を冷たい目で見ていた[34]

モーシェ・ベン=マイモーンは占星衝を否定している。モーゼ五書はかならずしも文字通りにとるべきではなく、文字通りの意味が理性に反する場合には、比喩的な解釈を求めねばならないという。

さまざまな完全性を属性とする神の本質は知り得ないものである、とも彼はいう。ユダヤ人たちは彼を異端視し、キリスト教会の権威者たちを引きあいに出して、彼を論難するようなことまでやった。同胞から迫害されたところが、聖書を合理的に解釈してユダヤ教徒たちに破門されたスピノザと共通している。さらにスピノザの祖先がスペイン出身であったことなどから、モーシェからスピノザへの思想上の系譜を想定する学者もいるが、バートランド・ラッセルはそれは疑わしいとしている。

13の信仰箇条

キリスト教と異なりユダヤ教には信仰箇条・信条というものは存在しないが、歴史の中でそれらを作成する試みがされなかったわけではない。代表的なものがモーシェ・ベン=マイモーンによるものである。モーシェの信仰箇条は、多くのユダヤ人から権威ある指針と見なされた[24]

en:Jewish principles of faith も参照


  1. 神の存在/創造者である神 The existence of God
  2. 神は唯一である God's unity
  3. 神の精神性と非物質性(無形性) God's spirituality and incorporeality
  4. 神の永遠性 God's eternity
  5. 唯一神のみが礼拝の対象となりうる God alone should be the object of worship
  6. 神の預言者を通じての啓示の信頼性 Revelation through God's prophets
  7. モーセの預言者の中での傑出性 The preeminence of Moses among the prophets
  8. シナイ山で賜った神のトーラー God's law given on Mount Sinai
  9. 神のトーラーの不変性 The immutability of the Torah as God's Law
  10. 人間の活動に対しての神の全能性 God's foreknowledge of human actions
  11. 善行と邪悪なものへの報酬 Reward of good and retribution of evil
  12. メシアの到来 The coming of the Jewish Messiah
  13. 死者の復活 The resurrection of the dead

作品

マイモニデスによるユダヤ・アラビア語 Judeo-Arabic language の筆記
"Moreh Nebukim" の最初のページ

脚註

  1. ^ H-Net”. 1 January 2008閲覧。
  2. ^ Maimonides Islamic Influences”. Plato. Stanford. 1 January 2008閲覧。
  3. ^ Moses (1138-1204)[リンク切れ]
  4. ^ Isaac Newton: “Judaic monotheist of the school of Maimonides””. Achgut.com (2007年6月19日). 2010年3月13日閲覧。
  5. ^ a b c ザハル『ユダヤ人の歴史』、305頁
  6. ^ a b ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、190頁
  7. ^ 矢島祐利『アラビア科学史序説』(岩波書店, 1977年3月)、235頁
  8. ^ The Guide to the Perplexed”. World Digital Library. 22 January 2013閲覧。
  9. ^ a b c d e f 小林「イブン・マイムーン」『岩波イスラーム辞典』、165-166頁
  10. ^ ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、189頁
  11. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、27頁
  12. ^ a b c d 黒田「マイモニデス」『新イスラム事典』、446-447頁
  13. ^ a b c d e f コートネイ「イブン・マイムーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻、415-417頁
  14. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、28頁
  15. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、30頁
  16. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、52-58頁
  17. ^ a b ザハル『ユダヤ人の歴史』、306頁
  18. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、62頁
  19. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、80頁
  20. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、82頁
  21. ^ ザハル『ユダヤ人の歴史』、308頁
  22. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、99-100頁
  23. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、340-341頁
  24. ^ a b ザハル『ユダヤ人の歴史』、307頁
  25. ^ a b c ヘッシェル『マイモニデス伝』、216頁
  26. ^ a b 梶田『医学の歴史』、149-150頁
  27. ^ ザハル『ユダヤ人の歴史』、309頁
  28. ^ 矢島祐利『アラビア科学の話』(岩波新書, 岩波書店, 1965年)、154頁
  29. ^ 上田『ユダヤ人』、49頁
  30. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、94頁
  31. ^ ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、190-191頁
  32. ^ a b ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻、191頁
  33. ^ 上田『ユダヤ人』、50-51頁
  34. ^ a b ヘッシェル『マイモニデス伝』、43頁
  35. ^ a b ヘッシェル『マイモニデス伝』、34頁
  36. ^ カステーヨ、カポーン『図説ユダヤ人の2000年 歴史篇』、143頁
  37. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、37頁
  38. ^ ヘッシェル『マイモニデス伝』、35頁

参考文献

  • 上田和夫『ユダヤ人』(講談社現代新書, 講談社, 1986年11月)、49-51頁
  • 梶田昭『医学の歴史』(講談社学術文庫, 講談社, 2003年9月)、149-150頁
  • 黒田壽郎「マイモニデス」『新イスラム事典』収録(平凡社, 2002年3月)
  • 小林春夫「イブン・マイムーン」『岩波イスラーム辞典』収録(岩波書店, 2002年2月)
  • エレーナ・ロメーロ・カステーヨ、ウリエル・マシーアス・カポーン『図説ユダヤ人の2000年 歴史篇』(那岐一尭訳, 同朋舎出版, 1996年7月)、143頁
  • マックス.I.ディモント『ユダヤ人 神と歴史のはざまで』上巻(藤本和子訳, 朝日選書, 朝日新聞社, 1984年10月)
  • ウィリアム.J.コートネイ「イブン・マイムーン」『世界伝記大事典 世界編』1巻収録(桑原武夫編, ほるぷ出版, 1980年12月)
  • A・J・ヘッシェル『マイモニデス伝』(森泉弘次訳, ​​教​文​館, 2006年7月)
  • アブラム・レオン・ザハル『ユダヤ人の歴史』(滝川義人訳, 世界歴史叢書, 明石書店, 2003年8月)

文献案内

  • Marvin Fox Interpreting Maimonides, Univ. of Chicago Press 1990.
  • ユリウス・グットマン Julius Guttman, Philosophies of Judaism Translated by David Silverman, JPS, 1964
  • Maimonides' Principles: The Fundamentals of Jewish Faith, in "The Aryeh Kaplan Anthology, Volume I", Mesorah Publications 1994
  • Dogma in Medieval Jewish Thought, Menachem Kellner, Oxford University press, 1986
  • Maimonides Thirteen Principles: The Last Word in Jewish Theology? Marc. B. Shapiro, The Torah U-Maddah Journal, Vol. 4, 1993, Yeshiva University
  • A History of Jewish Philosophy, Isaac Husik, Dover Publications, Inc., 2002. Originally published in 1941 by the Jewish Publication of America, Philadelphia, pp. 236-311

外部リンク

関連項目

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