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[[1923年]]([[大正]]12年)片町に[[大和 (百貨店)|宮市百貨店]](現在の[[大和 (百貨店)]])が、[[1930年]]([[昭和]]5年)武蔵ヶ辻に[[三越]]が開店し、相対的に地盤沈下をする。しかし、[[1986年]](昭和61年)、市街地再開発事業のキーテナントとして、宮市百貨店を前身とする大和が香林坊に移転し、再び金沢市の中心的商店街となった。このほか、同時期の市街地再開発事業で誘致された[[109|KOHRINBO 109]]などの商業施設があり、若者の集まる街になっている。 |
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==香林坊ハーバー== |
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近年、[[金沢大学]]・[[石川県|石川県庁]]などの大規模な施設が郊外へ移転したことによって、香林坊地区の都心部空洞化が激しくなっている。この空洞化問題に対し、2002年に市近郊の大学生が中心となり立ち上げられた[[NPO]][http://www.k-harbor.com/ 香林坊ハーバー]が、ボランティア活動による街なか活性化で一定の成果を挙ている。金沢市・金沢大学などの支援をうけつつ世代間・地域間および近郊大学間の交流と街おこしをすすめている。 |
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== 向田香林坊 == |
== 向田香林坊 == |
2006年2月9日 (木) 12:50時点における版
町名の由来は、比叡山の僧であった香林坊が還俗して、この地の町人向田家の跡取り向田香林坊(むこうだこうりんぼう)となり、以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したという説が有力である。再開発された映画街の広場には、この由来にちなんで、メグスリノキが植生されている。
江戸時代には、金沢城に近い地の利を生かし北陸街道沿いに商店が建ち並ぶ商店街として、同様に街道沿いの橋場町、尾張町、武蔵ヶ辻などと共に発展。明治時代になり、近くに旧制第四高等学校が出来たことから、学生向けのカフェや映画館などが集積することとなり、北陸最大の繁華街となった。
1923年(大正12年)片町に宮市百貨店(現在の大和 (百貨店))が、1930年(昭和5年)武蔵ヶ辻に三越が開店し、相対的に地盤沈下をする。しかし、1986年(昭和61年)、市街地再開発事業のキーテナントとして、宮市百貨店を前身とする大和が香林坊に移転し、再び金沢市の中心的商店街となった。このほか、同時期の市街地再開発事業で誘致されたKOHRINBO 109などの商業施設があり、若者の集まる街になっている。
香林坊ハーバー
近年、金沢大学・石川県庁などの大規模な施設が郊外へ移転したことによって、香林坊地区の都心部空洞化が激しくなっている。この空洞化問題に対し、2002年に市近郊の大学生が中心となり立ち上げられたNPO香林坊ハーバーが、ボランティア活動による街なか活性化で一定の成果を挙ている。金沢市・金沢大学などの支援をうけつつ世代間・地域間および近郊大学間の交流と街おこしをすすめている。
向田香林坊
元は、朝倉氏の家臣であったが、朝倉氏滅亡の後、比叡山延暦寺の僧になっていた。同じく朝倉氏の元家臣で金沢城の近くで薬屋を営んでいた向田家に養子に入るために還俗した。