「営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故」の版間の差分
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2012年6月12日 (火) 12:52時点における版
営団日比谷線脱線衝突事故 | |
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発生日 | 2000年(平成12年)3月8日 |
発生時刻 | 9時1分頃(JST) |
国 | 日本 |
場所 | 東京都目黒区 |
路線 | 日比谷線 |
運行者 | 帝都高速度交通営団 |
事故種類 | 競合脱線 |
統計 | |
列車数 | 2台 |
死者 | 5人 |
負傷者 | 64人 |
営団日比谷線脱線衝突事故(えいだんひびやせんだっせんしょうとつじこ)は、2000年(平成12年)3月8日午前9時1分頃に帝都高速度交通営団(現東京地下鉄)が運営する営団地下鉄日比谷線において発生した、列車脱線事故である。死者5名、負傷者64名を出した。
日比谷線を走っていた北千住発東急東横線直通菊名行き(営団03系電車)の最後尾車両(03-802)が、中目黒駅手前の急曲線における緩和曲線の捻れ部で、いわゆる乗り上がり脱線を起こした。機材線用横取りポイントにはみ出したところ、対向の中目黒発東武伊勢崎線直通竹ノ塚行き(東武20050系電車 モハ23852~26852)と側面衝突、大破した。
原因究明と対策
原因として、1車両の内の8輪にかかる重量の不均衡(輪重比)が30%に及んでいても放置されていたこと、事故が起こった箇所は半径160mの急カーブであるにも関らず護輪軌条(ガードレール)が無かったこと、多数の列車が集中し、レール塗油量が増す朝ラッシュの後であったことなどが挙げられており、複合的要因により発生した事故だとされている。そのため、いずれか1人に刑事責任を負わせる事はできないとされた。また保線関係者5名が管理限界を超える線路の狂いを放置したとして送検されていたが、不起訴とされた。
事故調査検討会は、緩和曲線部、低速走行、摩擦係数の増加など複数の要因が複合した乗り上がり脱線であるとしているが、安全確保という観点から次のような見解を示している。すなわち、事故発生の主原因は輪重比の大きな狂い、副原因は営団の護輪軌条の設置基準が極端に緩かった、という点が事故調査報告書の結論の主旨である。この見解を基にして、全国の鉄道事業者に以下のような2種3項の指示を順次出した。
- 半径200m以下のカーブ出口のカント逓減部(緩和曲線部)への護輪軌条の設置(2000/03/16通達、即実施)。
- 輪重比管理値を10%以内(左右の平均値±10%)とする(2000/04中旬~輪重比見解報道、5月~実施)。
- 「推定脱線係数比」という管理値を導入し、基準値に満たない(基準を超える)カーブへの護輪軌条設置を義務化(最終報告書、順次実施)。
1992年に半蔵門線鷺沼車庫で2度の脱線事故を経験してから、営団では社内調査により輪重比管理の必要性が指摘されていた。現場からは輪重計の設置が要求されていたが、これは却下・放置され、半蔵門線の車両のみの輪重調整に留めた。結果として日比谷線には輪重比30%を超える車両が走ることになった。また、半径140m以下のカーブにのみ護輪軌条を設置するという営団の設置基準は極端に低かった。事故現場は半径160.1mであったことから護輪軌条は設置されていなかった。
同じく輪重比の不均衡を原因とする東横線横浜脱線事故が既に1986年に起こっており、東急はそれ以後輪重比の±10%以内への調整、半径450m以下の全カーブへの護輪軌条の設置を行っていた。しかしながら、運輸省が全事業者に通達を出すことはなく、営団でも点検は行われなかった。
この事故の報道においては、複数要因が重なって発生した脱線事故であることをもって、国鉄が「競合脱線」と説明した鶴見事故(1963年)と比較されることもあった。また、この事故が法改正を促し航空・鉄道事故調査委員会発足の契機にもなった。
- 営団地下鉄の車両の対策
この事故を受けて営団地下鉄では、2002年度以降に製造する車両において車体構造の見直しと台車構造の変更を実施した。なお、輪重とは左右の車輪にかかるバランスのことで、バランスが崩れると脱線の原因にもなるので、定期的に左右のバランスを等しくする必要がある。
2002年度落成の半蔵門線用08系・東西線用05系11次車(翌年度分の12次車も同様)では側構体(車体側面)構造をシングルスキン構造からダブルスキン構造に変更する「セミダブルスキン構造」を採用し、合わせて車体連結部の隅柱に衝突柱を設置して衝突事故時の安全性を向上させた[1] 。
さらに曲線通過性能の向上や輪重抜け(輪重バランスが崩れること)の防止、輪重調整作業の作業性向上(従来は台車を分解して調整したが、小形ジャッキの使用で分解を不要化)などを図った新形式の台車を採用した[1]。
2004年度製造の05系13次車からは車体全体をダブルスキン構造で構成する「オールダブルスキン構造」を採用したほか、車体隅柱に強化したダブルスキン構造の衝突柱を設置し、より安全性を向上させた。
2006年度製造の有楽町線・副都心線用の10000系からは、輪重変動割合の大きいボルスタレス台車の採用を取りやめ、ボルスタ構造の台車を採用した[2]。以降の新造車両ではボルスタ構造の台車を標準採用している(2008年度の南北線9000系5次車はセミダブルスキン構造+ボルスタ構造台車である)。
東京地下鉄がボルスタ構造台車の採用に切り換えた理由について、安全性向上よりもむしろ輪重調整を作業をするにあたって調整に時間を要するボルスタレス台車よりもボルスタ構造台車の方が輪重調整作業が容易である点が挙げられる。
なお、事故調査報告会の発した前出輪重比管理指示は、台車の狂いは同じでも車体重量が40%も軽くなると相対的に脱線係数が大きくなっていたのを改める指示であり、その最終報告書でも当該03系台車の操向剛性が比較対象車より若干大きかったことはデータとして指摘したがボルスターレス台車に原因有りとは言っていない。
その他
中目黒駅では開業間もない1965年と1992年にも事故が起こっていた。前者はこの事故とほぼ同じ箇所で脱線したものであり、原因は営団3000系の台車フレーム破損による異常が原因であった。後者は引上げ線で側面衝突したものである。
この事故で陸上競技部が活動自粛→廃部となった(小幡佳代子ら選手監督はアコムが受け入れた)。
現在、当該場所の近所に慰霊碑が建てられている。
脚注
関連項目
外部リンク
- 日比谷線の列車脱線衝突 - 失敗知識データベース