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2012年4月20日 (金) 11:32時点における版
ムスタファ・ケマル・アタチュルク Mustafa Kemal Atatürk | |
ファイル:MustafaKemalAtaturk.jpg | |
任期 | 1923年10月29日 – 1938年11月10日 |
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出生 | 1881年3月12日 オスマン帝国、セラーニク |
死去 | 1938年11月10日(57歳没) トルコ、イスタンブル |
政党 | 共和人民党 |
配偶者 | ラティーフェ・ハヌム (ウッシャキー) |
署名 |
ムスタファ・ケマル・アタチュルク[注釈 1] (Mustafa Kemal Atatürk, 1881年3月12日[要出典] - 1938年11月10日)は、オスマン帝国の将軍、トルコ共和国の元帥、初代大統領(在任1923年10月29日 - 1938年11月10日)。トルコ独立戦争とトルコ革命を僚友たちとともに指導したことで知られる。
経歴
生い立ち
1881年、オスマン帝国領マケドニアの州都セラーニク(現ギリシャ領テッサロニキ)のコジャ・カスム・パシャ街区で、税関吏アリ・ルザー・エフェンディ (Ali Rıza Efendi)と母ズュベイデ・ハヌム (Zübeyde Hanım)の子として生まれた。夫妻は『選ばれし者』を表す「ムスタファ」と命名し、後に、サロニカ幼年兵学校の数学教官ユスキュプリュ・ムスタファ・サブリ・ベイ (大尉)が「ケマル」 (「完全な」を意味する)を付け加え、ムスタファ・ケマルとなった。[注釈 2]
ムスタファ・ケマルは、父の希望で、シャブタイ派カパンジュ分派に属するシェムスィ・エフェンディが開校し西洋式教育を実施していた学校 (Şemsi Efendi Mektebi)に進んだが、父が死亡したため、家族で叔父の許に身を寄せた。しばらくして、母がラグプ・エフェンディと再婚したため、ムスタファ・ケマルは、ホルホルス街区の叔母の家に身を寄せた。サロニカ幼年兵学校[注釈 3]では、フランス語教官メフメド・ナーキ (Nâki Yücekök)、モナスティル少年兵学校 (Monastir Military High School)では、歴史教官メフメド・テヴフィク (Mehmet Tevfik Bilge)らの影響を受けた。
初期の軍歴
ムスタファ・ケマルは、1899年3月14日、陸軍士官学校 (陸士1317年入学組)に入学した。士官学校では、校長メフメド・エサド (Mehmet Esat Bülkat)、オスマン・ヌーリ (Osman Nuri Koptagel)らの薫陶を受け、同期生のアリ・フアト (ジェベソイ)、メフメド・アーリフ (Mehmet Arif Bey)、サーリフ (ボゾク)、アフメド・フアト (ブルジャ)、一期先輩のアリ・フェトヒ (オクヤル)、一期後輩のヌーリ (ジョンケル)、キャーズム・カラベキル、キャーズム・「キョプリュリュ」 (オザルプ)らと親交を深めた。 [注釈 4]1902年2月10日に同校を歩兵少尉として第8席の成績で卒業し、陸軍大学に進んだ。1905年1月11日に同学を参謀大尉として修了(陸大57期、5席)して、研修のためダマスカスの第5軍に配属された。[2]士官学校在学中からアブデュルハミト2世の専制に反感を抱いており、ダマスカスで軍医ムスタファ (Mustafa Cantekin)や陸大同期のリュトフィ・ミュフィト (Lütfi Müfit Özdeş)と共に「祖国と自由」 (Vatan ve Hürriyet)を設立した。その後、無断でサロニカに戻り、マケドニア支部を設立したという。1906年にマケドニアでは、青年将校や下級官吏が、パリの統一と進歩協会(青年トルコ党)の現地支部を設立し、1907年6月20日に上級大尉 (Kolağası)に昇進したムスタファ・ケマルが1907年10月13日にサロニカの第3軍司令部に転属された[2]ときには、「祖国と自由」の支部も統一と進歩協会に吸収されていたため、ムスタファ・ケマルも同協会に加入した。しかし、同協会ではタラートや、ジェマルが力を持っており、立憲革命の成功で、レスネのニヤーズィ・ベイ (Ahmed Niyazi Bey)やエンヴェル・ベイらが「自由の英雄」として名声を獲得した。
1908年6月22日、ルメリア東部地区鉄道監察官に、1909年1月13日、第3軍隷下のサロニカ予備師団参謀長に任命された。1909年の3月31日事件 (31 March Incident)を鎮圧するため、サロニカの第3軍とアドリアノープル (現エディルネ)の第2軍から部隊が「行動軍」の名の下にイスタンブルに派遣されたが、ムスタファ・ケマルは、第3軍から派遣された予備師団の作戦課長として参加し、11月5日に第3軍司令部に戻った。1910年9月6日から11月1日まで第3軍士官養成所に勤務した後、再び第3軍司令部に戻った。9月12日から18日まで実施されたピカルディ大演習に武官として派遣された。この際、飛行機への搭乗を勧められたが同行した将校の警告に従って、乗らなかった。その後、搭乗予定であった飛行機が墜落し搭乗者全員が死亡した。ムスタファ・ケマルは一生涯、飛行機に乗らなかった。統一と進歩協会第二回大会で職業軍人による政治活動の禁止を再提案した。[注釈 5]1911年1月15日、第5軍団司令部に配属され、第38歩兵連隊を経て、9月27日に参謀本部付となった。[2]
伊土戦争
1911年9月29日にイタリアがリビアに侵攻したため、イスマイル・エンヴェル・ベイ、アリ・フェトヒ・ベイ、オメル・ナージ・ベイ、アフメド・フアド・ベイ、メフメド・ヌーリ・ベイ、ヤークブ・ジェミル・ベイ (Yakub Cemil)ら統一と進歩協会の志願者たちとともにトリポリタニアに赴くことになった。1911年11月27日、船上で少佐に昇進したムスタファ・ケマルは、新聞記者「ムスタファ・シェレフ」としてアレクサンドリアを経由して陸路ベンガジに向かった。12月18日、ベンガジ・デルネ地区東部の義勇部隊司令官となったが、1912年1月16日、左目を負傷し、1ヶ月ほど治療を受けた後、1912年3月11日にデルネ地区司令官に任命されゲリラ戦を展開した。[2]
バルカン戦争
第一次バルカン戦争の勃発によりトリポリタニアから呼び戻されたムスタファ・ケマルは、ウィーンで目の治療を受け、11月24日にダーダネルス海峡地区混成部隊司令部の作戦課長に任命され、同部隊がボラユル軍団として再編された際も作戦課長の任務を継続した。1913年1月26日のボラユルの戦い (Battle of Bulair)で軍団主力のアリ・フェトヒ・ベイ指揮下の第27師団が、スティリヤン・コヴァチェフ (Stiliyan Kovachev) 将軍の指揮するブルガリア第4軍隷下のゲオルギ・トドロフ将軍の指揮する第7リラ歩兵師団の前に敗北した。バーブ・アーリ襲撃 (1913 Ottoman coup d'état)事件を契機にエンヴェル・ベイらが実権を握り、5月13日にロンドン条約が調印され、アドリアノープル (現エディルネ)がブルガリア王国に割譲された。第二次バルカン戦争では、ボラユル軍団とともにブルガリア軍に対して攻勢に出て、7月15日にケシャンを、7月17日にイプサラを、7月18日にウズンキョプリュを、7月21日にはカラアーチとディメトカ (現ディディモティホ)を経由してアドリアノープルを奪還した。ムスタファ・ケマルは、同日街に入り、8月10日に街を離れた。その後、10月27日にソフィア駐在武官に任命された。ソフィアでは、陸軍大臣となったコヴァチェフの娘ディミトリナ・「ミティ」・コヴァチェヴァ(Димитрина "Мити" Ковачева / Dimitrina "Miti" Kovacheva)に接近した。1914年1月11日以降、ベオグラードとツェティニェの駐在武官も兼任した。[2]
第一次世界大戦
第一次世界大戦中の1915年1月20日、第19師団長に任命され、2月25日、エサド・パシャの指揮下にある第3軍団の予備兵力として、ガリポリ半島のエジェアバド-セッデュルバヒル周辺に展開した。3月23日、ダーダネルス要塞地区司令部司令官ジェヴァード・ベイの命令で、第19師団は、エジェアバドの後背地にて予備兵力とされ、ザンデルス・パシャの指揮のもとに第5軍が新設されると軍予備とされた。[3]
1915年4月25日、英仏軍がガリポリ上陸作戦を敢行し、ムスタファ・ケマル・ベイは、オーストラリア・ニュージーランド軍団が上陸したアルブルヌ地区に急行し、前進を食い止めた。6月1日に大佐に昇進した。1915年8月6日夜半、英軍は、増援の第9軍団をスヴラ湾に上陸させた。ザンデルス・パシャは、サロス集団司令官アフメド・フェヴズイ・ベイ (Ahmet Fevzi Big)にアナファルタラルでの即時反撃を命令したが、手間取ったため、ムスタファ・ケマル・ベイに同地区の指揮権を委譲し、8月8日よりアナファルタラル集団司令官となった。英軍の前進を食い止めたムスタファ・ケマルは、ルーシェン・エシュレフ (ユナイドゥン)らイスタンブルのメディアにより「アナファルタラルの英雄」として報じられ、名声を獲得した。8月19日以降、第16軍団司令官も兼任した。
12月10日、アナファルタラル集団司令官を辞任し、1916年1月27日、エディルネの第16軍団司令部に着任し、同軍団とともにディヤルバクルに転進し、ワン湖とチャパクチュル (現ビンギョル)との間の80キロメートルの戦線を受け持った。ガリポリ戦での軍功で軍務期間が加算され、1916年3月19日、「ミールリヴァー」に昇進しパシャとなった。その後、8月7日にロシア軍よりビトリスとムシュを一時的に奪還した。1917年3月7日、第2軍司令官代理となった後、ヒジャーズ遠征軍 (Hejaz Expeditionary Force)司令官への就任が提案されたが、これを固辞した。7月5日、第7軍司令官に任命されたが、ユルドゥルム軍集団 (Yildirim Army Group) 司令官エーリッヒ・フォン・ファルケンハインと衝突して、第7軍司令官を辞任してイスタンブルに戻った。10月9日、再度、第2軍司令官への任命の辞令が出されたが、赴任する前に、11月7日に総司令部付とされた。
1917年12月15日から1918年1月5日まで、皇太子ワフデッティンのドイツ帝国訪問に随行し親交を深めた。6月から7月にかけて、療養のために、ウィーンとカールスバート (現カルロヴィ・ヴァリ)に滞在したが、メフメト5世が亡くなったため、8月2日にイスタンブルに戻った。帰国後、8月7日、パレスティナ・シリア戦線でザンデルス元帥の指揮するユルドゥルム軍集団隷下の第7軍司令官に任命され、スルタンに即位しメフメト6世となっていたワフデッティンから「スルタンの名誉副官」の称号を贈られた。1918年9月19日に開始された英連邦軍のメギッド攻勢 (ナブルスの敗北)の後、9月20日、メフメト6世の主席副官ナージ・ベイを通じて休戦を勧め、自らの陸軍大臣への就任を求める電報を打った。その後、オスマン帝国軍はアレッポまでの退却を余儀なくされ、10月30日夕刻に調印され翌31日正午に発効した休戦協定の第19条に規定されたドイツ人とオーストリア人の国外退去命令に従い、ザンデルス元帥が退任し、ムスタファ・ケマルがユルドゥルム軍集団司令官に就任し、11月7日まで同職に留まった。
トルコ共和国の建国
1918年11月13日、イスタンブルのハイダルパシャ駅に着いたムスタファ・ケマルは、停泊する戦勝国艦船を目の当たりにした。1919年4月、シェヴケト・トゥルグート・パシャ、ジェヴァート・パシャ、ムスタファ・フェヴズィ・パシャは秘密裏に会談を持ち、「三人の誓約」 (Üçler Misâkı)と呼ばれる報告書を作って国土防衛のため軍監察官区の創設を決定した。4月末、ムスタファ・フェヴズィは国防大臣シャーキル・パシャに報告書を提出し、4月30日、国防省とスルタン・メフメト6世は、参謀総長の承諾を受けた決定を承認した。[4]そして、イスタンブルに第1軍監察官としてムスタファ・フェヴズィ・パシャが、コンヤにユルドゥルム軍監察官 (後に第2軍監察官)としてメルスィンリ・ジェマル・パシャが、エルズルムに第9軍監察官 (後に第3軍監察官)としてムスタファ・ケマル・パシャが、ルーメリ軍監察官としてヌーレッディン・パシャが派遣され、第13軍団が国防省直属となる計画であった。[5].この計画に従い、ムスタファ・ケマル・パシャは、東部アナトリアに派遣されることになった。5月15日、ムスタファ・ケマル・パシャは、ユルドゥズ宮殿に伺候し、メフメト6世との最後の会見の後、5月16日、「バンドゥルマ」号で出航し、5月19日、サムスンに上陸した。後にトルコ共和国は、サムスン上陸の日をもってトルコ祖国解放戦争開始の記念日としている。ムスタファ・ケマルはアナトリア東部のエルズルム、スィヴァスにおいてアナトリア各地に分散していた帝国軍の司令官たち、旧統一と進歩委員会の有力者たちを招集、オスマン帝国領の不分割を求める宣言をまとめ上げ、また「アナトリア権利擁護委員会」を結成して抵抗運動の組織化を実現する。
抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年3月16日、首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちは権利擁護委員会のもとに合同し、アンカラで大国民議会を開いた。彼らは自らを議会を解散させたオスマン帝国にかわって国家を代表する資格をもつ政府と位置付け、大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。ムスタファ・ケマルはアンカラ政府内で自身に対する反対者を着々と排除して運動内での権威を確立しつつ占領反対運動をより先鋭的な革命政権へとまとめ上げていった。
この頃、アンカラ政府がアナトリア東部に支配地域を拡大する一方、西方からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。この戦いの後、アンカラ政府のトルコ軍は反転攻勢に転じ、1922年9月には地中海沿岸の大商業都市イズミルをギリシャから奪還した。彼の有名な命令「全軍へ告ぐ、諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ ("Ordular, ilk hedefiniz Akdeniz'dir ileri"、この文の後の発言は検閲対象となったため不明)」は、このときに発せられたものである。
反転攻勢の成功により、アンカラ政府の実力を認めた連合国に有利な条件で休戦交渉を開かせることに成功した。同年10月、連合国はローザンヌ講和会議にアンカラ政府とともにイスタンブルのオスマン帝国政府を招聘したが、ムスタファ・ケマルはこれを機に帝国政府を廃止させて二重政府となっていたトルコ国家をアンカラ政府に一元化しようとはかり、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させた。「スルタン=カリフ」を改めさせ、現世権力である「スルタン」の地位を奪った後、インドのムスリムから届いた手紙を「政治行為」としてオスマン皇族を全て国外退去させた。翌1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。
大統領時代
1924年、ムスタファ・ケマルは議会にカリフ制の廃止を決議させ、新憲法を採択させてオスマン帝国末期から徐々に進められていた脱イスラム国家化の動きを一気に押し進めた。同年、共和国政府はメドレセ(宗教学校)やシャリーア法廷を閉鎖、1925年には神秘主義教団の道場を閉鎖して宗教勢力の一掃をはかる。
当初、ムスタファ・ケマルは穏健野党の育成をはかる試みも行っていたが、1925年前後、野党進歩共和党による改革への抵抗、東アナトリアにおけるクルド人宗教指導者シェーフ・サイード(シェイフ・サイト)の反乱など、反ムスタファ・ケマル改革の動きが起こったことを受けて方針を改め、1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。これにより、ムスタファ・ケマルは自身が党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立、改革への絶対的な主導権を確立した。
これ以降、独裁的な指導力を握ったムスタファ・ケマルは、大胆な欧化政策を断行した。1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。経済面では世界恐慌後、トルコと接するグルジア出身ということもあり、ムスタファ・ケマルに好意を抱いていた[要出典]ソビエト連邦(モスクワ条約でトルコ独立戦争の同盟国であった)のヨシフ・スターリンが1932年に巨額の融資と経済顧問団を派遣、1934年5月からトルコも五カ年計画を導入する。また、男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
1938年11月10日、イスタンブル滞在中、執務室のあったドルマバフチェ宮殿で死亡した。死因は肝硬変と診断され、激務と過度の飲酒が原因とされている。アタテュルクは、生前、医者に「肝硬変は「ラク(トルコの蒸留酒)」のためではない」と診断書を書かせようとしたが、純エタノールにして毎晩500ミリリットルは呑んでいたと言われ、明らかに死因の一部である。
ムスタファ・ケマルが死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにムスタファ・ケマルの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。ムスタファ・ケマルの後はイスメト・イニョニュが継ぐが、有能ではあってもカリスマ性は無かったイニョニュの時代には停滞し、再発展は第二次世界大戦後まで持ち越される。
ケマル主義
ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、世俗主義、民族主義、共和主義などを柱とするトルコ共和国の基本路線を敷いた。一党独裁を築き上げ、反対派を徹底的に排除して強硬に改革を推進したアタテュルクと、その後継者となったイスメト・イノニュも他国の独裁政権と比較すれば、政変なく政権を守り通すことに成功した。結果として、トルコは独裁政権下にありながら全体として国家の安定に成功した例となり、「成功した(正しい)独裁者」[要出典]ムスタファ・ケマルはその死後も現在に至るまで国父としてトルコ国民の深い敬愛を受けつづけている。救国の英雄、近代国家の樹立者としてのムスタファ・ケマル評価はトルコではあたりまえのものになっている。
ムスタファ・ケマルがトルコ革命の一連の改革において示したトルコ共和国の政治路線は「ケマル主義(ケマリズム)」「アタテュルク主義」と呼ばれ、ムスタファ・ケマルに対する個人崇拝と結びついて現代トルコの政治思想における重要な潮流となっている。もっとも、ケマル主義の信奉者を主張する人々の中には左派的・脱イスラム的な世俗主義知識人からきわめて右派的・イスラム擁護的な保守主義者、民族主義者まで様々な主張があり、実際にはケマル主義の名のもとに多様な主義主張が語られているのが現実ではある。
彼ら「ケマル主義」の擁護者たちの中でも、トルコ政治の重要な担い手の一部である軍部の上層部は、「ケマル主義」「アタテュルク主義」を堅持することはトルコ共和国の不可侵の基本原理であるという考え方をしばしば外部に示してきた。1960年と1980年の二度に渡る軍部の武力政変も政治家のケマル主義からの逸脱是正、あるいはケマル主義の擁護を名目として実行されている。
ムスタファ・ケマルの墓は、アンカラ市内の丘陵上に建設されたアタテュルク廟にあり、毎日内外から多くの参拝者が訪れる、国家の重要な建造物になっている。毎年彼の命日には、アタテュルク廟ほかトルコ全土で黙祷など記念式典が行われる。
また、イスタンブルには彼にちなんで名づけられた空港(アタテュルク国際空港)、エルズルムには大学(アタテュルク大学)がある。トルコ全土の町々では、主要な通りにアタテュルクにちなんだ名前がつけられ、町の中心的な広場にはアタテュルクの銅像が立ち、役所や学校にはアタテュルクの肖像画が掲げられている。トルコ共和国の通貨である新トルコリラ(略称YTL)は、全ての紙幣にアタテュルクの肖像が刻印、印刷されている。さらに、「アタテュルク擁護法」という法律も存在し、公の場でアタテュルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもある。
トルコにおけるこうした徹底的なムスタファ・ケマルの顕彰に対しては、トルコの国内においても、世俗的な立場にある人々の間からも、「行き過ぎた神格化」であり「政教分離」に違反するのではという疑義を示す声もあるほどである。[要出典]少なからぬ観察者は、トルコの国家体制護持とムスタファ・ケマルに対する個人崇拝は密接に関係していると考えている。例えばイスラム的な価値観と国家体制との関係で見ると、1980年の9月12日クーデター以前は、徹底的な政教分離主義はケマル主義の名のもとに国家体制と不可分のものとされていたし、体制によって民族主義とイスラムの調和がはかられ始めた1980年代以降は、体制にとって許容可能な「望ましいイスラム」がアタテュルクの望んだイスラムのあり方であるとして正統化をはかる事例がみられるようになった。
イスラーム主義者による批判
アタテュルクが酒を好んだこと、イスラーム保守派への抑圧などからイスラーム主義者の中にはアタテュルクを背教者を意味するカーフィル (トルコ訛:キャーフィル)と非難する者も存在している。
家族
1923年1月29日、イズミルの豪商ウシャキザーデ家の娘ラティーフェと結婚。しかし1924年9月から10月にかけての東部訪問で離婚危機となり、1925年8月5日に離婚が発表された。
母ズュベイデの再婚相手である、ラグプの親戚フィクリイェとアンカラ駅の官邸で同棲していた(イマーム婚をあげていたという説もある)。チャンカヤ官邸前で拳銃自殺を図り、1週間後、ヌムーネ病院で死亡(弾痕が背中にあったため、他殺説もある)。
ムスタファ・ケマルに実子は無く、死亡した戦友の子を養子として十数人を家族としたと言う。「いつも厳しく、学校の成績を気にする人だった」という証言も残っている。
養女:アフェト・イナン(歴史家)、ネビレ、フィクリイェ、ルキイェ・エルキン、ゼフラ・アイリン(1936年、フランスのアミアン近郊で列車から転落して死亡、事故とも自殺とも言われている)、サビハ・ギョクチェン(世界初の女性軍用機操縦士)、ユルキュ・ドーアンチャイ(再婚後の姓はアダテペ、ズュベイデの養女ヴァスフィエの娘)
養子:アブドゥルラーヒム・トゥンジャク(孤児→技師、顔がケマルに酷似。ズュベイデは、遺言でアブドゥルラーヒムにも遺産を遺した)、スールトマチ・ムスタファ(牧童→クレリ少年兵学校→軍人)、イフサン。
但し、サビハ・ギョクチェンは、養女だけで、養子はいなかったと主張していた。
参考文献
- 大島直政 『ケマル・パシャ伝』 新潮選書、1984年
- ブノア・メシャン 『灰色の狼ムスタファ・ケマル 新生トルコの誕生』(牟田口義郎訳、筑摩書房、1965年、新版1990年)ISBN 4-480-85084-8 C1022 著者はフランス人
- 新井政美 『トルコ近現代史 イスラム国家から国民国家へ』 みすず書房、2001年、新版2008年
- 永田雄三・加賀谷寛・勝藤猛『中東現代史1 トルコ・イラン・アフガニスタン』 山川出版社、1982年
- 永田雄三編 『西アジア史2 イラン・トルコ』 山川出版社、2002年
- 永田雄三・加藤博 『地域からの世界史8 西アジア.下』 朝日新聞出版、1993年
- 坂本勉・鈴木董編 『イスラーム復興はなるか』 <新書イスラームの世界史3>講談社現代新書、1993年
- 坂本勉 『トルコ民族主義』 講談社現代新書、1996年
- 鈴木董 『オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家』 ちくま新書 2000年
- デイヴィド・ホサム 『トルコ人』(護雅夫訳 みすず書房、1983年)
- 在東京トルコ大使館
関連フィクション
- 三浦伸昭『アタチュルク あるいは灰色の狼』(文芸社、2006年)ISBN 4-286-00897-5 歴史小説
- トゥルグット・オザクマン 『トルコ狂乱 オスマン帝国崩壊とアタテュルクの戦争』(新井政美監修、鈴木麻矢訳、三一書房、2008年)ISBN 4-380-08204-0 歴史小説
関連項目
- ガリポリの戦い
- サカリヤ川の戦い
- アタテュルク廟
- アタテュルク国際空港
- トルコの歴史
- トルコの言語純化運動
- 橋本欣五郎
- イスラム教における飲酒
- 文化的ムスリム
- アタテュルクのCM (トルコ興業銀行)
- ダッカ-ケマル・アタテュルクの名がつけられた大通りがある。
注釈
- ^ 尉官までは、ムスタファ・ケマル・エフェンディ (Mustafa Kemal Efendi)、佐官時代は、ムスタファ・ケマル・ベイ (Mustafa Kemal Bey)、将官時代 (1916年3月19日以降)は、ムスタファ・ケマル・パシャ (Mustafa Kemal Paşa)、1921年9月19日以降は、ガーズィ・ムスタファ・ケマル・パシャ (Gâzi Mustafa Kemal Paşa)、1934年11月24日以降、ムスタファ・ケマル・アタチュルク。日本では、ケマル・パシャとも言われる。
- ^ 1934年に彼自身が制定させた苗字法の施行まで、トルコ人には姓はなく、当時のトルコ人は現代でもイスラム圏の名前でみられるように、出身地や父の名前やあだ名を加えることで個人の識別をしていた。
- ^ 軍人を志した動機は、近所の幼年兵学校生徒の制服が気に入ったためとも、オスマン軍士官だったラグプの息子の奨めがあったためとも言われ、単に学費が安かったからという説もある。
- ^ 士官学校時代にドイツ語とフランス語、日本語まで学び、ドイツ語を喋り原語のフランス民権思想書を読み、片言の日本語と英語もできたと云う。また、この間に山田寅次郎の教えを受けたとも言われる[1]。
- ^ 第一回大会でもキャーズム・カラベキルらにより提案されていた。
脚注
- ^ 「日本とトルコの民間友好史 快男児・山田寅次郎」 駐日トルコ共和国大使館 トルコの時代
- ^ a b c d e T.C. Genelkurmay Harp Tarihi Başkanlığı Yayınları, Türk İstiklâl Harbine Katılan Tümen ve Daha Üst Kademlerdeki Komutanların Biyografileri, Genkurmay Başkanlığı Basımevi, Ankara, 1972, p. 2.
- ^ T.C. Genelkurmay Harp Tarihi Başkanlığı Yayınları, Ibid., p. 7.
- ^ Zekeriya Türkmen, Mütareke Döneminde Ordunun Durumu ve Yeniden Yapılanması (1918-1920), Türk Tarih Kurumu Basımevi, 2001, ISBN 975-16-1372-8, p. 105.
- ^ Zekeriya Türkmen, Mütareke Döneminde Ordunun Durumu ve Yeniden Yapılanması (1918-1920), Türk Tarih Kurumu Basımevi, 2001, ISBN 975-16-1372-8, p. 106.
外部リンク
- Atatürk - トルコ文化省(英語)
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