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'''中森 明夫'''(なかもり あきお、本名:'''柴原 安伴'''('''しばはら やすとも''')、[[1960年]][[1月1日]]-)は日本の[[コラムニスト]]、[[編集者]]。[[三重県]][[志摩市]]出身。[[おたく]]という語の生みの親。ペンネームは[[中森明菜]]に由来
'''中森 明夫'''(なかもり あきお、本名:'''柴原 安伴'''('''しばはら やすとも'''<ref>宝泉薫、ファッシネイション編『歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代』[[彩流社]]、2002年、p.54</ref>)、[[1960年]][[1月1日]]-)は日本の[[コラムニスト]]、[[編集者]]。[[三重県]][[志摩市]]出身。[[おたく]]という語の生みの親。


== 人物・経歴 ==
== 人物・経歴 ==
{{要出典範囲|date=2012年2月|最終学歴は[[明治大学附属中野高等学校]]中退と自称するも、実際には[[1979年]][[大正大学]][[文学部]]哲学科中国学コース入学、[[1983年]]中退}}
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*最終学歴は[[明治大学附属中野高等学校]]中退と自称するも、実際には[[1979年]][[大正大学]][[文学部]]哲学科中国学コース入学、[[1983年]]中退。[[1982年]]、エンドウユイチ(現:[[遠藤諭]])達と共に『[[東京おとなクラブ]]』を創刊。同誌の発行人となる
[[1982年]]7月、[[ミニコミ]]誌ブームの中で、エンドウユイチ(現:[[遠藤諭]])達と共に『[[東京おとなクラブ]]』を創刊。同誌の発行人となり、[[NHK少年ドラマシリーズ]]やCMなどを特集し、1985年まで不定期刊で5号まで出す。ペンネームは歌手の[[中森明菜]]にちなんで、エンドユイチから命名された<ref>「my subculture Akio Nakamori interview」『サブカルチャー世界遺産』サブカルチャー世界遺産選定委員会、扶桑社、2001年、p.15</ref>。
*1983年6月から『[[漫画ブリッコ]]』誌上に連載した『おたくの研究』<ref>[http://www.burikko.net/people/otaku.html 「おたく」の研究]</ref>の中で、[[ガンダムシリーズ|ガンダム]]ファンや[[ルパン三世 カリオストロの城|カリオストロ]]ファンなどの「異様さ」をあげつらい、「この頃やたら目につく世紀末的ウジャウジャネクラマニア少年達」を「'''おたく'''」と命名。この記事が読者と編集長([[大塚英志]])から反撥を受け、「おたくの…」は1983年12月号を最後に連載中止に追い込まれた。

*新しい世代の[[サブカルチャー]]の担い手として注目を浴び、[[田口賢司]]および[[野々村文宏]]と共に"[[新人類]]3人組"と呼ばれた。
1983年6月から『[[漫画ブリッコ]]』誌上に連載した『おたくの研究』の中で、[[ガンダムシリーズ|ガンダム]]ファンや[[ルパン三世 カリオストロの城|カリオストロ]]ファンなどの「異様さ」をあげつらい、「この頃やたら目につく世紀末的ウジャウジャネクラマニア少年達」を「'''おたく'''」と命名。この記事が読者と編集長([[大塚英志]])から反撥を受け、「おたくの…」は1983年12月号を最後に連載中止に追い込まれた<ref>「my subculture Akio Nakamori interview」『サブカルチャー世界遺産』サブカルチャー世界遺産選定委員会、扶桑社、2001年、p.16</ref>
*[[1989年]]、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]で[[宮崎勤|宮﨑勤]]が逮捕され[[おたく]]という概念がクローズアップされる中、大塚と再会し、対談集『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』([[太田出版]]、1989年)を刊行。

*[[1990年代]]は『[[SPA!]]』誌上で「ニュースな女たち」と「[[中森文化新聞]]」を連載。さらに、[[1995年]]頃には[[チャイドル]]という語を創始し、1990年代後半のチャイドルブームの仕掛け人となった。[[村上綾歌]]、[[岡明子]]、[[りりあん]]、[[せがわきり]]などを発掘した功績もある
一方、1980年代半ばから[[浅田彰]]に認められ、新しい世代の[[サブカルチャー]]の担い手として注目を浴び、[[田口賢司]]および[[野々村文宏]]と共に"[[新人類]]3人組"と呼ばれて世に出た。なお、中森本人は「新人類」という概念を信じておらず、来た仕事が断る理由もなく引き受けていたという<ref>「my subculture Akio Nakamori interview」『サブカルチャー世界遺産』サブカルチャー世界遺産選定委員会、扶桑社、2001年、p.16,20</ref>。
*[[林真理子]]の小説『ワンス・ア・イヤー』文庫版に寄せた解説が、林本人「林真理子論として最高」と評価される<ref>林真理子「マリコのゲストコレクション 402 中森明夫」『週刊朝日』2008年2月22日号</ref>。

*[[2001年]]には、[[慶應義塾大学]]で[[非常勤講師]]としてポップメディア史を教えた。
[[1985年]]に『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』の1985年6月号から連載したオムニバス小説「東京トンガリキッズ」で小説家デビュー。1987年に単行本化。1988年の小説『オシャレ泥棒』は翌1989年に[[宮沢りえ]]主演でTBSで[[テレビドラマ]]化される<ref>[http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/lineup/d1511.html ドラマ・時代劇番組詳細情報 オシャレ泥棒] TBSチャンネル公式サイト内</ref>。
*文芸評論家から忌避されてきた[[山田悠介]]の『[[親指さがし]]』の解説を寄せた。

*50歳にして、初の純文学作品『アナーキー・イン・ザ・JP』を発表。第24回[[三島由紀夫賞]]候補に挙がった。
[[1989年]]、[[東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件]]で[[宮崎勤|宮﨑勤]]が逮捕され[[おたく]]という概念がクローズアップされる。ほぼ全てのマスメディアが宮崎勤を糾弾する中、宮崎を擁護する論陣を張った大塚英志の姿勢に感銘し、大塚と週刊誌での対談記事で再会した後、大塚らと共著で1989年に『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』を刊行<ref>中森明夫「『Mの世代』の宿命」『サブカルチャー世界遺産』サブカルチャー世界遺産選定委員会、扶桑社、2001年、pp.250-251</ref>。

[[1990年代]]は『[[SPA!]]』誌上で「ニュースな女たち」と「[[中森文化新聞]]」を連載。さらに、[[1995年]]頃には[[チャイドル]]という語を創始し、1990年代後半のチャイドルブームの仕掛け人となった。[[村上綾歌]]、[[岡明子]]、[[りりあん]]、[[せがわきり]]などを発掘した。

[[1997年]]、[[林真理子]]の小説『ワンス・ア・イヤー』文庫版に寄せた解説が、[[2008年]]に林本人から「林真理子論として最高」と評価される<ref>林真理子「マリコのゲストコレクション 402 中森明夫」『週刊朝日』2008年2月22日号</ref>。

[[2001年]]には、[[慶應義塾大学]]で[[非常勤講師]]としてポップメディア史を教えた。

[[2005年]]、文芸評論家から無視されてきた[[山田悠介]]の『[[親指さがし]]』の解説を寄せた。

[[2010年]]、50歳にして、初の純文学作品『アナーキー・イン・ザ・JP』を発表。第24回[[三島由紀夫賞]]候補に挙がった。


==コラム連載==
==コラム連載==

2012年2月12日 (日) 03:27時点における版

中森 明夫(なかもり あきお、本名:柴原 安伴しばはら やすとも[1])、1960年1月1日-)は日本のコラムニスト編集者三重県志摩市出身。おたくという語の生みの親。

人物・経歴

最終学歴は明治大学附属中野高等学校中退と自称するも、実際には1979年大正大学文学部哲学科中国学コース入学、1983年中退[要出典]

1982年7月、ミニコミ誌ブームの中で、エンドウユイチ(現:遠藤諭)達と共に『東京おとなクラブ』を創刊。同誌の発行人となり、NHK少年ドラマシリーズやCMなどを特集し、1985年まで不定期刊で5号まで出す。ペンネームは歌手の中森明菜にちなんで、エンドユイチから命名された[2]

1983年6月から『漫画ブリッコ』誌上に連載した「『おたく』の研究』の中で、ガンダムファンやカリオストロファンなどの「異様さ」をあげつらい、「この頃やたら目につく世紀末的ウジャウジャネクラマニア少年達」を「おたく」と命名。この記事が読者と編集長(大塚英志)から反撥を受け、「おたくの…」は1983年12月号を最後に連載中止に追い込まれた[3]

一方、1980年代半ばから浅田彰に認められ、新しい世代のサブカルチャーの担い手として注目を浴び、田口賢司および野々村文宏と共に"新人類3人組"と呼ばれて世に出た。なお、中森本人は「新人類」という概念を信じておらず、来た仕事が断る理由もなく引き受けていたという[4]

1985年に『宝島』の1985年6月号から連載したオムニバス小説「東京トンガリキッズ」で小説家デビュー。1987年に単行本化。1988年の小説『オシャレ泥棒』は翌1989年に宮沢りえ主演でTBSでテレビドラマ化される[5]

1989年東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件宮﨑勤が逮捕されおたくという概念がクローズアップされる。ほぼ全てのマスメディアが宮崎勤を糾弾する中、宮崎を擁護する論陣を張った大塚英志の姿勢に感銘し、大塚と週刊誌での対談記事で再会した後、大塚らと共著で1989年に『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』を刊行[6]

1990年代は『SPA!』誌上で「ニュースな女たち」と「中森文化新聞」を連載。さらに、1995年頃にはチャイドルという語を創始し、1990年代後半のチャイドルブームの仕掛け人となった。村上綾歌岡明子りりあんせがわきりなどを発掘した。

1997年林真理子の小説『ワンス・ア・イヤー』文庫版に寄せた解説が、2008年に林本人から「林真理子論として最高」と評価される[7]

2001年には、慶應義塾大学非常勤講師としてポップメディア史を教えた。

2005年、文芸評論家から無視されてきた山田悠介の『親指さがし』の解説を寄せた。

2010年、50歳にして、初の純文学作品『アナーキー・イン・ザ・JP』を発表。第24回三島由紀夫賞候補に挙がった。

コラム連載

著書

  • 『東京トンガリキッズ』(JICC出版局、1987年)のち角川文庫 
  • 『オシャレ泥棒』(マガジンハウス、1988年)
  • 『瞳に星な女たち』(太田出版、1993年)
  • 『アイドルにっぽん』(新潮社、2007年)
  • 『女の読み方』(朝日新書、2007年)
  • 『学校で愛するということ』(角川書店、2009年)
  • 『アナーキー・イン・ザ・JP』(新潮社、2010年)

共著

出典

  1. ^ 宝泉薫、ファッシネイション編『歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代』彩流社、2002年、p.54
  2. ^ 「my subculture Akio Nakamori interview」『サブカルチャー世界遺産』サブカルチャー世界遺産選定委員会、扶桑社、2001年、p.15
  3. ^ 「my subculture Akio Nakamori interview」『サブカルチャー世界遺産』サブカルチャー世界遺産選定委員会、扶桑社、2001年、p.16
  4. ^ 「my subculture Akio Nakamori interview」『サブカルチャー世界遺産』サブカルチャー世界遺産選定委員会、扶桑社、2001年、p.16,20
  5. ^ ドラマ・時代劇番組詳細情報 オシャレ泥棒 TBSチャンネル公式サイト内
  6. ^ 中森明夫「『Mの世代』の宿命」『サブカルチャー世界遺産』サブカルチャー世界遺産選定委員会、扶桑社、2001年、pp.250-251
  7. ^ 林真理子「マリコのゲストコレクション 402 中森明夫」『週刊朝日』2008年2月22日号

外部リンク