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| caption=ホンジュラスの地図。この戦争は両国のサッカー国際試合が引き金となっているが、その背景にはホンジュラスに在住するエルサルバドル移民の処遇を巡る問題や経済摩擦などが絡んでいた。 |
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| place=エルサルバドルとホンジュラスの国境地帯 |
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'''サッカー戦争'''(サッカーせんそう、{{Lang-es |
'''サッカー戦争'''(サッカーせんそう、{{Lang-es|Guerra del Futbol}})とは、[[1969年]][[7月14日]]から[[7月19日]]にかけて[[エルサルバドル]]と[[ホンジュラス]]との間で行われた[[戦争]]である。同年6月に行われた[[1970 FIFAワールドカップ・予選]]において両国が対戦した際の国民感情のもつれから国交断絶に至った経緯から「サッカー戦争」の名称で知られているが、その背景には両国間の[[国境]]線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル[[移民]]問題、[[貿易摩擦]]などといった問題が存在する<ref name="読売19700131">「解説 からむ移民問題」『[[読売新聞]]』1970年1月31日 14版 3面</ref><ref name="世界民族問題事典">{{Cite book|和書|author=[[梅棹忠夫]]監修、[[松原正毅]]編 |year=2002 |title=世界民族問題事典 |publisher= [[平凡社]] |isbn=978-4582132021 |page=462}}</ref><ref name="国際政治事典">{{Cite book|和書|author=[[猪口孝]]他 編 |year=2005 |title=国際政治事典 |publisher= 弘文堂 |isbn=978-4335460234 |page=395}}</ref>。'''100時間戦争'''<ref name="世界民族問題事典"/><ref name="大貫186">[[#大貫 1999|大貫 1999]]、186頁</ref>や'''エルサルバドル・ホンジュラス戦争'''<ref>{{cite web|url=http://www.jica.go.jp/topics/2009/20090612_05.html |title=エルサルバドル・ホンジュラス国境を結ぶ「友好橋」が完成|publisher=独立行政法人[[国際協力機構]]|date=2009年6月12日|accessdate=2012年8月25日}}</ref>とも呼ばれる。 |
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[[レシプロエンジン|レシプロ]][[戦闘機]]同士の空中戦や撃墜が起こった最後の戦争としても知られている。 |
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== 背景 == |
== 背景 == |
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=== 移民問題 === |
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{{main|エルサルバドル#歴史|ホンジュラス#歴史}} |
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1970年に開催予定であった[[FIFAワールドカップ]]・[[1970 FIFAワールドカップ|メキシコ大会]]の出場権を巡り、1969年6月8日、ホンジュラスの首都[[テグシガルパ]]において、ホンジュラス対エルサルバドルの予選1回戦が執り行われた。結果は1対0でホンジュラスが勝利する。このとき、熱狂的なサッカーファンであったエルサルバドルの18歳の女性がピストル自殺してしまう<ref name="aria_131" />。彼女の葬儀にはエルサルバドルの代表選手や大統領などもかけつけるなど、一大イベント化し<ref name="aria_131" />、国の威信をかけた6月15日、エルサルバドルの首都[[サンサルバドル]]で行われた2回戦でエルサルバドルは3対0で勝利し、最終戦に望みをつなぐ。 |
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エルサルバドルは中米で最も国土面積が小さく、人口密度が最も高い国である<ref name="大貫86">[[#大貫 1999|大貫 1999]]、86頁</ref>。人口の約9割は、[[メスティーソ]]と呼ばれるスペイン系などの[[白人]]と[[インディオ]]の[[混血]]であり<ref name="大貫86"/>、残りは純粋な白人とインディオで構成されていた<ref name="大貫86"/>。山岳地帯が連なる狭い国土に居住した点、中米地域において最も工業が発展した点、勤勉な国民性を持つ点などから「中米の[[日本]]」とも評された<ref name="伊藤">{{Cite book|和書|author=[[伊藤正孝]] 編|year=1992|title=世界紛争地図--激動の世界を一望する-- |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000031769 |page=64-65}}</ref>。 |
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その一方で[[19世紀]]後半頃から国内経済を[[コーヒー]]の生産と輸出に依存していたが<ref name="後藤319">[[#後藤 1993|後藤 1993]]、319頁</ref>、これは政府が自給自足農業を行う先住民の土地所有を法律により禁止し<ref name="後藤319"/>、コーヒー生産者には税制上の優遇措置を付与するなどして、国を挙げてコーヒー生産を奨励したことの影響によるものだった<ref name="後藤319"/>。国土の多くは「14家族」(カトルセファミリア)と呼ばれる一部の白人富裕層の所有する農場で占められ、土地や財産を独占していたのに対し<ref name="伊藤"/><ref name="後藤319"/>、多くの国民は低所得に抑えられ生活に困窮していた<ref name="伊藤"/><ref name="後藤319"/>。 |
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6月27日の最終戦でエルサルバドルは延長の末3対2で勝利する。試合直前、エルサルバドルは外交関係断絶を臭わせ、ホンジュラスを脅迫したが、試合に負けたホンジュラス側が断交を持って応じ、両国の関係は最悪の状況となった<ref>朝日新聞夕刊-1969年7月4日付</ref>。 |
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土地を所有していないエルサルバドルの一部の国民は、約6倍の国土を持ち人口比もエルサルバドルの2分の1(250万人)に満たない隣国のホンジュラスへと移住し生活基盤を置いたが、こうした移民は1960年代当時、合法による者と非合法による者を含めて30万人<ref name="朝日19690704夕">「サッカーから戦争に エルサルバドルとホンジュラス 国境挟み砲撃戦」『朝日新聞』1969年7月4日夕刊 3版 2面</ref>から50万人に上った<ref name="田中133">[[#田中 2004|田中 2004]]、133頁</ref>。 |
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=== 両国の外交関係 === |
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そもそも、[[1960年代]]におけるエルサルバドルとホンジュラスとの間の外交関係は、[[国境]]線問題<ref>国境線は河川を基点としていたが、雨季と乾季で地形がかなり変化することもあり、国際司法裁判所の裁定を待っている状況であった。</ref>をはじめとする数々の問題を抱えていた<ref name="aria_131" />。エルサルバドルは1948年以来工業化を始めたが、封建的大土地所有制に手をつけない工業化だったため、破綻は目に見えていた。これをかわすためのガス抜きとしてエルサルバドル政府はホンジュラスへの農業移民を送り出していたが、その数は50万人近くまで膨れ上がっていた<ref name="aria_131" />。これに対しホンジュラス大統領ロペス・アレジャーノは[[1962年]]に土地改革法を施行し、国境未確定地帯に居住しているエルサルバドル人を退去させ、ホンジュラス農民を入植させようとした<ref name="aria_131" />。 |
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ホンジュラスでは古くからエルサルバドルからの移民を受け入れ、[[1900年代]]には政府が辺境地を開拓する意思を持つ移民に対し無償で土地を提供し<ref name="アームストロング、シェンク116">[[#アームストロング、シェンク 1984|アームストロング、シェンク 1984]]、116頁</ref>、[[1932年]]にエルサルバドルで恐慌が発生した際には、数千人がホンジュラスへと移民し、農園や[[鉱山]]で働いた<ref name="アームストロング、シェンク116"/>。一方、ホンジュラスの国内情勢の変化や、地元民と移民との間での土地と仕事を巡る争いごとが表面化すると<ref name="アームストロング、シェンク116"/>、ホンジュラス政府も次第に態度を硬化させるようになった<ref name="アームストロング、シェンク116"/>。 |
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こうした国民感情の悪化と、ワールドカップという国を挙げたイベントが重なり、戦争へと発展した。 |
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移民問題に対処するべく、両国政府は[[1962年]]と[[1965年]]に条約を締結し調整を図ってきたが<ref name="アームストロング、シェンク116"/>、ホンジュラス国内の人口増加、[[バナナ]]農園の近代化に伴う労働需要の激減、[[牧畜]]や[[綿花]]農園の拡大による農地不足が問題となり、野党や富裕層から農地改革への圧力が高まっていた<ref name="国際政治事典"/><ref name="アームストロング、シェンク117">[[#アームストロング、シェンク 1984|アームストロング、シェンク 1984]]、117頁</ref>。ホンジュラス政府は1969年1月<ref name="Armed Conflict Events Database">{{en icon}} {{cite web|url=http://www.onwar.com/aced/data/sierra/soccer1969.htm|title=El Salvador Honduras War 1969|publisher=Armed Conflict Events Database |date=2000年12月16日|accessdate=2012年8月25日}}</ref>に条約の更新を拒否し<ref name="アームストロング、シェンク117"/>、{{仮リンク|オスバルド・ロペス・アレジャーノ|es|Oswaldo López Arellano}}大統領は、1962年に制定された農地改革法の実施に踏み切ることになった<ref name="アームストロング、シェンク118">[[#アームストロング、シェンク 1984|アームストロング、シェンク 1984]]、118頁</ref>。この改革法は土地の所有者をホンジュラス国内で出生した者に限定したもので<ref name="アームストロング、シェンク118"/>、それに該当しないエルサルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求める内容となった<ref name="アームストロング、シェンク118"/>。ホンジュラス政府による発表は1969年4月に行われ<ref name="Armed Conflict Events Database"/>、同年5月下旬までにエルサルバドル移民の帰還が始まった<ref name="Armed Conflict Events Database"/>。 |
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== 戦争の展開 == |
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先手を打ったのはエルサルバドル軍だった。7月14日18時10分、エルサルバドル空軍の[[ダグラス]][[C-47 (航空機)|C-47]]1機と[[ノースアメリカン]] [[P-51 (航空機)|F-51D マスタング]]数機が、ホンジュラスの首都[[テグシガルパ]]郊外の[[トンコンティン国際空港|トンコンティン飛行場]]を爆撃。また、[[グッドイヤー]] [[F4U_(航空機)|FG-1D コルセア]]([[ヴォート・エアクラフト・インダストリーズ|ヴォート]] [[F4U_(航空機)|F4U コルセア]]のライセンス生産機)の編隊による[[サンペドロスーラ|サン・ペドロ・スーラ]]郊外の[[ラモン・ビジェーダ・モラレス国際空港|ラ・メサ飛行場]]への爆撃など、同時刻にホンジュラスの主だった飛行場及び軍事施設十数か所への爆撃が行われた。 |
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=== 貿易問題 === |
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翌15日にはホンジュラス空軍機4機がエルサルバドル領内に侵入。うち2機が首都[[サン・サルバドル]]郊外の[[イロパンゴ国際空港|イロパンゴ飛行場]]を爆撃。残り2機は[[ソンソナテ県]]の[[アカフトラ]]港を攻撃した後、[[ラ・ウニオン県]]のクトゥコ港にある石油タンクを攻撃した。16日以降も両軍による爆撃が続いた。17日正午頃にホンジュラス南西部のエル・アマティージョの国境付近でエルサルバドル空軍のF-51Dがホンジュラス空軍のF4U-5に撃墜され、さらに同日14時、国境を挟んですぐのエルサルバドル東部の[[ラ・ウニオン (エルサルバドル)|ラ・ウニオン]]でFG-1D 2機が数時間前と同じF4U-5のパイロットによって撃墜された。 |
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国の産業をコーヒーやバナナなどの[[農業]]生産と輸出に特化し、「近代化の遅れた国々」と見做されていた<ref name="後藤316">[[#後藤 1993|後藤 1993]]、316頁</ref>エルサルバドル、ホンジュラス、[[ニカラグア]]、[[グアテマラ]]、[[コスタリカ]]の5か国は、中米地域の経済統合を目指して[[1961年]]に[[中米統合機構|中米共同市場]]を発足された<ref name="後藤316"/>。中米共同市場の発足と、[[アメリカ合衆国]]の圧力による外資系企業の参入自由化により、1960年代に5か国での工業化が進展した<ref name="後藤316"/>。工業立地に関して当初は、各国間で公平に分配する取り決めとなっていたが<ref name="後藤317">[[#後藤 1993|後藤 1993]]、317頁</ref>、加盟国間の対立と外資系企業の圧力もあって緩和され、工業化の進んでいたエルサルバドル、グアテマラ、コスタリカの3か国に工業立地は集中するようになった<ref name="後藤317"/>。 |
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その中で、[[1950年代]]から工業化が進んだエルサルバドルは、国民の多くが貧困層であり国内市場が小さいという事情があったものの<ref name="後藤320">[[#後藤 1993|後藤 1993]]、320頁</ref>、一部の富裕層向けの生産と双務貿易協定に基づいた中米諸国への輸出向け生産により発展を遂げていた<ref name="後藤320"/>。同国は中米共同市場の発足の際には主導的役割を果たし、加盟国内で最も多くの恩恵を受けていたが<ref name="後藤320"/>、一方でホンジュラスでは工業化に立ち遅れ<ref name="後藤320"/>、エルサルバドル製品により市場が圧迫を受けるなどの不均衡が生じたことから、ホンジュラス側は不満を抱くようになった<ref name="後藤320"/>。 |
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エルサルバドル陸軍は7月14日、[[陸軍]][[歩兵]]部隊(兵力約12,000人)を投入し、ホンジュラス領内に侵攻した。 |
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=== 国境線問題 === |
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この100時間程の戦争による双方の死者は合計数千人にものぼった。死者のほとんどがエルサルバドル陸軍の侵攻により殺害されたホンジュラス人の農民であり、このことは両国間に大きな亀裂を作った。[[米州機構]](OAS)が調停に乗り出した結果、[[7月29日]]にエルサルバドル陸軍が撤退を完了し、停戦が成立した。 |
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両国の[[国境]]線は植民地時代以来、河川を基点とすることが多かったが<ref name="田中133"/>、[[雨季]]と[[乾季]]で地形が大きく変動することから国境線が未確定の部分が存在した<ref name="田中133"/>。そのため、エルサルバドルの{{仮リンク|オコテペケ|label=チャラテナンゴ県|es|Chalatenango}}や{{仮リンク|オコテペケ|label=モラサン県|es|Morazán}}北部では、両国がたびたび衝突を繰り返していた<ref name="アームストロング、シェンク116"/>。 |
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== 経緯 == |
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=== エルサルバドル移民の国外退去 === |
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この戦争の後、ホンジュラスは中米共同市場から脱退し、エルサルバドル製品をボイコットした。ホンジュラスへのエルサルバドル農業移民も禁止され、投資も凍結された。ホンジュラス市場を失ったエルサルバドル工業は壊滅的な打撃を受け、さらにホンジュラスから追放された30万人の農民が失業者となって首都[[サンサルバドル]]に溢れた。今まで大土地所有制の矛盾をガス抜きしていたホンジュラスへの移民も禁止されたため、それまで覆い隠されてきたエルサルバドル社会の矛盾が一気に露呈した。そして[[1972年]]以降、エルサルバドルでは[[極右]]勢力の[[テロ]]が繰り返された。サッカーから始まった戦争は{{仮リンク|エルサルバドル内戦|en|Salvadoran Civil War}}に至り、中米一の工業国であったエルサルバドルの没落が始まった。 |
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ホンジュラスのアレジャーノ大統領により実施された農業改革法は、主に国境未確定地帯に居住しているエルサルバドル人を退去させ、ホンジュラス人を入植させることを企図するものだった<ref name="田中133"/>が、この政策により土地を失いエルサルバドルへと帰国した移民の数は戦争開始前の数か月間に1万4千人<ref name="朝日19690704夕"/>とも、2万人から5万人にのぼったものと推測されている<ref name="世界民族問題事典"/>。この政策はワールドカップ予選とほぼ同時期に執り行われたものだが<ref name="田中133"/>、偶然によるものなのか意図的なものなのかは定かではない<ref name="田中133"/>が、結果として両国間の国民感情を刺激し、戦争へと発展する呼び水となった<ref name="田中133"/>。 |
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移民の国外退去は強制的なもので<ref name="朝日19690704夕"/>、ホンジュラスの「ラ・マンチャ・ブラバ」と呼ばれる極右組織や準軍事組織が関与し<ref name="アームストロング、シェンク113">[[#アームストロング、シェンク 1984|アームストロング、シェンク 1984]]、113頁</ref>、残虐行為が行われた事例が報告された<ref name="読売19700131"/><ref name="アームストロング、シェンク113"/>。これに対しエルサルバドルの新聞メディアは、ホンジュラスに対して徹底的な報復を求める様に政府に要求した<ref name="アームストロング、シェンク113"/>。 |
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両国関係の修復には10年以上の歳月を要した。[[1980年]][[10月30日]]、激化するエルサルバドル極右勢力のテロリズムと、対抗する[[ファラブンド・マルティ民族解放戦]] (FMLN) との間で泥沼の内戦がまさに始まろうとする中で、両国はようやく平和条約を締結した。 |
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=== ワールドカップ予選と国交断絶 === |
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同年11月の[[1982 FIFAワールドカップ]]地区予選({{仮リンク|1981 CONCACAF選手権|en|1981 CONCACAF Championship}})で、両国の12年ぶりのサッカー対戦が実現し、試合は2-1でエルサルバドルが勝利した<ref name="world-cup-1982-qualifier">{{cite web|url=http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=59/preliminaries/preliminary=58/index.html|title=1982 FIFA World Cup Spain|publisher=国際サッカー連盟|accessdate=2012-01-26}}</ref>。両国はともに地区予選を勝ち抜き<ref name="world-cup-1982-qualifier" /><ref>{{cite web|url=http://www.rsssf.com/tables/82q.html|title=World Cup 1982 Qualifying|publisher=RSSSF|accessdate=2012-01-26}}</ref>、2年後の[[1982年]]、中米諸国を巻き込んだいつ終わるともしれない中米ゲリラ戦争の最中に、揃ってワールドカップに出場した。 |
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[[ファイル:Estadio Azteca 07a.jpg|thumb|left|[[FIFAワールドカップ]]出場をかけて両国は予選で対戦。1勝1敗の成績で迎えた第3戦は、[[メキシコ]]の首都[[メキシコシティ]]にある[[エスタディオ・アステカ]]で行われ、延長戦の末にエルサルバドルが3-2と勝利した。]] |
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1970 FIFAワールドカップ・北中米・カリブ予選は史上最多となる12チームがエントリーして行われた<ref name="大住150-151">[[#大住 2002|大住 2002]]、150-151頁</ref>。同地域では[[サッカーメキシコ代表|メキシコ代表]]がワールドカップ本大会に連続出場するなど優勢を保っていたが1970年大会は地元開催ということで予選を免除されていた<ref name="大住150-151"/>ため、それ以外のチームにとっては本大会出場の機会となった<ref name="大住150-151"/>。 |
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[[サッカーエルサルバドル代表|エルサルバドル代表]]は[[サッカースリナム代表|スリナム代表]]と[[サッカーオランダ領アンティル代表|オランダ領アンティル代表]]を、[[サッカーホンジュラス代表|ホンジュラス代表]]は[[サッカーコスタリカ代表|コスタリカ代表]]と[[サッカージャマイカ代表|ジャマイカ代表]]をそれぞれ下して1次ラウンドを突破し、準決勝ラウンドで対戦することになった<ref name="大住152">[[#大住 2002|大住 2002]]、152頁</ref>。 |
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[[1992年]]、75,000人に及ぶ死者と100万人とも推測される亡命者を出したエルサルバドル内戦はようやく停戦にこぎつけた。 |
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第1戦は1969年[[6月8日]]にホンジュラスの首都[[テグシガルパ]]で行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やクラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた<ref name="カプシチンスキ170">[[#カプシチンスキ 1993|カプシチンスキ 1993]]、170頁</ref>。なお、こうしたサポーターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった<ref name="カプシチンスキ170"/>。一方、エルサルバドルでは熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃[[自殺]]を図る事件が発生<ref name="カプシチンスキ170"/>。女性の葬儀には{{仮リンク|フィデル・サンチェス・エルナンデス|es|Fidel Sánchez Hernández}}大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し<ref name="カプシチンスキ171">[[#カプシチンスキ 1993|カプシチンスキ 1993]]、171頁</ref>葬儀の模様がテレビ中継をされるなど<ref name="カプシチンスキ170"/>、国家的イベントの様相を呈した<ref name="田中131-132">[[#田中 2004|田中 2004]]、131-132"頁</ref>。 |
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戦争の主因の1つである国境問題に関しては、平和条約締結後に[[国際司法裁判所]]に付託した。国際司法裁判所は、1992年9月11日に新たな国境線の案を提示。両国はこれを受け入れることを表明したが、実際の作業は難航した。 |
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第2戦は1週間後の[[6月15日]]にエルサルバドルの首都[[サンサルバドル]]で行われたが、ホンジュラス代表が宿泊したホテルの周辺では第1戦と同様に群集が周囲を取り巻き<ref name="カプシチンスキ171"/>、自殺した女性の肖像を掲げ、相手チームを批難した<ref name="カプシチンスキ171"/>。また、群集はホテルの窓ガラスを破壊し、腐敗した卵や鼠の死骸などの汚物を建物へと投げ入れた<ref name="カプシチンスキ171"/>。ホンジュラス代表選手の輸送はエルサルバドル軍の装甲車によって行われていたため、暴徒による襲撃を直接に受けることはなかったが<ref name="カプシチンスキ171"/>、ホンジュラスから応援に駆けつけたホンジュラス代表サポーターは暴徒から殴る蹴るの暴行を受けるなど2人が死亡し<ref name="カプシチンスキ172">[[#カプシチンスキ 1993|カプシチンスキ 1993]]、172頁</ref>、彼らの乗車していた自動車150台が放火される被害を受けた<ref name="カプシチンスキ172"/>。試合は3-0でエルサルバドルが勝利し1勝1敗の成績で並び、プレーオフへと持ち込まれることになった<ref name="大住152"/>。 |
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2006年4月18日、両国の国境地帯に位置する街で式典が開催された。出席したエルサルバドル大統領[[エリアス・アントニオ・サカ・ゴンサレス]](Elías Antonio Saca González)とホンジュラス大統領[[マヌエル・セラヤ|ホセ・マヌエル・セラヤ・ロサレス]](José Manuel Zelaya Rosales)は、国境線375kmを画定する文書に署名した。これにより、国境問題は終結した。 |
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エルサルバドル政府の発表によると、この敗戦によりホンジュラスに在住するエルサルバドル移民が襲撃を受け、身の危険を危ぶんだ1万2千人近くの移民がエルサルバドル領内へと避難する事態となった<ref name="朝日19690628">「サッカーがもとで国交断絶 エルサルバドルとホンジュラス」『[[朝日新聞]]』1969年6月28日 12版 3面</ref>。エルサルバドル国民の間でホンジュラスとの国交断絶を求める声が高まると、エルサルバドル政府は[[6月23日]]に国家非常事態を宣言して予備役軍人を召集<ref name="朝日19690628"/>。3日後の[[6月26日]]夜に同政府は「ホンジュラスは同国に在住するエルサルバドル人を迫害しようとしている」との声明を発表し、国交断絶を宣言した<ref name="朝日19690628"/>。ホンジュラス政府もこれを受けて[[6月27日]]にエルサルバドルとの国交を断絶し、国防上の対処を行うことを発表した<ref name="読売19690628">「サッカー試合がもとで断交 エルサルバドルとホンジュラス」『[[読売新聞]]』1969年6月28日 夕刊 4版 2面</ref>{{#tag:ref|当時のラテンアメリカ諸国では国民の間で人気の高いサッカーを政権維持に利用していた側面があり<ref name="カプシチンスキ172"/>、代表チームの不振により政権が崩壊することもあった<ref name="カプシチンスキ172"/>。[[1930年代]]に[[アルゼンチン]]と[[ウルグアイ]]がサッカーの試合が契機となり国交断絶に至った事例がある<ref name="朝日19690628"/>。|group=注}}。 |
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[[2009年]]、翌[[2010年]]に開催される[[2010 FIFAワールドカップ|W杯南アフリカ大会]]出場チームを決める[[2010 FIFAワールドカップ・北中米カリブ海予選|北中米最終 (4次) 予選]]でホンジュラスは3位に入り、1982年以来2回目となる同大会の出場権を獲得した。サッカー戦争から丁度40年目の出来事であった。 |
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6月27日に[[メキシコ]]の首都[[メキシコシティ]]にある[[エスタディオ・アステカ]]で行われた最終戦は、会場となったエスタディオ・アステカの収容人数を10万人から2万人に制限<ref name="朝日19690629">「エルサルバドルが勝つ 厳戒下のサッカー予選」『朝日新聞』1969年6月29日 12版 3面</ref><ref name="読売19690629">「機動隊はさみ第3戦 エルサルバドル対ホンジュラス サッカー」『読売新聞』1969年6月29日 14版 3面</ref>。試合の2日前から観戦のために訪れていた両国のサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離して入場させ<ref name="読売19690629"/>、緩衝地帯には[[催涙剤|催涙ガス銃]]を装備した機動隊員を配置させる、といった厳戒態勢の中で執り行われた<ref name="朝日19690629"/><ref name="読売19690629"/>。試合は延長戦の末にエルサルバドル代表が3-2でホンジュラス代表を下し、[[サッカーハイチ代表|ハイチ代表]]との最終ラウンドへと進出した{{#tag:ref|エルサルバドル代表は最終ラウンドでハイチ代表をプレーオフの末に下し、ワールドカップ初出場を果たした<ref name="大住153-154">[[#大住 2002|大住 2002]]、150-151頁</ref>。[[1970年]]6月に行われた本大会のグループリーグでは、[[サッカーベルギー代表|ベルギー代表]]、メキシコ代表、[[サッカーソビエト連邦代表|ソビエト連邦代表]]と同じ組みとなったが、3戦全敗で敗退した<ref name="大住153-154"/>。|group=注}}。 |
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== 最後のコルセア・ライダー == |
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一連の航空戦で最大の戦果を上げたホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト(当時は大尉。公式には空中で撃墜した3機全てが彼の戦果とされている)は、『最後のコルセア・ライダー』として、先進国でもミリタリーファンを中心によく知られることになった。日本でも、彼の乗機である「1/48 ヴォートF4Uコルセア・ホンジュラス空軍1969版」が[[ハセガワ]]から限定生産プラモデルとして発売された。 |
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一方、敗れた側の[[ホンジュラスサッカー連盟]]は第3戦に出場したエルサルバドル代表の2選手は1年前に出場停止処分を受け、処分中であるにも関わらず試合に出場したとして、[[国際サッカー連盟]] (FIFA) に対し第3戦の試合結果を無効とするように提訴した<ref>「サッカー戦は無効 ホンジュラス側が訴え」『朝日新聞』1969年7月5日 12版 3面</ref>。 |
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=== 前哨戦 === |
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エルサルバドル外務省の発表によると、[[7月3日]]11時45分に{{仮リンク|ホンジュラス空軍|en|Honduran Air Force}}の1機が、エルサルバドル北西部に位置するエルポイ (El Poy) にある国境監視所を爆撃するなどして、同監視所の守備隊と交戦<ref name="読売19690704夕">「サッカー断交火を吹く ホンジュラス機 エルサルバドルを爆撃」『読売新聞』1969年7月4日 夕刊 4版 2面</ref>。その後、先刻の爆撃機とは別のホンジュラス空軍の2機が同監視所を襲撃したが、{{仮リンク|エルサルバドル空軍|en|Air Force of El Salvador}}機が迎撃してこれを退けた<ref name="読売19690704夕"/>。また、両国陸軍が国境を挟んで約20分間に渡って銃撃戦を行った<ref name="読売19690704夕"/>。エルサルバドル外務省は[[米州機構]] (OAS) に対し、ホンジュラスの行為を非難する書簡を送った。両国の衝突を受けてOASは[[7月4日]]、理事会を招集し今後の対応を協議した<ref>「米州機構理 決定持越す ホンジュラスとエルサルバドルの国境戦争」『朝日新聞』1969年7月6日 12版 3面</ref>。 |
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[[7月9日]]、ホンジュラス政府の発表によると、{{仮リンク|エルサルバドル陸軍|en|Armed Forces of El Salvador}}がホンジュラス領内の[[インティブカ県]]にある村を襲撃し、地元の警官隊と衝突。12戸の民家が焼き払われたが、死傷者はなかった<ref>「エルサルバドル軍 ホンジュラスへ侵入」『朝日新聞』1969年7月10日 12版 3面</ref>。両軍による戦闘は7月3日に続いて2度目。 |
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[[7月12日]]、エルサルバドル陸軍の部隊がホンジュラス領内に10km侵攻した地点で{{仮リンク|ホンジュラス陸軍|en|Military of Honduras}}と衝突。銃撃戦となり、エルサルバドル兵14人が戦死した<ref name="朝日19690714">「また衝突か エルサルバドルとホンジュラス」『朝日新聞』1969年7月14日 12版 3面</ref>。 |
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[[7月13日]]早朝、エルサルバドル政府の発表によると両軍は国境付近にあるエル・ポイで3時間に渡って交戦<ref>「またも交戦 エルサルバドルとホンジュラス」『朝日新聞』1969年7月14日夕刊 3版 2面</ref>。ホンジュラス政府の発表によると、この戦闘により一般市民が負傷した<ref>「一般市民も負傷」『朝日新聞』1969年7月14日夕刊 3版 2面</ref>。OAS理事会は両国間の本格的な軍事的衝突を回避するため、7か国による平和維持団の派遣を決定した<ref name="朝日19690715夕">「エルサルバドル機が爆撃 ホンジュラス応戦」『朝日新聞』1969年7月15日 3版 3面</ref>。 |
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=== 戦闘 === |
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==== 7月14日 ==== |
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{{Location map+|Honduras|width=250|float=right|caption=エルサルバドル空軍の主な攻撃地点|places= |
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{{Location map~|Honduras|lat_deg=14|lat_min=3|lat_sec=39|lat_dir=N |
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|lon_deg=87|lon_min=13|lon_sec=2|lon_dir=W |label=<span style=" white-space:nowrap;">[[テグシガルパ]]</span>}} |
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{{Location map~|Honduras|lat_deg=14|lat_min=46|lat_sec=0|lat_dir=N |
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|lon_deg=88|lon_min=47|lon_sec=0|lon_dir=W |label=<span style=" white-space:nowrap;">[[サンタロサ・デ・コパン]]</span>|position=right}} |
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{{Location map~|Honduras|lat_deg=13|lat_min=17|lat_sec=32|lat_dir=N |
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|lon_deg=87|lon_min=39|lon_sec=14|lon_dir=W |label=[[アマパラ]]|position=left }} |
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{{Location map~|Honduras|lat_deg=13|lat_min=19|lat_sec=0|lat_dir=N |
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|lon_deg=87|lon_min=13|lon_sec=0|lon_dir=W |label=[[チョルテカ]]|position=right}} |
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}} |
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</center>7月14日、OASを介して両国による外交交渉が行われる中、エルサルバドル空軍はフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領からホンジュラスの主要都市を攻撃するための直接命令を受けた<ref name="La estrategia">{{es icon}} {{cite news |url = http://multimedia.laprensagrafica.com/infografias/2009/100horas/ | title= La estrategia-- 100 HORAS DE COMBATE | publisher = LA PRENSA GRAFICA | accessdate = 2012年8月25日}}</ref>。 |
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同日18時10分、エルサルバドル空軍の[[C-47 (航空機)|C-47]]、[[P-51 (航空機)|F-51D]]、[[F4U_(航空機)|FG-1D]]([[F4U_(航空機)|F4U コルセア]]のライセンス生産機)<ref name="AU Review">{{en icon}} {{cite news| |first=Jay |last=Mallin |url =http://www.airpower.maxwell.af.mil/airchronicles/aureview/1970/mar-apr/mallin.html | title= Salvador Honduras War, 1969 | publisher = Air University Review | accessdate = 2012年8月25日}}</ref>で構成される少なくとも6機<ref name="La estrategia"/>の編隊が、テグシガルパ郊外の[[トンコンティン国際空港]]を爆撃。同空軍はこれと同時にホンジュラス領内にある{{仮リンク|サンタロサ・デ・コパン|es|Santa Rosa de Copán}}、{{仮リンク|アマパラ|es|Amapala}}、{{仮リンク|チョルテカ|es|Choluteca (Choluteca)}}など、ホンジュラスの主だった飛行場及び軍事施設十数か所への爆撃を行った<ref name="La estrategia"/><ref name="AU Review"/>。なお、このエルサルバドル空軍による空爆は、戦力で勝るホンジュラス空軍に対して先制攻撃を仕掛けることで、従来の軍事的バランスを覆す目的があったが<ref name="AU Review"/>、作戦は失敗した<ref name="AU Review"/>。 |
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エルサルバドル空軍による爆撃後、エルサルバドル陸軍は西部、チャラテナンゴ県、東部の3方面から国境を越えてホンジュラス領内へと侵攻を開始した<ref name="Entrada">{{es icon}} {{cite news |url =http://multimedia.laprensagrafica.com/infografias/2009/100horas/ | title= Entrada-- 100 HORAS DE COMBATE | publisher = LA PRENSA GRAFICA | accessdate = 2012年8月25日}}</ref>。これらの空と陸からの奇襲作戦は、[[第二次世界大戦]]時の[[ナチス・ドイツ]]や[[第三次中東戦争]]時の[[イスラエル]]の事例が示すように双方の完璧な連携が行われた場合に効果を発揮するが<ref name="ISC - CFHM - IHCC">{{fr icon}} {{cite web|url=http://www.stratisc.org/strat_054_Salkin.html|title=UNE PETITE GUERRE EN AMERIQUE CENTRALE (1969)|publisher=ISC - CFHM - IHCC |accessdate=2012年8月25日}}</ref>、本作戦ではエルサルバドル側の望むような効果を得ることが出来ず、その代償としてホンジュラス側に注意を喚起させる結果となった<ref name="ISC - CFHM - IHCC"/>。 |
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==== 7月15日 ==== |
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{{Location map+|El Salvador|width=250|float=left|caption=ホンジュラス空軍の攻撃地点|places= |
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{{Location map~|El Salvador|lat_deg=13|lat_min=41|lat_sec=30|lat_dir=N |
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|lon_deg=89|lon_min=7|lon_sec=32|lon_dir=W |label=<span style=" white-space:nowrap;">[[サンサルバドル]]</span>|position=bottom}} |
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{{Location map~|El Salvador|lat_deg=13|lat_min=35|lat_sec=24|lat_dir=N |
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|lon_deg=89|lon_min=50|lon_sec=1|lon_dir=W |label=[[アカフトラ]]|position=bottom}} |
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{{Location map~|El Salvador|lat_deg=13|lat_min=20|lat_sec=0|lat_dir=N |
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|lon_deg=87|lon_min=50|lon_sec=0|lon_dir=W |label=[[ラ・ウニオン]]|position=left}} |
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}} |
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</center> |
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[[7月15日]]朝、ホンジュラス空軍の[[T-28 (航空機)|T-28]]、[[F4U (航空機)|F4U]]、F-51Sなど数機がエルサルバドル領内に侵入<ref name="AU Review"/>し、サンサルバドル郊外にある{{仮リンク|イロパンゴ国際空港|en|Ilopango International Airport}}を爆撃<ref name="AU Review"/>。軍民共用飛行場である同空港の滑走路や格納庫、一般利用客用の駐車場などが損害を受けた<ref name="AU Review"/>。 |
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この他に、ホンジュラス空軍機はエルサルバドルの主要な港湾都市である{{仮リンク|アカフトラ|es|Acajutla}}にある[[コンビナート]]を攻撃。[[石油精製]]所は被害を受けなかったものの、貯蔵タンクが爆撃により損害を受けた<ref name="AU Review"/>。また、{{仮リンク|ラ・ウニオン県|en|La Unión Department}}にある{{仮リンク|ラ・ウニオン港|label=ラ・クトゥコ港|es|Puerto La Unión}}も爆撃され、17の貯蔵タンクのうち、5つが破壊されたが、港自体の損害はなかった<ref name="AU Review"/>。 |
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航空戦力では2.5対1とホンジュラスが開戦前から優位に立ち、戦争を通じて制空権を維持していたが<ref name="AU Review"/>、これに対して地上戦力の面では両国共におよそ5千人前後の兵員を有し<ref name="AU Review"/>、[[アメリカ陸軍|アメリカ合衆国陸軍]]が第二次世界大戦の際に使用していた旧式の装備を身に付け<ref name="AU Review"/>、[[戦車]]や[[重火器]]といった大型装備を持ち合わせるなど、表面上の明確な差異は存在しなかった<ref name="AU Review"/>。一方で組織力や戦闘能力といった面でエルサルバドル陸軍が優位に立ち<ref name="AU Review"/>、戦争末期ではホンジュラス最強の部隊とされる大統領防衛隊を撃破したと報じられるなど<ref name="AU Review"/>、地上においてはエルサルバドル軍が攻勢を続けた<ref name="AU Review"/>。エルサルバドルの新聞は「エルサルバドル軍の進撃は誰にも止めることは出来ない」「ラテンアメリカのイスラエル」などと大見出しで報じるなど<ref name="AU Review"/>、このまま進撃を続けてホンジュラス領内の都市を陥落させ首都テグシガルパに迫るものと考えられていた<ref name="AU Review"/>{{#tag:ref|両国の兵力に関しては資料によって異なり、「エルサルバドル陸軍は約1万2千人<ref name="Wars of the Americas:">Marley. David. F ,{{google books|DkgGVTOr2EsC&pg|Wars of the Americas: A Chronology of Armed Conflict in the Western Hemisphere,1492 to the Present}}, ISBN 978-1598841008, p. 1041 </ref>、同空軍は3千人であるのに対し、ホンジュラス陸軍は約2千5百人、同空軍は千2百人<ref name="サカマガ197411">[[奈良原武士|鈴木武士]]「サッカー超常識物語 (2) サッカー戦争」『[[週刊サッカーマガジン|サッカーマガジン]]』1974年11月号、159-163頁</ref>」とするものや、「エルサルバドル陸軍は8千人であるのに対し、ホンジュラス陸軍は約2千5百人<ref name="ISC - CFHM - IHCC"/>」とするものもある。|group=注}}。 |
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ホンジュラス領内に侵攻していたエルサルバドル陸軍は、北部にあるエルポイから侵攻した部隊が、同日中に{{仮リンク|ヌエバ・オコテペケ|en|Nueva Ocotepeque}}を占領<ref name="Armed Conflict Events Database"/>。この他、東部から侵攻した部隊が太平洋岸にある{{仮リンク|ゴアスコラン|es|Goascorán}}や{{仮リンク|カリダード|es|Caridad (Honduras)}}や{{仮リンク|アラメシナ|es|Aramecina}}を、チャラテナンゴ方面から侵攻した部隊が北中部の国境線に沿って{{仮リンク|サン・フアン・ガリタ|es|San Juan Guarita}}、{{仮リンク|バリャドリード (ホンジュラス)|label=バリャドリード|es|Valladolid (Honduras)}}、{{仮リンク|ラ・ビルトゥド|es|La Virtud}}といった町を占領するなど<ref name="AU Review"/>、旧式の[[H&K G3]]自動小銃を携帯する歩兵部隊が、開戦から1日でホンジュラス領内の40平方キロメートルの地域を占領した<ref name="Entrada"/>。一方で、エルサルバドルの司令官が[[兵站]]問題に理解がなかったこと<ref name="AU Review"/>、ホンジュラス空軍により石油貯蔵タンクが攻撃された影響により国内の石油供給に支障を来たしたためエルサルバドル陸軍でも[[ガソリン]]不足に陥ったこと<ref name="AU Review"/>により侵攻の停止を余儀なくされた<ref name="AU Review"/>。 |
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==== 7月16日 - 7月17日==== |
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{{Location map+|Honduras|width=250|float=left|caption=エルサルバドル陸軍の主な占領地域|places= |
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{{Location map~|Honduras|lat_deg=14|lat_min=26|lat_sec=0|lat_dir=N |
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|lon_deg=89|lon_min=11|lon_sec=0|lon_dir=W |label=<span style=" white-space:nowrap;">[[ヌエバ・オコテペケ]]</span>}} |
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{{Location map~|Honduras|lat_deg=14|lat_min=9|lat_sec=0|lat_dir=N |
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|lon_deg=88|lon_min=44|lon_sec=0|lon_dir=W |label=[[バリャドリッド (ホンジュラス)|バリャドリッド]]|position=right }} |
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{{Location map~|Honduras|lat_deg=13|lat_min=45|lat_sec=0|lat_dir=N |
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|lon_deg=87|lon_min=43|lon_sec=0|lon_dir=W |label=[[アラメシナ]] }} |
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{{Location map~|Honduras|lat_deg=13|lat_min=35|lat_sec=0|lat_dir=N |
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|lon_deg=87|lon_min=37|lon_sec=0|lon_dir=W |label=[[ゴアスコラン]]|position=bottom}} |
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}} |
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[[7月16日]]、OASが派遣した平和維持委員会は、ホンジュラス側が「エルサルバドル軍がホンジュラス領内から撤退する」との条件付でエルサルバドルとの停戦に応じることを承諾したと発表した<ref name="読売19690717夕">「ホンジュラスは停戦受託 エルサルバドルは侵攻続ける」『読売新聞』1969年7月17日 夕刊 4版 2面</ref>。一方、エルサルバドル側は停戦に応じる様子はなく、ホンジュラス軍に対し「降伏を選ぶか死を選ぶか」と要求するなど強硬な姿勢を見せた<ref name="読売19690717夕"/>。 |
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同日、ホンジュラス政府は[[ラジオ]]放送を通じて「我が軍はエルサルバドルの戦略拠点に対する空爆を継続中である」との声明を発表<ref name="読売19690717夕"/>。また、国民に対して「老若男女の区別なく、侵略者に対抗するために戦地に赴く準備をするように」と呼びかけた<ref name="読売19690717夕"/>。こうした両国間の情勢に対し[[国際連合]]の[[ウ・タント]]事務総長は両国の外務大臣に、戦闘を中止し相互対話に応じるように要請した<ref>「停戦を要請 ウ・タント総長」『読売新聞』1969年7月17日 夕刊 4版 2面</ref>。 |
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[[ファイル:Cor. Fernando Soto.jpg|thumb|7月17日の戦闘でエルサルバドル空軍の3機を撃墜したホンジュラスのフェルナンド・ソト・エンリケス大尉。]] |
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[[7月17日]]、エルサルバドル政府は「ホンジュラスに在住するエルサルバドル人に対する迫害行為を即座に停止させ、戦争前の情勢に復帰させる」との条件付で停戦に応じることを承諾した<ref name="読売19690718">「迫害中止を条件に エルサルバドルも停戦受託」『読売新聞』1969年7月18日 14版 3面</ref>。一方、ホンジュラス政府は同陸軍がエルサルバドルとの国境を越えて領内に侵攻し、北部にある都市に迫りつつある、と発表<ref name="読売19690718"/>。同時に政府は、エルサルバドル側の停戦に向けた非協力的な姿勢を批難する声明を発表した<ref name="読売19690718"/>。これに応じてエルサルバドル軍もホンジュラス領内の三方面からの攻撃を再開させた<ref name="読売19690718夕">「エルサルバドルが猛攻」『読売新聞』1969年7月18日 夕刊 4版 2面</ref>。 |
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同日、地上目標に対する機銃掃射の任務に就いていたホンジュラス空軍の{{仮リンク|フェルナンド・ソト・エンリケス|es|Fernando Soto Henríquez}}大尉が操縦するF4U-5が、味方機からの要請を受けてエルサルバドル空軍機と交戦<ref name="au.af">{{en icon}} {{cite web|url =http://www.au.af.mil/au/goe/eagle_bios/1998/henriquez_1998.asp | title= Eagle Biography Fernando Soto Henriquez | publisher = Air Command and Staff College Gathering of Eagles Homepage | accessdate = 2012年8月25日}}</ref>。エルサルバドル空軍のF-51D 1機とFG-1D 2機を撃墜した<ref name="au.af"/>。[[レシプロエンジン|レシプロ]]戦闘機同士による世界史上最後の戦い<ref name="FUERZA AEREA HONDURENAf">{{es icon}} {{cite web |url =http://www.academiamilfah.com/heroe.html | title= Sotillo y el Corsario - Academia militar de aviacion,Honduras | publisher = FUERZA AEREA HONDURENA | accessdate = 2012年8月25日}}</ref>と呼ばれる戦闘での戦果によりソト大尉は[[少佐]]に昇進し<ref name="au.af"/>、ホンジュラスの国民的英雄として扱われただけでなく<ref name="au.af"/>、世界的な知名度を獲得した<ref name="FUERZA AEREA HONDURENAf"/>。 |
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==== 停戦 ==== |
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[[7月18日]]朝、OASのガロ・ブラサ事務総長は両政府関係者とOAS平和維持委員会との間で約24時間に渡って行われた三者会談により、戦争を終結させるための4項目からなる和平案について合意が成立したと発表した<ref name="朝日19690719">「和平で合意が成立 エルサルバドルとホンジュラス」『朝日新聞』1969年7月19日 12版 3面</ref>。この和平案は以下の通りとなっている。 |
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{{Quotation| |
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# 両国の即時停戦<ref name="朝日19690719"/>。 |
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# 両国軍が開戦前の地点にまで撤退する<ref name="朝日19690719"/>。 |
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# 両国に在住する相手国民の有する財産と保護を保障する<ref name="朝日19690719"/>。 |
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# 両国の停戦を監視するため、OASが派遣する軍民合同顧問団を受け入れる<ref name="朝日19690719"/>。 |
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}} |
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OASの発表によると両国は、中米時間の[[7月18日]]22時から停戦に入り<ref name="読売19690719夕">「停戦を受託 ホンジュラスとエルサルバドル」『読売新聞』1969年7月19日 夕刊 4版 2面</ref>、OASに加盟する3か国で構成される監視団の下で両国軍を96時間以内に撤退させる予定となっていた<ref name="朝日19690720">「OAS案を受託 エルサルバドル、ホンジュラス」『朝日新聞』1969年7月20日 12版 3面</ref>。両国の停戦受託により、それぞれの戦線では平穏な情勢を取り戻したが<ref name="朝日19690720"/>、一方でエルサルバドルのエルナンデス大統領は同日に国民に向けた放送において、占領地域からの撤退を拒絶する声明を発表した<ref name="読売19690719夕"/>。 |
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=== エルサルバドル軍の撤退拒否 === |
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[[7月19日]]、エルサルバドル軍の広報官の発表によると、同国のエルナンデス大統領がホンジュラス領内に17km入った前線地域を視察中にホンジュラス軍から狙撃される事件が発生した<ref name="朝日19690721">「前線を視察中に狙撃され無事 エルサルバドル大統領」『朝日新聞』1969年7月21日 12版 3面</ref>。エルナンデス大統領に怪我はなかったものの、同広報官はOASの停戦命令に反するものだとしてホンジュラス側を批難した<ref name="朝日19690721"/>。また、OASの公式報告によりエルサルバドル軍が停戦命令後も、ホンジュラス領内からの撤退を開始せず、同領内の陣地をさらに前進させていることが明らかとなった<ref name="朝日19690722">「OAS緊急会議 エルサルバドルとホンジュラスの紛争」『朝日新聞』1969年7月22日 12版 3面</ref>。 |
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[[7月21日]]朝、エルサルバドル軍による停戦命令違反の報告を受けてOASは緊急会議を招集<ref name="朝日19690722"/>。OASから現地に派遣されたニカラグアのセビラ・サカサ監視団長は「エルサルバドル軍がこのまま撤退を拒んでホンジュラス領内に留まった場合、OASの規定に基づき同国に対する軍事的および経済的な制裁措置を採ることも辞さない」と警告した<ref name="朝日19690722夕">「撤兵せねばエルサルバドル制裁 OAS監視団長警告」『朝日新聞』1969年7月22日 夕刊 3版 2面</ref>。 |
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一方、エルサルバドル陸軍は同日夜までにホンジュラス南部にある[[バジェ県]]の県都[[ナカオメ]]を包囲し、首都テグシカルパと同地を結ぶ幹線道路を封鎖した<ref>「進撃続けるエルサルバドル軍」『朝日新聞』1969年7月22日 夕刊 3版 2面</ref>。 |
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[[7月23日]]、OASの定めた96時間の撤退期限が失効したことを受け、ホンジュラス空軍の2機の爆撃機がエルサルバドル領内に侵入し、サンサルバドルにあるイロパンゴ国際空港と、同地の北方16kmに位置するネハバ (nejaba) という村を爆撃<ref name="朝日19690725">「サンサルバドル爆撃 ホンジュラス機」『朝日新聞』1969年7月25日 12版 3面</ref>。エルサルバドル軍の発表によると爆撃による被害は確認されなかった<ref name="朝日19690725"/>。 |
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=== 終結 === |
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[[7月29日]]、OAS外相会議の席上においてエルサルバドルの外務大臣は、紛争により占領した地域から撤兵することを発表<ref>「エルサルバドル、ホンジュラスから撤退へ」『朝日新聞』1969年7月30日 夕刊 3版 4面</ref>。これを受けてOASは、エルサルバドル軍の撤退期限を[[8月3日]]18時までと定めた<ref name="朝日19690805">「戦争に公式終止符 エルサルバドル軍隊がホンジュラスから撤退」『朝日新聞』1969年8月5日 12版 3面</ref>。 |
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8月3日13時15分、OAS顧問団の監視の下、ホンジュラス南部の{{仮リンク|レンピーラ県|en|Lempira Department}}にあるラ・ビルトゥドで最後の撤兵が確認され、撤退が完了した<ref name="朝日19690805"/>。この戦争により両国あわせて2千人が死亡し<ref name="Armed Conflict Events Database"/><ref name="ESCALADA">{{es icon}} {{cite news |url =http://multimedia.laprensagrafica.com/infografias/2009/100horas/ | title= ESCALADA-- 100 HORAS DE COMBATE | publisher = LA PRENSA GRAFICA | accessdate = 2012年8月25日}}</ref><ref name="アームストロング、シェンク119">[[#アームストロング、シェンク 1984|アームストロング、シェンク 1984]]、119頁</ref><ref name="田中135">[[#田中 2004|田中 2004]]、135頁</ref>(2千から3千人<ref name="Wars of the Americas:"/>、3千人<ref name="サカマガ197411"/>、6千人<ref name="カプシチンスキ198">[[#カプシチンスキ 1993|カプシチンスキ 1993]]、198頁</ref><ref name="大住153">[[#大住 2002|大住 2002]]、153頁</ref>とする資料もある)、4千人<ref name="アームストロング、シェンク119"/>または1万2千人<ref name="カプシチンスキ198"/><ref name="大住153"/>が負傷した。犠牲者の多くはホンジュラスの農民であり<ref name="Armed Conflict Events Database"/><ref name="田中135"/>、国境沿いに在住する農民の多くが家や土地を失った<ref name="Armed Conflict Events Database"/>。 |
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== 影響 == |
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=== エルサルバドル === |
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{{main|:en:Salvadoran Civil War}} |
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[[ファイル:FMLN War Time 1984.png|180px|thumb|left|銃を構える[[ファラブンド・マルティ民族解放戦線]] (FMLN) の兵士。]] |
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戦場から帰還したエルサルバドル軍の兵士たちは国民から歓迎を受け、エルナンデス大統領は国民的英雄と讃えられた<ref name="アームストロング、シェンク119">[[#アームストロング、シェンク 1984|アームストロング、シェンク 1984]]、119頁</ref>。一方、ホンジュラスから10万人<ref name="田中135">[[#田中 2004|田中 2004]]、135頁</ref>とも、6万人から13万人<ref name="Armed Conflict Events Database"/>にのぼる移民が1969年の時点で労働人口の20%が失業状態にあるというエルサルバドル国内に引き揚げたことで都市は失業者で溢れかえり<ref name="アームストロング、シェンク118"/>、戦争の相手国となったホンジュラスとの関係悪化によりエルサルバドル製の工業製品は市場を失うなど<ref name="後藤321">[[#後藤 1993|後藤 1993]]、321頁</ref>、それまで抱えていた問題点が表面化した<ref name="後藤321"/>。また、「14家族」と呼ばれる富裕層に富と権力が集中し、国民の6割が低所得に抑えられているといった社会構造への不満から、待遇改善を求める左翼系労働者による[[ストライキ]]が頻発した<ref name="伊藤"/>。 |
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[[1972年]]に行われた大統領選挙での現政権側の不正行為がきっかけとなり反政府運動が活発化し<ref name="後藤321"/>、[[左翼]][[ゲリラ]]による政府軍兵舎への襲撃や<ref name="伊藤"/>、外国系企業を対象とした[[身代金]]目的の[[誘拐事件]]が多発した<ref name="伊藤"/>。これに対し軍部と[[右翼]]勢力が結びついた「[[死の部隊]]」<ref name="伊藤"/>によって左翼運動家への弾圧や暗殺が行われるなど、国内の治安状態は急速に悪化した<ref name="伊藤"/><ref name="後藤321"/>。 |
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[[1980年]][[3月24日]]、国民の間で人気の高かった[[オスカル・ロメロ]]大司教が極右組織により暗殺されたことにより<ref name="伊藤"/>平和的解決の可能性は狭まり<ref name="増田、山田">{{Cite book|和書|author=[[増田義郎]]、[[山田睦男]]編 |year=1999|title=ラテン・アメリカ史 1 メキシコ・中央アメリカ・カリブ海 |publisher= [[山川出版社]] |isbn=978-4634415508 |page=376-377}}</ref>、左翼ゲリラは[[ファラブンド・マルティ民族解放戦線]] (FMLN) を結成し、政府軍との本格的な{{仮リンク|エルサルバドル内戦|label=内戦|en|Salvadoran Civil War}}へと突入していった<ref name="伊藤"/><ref name="増田、山田"/>。 |
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この内戦により中米で最も工業が発展し、政情が不安定な中米諸国の中で最も安定した民主国家と呼ばれたエルサルバドルは内戦の激化により衰退した<ref name="後藤318-319">[[#後藤 1993|後藤 1993]]、321頁</ref>。約12年間に渡って続いた内戦による犠牲者は7万5千人に達し<ref name="田中140">[[#田中 2004|田中 2004]]、140頁</ref>、経済的損失は約50億ドルに上ると推測されている<ref name="田中140"/>。 |
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=== ホンジュラス === |
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ホンジュラスでは戦後、[[ナショナリズム]]や国に対する誇りといった新しい価値観が生まれた<ref name="Armed Conflict Events Database"/>。数万人の労働者や農民が国家を守るため、武器を手に入れるために政府を訪れ<ref name="Armed Conflict Events Database"/>、[[鉈]]などで武装した数千人の一般市民が地方での警備業務に従事した<ref name="Armed Conflict Events Database"/>。 |
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一方、戦争の影響により両国間の貿易は完全に暗礁に乗り上げ<ref name="Armed Conflict Events Database"/>、両国間の境界線が閉鎖されたことにより両国間の交通網は閉ざされ<ref name="Armed Conflict Events Database"/>るなど両国の経済に深刻な影響を与えた。また、両国が加盟していた中米共同市場は、こうした問題やもともと存在した加盟国間の経済格差の問題などもあり<ref name="外務省">{{cite web|url=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/latinamerica/kikan/sica.html |title=中米統合機構(Sistema de la Integracion Centroamericana:SICA)|publisher=[[外務省]]|date=2012年4月|accessdate=2012年8月25日}}</ref>、[[1970年代]]に入るとその役割を大きく後退させた<ref name="外務省"/>。 |
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1970年代後半に入ると中米諸国では大規模な内戦が相次ぎ<ref name="田中140"/>、反共産主義を執るアメリカ合衆国の軍事的支援もあり対立が深まったが<ref name="田中140"/>、ホンジュラスでは政治的に安定した状態が続いたこともあり紛争に巻き込まれることはなかった<ref name="田中140"/>。 |
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== その後 == |
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=== 国交回復 === |
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両国関係の修復には10年以上の歳月を要した。[[ペルー]]の{{仮リンク|ホセ・ルイス・ブスタマンテ・イ・リベロ|es|José Luis Bustamante y Rivero}}元大統領の仲介により両国の接近が図られ<ref name="朝日19801031">「ホンジュラス・エルサルバドル 11年ぶりに国交回復 "サッカー戦争"和解」『朝日新聞』1980年10月31日 13版 7面</ref>、[[1980年]][[10月30日]]にペルー首都[[リマ]]でプスタマンテ元大統領の立会いの下で両国の外務大臣が出席し平和条約の調印式が行われ、11年ぶりに国交を回復した<ref name="朝日19801031"/>。この平和条約調印の背景には、エルサルバドル内戦における左翼ゲリラの根拠地がホンジュラス国境地域に存在するため、エルサルバドル政府が左翼ゲリラ掃討のためにホンジュラス政府の協力を必要としていたとも<ref name="朝日19801031"/>、国境地域が左翼ゲリラの根拠地となっていたことを憂慮したアメリカ合衆国政府が双方に圧力を掛けたためだとも言われる<ref name="世界民族問題事典"/>。 |
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=== エルサルバドル内戦 === |
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内戦の激化により、エルサルバドルからホンジュラスへと流入した難民の数は2万人に上った<ref name="浦野">{{Cite book|和書|author=[[浦野起央]]|year=2004|title=20世紀世界紛争事典 |publisher=[[三省堂]] |isbn=978-4385153650 |page=1138-1139}}</ref>。[[1989年]]にエルサルバドルの{{仮リンク|アルフレッド・クリスティアニ|en|Alfredo Cristiani}}が大統領に就任すると両国間で難民の帰国交渉が始まり<ref name="浦野"/>、同年末までの段階的な難民帰国計画が決定した<ref name="浦野"/>。 |
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[[1992年]][[1月2日]]、7万5千人におよぶ死者と100万人とも推測される亡命者を出したエルサルバドル内戦は[[国際連合]]の仲介により和平の合意に達し<ref name="朝日19920103">「エルサルバドル停戦合意 来月、内戦に終止符 12年ぶり 国連、年越し仲介」『朝日新聞』1992年1月3日 14版 5面</ref>、同年[[2月1日]]に公式に停戦した。合意文書の内容は「2月1日から10月末にかけて政府軍とFMLNの双方が段階的に武装解除を行う」「政府軍は現有兵力の5万3千人を半数にまで削減し、過去に人権侵害に関わった人物を追放する」「対ゲリラ急襲部隊、国家警察などを解体し、文民監視による市民警察を設立し治安維持に従事する」などの内容となっている<ref name="朝日19920103"/>。 |
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=== 国境問題 === |
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サッカー戦争の主因の1つである国境問題に関しては、1980年に調印された平和条約において60%の国境線に関しては合意に達し、残りの国境線に関しては両国による合同委員会を設立し5年をめどに結論を出すことになった<ref name="朝日19801031"/>。 |
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[[1986年]]、国境問題はペルーの[[フアン・ベラスコ・アルバラード]]大統領の立会いの下で[[オランダ]]・[[ハーグ]]にある[[国際司法裁判所]]に委託された<ref name="浦野"/>。国際司法裁判所は、1992年[[9月11日]]に新たな国境線の案を提示し、両国はこれを受け入れることを表明した<ref name="浦野"/>が、画定作業は難航した<ref name="共同通信20060419">{{cite news |url =http://www.47news.jp/CN/200604/CN2006041901000855.html | title= 「サッカー戦争」に終止符 中米2国、国境画定で署名 |
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| publisher = [[共同通信]] | date = 2006年4月19日| accessdate = 2012年8月25日}}</ref>。 |
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[[2006年]][[4月18日]]、両国の国境地帯に位置する街で式典が開催され、出席したエルサルバドル大統領[[アントニオ・サカ]]とホンジュラス大統領[[マヌエル・セラヤ]]は、国境線375kmを画定する文書に署名した<ref name="共同通信20060419"/>。これにより、国境問題は終結した<ref name="共同通信20060419"/>。 |
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=== サッカー === |
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1980年11月に行われた[[1982 FIFAワールドカップ]]予選({{仮リンク|1981 CONCACAF選手権|en|1981 CONCACAF Championship}})で、両国の12年ぶりの国際試合が実現し、試合は2-1でエルサルバドルが勝利した<ref name="world-cup-1982-qualifier">{{en icon}} {{cite web|url=http://www.fifa.com/worldcup/archive/edition=59/preliminaries/preliminary=58/index.html|title=1982 FIFA World Cup Spain|publisher=[[国際サッカー連盟]]|accessdate=2012年1月26日}}</ref>。両国はともに地区予選を勝ち抜き<ref name="world-cup-1982-qualifier" /><ref>{{en icon}} {{cite web|url=http://www.rsssf.com/tables/82q.html|title=World Cup 1982 Qualifying|publisher=RSSSF|accessdate=2012年1月26日}}</ref>、2年後の[[1982年]]、中米諸国を巻き込んだ中米紛争の最中に、揃ってワールドカップに出場した。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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<references group="注" /> |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|author=ロバート・アームストロング、ジャネット・シェンク著、土屋宏之他 訳 |year=1984|title=エルサルバドル--革命の背景 |publisher=ありえす書房 |isbn= 978-4900103733 |ref=アームストロング、シェンク 1984}} |
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* [[ニカの乱]] - [[532年]]に[[競馬]]がきっかけとなって[[東ローマ帝国]]で起こった内乱。 |
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* |
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* [[サッカーエルサルバドル代表]] |
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* {{Cite book|和書|author=[[大住良之]]|year=2002|title=ワールドカップの世界地図|publisher=[[PHP研究所]]|isbn=978-4569620879 |ref=大住 2002}} |
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* [[サッカーホンジュラス代表]] |
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* {{Cite book|和書|author=[[大貫良夫]]他 監修 |year=1999 |title=ラテンアメリカを知る事典 |publisher= [[平凡社]] |isbn=978-4788793088 |ref=大貫 1999}} |
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* [[1970 FIFAワールドカップ・予選]] |
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* {{Cite book|和書|author=[[リシャルト・カプシチンスキ]]著、[[北代美和子]]訳 |year=1993|title=サッカー戦争|publisher=[[中央公論社]] |isbn= 4-12-002235-8 |ref=カプシチンスキ 1993}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[後藤政子]] |year=1993 |title=新 現代のラテンアメリカ |publisher= [[時事通信社]] |isbn=978-4582126259 |ref=後藤 1993}} |
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== 関連書籍 == |
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* {{Cite book|和書|author=田中高編著 |year=2004|title=エルサルバドル・ホンジュラス・ニカラグアを知るための45章 |publisher= [[明石書店]] |isbn=4-7503-1962-7 |ref=田中 2004}} |
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* [[リシャルト・カプシチンスキ]]『サッカー戦争』 北代美和子 訳、[[中央公論新社|中央公論社]]、1993年 (ISBN 4120022358) |
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* 滝本道生『中米ゲリラ戦争』[[毎日新聞社]]、1988年10月 (ISBN 4-620-30653-3) |
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* [[後藤政子]]『新現代のラテンアメリカ』 [[時事通信社]]、1993年4月 (ISBN 4-7887-9308-3) |
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2012年9月23日 (日) 05:15時点における版
サッカー戦争 | |
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ホンジュラスの地図。この戦争は両国のサッカー国際試合が引き金となっているが、その背景にはホンジュラスに在住するエルサルバドル移民の処遇を巡る問題や経済摩擦などが絡んでいた。 | |
戦争:サッカー戦争 | |
年月日:1969年7月14日 - 7月19日 | |
場所:エルサルバドルとホンジュラスの国境地帯 | |
結果:米州機構の調停により停戦 | |
交戦勢力 | |
エルサルバドル | ホンジュラス |
戦力 | |
諸説あり | 諸説あり |
損害 | |
諸説あり | 諸説あり |
サッカー戦争(サッカーせんそう、スペイン語: Guerra del Futbol)とは、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。同年6月に行われた1970 FIFAワールドカップ・予選において両国が対戦した際の国民感情のもつれから国交断絶に至った経緯から「サッカー戦争」の名称で知られているが、その背景には両国間の国境線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった問題が存在する[1][2][3]。100時間戦争[2][4]やエルサルバドル・ホンジュラス戦争[5]とも呼ばれる。
背景
移民問題
エルサルバドルは中米で最も国土面積が小さく、人口密度が最も高い国である[6]。人口の約9割は、メスティーソと呼ばれるスペイン系などの白人とインディオの混血であり[6]、残りは純粋な白人とインディオで構成されていた[6]。山岳地帯が連なる狭い国土に居住した点、中米地域において最も工業が発展した点、勤勉な国民性を持つ点などから「中米の日本」とも評された[7]。
その一方で19世紀後半頃から国内経済をコーヒーの生産と輸出に依存していたが[8]、これは政府が自給自足農業を行う先住民の土地所有を法律により禁止し[8]、コーヒー生産者には税制上の優遇措置を付与するなどして、国を挙げてコーヒー生産を奨励したことの影響によるものだった[8]。国土の多くは「14家族」(カトルセファミリア)と呼ばれる一部の白人富裕層の所有する農場で占められ、土地や財産を独占していたのに対し[7][8]、多くの国民は低所得に抑えられ生活に困窮していた[7][8]。
土地を所有していないエルサルバドルの一部の国民は、約6倍の国土を持ち人口比もエルサルバドルの2分の1(250万人)に満たない隣国のホンジュラスへと移住し生活基盤を置いたが、こうした移民は1960年代当時、合法による者と非合法による者を含めて30万人[9]から50万人に上った[10]。
ホンジュラスでは古くからエルサルバドルからの移民を受け入れ、1900年代には政府が辺境地を開拓する意思を持つ移民に対し無償で土地を提供し[11]、1932年にエルサルバドルで恐慌が発生した際には、数千人がホンジュラスへと移民し、農園や鉱山で働いた[11]。一方、ホンジュラスの国内情勢の変化や、地元民と移民との間での土地と仕事を巡る争いごとが表面化すると[11]、ホンジュラス政府も次第に態度を硬化させるようになった[11]。
移民問題に対処するべく、両国政府は1962年と1965年に条約を締結し調整を図ってきたが[11]、ホンジュラス国内の人口増加、バナナ農園の近代化に伴う労働需要の激減、牧畜や綿花農園の拡大による農地不足が問題となり、野党や富裕層から農地改革への圧力が高まっていた[3][12]。ホンジュラス政府は1969年1月[13]に条約の更新を拒否し[12]、オスバルド・ロペス・アレジャーノ大統領は、1962年に制定された農地改革法の実施に踏み切ることになった[14]。この改革法は土地の所有者をホンジュラス国内で出生した者に限定したもので[14]、それに該当しないエルサルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求める内容となった[14]。ホンジュラス政府による発表は1969年4月に行われ[13]、同年5月下旬までにエルサルバドル移民の帰還が始まった[13]。
貿易問題
国の産業をコーヒーやバナナなどの農業生産と輸出に特化し、「近代化の遅れた国々」と見做されていた[15]エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、グアテマラ、コスタリカの5か国は、中米地域の経済統合を目指して1961年に中米共同市場を発足された[15]。中米共同市場の発足と、アメリカ合衆国の圧力による外資系企業の参入自由化により、1960年代に5か国での工業化が進展した[15]。工業立地に関して当初は、各国間で公平に分配する取り決めとなっていたが[16]、加盟国間の対立と外資系企業の圧力もあって緩和され、工業化の進んでいたエルサルバドル、グアテマラ、コスタリカの3か国に工業立地は集中するようになった[16]。
その中で、1950年代から工業化が進んだエルサルバドルは、国民の多くが貧困層であり国内市場が小さいという事情があったものの[17]、一部の富裕層向けの生産と双務貿易協定に基づいた中米諸国への輸出向け生産により発展を遂げていた[17]。同国は中米共同市場の発足の際には主導的役割を果たし、加盟国内で最も多くの恩恵を受けていたが[17]、一方でホンジュラスでは工業化に立ち遅れ[17]、エルサルバドル製品により市場が圧迫を受けるなどの不均衡が生じたことから、ホンジュラス側は不満を抱くようになった[17]。
国境線問題
両国の国境線は植民地時代以来、河川を基点とすることが多かったが[10]、雨季と乾季で地形が大きく変動することから国境線が未確定の部分が存在した[10]。そのため、エルサルバドルのチャラテナンゴ県やモラサン県北部では、両国がたびたび衝突を繰り返していた[11]。
経緯
エルサルバドル移民の国外退去
ホンジュラスのアレジャーノ大統領により実施された農業改革法は、主に国境未確定地帯に居住しているエルサルバドル人を退去させ、ホンジュラス人を入植させることを企図するものだった[10]が、この政策により土地を失いエルサルバドルへと帰国した移民の数は戦争開始前の数か月間に1万4千人[9]とも、2万人から5万人にのぼったものと推測されている[2]。この政策はワールドカップ予選とほぼ同時期に執り行われたものだが[10]、偶然によるものなのか意図的なものなのかは定かではない[10]が、結果として両国間の国民感情を刺激し、戦争へと発展する呼び水となった[10]。
移民の国外退去は強制的なもので[9]、ホンジュラスの「ラ・マンチャ・ブラバ」と呼ばれる極右組織や準軍事組織が関与し[18]、残虐行為が行われた事例が報告された[1][18]。これに対しエルサルバドルの新聞メディアは、ホンジュラスに対して徹底的な報復を求める様に政府に要求した[18]。
ワールドカップ予選と国交断絶
1970 FIFAワールドカップ・北中米・カリブ予選は史上最多となる12チームがエントリーして行われた[19]。同地域ではメキシコ代表がワールドカップ本大会に連続出場するなど優勢を保っていたが1970年大会は地元開催ということで予選を免除されていた[19]ため、それ以外のチームにとっては本大会出場の機会となった[19]。
エルサルバドル代表はスリナム代表とオランダ領アンティル代表を、ホンジュラス代表はコスタリカ代表とジャマイカ代表をそれぞれ下して1次ラウンドを突破し、準決勝ラウンドで対戦することになった[20]。
第1戦は1969年6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やクラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた[21]。なお、こうしたサポーターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった[21]。一方、エルサルバドルでは熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生[21]。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し[22]葬儀の模様がテレビ中継をされるなど[21]、国家的イベントの様相を呈した[23]。
第2戦は1週間後の6月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われたが、ホンジュラス代表が宿泊したホテルの周辺では第1戦と同様に群集が周囲を取り巻き[22]、自殺した女性の肖像を掲げ、相手チームを批難した[22]。また、群集はホテルの窓ガラスを破壊し、腐敗した卵や鼠の死骸などの汚物を建物へと投げ入れた[22]。ホンジュラス代表選手の輸送はエルサルバドル軍の装甲車によって行われていたため、暴徒による襲撃を直接に受けることはなかったが[22]、ホンジュラスから応援に駆けつけたホンジュラス代表サポーターは暴徒から殴る蹴るの暴行を受けるなど2人が死亡し[24]、彼らの乗車していた自動車150台が放火される被害を受けた[24]。試合は3-0でエルサルバドルが勝利し1勝1敗の成績で並び、プレーオフへと持ち込まれることになった[20]。
エルサルバドル政府の発表によると、この敗戦によりホンジュラスに在住するエルサルバドル移民が襲撃を受け、身の危険を危ぶんだ1万2千人近くの移民がエルサルバドル領内へと避難する事態となった[25]。エルサルバドル国民の間でホンジュラスとの国交断絶を求める声が高まると、エルサルバドル政府は6月23日に国家非常事態を宣言して予備役軍人を召集[25]。3日後の6月26日夜に同政府は「ホンジュラスは同国に在住するエルサルバドル人を迫害しようとしている」との声明を発表し、国交断絶を宣言した[25]。ホンジュラス政府もこれを受けて6月27日にエルサルバドルとの国交を断絶し、国防上の対処を行うことを発表した[26][注 1]。
6月27日にメキシコの首都メキシコシティにあるエスタディオ・アステカで行われた最終戦は、会場となったエスタディオ・アステカの収容人数を10万人から2万人に制限[27][28]。試合の2日前から観戦のために訪れていた両国のサポーターをメインスタンドとバックスタンドに分離して入場させ[28]、緩衝地帯には催涙ガス銃を装備した機動隊員を配置させる、といった厳戒態勢の中で執り行われた[27][28]。試合は延長戦の末にエルサルバドル代表が3-2でホンジュラス代表を下し、ハイチ代表との最終ラウンドへと進出した[注 2]。
一方、敗れた側のホンジュラスサッカー連盟は第3戦に出場したエルサルバドル代表の2選手は1年前に出場停止処分を受け、処分中であるにも関わらず試合に出場したとして、国際サッカー連盟 (FIFA) に対し第3戦の試合結果を無効とするように提訴した[30]。
前哨戦
エルサルバドル外務省の発表によると、7月3日11時45分にホンジュラス空軍の1機が、エルサルバドル北西部に位置するエルポイ (El Poy) にある国境監視所を爆撃するなどして、同監視所の守備隊と交戦[31]。その後、先刻の爆撃機とは別のホンジュラス空軍の2機が同監視所を襲撃したが、エルサルバドル空軍機が迎撃してこれを退けた[31]。また、両国陸軍が国境を挟んで約20分間に渡って銃撃戦を行った[31]。エルサルバドル外務省は米州機構 (OAS) に対し、ホンジュラスの行為を非難する書簡を送った。両国の衝突を受けてOASは7月4日、理事会を招集し今後の対応を協議した[32]。
7月9日、ホンジュラス政府の発表によると、エルサルバドル陸軍がホンジュラス領内のインティブカ県にある村を襲撃し、地元の警官隊と衝突。12戸の民家が焼き払われたが、死傷者はなかった[33]。両軍による戦闘は7月3日に続いて2度目。
7月12日、エルサルバドル陸軍の部隊がホンジュラス領内に10km侵攻した地点でホンジュラス陸軍と衝突。銃撃戦となり、エルサルバドル兵14人が戦死した[34]。
7月13日早朝、エルサルバドル政府の発表によると両軍は国境付近にあるエル・ポイで3時間に渡って交戦[35]。ホンジュラス政府の発表によると、この戦闘により一般市民が負傷した[36]。OAS理事会は両国間の本格的な軍事的衝突を回避するため、7か国による平和維持団の派遣を決定した[37]。
戦闘
7月14日
7月14日、OASを介して両国による外交交渉が行われる中、エルサルバドル空軍はフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領からホンジュラスの主要都市を攻撃するための直接命令を受けた[38]。
同日18時10分、エルサルバドル空軍のC-47、F-51D、FG-1D(F4U コルセアのライセンス生産機)[39]で構成される少なくとも6機[38]の編隊が、テグシガルパ郊外のトンコンティン国際空港を爆撃。同空軍はこれと同時にホンジュラス領内にあるサンタロサ・デ・コパン、アマパラ、チョルテカなど、ホンジュラスの主だった飛行場及び軍事施設十数か所への爆撃を行った[38][39]。なお、このエルサルバドル空軍による空爆は、戦力で勝るホンジュラス空軍に対して先制攻撃を仕掛けることで、従来の軍事的バランスを覆す目的があったが[39]、作戦は失敗した[39]。
エルサルバドル空軍による爆撃後、エルサルバドル陸軍は西部、チャラテナンゴ県、東部の3方面から国境を越えてホンジュラス領内へと侵攻を開始した[40]。これらの空と陸からの奇襲作戦は、第二次世界大戦時のナチス・ドイツや第三次中東戦争時のイスラエルの事例が示すように双方の完璧な連携が行われた場合に効果を発揮するが[41]、本作戦ではエルサルバドル側の望むような効果を得ることが出来ず、その代償としてホンジュラス側に注意を喚起させる結果となった[41]。
7月15日
7月15日朝、ホンジュラス空軍のT-28、F4U、F-51Sなど数機がエルサルバドル領内に侵入[39]し、サンサルバドル郊外にあるイロパンゴ国際空港を爆撃[39]。軍民共用飛行場である同空港の滑走路や格納庫、一般利用客用の駐車場などが損害を受けた[39]。
この他に、ホンジュラス空軍機はエルサルバドルの主要な港湾都市であるアカフトラにあるコンビナートを攻撃。石油精製所は被害を受けなかったものの、貯蔵タンクが爆撃により損害を受けた[39]。また、ラ・ウニオン県にあるラ・クトゥコ港も爆撃され、17の貯蔵タンクのうち、5つが破壊されたが、港自体の損害はなかった[39]。
航空戦力では2.5対1とホンジュラスが開戦前から優位に立ち、戦争を通じて制空権を維持していたが[39]、これに対して地上戦力の面では両国共におよそ5千人前後の兵員を有し[39]、アメリカ合衆国陸軍が第二次世界大戦の際に使用していた旧式の装備を身に付け[39]、戦車や重火器といった大型装備を持ち合わせるなど、表面上の明確な差異は存在しなかった[39]。一方で組織力や戦闘能力といった面でエルサルバドル陸軍が優位に立ち[39]、戦争末期ではホンジュラス最強の部隊とされる大統領防衛隊を撃破したと報じられるなど[39]、地上においてはエルサルバドル軍が攻勢を続けた[39]。エルサルバドルの新聞は「エルサルバドル軍の進撃は誰にも止めることは出来ない」「ラテンアメリカのイスラエル」などと大見出しで報じるなど[39]、このまま進撃を続けてホンジュラス領内の都市を陥落させ首都テグシガルパに迫るものと考えられていた[39][注 3]。
ホンジュラス領内に侵攻していたエルサルバドル陸軍は、北部にあるエルポイから侵攻した部隊が、同日中にヌエバ・オコテペケを占領[13]。この他、東部から侵攻した部隊が太平洋岸にあるゴアスコランやカリダードやアラメシナを、チャラテナンゴ方面から侵攻した部隊が北中部の国境線に沿ってサン・フアン・ガリタ、バリャドリード、ラ・ビルトゥドといった町を占領するなど[39]、旧式のH&K G3自動小銃を携帯する歩兵部隊が、開戦から1日でホンジュラス領内の40平方キロメートルの地域を占領した[40]。一方で、エルサルバドルの司令官が兵站問題に理解がなかったこと[39]、ホンジュラス空軍により石油貯蔵タンクが攻撃された影響により国内の石油供給に支障を来たしたためエルサルバドル陸軍でもガソリン不足に陥ったこと[39]により侵攻の停止を余儀なくされた[39]。
7月16日 - 7月17日
7月16日、OASが派遣した平和維持委員会は、ホンジュラス側が「エルサルバドル軍がホンジュラス領内から撤退する」との条件付でエルサルバドルとの停戦に応じることを承諾したと発表した[44]。一方、エルサルバドル側は停戦に応じる様子はなく、ホンジュラス軍に対し「降伏を選ぶか死を選ぶか」と要求するなど強硬な姿勢を見せた[44]。
同日、ホンジュラス政府はラジオ放送を通じて「我が軍はエルサルバドルの戦略拠点に対する空爆を継続中である」との声明を発表[44]。また、国民に対して「老若男女の区別なく、侵略者に対抗するために戦地に赴く準備をするように」と呼びかけた[44]。こうした両国間の情勢に対し国際連合のウ・タント事務総長は両国の外務大臣に、戦闘を中止し相互対話に応じるように要請した[45]。
7月17日、エルサルバドル政府は「ホンジュラスに在住するエルサルバドル人に対する迫害行為を即座に停止させ、戦争前の情勢に復帰させる」との条件付で停戦に応じることを承諾した[46]。一方、ホンジュラス政府は同陸軍がエルサルバドルとの国境を越えて領内に侵攻し、北部にある都市に迫りつつある、と発表[46]。同時に政府は、エルサルバドル側の停戦に向けた非協力的な姿勢を批難する声明を発表した[46]。これに応じてエルサルバドル軍もホンジュラス領内の三方面からの攻撃を再開させた[47]。
同日、地上目標に対する機銃掃射の任務に就いていたホンジュラス空軍のフェルナンド・ソト・エンリケス大尉が操縦するF4U-5が、味方機からの要請を受けてエルサルバドル空軍機と交戦[48]。エルサルバドル空軍のF-51D 1機とFG-1D 2機を撃墜した[48]。レシプロ戦闘機同士による世界史上最後の戦い[49]と呼ばれる戦闘での戦果によりソト大尉は少佐に昇進し[48]、ホンジュラスの国民的英雄として扱われただけでなく[48]、世界的な知名度を獲得した[49]。
停戦
7月18日朝、OASのガロ・ブラサ事務総長は両政府関係者とOAS平和維持委員会との間で約24時間に渡って行われた三者会談により、戦争を終結させるための4項目からなる和平案について合意が成立したと発表した[50]。この和平案は以下の通りとなっている。
OASの発表によると両国は、中米時間の7月18日22時から停戦に入り[51]、OASに加盟する3か国で構成される監視団の下で両国軍を96時間以内に撤退させる予定となっていた[52]。両国の停戦受託により、それぞれの戦線では平穏な情勢を取り戻したが[52]、一方でエルサルバドルのエルナンデス大統領は同日に国民に向けた放送において、占領地域からの撤退を拒絶する声明を発表した[51]。
エルサルバドル軍の撤退拒否
7月19日、エルサルバドル軍の広報官の発表によると、同国のエルナンデス大統領がホンジュラス領内に17km入った前線地域を視察中にホンジュラス軍から狙撃される事件が発生した[53]。エルナンデス大統領に怪我はなかったものの、同広報官はOASの停戦命令に反するものだとしてホンジュラス側を批難した[53]。また、OASの公式報告によりエルサルバドル軍が停戦命令後も、ホンジュラス領内からの撤退を開始せず、同領内の陣地をさらに前進させていることが明らかとなった[54]。
7月21日朝、エルサルバドル軍による停戦命令違反の報告を受けてOASは緊急会議を招集[54]。OASから現地に派遣されたニカラグアのセビラ・サカサ監視団長は「エルサルバドル軍がこのまま撤退を拒んでホンジュラス領内に留まった場合、OASの規定に基づき同国に対する軍事的および経済的な制裁措置を採ることも辞さない」と警告した[55]。
一方、エルサルバドル陸軍は同日夜までにホンジュラス南部にあるバジェ県の県都ナカオメを包囲し、首都テグシカルパと同地を結ぶ幹線道路を封鎖した[56]。
7月23日、OASの定めた96時間の撤退期限が失効したことを受け、ホンジュラス空軍の2機の爆撃機がエルサルバドル領内に侵入し、サンサルバドルにあるイロパンゴ国際空港と、同地の北方16kmに位置するネハバ (nejaba) という村を爆撃[57]。エルサルバドル軍の発表によると爆撃による被害は確認されなかった[57]。
終結
7月29日、OAS外相会議の席上においてエルサルバドルの外務大臣は、紛争により占領した地域から撤兵することを発表[58]。これを受けてOASは、エルサルバドル軍の撤退期限を8月3日18時までと定めた[59]。
8月3日13時15分、OAS顧問団の監視の下、ホンジュラス南部のレンピーラ県にあるラ・ビルトゥドで最後の撤兵が確認され、撤退が完了した[59]。この戦争により両国あわせて2千人が死亡し[13][60][61][62](2千から3千人[42]、3千人[43]、6千人[63][64]とする資料もある)、4千人[61]または1万2千人[63][64]が負傷した。犠牲者の多くはホンジュラスの農民であり[13][62]、国境沿いに在住する農民の多くが家や土地を失った[13]。
影響
エルサルバドル
戦場から帰還したエルサルバドル軍の兵士たちは国民から歓迎を受け、エルナンデス大統領は国民的英雄と讃えられた[61]。一方、ホンジュラスから10万人[62]とも、6万人から13万人[13]にのぼる移民が1969年の時点で労働人口の20%が失業状態にあるというエルサルバドル国内に引き揚げたことで都市は失業者で溢れかえり[14]、戦争の相手国となったホンジュラスとの関係悪化によりエルサルバドル製の工業製品は市場を失うなど[65]、それまで抱えていた問題点が表面化した[65]。また、「14家族」と呼ばれる富裕層に富と権力が集中し、国民の6割が低所得に抑えられているといった社会構造への不満から、待遇改善を求める左翼系労働者によるストライキが頻発した[7]。
1972年に行われた大統領選挙での現政権側の不正行為がきっかけとなり反政府運動が活発化し[65]、左翼ゲリラによる政府軍兵舎への襲撃や[7]、外国系企業を対象とした身代金目的の誘拐事件が多発した[7]。これに対し軍部と右翼勢力が結びついた「死の部隊」[7]によって左翼運動家への弾圧や暗殺が行われるなど、国内の治安状態は急速に悪化した[7][65]。
1980年3月24日、国民の間で人気の高かったオスカル・ロメロ大司教が極右組織により暗殺されたことにより[7]平和的解決の可能性は狭まり[66]、左翼ゲリラはファラブンド・マルティ民族解放戦線 (FMLN) を結成し、政府軍との本格的な内戦へと突入していった[7][66]。
この内戦により中米で最も工業が発展し、政情が不安定な中米諸国の中で最も安定した民主国家と呼ばれたエルサルバドルは内戦の激化により衰退した[67]。約12年間に渡って続いた内戦による犠牲者は7万5千人に達し[68]、経済的損失は約50億ドルに上ると推測されている[68]。
ホンジュラス
ホンジュラスでは戦後、ナショナリズムや国に対する誇りといった新しい価値観が生まれた[13]。数万人の労働者や農民が国家を守るため、武器を手に入れるために政府を訪れ[13]、鉈などで武装した数千人の一般市民が地方での警備業務に従事した[13]。
一方、戦争の影響により両国間の貿易は完全に暗礁に乗り上げ[13]、両国間の境界線が閉鎖されたことにより両国間の交通網は閉ざされ[13]るなど両国の経済に深刻な影響を与えた。また、両国が加盟していた中米共同市場は、こうした問題やもともと存在した加盟国間の経済格差の問題などもあり[69]、1970年代に入るとその役割を大きく後退させた[69]。
1970年代後半に入ると中米諸国では大規模な内戦が相次ぎ[68]、反共産主義を執るアメリカ合衆国の軍事的支援もあり対立が深まったが[68]、ホンジュラスでは政治的に安定した状態が続いたこともあり紛争に巻き込まれることはなかった[68]。
その後
国交回復
両国関係の修復には10年以上の歳月を要した。ペルーのホセ・ルイス・ブスタマンテ・イ・リベロ元大統領の仲介により両国の接近が図られ[70]、1980年10月30日にペルー首都リマでプスタマンテ元大統領の立会いの下で両国の外務大臣が出席し平和条約の調印式が行われ、11年ぶりに国交を回復した[70]。この平和条約調印の背景には、エルサルバドル内戦における左翼ゲリラの根拠地がホンジュラス国境地域に存在するため、エルサルバドル政府が左翼ゲリラ掃討のためにホンジュラス政府の協力を必要としていたとも[70]、国境地域が左翼ゲリラの根拠地となっていたことを憂慮したアメリカ合衆国政府が双方に圧力を掛けたためだとも言われる[2]。
エルサルバドル内戦
内戦の激化により、エルサルバドルからホンジュラスへと流入した難民の数は2万人に上った[71]。1989年にエルサルバドルのアルフレッド・クリスティアニが大統領に就任すると両国間で難民の帰国交渉が始まり[71]、同年末までの段階的な難民帰国計画が決定した[71]。
1992年1月2日、7万5千人におよぶ死者と100万人とも推測される亡命者を出したエルサルバドル内戦は国際連合の仲介により和平の合意に達し[72]、同年2月1日に公式に停戦した。合意文書の内容は「2月1日から10月末にかけて政府軍とFMLNの双方が段階的に武装解除を行う」「政府軍は現有兵力の5万3千人を半数にまで削減し、過去に人権侵害に関わった人物を追放する」「対ゲリラ急襲部隊、国家警察などを解体し、文民監視による市民警察を設立し治安維持に従事する」などの内容となっている[72]。
国境問題
サッカー戦争の主因の1つである国境問題に関しては、1980年に調印された平和条約において60%の国境線に関しては合意に達し、残りの国境線に関しては両国による合同委員会を設立し5年をめどに結論を出すことになった[70]。
1986年、国境問題はペルーのフアン・ベラスコ・アルバラード大統領の立会いの下でオランダ・ハーグにある国際司法裁判所に委託された[71]。国際司法裁判所は、1992年9月11日に新たな国境線の案を提示し、両国はこれを受け入れることを表明した[71]が、画定作業は難航した[73]。
2006年4月18日、両国の国境地帯に位置する街で式典が開催され、出席したエルサルバドル大統領アントニオ・サカとホンジュラス大統領マヌエル・セラヤは、国境線375kmを画定する文書に署名した[73]。これにより、国境問題は終結した[73]。
サッカー
1980年11月に行われた1982 FIFAワールドカップ予選(1981 CONCACAF選手権)で、両国の12年ぶりの国際試合が実現し、試合は2-1でエルサルバドルが勝利した[74]。両国はともに地区予選を勝ち抜き[74][75]、2年後の1982年、中米諸国を巻き込んだ中米紛争の最中に、揃ってワールドカップに出場した。
脚注
注釈
- ^ 当時のラテンアメリカ諸国では国民の間で人気の高いサッカーを政権維持に利用していた側面があり[24]、代表チームの不振により政権が崩壊することもあった[24]。1930年代にアルゼンチンとウルグアイがサッカーの試合が契機となり国交断絶に至った事例がある[25]。
- ^ エルサルバドル代表は最終ラウンドでハイチ代表をプレーオフの末に下し、ワールドカップ初出場を果たした[29]。1970年6月に行われた本大会のグループリーグでは、ベルギー代表、メキシコ代表、ソビエト連邦代表と同じ組みとなったが、3戦全敗で敗退した[29]。
- ^ 両国の兵力に関しては資料によって異なり、「エルサルバドル陸軍は約1万2千人[42]、同空軍は3千人であるのに対し、ホンジュラス陸軍は約2千5百人、同空軍は千2百人[43]」とするものや、「エルサルバドル陸軍は8千人であるのに対し、ホンジュラス陸軍は約2千5百人[41]」とするものもある。
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