コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ゴダイヴァ夫人」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m r2.6.4) (ロボットによる 追加: ro:Lady Godiva
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m 解消済み仮リンクストウの聖メアリー教会を内部リンクに置き換えます (今回のBot作業のうち12.9%が完了しました)
 
(49人の利用者による、間の86版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Redirect|ゴダイヴァ}}
{{Redirect|ゴダイヴァ}}
{{独自研究|date=2011年12月}}
{{出典の明記|date=2011年12月}}
[[Image:Lady_Godiva_by_John_Collier.jpg|right|300px|thumb|[[ジョン・コリア (画家)|ジョン・コリア]]作「ゴダイヴァ夫人」。1898年頃の作品]]
[[Image:Lady_Godiva_by_John_Collier.jpg|right|300px|thumb|[[ジョン・コリア (画家)|ジョン・コリア]]作「ゴダイヴァ夫人」。1898年頃の作品]]
[[ファイル:Leighton-Lady Godiva.jpg|サムネイル|300x300ピクセル|[[エドモンド・レイトン]]作「ゴダイヴァ夫人」。1898年頃の作品。服を脱ぐ前の状態]]
'''ゴダイヴァ夫人'''(Lady Godiva、[[990年]]頃 - [[1067年]][[9月10日]]?)は[[11世紀]][[イギリス]]の女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるため[[コヴェントリー]]の街を裸で行進したという伝説が残っている。
[[ファイル:'The Lady Godiva Procession' by Thomas Stevens, Honolulu Museum of Art 2015-13-01.JPG|サムネイル|トーマス・スティーブンス作「ゴダイヴァ夫人の行列」。]]
'''ゴダイヴァ夫人'''(ゴダイヴァふじん、Lady Godiva、[[990年]]頃 - [[1067年]][[9月10日]]?)は、[[11世紀]][[イングランド王国|イングランド]]の女性。[[マーシア王国|マーシア]]伯{{仮リンク|レオフリック (マーシア伯)|en|Leofric, Earl of Mercia|label=レオフリック}}の夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるため[[コヴェントリー]]の街を裸で馬に乗って行進したという有名な伝説が残っているが、中世を専門とする歴史家の見解は、これは「史実ではない」ことで一致している。

同時代頃に書かれたとされる{{仮リンク|偽イングルフ|en|Pseudo-Ingulf}}の年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる<ref>Ingulph's (?) [[:en:Croyland Chronicle|Historia Croylandensis]] (she was 'tunc fœminarum pulcherrima sic corde sanctissima"), Hales & Furnival 編 "Leoffricus"序、p.473 で引用; "a most beautiful and devout lady," (Gentleman's Mag. Lib. 4, p.110)</ref>。

[[ベルギー]]のチョコレートメーカー「[[ゴディバ]]」のブランド名およびその[[ロゴ]]はゴダイヴァ夫人の伝説に由来するが日本語の表記と発音はベルギーでの発音にしたがい「ゴディバ」とすることが多い<ref>[https://www.godiva.co.jp/about/episode.html 「GODIVA」の名の由来] ゴディバのエピソード</ref>。
[[ファイル:Godiva belgian chocolate golden box 24.JPG|中央|サムネイル|「[[ゴディバ]]」のチョコレートの箱に描かれたロゴ]]


== 伝説 ==
== 伝説 ==
<!--{{未検証|section=1|date=2011年12月}}-->[[ファイル:Maidstone 018.jpg|左|サムネイル|[[ジョン・トーマス (彫刻家)|ジョン・トーマス]]作の彫刻、メードストン博物館]]
{{未検証|section=1|date=2011年12月}}
[[ファイル:Maidstone 019.jpg|左|サムネイル|[[ジョン・トーマス (彫刻家)|ジョン・トーマス]]作の彫刻の詳細。]]
[[イングランド]]に伝わる伝説によると、夫レオフリックの圧政に苦しむ[[コヴェントリー]]の領民を哀れみ、彼女はことあるごとに夫を諌めたという。美しい妻の度重なる要請にうんざりしたレオフリックは、彼女を諦めさせるため、「裸で[[ウマ|馬]]に乗り城下を巡回するのであれば言い分を認めよう」と応えた。しかし夫の思惑に反し、彼女は「当日は外出せず戸や窓を閉めよ」とする布告を発した上で、本当に裸身で馬に乗り城下を練り歩いた。
英米で広く信じられている漠然とした伝説は、領民に対して情け深い夫人が、理不尽な夫に難癖をつけられて、素裸で長髪をなびかせ馬に乗り、町内を横断する羽目になった。町人は夫人に恩義を感じて、目をそむけ野次馬するのを差し控えたものの、ただ一人、トムという男が盗み見た。以来、[[#ピーピング・トム (伝説)|ピーピング・トム]]といえば覗き見をする人間の[[代名詞]]となったというものであるが、このうちどの部分がどのように成立したかを以下に説明する。


この伝説については、{{仮リンク|ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー|en|Roger of Wendover|}}(1236年没)の年代記、『{{仮リンク|歴史の花|en|Flores Historiarum}}』がもっとも簡素かつ最古とされる典拠であるが<ref>{{Harvnb|DNB|1890}} (Dict. Nat. Biog.), vol.22, .36 "the simplest and oldest form.. by Roger of Wendover, whose Flores.." </ref>、それは次のような記述である:<ref>{{Harvnb|Giles|1899}} 英訳, p.314-5 より重訳</ref>
領民たちは彼女を支持し、布告の通り屋内に引き籠った。しかし、ひとり仕立て屋のトムという男がこっそり夫人の裸身を覗き見たために、神罰を受けて失明した('''ピーピング・トム''')。レオフリックは彼女との約束を守り苛政を改めたといわれる。
<blockquote>
伯爵夫人ゴダイヴァは聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った。…伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬよう窘めたが、(それでもなお粘るので)ついに「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその意があればお許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた。そして馬にまたがり二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきったが、その美しいおみ足以外は誰にも見られなかった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として驚愕する夫のところに舞い戻り、先の要求を叶えた。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令(憲章)によってこれを認定した。</blockquote>


ロジャーの『歴史の花』よりも広く書写された中世時代のベストセラーに、同じ僧院の後輩{{仮リンク|マシュー・パリス|en|Matthew Paris|}}による補訂版ともいうべき『{{仮リンク|大年代記|en|Chronica Majora|}}』があるが、その記述も上と大差はなく、誰にも見られなかったことを伯爵が「奇跡だと感じ入った」という部分のみが誇張である<ref>Matthew Paris, {{Harvnb|Yonge1853}}編訳</ref>。
なお、この伝説にはいくつかの類型が存在し、それぞれで多少ことなった内容になっている。[[13世紀]]頃の最も古いものでは、裸で騎乗した彼女はコヴェントリーの[[市場]]の端から端までを走り抜け、その間人々の注目を集めたとしており、さらに言えば「ピーピング・トム」の逸話が盛り込まれたのは[[17世紀]]に下ってからである。また、「裸で」という言葉の解釈にも諸説あり、「長い髮が効果的に体を隠していた」「下着のようなものは身に着けていた」「貴族の象徴である装飾や[[宝石]]類を外した格好だったことを『裸で』と言い表した」など複数の説がある。ただし、彼女の時代の"naked"という語は「いかなる衣服も身につけず」という文字通りの意味であり、それ以上の比喩的な使い方があったわけではなく、後付がましい解釈である感も否めない。また、領民のためではなく、自らの懺悔のために行ったという説もある。

{{仮リンク|トマス・パーシー司教|en|Thomas Percy (Bishop of Dromore)|}}のフォリオ写本(1650年頃の写本)所収のバラッドの一篇「レオフリクス」(<small>Leoffricus</small>)<ref>{{Harvnb|Hales|Furnivall|1868}}, 第3巻, p.473-</ref><ref>匿名 Collection of Old Ballads (1723-5)にも異本が収録。</ref>では、伯爵はすでに市民に対し免税優遇策を施してはいたが、ただ「馬税」だけがいまだ徴収されていたので、妻のゴダイヴァ (<small>Godiva</small>) が、更にその撤廃を嘆願した。ゴダイヴァは、裸で馬乗りすることを命じられた日を指定して、町内中の役人に通知すると、役人たちは彼女の意を汲み、町民たちに命じて、「その日は家にこもって戸も窓も締め切るように」と言いつけた<ref>{{Harvnb|Hales|Furnivall|1868}}, 第3巻, p.473-, "wherefore to all the officers of all the towne she sent .. that on the day that shee shold ryde, all persons through the towne / shold keepe their houses, & shutt their dore, & clap their windowes downe," 53-60 行。</ref>町民に屋内に閉じこもれという発令がされるのは、このバラッドが初だという<ref>{{Harvnb|DNB|1890}}, "This ballad first mention the order.."</ref>。

また、「裸で」という言葉の解釈にも諸説あり、「長い髪が効果的に体を隠していた」「下着のようなものは身に着けていた」「貴族の象徴である装飾や[[宝石]]類を外した格好だったことを『裸で』と言い表した」など複数の説がある。ただし、彼女の時代の"naked"という語は「いかなる衣服も身につけず」という文字通りの意味であり、それ以上の比喩的な使い方があったわけではなく、後付的な解釈である感も否めない。また、領民のためではなく自らの懺悔のために行ったという説もある{{要出典|date=2012年1月}}。

=== ピーピング・トム (伝説) ===
{{Redirect|ピーピング・トム|その他|ピーピングトム (曖昧さ回避)}}
[[Image:Peeping Tom effigy Coventry-Gentlemans Magazine-vol96(1826)-p20.png|right|200px|thumb|コヴェントリーの行事で展示されたピーピング・トムの木像。W. Reader (1826年の投稿記事)のスケッチ]]
町衆みんなが守った礼儀にさからって、一糸まとわぬゴダイヴァ夫人をただひとり覗き見したというピーピング・トム伝説は、文学作品から広まった形跡はない。これは17世紀以降、コヴェントリー地域の巷に出現した伝説である。

1826年に投稿された W. Reader という地元通の記事によれば、夫人をのぞき見した仕立屋がいたという伝説はそのころすでに定着しており、町をあげての恒例の祭り (Trinity Great Fair 現今[[:en:Godiva Festival]]) では、ゴダイヴァ夫人に扮した人が行列に参列し ([[:en:Godiva Festival#Godiva processions|Godiva processions]])、街角には「ピーピング・トム」と呼ばれる木像が置かれるしきたりであった(そのイラスト画像などは[[#二次資料]]を参照)。同記事の筆者は、この木像の甲冑・異称などから、それが[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]](1685年没)時代頃のものと推定する。また、古物収集家{{仮リンク|ウィリアム・ダグデール|en|William Dugdale|}} (1686年没)が、その巨著らのなかで「のぞき野郎」のことにひとことも触れていないことから、伝説の発祥はその後と結論した<ref>{{Harvnb|W.Reader|1826}} vol.96, p.22 "yet no one, including the late Sir W. Dugdale, even hint at the circumstance in question. We may safely, therefore, appropriate it to the reign of Charles II." </ref>。

ゴダイヴァ夫人の行進の行事が初めて開催されたのは1677年であるが<ref>{{Harvnb|W.Reader|1826}} vol.96, p.22, "In 1677 .. the Procession at the great Fair was first instituted."</ref>、翌1678年にはジェームズ・スウィナートンという男の子がゴダイヴァ夫人役だったという<ref>Hartland, E. Sydney, ''Science of Fairy Tales'', (1890), [https://books.google.co.jp/books?id=fgniX8PvfG4C&pg=PA75 p.75] コヴェントリー市の年代記の写本より抜粋:"31 May 1678, being the great Fair at Coventry.. and Ja. Swinnertons Son represented Lady Godiva"</ref>。<br />
[[ファイル:Lady-Godinas-Route-Gillray.jpeg|サムネイル|420x420ピクセル|風刺画家[[ジェームズ・ギルレイ]]の「レディ・ゴダイヴァの敗走、あるいは――[[女教皇ヨハンナ|教皇ヨハンナ]]を追うピーピング・トム」(1796年)。当時のファッションを風刺することでこの伝説に訴えかけた。]]
文献における「覗き男」登場の経緯については『[[英国人名事典]] ({{Harvnb|DNB|1890}}) 』に詳しい<ref>{{Harvnb|DNB|1890}}, "That one person disobeyed the order .. first stated by Rapin (1732)... Pennant (Journey from Chester to London)(1782) calls him 'a certain taylor.' The name 'peeping Tom' occurs in the city accounts on 11 June 1773 when a new wig and fresh paint were supplied for his effigy."</ref>。まず歴史家{{仮リンク|ポール・ド・ラパン=トワラ|en|Paul de Rapin|}} (1732年)が[[ルポタージュ]]する地元事情によれば、戸窓を閉めきって見るな、死罪に処すぞ、ときついお達しがあったのにのぞき見した男がおり、そいつは命で償ったというのが町の言い伝えであり、町ではこの故事を記念し、男の像が一軒の家の窓から外を覗くように飾ってあると報告する<ref>Paul M. Rapin de Thoyras 著, Thomas, N. Tindal 英訳 "The History of England" [https://books.google.co.jp/books?id=pHJZAAAAYAAJ&pg=PA135 Vol. I, 2nd ed. 1732年版 p.135], "Notwithstanding, there was one, who could not forebear giving a look.."</ref>。次にトマス・ペナント『チェスターからロンドン』( 1782 年)によれば、 のぞき見したのはとある仕立屋だったとし、ゴダイヴァ夫人の行進では、ゴダイヴァ役が、むろん全裸ではないが、四肢にぴったり合わせた純白の絹衣をまとうとしている<ref>Pennant, Thomas, "The Journey from Chester to London" [https://books.google.co.jp/books?id=ii82AAAAMAAJ&pg=PA190 1811年版 p.190], "the curiousity of a certain taylor overcoming his fear, he took a single peep"(この版では、すでにこのころ絹ではなく綿衣がつかわれている、と脚注する)</ref>。英国人物事典によれば、「ピーピング・トム」が名指しで文書に登場する最古例はコヴェントリー市の公式年代記(1773年6月11日付)で、木偶に新しいかつらと塗料が支給された記録である。

このほか、覗き男の名がアクティオン(?)(<small>Action</small>) であったという1700年以前の書簡があるという<ref>{{Harvnb|DNB|1890}}, "Poole quotes from the 'Gentleman's Magazine' a letter from Canon Seward (ca. before 1700) which makes the peeper 'a groom of the countess,' named Action (?Actæon)"</ref>。

トム(トーマス)という名はアングロサクソン名ではないので、実在のゴダイヴァ夫人の時代の領民の名としてはありえないことが指摘されている。またトーマスはこののちに天罰がくだって盲目にされた、あるいは住民によって視力を奪われてしまったとも伝えられる<ref>Leman Rede, "Peeping Tom", The New Monthly Magazine and Humorist, (1838), Part the First, p. 115: "Tradition adds, that the people resolved to close up their houses,.. but.. that one, whose name has not survived, looked forth upon her, and was strcken blind, as some affirm, by the vengeance of Heaven; or, according to others, was deprived of sight by the inhabitants." (引用だが、典拠を"a modern writer" としか明かさない)</ref>。

=== ピーピング・トム (俗語) ===
'''ピーピング・トム''' (Peeping Tom) は英語の俗語で、覗き魔のこと。ゴダイヴァ夫人の裸身を覗き見た上記の男の名に由来する。日本語の同意の俗語「[[出歯亀]]」(でばがめ)に相当。


== 史実 ==
== 史実 ==
[[ファイル:England, Conder Token, Coventry Halfpenny 1792 (Lady Godiva).jpg|左|サムネイル|ゴダイヴァ夫人の描かれた1792年のコイン(右)]]
[[Image:Godiva statue.jpg|thumb|left|200px|コヴェントリーにあるゴダイヴァ夫人の像]]
マーシア伯レオフリック(968年-1057年)の妻。名前の綴りは一定しない。アングロサクソン名はGodgifuまたはGodgyfuであり、これは「神の賜物」を意味する。Godivaはラテン風の綴りである。12世紀末にまとめられたイーリー(Ely)の年代記 ''Liber Eliensis'' にる同名の人と同一人物であるとすれば、ゴダイヴァはレオフリックとする前は未亡人であったことになる。
[[:en:Earl of Mercia|マーシア伯]][[:en:Leofric, Earl of Mercia|レオフリック]]( -1057年)の妻。名前の綴りは一定してしない。アングロサクソン名は Godgifu または Godgyfu であり、これはgood giftを意味する<ref>[https://www.amazon.co.jp/dp/140510046X Amazon.co.jp → 「なか見!検索」をクリック → Chaper1 Godgifu of Mercia pp.7-8] Yet in pre-Conquest England, the name God-gifu was a typical compound meaning "good gift," pronounced with the primary accent on the first syllable(goad-yivu).</ref>。Godiva はラテン風の綴りである。{{仮リンク|イーリー大聖堂|en|Ely Abbey|}}年代記 ''Liber Eliensis'' (12世紀末)ば、ゴダイヴァという名の伯爵未亡が1028-9年頃、死期を悟り同寺院に土地を寄贈したとあるが、もしこれと同一人物であるとすれば、その彼女が病状から回復して、そののちにレオフリックとたことになる<ref>{{Harvnb|DNB|1890}} (Dict. Nat. Biog.)</ref>


レオフリックもゴダイヴァも共に信仰活動に熱心で、Roger of Wendoverによて書かれ12世紀の記録によると1043年にレオフリックがコヴェントリーにベネディクト会修道院建立した陰にゴダイヴァの強い影響があったとされ<ref>[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1226 Anglo-Saxons.net, S 1226]</ref> 。下って1050年代には、ウスターのセントメアリー修道院への土地の寄進状において、またリンカンシャーのストウセントメアリーにおける教会の建立の記録おいても、ゴダイヴァの名レオフリックの名と連記されている<ref>[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1232 Anglo-Saxons.net, S 1232]</ref><ref>[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1478 Anglo-Saxons.net, S 1478]</ref> 。さらに夫妻の名前はレオミンスター、チェスター、マッチウェンロック、エヴェシャムの教会堂の後援者として記録されている<ref>''The Chronicle of John of Worcester'' ed. and trans. R.R. Darlington, P. McGurk and J. Bray(Clarendon Press: Oxford 1995), pp.582-583</ref>。
レオフリックもゴダイヴァも共に信仰活動に熱心でった。ロジャー・オブ・ウェンドーヴァーによれば、レオフリック1057年に死去したとき、みずから建立したコヴェントリー修道院に埋葬されたが、この建立は妻であるゴダイヴァ伯爵夫人助言によるものであったという<ref>Roger of Wendover, 前述(西暦1057年の記述), {{Harvnb|Giles|1899}} 英訳, p.314 "Leofric earl of Chester.. was buried in the monastery he had founded at Coventy...by the advice of his wife the noble countess Godiva."</ref>。このベネディクト会修道院、{{仮リンク|聖メアリーの小修道院|en|St. Mary's Priory and Cathedral|}}は、1043年に設立されたが<ref>Dugdale, William (1686年没) , [https://books.google.co.jp/books?id=r71LN35ZEG4C&pg=PA177 ''Monasticon Anglicanum''] (Bohn, 1846), Vol. III, p.177。"1043年"の記述は, 付録 Num. IV のアレクサンダー[[教皇勅書]]にみえ、また、建立[[勅令]]の異本では 1044年, 1051年]</ref><ref>1043年の勅令の数々の異本は [http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1226 Anglo-Saxons.net, S 1226]に提示。ただし真贋については、疑わしい('spurious'と表記される)</ref>、[[修道院解散|修道院解散令]]に廃院となった 。下って1050年代には、[[ウスター]]市メアリー修道院 (<small>St Mary's Priory</small>) への土地の寄進状において、また[[リンカンシャー]]州[[ストウの聖メアリー教会]](<small>Minster Church of St Mary, Stow in Lindsey</small>)の建立[[勅令]]にも、ゴダイヴァ(<small>Godgife</small>)の名レオフリックの名と連記されている<ref>ウスターの勅令には[「レオフリクとその妻」とのみ表記。[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1232 Anglo-Saxons.net, S 1232]</ref><ref>ストウ勅令では"Godgife" と表記。[http://www.anglo-saxons.net/hwaet/?do=seek&query=S+1478 Anglo-Saxons.net, S 1478]. Thorpe (現代英語訳付) [https://books.google.co.jp/books?id=02dnAAAAMAAJ&pg=PA370 p.320]</ref> 。さらに夫妻の名前はレオミンスター、チェスター、マッチウェンロック、エヴェシャムの教会堂の後援者として記録されている<ref>''The Chronicle of John of Worcester'' ed. and trans. R.R. Darlington, P. McGurk and J. Bray(Clarendon Press: Oxford 1995), pp.582-583</ref>。


1057年にレオフリックと死別した後、未亡人として[[ノルマン・コンクエスト]]後まで生き延びた。[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]による検地台帳「[[ドゥームズデイ・ブック]]」には、[[ノルマン人]]によるイングランド征服後もわずかながら残ったアングロサクソン人領主の一人として、また唯一の女性領主として記されている。ただし土地調査が行われた1086年には既にゴダイヴァは死去していたとする説もあり<ref>K.S.B.Keats-Rohan, ''Domesday People: A prosopography of persons occurring in English documents 1066-1166'', vol.1: Domesday (Boydell Press: Woodbridge, Suffolk 1999), p.218</ref>、1066年から1086年の間に死去したとする説、1067年9月10日をゴダイヴァの命日とする説など諸説ある<ref>[http://www.localhistory.scit.wlv.ac.uk/articles/Penn/history/Godiva.htm "A History of Penn and its People"], Wolverhampton History & Heritage Society</ref>。また、ゴダイヴァの墓所についても、夫の隣に埋葬されたとする説、すでに現存しないエヴェシャムの教会に埋葬されたとする説など諸説ある。
1057年にレオフリックと死別した後、未亡人として[[ノルマン・コンクエスト]]後まで生き延びた。[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]による検地台帳「[[ドゥームズデイ・ブック]]」には、[[ノルマン人]]によるイングランド征服後もわずかながら残ったアングロサクソン人領主の一人として、また唯一の女性領主として記されている。ただし土地調査が行われた1086年には既にゴダイヴァは死去していたとする説もあり<ref>K.S.B.Keats-Rohan, ''Domesday People: A prosopography of persons occurring in English documents 1066-1166'', vol.1: Domesday (Boydell Press: Woodbridge, Suffolk 1999), p.218</ref>、1066年から1086年の間に死去したとする説、1067年9月10日をゴダイヴァの命日とする説など諸説ある<ref>[http://www.localhistory.scit.wlv.ac.uk/articles/Penn/history/Godiva.htm "A History of Penn and its People"], Wolverhampton History & Heritage Society</ref>。また、ゴダイヴァの墓所についても、夫の隣に埋葬されたとする説、すでに現存しないエヴェシャムの教会に埋葬されたとする説など諸説ある。


これらの史実から、[[コヴェントリー]]の街を裸で馬に乗って行進したという「有名な伝説は事実ではない」というのが歴史家の一致した見解である<ref>[http://harvardmagazine.com/2003/07/lady-godiva-the-naked-tr.html] Coe, Charles. "Lady Godiva: The Naked Truth." Harvard Magazine. July-Aug. 2003 (July 28, 2008) 第2段落目 But as it happens, most medieval scholars agree the ride never took place. </ref><ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_depth/uk/2000/newsmakers/1507606.stm] Lady Godiva: The naked truth, BBC News, 24 August, 2001, 15:31 GMT 第13段落目 Regrettably, though, the story of Lady Godiva's ride is almost certainly a myth. </ref><ref>[http://history.howstuffworks.com/history-vs-myth/godivas-ride.htm] Why did Lady Godiva take a naked horse ride?  第2ページの最終段落 Too bad it's not true. On the next page, we'll take a closer look at the story and see why historians have discounted it. 第3ページの第5段落目 Therefore, Godiva's ride never happened because there simply was no need for her to prove anything.  </ref>。<gallery>
== ピーピング・トム ==
ファイル:Godiva giant puppet 2 (21735603976).jpg|服を着た状態のゴダイヴァ夫人の像、[[コヴェントリー]]
'''ピーピング・トム'''(Peeping Tom)は英語の俗語で、覗き魔のこと。ゴダイヴァ夫人の裸身を覗き見た上記の男の名に由来する。日本語の同意の俗語「[[出歯亀]]」(でばがめ)に相当。
ファイル:Coventry city flag.svg|コヴェントリーの旗
==関連情報==
</gallery>
*欧米では、増税反対のために街頭抗議デモを行う場合に、ゴダイヴァ夫人の故事にならい、スキンカラーのボディスーツをまとった女性が白馬にまたがり、ねり歩くパフォーマンスを行うことがある。

== コヴェントリーとゴダイヴァ夫人 ==
[[ファイル:Godiva statue Broadgate Oct 2011.jpg|サムネイル|ウィリアム・レイド・ディック卿によるゴダイヴァ夫人の騎馬像]]
[[コヴェントリー]]はゴダイヴァ夫人の故事で有名であり、2018年に制定された市の新しい旗は馬に乗ったゴダイヴァ夫人のシルエットになっている<ref>[https://www.coventrytelegraph.net/news/coventry-news/coventry-flag-city-of-culture-15516206 Lady Godiva features on Coventry's first official flag] 2018年末に制定された。</ref>。

市の中央広場であるブロードゲイト(Broadgate)には、ゴダイヴァ夫人の騎馬像がある(位置は{{coord|52|24|28.95|N|1|30|37.39|W|}})。この像はウィリアム・レイド・ディック([[:en:William Reid Dick]])卿(1878-1961)によって彫られ、1949年10月22日に当時のアメリカ合衆国大使夫人のダグラス夫人によって除幕されたものである。

像の寄進者はコヴェントリーの企業家であった W H バセット=グリーン(W H Baddett-Green) (1870-1960)であり<ref>[https://musicartincoventry.wordpress.com/2015/02/05/art-in-coventry-sculpture-of-the-day-lady-godiva/ ART IN COVENTRY – SCULPTURE OF THE DAY – LADY GODIVA.] MUSIC AND ART IN COVENTRY, 2015-02-05</ref>、像の台座後面にそのことが明記されている。彼は当時の20,000ポンドをかけて像の制作を1937年にウィリアム卿に依頼し、像は1944年に完成していた<ref name="#1">[https://www.heritagegateway.org.uk/Gateway/Results_Single.aspx?uid=MCT16991&resourceID=1029 Coventry HER] HeritageGateway</ref>。

像の正式の名称はSelf Sacrifice(「自己犠牲」の意であり、像の台座正面に刻印されている。)であるが、通常はLady Godiva Statueと呼ばれている。その後、この騎馬像の上空にテント式の[[天蓋]]([[:en:canopy]])が設置されたが、市民の評判が悪いこともあり、2008年10月に撤去された<ref>{{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/coventry_warwickshire/7697036.stm|title=Godiva statue canopy comes down|work=BBC News Online|publisher=BBC|date=29 October 2008|access-date=30 October 2008|archive-url=https://web.archive.org/web/20081101132321/http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/coventry_warwickshire/7697036.stm|archive-date=1 November 2008|url-status=live}}</ref>。さらにその後、騎馬像を囲むフェンスも撤去された。この像は、1998年4月15日に、イングランド遺産のグレードⅡ* に指定されている<ref>[https://historicengland.org.uk/listing/the-list/list-entry/1031589 LADY GODIVA STATUE, BROADGATE] Historic England</ref>。
<gallery widths="200" heights="250">
ファイル:Godiva statue by William Reid Dick.jpg|天蓋に覆われていた時の騎馬像
ファイル:Godiva Statue Coventry 1.JPG|2008年10月に天蓋が撤去された後の騎馬像(回りのフェンスもその後に撤去された)
</gallery>
騎馬像の台座の側面には[[アルフレッド・テニスン]]による次の詩が刻まれている。
* 馬の進行方向左側の台座:GODIVA/SHE RODE FORTH CLOTHED ON WITH/CHASTITY THE DEEP AIR LISTEN D ROUND/HER AS SHE RODE AND ALL THE LOW WIND/HARDLY BREATHED FOR FEAR/Tennyson

* 馬の進行方向右側の台座:GODIVA/THEN SHE RODE BACK CLOTHED ON WITH/CHASTITY SHE TOOK THE TAX AWAY AND/BUILT HERSELF AN EVERLASTING NAME/Tennyson

時代別と撮影方向別のゴダイヴァ夫人の騎馬像の写真については、[[ウィキメディアコモンズ]]の[https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Lady_Godiva_(by_William_Reid_Dick) Media in category "Lady Godiva (by William Reid Dick)"] Wikimedia Commons を参照のこと。

[[File:The Lady Godiva Clock in Coventry, England.jpg|thumb|コヴェントリーのブロードゲイトハウス(市庁舎)の塔に設置されているゴダイヴァ時計]]
[[File:Lady Godiva clock -Broadgate -Coventry-21July2008.jpg|thumb|ゴダイヴァ時計の詳細 ピーピング・トムが見下ろしている。 ]]
=== ゴダイヴァ時計 ===
騎馬像の南に当たるBroadgate House(市庁舎)の塔には、1953年に設置されたゴダイヴァ時計(Godiva Clock)という仕掛け時計がある。毎正時に白馬に跨がったゴダイヴァ夫人の人形が現れ、それを上から[[ゴダイヴァ夫人#ピーピング・トム (伝説)|ピーピング・トム]]が覗くという仕掛けになっている<ref>[https://www.coventrysociety.org.uk/public-art-in-coventry/godiva-clock.html The Godiva Clock] Coventry Society</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=eh7HQ2YeHYs Lady Godiva clock, Coventry] 18 Jan 2016 </ref>。ゴダイヴァ夫人の騎馬像は当初はこのゴダイヴァ時計に向き合うように(南向きに)設置されていたが、1990年に90度方角が変えられ、西を向くようになった<ref name="#1"/>。
[[ファイル:Coventry lady Godiva clock.webm|中央|サムネイル|ゴダイヴァ時計が動く様子]]

== ギャラリー ==
<gallery widths="160" heights="200">
ファイル:Claxton - Lady Godiva 1850.jpg|代替文=Marshall Claxton: Lady Godiva (1850), at the Herbert Art Gallery and Museum, Coventry|マーシャル・クラクストン作。1850年の作品
ファイル:Herbert Backstage Pass cmglee 46.jpg|代替文=Lady Godiva at the Herbert Art Gallery and Museum, Coventry.|ハーバート美術博物館の像
ファイル:The semi-naked Lady Godiva sitting on a horse having slipper Wellcome V0040010.jpg|代替文=Lady Godiva depicted in her shift. Engraving by J.B. Allen after G. Jones.|[[シュミーズ]]を着たゴダイヴァ夫人の絵
ファイル:Lady Godiva Statue In Coventry.jpg|代替文=Lady Godiva Statue In Coventry.|コヴェントリーの像([[モノクローム|モノクロ]])
ファイル:Lady Godiva Statue, Broadgate Square, Coventry.jpg|ウィリアム・レイド・ディック作の彫刻。
ファイル:Lady godiva full.jpg|[[ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル]]作。1891年の作品
ファイル:Jozef Van Lerius - Lady Godiva - 1159 - Royal Museum of Fine Arts Antwerp.tiff|[[ジョゼフ・ヴァン・レリウス]]作。1870年の作品
ファイル:Wojciech Kossak - Lady Godiva.jpg|ヴォイチェフ・コサック作。1923年の作品
ファイル:Adam van Noort (attr.) - Lady Godiva.tiff|[[アダム・ファン・ノールト]]作。1586年の作品
ファイル:An alphabet of celebrities - G.jpg|オリバー・ハーフォード『An alphabet of celebrities』より
ファイル:Lady Godiva, James Ensor, 1933, Museum voor Schone Kunsten Gent, 1998-B-130.jpg|[[ジェームズ・アンソール]]作。1933年の作品
ファイル:Milan Thomka Mitrovský - Lady Godiva - O 2929 - Slovak National Gallery.jpg|ミラン・トムカ・ミトロフスキー作。1922年の作品
ファイル:Sullivan Lady Godiva 1877.jpg|ウィリアム・ホームズ・サリヴァン作。1877年の作品
ファイル:Punch (1841) (14773924172).jpg|『パンチ』誌より。1841年
ファイル:Lady Godiva - geograph.org.uk - 2040496.jpg|レリーフ
ファイル:StateLibQld 2 102044 Clock in a ornately carved wooden casing.jpg|時計
ファイル:Milan Thomka Mitrovský - Study for the Painting 'Lady Godiva' - O 2930 - Slovak National Gallery.jpg|ミラン・トムカ・ミトロフスキー作。1895年の作品
ファイル:Lady Godiva rides again - geograph.org.uk - 3058225.jpg|馬に乗ったゴダイヴァ夫人像
ファイル:James Ensor - Lady Godiva.jpg|アンソール作。1927年の作品
ファイル:Godiva being prepared at Coventry University (7826149160).jpg|裸のゴダイヴァ夫人像
</gallery>

== その他 ==
*欧米では、増税反対などの街頭抗議デモを行う際に、ゴダイヴァ夫人の故事にならい、スキンカラーのボディスーツをまとった女性が白馬にまたがり、ねり歩くパフォーマンスを行うことがある<ref>[http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/2268187.stm] Businesswoman in Godiva-style protest, BBC News, Thursday 19 September, 2002 </ref><ref>[https://news.google.com/newspapers?nid=336&dat=19830415&id=QrxNAAAAIBAJ&sjid=bIMDAAAAIBAJ&pg=7167,5661515] A modern-day Lady Godiva to re-enact tax protest ride, DESERET NEWS April 14-15, 1983 </ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=Z1TLrHSF15s Lady Godiva Rides Again] 2010-06-18</ref>。
*SF作家[[ロバート・A・ハインライン]]は、「効果的なパフォーマンス」「印象的な出来事」の例として、ゴダイヴァ夫人の故事を頻繁に引用している。
*SF作家[[ロバート・A・ハインライン]]は、「効果的なパフォーマンス」「印象的な出来事」の例として、ゴダイヴァ夫人の故事を頻繁に引用している。
*[[ベルギー]]の[[チョコレート]]メーカー「[[ゴディバ]]」の社名およびシンボルマークはゴダイヴァ夫人に由来する。
*小惑星(3018)の[[ゴダイヴァ (小惑星)|ゴダイヴァ]]は、彼女に因んで命名された。
*[[ノースロップ・グラマン]][[F-14 (戦闘機)|F-14]]トムキャット[[戦闘機]]の[[偵察機]]バージョン(偵察ポッドを搭載)は、ニックネームがピーピング・トムである。
*[[ノースロップ・グラマン]][[F-14 (戦闘機)|F-14]]トムキャット[[戦闘機]]の[[偵察機]]バージョン(偵察ポッドを搭載)は、ニックネームがピーピング・トムである。
*[[クイーン_(バンド)|クイーン]]の楽曲「ドント・ストップ・ミー・ナウ」の歌詞では、競技用自動車について、ゴダイヴァ夫人のように駆け抜けると表現されている。
*[[クイーン_(バンド)|クイーン]]の楽曲「[[ドント・ストップ・ミー・ナウ]]」の歌詞では、競技用自動車について、ゴダイヴァ夫人のように駆け抜けると表現されている。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
<references />

== 参考文献 ==
=== 一次資料===
*勅令など史料
** Coxe, Henry O., 編 Rogeri de Wendover, Chronica, sive Flores Historiarum, Vol. 1, London, 1891 [https://books.google.co.jp/books?id=COEsAAAAMAAJ&pg=PA499 p.496-7] (A.D. 1057)
** Thorpe, Benjamin ([[ベンジャミン・ソープ]]), Diplomatarium anglicum aevi saxonici: A collection of English charters, Vol. 1 (London, 1865) (古英語と現代英語対訳) ([https://books.google.co.jp/books?id=02dnAAAAMAAJ books.google])
*史書
** [[:en:Roger of Wendover|Roger of Wendover]], ''Flores Historiarum''
*** {{citation|editor-last=Giles|editor-first=J. A.|author2=Roger of Wendover|title=Roger of Wendover's Flowers of History|volume=1|place=London|publisher=Henry G. Bohn|year=1899|url=https://books.google.co.jp/books?id=TiYRa8nIJYwC&pg=PA314|page=314|format=google|author2-link=Roger of Wendover}}(英訳)
** [[:en:Matthew Paris|Matthew Paris]],
*** {{citation|last=Yonge|first=C. D.|title=The Flowers of History, .. collected by Matthew of Westminster|volume=1|place=London|publisher=Henry G. Bohn|year=1853|pages=544-|url=https://books.google.co.jp/books?id=kykJAQAAIAAJ&pg=PA544|format=google}}(英訳)
*創作
** {{citation|editor-last=Hales|editor-first=John W.|editor2-last=Furnivall|editor2-first=Frederick J.|title=Leoffricus|work=Bishop Percy's folio manuscript: Ballads and romances|volume=3|place=London|publisher=|Trübner|year=1868|pages=477-|url=https://books.google.co.jp/books?id=gc0jAAAAMAAJ&pg=PA477|format=google}}

=== 二次資料===
* {{cite book |author=Daniel Donoghue |year=2002 |month=12|title=Lady Godiva: A Literary History of the Legend|publisher=Springer |isbn=978-1405100472 }}
* (anonymous), ''The history of lady Godiva and Peeping Tom of Coventry, with a description'', Coventry, J. W. Mills, sixth ed., sans date. [https://books.google.co.jp/books?id=tMoHAAAAQAAJ books.google](トム像は蝶ネクタイをしている)
* Dugdale, William, Antiquities of Warwickshire (1656)、p.66 [https://archive.org/details/antiquitiesofwar00dugd Internet Archive]
* Hartland, E. Sydney, "Peeping Tom and Lady Godiva," Folk-Lore, I, 2 (June, 1890) 217-226 ([https://books.google.co.jp/books?id=u4QZAAAAYAAJ&pg=PA217 books.google])
*英国人名事典
** {{citation|author=DNB|other=Sir Sidney Lee|title=Godiva or Godgifu (fl. 1040-1080)|work=Dictionary of National Biography|year=1890|volume=22|place=London|publisher=Smith, Elder|url=http://en.wikisource.org/wiki/Godiva_(DNB00)|format=wikisource}} (別リンク [http://en.wikisource.org/wiki/Page:Dictionary_of_National_Biography_volume_22.djvu/42 wikisource]; New York, Macmillan 1890[https://books.google.co.jp/books?id=qSYJAAAAIAAJ&pg=PA36 p.36-(books.google)])
** Poole, Benjamin, The history of Coventry (トム像の木版画)
** {{citation|author=W. Reader|title=Peeping Tom of Coventry and Lady Godiva|page=20|journal=Gentleman's Magazine|volume=96|year=1826|url=https://books.google.co.jp/books?id=N6hJAAAAYAAJ&pg=PA20|format=google}}, 同 "Show Fair at Coventry described," p.22-
*ピーピング・トムの木像のスケッチ
** (再版/絵カット無)''The Gentleman's magazine library'' 4 (1885) (1731-1868年の記事を主題別に分類), p.111

*{{Cite book2|last=Donoghue|first=Daniel|title=Lady Godiva: A Literary History of the Legend|year= 2002|publisher=Wiley-Blackwell|language=en|isbn=978-1405100465}}
** {{Cite book ja-jp|author= ダニエル・ドナヒュー|translator = [[伊藤盡]]|year=2011|month=10|title= 貴婦人ゴディヴァ: 語り継がれる伝説|publisher = [[慶應義塾大学出版会]]|origyear=2002|pages=278 |isbn=978-4-7664-1859-0|asin=476641859X}}


==外部リンク==
==外部リンク==
{{commons&cat|Lady Godiva|Lady Godiva}}
{{commons|Lady Godiva}}
* [http://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/britannia/anglo-saxon/flowers/godiva.html James Grout: ''Lady Godiva'', part of the Encyclopædia Romana]
* [https://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/britannia/anglo-saxon/flowers/godiva.html James Grout: ''Lady Godiva'', part of the Encyclopædia Romana]
* [http://www.sexualfables.com/how_to_look_at_a_naked_lady.php How Lady Godiva Got a Tax Break]
*{{Cite book|
|last = Donoghue
|first = Daniel
|title = {{lang|en|''Lady Godiva:The History of the Legend''}}
|date = 2002-12-30
|publisher = Wiley-Blackwell
|language = 英語
|isbn = 9781405100465
|asin = 1405100478
}}
** {{Template:Cite book ja-jp
|author = ダニエル・ドナヒュー
|translator = [[伊藤盡]]
|year = 2011
|title = 貴婦人ゴディヴァ: 語り継がれる伝説
|publisher = 慶應義塾大学出版会
|origyear =2002
|isbn =978-4766418590
|asin =476641859X
|lcc = LCC
}}


{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:こたいうあ}}
{{デフォルトソート:こたいうあふしん}}
[[Category:イングランド史の人物]]
[[Category:中世イングランドの女性]]
[[Category:裸と文化]]
[[Category:裸と文化]]
[[Category:ヌード・プロテスト]]
[[Category:中世の伝説]]
[[Category:中世の伝説]]
[[Category:1067年没]]
[[Category:コヴェントリー]]
[[Category:コヴェントリー]]
[[Category:侮蔑]]

[[Category:1067年没]]
[[bg:Лейди Годайва]]
[[ca:Lady Godiva]]
[[ckb:گۆدیڤا]]
[[cs:Godiva]]
[[da:Lady Godiva]]
[[de:Lady Godiva]]
[[el:Λαίδη Γκοντίβα]]
[[en:Lady Godiva]]
[[eo:Godiva (Damo)]]
[[es:Lady Godiva]]
[[fa:بانو گادایوا]]
[[fi:Godiva]]
[[fr:Godiva]]
[[he:ליידי גודייבה]]
[[hr:Lady Godiva]]
[[hu:Lady Godiva]]
[[id:Lady Godiva]]
[[is:Lafði Godiva]]
[[it:Lady Godiva]]
[[ko:고다이버 부인]]
[[lt:Ledi Godiva]]
[[nds:Godiva]]
[[nl:Lady Godiva]]
[[no:Godiva]]
[[pl:Godiva]]
[[pt:Lady Godiva]]
[[ro:Lady Godiva]]
[[ru:Леди Годива]]
[[simple:Lady Godiva]]
[[sk:Godiva]]
[[sr:Леди Годива]]
[[sv:Godiva]]
[[tl:Godiva]]
[[uk:Леді Ґодіва]]
[[vi:Godiva]]
[[zh:戈黛娃夫人]]

2024年12月13日 (金) 20:53時点における最新版

ジョン・コリア作「ゴダイヴァ夫人」。1898年頃の作品
エドモンド・レイトン作「ゴダイヴァ夫人」。1898年頃の作品。服を脱ぐ前の状態
トーマス・スティーブンス作「ゴダイヴァ夫人の行列」。

ゴダイヴァ夫人(ゴダイヴァふじん、Lady Godiva、990年頃 - 1067年9月10日?)は、11世紀イングランドの女性。マーシアレオフリック英語版の夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を裸で馬に乗って行進したという有名な伝説が残っているが、中世を専門とする歴史家の見解は、これは「史実ではない」ことで一致している。

同時代頃に書かれたとされる偽イングルフ英語版の年代記によれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる[1]

ベルギーのチョコレートメーカー「ゴディバ」のブランド名およびそのロゴはゴダイヴァ夫人の伝説に由来するが日本語の表記と発音はベルギーでの発音にしたがい「ゴディバ」とすることが多い[2]

ゴディバ」のチョコレートの箱に描かれたロゴ

伝説

[編集]
ジョン・トーマス作の彫刻、メードストン博物館
ジョン・トーマス作の彫刻の詳細。

英米で広く信じられている漠然とした伝説は、領民に対して情け深い夫人が、理不尽な夫に難癖をつけられて、素裸で長髪をなびかせ馬に乗り、町内を横断する羽目になった。町人は夫人に恩義を感じて、目をそむけ野次馬するのを差し控えたものの、ただ一人、トムという男が盗み見た。以来、ピーピング・トムといえば覗き見をする人間の代名詞となったというものであるが、このうちどの部分がどのように成立したかを以下に説明する。

この伝説については、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー英語版(1236年没)の年代記、『歴史の花英語版』がもっとも簡素かつ最古とされる典拠であるが[3]、それは次のような記述である:[4]

伯爵夫人ゴダイヴァは聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った。…伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬよう窘めたが、(それでもなお粘るので)ついに「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその意があればお許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた。そして馬にまたがり二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきったが、その美しいおみ足以外は誰にも見られなかった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として驚愕する夫のところに舞い戻り、先の要求を叶えた。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令(憲章)によってこれを認定した。

ロジャーの『歴史の花』よりも広く書写された中世時代のベストセラーに、同じ僧院の後輩マシュー・パリス英語版による補訂版ともいうべき『大年代記英語版』があるが、その記述も上と大差はなく、誰にも見られなかったことを伯爵が「奇跡だと感じ入った」という部分のみが誇張である[5]

トマス・パーシー司教英語版のフォリオ写本(1650年頃の写本)所収のバラッドの一篇「レオフリクス」(Leoffricus)[6][7]では、伯爵はすでに市民に対し免税優遇策を施してはいたが、ただ「馬税」だけがいまだ徴収されていたので、妻のゴダイヴァ (Godiva) が、更にその撤廃を嘆願した。ゴダイヴァは、裸で馬乗りすることを命じられた日を指定して、町内中の役人に通知すると、役人たちは彼女の意を汲み、町民たちに命じて、「その日は家にこもって戸も窓も締め切るように」と言いつけた[8]町民に屋内に閉じこもれという発令がされるのは、このバラッドが初だという[9]

また、「裸で」という言葉の解釈にも諸説あり、「長い髪が効果的に体を隠していた」「下着のようなものは身に着けていた」「貴族の象徴である装飾や宝石類を外した格好だったことを『裸で』と言い表した」など複数の説がある。ただし、彼女の時代の"naked"という語は「いかなる衣服も身につけず」という文字通りの意味であり、それ以上の比喩的な使い方があったわけではなく、後付的な解釈である感も否めない。また、領民のためではなく自らの懺悔のために行ったという説もある[要出典]

ピーピング・トム (伝説)

[編集]
コヴェントリーの行事で展示されたピーピング・トムの木像。W. Reader (1826年の投稿記事)のスケッチ

町衆みんなが守った礼儀にさからって、一糸まとわぬゴダイヴァ夫人をただひとり覗き見したというピーピング・トム伝説は、文学作品から広まった形跡はない。これは17世紀以降、コヴェントリー地域の巷に出現した伝説である。

1826年に投稿された W. Reader という地元通の記事によれば、夫人をのぞき見した仕立屋がいたという伝説はそのころすでに定着しており、町をあげての恒例の祭り (Trinity Great Fair 現今en:Godiva Festival) では、ゴダイヴァ夫人に扮した人が行列に参列し (Godiva processions)、街角には「ピーピング・トム」と呼ばれる木像が置かれるしきたりであった(そのイラスト画像などは#二次資料を参照)。同記事の筆者は、この木像の甲冑・異称などから、それがチャールズ2世(1685年没)時代頃のものと推定する。また、古物収集家ウィリアム・ダグデール英語版 (1686年没)が、その巨著らのなかで「のぞき野郎」のことにひとことも触れていないことから、伝説の発祥はその後と結論した[10]

ゴダイヴァ夫人の行進の行事が初めて開催されたのは1677年であるが[11]、翌1678年にはジェームズ・スウィナートンという男の子がゴダイヴァ夫人役だったという[12]

風刺画家ジェームズ・ギルレイの「レディ・ゴダイヴァの敗走、あるいは――教皇ヨハンナを追うピーピング・トム」(1796年)。当時のファッションを風刺することでこの伝説に訴えかけた。

文献における「覗き男」登場の経緯については『英国人名事典 (DNB 1890) 』に詳しい[13]。まず歴史家ポール・ド・ラパン=トワラ英語版 (1732年)がルポタージュする地元事情によれば、戸窓を閉めきって見るな、死罪に処すぞ、ときついお達しがあったのにのぞき見した男がおり、そいつは命で償ったというのが町の言い伝えであり、町ではこの故事を記念し、男の像が一軒の家の窓から外を覗くように飾ってあると報告する[14]。次にトマス・ペナント『チェスターからロンドン』( 1782 年)によれば、 のぞき見したのはとある仕立屋だったとし、ゴダイヴァ夫人の行進では、ゴダイヴァ役が、むろん全裸ではないが、四肢にぴったり合わせた純白の絹衣をまとうとしている[15]。英国人物事典によれば、「ピーピング・トム」が名指しで文書に登場する最古例はコヴェントリー市の公式年代記(1773年6月11日付)で、木偶に新しいかつらと塗料が支給された記録である。

このほか、覗き男の名がアクティオン(?)(Action) であったという1700年以前の書簡があるという[16]

トム(トーマス)という名はアングロサクソン名ではないので、実在のゴダイヴァ夫人の時代の領民の名としてはありえないことが指摘されている。またトーマスはこののちに天罰がくだって盲目にされた、あるいは住民によって視力を奪われてしまったとも伝えられる[17]

ピーピング・トム (俗語)

[編集]

ピーピング・トム (Peeping Tom) は英語の俗語で、覗き魔のこと。ゴダイヴァ夫人の裸身を覗き見た上記の男の名に由来する。日本語の同意の俗語「出歯亀」(でばがめ)に相当。

史実

[編集]
ゴダイヴァ夫人の描かれた1792年のコイン(右)

マーシア伯レオフリック( -1057年)の妻。名前の綴りは一定してしない。アングロサクソン名は Godgifu または Godgyfu であり、これはgood giftを意味する[18]。Godiva はラテン語風の綴りである。イーリー大聖堂年代記 Liber Eliensis (12世紀末) によれば、ゴダイヴァという名の伯爵未亡人が1028-9年頃、死期を悟り同寺院に土地を寄贈したとあるが、もしこれと同一人物であるとすれば、その彼女が病状から回復して、そののちにレオフリックと再婚したことになる[19]

レオフリックもゴダイヴァも共に信仰活動に熱心であった。ロジャー・オブ・ウェンドーヴァーによれば、レオフリック伯が1057年に死去したとき、みずから建立したコヴェントリーの修道院に埋葬されたが、この建立は妻であるゴダイヴァ伯爵夫人の助言によるものであったという[20]。このベネディクト会修道院、聖メアリーの小修道院英語版は、1043年に設立されたが[21][22]修道院解散令に廃院となった 。下って1050年代には、ウスター市の聖メアリー修道院 (St Mary's Priory) への土地の寄進状において、またリンカンシャー州のストウの聖メアリー教会(Minster Church of St Mary, Stow in Lindsey)の建立勅令にも、ゴダイヴァ(Godgife)の名がレオフリックの名と連記されている[23][24] 。さらに夫妻の名前はレオミンスター、チェスター、マッチウェンロック、エヴェシャムの教会堂の後援者として記録されている[25]

1057年にレオフリックと死別した後、未亡人としてノルマン・コンクエスト後まで生き延びた。ウィリアム1世による検地台帳「ドゥームズデイ・ブック」には、ノルマン人によるイングランド征服後もわずかながら残ったアングロサクソン人領主の一人として、また唯一の女性領主として記されている。ただし土地調査が行われた1086年には既にゴダイヴァは死去していたとする説もあり[26]、1066年から1086年の間に死去したとする説、1067年9月10日をゴダイヴァの命日とする説など諸説ある[27]。また、ゴダイヴァの墓所についても、夫の隣に埋葬されたとする説、すでに現存しないエヴェシャムの教会に埋葬されたとする説など諸説ある。

これらの史実から、コヴェントリーの街を裸で馬に乗って行進したという「有名な伝説は事実ではない」というのが歴史家の一致した見解である[28][29][30]

コヴェントリーとゴダイヴァ夫人

[編集]
ウィリアム・レイド・ディック卿によるゴダイヴァ夫人の騎馬像

コヴェントリーはゴダイヴァ夫人の故事で有名であり、2018年に制定された市の新しい旗は馬に乗ったゴダイヴァ夫人のシルエットになっている[31]

市の中央広場であるブロードゲイト(Broadgate)には、ゴダイヴァ夫人の騎馬像がある(位置は北緯52度24分28.95秒 西経1度30分37.39秒 / 北緯52.4080417度 西経1.5103861度 / 52.4080417; -1.5103861)。この像はウィリアム・レイド・ディック(en:William Reid Dick)卿(1878-1961)によって彫られ、1949年10月22日に当時のアメリカ合衆国大使夫人のダグラス夫人によって除幕されたものである。

像の寄進者はコヴェントリーの企業家であった W H バセット=グリーン(W H Baddett-Green) (1870-1960)であり[32]、像の台座後面にそのことが明記されている。彼は当時の20,000ポンドをかけて像の制作を1937年にウィリアム卿に依頼し、像は1944年に完成していた[33]

像の正式の名称はSelf Sacrifice(「自己犠牲」の意であり、像の台座正面に刻印されている。)であるが、通常はLady Godiva Statueと呼ばれている。その後、この騎馬像の上空にテント式の天蓋en:canopy)が設置されたが、市民の評判が悪いこともあり、2008年10月に撤去された[34]。さらにその後、騎馬像を囲むフェンスも撤去された。この像は、1998年4月15日に、イングランド遺産のグレードⅡ* に指定されている[35]

騎馬像の台座の側面にはアルフレッド・テニスンによる次の詩が刻まれている。

  • 馬の進行方向左側の台座:GODIVA/SHE RODE FORTH CLOTHED ON WITH/CHASTITY THE DEEP AIR LISTEN D ROUND/HER AS SHE RODE AND ALL THE LOW WIND/HARDLY BREATHED FOR FEAR/Tennyson
  • 馬の進行方向右側の台座:GODIVA/THEN SHE RODE BACK CLOTHED ON WITH/CHASTITY SHE TOOK THE TAX AWAY AND/BUILT HERSELF AN EVERLASTING NAME/Tennyson

時代別と撮影方向別のゴダイヴァ夫人の騎馬像の写真については、ウィキメディアコモンズMedia in category "Lady Godiva (by William Reid Dick)" Wikimedia Commons を参照のこと。

コヴェントリーのブロードゲイトハウス(市庁舎)の塔に設置されているゴダイヴァ時計
ゴダイヴァ時計の詳細 ピーピング・トムが見下ろしている。

ゴダイヴァ時計

[編集]

騎馬像の南に当たるBroadgate House(市庁舎)の塔には、1953年に設置されたゴダイヴァ時計(Godiva Clock)という仕掛け時計がある。毎正時に白馬に跨がったゴダイヴァ夫人の人形が現れ、それを上からピーピング・トムが覗くという仕掛けになっている[36][37]。ゴダイヴァ夫人の騎馬像は当初はこのゴダイヴァ時計に向き合うように(南向きに)設置されていたが、1990年に90度方角が変えられ、西を向くようになった[33]

ゴダイヴァ時計が動く様子

ギャラリー

[編集]

その他

[編集]
  • 欧米では、増税反対などの街頭抗議デモを行う際に、ゴダイヴァ夫人の故事にならい、スキンカラーのボディスーツをまとった女性が白馬にまたがり、ねり歩くパフォーマンスを行うことがある[38][39][40]
  • SF作家ロバート・A・ハインラインは、「効果的なパフォーマンス」「印象的な出来事」の例として、ゴダイヴァ夫人の故事を頻繁に引用している。
  • ノースロップ・グラマンF-14トムキャット戦闘機偵察機バージョン(偵察ポッドを搭載)は、ニックネームがピーピング・トムである。
  • クイーンの楽曲「ドント・ストップ・ミー・ナウ」の歌詞では、競技用自動車について、ゴダイヴァ夫人のように駆け抜けると表現されている。

脚注

[編集]
  1. ^ Ingulph's (?) Historia Croylandensis (she was 'tunc fœminarum pulcherrima sic corde sanctissima"), Hales & Furnival 編 "Leoffricus"序、p.473 で引用; "a most beautiful and devout lady," (Gentleman's Mag. Lib. 4, p.110)
  2. ^ 「GODIVA」の名の由来 ゴディバのエピソード
  3. ^ DNB 1890 (Dict. Nat. Biog.), vol.22, .36 "the simplest and oldest form.. by Roger of Wendover, whose Flores.."
  4. ^ Giles 1899 英訳, p.314-5 より重訳
  5. ^ Matthew Paris, Yonge1853編訳
  6. ^ Hales & Furnivall 1868, 第3巻, p.473-
  7. ^ 匿名 Collection of Old Ballads (1723-5)にも異本が収録。
  8. ^ Hales & Furnivall 1868, 第3巻, p.473-, "wherefore to all the officers of all the towne she sent .. that on the day that shee shold ryde, all persons through the towne / shold keepe their houses, & shutt their dore, & clap their windowes downe," 53-60 行。
  9. ^ DNB 1890, "This ballad first mention the order.."
  10. ^ W.Reader 1826 vol.96, p.22 "yet no one, including the late Sir W. Dugdale, even hint at the circumstance in question. We may safely, therefore, appropriate it to the reign of Charles II."
  11. ^ W.Reader 1826 vol.96, p.22, "In 1677 .. the Procession at the great Fair was first instituted."
  12. ^ Hartland, E. Sydney, Science of Fairy Tales, (1890), p.75 コヴェントリー市の年代記の写本より抜粋:"31 May 1678, being the great Fair at Coventry.. and Ja. Swinnertons Son represented Lady Godiva"
  13. ^ DNB 1890, "That one person disobeyed the order .. first stated by Rapin (1732)... Pennant (Journey from Chester to London)(1782) calls him 'a certain taylor.' The name 'peeping Tom' occurs in the city accounts on 11 June 1773 when a new wig and fresh paint were supplied for his effigy."
  14. ^ Paul M. Rapin de Thoyras 著, Thomas, N. Tindal 英訳 "The History of England" Vol. I, 2nd ed. 1732年版 p.135, "Notwithstanding, there was one, who could not forebear giving a look.."
  15. ^ Pennant, Thomas, "The Journey from Chester to London" 1811年版 p.190, "the curiousity of a certain taylor overcoming his fear, he took a single peep"(この版では、すでにこのころ絹ではなく綿衣がつかわれている、と脚注する)
  16. ^ DNB 1890, "Poole quotes from the 'Gentleman's Magazine' a letter from Canon Seward (ca. before 1700) which makes the peeper 'a groom of the countess,' named Action (?Actæon)"
  17. ^ Leman Rede, "Peeping Tom", The New Monthly Magazine and Humorist, (1838), Part the First, p. 115: "Tradition adds, that the people resolved to close up their houses,.. but.. that one, whose name has not survived, looked forth upon her, and was strcken blind, as some affirm, by the vengeance of Heaven; or, according to others, was deprived of sight by the inhabitants." (引用だが、典拠を"a modern writer" としか明かさない)
  18. ^ Amazon.co.jp → 「なか見!検索」をクリック → Chaper1 Godgifu of Mercia pp.7-8 Yet in pre-Conquest England, the name God-gifu was a typical compound meaning "good gift," pronounced with the primary accent on the first syllable(goad-yivu).
  19. ^ DNB 1890 (Dict. Nat. Biog.)
  20. ^ Roger of Wendover, 前述(西暦1057年の記述), Giles 1899 英訳, p.314 "Leofric earl of Chester.. was buried in the monastery he had founded at Coventy...by the advice of his wife the noble countess Godiva."
  21. ^ Dugdale, William (1686年没) , Monasticon Anglicanum (Bohn, 1846), Vol. III, p.177。"1043年"の記述は, 付録 Num. IV のアレクサンダー教皇勅書にみえ、また、建立勅令の異本では 1044年, 1051年]
  22. ^ 1043年の勅令の数々の異本は Anglo-Saxons.net, S 1226に提示。ただし真贋については、疑わしい('spurious'と表記される)
  23. ^ ウスターの勅令には[「レオフリクとその妻」とのみ表記。Anglo-Saxons.net, S 1232
  24. ^ ストウ勅令では"Godgife" と表記。Anglo-Saxons.net, S 1478. Thorpe (現代英語訳付) p.320
  25. ^ The Chronicle of John of Worcester ed. and trans. R.R. Darlington, P. McGurk and J. Bray(Clarendon Press: Oxford 1995), pp.582-583
  26. ^ K.S.B.Keats-Rohan, Domesday People: A prosopography of persons occurring in English documents 1066-1166, vol.1: Domesday (Boydell Press: Woodbridge, Suffolk 1999), p.218
  27. ^ "A History of Penn and its People", Wolverhampton History & Heritage Society
  28. ^ [1] Coe, Charles. "Lady Godiva: The Naked Truth." Harvard Magazine. July-Aug. 2003 (July 28, 2008) 第2段落目 But as it happens, most medieval scholars agree the ride never took place.
  29. ^ [2] Lady Godiva: The naked truth, BBC News, 24 August, 2001, 15:31 GMT 第13段落目 Regrettably, though, the story of Lady Godiva's ride is almost certainly a myth. 
  30. ^ [3] Why did Lady Godiva take a naked horse ride?  第2ページの最終段落 Too bad it's not true. On the next page, we'll take a closer look at the story and see why historians have discounted it. 第3ページの第5段落目 Therefore, Godiva's ride never happened because there simply was no need for her to prove anything.  
  31. ^ Lady Godiva features on Coventry's first official flag 2018年末に制定された。
  32. ^ ART IN COVENTRY – SCULPTURE OF THE DAY – LADY GODIVA. MUSIC AND ART IN COVENTRY, 2015-02-05
  33. ^ a b Coventry HER HeritageGateway
  34. ^ “Godiva statue canopy comes down”. BBC News Online (BBC). (29 October 2008). オリジナルの1 November 2008時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081101132321/http://news.bbc.co.uk/1/hi/england/coventry_warwickshire/7697036.stm 30 October 2008閲覧。 
  35. ^ LADY GODIVA STATUE, BROADGATE Historic England
  36. ^ The Godiva Clock Coventry Society
  37. ^ Lady Godiva clock, Coventry 18 Jan 2016 
  38. ^ [4] Businesswoman in Godiva-style protest, BBC News, Thursday 19 September, 2002
  39. ^ [5] A modern-day Lady Godiva to re-enact tax protest ride, DESERET NEWS April 14-15, 1983
  40. ^ Lady Godiva Rides Again 2010-06-18

参考文献

[編集]

一次資料

[編集]

二次資料

[編集]
  • Daniel Donoghue (2002-12). Lady Godiva: A Literary History of the Legend. Springer. ISBN 978-1405100472 
  • (anonymous), The history of lady Godiva and Peeping Tom of Coventry, with a description, Coventry, J. W. Mills, sixth ed., sans date. books.google(トム像は蝶ネクタイをしている)
  • Dugdale, William, Antiquities of Warwickshire (1656)、p.66 Internet Archive
  • Hartland, E. Sydney, "Peeping Tom and Lady Godiva," Folk-Lore, I, 2 (June, 1890) 217-226 (books.google)
  • 英国人名事典
  • ピーピング・トムの木像のスケッチ
    • (再版/絵カット無)The Gentleman's magazine library 4 (1885) (1731-1868年の記事を主題別に分類), p.111

外部リンク

[編集]