「ウィリアム・オーガスタス (カンバーランド公)」の版間の差分
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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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[[ファイル:Cumberland-Reynolds.jpg|thumb|カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス。[[ジョシュア・レノルズ|レノルズ]]画]] |
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| 人名 = ウィリアム・オーガスタス |
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カンバーランド公爵'''ウィリアム・オーガスタス'''(The Prince William Augustus, Duke of Cumberland、[[1721年]][[4月15日]] - [[1765年]][[10月31日]])は、[[グレートブリテン王国|イギリス]]の王族・軍人。イギリス王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]と王妃[[キャロライン・オブ・アーンズバック|キャロライン]]の3男。[[ホレーショ・ネルソン|ネルソン]]提督や[[ジェームズ・ウルフ]]らと共に、イギリスにおいて最も有名な軍指揮官の1人である。[[サラブレッド]]の[[三大始祖|始祖]]、[[ヘロド (競走馬)|ヘロド]]及び[[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]の生産者としても知られている。 |
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| 各国語表記 = William Augustus |
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| 家名・爵位 =ハノーヴァー家 |
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| 画像 = Cumberland-Reynolds.jpg|200px |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = カンバーランド公肖像画 サー・[[ジョシュア・レノルズ]]作 |
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| 続柄 = |
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| 称号 = カンバーランド公爵 |
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| 全名 = |
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| 身位 =公爵 |
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| 敬称 =His Royal Highness, The Duke of Cumberland |
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| お印 = |
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| 出生日 = [[1721年]][[4月26日]] |
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| 生地 = [[ロンドン]]、[[レスターハウス]] |
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| 死亡日 = [[1765年]][[10月31日]] |
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| 没地 = ロンドン |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = [[ウエストミンスター寺院]] |
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| 配偶者1 = |
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| 配偶者2 = |
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| 配偶者3 = |
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| 配偶者4 = |
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| 配偶者5 = |
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| 配偶者6 = |
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| 配偶者7 = |
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| 配偶者8 = |
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| 配偶者9 = |
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| 配偶者10 = |
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| 子女 = |
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| 父親 = [[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]] |
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| 母親 = [[カロリーネ・フォン・アンスバッハ]] |
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| 役職 = イギリス陸軍将校他 |
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'''カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス'''([[1721年]][[4月26日]]-[[1765年]][[10月31日]])は、[[イギリス]]の[[王族]]であり[[軍人]]である。イギリス国王[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]と[[カロリーネ・フォン・アンスバッハ]]の三男として生まれ、[[1726年]]に[[カンバーランド公爵]]に叙された。一般には、[[ジャコバイト]]蜂起による[[1746年]]の[[カロデンの戦い]]の鎮圧で有名であり、「屠殺者カンバーランド」という渾名でも知られている。カロデンの戦いの後の軍事経歴は華麗ではあったがことごとく失敗に終わり、[[1757年]]の[[クローステル・ツェーヴェン協定]]の後は、戦場に赴くことはなく、政治と[[競馬]]に関心を向けた。 |
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==幼年時代== |
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[[File:William Augustus, Duke of Cumberland by Charles Jervas.jpg|thumb|150px|left|幼少時のカンバーランド]] |
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[[ロンドン]]で生まれる。4歳で[[カンバーランド公]]の称号を与えられ、その後オルダニー男爵、トレメイトン子爵、ケニングトン伯爵、バークハムステッド侯爵と次々に叙されていった。幼少期から武勇にすぐれ、将来を嘱望されていた。ジョージ2世はウィリアム・オーガスタスを溺愛し、長男である王太子[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]([[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の父)以上の遺産を残そうと考えていたともいわれる。[[ハンプトン・コート宮殿]]のなかにウィリアムのために作られた部屋もあった。 |
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ウィリアムは[[レスターフィールズ]](現在の[[ウェストミンスター]]、[[レスター・スクウェア]])の[[レスターハウス]]で生まれた。ここは祖父である[[ジョージ1世]]が、イギリス国王として即位した後に、彼の両親が移り住んだ場所であった<ref name=odnb>{{cite web|url=http://www.oxforddnb.com/view/article/29455|title=Prince William, Duke of Cumberland|publisher=Oxford Dictionary of National Biography|accessdate=5 May 2012}}</ref>。ウィリアムには[[名親]]には[[プロシア]]の国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]や[[ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー|ゾフィー王妃]](ウィリアムの父方のおば)がいたが、王や王妃自身ではなく、代理の人物が務めたといわれる<ref>{{cite web|url=http://users.uniserve.com/~canyon/christenings.htm#Christenings |title=Yvonne's Royalty Home Page: Royal Christenings |publisher=Users.uniserve.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。1726年7月27日<ref name="creation">{{cite web|url=http://mypage.uniserve.ca/~canyon/peerage_titles.htm#Holders |title=Yvonne's Royalty: Peerage |publisher=Mypage.uniserve.ca |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>、わずか4歳にして、ウィリアムはカンバーランド公爵、[[ハートフォード・カウンティ]]の[[バークハムステッド侯爵]]、[[サリー (イングランド)|サリー]]の[[ケニングトン伯爵]]、[[コーンウォール・カウンティ]]の[[トレメイトン子爵]]、そして[[オルダニー島]]の男爵に叙された<ref name="gaz">{{LondonGazette|issue=6494|supp=|startpage=1|date=12 July 1726|accessdate=5 May 2012}}</ref>。 |
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{{要出典範囲|ジョージ2世はカンバーランドを溺愛し、長男である王太子[[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]([[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の父)以上に遺産を残そうと考えていたともいわれる|date=2012年9月}}。幼い王子は質の高い教育を受けた。母カロリーネが家庭教師として[[エドモンド・ハレー]]を雇ったのである<ref>Van der Kiste, p. 46</ref>。他の家庭教師(時に応じて、カンバーランドの代理人でもあった)としては、母親お気に入りの[[アンドリュー・フォンテーヌ]]がいた<ref>{{LondonGazette|issue=6382|supp=|startpage=2|date=15 June 1725|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[ハンプトン・コート宮殿]]には、[[ウィリアム・ケント]]によって、彼のために広く立派な部屋が作られた<ref>Thurley p. 279</ref>。 |
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[[海軍本部 (イギリス)|海軍本部]]へ補され、[[1740年]]には[[ジェンキンスの耳の戦争]]などの戦闘に参加した。しかし海軍はウィリアムの性分に合っておらず、ほどなく陸軍に転向した。ウィリアムは陸軍でまたたくうちに戦果を積み上げ、特に[[デッティンゲンの戦い]]([[オーストリア継承戦争]]、[[1743年]])では、自らも負傷しながらも華々しい戦果をあげ、一躍英雄となった。 |
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長兄の王太子フレデリック・ルイスは、カンバーランドと国王の所領を分け合うことを提案し、フレデリックはイギリス、カンバーランドは[[ハノーファー王国|ハノーファー]]をと持ちかけたが、結局無に帰した<ref>Van der Kiste, p. 150 (1736 plan suggested by Prince of Wales)</ref>。 |
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カンバーランドは子供のころから勇敢であり、また肉体的な能力にすぐれていて、それが両親のお気に入りだった<ref>Van der Kiste, p. 111</ref>。4歳の時に[[第二歩兵近衛連隊]]に登録され、[[バス勲章]]を授与された<ref name=Kiste78>Van der Kiste, p. 78</ref>。国王夫妻は、ウィリアムを[[海軍本部]]に入れるつもりだった。[[1740年]]、カンバーランドは志願兵として[[ジョン・ノリス]]指揮下の艦隊で、{{要出典範囲|1740年にはジェンキンスの耳の戦争などの戦闘に参加した|date=2012年9月}}が、すぐに[[イギリス海軍|海軍]]に嫌気がさし、代わりに、[[1741年]][[2月20日]]に[[グレナディアガーズ|第一近衛歩兵連隊]]の[[大佐]]の地位を約束された<ref>{{LondonGazette|issue=8094|supp=|startpage=2|date=16 February 1741|accessdate=5 May 2012}}</ref>。 |
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ウィリアムは指揮官としてよりも、戦士としての能力に優れていた。1745年の[[フォントノワの戦い (1745年)|フォントノワの戦い]]では[[モーリス・ド・サックス|サックス伯]]麾下のフランス軍に叩きのめされたが、ウィリアム自身は八面六臂の活躍でさらに名を挙げた。翌1746年に[[ジャコバイト]]の反乱が起こると本国に呼び戻され、[[カロデンの戦い]]でジャコバイト軍を粉砕した。その後オーガスタス砦を築き、ジャコバイトを根こそぎ刈り取る掃討を始めた。その厳しさから「屠殺屋」(Butcher)と恐れられ、長きにわたって[[スコットランド]]人の怨恨の的となった。 |
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==オーストリア継承戦争== |
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[[1747年]]、再び大陸にわたりオランダで指揮をとったが、またもサックス伯に敗れるなど精彩を欠いた。その後本国に帰り、名誉挽回の機会を与えられないまま1765年に世を去った。カンバーランド公位は消滅、後に甥の[[ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)|ヘンリー・フレデリック]]が新設の公爵位としてカンバーランド公になった。 |
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[[Image:Battle-of-Fontenoy.jpg|thumb|200px|right|カンバーランドが初めて指揮を執ったフォントノワの戦い]] |
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[[1742年]]、カンバーランドは陸軍[[少将]]となり、その翌年、初めて自らが戦う戦場を目の当たりにした<ref name=odnb/>。父ジョージ2世と勇猛な息子(martial boy)は[[デッティンゲンの戦い]]の勝利を分かち合った<ref>{{LondonGazette|issue=8286|supp=|startpage=2|date=20 December 1743|accessdate=5 May 2012}}</ref>。カンバーランドはこの戦いで、脚に[[マスケット銃]]によるけがを負った<ref name=odnb/>が、この戦いの後、陸軍[[中将]]に就任した<ref>{{LondonGazette|issue=8240|supp=|startpage=4|date=12 July 1743|accessdate=5 May 2012}}</ref>。 |
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[[File:MarechalMauricedeSaxedeLaTour.jpg|thumb|120px|left|フランス軍元帥モーリス・ド・サクス]] |
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[[1745年]]、カンバーランドはイギリス陸軍総司令官の称号を得て、経験がなかったにもかかわらず、[[フランドル]]でイギリスとハノーヴァー、[[オーストリア]]、[[オランダ]]連合軍の総指揮を執った。当初、カンバーランドは、フランスに攻撃を仕掛け、[[パリ]]攻略に持って行く流れを作りたがったが、顧問の軍人たちから、敵軍が圧倒的な数的優勢に立っているため、不可能であると説得された<ref>Browning p. 206</ref>。 |
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フランス側の意図が、[[トゥルネー]]を取ることであることが明らかになり、カンバーランドは、[[モーリス・ド・サクス]][[元帥]]が包囲しているこの町の救援に向かった<ref>Browning p. 212</ref>。[[1745年]][[5月11日]]の[[フォントノワ]]の戦いの結果、イギリス、オランダ、オーストリア連合軍はフランスに敗れた。サクスはイギリス軍相手に戦場を選び、近くの森に狙撃兵を多数配備した。カンバーランドは、作戦計画を立てた時点で、森に兵が隠れているという脅威を無視しており、代わりにフォントノワの包囲に専心して、近くにいたフランス軍の主軍に攻撃を仕掛けた。フランスの拠点への攻撃の集中で、連合軍が勝つだろうと多くが思ったにもかかわらず、森から狙撃兵を追わなかったこと、そして、フォントノワを陥落させようとするオランダ軍のために、カンバーランドの兵が撤退せざるを得なくなったのは失敗だった。この戦いの後、カンバーランドはしばしば戦術を批判された、特に森を押さえておかなかったことが批判の対象になった<ref>Browning pp. 207-213</ref>。この戦いが終わらないうちに、カンバーランドは[[ブリュッセル]]に退却せざるを得なくなり、[[ゲント]]、[[ブルージュ]]、[[オーステンデ]]の陥落を阻止することは不可能になった<ref>Browning p. 219</ref>。 |
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[[ファイル:Blanc Coursier Tabard.jpg|thumb|200px|The tabard of Blanc Coursier Herald, Cumberland's private officer of arms]] |
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晩年は失意の中[[競走馬]]生産に力を入れ、1750年からウィンザーで馬産を始めた。[[ヘロド (競走馬)|ヘロド]]、[[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]といった[[サラブレッド]]前史における最重要とも言える名馬を送り出した事が最晩年の功績である。ウィリアムをサラブレッド最大の貢献者と言う者もいる。 |
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==ジャコバイトの反乱== |
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== 人物と伝記 == |
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カンバーランドは、当時のイギリスの将軍では主導的立場にあり、1745年の[[ジャコバイト]]蜂起で、[[チャールズ・エドワード・ステュアート]](若王位僭称者)の王位奪取を断固阻止する任務を請け負った。カンバーランドの就任は人望を集め、国民と部隊との士気を高めた<ref>Longmate p. 155</ref>。 |
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ウィリアムは勇猛であるが思慮が足りず、血の気の多い人物であったと伝えられる。そのため指揮する部隊が小さいうちは武勲をかさねたが、総大将として戦闘に当たると、敵方の奸計にはまって敗走を余儀なくされる場面が多かった。このような短所もあってウィリアムは死後も名を残し、彼の伝記が[[1766年]]および[[1876年]]に出版された。さらに[[2005年]]には、「'''イギリス史上最悪の人物賞'''」(Worst Britons, [[英国放送協会|BBC]])の[[18世紀]]部門賞を「受賞」した。 |
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フランドルから召喚されて以来、カンバーランドはこの反乱を抑えるための準備を続けてきた、ジャコバイト軍は[[イングランド]]に向けて南進しており、イングランドのジャコバイトが蜂起して彼らに合流することを望んでいた。しかし[[マンチェスター連隊]]のような限られた支援しか受けられず、ジャコバイト軍は[[スコットランド]]に撤退した<ref name=pollard>Pollard p.41-42</ref>。 |
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カンバーランドは{{仮リンク|ジョン・リゴンアー|en|John Ligonier, 1st Earl Ligonier}}指揮下のミッドランド軍に加わり、敵の追跡を始めた。ジャコバイト軍が[[ダービー]]から北へと撤退をはじめたからである<ref name=odnb/>。1745年[[12月]]、[[ペンリス]]に着いたところで、ミッドランド軍の先方部隊が[[クリフトン・ムーア]]に撃退され、カンバーランドは撤退中のスコットランド軍に追いつく望みはないことに気付いた<ref>{{cite web|url=http://www.thesonsofscotland.co.uk/thebattleofcliftonmoor1745.htm|title=Clifton skirmish |publisher=Paisley Tartan Army|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[カーライル]]を取り戻したのち、カンバーランドはロンドンに召還された。ロンドンでは、フランスの侵略を想定しての対戦の準備が進められていた<ref name=odnb/> 。1746年1月の、カンバーランドの代わりに指揮を執った[[ヘンリー・ハウリー]]の敗北は、イングランド国民の恐怖を掻き立てた。この時、雨あられと降りかかる[[拳銃]]の弾の中で、80人の[[竜騎兵]]が倒れて行った。これが[[フォルカーク・ミューアの戦い]]である<ref>Tomasson, p 119</ref>。 |
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===カロデンの戦い=== |
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[[File:Cumberland's Stone - geograph.org.uk - 976487.jpg|thumb|180px|right|カンバーランド・ストーン。カンバーランドがこの上で、カロデンの戦いの成り行きを見守ったと言われる。]] |
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{{Main|カロデンの戦い}} |
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[[1746年]][[1月30日]]にカンバーランドは[[エディンバラ]]に着き、すぐにチャールズの探索に入った。[[アバディーン]]まで遠回りをして<ref>{{LondonGazette|issue=8521|supp=|startpage=2|date=22 March 1746|accessdate=5 May 2012}}</ref>、次の戦闘で、彼の指揮下となる、装備を整えた部隊の鍛錬に時間を費やした。次の交戦はおそらく避けられなかった。カンバーランドの鍛錬は、まず、射程内に敵が入るまで射撃を行わないこと、一度射撃すると、その次は右側の敵を[[銃剣]]で突くことだった。こうすることで、相手は自分が掲げた右腕の下に入るからだった<ref>Bellesiles, p.145</ref>。 |
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1746年の[[4月8日]]、カンバーランドはアバディーンを出発して[[インヴァネス]]に向かい、[[4月16日]]に天王山ともいうべきカロデンの戦いを戦った。これはチャールズが完敗した戦いだった<ref name=pollard/>。カンバーランドは兵たちに、ジャコバイトの反逆者の残党に対して、容赦ない攻撃を加えるように命令した。このジャコバイト軍では、フランス軍の兵や、イギリスや[[アイルランド]]生まれの者も正規な兵士とされていた)カンバーランドの軍は戦場を横切り、まだ息のある敵兵を突いて去って行った<ref name=thompson>Thompson, p.519</ref>。カンバーランドはまた、足元に横たわっている負傷兵が反乱軍に加わっていたことを知り、すぐに[[少佐]]にその者を撃つように命じた。しかし少佐は、その命令をこばみ、その兵士に任務を果たすように命じた<ref name=thompson/>。 |
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その後イギリス軍は、ハイランドのジャコバイトが支配する地域でのいわゆる「講和」に乗り出した。イギリス軍は、反乱軍はみな殺され、兵士でないものも殺されたと信じていた。反乱軍に絡んだ集落は焼かれ、[[家畜]]は大々的に没収された<ref>Plank, p.116</ref>。100以上の反逆者が[[絞首刑]]にされた<ref>Clee, p.42</ref>。女たちは投獄され、多くの人間がぞろぞろと、裁判のため船でロンドンに出向いたが、多くの者が、この8か月に及ぶ旅の途中で死んだ<ref name=thompson/>。 |
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===屠殺者カンバーランド=== |
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[[File:Jean-Etienne Liotard 17.jpg|thumb|120px|right|王太子フレデリック・ルイス]] |
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「屠殺者」は、政治がらみの皮肉として、ロンドンで最初に記録に残されたものである<ref>{{cite web|url=http://www.fullbooks.com/The-Letters-of-Horace-Walpole-Volume15.html |title=The Letters of Horace Walpole, Volume 1 by Horace Walpole Part 15 out of 18 |publisher=Fullbooks.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref><ref name=Britannica>{{cite web|author=Encyclopædia Britannica |url=http://www.britannica.com/eb/article-9028181/William-Augustus-duke-of-Cumberland |title=Encyclopadia Britannica |publisher=Britannica.com |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。兄で王太子のフレデリック・ルイスは、父王の代理で従軍する許可が下りておらず、カンバーランドへの悪意のある攻撃を奨励しているようにも見えた。カンバーランドによって、すぐに戦争が終わったと言っても過言ではない。スコットランド住民の大部分、そのスコットランド人以外のイギリス国民、そして植民地の住人が、ジャコバイトの威嚇からの救世主として彼を持てはやした。その一例として、カンバーランドは[[グラスゴー大学]]から、名誉学位を授与されていた<ref name=Britannica/>。 |
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カンバーランドは野営地にかなり厳しい規律を設けていた。彼は任務と判断したことを実践する際、兵をえこひいきせずに使った。そうでありながら、彼の注意を引くような特殊な場合には、温情的に自らの影響力を行使した。何年か後、[[ジェームズ・ウルフ]]がカンバーランドについてこう述べている。「公はいつも高貴で寛大な人物である」カンバーランドの勝利の効果は、年間2万5千ポンドの支出がなされることが決定したこと、さらにその上王室費からも経費が出ることが認められた<ref>W. A. Speck, "[http://www.oxforddnb.com/view/article/29455 William Augustus, Prince, duke of Cumberland (1721?1765)]", ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, Sept 2004; online edn, Jan 2008, accessed 16 Oct 2009.</ref>。またウルフやコンウェイには、カンバーランドがパトロンとなっていた<ref name=berkshirehistory>http://www.berkshirehistory.com/bios/cumberland.html RBH Biography: Prince William Augustus,Duke of Cumberland (1721-1765)]</ref>。この勝利の、神への感謝の祈りが[[セントポール寺院]]で捧げられ、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル]]が、特にカンバーランドのために作曲した[[ユダス・マカベウス]](征服せし英雄)が初演された<ref>Speck, p. 170.</ref>。 |
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===敗北と幼君の補佐=== |
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{{Main|ローフェルドの戦い}} |
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1746年の[[フランドル方面作戦]]には、カンバーランドは参戦しなかった。この時フランスはブリュッセル包囲へ大きく前進し、{{仮リンク|ロクーの戦い|en|Battle of Rocoux}}で連合軍を破った。翌[[1747年]]、カンバーランドは大陸へ戻って、連勝を続けているサクスにもう一度戦いを挑み、1747年[[7月2日]]、[[ローフェルドの戦い]](ヴァルの戦い)で大敗を喫した。ここは[[マーストリヒト]]の近くであった<ref>Stanhope, p. 334</ref> 。この戦いと[[ベルヘン・オプ・ゾームの戦い]]で、両軍は交渉の席に着き、[[1748年]]に[[アーヘンの和約]]が結ばれて、カンバーランドは帰国した<ref>Sosin, p.516-535</ref>。 |
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{{要出典範囲|カンバーランドは指揮官としてよりも、戦士としての能力に優れていた。は勇猛であるが思慮が足りず、血の気の多い人物であったと伝えられる。そのため指揮する部隊が小さいうちは武勲をかさねたが、総大将として戦闘に当たると、敵方の奸計にはまって敗走を余儀なくされる場面が多かった|date=2012年9月}}。 |
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カロデンの戦い以降、カンバーランドの人気は下り坂となって行った。これが政治で名を成すことへの妨げになった。フレデリック・ルイスの死によって、その王子であるジョージが次の国王に決まり、カンバーランドは、[[摂政]]の地位が可能であったにもかかわらず、その地位に自分がふさわしいと主張することができなかった。妥協策として、摂政の地位は、王太子未亡人の[[オーガスタ・オブ・サクス=ゴータ|オーガスタ]]に付与された。オーガスタはカンバーランドを敵とみなしていたが、彼女の権力は大きいものではなく、12人から成る[[委員会]]の助言を受けることになった。その委員会の筆頭委員はカンバーランドだった<ref>Van der Kiste, p. 195</ref>。 |
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==七年戦争== |
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{{Main|ハノーファーの侵略 (1757年)}} |
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[[File:Elderpitt.jpg|thumb|150px|left|ウィリアム・ピット]] |
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[[1757年]]に七年戦争が勃発し、カンバーランドは偵察軍(Army of Observation)の指揮官となった。これはイギリスが[[ドイツ]]兵を雇って作った軍で、フランスの攻撃からハノーヴァーの軍を守る目的があった<ref>Rolt, p.498</ref>。1757年[[7月26日]]、[[ハーメルン]]近くの[[ハステンベックの戦い]]で、カンバーランドの軍は{{仮リンク|デストレ公爵ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエ|en|Louis Charles César Le Tellier}}の特別部隊に敗北した。戦闘の終盤に向けてはカンバーランドに有利に展開したものの、軍は退却を始めた。射程に入るまで敵を撃つなという規律は崩壊し、軍勢はばらばらになって北を目指した。カンバーランドは海軍が兵員と物資を持ってきて、それによって再集合と反撃が望めると期待したが、イギリス軍はカンバーランドに支援をする代わりに、{{仮リンク|ロシュフォールの襲撃|en|Raid on Rochefort}}の準備に入っていた。その軍が、カンバーランドの支援に派遣されるべきという意見があったのに、それは実現しなかったのである<ref>Anderson p.177</ref>。 |
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1757年の[[9月]]までに、カンバーランドとその軍勢は、[[北海]]沿岸の[[スタード]]の城塞に退いた。国王ジョージ2世は、カンバーランドに、単独講和のために任意で使える軍をよこした。[[ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ]]指揮下のフランスの包囲を受けたカンバーランドは、[[クローステル・ツェーヴェン協定]]に同意した。1757年[[9月8日]]のツェーヴェン[[修道院]]で、カンバーランド軍は解散させられることになり、ハノーヴァー領の大部分はフランスに占領された<ref>Anderson p. 211</ref>。 |
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ロンドンへ戻ったカンバーランドは、講和への交渉を進める許可を事前に得ていたにもかかわらず、父王から手ひどい待遇を受けた。カンバーランドとの謁見で、ジョージ2世は「この息子は私の名を辱め、自らを貶めた」と発言した<ref>Anderson p. 212; Van der Kiste, p. 206</ref>。これに対してカンバーランドは、軍やすべての公職から身を引き、私人として生活することにした<ref>Van der Kiste, p. 207</ref>。 |
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また、1757年にヨーロッパに出陣する際、カンバーランドは[[ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵)|ウィリアム・ピット]]と対立しており、戦場に行く見返りとして、ピットを解任してほしいと父王に要請した<ref name=berkshirehistory/>。ピットは一旦退いたが<ref>[http://www.britannica.com/EBchecked/topic/146401/William-Augustus-duke-of-Cumberland William Augustus, duke of Cumberland (British general)]</ref>、その後復帰した<ref>Borneman, Walter R. THE FRENCH AND INDIAN WAR, New York:Harper Collins Publishers, 2006, p.73</ref>。その後、カンバーランドの敗北により、ピットは自由に戦略を立てることができるようになった<ref name=Borneman101>Borneman, p.101</ref>。ジョージ2世もピットの考えを受け入れるようになっていた。ピットはハノーファーより[[北アメリカ]]の植民地を優先させており、カンバーランドが目指したヨーロッパの攻防よりも、はるか上を行く構想をピットは立てていたのだった<ref>Borneman, p.80</ref>。 |
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この時のカンバーランド軍には[[ジェフリー・アマースト]]がいた。アマーストはその後もヨーロッパの戦線にとどまっていたが、[[1758年]]の1月に本国からの指示で[[カナダ]]に出発し、この年の[[7月]]に[[ルイブールの戦い (1758年)|ルイブールの戦い]]でフランス軍を破ることになった<ref name=Borneman101/>。 |
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==晩年== |
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[[File:Eclipse(horse).jpg|thumb|180px|right|カンバーランドが育成した馬の一頭であるエクリプス]] |
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カンバーランドの晩年は、[[1760年]][[10月25日]]のジョージ2世崩御により即位した、甥の[[ジョージ3世]]の治世の始めのころであった。カンバーランドは国王への、最も影響力のある顧問であり、第一次[[チャールズ・ワトソン=ウェントワース (第2代ロッキンガム侯)|ロッキンガム]][[内閣]]の組閣を手助けした<ref name=odnb/>。閣議は[[ウィンザー]]の彼の住居であるカンバーランドロッジ、またはロンドンでの邸宅であるアッパー・グロブスナー・ストリートのいずれかで開かれた<ref name=odnb/>。デッティンゲンでのけがが完治することはなく、肥満体であった<ref name=odnb/>。[[1760年]]の[[8月]]に[[脳卒中]]を起こし<ref>Van der Kiste, p. 212</ref>、[[1765年]]の[[10月31日]]にロンドンの邸宅で死去した<ref name=odnb/>。遺体は[[ウェストミンスター寺院]]の[[ヘンリー七世礼拝堂]]の、[[身廊]](ネーブ)の下に埋葬された<ref>Stanley, p.200</ref>。カンバーランドは未婚であった<ref name=odnb/>。 |
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カンバーランド公位は一旦消滅し、後に甥の[[ヘンリー・フレデリック (カンバーランド公)|ヘンリー・フレデリック]]が、再度設けられたカンバーランド公爵に叙された<ref>[http://www.hereditarytitles.com/Page34.html HRH The duke of Cumberland and Teviotdale]</ref>。 |
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===競走馬の生産=== |
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カンバーランドは[[競走馬]]生産に力を入れ、1750年からウィンザーで馬産を始めた<ref>[http://www.tbheritage.com/Portraits/Herod.html Herod]</ref>。[[ヘロド (競走馬)|ヘロド]]、[[エクリプス (競走馬)|エクリプス]]といった[[サラブレッド]]前史における最重要とも言える名馬を送り出したことはカンバーランドの功績であり、現代競馬に多大な貢献をしたと言える<ref>[http://specialweek.gozaru.jp/horses/herod.html ヘロド]</ref>。 |
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==グレートブリテン王国の称号、栄典そして公式紋== |
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===称号=== |
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*ウィリアム王子殿下<ref name="gaz" /> |
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*カンバーランド公爵殿下<ref name="gaz" /> |
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===栄典=== |
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[[File:Arms of William Augustus, Duke of Cumberland.svg|thumb|150px|right|カンバーランドの公式紋章]] |
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'''グレートブリテン王国の栄典''' |
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*[[ガーター勲爵士]] (1730年)<ref name=odnb/> |
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*[[バス勲爵士]](1725年)<ref name=Kiste78/> |
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*[[枢密顧問官]](1742年)<ref>{{LondonGazette|issue=8119|supp=|startpage=1|date=15 May 1742|accessdate=5 May 2012}}</ref> |
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'''学問関連''' |
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*[[ダブリン大学]][[総長]](1751年-1765年)<ref>{{cite web|url=http://www.tcd.ie/chancellor/former/|title=Former Chancellors|publisher=University of Dublin|accessdate=5 May 2012}}</ref> |
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===公式紋=== |
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1725年[[7月20日]]、君主の孫として、カンバーランドはグレートブリテン王国の[[公式紋]]の使用を許可された。この時の紋章は、銀の地に5つの星、真ん中の星に赤の十字、、それ以外の星は赤のカントン(盾)を背景にしている。[[1727年]][[8月30日]]には、王子の公式紋の使用を許可された。それには星が3つ、中央の星に十字があしらわれている<ref>{{cite web|author=Francois R. Velde |url=http://www.heraldica.org/topics/britain/cadency.htm |title=Marks of Cadency in the British Royal Family |publisher=Heraldica.org |date= |accessdate=2010-06-21}}</ref>。 |
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==伝説== |
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[[Image:CumberlandObelisk.jpg|thumb|120px|right|ウィンザー・グレートパークのオベリスク]] |
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[[ヴァージニア]]の[[プリンス・ウィリアム郡]]は彼の名にちなむ<ref>{{cite web|url=http://capitolwords.org/date/2006/09/29/E1975-2_commemorating-the-275th-anniversary-of-prince-will/|title=Commemorating the 275th anniversary of Prince William County, Virginia|publisher=Sunlight Foundation|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[13植民地|アメリカ植民地]]には、他にもさまざまなところで彼にちなんだ地名があり、[[カンバーランド川]]<ref>{{cite web|url=http://historicalmarkers.photoshelter.com/image/I0000j6uhnukVrCw|title=KY-2045 Naming of the Cumberland River|publisher=Historical markers|accessdate=5 May 2012}}</ref>、[[カンバーランド峡谷]]<ref>{{cite web|url=http://historicalmarkers.photoshelter.com/image/I0000cXU4MXgbB00|title=VA-K1 Cumberland Gap|publisher=Historical markers|accessdate=5 May 2012}}</ref>、[[カンバーランド山脈]]などがある<ref>{{cite web|url=http://www.1911encyclopedia.org/Cumberland_Mountains|title=1911 Classic Encyclopedia|accessdate=5 May 2012}}</ref>。[[2005年]]には、{{仮リンク|BBCヒストリーマガジン|en|BBC History}}の'''イギリス史上最悪の人物賞'''の[[18世紀]]部門賞を「受賞」した<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/1/low/uk/4561624.stm |title='Worst' historical Britons list |publisher=BBC News |date=2005-12-27 |accessdate=2010-06-21}}</ref>。{{要出典範囲|彼の伝記が[[1766年]]および[[1876年]]に出版された|date=2012年9月}}。 |
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[[ウィンザー・グレートパーク]]には、カンバーランドの軍功を記念した[[オベリスク]]がある。このオベリスクにはこう刻まれている。「このオベリスクは国王ジョージ2世の、王子カンバーランド公爵ウィリアムの戦功と父王への謝意を記念するという命令により建立された。この[[銘板]]は国王[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世陛下]]により刻まれた」とある。現地のガイドによると、元々は「カロデン」の地名が入っていたが、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]がカロデンの地名を撤去させたということである<ref>East Berks Ramblers Map, ISBN 978-1-874258-18-6</ref>。 |
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==脚注== |
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{{Reflist}} |
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==参考文献== |
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* {{cite book|last=Bellesiles|first=Michael|title=Arming America: The Origins of a National Gun Culture|publisher=Soft Skull Press|year=2003|isbn=978-1-932360-07-3}} |
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* {{cite book|last=Browning|first=Reed|title=The War of the Austrian Succession|publisher=Palgrave MacMillan|year=1995|isbn=978-0-312-12561-5}} |
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* {{cite book|last=Clee|first=Nicholas|title=Eclipse|publisher=Black Swan|year=2011|isbn=978-0-552-77442-0}} |
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* {{cite book|last=Longmate|first=Norman|title=Island Fortress: The Defence of Great Britain, 1603-1945|publisher=Pimlico|year=2001|isbn=978-0-09-174837-1}} |
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* {{cite book|last=Plank|first=Geoffrey|title=An Unsettled Conquest: The British Campaign Against the Peoples of Acadia|publisher=University of Pennsylvania Press|year=2003|isbn=978-0-8122-1869-5}} |
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* {{cite book|last=Pollard|first=Tony|title=Culloden: The History and Archaeology of the last Clan Battle|publisher=Pen & Sword Military |year=2009|isbn=978-1-84884-020-1}} |
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* {{cite book|last=Sosin|first=Jack|title=Louisburg and the Peace of Aix-la-Chapelle, 1748|publisher=The William and Mary Quarterly, Third Series, Vol. 14, No. 4 |year=1957|isbn=}} |
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* {{cite book|last=Speck|first=William|title=The Butcher: The Duke of Cumberland and the Suppression of the 45|publisher=Welsh Academic Press|year=1995|isbn=978-1-86057-000-1}} |
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* {{cite book|last=Stanhope|first=Phillip|title=History of England from the Peace of Utrecht to the Peace of Versailles: 1713 - 1783: Volume 4 : 1748-1763|publisher=Adamant Media Corporation|year=2002|isbn=978-0-543-67669-6}} |
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* {{cite book|last=Stanley|first=Arthur|title=Historical memorials of Westminster Abbey|publisher=BiblioBazaar|year=2008|isbn=978-0-559-69153-9}} |
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* {{cite book|last=Tomasson|first=Katherine|title=Battles of the '45|publisher=Pan Books|year=1974|isbn=}} |
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* {{Cite book|last=Thompson|first=Arthur|title=The Victoria history of England: from the landing of Julius Caesar, B.C. 54 to the marriage of H.R.H. Albert Edward Prince of Wales A.D. 1863|publisher=Routledge, Warne and Routledge|year=1865}} |
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* {{cite book|last=Thurley|first=Simon|title=Hampton Court: A Social and Architectural History|publisher=Yale University Press|year=2003|isbn=978-0-300-10223-9}} |
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* {{cite book|last=Van der Kiste|first=John|title=George II and Queen Caroline|publisher=Sutton Publishing|year=1997|isbn=0-7509-1321-5}} |
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*{{1911}} |
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==参考図書== |
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* {{cite book|last=Henderson|first=Andrew|title=A Life of the Duke of Cumberland|year=1766}} |
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* {{cite book|last=Maclachlan|first=Campbell|title=William Augustus, Duke of Cumberland|publisher=|year=1876|isbn=}} |
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* {{cite book|last=Whitworth|first=Rex|title=William Augustus Duke of Cumberland: A Life|publisher=Pen & Sword Books Ltd|year=1992|isbn=978-0-85052-354-6}} |
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==外部リンク== |
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*[http://www.highlanderweb.co.uk/culloden/theduke.htm Culloden - The Black Watch] |
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*[http://www.yourphotocard.com/Ascanius/Home.htm Ascanius; or, the Young Adventurer] |
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*{{NRA|P7132}} |
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{{Start box}} |
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{{S-hou|ハノーヴァー家|1721年|4月26日|1765年|10月31日|ヴェルフ|name=ウィリアム・オーガスタス}} |
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{{S-reg|uk}} |
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{{Succession box |
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| title = [[カンバーランド公]] |
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| years = [[1726年]] - [[1765年]] |
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| before = |
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| after = - |
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}} |
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{{S-mil}} |
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| after = |
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{{Succession box |
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| title = [[イギリス]][[陸軍]][[最高指揮官]] |
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| years = [[1745年]] - [[1757年]] |
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| after = [[初代リゴンアー伯爵ジョン・リゴンアー]] |
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|title=[[セントアンドリュース大学]][[総長]] |
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|after=[[9代キヌー伯爵トマス・ヘイ]] |
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}} |
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{{End box}} |
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{{Persondata <!-- Metadata: see [[Wikipedia:Persondata]]. --> |
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| NAME = William Of Cumberland, Duke, Prince |
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| ALTERNATIVE NAMES = |
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| SHORT DESCRIPTION = British Army general |
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| DATE OF BIRTH = 26 April 1721 |
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| PLACE OF BIRTH = [[Leicester House]], [[London]] |
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| DATE OF DEATH = 31 October 1765 |
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| PLACE OF DEATH = [[London]] |
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}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[カンバーランド川]] |
* [[カンバーランド川]] |
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{{DEFAULTSORT:ういりあむ おかすたす かんはあらんとこう}} |
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[[pt:Guilherme, Duque de Cumberland]] |
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[[ro:Prințul William, Duce de Cumberland]] |
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[[ru:Уильям Август, герцог Кумберлендский]] |
[[ru:Уильям Август, герцог Кумберлендский]] |
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[[sv:Prins Vilhelm, hertig av Cumberland]] |
[[sv:Prins Vilhelm, hertig av Cumberland]] |
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[[zh:威廉王子 (坎伯蘭公爵)]] |
2012年9月29日 (土) 16:15時点における版
ウィリアム・オーガスタス William Augustus | |
---|---|
ハノーヴァー家 | |
カンバーランド公肖像画 サー・ジョシュア・レノルズ作 | |
称号 | カンバーランド公爵 |
身位 | 公爵 |
敬称 | His Royal Highness, The Duke of Cumberland |
出生 |
1721年4月26日 ロンドン、レスターハウス |
死去 |
1765年10月31日 ロンドン |
埋葬 | ウエストミンスター寺院 |
父親 | ジョージ2世 |
母親 | カロリーネ・フォン・アンスバッハ |
役職 | イギリス陸軍将校他 |
カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス(1721年4月26日-1765年10月31日)は、イギリスの王族であり軍人である。イギリス国王ジョージ2世とカロリーネ・フォン・アンスバッハの三男として生まれ、1726年にカンバーランド公爵に叙された。一般には、ジャコバイト蜂起による1746年のカロデンの戦いの鎮圧で有名であり、「屠殺者カンバーランド」という渾名でも知られている。カロデンの戦いの後の軍事経歴は華麗ではあったがことごとく失敗に終わり、1757年のクローステル・ツェーヴェン協定の後は、戦場に赴くことはなく、政治と競馬に関心を向けた。
幼年時代
ウィリアムはレスターフィールズ(現在のウェストミンスター、レスター・スクウェア)のレスターハウスで生まれた。ここは祖父であるジョージ1世が、イギリス国王として即位した後に、彼の両親が移り住んだ場所であった[1]。ウィリアムには名親にはプロシアの国王フリードリヒ1世やゾフィー王妃(ウィリアムの父方のおば)がいたが、王や王妃自身ではなく、代理の人物が務めたといわれる[2]。1726年7月27日[3]、わずか4歳にして、ウィリアムはカンバーランド公爵、ハートフォード・カウンティのバークハムステッド侯爵、サリーのケニングトン伯爵、コーンウォール・カウンティのトレメイトン子爵、そしてオルダニー島の男爵に叙された[4]。
ジョージ2世はカンバーランドを溺愛し、長男である王太子フレデリック・ルイス(ジョージ3世の父)以上に遺産を残そうと考えていたともいわれる[要出典]。幼い王子は質の高い教育を受けた。母カロリーネが家庭教師としてエドモンド・ハレーを雇ったのである[5]。他の家庭教師(時に応じて、カンバーランドの代理人でもあった)としては、母親お気に入りのアンドリュー・フォンテーヌがいた[6]。ハンプトン・コート宮殿には、ウィリアム・ケントによって、彼のために広く立派な部屋が作られた[7]。 長兄の王太子フレデリック・ルイスは、カンバーランドと国王の所領を分け合うことを提案し、フレデリックはイギリス、カンバーランドはハノーファーをと持ちかけたが、結局無に帰した[8]。
カンバーランドは子供のころから勇敢であり、また肉体的な能力にすぐれていて、それが両親のお気に入りだった[9]。4歳の時に第二歩兵近衛連隊に登録され、バス勲章を授与された[10]。国王夫妻は、ウィリアムを海軍本部に入れるつもりだった。1740年、カンバーランドは志願兵としてジョン・ノリス指揮下の艦隊で、1740年にはジェンキンスの耳の戦争などの戦闘に参加した[要出典]が、すぐに海軍に嫌気がさし、代わりに、1741年2月20日に第一近衛歩兵連隊の大佐の地位を約束された[11]。
オーストリア継承戦争
1742年、カンバーランドは陸軍少将となり、その翌年、初めて自らが戦う戦場を目の当たりにした[1]。父ジョージ2世と勇猛な息子(martial boy)はデッティンゲンの戦いの勝利を分かち合った[12]。カンバーランドはこの戦いで、脚にマスケット銃によるけがを負った[1]が、この戦いの後、陸軍中将に就任した[13]。
1745年、カンバーランドはイギリス陸軍総司令官の称号を得て、経験がなかったにもかかわらず、フランドルでイギリスとハノーヴァー、オーストリア、オランダ連合軍の総指揮を執った。当初、カンバーランドは、フランスに攻撃を仕掛け、パリ攻略に持って行く流れを作りたがったが、顧問の軍人たちから、敵軍が圧倒的な数的優勢に立っているため、不可能であると説得された[14]。
フランス側の意図が、トゥルネーを取ることであることが明らかになり、カンバーランドは、モーリス・ド・サクス元帥が包囲しているこの町の救援に向かった[15]。1745年5月11日のフォントノワの戦いの結果、イギリス、オランダ、オーストリア連合軍はフランスに敗れた。サクスはイギリス軍相手に戦場を選び、近くの森に狙撃兵を多数配備した。カンバーランドは、作戦計画を立てた時点で、森に兵が隠れているという脅威を無視しており、代わりにフォントノワの包囲に専心して、近くにいたフランス軍の主軍に攻撃を仕掛けた。フランスの拠点への攻撃の集中で、連合軍が勝つだろうと多くが思ったにもかかわらず、森から狙撃兵を追わなかったこと、そして、フォントノワを陥落させようとするオランダ軍のために、カンバーランドの兵が撤退せざるを得なくなったのは失敗だった。この戦いの後、カンバーランドはしばしば戦術を批判された、特に森を押さえておかなかったことが批判の対象になった[16]。この戦いが終わらないうちに、カンバーランドはブリュッセルに退却せざるを得なくなり、ゲント、ブルージュ、オーステンデの陥落を阻止することは不可能になった[17]。
ジャコバイトの反乱
カンバーランドは、当時のイギリスの将軍では主導的立場にあり、1745年のジャコバイト蜂起で、チャールズ・エドワード・ステュアート(若王位僭称者)の王位奪取を断固阻止する任務を請け負った。カンバーランドの就任は人望を集め、国民と部隊との士気を高めた[18]。
フランドルから召喚されて以来、カンバーランドはこの反乱を抑えるための準備を続けてきた、ジャコバイト軍はイングランドに向けて南進しており、イングランドのジャコバイトが蜂起して彼らに合流することを望んでいた。しかしマンチェスター連隊のような限られた支援しか受けられず、ジャコバイト軍はスコットランドに撤退した[19]。
カンバーランドはジョン・リゴンアー指揮下のミッドランド軍に加わり、敵の追跡を始めた。ジャコバイト軍がダービーから北へと撤退をはじめたからである[1]。1745年12月、ペンリスに着いたところで、ミッドランド軍の先方部隊がクリフトン・ムーアに撃退され、カンバーランドは撤退中のスコットランド軍に追いつく望みはないことに気付いた[20]。カーライルを取り戻したのち、カンバーランドはロンドンに召還された。ロンドンでは、フランスの侵略を想定しての対戦の準備が進められていた[1] 。1746年1月の、カンバーランドの代わりに指揮を執ったヘンリー・ハウリーの敗北は、イングランド国民の恐怖を掻き立てた。この時、雨あられと降りかかる拳銃の弾の中で、80人の竜騎兵が倒れて行った。これがフォルカーク・ミューアの戦いである[21]。
カロデンの戦い
1746年1月30日にカンバーランドはエディンバラに着き、すぐにチャールズの探索に入った。アバディーンまで遠回りをして[22]、次の戦闘で、彼の指揮下となる、装備を整えた部隊の鍛錬に時間を費やした。次の交戦はおそらく避けられなかった。カンバーランドの鍛錬は、まず、射程内に敵が入るまで射撃を行わないこと、一度射撃すると、その次は右側の敵を銃剣で突くことだった。こうすることで、相手は自分が掲げた右腕の下に入るからだった[23]。
1746年の4月8日、カンバーランドはアバディーンを出発してインヴァネスに向かい、4月16日に天王山ともいうべきカロデンの戦いを戦った。これはチャールズが完敗した戦いだった[19]。カンバーランドは兵たちに、ジャコバイトの反逆者の残党に対して、容赦ない攻撃を加えるように命令した。このジャコバイト軍では、フランス軍の兵や、イギリスやアイルランド生まれの者も正規な兵士とされていた)カンバーランドの軍は戦場を横切り、まだ息のある敵兵を突いて去って行った[24]。カンバーランドはまた、足元に横たわっている負傷兵が反乱軍に加わっていたことを知り、すぐに少佐にその者を撃つように命じた。しかし少佐は、その命令をこばみ、その兵士に任務を果たすように命じた[24]。
その後イギリス軍は、ハイランドのジャコバイトが支配する地域でのいわゆる「講和」に乗り出した。イギリス軍は、反乱軍はみな殺され、兵士でないものも殺されたと信じていた。反乱軍に絡んだ集落は焼かれ、家畜は大々的に没収された[25]。100以上の反逆者が絞首刑にされた[26]。女たちは投獄され、多くの人間がぞろぞろと、裁判のため船でロンドンに出向いたが、多くの者が、この8か月に及ぶ旅の途中で死んだ[24]。
屠殺者カンバーランド
「屠殺者」は、政治がらみの皮肉として、ロンドンで最初に記録に残されたものである[27][28]。兄で王太子のフレデリック・ルイスは、父王の代理で従軍する許可が下りておらず、カンバーランドへの悪意のある攻撃を奨励しているようにも見えた。カンバーランドによって、すぐに戦争が終わったと言っても過言ではない。スコットランド住民の大部分、そのスコットランド人以外のイギリス国民、そして植民地の住人が、ジャコバイトの威嚇からの救世主として彼を持てはやした。その一例として、カンバーランドはグラスゴー大学から、名誉学位を授与されていた[28]。
カンバーランドは野営地にかなり厳しい規律を設けていた。彼は任務と判断したことを実践する際、兵をえこひいきせずに使った。そうでありながら、彼の注意を引くような特殊な場合には、温情的に自らの影響力を行使した。何年か後、ジェームズ・ウルフがカンバーランドについてこう述べている。「公はいつも高貴で寛大な人物である」カンバーランドの勝利の効果は、年間2万5千ポンドの支出がなされることが決定したこと、さらにその上王室費からも経費が出ることが認められた[29]。またウルフやコンウェイには、カンバーランドがパトロンとなっていた[30]。この勝利の、神への感謝の祈りがセントポール寺院で捧げられ、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが、特にカンバーランドのために作曲したユダス・マカベウス(征服せし英雄)が初演された[31]。
敗北と幼君の補佐
1746年のフランドル方面作戦には、カンバーランドは参戦しなかった。この時フランスはブリュッセル包囲へ大きく前進し、ロクーの戦いで連合軍を破った。翌1747年、カンバーランドは大陸へ戻って、連勝を続けているサクスにもう一度戦いを挑み、1747年7月2日、ローフェルドの戦い(ヴァルの戦い)で大敗を喫した。ここはマーストリヒトの近くであった[32] 。この戦いとベルヘン・オプ・ゾームの戦いで、両軍は交渉の席に着き、1748年にアーヘンの和約が結ばれて、カンバーランドは帰国した[33]。
カンバーランドは指揮官としてよりも、戦士としての能力に優れていた。は勇猛であるが思慮が足りず、血の気の多い人物であったと伝えられる。そのため指揮する部隊が小さいうちは武勲をかさねたが、総大将として戦闘に当たると、敵方の奸計にはまって敗走を余儀なくされる場面が多かった[要出典]。
カロデンの戦い以降、カンバーランドの人気は下り坂となって行った。これが政治で名を成すことへの妨げになった。フレデリック・ルイスの死によって、その王子であるジョージが次の国王に決まり、カンバーランドは、摂政の地位が可能であったにもかかわらず、その地位に自分がふさわしいと主張することができなかった。妥協策として、摂政の地位は、王太子未亡人のオーガスタに付与された。オーガスタはカンバーランドを敵とみなしていたが、彼女の権力は大きいものではなく、12人から成る委員会の助言を受けることになった。その委員会の筆頭委員はカンバーランドだった[34]。
七年戦争
1757年に七年戦争が勃発し、カンバーランドは偵察軍(Army of Observation)の指揮官となった。これはイギリスがドイツ兵を雇って作った軍で、フランスの攻撃からハノーヴァーの軍を守る目的があった[35]。1757年7月26日、ハーメルン近くのハステンベックの戦いで、カンバーランドの軍はデストレ公爵ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエの特別部隊に敗北した。戦闘の終盤に向けてはカンバーランドに有利に展開したものの、軍は退却を始めた。射程に入るまで敵を撃つなという規律は崩壊し、軍勢はばらばらになって北を目指した。カンバーランドは海軍が兵員と物資を持ってきて、それによって再集合と反撃が望めると期待したが、イギリス軍はカンバーランドに支援をする代わりに、ロシュフォールの襲撃の準備に入っていた。その軍が、カンバーランドの支援に派遣されるべきという意見があったのに、それは実現しなかったのである[36]。
1757年の9月までに、カンバーランドとその軍勢は、北海沿岸のスタードの城塞に退いた。国王ジョージ2世は、カンバーランドに、単独講和のために任意で使える軍をよこした。ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ指揮下のフランスの包囲を受けたカンバーランドは、クローステル・ツェーヴェン協定に同意した。1757年9月8日のツェーヴェン修道院で、カンバーランド軍は解散させられることになり、ハノーヴァー領の大部分はフランスに占領された[37]。 ロンドンへ戻ったカンバーランドは、講和への交渉を進める許可を事前に得ていたにもかかわらず、父王から手ひどい待遇を受けた。カンバーランドとの謁見で、ジョージ2世は「この息子は私の名を辱め、自らを貶めた」と発言した[38]。これに対してカンバーランドは、軍やすべての公職から身を引き、私人として生活することにした[39]。
また、1757年にヨーロッパに出陣する際、カンバーランドはウィリアム・ピットと対立しており、戦場に行く見返りとして、ピットを解任してほしいと父王に要請した[30]。ピットは一旦退いたが[40]、その後復帰した[41]。その後、カンバーランドの敗北により、ピットは自由に戦略を立てることができるようになった[42]。ジョージ2世もピットの考えを受け入れるようになっていた。ピットはハノーファーより北アメリカの植民地を優先させており、カンバーランドが目指したヨーロッパの攻防よりも、はるか上を行く構想をピットは立てていたのだった[43]。
この時のカンバーランド軍にはジェフリー・アマーストがいた。アマーストはその後もヨーロッパの戦線にとどまっていたが、1758年の1月に本国からの指示でカナダに出発し、この年の7月にルイブールの戦いでフランス軍を破ることになった[42]。
晩年
カンバーランドの晩年は、1760年10月25日のジョージ2世崩御により即位した、甥のジョージ3世の治世の始めのころであった。カンバーランドは国王への、最も影響力のある顧問であり、第一次ロッキンガム内閣の組閣を手助けした[1]。閣議はウィンザーの彼の住居であるカンバーランドロッジ、またはロンドンでの邸宅であるアッパー・グロブスナー・ストリートのいずれかで開かれた[1]。デッティンゲンでのけがが完治することはなく、肥満体であった[1]。1760年の8月に脳卒中を起こし[44]、1765年の10月31日にロンドンの邸宅で死去した[1]。遺体はウェストミンスター寺院のヘンリー七世礼拝堂の、身廊(ネーブ)の下に埋葬された[45]。カンバーランドは未婚であった[1]。
カンバーランド公位は一旦消滅し、後に甥のヘンリー・フレデリックが、再度設けられたカンバーランド公爵に叙された[46]。
競走馬の生産
カンバーランドは競走馬生産に力を入れ、1750年からウィンザーで馬産を始めた[47]。ヘロド、エクリプスといったサラブレッド前史における最重要とも言える名馬を送り出したことはカンバーランドの功績であり、現代競馬に多大な貢献をしたと言える[48]。
グレートブリテン王国の称号、栄典そして公式紋
称号
栄典
グレートブリテン王国の栄典
学問関連
公式紋
1725年7月20日、君主の孫として、カンバーランドはグレートブリテン王国の公式紋の使用を許可された。この時の紋章は、銀の地に5つの星、真ん中の星に赤の十字、、それ以外の星は赤のカントン(盾)を背景にしている。1727年8月30日には、王子の公式紋の使用を許可された。それには星が3つ、中央の星に十字があしらわれている[51]。
伝説
ヴァージニアのプリンス・ウィリアム郡は彼の名にちなむ[52]。アメリカ植民地には、他にもさまざまなところで彼にちなんだ地名があり、カンバーランド川[53]、カンバーランド峡谷[54]、カンバーランド山脈などがある[55]。2005年には、BBCヒストリーマガジンのイギリス史上最悪の人物賞の18世紀部門賞を「受賞」した[56]。彼の伝記が1766年および1876年に出版された[要出典]。
ウィンザー・グレートパークには、カンバーランドの軍功を記念したオベリスクがある。このオベリスクにはこう刻まれている。「このオベリスクは国王ジョージ2世の、王子カンバーランド公爵ウィリアムの戦功と父王への謝意を記念するという命令により建立された。この銘板は国王ウィリアム4世陛下により刻まれた」とある。現地のガイドによると、元々は「カロデン」の地名が入っていたが、ヴィクトリア女王がカロデンの地名を撤去させたということである[57]。
脚注
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- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
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参考図書
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- Whitworth, Rex (1992). William Augustus Duke of Cumberland: A Life. Pen & Sword Books Ltd. ISBN 978-0-85052-354-6
外部リンク
- Culloden - The Black Watch
- Ascanius; or, the Young Adventurer
- "ウィリアム・オーガスタスの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
ウィリアム・オーガスタス
ハノーヴァー家
ヴェルフ家分家
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次代 - 消滅 |
軍職 | ||
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次代 |
先代 ジョージ・ウェイド |
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次代 初代リゴンアー伯爵ジョン・リゴンアー |
学職 | ||
先代 初代チャンドス公爵ジェームズ・ブリッジズ |
セントアンドリュース大学総長 1746年 - 1765年 |
次代 9代キヌー伯爵トマス・ヘイ |