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[[File:CharlesTownshend.jpg|thumb|right| タウンゼンド諸法導入の急先鋒[[チャールズ・タウンゼンド]]([[ジョシュア・レノルズ]]画、1765年頃)。諸法の有害な影響が表れ始めたころには、すでにこの世になかった。]] |
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'''タウンゼンド諸法'''(タウンゼンドしょほう)は、[[1767年]]に[[イギリス]]の[[大蔵省#イギリスの大蔵省・財務省(HM Treasury)|蔵相]][[チャールズ・タウンゼンド|タウンゼンド]]の提案によって定められた[[法律]]。[[茶]]・[[ガラス]]・[[紙]]・[[ペンキ]]等の物品に対し、[[北米植民地]]への[[関税|輸入関税]]がかけられた。これは[[1764年]]の[[砂糖法]]、[[1765年]]の[[印紙法]]に続き、北米植民地への課税強化を目的としたものである。[[ジョン・ディキンソン (政治家)|ジョン・ディキンソン]]はこの法律に反発し、[[コモン・ロー|イギリス法]]の原理から批判した。この法律に対して北米植民地では反対運動が起こり、[[1770年]]にこの法律は撤廃された。 |
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'''タウンゼンド諸法'''(タウンゼンドしょほう、{{lang-en|Townshend Acts}})とは、[[グレートブリテン議会|イギリス帝国の議会]]が[[1767年]]以降に成立させた、英領アメリカの植民地に関する一連の[[英国法|法律]]群を指す。計画の提唱者である[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]][[チャールズ・タウンゼンド]]にちなみ、タウンゼンド諸法と名づけられている。どこまでを「タウンゼンド諸法」に含めるかは研究者間で若干の相違があるが、多く言及されるものは5つある。1767年の歳入法、補償法、関税委員法、植民地海事裁判法、ニューヨーク制限法である<ref>ディッカーソン (''Navigation Acts'', 195–95) はタウンゼンド諸法に含まれる法律を4とし、ニューヨーク制限法に触れなかったが、チャフィンはこれを「正式にタウンゼンド諸法の一部である」としている ("Townshend Acts", 128).</ref>。 |
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タウンゼンド諸法の目的は、植民地からの税収増をもって現地の総督と判事の俸給に当て、植民地のルールから総督や判事を独立させること、法の徹底による貿易規制をより効果的に推進できる体制を整えること、1765年の[[宿営法]]に応じようとしない[[ニューヨーク植民地]]を処罰すること、本国議会が植民地に対する課税権を有するという先例を確立することである<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 126.</ref>。タウンゼンド諸法は植民地側の抵抗に会い、1768年にはイギリス軍が[[ボストン]]を占拠する事態にいたり、やがて1770年の[[ボストン虐殺事件]]に発展した。 |
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ボストン虐殺事件の結果、本国議会はタウンゼンド関税の一部撤廃の動議を諮った<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 143.</ref>。そして新しく導入された税のほとんどは撤廃されたが、茶への課税は継続された。本国政府は[[代表なくして課税なし|植民地の同意を得ないままに課税する]]ことを試み続けたが、結局、[[ボストン茶会事件]]が起き、そして[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ独立革命]]が始まるのである。 |
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== 背景 == |
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[[七年戦争]](1756年 - 1763年)を戦い抜いた[[イギリス帝国]]は重い負債にあえいでいた。新たに獲得した版図にかかる費用負担の一助として、[[グレートブリテン議会]](以下「本国議会」)は北米植民地からの徴税を決定した。以前に[[航海条例|航海法]]を制定したときは、課税は帝国の貿易に統制をはかるための手段にすぎなかった。しかし1764年の[[砂糖法]]では、これまでになく、歳入増という目的を前面に出して植民地に税を課すことを模索した。北米植民地の人々が砂糖法に反対したのは、最初は経済的な理由からだったが、憲法上の問題が含まれていることに気づくのにそう時間はかからなかった<ref>Reid, ''Authority to Tax'', 206.</ref>。 |
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[[イギリスの憲法|憲法]]によれば、イギリス臣民は、本国議会における自分たちの代表の[[代表なくして課税なし|同意なくして税を課されること]]があってはならないとされていた。植民地は本国議会に議員を選出していなかったため、植民地の多くの人々は、自分たちに税を課そうとする本国議会の試みは、同意によってのみ課税を可能にすることを謳った憲法の理念に反していると考えた。これに対し、本国議員の一部は「事実上の代表」という論法をもって対抗した。つまり、たとえ選挙によって選ばれた議員がいないにせよ、植民地の意見は実際に本国議会で反映されているというのである。この論題は、砂糖法の頃はまだささやかに討論されたにすぎなかったが、1765年の[[印紙法]]成立時は主要な論点となった。印紙法は植民地から広く批判を浴び、翌年、やむなく本国議会はこれを撤廃した。 |
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印紙法をめぐる議論は、その裏に、税制や代議制よりももっと基礎的な問題をはらんでいた。すなわち、本国議会は植民地に対する主権を有するのかどうかという疑問である<ref>Thomas, ''Townshend Duties'', 10.</ref>。これ対する回答として本国議会は、1766年に印紙法を撤廃すると同時に[[宣言法]]を成立させ、本国議会が植民地に対する立法を「いかなる場合においてもすべからく」行いうるとした<ref>Knollenberg, ''Growth'', 21–25.</ref>。 |
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== タウンゼンドの計画 == |
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=== 歳入増 === |
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タウンゼンド諸法の中でまず最初に成立したのが、単数形でタウンゼンド法とも呼ばれる、1767年の歳入法である<ref>7 Geo. III ch. 46; Knollenberg, ''Growth'', 47; Labaree, ''Tea Party'', 270n12. タウンゼンド歳入法、タウンゼンド関税法、1767年タリフ法とも。</ref>。これは、1766年の印紙法撤廃後、なおもアメリカ植民地からの税収入を得ようとした[[チャタム伯ウィリアム・ピット|チャタム政権]]が打ち出した新しい方策である<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 143; Thomas, ''Duties Crisis'', 9.</ref>。本国政府の見たところ、植民地が印紙法に反対した理由は、それが直接税(あるいは「内部税」)であったということに根底を発しており、ゆえに、輸入にかかる税のような間接税(あるいは「外部税」)であれば受け入れられるはずと考えた<ref name="Reid33+">Reid, ''Authority to Tax'', 33–39.</ref>。これを念頭に、時の[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]][[チャールズ・タウンゼンド]]は、植民地に輸入された紙、塗料、鉛、ガラス、茶といった品々に新たに税金を課すという案を練った<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 9; Labaree, ''Tea Party'', 19–20.</ref>。これらの品々は、北米では生産されておらず、植民地はイギリス本土以外から購入することを認められていなかった<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 127.</ref>。 |
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本国政府は、印紙法が反対された理由を誤解した結果、植民地は「外部税」であれば許容すると思い込んだ。だが植民地が「内部税」に反対したのは「外部税」ならば受け入れるということを意味するものではない。植民地のスタンスは、本国議会の決による歳入増を目的とする課税は、いかなるものであれ違憲であるというものだった<ref name="Reid33+" />。歴史研究者ジョン・フィリップ・レイドは、「タウンゼンドは、アメリカは内部税は違憲で外部税は合憲とみなしていると誤信していた。この誤信は、独立へと連なる歴史展開においてきわめて重大なものであった」と書き述べた<ref>Reid, ''Authority to Tax'', 33.</ref>。歳入法は1767年6月29日に[[勅許]]を得た<ref name="Thomas31">Thomas, ''Duties Crisis'', 31.</ref>。このとき、本国議会ではほとんど異論が出なかった。「歴史を大きく揺れ動かした法律が、これほど平穏無事に通過したのは他に類をみない」と、歴史研究者のピーター・トーマスは書いている<ref name="Thomas31" />。 |
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歳入法とあわせて成立したのが1767年の補償法である<ref>7 Geo. III ch. 56; Labaree, ''Tea Party'', 269n20. 1767年の茶法ともいう; Jensen, ''Founding'', 435.</ref>。その狙いは[[東インド会社]]の茶にオランダから密輸入される茶に対する競争力を持たせることだった。この法律により、イギリス本土への輸入関税は撤廃され、植民地への輸出価格を下げられるようになった。カットされた税収入は、歳入法による植民地への課税によって一部補償されることになっていた<ref>Labaree, ''Tea Party'', 21.</ref>。歳入法はまた、[[捜査援助令状]]という、不特定を対象とする[[捜査令状]]の合法性を改めて是認しており、税関職員はこれを原権として、密貿易にかかわっている家屋や事業者に対する強制捜査を行った<ref>Reid, ''Rebellious Spirit'', 29, 135n24.</ref>。 |
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タウンゼンド関税に謳われたそもそもの目的は、北米駐屯軍の支出をまかなうために歳入を増やすことだった<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 22–23.</ref>。しかし、タウンゼンドはその目的を改め、税収を植民地総督と判事の俸給を支払うために用いることにした<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 23–25.</ref>。総督や判事の俸給は、それまでは植民地議会から支払われていたが、本国議会は植民地から「[[金の力]]」<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 260.</ref>を取り上げようと期した。歴史研究者のジョン・C・ミラーによれば、「辣腕にもタウンゼンドは、税法の整備によってアメリカから資金を取り上げ、それを財源として植民地総督や判事の地位を各植民地議会から独立させることによって、アメリカの自立に対抗した」<ref>Miller, ''Origins'', 255.</ref>のである。 |
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一部の議員は、タウンゼンドのプランでは年4万ポンドの歳入しか見込めないことを理由に反対したが、タウンゼンドはその趣旨について、まずは植民地への課税を確固たる先例として確立し、それから段階的に増税を推し進め、最終的には植民地の自弁運営を視野に入れたものと説明した。歴史研究者ピーター・トマスによれば、タウンゼンドの「狙いは財政よりもむしろ政治にあった」<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 30.</ref>。 |
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=== 遵法の徹底 === |
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新たな税の徴収を徹底するにあたり、1767年の関税委員会法に基づき、[[イギリス関税局]]を範とするアメリカ関税局委員会が設立された<ref>7 Geo. III ch. 41; Knollenberg, ''Growth'', 47.</ref>。イギリス関税局は、遠く離れた植民地に貿易規制を施行することのむずかしさに直面していたからである<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 33; Chaffin, "Townshend Acts", 129.</ref>。5人の評議委員が任命され、[[ボストン]]に拠点を置くことになった<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 130.</ref>。関税局は、植民地のイギリス政府に対する敵意を相当に生み出したとされる。歴史研究者のオリヴァー・M・ディッカースンによれば、「帝国領土における植民地と植民地以外の実質的な乖離は、この独立機関が創設されたその日に始まった」<ref>Dickerson, ''Navigation Acts'', 199.</ref>。 |
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貿易にまつわる諸法令を徹底するために定められたもうひとつの方策が、1768年の植民地海事裁判法である<ref>8 Geo. III ch. 22.</ref>。タウンゼンド諸法に含めて論じられることが多いが、この法律はタウンゼンドの入閣前に策定が始まり、生前の成立を見なかった<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 34–35.</ref>。この法律の以前は、北米の植民地海事裁判所は[[ハリファックス]]にのみ置かれていた。1764年に設立されたこの裁判所は、広域にわたる植民地すべてを所轄するのをもてあましていたため、1768年植民地海事裁判法の施行によって、ハリファックス、[[ボストン]]、[[フィラデルフィア]]、[[チャールストン (サウスカロライナ州)|チャールストン]]の4都市に分立された。植民地海事裁判所の目的のひとつは、密貿易を取り締まる税関職員を支援することだった。植民地海事裁判は[[陪審員]]を置かないため、植民地に不評な貿易条例に反した人々を寛恕したがる陪審員の意向を避けることができたからである。 |
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またタウンゼンドは、1765年の[[宿営法]]による財政負担を憲法に反する徴税とし、同法に応じることを拒んでいた[[ニューヨーク植民地]]議会に関する問題にも対策を打った<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 134.</ref>。ニューヨーク制限法<ref>7 Geo. III ch. 59. ニューヨーク停止法とも。; Knollenberg, ''Growth'', 296.</ref>という、歴史研究者のロバート・チャフィンによれば「正式にタウンゼンド諸法の一部である」<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 128.</ref>この法律は、宿営法に応じない限り植民地議会の権限を停止するというものである。結局、この法律が本国議会を通過する前にニューヨーク植民地議会は宿営法の費用を購う資金を供出したため、実際に適用されることはなかった。ただし植民地議会は、資金供出にあたり宿営法へは言及しておらず、つまり本国議会の植民地に対する課税権の是認を回避した。むしろ、選挙によって選ばれた立法府を本国議会が停止するのは憲法に則った行為ではありえないという決議声明を採択した<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 134–35.</ref>。 |
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== 反発 == |
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タウンゼンドは、自身の計画が植民地側に論難されるであろうことを承知していたが、「本国の優位を行使するにふさわしい時宜は今をおいて他にない」と論じた<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 131.</ref>。タウンゼンド諸法は、2年前の印紙法に浴びせられたような、成立当初からの怒りは買わなかったものの、反対の声が広まるのにそれほど長い時間を要しなかった<ref>Knollenberg, ''Growth'', 48; Thomas, ''Duties Crisis'', 76.</ref>。タウンゼンドはこの反発を見ることなく、1767年9月4日に急死した<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 36.</ref>。 |
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[[File:Dickinson Farmer Letters.jpg|thumb|left|150px| ディキンソン『ペンシルベニアの一農夫からの手紙』]] |
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タウンゼンド諸法に対する植民地側の反応の中でもっとも大きな影響を与えたのは、1767年12月から発表され始めた、『ペンシルベニアの一農夫からの手紙』と題された[[ジョン・ディキンソン (政治家)|ジョン・ディキンソン]]による12編からなる随筆である<ref name="Chaffin, Townshend Acts, 132">Chaffin, "Townshend Acts", 132.</ref>。ディキンソンは、すでに植民地で広く受け入れられていた思想を雄弁に述べ上げる中で<ref name="Chaffin, Townshend Acts, 132"/>、「内部税」と「外部税」には何の違いもなく、本国議会が増収のために植民地へ課税するのは、それがいかなる税であっても違憲であると論じた<ref>Knollenberg, ''Growth'', 50.</ref>。また、税率の低さを理由に譲歩してはならず、それは危険な先例を作るものであると警告した<ref>Knollenberg, ''Growth'', 52–53.</ref>。 |
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ディキンソンは『手紙』のコピーを[[マサチューセッツ湾直轄植民地|マサチューセッツ]]の[[ジェイムズ・オーティス]]に送付し、「アメリカの自由という理想が確立されるのがいつになるにせよ、私はマサチューセッツ湾植民地に期待をかけている」と書き綴った<ref>Knollenberg, ''Growth'', 54. ディキンソンがオーティスに宛てた手紙の日付は1767年12月5日である。</ref>。マサチューセッツ議会はタウンゼンド諸法に反対するキャンペーンを開始した。まず、[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]に関税法の撤廃を訴える陳情書を送り、次に、各植民地の議会に反対運動への参加を求める書簡を送った<ref>Knollenberg, ''Growth'', 54.</ref>。[[マサチューセッツ回状]]を受領した各植民地も国王への陳情書を送った<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 84; Knollenberg, ''Growth'', 54–57.</ref>。バージニアとペンシルベニアは本国議会にも陳情書を送ったが、他の植民地は送らなかった。これは、本国議会に陳情書を提出するという行為が、自分たちに対する本国議会の主権を認めるものと解釈されるのを恐れたためである<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 85, 111–12.</ref>。本国議会は、バージニアとペンシルベニアの陳情書の検討を却下した<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 112.</ref>。 |
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イギリス本国では、新たに設けられた[[植民省]]の初代大臣に[[ウィルズ・ヒル]]が就任していた。ヒルはマサチューセッツ議会の動きに警戒を強めた。1768年4月、ヒルは、アメリカ植民地の各総督に対し、現地議会がマサチューセッツ回状に呼応するようであれば解散させるようにという指示を書簡で通達した。また、駐マサチューセッツ総督[[フランシス・バーナード]]に対する書簡では、現地議会に対し回状を撤回させるように指示した。マサチューセッツ議会は92対17でこれを却下したため、バーナードはただちに議会を解散させた<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 81; Knollenberg, ''Growth'', 56.</ref>。 |
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=== ボイコット === |
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タウンゼンド諸法の撤廃を求める植民地の貿易関係者(密貿易に携わる者も含む)は、イギリス本国の論敵に圧力を加えるため、ボイコット運動を組織した。ボストンの商人連は、イギリスから特定の商品を輸入することを1769年1月1日以降停止することを求める、輸入禁止協定をどこよりも先に結んだ。その他、ニューヨークやフィラデルフィアなどの港町を拠点とする貿易業者もやがてボイコット運動に参加した<ref>Knollenberg, ''Growth'', 57–58.</ref>。バージニアでは、[[ジョージ・ワシントン]]と[[ジョージ・メイソン (4世)|ジョージ・メイソン]]が不輸入運動を組織した。[[バージニア植民地]]議会は本国議会には同意なくしてバージニア市民に課税する権利はないという声明を採択し、同地総督[[ノーボーン・バークレイ]]によって解散させられた。議員は[[ローリー・タヴァーン]]という料亭に集まり、「結社」として知られるボイコット協定を結んだ<ref>Knollenberg, ''Growth'', 59.</ref>。 |
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輸入禁止運動は、企画者たちが望んだほどには効果をあげなかった。1769年にはイギリスから植民地への輸入は38パーセント減少したが、ボイコットに参画しない商人も多かった<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 157.</ref>。ボイコット運動は1770年にはほころびが見え始め、1771年に終息した<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 138.</ref>。 |
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=== ボストンの情勢不安 === |
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[[File:Boston 1768.jpg|thumb| 1768年、ボストンに上陸するイギリス軍。[[ポール・リビア]]による版画。|alt=複数の船着場を備えた港を遠望した様子。前景には港湾に浮かぶ8艘の帆船。そこからいくつものボートが船着場のひとつに向かう。ボートから降り立った兵士たちは、細長い船着場を市街部へ向かう。遠景の町並みの中に点在する9つの尖塔。版画下部にはこの場面の説明がある。]] |
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ボストンは、新設されたアメリカ関税局の本部が置かれたため、タウンゼンド諸法がもっとも厳密に施行された<ref>Knollenberg, ''Growth'', 61–63.</ref>。ボストンにおける諸法に対するあまりに厳しい風当たりに、関税局は海軍の支援を要請した。海軍准将[[サミュエル・フッド]]は50門艦《ロムニー》の派遣をもってこれに応じ、1768年5月、同艦がボストン港に到着した<ref>Knollenberg, ''Growth'', 63.</ref>。 |
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1768年6月10日、ボストンの有力商人[[ジョン・ハンコック]]が所有する《リバティ》というスループ船が、密貿易に関わっている疑いありとして税関職員に抑留された。地元船員を[[徴発]]していく《ロムニー》の船長に以前から怒りを募らせていたボストン市民は、ここにきてついに暴動を起こした。税関職員は安全のためにウィリアム砦に退避した。[[ジョン・アダムズ]]が弁護士としてついたハンコックに対する[[植民地海事裁判]]での審理は大々的に報じられたが、結局、この訴えは取り下げられた<ref>"Notorious Smuggler", 236–46; Knollenberg, ''Growth'', 63–65.</ref>。 |
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マサチューセッツの不安定な情勢を見たヒルは、現地総督バーナードに、ボストンにおける[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]の証拠を見つけるように指示した<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 109.</ref>。1543年の[[大逆法]]は依然有効と議決されており、これを適用することによって、大逆罪の審理を行うためにボストン市民をイギリス本国へ連行することができると見たのである。だがバーナードはその証拠を提出することを望むような人物を探し出すことができず、大逆罪の審理は行われなかった<ref>Jensen, ''Founding'', 296–97.</ref>。アメリカの入植者が逮捕され、審理のためイギリス本国に身柄を送られるという可能性は、各植民地で警戒と怒りを巻きおこした<ref>Knollenberg, ''Growth'', 69.</ref>。 |
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そもそも《リバティ》事件以前の段階で、ヒルはボストンへの軍隊派遣を決定していた。事件2日前の1768年6月8日、それが「予測困難な結果」をもたらす可能性があることは認めながらも、北米駐屯軍最高司令官[[トマス・ゲイジ]]に対して「貴官から見てボストンに必要と思われる戦力」を送るように指示している<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 82; Knollenberg, ''Growth'', 75; Jensen, ''Founding'', 290.</ref>。ヒルとしては1個連隊の派兵をゲイジに示唆したのだが、《リバティ》事件発生を受け、関係筋はそれでは不足であると確信した<ref>Reid, ''Rebellious Spirit'', 125.</ref>。 |
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1768年9月、マサチューセッツの人々は自分たちに対して軍隊が差し向けられたという情報を得た<ref>Thomas, ''Duties Crisis'', 92.</ref>。[[サミュエル・アダムズ]]は超法規的な市議会を緊急招集し、切迫するボストン占拠に反対する決議を成立させたが、1768年10月1日、イギリス陸軍4個連隊の第一部隊がボストンへの上陸を開始し、関税局はボストンに復帰した<ref>Knollenberg, ''Growth'', 76.</ref>。『ジャーナル・オブ・オカーレンス』という匿名記者による新聞連載は、誇張されている部分があると見られているものの、ボストンが軍に占拠されていた期間に起きた市民と軍との衝突を年代記風の記事にしている<ref>Knollenberg, ''Growth'', 76–77.</ref>。緊張が一気に高まったのは、1770年2月22日、[[クリストファー・セイダー]]という未成年が税関職員によって殺害されるという事件後である<ref>Knollenberg, ''Growth'', 77–78.</ref>。イギリス軍はこの事件には関与していなかったが、占領軍に対する憤りは日を追うごとにエスカレートし、1770年3月5日、いわゆる[[ボストン虐殺事件]]で5人の市民が殺害されるに至る<ref>Knollenberg, ''Growth'', 78–79.</ref>。事件後、軍はウィリアム砦へと撤収した<ref>Knollenberg, ''Growth'', 81.</ref>。 |
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== 部分撤廃 == |
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英国首相に就任した[[フレデリック・ノース]]は、1770年3月5日(ボストン虐殺事件と同日である)、タウンゼンド関税法の部分的な撤廃を求める動議を[[庶民院]]に提出した<ref name="Knollenberg, Growth, 71">Knollenberg, ''Growth'', 71.</ref>。議員からは全面撤廃を求める声もあったが、ノースは同調せず、「アメリカへの課税権」を確認する意味で茶への課税を継続すべきと論じた<ref name="Knollenberg, Growth, 71"/>。議論の末、撤廃法<ref>10 Geo. III c. 17; Labaree, ''Tea Party'', 276n17.</ref>は1770年4月12日に[[勅許]]を得た<ref>Knollenberg, ''Growth'', 72.</ref>。 |
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歴史研究者ロバート・チャフィンは、これによってもほとんど何も変わらなかったと論じている: |
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<blockquote>タウンゼンド諸法のその大部分が撤廃されたと主張するのは、正確さを欠くというものだろう。本国の歳入のための茶税の徴収。アメリカ関税局。そして何より重要なのが、総督と判事を植民地から独立した立場に置くという方針。事実、タウンゼンド関税法の修正はまずもって何ら変化をもたらすものではなかった<ref>Chaffin, "Townshend Acts", 140.</ref>。</blockquote> |
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タウンゼンド関税法による茶への課税は、1773年、東インド会社が植民地へ直接茶を輸出することを認める[[茶法]]が成立しても継続された。それから間もなくして[[ボストン茶会事件]]が発生し、ここに[[アメリカ合衆国の独立|アメリカ独立革命]]の舞台が整うのである。 |
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== 脚注 == |
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{{reflist|2}} |
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== 参考文献 == |
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<div class="references-small"> |
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*{{cite encyclopedia|last=Chaffin|first=Robert J.|year=1991|title=The Townshend Acts crisis, 1767–1770|editor=Jack P. Greene, J. R. Pole|encyclopedia=The Blackwell Encyclopedia of the American Revolution|location=Malden, Massachusetts|publisher=Blackwell|isbn=1557865477}} |
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*{{cite book|last=Dickerson|first=Oliver M.|year=1951|title=The Navigation Acts and the American Revolution|location=Philadelphia|publisher=University of Pennsylvania Press}} |
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*{{cite book|last=Knollenberg|first=Bernhard|year=1975|title=Growth of the American Revolution, 1766–1775|location=New York|publisher=University of Pennsylvania Press}} |
|||
*{{cite book|last=Labaree|first=Benjamin Woods|year=1979|origyear=1964|title=The Boston Tea Party|location=Boston|publisher=Northeastern University Press|isbn=0930350057}} |
|||
*{{cite book|last=Jensen|first=Merrill|year=1968|title=The Founding of a Nation: A History of the American Revolution, 1763–1776|location=New York|publisher=Oxford University Press}} |
|||
*{{cite book|last=Miller|first=John C.|year=1959|title=Origins of the American Revolution|publisher=Stanford University Press|isbn=9780804705943}} |
|||
*{{cite book|last=Reid|first=John Phillip|year=1979|title=In a Rebellious Spirit: The Argument of Facts, the Liberty Riot, and the Coming of the American Revolution|location=University Park|publihser=Pennsylvania State University Press|isbn=0271002026}} |
|||
*{{cite book|last=Reid|first=John Phillip|year=1987|title=Constitutional History of the American Revolution, II: The Authority to Tax|location=Madison|publisher=University of Wisconsin Press|isbn=029911290X}} |
|||
*{{cite book|last=Thomas|first=Peter D. G.|year=1987|title=The Townshend Duties Crisis: The Second Phase of the American Revolution, 1767–1773|location=Oxford|publisher=Oxford University Press|isbn=0198229674}} |
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</div> |
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== 関連文献 == |
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<div class="references-small"> |
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*{{cite book|last=Barrow|first=Thomas C.|year=1967|title=Trade and Empire: The British Customs Service in Colonial America, 1660–1775|publisher=Harvard University Press}} |
|||
*{{cite book|last=Breen|first=T. H.|year=2005|title=The Marketplace of Revolution: How Consumer Politics Shaped American Independence|publisher=Oxford University Press|isbn=9780195181319}} |
|||
*{{cite book|last=Knight|first=Carol Lynn H.|year=1990|title=The American Colonial Press and the Townshend Crisis, 1766–1770: A Study in Political Imagery|location=Lewiston|publisher=E. Mellen Press|isbn=9780889468412}} |
|||
*{{cite book|last=Ubbelohde|first=Carl|year=1960|title=The Vice-Admiralty Courts and the American Revolution|location=Chapel Hill|publisher=University of North Carolina Press|isbn=9780807807873}} |
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</div> |
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{{DEFAULTSORT:たうんせんとしよほう}} |
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2011年12月6日 (火) 17:09時点における版
タウンゼンド諸法(タウンゼンドしょほう、英語: Townshend Acts)とは、イギリス帝国の議会が1767年以降に成立させた、英領アメリカの植民地に関する一連の法律群を指す。計画の提唱者である財務大臣チャールズ・タウンゼンドにちなみ、タウンゼンド諸法と名づけられている。どこまでを「タウンゼンド諸法」に含めるかは研究者間で若干の相違があるが、多く言及されるものは5つある。1767年の歳入法、補償法、関税委員法、植民地海事裁判法、ニューヨーク制限法である[1]。
タウンゼンド諸法の目的は、植民地からの税収増をもって現地の総督と判事の俸給に当て、植民地のルールから総督や判事を独立させること、法の徹底による貿易規制をより効果的に推進できる体制を整えること、1765年の宿営法に応じようとしないニューヨーク植民地を処罰すること、本国議会が植民地に対する課税権を有するという先例を確立することである[2]。タウンゼンド諸法は植民地側の抵抗に会い、1768年にはイギリス軍がボストンを占拠する事態にいたり、やがて1770年のボストン虐殺事件に発展した。
ボストン虐殺事件の結果、本国議会はタウンゼンド関税の一部撤廃の動議を諮った[3]。そして新しく導入された税のほとんどは撤廃されたが、茶への課税は継続された。本国政府は植民地の同意を得ないままに課税することを試み続けたが、結局、ボストン茶会事件が起き、そしてアメリカ独立革命が始まるのである。
背景
七年戦争(1756年 - 1763年)を戦い抜いたイギリス帝国は重い負債にあえいでいた。新たに獲得した版図にかかる費用負担の一助として、グレートブリテン議会(以下「本国議会」)は北米植民地からの徴税を決定した。以前に航海法を制定したときは、課税は帝国の貿易に統制をはかるための手段にすぎなかった。しかし1764年の砂糖法では、これまでになく、歳入増という目的を前面に出して植民地に税を課すことを模索した。北米植民地の人々が砂糖法に反対したのは、最初は経済的な理由からだったが、憲法上の問題が含まれていることに気づくのにそう時間はかからなかった[4]。
憲法によれば、イギリス臣民は、本国議会における自分たちの代表の同意なくして税を課されることがあってはならないとされていた。植民地は本国議会に議員を選出していなかったため、植民地の多くの人々は、自分たちに税を課そうとする本国議会の試みは、同意によってのみ課税を可能にすることを謳った憲法の理念に反していると考えた。これに対し、本国議員の一部は「事実上の代表」という論法をもって対抗した。つまり、たとえ選挙によって選ばれた議員がいないにせよ、植民地の意見は実際に本国議会で反映されているというのである。この論題は、砂糖法の頃はまだささやかに討論されたにすぎなかったが、1765年の印紙法成立時は主要な論点となった。印紙法は植民地から広く批判を浴び、翌年、やむなく本国議会はこれを撤廃した。
印紙法をめぐる議論は、その裏に、税制や代議制よりももっと基礎的な問題をはらんでいた。すなわち、本国議会は植民地に対する主権を有するのかどうかという疑問である[5]。これ対する回答として本国議会は、1766年に印紙法を撤廃すると同時に宣言法を成立させ、本国議会が植民地に対する立法を「いかなる場合においてもすべからく」行いうるとした[6]。
タウンゼンドの計画
歳入増
タウンゼンド諸法の中でまず最初に成立したのが、単数形でタウンゼンド法とも呼ばれる、1767年の歳入法である[7]。これは、1766年の印紙法撤廃後、なおもアメリカ植民地からの税収入を得ようとしたチャタム政権が打ち出した新しい方策である[8]。本国政府の見たところ、植民地が印紙法に反対した理由は、それが直接税(あるいは「内部税」)であったということに根底を発しており、ゆえに、輸入にかかる税のような間接税(あるいは「外部税」)であれば受け入れられるはずと考えた[9]。これを念頭に、時の財務大臣チャールズ・タウンゼンドは、植民地に輸入された紙、塗料、鉛、ガラス、茶といった品々に新たに税金を課すという案を練った[10]。これらの品々は、北米では生産されておらず、植民地はイギリス本土以外から購入することを認められていなかった[11]。
本国政府は、印紙法が反対された理由を誤解した結果、植民地は「外部税」であれば許容すると思い込んだ。だが植民地が「内部税」に反対したのは「外部税」ならば受け入れるということを意味するものではない。植民地のスタンスは、本国議会の決による歳入増を目的とする課税は、いかなるものであれ違憲であるというものだった[9]。歴史研究者ジョン・フィリップ・レイドは、「タウンゼンドは、アメリカは内部税は違憲で外部税は合憲とみなしていると誤信していた。この誤信は、独立へと連なる歴史展開においてきわめて重大なものであった」と書き述べた[12]。歳入法は1767年6月29日に勅許を得た[13]。このとき、本国議会ではほとんど異論が出なかった。「歴史を大きく揺れ動かした法律が、これほど平穏無事に通過したのは他に類をみない」と、歴史研究者のピーター・トーマスは書いている[13]。
歳入法とあわせて成立したのが1767年の補償法である[14]。その狙いは東インド会社の茶にオランダから密輸入される茶に対する競争力を持たせることだった。この法律により、イギリス本土への輸入関税は撤廃され、植民地への輸出価格を下げられるようになった。カットされた税収入は、歳入法による植民地への課税によって一部補償されることになっていた[15]。歳入法はまた、捜査援助令状という、不特定を対象とする捜査令状の合法性を改めて是認しており、税関職員はこれを原権として、密貿易にかかわっている家屋や事業者に対する強制捜査を行った[16]。
タウンゼンド関税に謳われたそもそもの目的は、北米駐屯軍の支出をまかなうために歳入を増やすことだった[17]。しかし、タウンゼンドはその目的を改め、税収を植民地総督と判事の俸給を支払うために用いることにした[18]。総督や判事の俸給は、それまでは植民地議会から支払われていたが、本国議会は植民地から「金の力」[19]を取り上げようと期した。歴史研究者のジョン・C・ミラーによれば、「辣腕にもタウンゼンドは、税法の整備によってアメリカから資金を取り上げ、それを財源として植民地総督や判事の地位を各植民地議会から独立させることによって、アメリカの自立に対抗した」[20]のである。
一部の議員は、タウンゼンドのプランでは年4万ポンドの歳入しか見込めないことを理由に反対したが、タウンゼンドはその趣旨について、まずは植民地への課税を確固たる先例として確立し、それから段階的に増税を推し進め、最終的には植民地の自弁運営を視野に入れたものと説明した。歴史研究者ピーター・トマスによれば、タウンゼンドの「狙いは財政よりもむしろ政治にあった」[21]。
遵法の徹底
新たな税の徴収を徹底するにあたり、1767年の関税委員会法に基づき、イギリス関税局を範とするアメリカ関税局委員会が設立された[22]。イギリス関税局は、遠く離れた植民地に貿易規制を施行することのむずかしさに直面していたからである[23]。5人の評議委員が任命され、ボストンに拠点を置くことになった[24]。関税局は、植民地のイギリス政府に対する敵意を相当に生み出したとされる。歴史研究者のオリヴァー・M・ディッカースンによれば、「帝国領土における植民地と植民地以外の実質的な乖離は、この独立機関が創設されたその日に始まった」[25]。
貿易にまつわる諸法令を徹底するために定められたもうひとつの方策が、1768年の植民地海事裁判法である[26]。タウンゼンド諸法に含めて論じられることが多いが、この法律はタウンゼンドの入閣前に策定が始まり、生前の成立を見なかった[27]。この法律の以前は、北米の植民地海事裁判所はハリファックスにのみ置かれていた。1764年に設立されたこの裁判所は、広域にわたる植民地すべてを所轄するのをもてあましていたため、1768年植民地海事裁判法の施行によって、ハリファックス、ボストン、フィラデルフィア、チャールストンの4都市に分立された。植民地海事裁判所の目的のひとつは、密貿易を取り締まる税関職員を支援することだった。植民地海事裁判は陪審員を置かないため、植民地に不評な貿易条例に反した人々を寛恕したがる陪審員の意向を避けることができたからである。
またタウンゼンドは、1765年の宿営法による財政負担を憲法に反する徴税とし、同法に応じることを拒んでいたニューヨーク植民地議会に関する問題にも対策を打った[28]。ニューヨーク制限法[29]という、歴史研究者のロバート・チャフィンによれば「正式にタウンゼンド諸法の一部である」[30]この法律は、宿営法に応じない限り植民地議会の権限を停止するというものである。結局、この法律が本国議会を通過する前にニューヨーク植民地議会は宿営法の費用を購う資金を供出したため、実際に適用されることはなかった。ただし植民地議会は、資金供出にあたり宿営法へは言及しておらず、つまり本国議会の植民地に対する課税権の是認を回避した。むしろ、選挙によって選ばれた立法府を本国議会が停止するのは憲法に則った行為ではありえないという決議声明を採択した[31]。
反発
タウンゼンドは、自身の計画が植民地側に論難されるであろうことを承知していたが、「本国の優位を行使するにふさわしい時宜は今をおいて他にない」と論じた[32]。タウンゼンド諸法は、2年前の印紙法に浴びせられたような、成立当初からの怒りは買わなかったものの、反対の声が広まるのにそれほど長い時間を要しなかった[33]。タウンゼンドはこの反発を見ることなく、1767年9月4日に急死した[34]。
タウンゼンド諸法に対する植民地側の反応の中でもっとも大きな影響を与えたのは、1767年12月から発表され始めた、『ペンシルベニアの一農夫からの手紙』と題されたジョン・ディキンソンによる12編からなる随筆である[35]。ディキンソンは、すでに植民地で広く受け入れられていた思想を雄弁に述べ上げる中で[35]、「内部税」と「外部税」には何の違いもなく、本国議会が増収のために植民地へ課税するのは、それがいかなる税であっても違憲であると論じた[36]。また、税率の低さを理由に譲歩してはならず、それは危険な先例を作るものであると警告した[37]。
ディキンソンは『手紙』のコピーをマサチューセッツのジェイムズ・オーティスに送付し、「アメリカの自由という理想が確立されるのがいつになるにせよ、私はマサチューセッツ湾植民地に期待をかけている」と書き綴った[38]。マサチューセッツ議会はタウンゼンド諸法に反対するキャンペーンを開始した。まず、ジョージ3世に関税法の撤廃を訴える陳情書を送り、次に、各植民地の議会に反対運動への参加を求める書簡を送った[39]。マサチューセッツ回状を受領した各植民地も国王への陳情書を送った[40]。バージニアとペンシルベニアは本国議会にも陳情書を送ったが、他の植民地は送らなかった。これは、本国議会に陳情書を提出するという行為が、自分たちに対する本国議会の主権を認めるものと解釈されるのを恐れたためである[41]。本国議会は、バージニアとペンシルベニアの陳情書の検討を却下した[42]。
イギリス本国では、新たに設けられた植民省の初代大臣にウィルズ・ヒルが就任していた。ヒルはマサチューセッツ議会の動きに警戒を強めた。1768年4月、ヒルは、アメリカ植民地の各総督に対し、現地議会がマサチューセッツ回状に呼応するようであれば解散させるようにという指示を書簡で通達した。また、駐マサチューセッツ総督フランシス・バーナードに対する書簡では、現地議会に対し回状を撤回させるように指示した。マサチューセッツ議会は92対17でこれを却下したため、バーナードはただちに議会を解散させた[43]。
ボイコット
タウンゼンド諸法の撤廃を求める植民地の貿易関係者(密貿易に携わる者も含む)は、イギリス本国の論敵に圧力を加えるため、ボイコット運動を組織した。ボストンの商人連は、イギリスから特定の商品を輸入することを1769年1月1日以降停止することを求める、輸入禁止協定をどこよりも先に結んだ。その他、ニューヨークやフィラデルフィアなどの港町を拠点とする貿易業者もやがてボイコット運動に参加した[44]。バージニアでは、ジョージ・ワシントンとジョージ・メイソンが不輸入運動を組織した。バージニア植民地議会は本国議会には同意なくしてバージニア市民に課税する権利はないという声明を採択し、同地総督ノーボーン・バークレイによって解散させられた。議員はローリー・タヴァーンという料亭に集まり、「結社」として知られるボイコット協定を結んだ[45]。
輸入禁止運動は、企画者たちが望んだほどには効果をあげなかった。1769年にはイギリスから植民地への輸入は38パーセント減少したが、ボイコットに参画しない商人も多かった[46]。ボイコット運動は1770年にはほころびが見え始め、1771年に終息した[47]。
ボストンの情勢不安
ボストンは、新設されたアメリカ関税局の本部が置かれたため、タウンゼンド諸法がもっとも厳密に施行された[48]。ボストンにおける諸法に対するあまりに厳しい風当たりに、関税局は海軍の支援を要請した。海軍准将サミュエル・フッドは50門艦《ロムニー》の派遣をもってこれに応じ、1768年5月、同艦がボストン港に到着した[49]。
1768年6月10日、ボストンの有力商人ジョン・ハンコックが所有する《リバティ》というスループ船が、密貿易に関わっている疑いありとして税関職員に抑留された。地元船員を徴発していく《ロムニー》の船長に以前から怒りを募らせていたボストン市民は、ここにきてついに暴動を起こした。税関職員は安全のためにウィリアム砦に退避した。ジョン・アダムズが弁護士としてついたハンコックに対する植民地海事裁判での審理は大々的に報じられたが、結局、この訴えは取り下げられた[50]。
マサチューセッツの不安定な情勢を見たヒルは、現地総督バーナードに、ボストンにおける大逆罪の証拠を見つけるように指示した[51]。1543年の大逆法は依然有効と議決されており、これを適用することによって、大逆罪の審理を行うためにボストン市民をイギリス本国へ連行することができると見たのである。だがバーナードはその証拠を提出することを望むような人物を探し出すことができず、大逆罪の審理は行われなかった[52]。アメリカの入植者が逮捕され、審理のためイギリス本国に身柄を送られるという可能性は、各植民地で警戒と怒りを巻きおこした[53]。
そもそも《リバティ》事件以前の段階で、ヒルはボストンへの軍隊派遣を決定していた。事件2日前の1768年6月8日、それが「予測困難な結果」をもたらす可能性があることは認めながらも、北米駐屯軍最高司令官トマス・ゲイジに対して「貴官から見てボストンに必要と思われる戦力」を送るように指示している[54]。ヒルとしては1個連隊の派兵をゲイジに示唆したのだが、《リバティ》事件発生を受け、関係筋はそれでは不足であると確信した[55]。
1768年9月、マサチューセッツの人々は自分たちに対して軍隊が差し向けられたという情報を得た[56]。サミュエル・アダムズは超法規的な市議会を緊急招集し、切迫するボストン占拠に反対する決議を成立させたが、1768年10月1日、イギリス陸軍4個連隊の第一部隊がボストンへの上陸を開始し、関税局はボストンに復帰した[57]。『ジャーナル・オブ・オカーレンス』という匿名記者による新聞連載は、誇張されている部分があると見られているものの、ボストンが軍に占拠されていた期間に起きた市民と軍との衝突を年代記風の記事にしている[58]。緊張が一気に高まったのは、1770年2月22日、クリストファー・セイダーという未成年が税関職員によって殺害されるという事件後である[59]。イギリス軍はこの事件には関与していなかったが、占領軍に対する憤りは日を追うごとにエスカレートし、1770年3月5日、いわゆるボストン虐殺事件で5人の市民が殺害されるに至る[60]。事件後、軍はウィリアム砦へと撤収した[61]。
部分撤廃
英国首相に就任したフレデリック・ノースは、1770年3月5日(ボストン虐殺事件と同日である)、タウンゼンド関税法の部分的な撤廃を求める動議を庶民院に提出した[62]。議員からは全面撤廃を求める声もあったが、ノースは同調せず、「アメリカへの課税権」を確認する意味で茶への課税を継続すべきと論じた[62]。議論の末、撤廃法[63]は1770年4月12日に勅許を得た[64]。
歴史研究者ロバート・チャフィンは、これによってもほとんど何も変わらなかったと論じている:
タウンゼンド諸法のその大部分が撤廃されたと主張するのは、正確さを欠くというものだろう。本国の歳入のための茶税の徴収。アメリカ関税局。そして何より重要なのが、総督と判事を植民地から独立した立場に置くという方針。事実、タウンゼンド関税法の修正はまずもって何ら変化をもたらすものではなかった[65]。
タウンゼンド関税法による茶への課税は、1773年、東インド会社が植民地へ直接茶を輸出することを認める茶法が成立しても継続された。それから間もなくしてボストン茶会事件が発生し、ここにアメリカ独立革命の舞台が整うのである。
脚注
- ^ ディッカーソン (Navigation Acts, 195–95) はタウンゼンド諸法に含まれる法律を4とし、ニューヨーク制限法に触れなかったが、チャフィンはこれを「正式にタウンゼンド諸法の一部である」としている ("Townshend Acts", 128).
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 126.
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 143.
- ^ Reid, Authority to Tax, 206.
- ^ Thomas, Townshend Duties, 10.
- ^ Knollenberg, Growth, 21–25.
- ^ 7 Geo. III ch. 46; Knollenberg, Growth, 47; Labaree, Tea Party, 270n12. タウンゼンド歳入法、タウンゼンド関税法、1767年タリフ法とも。
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 143; Thomas, Duties Crisis, 9.
- ^ a b Reid, Authority to Tax, 33–39.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 9; Labaree, Tea Party, 19–20.
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 127.
- ^ Reid, Authority to Tax, 33.
- ^ a b Thomas, Duties Crisis, 31.
- ^ 7 Geo. III ch. 56; Labaree, Tea Party, 269n20. 1767年の茶法ともいう; Jensen, Founding, 435.
- ^ Labaree, Tea Party, 21.
- ^ Reid, Rebellious Spirit, 29, 135n24.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 22–23.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 23–25.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 260.
- ^ Miller, Origins, 255.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 30.
- ^ 7 Geo. III ch. 41; Knollenberg, Growth, 47.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 33; Chaffin, "Townshend Acts", 129.
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 130.
- ^ Dickerson, Navigation Acts, 199.
- ^ 8 Geo. III ch. 22.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 34–35.
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 134.
- ^ 7 Geo. III ch. 59. ニューヨーク停止法とも。; Knollenberg, Growth, 296.
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 128.
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 134–35.
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 131.
- ^ Knollenberg, Growth, 48; Thomas, Duties Crisis, 76.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 36.
- ^ a b Chaffin, "Townshend Acts", 132.
- ^ Knollenberg, Growth, 50.
- ^ Knollenberg, Growth, 52–53.
- ^ Knollenberg, Growth, 54. ディキンソンがオーティスに宛てた手紙の日付は1767年12月5日である。
- ^ Knollenberg, Growth, 54.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 84; Knollenberg, Growth, 54–57.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 85, 111–12.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 112.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 81; Knollenberg, Growth, 56.
- ^ Knollenberg, Growth, 57–58.
- ^ Knollenberg, Growth, 59.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 157.
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 138.
- ^ Knollenberg, Growth, 61–63.
- ^ Knollenberg, Growth, 63.
- ^ "Notorious Smuggler", 236–46; Knollenberg, Growth, 63–65.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 109.
- ^ Jensen, Founding, 296–97.
- ^ Knollenberg, Growth, 69.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 82; Knollenberg, Growth, 75; Jensen, Founding, 290.
- ^ Reid, Rebellious Spirit, 125.
- ^ Thomas, Duties Crisis, 92.
- ^ Knollenberg, Growth, 76.
- ^ Knollenberg, Growth, 76–77.
- ^ Knollenberg, Growth, 77–78.
- ^ Knollenberg, Growth, 78–79.
- ^ Knollenberg, Growth, 81.
- ^ a b Knollenberg, Growth, 71.
- ^ 10 Geo. III c. 17; Labaree, Tea Party, 276n17.
- ^ Knollenberg, Growth, 72.
- ^ Chaffin, "Townshend Acts", 140.
参考文献
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- Jensen, Merrill (1968). The Founding of a Nation: A History of the American Revolution, 1763–1776. New York: Oxford University Press
- Miller, John C. (1959). Origins of the American Revolution. Stanford University Press. ISBN 9780804705943
- Reid, John Phillip (1979). In a Rebellious Spirit: The Argument of Facts, the Liberty Riot, and the Coming of the American Revolution. University Park. ISBN 0271002026
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- Thomas, Peter D. G. (1987). The Townshend Duties Crisis: The Second Phase of the American Revolution, 1767–1773. Oxford: Oxford University Press. ISBN 0198229674
関連文献
- Barrow, Thomas C. (1967). Trade and Empire: The British Customs Service in Colonial America, 1660–1775. Harvard University Press
- Breen, T. H. (2005). The Marketplace of Revolution: How Consumer Politics Shaped American Independence. Oxford University Press. ISBN 9780195181319
- Knight, Carol Lynn H. (1990). The American Colonial Press and the Townshend Crisis, 1766–1770: A Study in Political Imagery. Lewiston: E. Mellen Press. ISBN 9780889468412
- Ubbelohde, Carl (1960). The Vice-Admiralty Courts and the American Revolution. Chapel Hill: University of North Carolina Press. ISBN 9780807807873