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「昭和恐慌」の版間の差分

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'''昭和恐慌'''(しょうわきょうこう)は、[[1929年]]秋にアメリカで起き、世界中を巻き込んでいった[[世界恐慌]]の日本関係の部分の総称である。世界恐慌は日本でもほぼ同時波及が起こり、戦前にける日本の恐慌の中で最も深刻なものとなった
'''昭和恐慌'''(しょうわきょうこう)は、[[1929年]]秋に[[アメリカ合衆国]]で起き、世界中を巻き込んでいった[[世界恐慌]]の影響が日本にもおよび、[[1930年]]([[昭和]]5年)から翌[[1931年]](昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況陥れた、戦前の日本ける最も深刻な[[恐慌]]


== 背景 ==
== 背景 ==
[[第一次世界大戦]]中は[[大戦景気]]にいた日本であったが、戦後欧州の製品がアジア市場に戻ってくると戦後恐慌が発生し、[[関東大震災]]後それはいそう悪化した(震災恐慌)。
[[第一次世界大戦]]中は[[大戦景気 (日本)|大戦景気]]にいた日本であったが、戦後[[ヨーロッパ]]の製品が[[アジア]]市場に戻ってくると[[1920年]]には[[戦後恐慌]]が発生し、それが終息にむかおうとしていたとき[[1922年]]には[[銀行恐慌]]、[[1923年]]には[[関東大震災]]が起こって再び恐慌に陥った([[震災恐慌]]。このとき[[震災手形]]を発行したことはかえって事態の悪化をまねいている<ref>[http://www.hi-ho.ne.jp/takayoshi/kyoko/taisho4.htm 震災手形による悪化]</ref>


第一次世界大戦最中の[[1917年]](大正6年)9月、日本は[[アメリカ合衆国]]に続いて金輸出禁止をおこない、事実上、[[金本位制]]から離脱していた。アメリカは、大戦直後の[[1919年]]に早くも金輸出を解禁(金解禁<ref group="注釈">金解禁とは、通貨と金の兌換を自由にし、国際間の金の移動を自由にすること。</ref>)し、金本位制に復帰した。しかし日本は、大戦後の[[1919年]]末には内地・外地あわせて正貨準備が20億4,500万円にのぼり、[[国際収支]]も[[黒字]]であったにもかかわらず、金解禁を行わなかった<ref name="cho">[[#長|長(2004)]]</ref>。
以後も、[[片岡直温]]蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した[[昭和金融恐慌]]([[1927年]])に代表されるように、日本経済は慢性的な不況が続き、[[為替相場]]は動揺しながら下落する状況が続いた。このような状況下で成立した[[立憲民政党]]の[[濱口雄幸]]内閣は、日本製品の国際競争力を高めるために産業合理化政策を進め、中小企業の多くが倒れることとなった。また、[[井上準之助]]蔵相は徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、[[金解禁]]を行うことによって為替の安定を図ろうとした。


[[ファイル:Ruth1920 commons.jpg|120px|left|thumb|「永遠の繁栄」時代のアメリカを象徴するひとり、[[ニューヨーク・ヤンキース]]の[[ベーブ・ルース]](1920年)]]
== 恐慌の発生 ==
[[1920年代]]には世界の主要国はつぎつぎに金本位制へと復帰し、金為替本位制を大幅に導入した国際金本位制の[[ネットワーク]]が再建されており、[[世界経済]]は、[[大衆消費社会]]をむかえ「[[永遠の繁栄]]」を謳歌していたアメリカの[[好景気]]と好調な対外投資によって相対的な安定を享受していた<ref name="cho"/><ref group="注釈">大衆消費社会の到来は、[[T型フォード]]に代表される[[大衆車]]、[[家電製品]]、[[ラジオ]]・[[映画]]・[[レコード]]など新しい[[メディア]]、[[ジャズ|ジャズ音楽]]や[[ディズニー映画]]の流行、[[クレジット]]や[[通信販売]]の登場など、大量生産・大量消費を特徴とするアメリカ的な生活(''American way of life'')をもたらした。</ref>。
緊縮財政によって約3億円の正貨が準備され、日本は[[1930年]]1月に金解禁を行った。しかし、前年の11月に[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク]]・[[ウォール街]]で起こった[[ウォール街大暴落 (1929年)|株価の大暴落]]による恐慌は既に世界中に波及しており([[世界恐慌]])、日本の金解禁はその影響をまともに受けることになってしまった。しかし、金禁輸前の旧平価での解禁であったため、実質的には円の切り上げとなり、井上蔵相の狙いとは裏腹に輸出は激減した。更に正貨は海外へ大量に流出し、解禁後わずか2ヶ月で約1億5000万円もの正貨が流出した。[[1930年]]3月には株式・商品市場が暴落し、[[生糸]]、[[鉄鋼]]、農産物等の物価は急激に低下した。また、中小企業の倒産が相次ぎ、[[失業者]]が街にあふれた。当時現在よりも稀少であったはずの大学・専門学校卒業生のうち3分の1が職がない状態であった。 都市にも大きな打撃を与えた恐慌であったが、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。[[生糸]]の対米輸出が激減したことに加え、デフレに豊作が重なり米価が激しく下落したことで農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、「米」と「繭」の二本柱で成り立っていた農村は、その両方が倒れることとなり、困窮のあまり[[青田売り]]が横行して[[欠食児童]]や女子の身売りが深刻な問題となった。1932年には逆に凶作となり、東北地方において、1933年初頭には[[昭和三陸津波]]で被災し、不況がさらに深刻化した。後述のとおり、1933年から景気は回復局面になるが、1934年・1935年も凶作となる等順調ではなかった。

日本政府は、このような世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと試みたが、1920年代の日本経済は上述したように慢性的な不況が続いて危機的な状態にあり、金解禁に踏み切ることができなかった<ref name="cho"/>。さらに[[1927年]](昭和2年)には、[[片岡直温]]蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した金融恐慌([[昭和金融恐慌]])が起こり、[[為替相場]]は動揺しながら下落する状況が続いた。[[1928年]]6月には[[フランス]]も新平価(5分の1切下げ)による金輸出解禁([[金解禁]])を行ったので、主要国では日本のみが残された。このころ、日本の復帰思惑もからんで円の[[外国為替市場|為替相場]]は乱高下したため、金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく、財界全体の要求となった<ref name="cho"/>。

[[ファイル:Inoue Junnosuke 1-2.jpg|140px|right|thumb|[[浜口内閣]]蔵相時代の[[井上準之助]]]]
このような状況下で成立した[[立憲民政党]]の[[濱口雄幸]]内閣は、「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」と「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて登場、金本位制の復帰を決断し、日本製品の国際競争力を高めるために、[[物価]]引き下げ策を採用し、市場に[[デフレーション|デフレ]]圧力を加えることで産業合理化を促し、高[[コスト]]と高[[賃金]]の問題を解決しようとした<ref>[http://www.hi-ho.ne.jp/takayoshi/kyoko/taisho16.htm 恐慌からの脱出]</ref>。これは多くの[[中小企業]]に痛みを強いる改革であった。浜口内閣の[[井上準之助]]蔵相は、徹底した[[緊縮財政]]政策を進める一方で正貨を蓄え、金輸出解禁を行うことによって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理を図った。

== 昭和恐慌の発生 ==
=== 世界恐慌と金解禁 ===
[[ファイル:Crowd outside nyse.jpg|180px|left|thumb|1929年10月の[[ウォール街大暴落 (1929年)|ウォール街大暴落]]で混乱するニューヨーク]]
緊縮財政と金融引き締め策によって約3億円の正貨が準備され、為替も急速に回復したため、日本政府は[[1929年]](昭和4年)[[11月22日]]、翌年の[[1月11日]]をもって金解禁に踏み切る[[大蔵省]]令を公布した<ref name="oouchi_170">[[#大内|大内(1974)pp.170-172]]</ref>。しかし、前年の10月にアメリカ合衆国[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]で起こった[[ウォール街大暴落 (1929年)|株価の大暴落]]に始まった恐慌が世界じゅうに波及した([[世界恐慌]])。日本経済は、これにより金解禁による不況とあわせ、二重の打撃を受けることとなった。

金解禁前の為替相場の実勢は100円=46.5ドル前後の[[円安]]であったが、井上蔵相は、100円=49.85ドルという金禁輸前の旧平価での解禁をおこなったため、実質的には[[円 (通貨)|円]]の切り上げとなった。[[円高]]をもたらして日本の輸出商品をあえて割高にし、ひいては日本経済をデフレーションと不況にみちびくおそれのある旧平価解禁を実施したのは、円の国際信用を落としたくない思いに加えて、生産性の低い不良企業を淘汰することによって日本経済の体質改善をはかる必要があるとの判断されたためであった<ref name="oouchi_170"/><ref group="注釈">旧平価での解禁について、[[大内力]]は、井上の[[銀行家]]的資質が災いしたと指摘している。[[#大内|大内(1974)p.173]]</ref>。金融界にあっても、金融恐慌後の資金の集中によって体質強化がはかられていたので、デフレを乗りきる自信が備わっていた<ref name="oouchi_163">[[#大内|大内(1974)pp.163-170]]</ref>。為替の不安定に悩まされていた[[商社]]もまた金解禁に賛成し、海外からも金解禁を迫られてはいた<ref name="oouchi_163"/>。

しかし、ある意味で、1930年1月は、金解禁の時期としては最も悪いタイミングであった<ref name="oouchi_172">[[#大内|大内(1974)pp.172-175]]</ref>。政府が金解禁を急いだのは、1929年までのアメリカの繁栄をみたためであったが、ウォール街大暴落がやがて起こる世界大恐慌の前ぶれであることを予見した世界の指導者は誰ひとりいなかったのであり、井上蔵相もまた、再びアメリカ経済が活況を呈するだろうと考えたのである<ref name="oouchi_172"/>。ところが、よりによって日本の金解禁は世界恐慌の幕が切って落とされたその時に実行に移されたのだった<ref group="注釈">このことを評して大内力は「あたかも台風の最中に窓をあけひろげるような結果になってしまった」と述べている。[[#大内|大内(1974)p.174]]</ref>。金解禁を見越して輸出代金回収を早め、輸入代金支払いを繰り延べる「[[リーズ・アンド・ラグズ]]」によって国際収支の好調と為替相場の上昇が一時みられたものの、解禁後は一転して逆調となった<ref name="cho"/>。

=== 正貨流出と昭和恐慌の発生 ===
低コストによって輸出を拡大させようとした井上蔵相のねらいとは裏腹に、対外輸出は激減した。そのいっぽうで日本国内で兌換された正貨は海外に大量に流出した<ref name="oouchi_176">[[#大内|大内(1974)pp.176-179]]</ref>。金解禁後わずか2ヶ月で約1億5,000万円もの正貨が流出、1930年を通して2億8,800万円におよんだ<ref name="oouchi_176"/>。正貨流出は[[1931年]](昭和6年)になってもおさまらず、むしろ激しさを増した<ref group="注釈">1931年9月の満洲事変の勃発後、イギリスが金本位制から離脱して日本も金輸出再禁止が時間の問題となると、今度は、資産の防衛を考えた人びとのなかで猛烈なドル買いがおこったため、金の流出はさらに加速した。[[#大内|大内(1974)pp.177-178]]</ref>。

日本の輸出先は、[[生糸]]についてはアメリカ、[[綿]]製品や[[雑貨]]については[[中国]]をはじめとする[[アジア]]諸国であったが、これらの国々はとりわけ世界恐慌のダメージの強い地域であった<ref name="oouchi_183">[[#大内|大内(1974)pp.183-184]]</ref>。こういったことから、[[1930年]]3月には商品市場が大暴落し、生糸、[[鉄鋼]]、[[農産物]]等の物価は急激に低下した。次いで[[株式市場]]の暴落が起こり、金融界を直撃した<ref name="oouchi_183"/>。さらに、物価と株価の下落によって[[中小企業]]の[[倒産]]や操業短縮が相次ぎ、[[失業者]]が街にあふれ、国民一般の購買力も減少していった<ref name="oouchi_183"/>。1930年中につぶれた会社は823社におよび、減資した会社は311社、解散減資総額は5億8,200万円におよんでいる<ref name="oouchi_183"/>。[[労働運動]]も激化した。また、全体の3割にあたる約3万の[[小売商]]が[[夜逃げ]]している<ref name="nakamasa_066">[[#中村|中村(1989)pp.66-67]]</ref>。当時、現在よりも稀少であったはずの[[大学]]・専門学校卒業生のうち約3分の1が職がない状態であり、[[学士]]が職にありつけない明治いらいの異変が生じて「[[大学は出たけれど]]」が流行語となった<ref name="nakamasa_066"/>。1930年の失業者は全国で250万人余と推定されており、このような未曽有の不況は「[[ルンペン時代]]」と称された<ref name="cho"/>。

1929年を100としたときの1930年・1931年の経済諸指標は以下の通りである<ref name="cho"/>。

{|class="wikitable" cellspacing="0"
!項目||||1929年||1930年||1931年
|-
|国民所得||||100||81||77
|-
|卸売物価||||100||83||70
|-
|米価||||100||63||63
|-
|綿糸価格||||100||66||56
|-
|生糸価格||||100||66||45
|-
|輸出額||||100||68||53
|-
|輸入額||||100||70||60
|-
|}

なお、1930年時点での日本の1人あたり国民所得は、アメリカの約9分の1、イギリスの約8分の1、フランスの約5分の1、[[ベルギー]]の約2分の1にすぎなかった<ref name="nakamasa_066"/>。

=== 農業恐慌 ===
昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは[[農村]]であった([[農業恐慌]])。生糸の対米輸出が激減したことに加え、デフレ政策と1930年の[[豊作]]による米価下落によって農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、[[米]]と[[繭]]の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方が倒れることとなったのである。翌1931年には一転して[[東北地方]]・[[北海道地方]]が大[[凶作]]にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり[[青田売り]]が横行して[[欠食児童]]や女子の[[身売り]]が深刻な問題となった<ref group="注釈">欠食児童は全国で約20万人いたといわれる。[[#中村|中村(1989)p.67]]</ref>。[[小学校]]教員の給料不払い問題も起こった。穀倉地帯とよばれる地域を中心に[[小作争議]]が激化した。[[1933年]](昭和8年)初頭には[[昭和三陸津波]]が起こり、東北地方の[[太平洋]]沿岸部は甚大な被害をこうむった。後述のとおり、1933年以降景気は回復局面に入るが、[[1934年]](昭和9年)と[[1935年]](昭和10年)につづいて凶作となるなど農村経済の苦境はその後もつづいた。


== 日本政府の対策 ==
== 日本政府の対策 ==
[[ファイル:Hamaguchi Osachi 1.jpg|150px|left|thumb|「ライオン首相」といわれた[[濱口雄幸]]]]
[[濱口雄幸]]首相が、[[ロンドン海軍軍縮条約]]調印に伴う[[統帥権干犯問題]]により右翼に狙撃され、内閣が倒れると、同じく[[立憲民政党]]から第二次[[若槻禮次郎]]内閣が成立したが、有効な対策を講じることができないまま早々と倒れ、[[立憲政友会]]から[[犬養毅]]内閣が成立した。犬養内閣の[[高橋是清]]蔵相は、ただちに金輸出を再禁止し、日本は[[管理通貨制度]]へと移行した。高橋蔵相は民政党政権が行ってきた[[デフレーション]]政策を180°転換し、軍事費拡張と[[赤字国債]]発行による[[インフレーション]]政策を行った(これをきっかけとした[[軍拡]]政策は、景況改善後も、資源配分転換と国際協調を企図した[[軍縮]]の試みにもかかわらず継続される。以降は[[満洲事変]]・[[支那事変]]を通じて軍部の発言力が増していくことになる)。金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増に伴い景気も急速に回復し、[[1933年]]には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準を回復した

[[1934年]]には、[[岡田内閣]][[朝鮮人]]の移入によって悪化した失業率や治安を回復するため、朝鮮人が日本本土に移入しないよう朝鮮や満洲国の開発にめた<ref>{{cite web
[[濱口内閣]]は、農業恐慌に対しては、[[農民]]への低利資金の融通や米、生糸の市価維持対策をとったが、緊縮財政の枠のなかではまったく不十分にしか行えなかった。いっぽう工業面では、1930年6月に[[臨時産業合理局]]を設けている<ref name="cho"/><ref group="注釈">臨時産業合理局に勤務した経験をもつ人物に[[木戸幸一]]、[[岸信介]]がいる。</ref>。

濱口内閣は、対外的には[[協調外交]]を進め、1930年4月に[[ロンドン海軍軍縮条約]]を調印した。しかし、同年11月、これを[[統帥権干犯問題|統帥権干犯]]であるとして反発する右翼によって[[東京駅]]で狙撃された。濱口は一命を取りとめたが、1931年4月、内閣不一致で総辞職した。政府は同じ4月に[[工業組合法]]、[[重要産業統制法]]を制定して、輸出中小企業を中心とした合理化や[[カルテル]]の結成を促進した<ref name="cho"/>。重要産業統制法は、指定産業での不況カルテルの結成を容認するものであったが、これが[[統制経済]]の先がけとなった<ref group="注釈">その一方で、これらの合理化はすべて[[労働者]]にしわ寄せされたため、労働運動は激化し、カルテルの容認も財閥優遇政策として労働者や中小企業者に負担を強いるものとして大衆の不満はいっそう増していった。[[#大内|大内(1974)pp.240-241]]。1930年には、温情主義経営を誇った[[鐘紡]]にも大規模な[[労働争議]]がおこり、東京市電や市バスの[[ストライキ]]決行により、市民の足も麻痺した。[[#長|長(2004)]]</ref>。

濱口の後継としては同じ立憲民政党の[[若槻禮次郎]]を首班とする[[第2次若槻内閣]]が成立したが、31年9月、[[関東軍]]によって[[満洲事変]]が勃発した。また、同じ9月にはイギリスが金本位制から離脱したことにより、大量の円売り・[[ドル]]買いを誘発した。ドル買いを進めた[[財閥]]に対しては、「国賊」「非国民」として攻撃する声が国民のあいだに高まった<ref group="注釈">ドル買いの動きを「国賊」「非国民」などとして批判したのは、当初は政府筋からはじめたことであった。このことについて、[[高橋亀吉]]が憤慨してドル買いは本来経済の自由に属すべきことのはずで、こうした手法がのちに右翼が何ごとにつけ「非国民」扱いするやり方につながったとして、井上準之助批判の文をのこしている。[[#大内|大内(1974)p.178]]</ref>。

満洲事変に対しては、若槻首相は事変不拡大を声明したが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大した。こうして若槻内閣は、恐慌に対し有効な対策を講じることができないまま、事変後の事態の収拾にゆきづまって[[総辞職]]した。1931年12月、[[立憲政友会]]の[[犬養毅]]が[[内閣]]を組織した。

[[ファイル:Korekiyo Takahashi formal.jpg|150px|right|thumb|犬養内閣の蔵相[[高橋是清]]]]
[[犬養内閣]]の[[高橋是清]]蔵相は、31年12月、ただちに金輸出を再禁止し、日本は[[管理通貨制度]]へと移行した。高橋蔵相は民政党政権が行ってきたデフレ政策を180転換し、[[積極財政]]を採り、軍事費拡張と[[赤字国債]]発行による[[インフレーション]]政策を行った(これをきっかけとした[[軍拡]]政策は、景況改善後も、資源配分転換と国際協調を企図した[[軍縮]]の試みにもかかわらず継続される。これにより、満洲事変・[[支那事変]]を通じて[[軍部]]の発言力が増していくことになる)。

こうして、日本の金本位制復帰はわずか2年の短命に終わった。この2年間の深刻な恐慌は社会的危機を激化させ、濱口雄幸、井上準之助、三井財閥の大黒柱であった[[団琢磨]]らを襲った[[テロリズム]]となって暴発し、戦争と[[ファシズム]]への道を準備する結果となった<ref name="cho"/>。その一方で金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増にともない景気も急速に回復し、[[1933年]]には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準に回復した<ref group="注釈">日本がこのとき世界的に最もはやく経済回復を成し遂げた理由を、物価の下落と失業圧力によってコスト高と賃金高の要因を除去できたこと、および、金融恐慌によってすでに不良債権が処理されており、信用機構は健全だったことを挙げる見解がある。[http://www.hi-ho.ne.jp/takayoshi/kyoko/taisho16.htm 恐慌からの脱出]</ref>。

[[1934年]]には、[[岡田内閣]][[朝鮮人]]の移入によって悪化した失業率や治安を回復するため、朝鮮人が日本本土に移入しないよう朝鮮や[[満洲国]]の開発にめた<ref>{{cite web
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| url = http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090419432107004&
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28行目: 86行目:
| accessdate = 2010-04-02
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}}</ref>。
}}</ref>。

[[1937年]]には重化学工業の比率が軽工業を上回るなど経済の回復は続いたが、[[1942年]]後半から[[大東亜戦争]]の戦況が悪化し、空襲被害等によって国内産業は壊滅的な打撃を受けた。NHKの「おひさま」においては(実際には「おひさま」の脚本家)、1940年時点でさえ「景気は悪くなる一方」と表現している。結局[[1920年]]代の不況突入以降本格的な好況は朝鮮戦争特需によって迎えることになる。


== 影響 ==
== 影響 ==
日本は円安を利用して輸出を急増させたが、米英などからは「[[ソーシャル・ダンピング]]」であると批判を受けた。米英仏など多くの植民地を持つ国は、日本に対抗するため、自らの植民地圏で排他的な[[ブロック経済]]を構築した(英:[[スターリング・ポンド]]・ブロック、米:[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]・ブロック、仏:[[フランス・フラン|フラン]]・ブロック)。ブロック経済化が進むと、一転して窮地に立たされた日本もこれらに対抗することを余儀なくされ、[[日満経済ブロック|日満支円ブロック]]構築を目指してアジア進出を加速させることとなる。日本と同じ後発資本主義国であり、植民地に乏しい[[ドイツ]]・[[イタリア]]も自国の勢力拡大を目指して膨張政策へと転じた。こうした「持てる国」と「持たざる国」との二極化は[[第二次世界大戦]]勃発の遠因となった。
高橋財政によって、日本は円安を利用して輸出を急増させたが、米英などからは「[[ソーシャル・ダンピング]]」であると批判を受けた。米英仏など多くの植民地を持つ国は、日本に対抗するため、自らの植民地圏で排他的な[[ブロック経済]]を構築した(英:[[スターリング・ポンド]]・ブロック、米:[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]・ブロック、仏:[[フランス・フラン|フラン]]・ブロック)。ブロック経済化が進むと、一転して窮地に立たされた日本もこれらに対抗することを余儀なくされ、[[日満経済ブロック|日満支円ブロック]]構築を目指してアジア進出を加速させることとなる。日本と同じ後発資本主義国であり、植民地に乏しい[[ドイツ]]・[[イタリア]]も自国の勢力拡大を目指して膨張政策へと転じた。こうした「持てる国」と「持たざる国」との二極化は[[第二次世界大戦]]勃発の遠因となった。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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<references />
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[大内力]]|year=1979|month=4|title=日本の歴史24 ファシズムへの道|publisher=[[中央公論社]]|series=[[中公文庫]]|isbn=|ref=大内}}
* {{Cite book|和書|author=[[中村政則]]|chapter=世界恐慌と日本|editor=[[野上毅]](編)|year=1989|month=4|title=朝日百科日本の歴史11 近代II|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-38007-4|ref=中村}}
* {{Cite book|和書|author=[[長幸男]]|chapter=昭和恐慌|editor=小学館|year=2004|month=2|title=日本大百科全書|publisher=小学館|series=スーパーニッポニカProfessional Win版|isbn= 4099067459|ref=時彦}}

== 外部リンク ==
*[http://www.hi-ho.ne.jp/takayoshi/kyoko/index.html 昭和金融恐慌と現在の近似性]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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*[[就職氷河期]]
*[[就職氷河期]]


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2012年1月14日 (土) 12:56時点における版

昭和恐慌(しょうわきょうこう)は、1929年秋にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、1930年昭和5年)から翌1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌

背景

第一次世界大戦中は大戦景気に沸いた日本であったが、戦後ヨーロッパの製品がアジア市場に戻ってくると1920年には戦後恐慌が発生し、それが終息にむかおうとしていたとき1922年には銀行恐慌1923年には関東大震災が起こって再び恐慌に陥った(震災恐慌)。このとき震災手形を発行したことはかえって事態の悪化をまねいている[1]

第一次世界大戦最中の1917年(大正6年)9月、日本はアメリカ合衆国に続いて金輸出禁止をおこない、事実上、金本位制から離脱していた。アメリカは、大戦直後の1919年に早くも金輸出を解禁(金解禁[注釈 1])し、金本位制に復帰した。しかし日本は、大戦後の1919年末には内地・外地あわせて正貨準備が20億4,500万円にのぼり、国際収支黒字であったにもかかわらず、金解禁を行わなかった[2]

ファイル:Ruth1920 commons.jpg
「永遠の繁栄」時代のアメリカを象徴するひとり、ニューヨーク・ヤンキースベーブ・ルース(1920年)

1920年代には世界の主要国はつぎつぎに金本位制へと復帰し、金為替本位制を大幅に導入した国際金本位制のネットワークが再建されており、世界経済は、大衆消費社会をむかえ「永遠の繁栄」を謳歌していたアメリカの好景気と好調な対外投資によって相対的な安定を享受していた[2][注釈 2]

日本政府は、このような世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと試みたが、1920年代の日本経済は上述したように慢性的な不況が続いて危機的な状態にあり、金解禁に踏み切ることができなかった[2]。さらに1927年(昭和2年)には、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した金融恐慌(昭和金融恐慌)が起こり、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。1928年6月にはフランスも新平価(5分の1切下げ)による金輸出解禁(金解禁)を行ったので、主要国では日本のみが残された。このころ、日本の復帰思惑もからんで円の為替相場は乱高下したため、金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく、財界全体の要求となった[2]

浜口内閣蔵相時代の井上準之助

このような状況下で成立した立憲民政党濱口雄幸内閣は、「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」と「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて登場、金本位制の復帰を決断し、日本製品の国際競争力を高めるために、物価引き下げ策を採用し、市場にデフレ圧力を加えることで産業合理化を促し、高コストと高賃金の問題を解決しようとした[3]。これは多くの中小企業に痛みを強いる改革であった。浜口内閣の井上準之助蔵相は、徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、金輸出解禁を行うことによって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理を図った。

昭和恐慌の発生

世界恐慌と金解禁

1929年10月のウォール街大暴落で混乱するニューヨーク

緊縮財政と金融引き締め策によって約3億円の正貨が準備され、為替も急速に回復したため、日本政府は1929年(昭和4年)11月22日、翌年の1月11日をもって金解禁に踏み切る大蔵省令を公布した[4]。しかし、前年の10月にアメリカ合衆国ニューヨークウォール街で起こった株価の大暴落に始まった恐慌が世界じゅうに波及した(世界恐慌)。日本経済は、これにより金解禁による不況とあわせ、二重の打撃を受けることとなった。

金解禁前の為替相場の実勢は100円=46.5ドル前後の円安であったが、井上蔵相は、100円=49.85ドルという金禁輸前の旧平価での解禁をおこなったため、実質的にはの切り上げとなった。円高をもたらして日本の輸出商品をあえて割高にし、ひいては日本経済をデフレーションと不況にみちびくおそれのある旧平価解禁を実施したのは、円の国際信用を落としたくない思いに加えて、生産性の低い不良企業を淘汰することによって日本経済の体質改善をはかる必要があるとの判断されたためであった[4][注釈 3]。金融界にあっても、金融恐慌後の資金の集中によって体質強化がはかられていたので、デフレを乗りきる自信が備わっていた[5]。為替の不安定に悩まされていた商社もまた金解禁に賛成し、海外からも金解禁を迫られてはいた[5]

しかし、ある意味で、1930年1月は、金解禁の時期としては最も悪いタイミングであった[6]。政府が金解禁を急いだのは、1929年までのアメリカの繁栄をみたためであったが、ウォール街大暴落がやがて起こる世界大恐慌の前ぶれであることを予見した世界の指導者は誰ひとりいなかったのであり、井上蔵相もまた、再びアメリカ経済が活況を呈するだろうと考えたのである[6]。ところが、よりによって日本の金解禁は世界恐慌の幕が切って落とされたその時に実行に移されたのだった[注釈 4]。金解禁を見越して輸出代金回収を早め、輸入代金支払いを繰り延べる「リーズ・アンド・ラグズ」によって国際収支の好調と為替相場の上昇が一時みられたものの、解禁後は一転して逆調となった[2]

正貨流出と昭和恐慌の発生

低コストによって輸出を拡大させようとした井上蔵相のねらいとは裏腹に、対外輸出は激減した。そのいっぽうで日本国内で兌換された正貨は海外に大量に流出した[7]。金解禁後わずか2ヶ月で約1億5,000万円もの正貨が流出、1930年を通して2億8,800万円におよんだ[7]。正貨流出は1931年(昭和6年)になってもおさまらず、むしろ激しさを増した[注釈 5]

日本の輸出先は、生糸についてはアメリカ、綿製品や雑貨については中国をはじめとするアジア諸国であったが、これらの国々はとりわけ世界恐慌のダメージの強い地域であった[8]。こういったことから、1930年3月には商品市場が大暴落し、生糸、鉄鋼農産物等の物価は急激に低下した。次いで株式市場の暴落が起こり、金融界を直撃した[8]。さらに、物価と株価の下落によって中小企業倒産や操業短縮が相次ぎ、失業者が街にあふれ、国民一般の購買力も減少していった[8]。1930年中につぶれた会社は823社におよび、減資した会社は311社、解散減資総額は5億8,200万円におよんでいる[8]労働運動も激化した。また、全体の3割にあたる約3万の小売商夜逃げしている[9]。当時、現在よりも稀少であったはずの大学・専門学校卒業生のうち約3分の1が職がない状態であり、学士が職にありつけない明治いらいの異変が生じて「大学は出たけれど」が流行語となった[9]。1930年の失業者は全国で250万人余と推定されており、このような未曽有の不況は「ルンペン時代」と称された[2]

1929年を100としたときの1930年・1931年の経済諸指標は以下の通りである[2]

項目 1929年 1930年 1931年
国民所得 100 81 77
卸売物価 100 83 70
米価 100 63 63
綿糸価格 100 66 56
生糸価格 100 66 45
輸出額 100 68 53
輸入額 100 70 60

なお、1930年時点での日本の1人あたり国民所得は、アメリカの約9分の1、イギリスの約8分の1、フランスの約5分の1、ベルギーの約2分の1にすぎなかった[9]

農業恐慌

昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった(農業恐慌)。生糸の対米輸出が激減したことに加え、デフレ政策と1930年の豊作による米価下落によって農村は壊滅的な打撃を受けた。当時、の二本柱で成り立っていた日本の農村は、その両方が倒れることとなったのである。翌1931年には一転して東北地方北海道地方が大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった[注釈 6]小学校教員の給料不払い問題も起こった。穀倉地帯とよばれる地域を中心に小作争議が激化した。1933年(昭和8年)初頭には昭和三陸津波が起こり、東北地方の太平洋沿岸部は甚大な被害をこうむった。後述のとおり、1933年以降景気は回復局面に入るが、1934年(昭和9年)と1935年(昭和10年)につづいて凶作となるなど農村経済の苦境はその後もつづいた。

日本政府の対策

「ライオン首相」といわれた濱口雄幸

濱口内閣は、農業恐慌に対しては、農民への低利資金の融通や米、生糸の市価維持対策をとったが、緊縮財政の枠のなかではまったく不十分にしか行えなかった。いっぽう工業面では、1930年6月に臨時産業合理局を設けている[2][注釈 7]

濱口内閣は、対外的には協調外交を進め、1930年4月にロンドン海軍軍縮条約を調印した。しかし、同年11月、これを統帥権干犯であるとして反発する右翼によって東京駅で狙撃された。濱口は一命を取りとめたが、1931年4月、内閣不一致で総辞職した。政府は同じ4月に工業組合法重要産業統制法を制定して、輸出中小企業を中心とした合理化やカルテルの結成を促進した[2]。重要産業統制法は、指定産業での不況カルテルの結成を容認するものであったが、これが統制経済の先がけとなった[注釈 8]

濱口の後継としては同じ立憲民政党の若槻禮次郎を首班とする第2次若槻内閣が成立したが、31年9月、関東軍によって満洲事変が勃発した。また、同じ9月にはイギリスが金本位制から離脱したことにより、大量の円売り・ドル買いを誘発した。ドル買いを進めた財閥に対しては、「国賊」「非国民」として攻撃する声が国民のあいだに高まった[注釈 9]

満洲事変に対しては、若槻首相は事変不拡大を声明したが、関東軍はそれを無視して戦線を拡大した。こうして若槻内閣は、恐慌に対し有効な対策を講じることができないまま、事変後の事態の収拾にゆきづまって総辞職した。1931年12月、立憲政友会犬養毅内閣を組織した。

犬養内閣の蔵相高橋是清

犬養内閣高橋是清蔵相は、31年12月、ただちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行した。高橋蔵相は民政党政権が行ってきたデフレ政策を180度転換し、積極財政を採り、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った(これをきっかけとした軍拡政策は、景況改善後も、資源配分転換と国際協調を企図した軍縮の試みにもかかわらず継続される。これにより、満洲事変・支那事変を通じて軍部の発言力が増していくことになる)。

こうして、日本の金本位制復帰はわずか2年の短命に終わった。この2年間の深刻な恐慌は社会的危機を激化させ、濱口雄幸、井上準之助、三井財閥の大黒柱であった団琢磨らを襲ったテロリズムとなって暴発し、戦争とファシズムへの道を準備する結果となった[2]。その一方で金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増にともない景気も急速に回復し、1933年には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準に回復した[注釈 10]

1934年には、岡田内閣朝鮮人の移入によって悪化した失業率や治安を回復するため、朝鮮人が日本本土に移入しないよう朝鮮や満洲国の開発に努めた[10][11]

影響

高橋財政によって、日本は円安を利用して輸出を急増させたが、米英などからは「ソーシャル・ダンピング」であると批判を受けた。米英仏など多くの植民地を持つ国は、日本に対抗するため、自らの植民地圏で排他的なブロック経済を構築した(英:スターリング・ポンド・ブロック、米:ドル・ブロック、仏:フラン・ブロック)。ブロック経済化が進むと、一転して窮地に立たされた日本もこれらに対抗することを余儀なくされ、日満支円ブロック構築を目指してアジア進出を加速させることとなる。日本と同じ後発資本主義国であり、植民地に乏しいドイツイタリアも自国の勢力拡大を目指して膨張政策へと転じた。こうした「持てる国」と「持たざる国」との二極化は第二次世界大戦勃発の遠因となった。

脚注

注釈

  1. ^ 金解禁とは、通貨と金の兌換を自由にし、国際間の金の移動を自由にすること。
  2. ^ 大衆消費社会の到来は、T型フォードに代表される大衆車家電製品ラジオ映画レコードなど新しいメディアジャズ音楽ディズニー映画の流行、クレジット通信販売の登場など、大量生産・大量消費を特徴とするアメリカ的な生活(American way of life)をもたらした。
  3. ^ 旧平価での解禁について、大内力は、井上の銀行家的資質が災いしたと指摘している。大内(1974)p.173
  4. ^ このことを評して大内力は「あたかも台風の最中に窓をあけひろげるような結果になってしまった」と述べている。大内(1974)p.174
  5. ^ 1931年9月の満洲事変の勃発後、イギリスが金本位制から離脱して日本も金輸出再禁止が時間の問題となると、今度は、資産の防衛を考えた人びとのなかで猛烈なドル買いがおこったため、金の流出はさらに加速した。大内(1974)pp.177-178
  6. ^ 欠食児童は全国で約20万人いたといわれる。中村(1989)p.67
  7. ^ 臨時産業合理局に勤務した経験をもつ人物に木戸幸一岸信介がいる。
  8. ^ その一方で、これらの合理化はすべて労働者にしわ寄せされたため、労働運動は激化し、カルテルの容認も財閥優遇政策として労働者や中小企業者に負担を強いるものとして大衆の不満はいっそう増していった。大内(1974)pp.240-241。1930年には、温情主義経営を誇った鐘紡にも大規模な労働争議がおこり、東京市電や市バスのストライキ決行により、市民の足も麻痺した。長(2004)
  9. ^ ドル買いの動きを「国賊」「非国民」などとして批判したのは、当初は政府筋からはじめたことであった。このことについて、高橋亀吉が憤慨してドル買いは本来経済の自由に属すべきことのはずで、こうした手法がのちに右翼が何ごとにつけ「非国民」扱いするやり方につながったとして、井上準之助批判の文をのこしている。大内(1974)p.178
  10. ^ 日本がこのとき世界的に最もはやく経済回復を成し遂げた理由を、物価の下落と失業圧力によってコスト高と賃金高の要因を除去できたこと、および、金融恐慌によってすでに不良債権が処理されており、信用機構は健全だったことを挙げる見解がある。恐慌からの脱出

出典

  1. ^ 震災手形による悪化
  2. ^ a b c d e f g h i j 長(2004)
  3. ^ 恐慌からの脱出
  4. ^ a b 大内(1974)pp.170-172
  5. ^ a b 大内(1974)pp.163-170
  6. ^ a b 大内(1974)pp.172-175
  7. ^ a b 大内(1974)pp.176-179
  8. ^ a b c d 大内(1974)pp.183-184
  9. ^ a b c 中村(1989)pp.66-67
  10. ^ 朝鮮人移住対策ノ件”. 内閣. 国立公文書館アジア歴史資料センター (1934年10月30日). 2010年4月2日閲覧。
  11. ^ 朝鮮人移住対策ノ件”. 内閣. 国立国会図書館 (1934年10月30日). 2010年4月2日閲覧。

参考文献

  • 大内力『日本の歴史24 ファシズムへの道』中央公論社中公文庫〉、1979年4月。 
  • 中村政則 著「世界恐慌と日本」、野上毅(編) 編『朝日百科日本の歴史11 近代II』朝日新聞社、1989年4月。ISBN 4-02-38007-4{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 長幸男 著「昭和恐慌」、小学館 編『日本大百科全書』小学館〈スーパーニッポニカProfessional Win版〉、2004年2月。ISBN 4099067459 

外部リンク

関連項目