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'''カン・ケク・イウ'''(Kang Kek Iew、[[1942年]][[11月17日]] - )は、[[民主カンボジア]]の政治犯収容所[[S21 (トゥール・スレン)| |
'''カン・ケク・イウ'''(Kang Kek Iew、[[1942年]][[11月17日]] - )は、[[民主カンボジア|民主カンプチア]]の政治犯収容所[[S21 (トゥール・スレン)|S21A]]の所長。別名'''ドッチ'''(Duch)。なお、名前のアルファベット表記、日本語表記ともに必ずしも統一的に使われていない。クメール語のアルファベット表記に統一した規則があるわけではないので、文献によって表記が異なる。 |
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Kang Keck Ieu<ref name="voices">D.P.Chandler, Voices from S-21:Terror and History in Pol Pot's Secret Prison, University of Calfornia Press, 1999, ISBN 978-0-520-22247-2.</ref>、 |
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Kaing Khek Iev<ref>B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), Yale University Press, 2004, ISBN 978-0-300-10262-8.</ref> |
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<ref name="regime">B.Kiernan, The Pol Pot Regime(third edition), Yale University Press, 2008, ISBN 978-0-300-14434-5.</ref>、 |
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Kaing Guek Eav<ref name="regime_xxii">B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', xxii.</ref>、 |
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Duch<ref name="voices"></ref>、 |
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Deuch<ref name="regime_xxii"></ref>などの表記が知られている。 |
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日本語表記も、カイン・ゲイ・イェウ<ref name="apo_278">井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、1987、p.278.</ref>、 |
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ドゥイ<ref name="apo_278"></ref>、ドゥイチ<ref>フランソア・ビゾー著中原毅志訳「カンボジア 運命の門―「虐殺と惨劇」からの生還」講談社、2002、ISBN 978-4062113083.</ref>などが見られる。 |
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ドッチは民主カンプチア時代、カンボジア共産党常任委員会のメンバーであったが、 |
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カンボジア共産党内の序列が何位であったのかはわかっていない |
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<ref>B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', xxii-xxiii.</ref>。 |
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少なくとも20位以内には入っていない<ref>B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', xxii.</ref>。 |
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ドッチの妻の名はロム({{lang|en|Rom}})といいアムレアン({{lang|en|Amleang}})で結婚したことがわかっている |
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<ref>D.Chandler, ''Voices'', p.168, note 21.</ref>。 |
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==幼年期から青年期にかけて== |
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ドッチの来歴に関しては様々な研究があるが、資料によって異同がある。 |
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例えば、生年月日や生まれた場所は必ずしも一致した情報が与えられているわけではない。 |
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生年月日については、D.チャンドラーの書物<ref>D.Chandler, ''Voices'', p.20.</ref>では、[[1942年]]頃と書かれているのに対し、B.キアナンの本<ref>B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', xxii.</ref>では、1942年 |
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と書かれている。ドッチ本人へのインタビューに基づいた記事では、本人が1942年11月17日生まれだと述べている |
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<ref name="dt_22">Nic Dunlop and Nate Theyer, 'Chief of the Sinners', Far Eastern Economic Review, May 6, 1999, p.22.</ref>。カンボジア特別法廷のドッチに対する第1審判決文でも1942年11月17日生まれと書かれている |
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<ref name="first_trial_42">カンボジアと区別法廷ドッチ裁判第1審判決文 Case File 001/18-07-2007/ETCC/TC p.42.</ref>。 |
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貧しい中国系カンボジア人の一家に<ref>D.Chandler, ''Voices'', p.20.</ref><ref name="dt_22"></ref> |
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チョヤオ({{lang|en|Choyaot}}、コンポン・ソム州スタウン({{lang|en|Staung}})、コンポン・チェン({{lang|en|Kompong Chen}})地区)で生まれた |
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<ref name="regime_315">B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', p.315, note9.</ref>。 |
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一方で、生まれた場所に関しては、カンボジア特別法廷のドッチ裁判第1審判決文では |
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コンポン・ソム州スタウン({{lang|en|Stoeung}})地区ペアム・バン({{lang|en|Peam Bang}})郡Poev Veuy村 |
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と認定されている<ref name="first_trial_42"></ref>。 |
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ドッチの父親は中国人、母親カイン・シウ({{lang|en|Kaing Siew}})は |
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中国人との混血である<ref name="regime_315"></ref>。 |
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ドッチは、5人いた子供のうちの最年長で、唯一の男子であった<ref name="first_trial_42"></ref>。 |
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子供の頃からドッチは勉強のよくできる子として知られていた<ref name="voices_20"></ref>。 |
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母親へのインタビューによると、子供の頃のドッチは「いつも本のことばかり」考えていたという |
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<ref name="voices_20">D.Chandler, ''Voices'', p.20.</ref>。ドッチの初期の教育は、アメリカ政府がドッチの住む村に |
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送った教師達によるものだった<ref name="dt_22"></ref>。その後、地元の篤志家の援助のおかげで、エリート校リセ・シソワットで学ぶことができた<ref name="voices_20"></ref>。 |
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数学を専攻し、[[1959年]]のバカロレアでは全国2位の成績をおさめた<ref name="voices_20"></ref>。 |
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その後の数年は、コンポン・ソムのリセで数学を教えていた<ref name="voices_20"></ref>。 |
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当時の生徒の1人によれば、ドッチの授業はとても正確なものだったという |
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<ref name="voices_20"></ref><ref name="dt_22"></ref>。この時の同僚の1人が、 |
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生物学を教えていたマム・ネイ({{lang|en|Mam Nay}}、あるいは{{lang|en|Mam Ney}}) |
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である<ref name="voices_20"></ref>。 |
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両者は後にカンボジア共産党員になり、さらにS-21で要職につくことになる。 |
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[[1964年]]、プノンペン大学に付属する教育研究所<ref>D.Chandler, ''Voices'', p.19.</ref>で |
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[[コンポンチャム]]出身。中国系の家庭に生まれ、高校の数学教師だったが[[クメール・ルージュ]]に入党し内戦時代には首都の北の公安を担当し1975年から1979年までS21を運営した。部下にも囚人にも厳しかった。1979年1月7日に[[ベトナム]]軍が[[カンボジア]]に侵攻し[[プノンペン]]を制圧すると姿を消していたが、妻が殺されたことがきっかけとなりキリスト教に入信<ref>{{ Cite news | url = |
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ポストを得た<ref name="voices_20"></ref>。ドッチ自身の発言によれば、1964年8月28日のことである<ref name="dt_22"></ref>。 |
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http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2314817/2374499| title = カンボジア特別法廷の審問開始、被告の旧ポル・ポト政権幹部の顔ぶれ | publisher =AFP.BB.NEWS | accessdate = 2010-09-17 }}</ref>し、タイ国境近い森の中で難民救済活動に従事していた。1999年にその過去が発覚すると自らの罪を認め謝罪した。その後、起訴されて[[カンボジア特別法廷]]に送られた。2010年7月、禁固35年の判決。当時は、一般吏員であり、特別法廷で裁かれる立場ではないとして控訴した。 |
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その後研究所を辞めて、コンポン・チャムのチューン・プレ・リセ({{lang|en|Chhoeung Prey lycée}})で短い期間教えた |
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<ref>D.Chandler, ''Voices'', p.21.</ref>。 |
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バライン大学({{lang|en|Balaing College}})の副学長になったと書く書物もある |
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。当時の学長は、後に[[S-21]]の尋問部長になるマム・ネイである<ref name="how_261"></ref>。 |
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(マム・ネイは暗号名をチャンといい、S-21ではドッチの部下として尋問部長を務めた |
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とても背が高く、やせており、肌の色が白いことが見た目の特徴である<ref>B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', p.315.</ref>。 |
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1950年代に生物学を教えていたことを除くと、マム・ネイの青年時代についてはほとんどわかっていない<ref name="voices_24"></ref>。ベトナム語が流暢だったことから、おそらく、ベトナムで生まれ、そこで育ったのだろうと考えられている<ref name="voices_24"></ref>。 |
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[[1990年]]にもクメール・ルージュの尋問官であったことがわかっている<ref name="voices_24"></ref>。 |
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[[1994年]]の時点では[[ソン・セン]]の部下であり、その命令で、反抗的な農民の「再教育」用の監獄を作っている<ref>P.Short, Pol Pot:Anatomy of a Nightmare, Henry Holt and Company, LLC, New York, 2005, ISBN 978-0-8050-6662-3, p.436.</ref>。[[1996年]]に国連職員がチャンを見かけたときには半分リタイアした状態で、市場で売るための野菜を栽培していたという<ref name="voices_24"></ref>。)。 |
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[[1967年]]10月、プレイ・トテン({{lang|en|Prey Totoeung}})の警察署わきでバスに放火した暴動事件を主導した<ref name="how_261"></ref>ため、首謀者として政府の警察に逮捕され<ref name="how_265">B.Kiernan, ''How Pol Pot(second edition)'', p.265.</ref>、1967年から1970年まで刑務所に入れられていた<ref>B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', p.315.</ref>。同時に、マム・ネイと他4人のバライン大学の教師、2人の学生も逮捕された<ref name="how_265"></ref>。他の書物<ref>P.Short, ''Pol Pot'', p.451.</ref>でも刑務所に入っていたのは数年と書かれているが別の文献<ref name="voices_21">D.Chandler ,''Voices'', p.21.</ref>では、裁判なしに刑務所に数ヶ月入れられたが、子供時代の篤志家の力添えの結果釈放されたと書かれており、どちらが正しいのかはわからない。(他の別の文献<ref name="dt_22"></ref>でも刑務所に入っていたのは数ヶ月、と書かれている。)[[1970年]]に[[ノロドム・シハヌーク|シアヌーク]]がクーデターで権力を失った後釈放されたドッチは地下活動に入った<ref>D.Chandler, ''Voices'', p.21.</ref>。ドッチという暗号名は、少なくとも1970年には使われていたことがわかっているが<ref name="regime_315"></ref>、この頃は第33管区(カンボジア共産党がプノンペンの北に設定した1地区)の治安責任者であった<ref name="voices_21"></ref>。フランス人民俗学者フランソア・ビゾー({{lang|fr|François Bizot}}) |
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<ref>山田寛「ポル・ポト<革命>史 虐殺と破壊の4年間」講談社メチエ選書、ISBN 4-06-258305-4、p.118では仏教研究家と書かれている。</ref>が[[カンボジア共産党|クメール・ルージュ]]に逮捕・拘留されたのは1970年遅くから1971年初めのことで<ref>Philip Short, ''Pol Pot'', p.259.</ref>、この時に尋問を行ったのがドッチである<ref name="short_259-260"></ref><ref name="voices_21"></ref><ref name="regime_315"></ref>。ドッチはビゾーを2ヶ月間繰り返し尋問、[[CIA]]のスパイだと非難し何枚か詳しい自供書を書かせた<ref name="voices_21"></ref>。[[ポル・ポト]]が釈放を決定したため<ref name="short_259-260">P.Short, ''Pol Pot'', pp.259-260.</ref>、ビゾーは釈放されたが、彼によると「ドッチは、違う考えのカンボジア人は裏切り者で嘘つきだと信じていた。『真実』を言わない囚人をドッチは個人的に殴りつけていた<ref name="voices_21"></ref>。『真実』を語らないと、ドッチはひどく怒った<ref name="regime_315"></ref>。」なお、[[タ・モク]]はポル・ポトの決定に大いに不満で、ヴォン・ヴェトとドッチをどなりつけ、ビゾーを解放させないように説得したが、ヴォン・ヴェトの意見が通って解放された<ref name="short_259-260"></ref>。 |
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[[1973年]]、ドッチは第25管区(プノンペンの北に設定された1地区)へ移動になり、そこでヴォン・ヴェトとその副官のソン・センの部下になった |
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<ref name="voices_21"></ref>。この頃から、治安関係の能力を磨くようになったようである<ref name="voices_21"></ref>。 |
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1972年か1973年にドッチに会った、あるカンボジア共産党員(のちに共産党から脱退)によれば、この頃のドッチは不機嫌で怒りっぽく、教条主義の人物であったという<ref name="regime_315">B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', p.315.</ref>。 |
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==S-21Aの所長へ== |
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[[1975年]]4月、クメール・ルージュが内戦に勝利した後、サンテバル(カンボジア共産党内の治安警察のこと)の本部は、特別区のサンテバルと共にプノンペンへ移された<ref name="regime_315"></ref>。本部は4月以降数ヶ月間、第15局({{lang|en|Office 15}})という名で |
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運営されていた<ref name="voices_22">D.Chandler, ''Voices'', p.22.</ref>が、その後[[S-21]]へ改称された<ref name="regime_315"></ref>。ドッチとの関連がS-21の文書に現れだすのは1975年10月からである<ref name="voices_22"></ref>。 |
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ドッチは、次の約6ヶ月間、タクマウ市(プノンペンの南側郊外に隣接する町の名前)にあった刑務所と、プノンペン市内に散らばって |
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存在していた尋問センターとの間を行き来していた<ref name="voices_22"></ref>。S-21A([[S-21|トゥール・スレン刑務所]]の正式名称のこと<ref name="apo_270">井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、1987、p.270.</ref>)は1975年の終わりまでにはドッチの管理下に入ったが<ref>B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', pp.315-316.</ref>、ドッチが正式に所長に任命されたのは、[[1976年]]6月になってからである<ref name="voices_4">D.Chandler, ''Voices'', p.4.</ref>。ドッチはS-21の細かい事務まで監督し、自分自身はもちろん他人にも厳しい所長で、しばしば所員を震えあがらせた<ref name="voices_22"></ref>。 |
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ドッチは妻、2人の子供とともにS-21A付近の家で暮らしていた<ref name="voices_22"></ref>。ドッチ自身が囚人の殺害に加わったことはないが、時々、チューン・エック<ref>井川一久編著「新版カンボジア黙示録」p.279.</ref>({{lang|en|Choeung Ek}}、プノンペン南西15kmにある小村チューン・エック村近くの中国人墓地に作られた野外の処刑場<ref>D.Chandler, ''Voices'', p.139.</ref>。 |
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[[1977年]]の大量粛清のため、S-21A敷地内での処刑が間に合わなくなったので作られた。)へ出かけて処刑の様子を観察していたという<ref name="voices_22"></ref>。[[1978年]]には、「最終計画」というタイトルで、アメリカ、旧ソ連、台湾、ベトナムが |
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陰謀を企てていると示唆する精巧なメモランダムを、これまでの囚人の自白を用いて書き上げた<ref name="voices_22"></ref>。 |
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==ベトナム軍によるプノンペン陥落以後== |
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[[1979年]]1月、ベトナム軍がプノンペンに近づきつつあるとき、ヌオン・チェアから、S-21にある文書を廃棄して証拠隠滅するよう指示を受けたが、ドッチはこれを実行しなかった<ref name="regime_xiii">B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', xiii</ref>。 |
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S-21Aには10万ページ以上にのぼる1974年以来の文書が残っており、量が多すぎて処分不可能だったからだと考えられている<ref name="regime_452">B.Kiernan, ''Regime(third edition)'', p.452.</ref>。他の政府要人や職員がプノンペンから逃げている中、ドッチはS-21に残って、残っている囚人の殺害の様子を見とどけていた<ref name="regime_452"></ref>。 |
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プノンペンがベトナム軍の手に落ちてから1時間後の1月7日の正午になっても、ドッチはまだS-21に残っていた<ref name="regime_452"></ref>。(ベトナム軍がS-21Aを発見し内部を調べ始めたのは1月8日のことである<ref>D.Chandler ,''Voices'', p.2.</ref>。プノンペン陥落時まだ所内に残っていた所員は、1月7日は市内に隠れており、翌8日になって徒歩で脱出した<ref>D.Chandler, ''Voices'', p.161.</ref>)ドッチはかろうじてベトナム軍から逃れたが、翌日になっても3マイル先にあったプレイ・ソー刑務所(正式にはS-21Dと呼ばれていた<ref name="apo_270"></ref>。)までしか逃げることはできなかった<ref name="regime_452"></ref>。その後カルダモン山脈へ向かい、5月になってタイ国境にたどり着いた<ref name="regime_452"></ref>。そこで、ヌオン・チェアは、ドッチが文書廃棄しなかったことを知らされて激怒した<ref name="regime_xiii"></ref>。 |
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1979年以降のドッチの動向は外部には漏れ聞こえず、多くの人が1980年代にドッチは死んだと思っていた<ref name="dt_22"></ref>。 |
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実際には、タイ国境付近のクメール・ルージュ支配地域で活動しており、 |
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インタビューでのドッチ自身の発言によれば、「1986年6月25日にソン・センに呼ばれて、中国へ行って、 |
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北京外国語研究所({{lang|en|Beijing Foureign Languages Institute}})で教えるように言われた。 |
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1988年7月1日に戻ってきた。<ref name="dt_23">N.Dunlop and N.Thayer, Far Eastern Economic Review, May 6, 1999, p.23.</ref>」一方、ドッチは[[中国国際放送局]](当時は「北京放送」)で働いた、と書く文献もある<ref>P.Short, ''Pol Pot'', p.451.</ref>。 |
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その後、1992年1月にクメール・ルージュから逃げ出し、カンボジア北西部の政府側支配地域にあったスヴァイ・チェク |
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({{lang|en|Svay Chek}})に移った<ref name="dt_23"></ref>。 |
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「最初は一般の人間として生活していたが、その後、この地域の学校で教えるようになった。さらに後では、 |
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中学校でフランス語を教えた。<ref name="dt_23"></ref>」 |
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1993年12月25日にキリスト教徒になり、1996年1月6日にバッタンバン川で洗礼式を受けた<ref name="dt_23"></ref>。 |
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ドッチの受けたキリスト教の教育は、カンボジアキリスト省({{lang|en|Cambodian Ministry of Christ}}、伝導組織) |
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と太平洋キリスト教大学({{lang|en|Pacific Christian College}}、カルフォルニアが本拠の国際希望大学 |
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({{lang|en|International Hope University}})内の一組織)の学部長からのものである<ref name="dt_23"></ref>。 |
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また、洗礼式を取り仕切ったのは、アメリカ太平洋大学である<ref name="dt_23"></ref>。 |
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ドッチ自身の発言によれば、キリスト教徒になったのは自分の意思によってである<ref name="dt_23"></ref>。 |
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洗礼を受ける少し前の1995年11月11日、スヴァイ・チェクで盗賊に襲われAK-47の銃剣で突かれて妻が死亡した |
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<ref name="dt_23"></ref>。また、ドッチも負傷し、自身の安全のためクメール・ルージュ支配地域へ戻った |
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<ref name="dt_23"></ref>。1999年4月にニック・ダンロップがドッチを発見する数ヶ月前までは、 |
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複数の変名を使いながら<ref>Nate Thayer, Far Eastern Economic Review, 13 May, 1999, p.21.</ref>、タイ国境近い森の中で難民救済活動に従事していた。(国連やアメリカ難民委員会({{lang|en|American Refugee Comittee}}、私立の人道機関。 |
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タイ国境にあった国連管理の難民キャンプで難民に健康サービスや訓練を提供していた)で働いていた<ref name="dt_23"></ref>。) |
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国連もアメリカ難民委員会もドッチの過去については何も知らず、またドッチの評判は非常に高かった<ref name="dt_23"></ref>。 |
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実際、アメリカ難民委員会は、難民キャンプで腸チフスの流行を止めたことでドッチに感謝状を贈っている<ref name="dt_23"></ref>。 |
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一方で、カンボジア政府は少なくとも1997年の半ばまでにはドッチの居場所を突き止めていたが、おそらく |
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政治的決定でドッチの逮捕をしない方針をとった<ref>N.Dunlop and N.Tahyer, Far Eastern Economic Review, May 6, 1999, p.20.</ref>。 |
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1999年4月<ref name="regime_xxvi">B.Kiernan, ''Regime(third edition)'',xxvi.</ref>に、イギリス人ジャーナリストのニック・ダンロップ({{lang|en|Nic Dunlop}})によって発見され<ref name="regime_xxvi"></ref><ref>山田寛「ポル・ポト<革命>史 虐殺と破壊の4年間」ではネト・セイヤーが発見したと書かれているが、これは誤りである。</ref>、その過去が発覚すると自らの罪を認め謝罪した。その後、起訴されて[[カンボジア特別法廷]]に送られた。2010年7月、禁固35年の判決。当時は、一般吏員であり、特別法廷で裁かれる立場ではないとして控訴した。 |
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== 関連作品 == |
== 関連作品 == |
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*『カンボジア 運命の門』 フランソワ・ビゾー(著) |
*『カンボジア 運命の門―「虐殺と惨劇」からの生還』 フランソワ・ビゾー(著)中原毅志(訳)講談社、2002、ISBN 978-4062113083. |
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==出典== |
==出典== |
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2011年10月21日 (金) 20:03時点における版
カン・ケク・イウ(Kang Kek Iew、1942年11月17日 - )は、民主カンプチアの政治犯収容所S21Aの所長。別名ドッチ(Duch)。なお、名前のアルファベット表記、日本語表記ともに必ずしも統一的に使われていない。クメール語のアルファベット表記に統一した規則があるわけではないので、文献によって表記が異なる。 Kang Keck Ieu[1]、 Kaing Khek Iev[2] [3]、 Kaing Guek Eav[4]、 Duch[1]、 Deuch[4]などの表記が知られている。 日本語表記も、カイン・ゲイ・イェウ[5]、 ドゥイ[5]、ドゥイチ[6]などが見られる。 ドッチは民主カンプチア時代、カンボジア共産党常任委員会のメンバーであったが、 カンボジア共産党内の序列が何位であったのかはわかっていない [7]。 少なくとも20位以内には入っていない[8]。 ドッチの妻の名はロム(Rom)といいアムレアン(Amleang)で結婚したことがわかっている [9]。
幼年期から青年期にかけて
ドッチの来歴に関しては様々な研究があるが、資料によって異同がある。 例えば、生年月日や生まれた場所は必ずしも一致した情報が与えられているわけではない。 生年月日については、D.チャンドラーの書物[10]では、1942年頃と書かれているのに対し、B.キアナンの本[11]では、1942年 と書かれている。ドッチ本人へのインタビューに基づいた記事では、本人が1942年11月17日生まれだと述べている [12]。カンボジア特別法廷のドッチに対する第1審判決文でも1942年11月17日生まれと書かれている [13]。 貧しい中国系カンボジア人の一家に[14][12] チョヤオ(Choyaot、コンポン・ソム州スタウン(Staung)、コンポン・チェン(Kompong Chen)地区)で生まれた [15]。 一方で、生まれた場所に関しては、カンボジア特別法廷のドッチ裁判第1審判決文では コンポン・ソム州スタウン(Stoeung)地区ペアム・バン(Peam Bang)郡Poev Veuy村 と認定されている[13]。 ドッチの父親は中国人、母親カイン・シウ(Kaing Siew)は 中国人との混血である[15]。 ドッチは、5人いた子供のうちの最年長で、唯一の男子であった[13]。 子供の頃からドッチは勉強のよくできる子として知られていた[16]。 母親へのインタビューによると、子供の頃のドッチは「いつも本のことばかり」考えていたという [16]。ドッチの初期の教育は、アメリカ政府がドッチの住む村に 送った教師達によるものだった[12]。その後、地元の篤志家の援助のおかげで、エリート校リセ・シソワットで学ぶことができた[16]。 数学を専攻し、1959年のバカロレアでは全国2位の成績をおさめた[16]。 その後の数年は、コンポン・ソムのリセで数学を教えていた[16]。 当時の生徒の1人によれば、ドッチの授業はとても正確なものだったという [16][12]。この時の同僚の1人が、 生物学を教えていたマム・ネイ(Mam Nay、あるいはMam Ney) である[16]。 両者は後にカンボジア共産党員になり、さらにS-21で要職につくことになる。
1964年、プノンペン大学に付属する教育研究所[17]で ポストを得た[16]。ドッチ自身の発言によれば、1964年8月28日のことである[12]。 その後研究所を辞めて、コンポン・チャムのチューン・プレ・リセ(Chhoeung Prey lycée)で短い期間教えた [18]。 バライン大学(Balaing College)の副学長になったと書く書物もある [19][20] 。当時の学長は、後にS-21の尋問部長になるマム・ネイである[19]。 (マム・ネイは暗号名をチャンといい、S-21ではドッチの部下として尋問部長を務めた [21]。 とても背が高く、やせており、肌の色が白いことが見た目の特徴である[22]。 1950年代に生物学を教えていたことを除くと、マム・ネイの青年時代についてはほとんどわかっていない[21]。ベトナム語が流暢だったことから、おそらく、ベトナムで生まれ、そこで育ったのだろうと考えられている[21]。 1990年にもクメール・ルージュの尋問官であったことがわかっている[21]。 1994年の時点ではソン・センの部下であり、その命令で、反抗的な農民の「再教育」用の監獄を作っている[23]。1996年に国連職員がチャンを見かけたときには半分リタイアした状態で、市場で売るための野菜を栽培していたという[21]。)。
1967年10月、プレイ・トテン(Prey Totoeung)の警察署わきでバスに放火した暴動事件を主導した[19]ため、首謀者として政府の警察に逮捕され[24]、1967年から1970年まで刑務所に入れられていた[25]。同時に、マム・ネイと他4人のバライン大学の教師、2人の学生も逮捕された[24]。他の書物[26]でも刑務所に入っていたのは数年と書かれているが別の文献[27]では、裁判なしに刑務所に数ヶ月入れられたが、子供時代の篤志家の力添えの結果釈放されたと書かれており、どちらが正しいのかはわからない。(他の別の文献[12]でも刑務所に入っていたのは数ヶ月、と書かれている。)1970年にシアヌークがクーデターで権力を失った後釈放されたドッチは地下活動に入った[28]。ドッチという暗号名は、少なくとも1970年には使われていたことがわかっているが[15]、この頃は第33管区(カンボジア共産党がプノンペンの北に設定した1地区)の治安責任者であった[27]。フランス人民俗学者フランソア・ビゾー(François Bizot) [29]がクメール・ルージュに逮捕・拘留されたのは1970年遅くから1971年初めのことで[30]、この時に尋問を行ったのがドッチである[31][27][15]。ドッチはビゾーを2ヶ月間繰り返し尋問、CIAのスパイだと非難し何枚か詳しい自供書を書かせた[27]。ポル・ポトが釈放を決定したため[31]、ビゾーは釈放されたが、彼によると「ドッチは、違う考えのカンボジア人は裏切り者で嘘つきだと信じていた。『真実』を言わない囚人をドッチは個人的に殴りつけていた[27]。『真実』を語らないと、ドッチはひどく怒った[15]。」なお、タ・モクはポル・ポトの決定に大いに不満で、ヴォン・ヴェトとドッチをどなりつけ、ビゾーを解放させないように説得したが、ヴォン・ヴェトの意見が通って解放された[31]。 1973年、ドッチは第25管区(プノンペンの北に設定された1地区)へ移動になり、そこでヴォン・ヴェトとその副官のソン・センの部下になった [27]。この頃から、治安関係の能力を磨くようになったようである[27]。
1972年か1973年にドッチに会った、あるカンボジア共産党員(のちに共産党から脱退)によれば、この頃のドッチは不機嫌で怒りっぽく、教条主義の人物であったという[15]。
S-21Aの所長へ
1975年4月、クメール・ルージュが内戦に勝利した後、サンテバル(カンボジア共産党内の治安警察のこと)の本部は、特別区のサンテバルと共にプノンペンへ移された[15]。本部は4月以降数ヶ月間、第15局(Office 15)という名で 運営されていた[32]が、その後S-21へ改称された[15]。ドッチとの関連がS-21の文書に現れだすのは1975年10月からである[32]。 ドッチは、次の約6ヶ月間、タクマウ市(プノンペンの南側郊外に隣接する町の名前)にあった刑務所と、プノンペン市内に散らばって 存在していた尋問センターとの間を行き来していた[32]。S-21A(トゥール・スレン刑務所の正式名称のこと[33])は1975年の終わりまでにはドッチの管理下に入ったが[34]、ドッチが正式に所長に任命されたのは、1976年6月になってからである[35]。ドッチはS-21の細かい事務まで監督し、自分自身はもちろん他人にも厳しい所長で、しばしば所員を震えあがらせた[32]。 ドッチは妻、2人の子供とともにS-21A付近の家で暮らしていた[32]。ドッチ自身が囚人の殺害に加わったことはないが、時々、チューン・エック[36](Choeung Ek、プノンペン南西15kmにある小村チューン・エック村近くの中国人墓地に作られた野外の処刑場[37]。 1977年の大量粛清のため、S-21A敷地内での処刑が間に合わなくなったので作られた。)へ出かけて処刑の様子を観察していたという[32]。1978年には、「最終計画」というタイトルで、アメリカ、旧ソ連、台湾、ベトナムが 陰謀を企てていると示唆する精巧なメモランダムを、これまでの囚人の自白を用いて書き上げた[32]。
ベトナム軍によるプノンペン陥落以後
1979年1月、ベトナム軍がプノンペンに近づきつつあるとき、ヌオン・チェアから、S-21にある文書を廃棄して証拠隠滅するよう指示を受けたが、ドッチはこれを実行しなかった[38]。 S-21Aには10万ページ以上にのぼる1974年以来の文書が残っており、量が多すぎて処分不可能だったからだと考えられている[39]。他の政府要人や職員がプノンペンから逃げている中、ドッチはS-21に残って、残っている囚人の殺害の様子を見とどけていた[39]。 プノンペンがベトナム軍の手に落ちてから1時間後の1月7日の正午になっても、ドッチはまだS-21に残っていた[39]。(ベトナム軍がS-21Aを発見し内部を調べ始めたのは1月8日のことである[40]。プノンペン陥落時まだ所内に残っていた所員は、1月7日は市内に隠れており、翌8日になって徒歩で脱出した[41])ドッチはかろうじてベトナム軍から逃れたが、翌日になっても3マイル先にあったプレイ・ソー刑務所(正式にはS-21Dと呼ばれていた[33]。)までしか逃げることはできなかった[39]。その後カルダモン山脈へ向かい、5月になってタイ国境にたどり着いた[39]。そこで、ヌオン・チェアは、ドッチが文書廃棄しなかったことを知らされて激怒した[38]。
1979年以降のドッチの動向は外部には漏れ聞こえず、多くの人が1980年代にドッチは死んだと思っていた[12]。 実際には、タイ国境付近のクメール・ルージュ支配地域で活動しており、 インタビューでのドッチ自身の発言によれば、「1986年6月25日にソン・センに呼ばれて、中国へ行って、 北京外国語研究所(Beijing Foureign Languages Institute)で教えるように言われた。 1988年7月1日に戻ってきた。[42]」一方、ドッチは中国国際放送局(当時は「北京放送」)で働いた、と書く文献もある[43]。
その後、1992年1月にクメール・ルージュから逃げ出し、カンボジア北西部の政府側支配地域にあったスヴァイ・チェク (Svay Chek)に移った[42]。 「最初は一般の人間として生活していたが、その後、この地域の学校で教えるようになった。さらに後では、 中学校でフランス語を教えた。[42]」
1993年12月25日にキリスト教徒になり、1996年1月6日にバッタンバン川で洗礼式を受けた[42]。 ドッチの受けたキリスト教の教育は、カンボジアキリスト省(Cambodian Ministry of Christ、伝導組織) と太平洋キリスト教大学(Pacific Christian College、カルフォルニアが本拠の国際希望大学 (International Hope University)内の一組織)の学部長からのものである[42]。 また、洗礼式を取り仕切ったのは、アメリカ太平洋大学である[42]。 ドッチ自身の発言によれば、キリスト教徒になったのは自分の意思によってである[42]。 洗礼を受ける少し前の1995年11月11日、スヴァイ・チェクで盗賊に襲われAK-47の銃剣で突かれて妻が死亡した [42]。また、ドッチも負傷し、自身の安全のためクメール・ルージュ支配地域へ戻った [42]。1999年4月にニック・ダンロップがドッチを発見する数ヶ月前までは、 複数の変名を使いながら[44]、タイ国境近い森の中で難民救済活動に従事していた。(国連やアメリカ難民委員会(American Refugee Comittee、私立の人道機関。 タイ国境にあった国連管理の難民キャンプで難民に健康サービスや訓練を提供していた)で働いていた[42]。) 国連もアメリカ難民委員会もドッチの過去については何も知らず、またドッチの評判は非常に高かった[42]。 実際、アメリカ難民委員会は、難民キャンプで腸チフスの流行を止めたことでドッチに感謝状を贈っている[42]。 一方で、カンボジア政府は少なくとも1997年の半ばまでにはドッチの居場所を突き止めていたが、おそらく 政治的決定でドッチの逮捕をしない方針をとった[45]。 1999年4月[46]に、イギリス人ジャーナリストのニック・ダンロップ(Nic Dunlop)によって発見され[46][47]、その過去が発覚すると自らの罪を認め謝罪した。その後、起訴されてカンボジア特別法廷に送られた。2010年7月、禁固35年の判決。当時は、一般吏員であり、特別法廷で裁かれる立場ではないとして控訴した。
関連作品
- 『カンボジア 運命の門―「虐殺と惨劇」からの生還』 フランソワ・ビゾー(著)中原毅志(訳)講談社、2002、ISBN 978-4062113083.
出典
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- ^ B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), Yale University Press, 2004, ISBN 978-0-300-10262-8.
- ^ B.Kiernan, The Pol Pot Regime(third edition), Yale University Press, 2008, ISBN 978-0-300-14434-5.
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- ^ a b 井川一久編著「新版カンボジア黙示録」田畑書店、1987、p.278.
- ^ フランソア・ビゾー著中原毅志訳「カンボジア 運命の門―「虐殺と惨劇」からの生還」講談社、2002、ISBN 978-4062113083.
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- ^ a b B.Kiernan, Regime(third edition),xxvi.
- ^ 山田寛「ポル・ポト<革命>史 虐殺と破壊の4年間」ではネト・セイヤーが発見したと書かれているが、これは誤りである。