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「ユリウス・ネポス」の版間の差分

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{{基礎情報 君主
{{Redirect|ネポス|伝記作家のネポス|コルネリウス・ネポス}}
| 人名 = ユリウス・ネポス
[[ファイル:Tremissis Julius Nepos-RIC 3221.jpg|thumb|300px|ネポスの描かれた硬貨]]
| 各国語表記 = {{lang|la|'''Julius Nepos'''}}
'''ネポス'''(Nepos)こと'''ユリウス・ネポス'''(Julius Nepos, [[430年]]頃 - [[480年]])は、合法的に選出され、かつ[[東ローマ帝国]]から承認された最後の[[西ローマ帝国]]の[[皇帝]]。「ネポス」とは、英語の「nephew」と同じく「甥」の意味であるが、これはネポスが、東ローマ帝国の皇帝[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]の姪と結婚したためにつけられた、いわばあだ名のようなものである。
| 君主号 = ローマ皇帝
| 画像 = File:Tremissis Julius Nepos-RIC 3221.jpg
| 画像サイズ = 220px
| 画像説明 = ユリウス・ネポスを彫ったトレミッシス金貨
| 在位 = [[474年]]6月頃 - [[475年]][[8月28日]]<BR>''ダルマティア滞在期''<BR>[[475年]] - [[480年]]
| 全名 = フラウィウス・ユリウス・ネポス<BR>''Flavius Julius Nepos''
| 継承者 = [[ロムルス・アウグストゥルス]](475年以降)
| 継承形式 = 簒奪
| 配偶者1 = 東方皇帝[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]の姪
| 子女 =
| 王朝 = [[レオ朝]]([[外戚]])
| 賛歌 =
| 父親 = [[:en:Nepotianus (magister militiae)|ネポティアヌス]]
| 母親 = [[:en:Marcellinus (magister militum)|マルケリヌス]]の妹
| 出生日 = [[430年]]頃
| 生地 = [[ナルニ]]([[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア本土]])
| 死亡日 = [[480年]][[4月25日]]([[5月9日]]説、[[6月22日]]説あり)
| 没地 = [[スプリト|スパラトゥム]]([[ダルマティア]])
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
}}
'''フラウィウス・ユリウス・ネポス'''('''Julius Nepos'''<ref name="PLRE2">Martindale 1980, ''s.v. Iulius Nepos (3)'', pp. 777–778</ref>、'''Flavius Julius Nepos''' [[430年]] - [[480年]])は西暦[[5世紀]]の[[ローマ皇帝]]、及び帝位請求者。皇帝としては[[ホノリウス]]帝から数えて12人目となる[[西ローマ皇帝]](西方皇帝)で、外戚関係にある[[レオ朝]]出身の皇帝に加える場合もある。[[475年]][[8月28日]]以降に[[ダルマティア]]へ逃れてからは対立皇帝として[[西ローマ皇帝]][[ロムルス・アウグストゥルス]]への抵抗を続けた。アウグストゥルス帝退位後も皇帝称号を使用しており、何人かの歴史家は[[東ローマ皇帝]][[ゼノン]]などの承認を得ていた点から、彼の帝位請求が正当であったと考えている。


ダルマティア総督領を支配する将軍[[:en:Marcellinus (magister militum)|マルケリヌス]]の甥として生まれる。[[テオドシウス朝]]断絶後、帝位簒奪が続いていた西方帝位においてユリウス・ネポスは[[東ローマ皇帝]]位にあった妻の叔父[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]の支持を得て挙兵した。レオ1世の支援は大義名分を得る上で大きな力を発揮し、ネポスの[[アグノーメン]]もラテン語で「[[甥]]」を意味すると考えられている。
[[ブルグント人]]軍師によって帝位を簒奪した[[グリケリウス]]の治世を終わらせるために、[[474年]]に、レオ1世によって西ローマ帝国皇帝に指名された。このような場合に西側の[[アウグストゥス (称号)|アウグストゥス]]を選ぶ権利は、公式的には東側の皇帝が有していたからである。レオ1世により[[ダルマチア|ダルマティア]]の知事に選ばれた後、474年6月に西ローマ帝国の首都[[ラヴェンナ]]に入り、そこで皇帝として迎えられ、グリケリウスを追放した。グリケリウスはダルマティアの都市サロナ(現在は[[クロアチア]]の[[ソリン]])の[[主教]]に叙任された。


ネポスが挙兵に及ぶとたちまちブルグント軍は逃散してしまい、後ろ盾を失った[[グリケリウス]]帝は退位を宣言した。ネポスは[[グリケリウス]]を助命してダルマティアへ追放した後、自らが西方帝位を継承した。この時、ローマ帝国の西方領土は蛮族の侵入によって縮小していたが、未だ[[ローマ本土|イタリア本土]]とダルマティア、そしてガリア地方に幾つかの領地を押さえていた。しかしネポス帝の支配が本格化するより前に蛮族出身の軍師[[オレステス]]の反乱に遭い、短期間で帝都を追われる結末となった。
ネポスは西ローマ皇帝として、現存する領土の画定に努め、[[イタリア]]と[[ガリア]]南北を維持した。[[西ゴート王国]]と交渉し、その王[[エウリック]]との間で平和協定を結び、もはや実効支配のできなくなったいくつかの小地域と引き換えに、現在の[[プロヴァンス]]を回復した。しかしながら[[ヴァンダル族|ヴァンダル]]の王[[ガイセリック]]との交渉ははかどらず、ヴァンダルはイタリアの海域で[[海賊]]行為を続けた。ガイセリックは東ローマ帝国と平和協定を結んだばかりだったので、ネポスと新たに譲歩する必要を認めていなかったのである。


帝都を追われた後、ネポス帝は一族の領地であるダルマティアに逃れ、同地の実効支配を通じて抵抗を続けた。対するオレステスは自らがローマ人の妻に産ませた息子[[ロムルス・アウグストゥルス]]を即位させ、[[院政]]を布いた(自らが即位しなかった理由については諸説あるが、確かな事は不明である)。ローマ法においても不当行為であるアウグストゥルス帝の即位を共同君主たる東ローマ皇帝[[ゼノン]](レオ1世の娘婿)は承認せず、全面的にネポス帝の行動を支持した。476年、オレステスが異なる蛮族の指導者[[オドアケル]]と待遇面で対立した末、殺害されるとアウグストゥルス帝は退位して帝都を去った。
ネポスは、あらゆる点において、西ローマ帝国の名君のひとりであった。しかし、東ローマ帝国と通じているというので[[元老院 (ローマ)|元老院]]に人気がなく、忌み嫌われていた。ネポスは、西ローマに核となる支持者がないために、信頼の置けない[[フラウィウス・オレステス|オレステス]]を軍師に選んでいたが,これが過ちとなった。[[475年]][[8月28日]]にオレステスがラヴェンナ政府の全権を掌握してしまったのである。このため、ネポスは船でダルマティアに逃れざるを得なかった。オレステスは[[ゲルマン人]]{{要出典|date=2007年12月}}であったために自らが皇帝になることができず、ローマ人の女性に産ませた実子[[ロムルス・アウグストゥルス]]を帝位に就けた。ロムルスは10歳そこそこの少年皇帝であり、一般には最後の西ローマ帝国皇帝として知られている。しかし、合法的な手続きによってではなく[[クーデター]]によって帝位に即いた人物であり、しかも父親の傀儡であった。


オドアケルもまた、オレステスと同じく自らが皇帝になるという選択肢は取らなかったし、[[ゼノン]]もネポス帝復帰への支持を変えなかった。オドアケルはネポス帝を迂回してレオ1世と直接交渉するべく、形骸化していた元老院を復権させて彼らに陳情を行わせた。オドアケルは西方帝位の称号をレオ1世に返却し、自らはその臣下として従いたいと嘆願した。レオ1世はオドアケルを[[ドゥクス]](地方司令官、公爵の語源)に叙任、また[[ローマ本土|イタリア本土]]の実効支配を委ねる判断を下した。一方に条件として自身の共同君主たるネポス帝にも忠誠を誓う様に要求して、オドアケルは渋々ながらもこれを認めて鋳造する貨幣にネポス帝の名を刻印させた。形式的には「ゼノン→ネポス→オドアケル」の構図であったが、ネポス帝はダルマティアに留め置かれており、オドアケルも建前上の君主として彼を扱った。
逃れたネポスはしかしながら、ダルマティアにおいて正統な西ローマ皇帝として権力を握っていた。さらに、[[ガリア]]や[[コンスタンティノープル]]宮廷から皇帝として承認されていた。[[476年]]に[[オドアケル]]は、ラヴェンナを陥落させ、オレステスを殺して[[9月4日]]にロムルス・アウグストゥルスを帝位から追放すると、自らイタリアの統治者であると宣言し、東ローマ帝国皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]に、自分をゼノン帝のイタリアにおける代理者に任じるように持ちかける。ゼノンはこれを受け容れたが、ネポス自身は西ローマ帝国皇帝は依然として自分であると主張した。オドアケルはこれを容れたために、当時鋳造された貨幣にネポスの名が刻まれることになった。ガリア北部でも似たような状況起きており、ローマの将軍シアグリウスは、[[486年]]に倒されるまで、ネポスの名で貨幣を鋳造していた。


こうした状況下は4年ほど継続したが、480年にネポス帝が暗殺された事で終焉を迎えた。暗殺はオドアケル、もしくは[[グリケリウス]]による行為と考えられている。
このような状況はある事件により終結を迎える。一説によると[[479年]]ごろに、ネポスは自らがイタリアを統治したいと望んでオドアケルに対して親書を送った。さらに疑わしい話であるが,別の説によると、まだサロナ主教であったグリケリウスが、ネポスに対する復讐をオドアケルに訴えた。いずれにせよ確かなのは、オドアケルがネポスの追放を決意したということである。
==生い立ち==
===出自===
広く受け入れられている説として<ref name="drinkwater24">Drinkwater & Elton 2002, pp. 24-25</ref>、ローマ帝国の貴族(伯、[[:en:comes|コムス]])であった[[:en:Nepotianus (magister militiae)|ネポティアヌス]]の息子フラウィウス・ユリウスとして生まれたと考えられている。後に[[:en:Nepotianus (magister militiae)|ネポティアヌス]]は皇帝から軍務長官の一人に指名され、461年から南ガリアやヒスパニアの帝国領に派遣、465年に任地で死没したと記録されている<ref>Martindale 1980, ''s.v. Nepotianus (2)'', p. 778</ref>。母は父と同じ軍務長官としてダルマティア総督を務める[[:en:Marcellinus (magister militum)|マルケリヌス]]の妹であったと伝えられている<ref>[http://www.roman-emperors.org/nepos.htm Ralph W. Mathisen, "Julius Nepos (19/24 June 474 – [28 August 475 – 25 April/9 May/22 June 480)"]</ref>。


出自については歴史家ヨルダネスの記録以外には余り残っておらず、不明瞭な部分が多い事から異説も存在する<ref name="drinkwater24"/>。父ネポティアヌスが将軍であったのかどうかについても、別の同名人物と混同した可能性も指摘されている<ref name="drinkwater24"/>。叔父[[:en:Marcellinus (magister militum)|マルケリヌス]]についてはヨルダネス以外にも6世紀の歴史家[[:en:Marcellinus Comes|マルケリヌス・コムス]]がネポスについて「総督[[:en:Marcellinus (magister militum)|マルケリヌス]]の甥で貴族出身」と記している<ref name="Warlords29">MacGeorge (2002), p. 29</ref>。ヨルダネスも『[[:en:Getica|ゲティカ]]』で「マルケリヌスの甥」と記録しているが<ref name="PLRE2"/><ref>[http://people.ucalgary.ca/~vandersp/Courses/texts/jordgeti.html#XLV Jordanes, "The Origins and Deeds of the Goths". Chapter XLV (45). 1915 translation by Charles C. Mierow]</ref>、ヨルダネスが頻繁にコムスの記述を引用する点から単に書き写された可能性も考えられている<ref name="Warlords29"/>。どうあれマルケリヌスの甥である事と、ローマ貴族の一員であった点については可能性が高いと考えられている。
ネポスは[[480年]]に、部下の兵士によって殺害された。命日については、[[4月25日]]説、[[5月9日]]説、[[6月22日]]説の3つがあり、おそらく4月説が適切と考えられる。ネポスの死から間もなく、オドアケルがダルマティアを襲った。[[12月9日]]にオウィダ将軍率いる西ローマ軍を敗走させて,この地を奪った。オドアケルはその後グリケリウスを[[ミラノ|メディオラヌム]]司教に任じたというが、非常に疑わしい。


叔父[[:en:Marcellinus (magister militum)|マルケリヌス]]の存在はネポスの台頭において重要であった。偉大な将軍として知られる[[フラウィウス・アエティウス]]の配下として従軍し、皇帝[[ウァレンティニアヌス3世]]がアエティウスを暗殺した際に反乱を起こした将軍の一人であった。以来、[[:en:Marcellinus (magister militum)|マルケリヌス]]はダルマティア地方に強固な地方軍閥を作り上げ、テオドシウス朝断絶後も諸皇帝から独立した自治権を持つ存在としてダルマティアを承認させ、その総督として君臨していた。蛮族出身の軍務長官[[:enRicimer|リキメル]]の専横に対して、アンテミウス帝から重臣として迎えられていた。468年、[[:en:Marcellinus (magister militum)|マルケリヌス]]は[[:enRicimer|リキメル]]によってシチリア滞在中に暗殺された<ref>Martindale 1980, pp. 708-710, ''s.v. Marcellinus (6)''</ref><ref>A. Kazhdan 1991, p. 1081, ''s.v. Julius Nepos''</ref><ref>O'Flynn 1983, pp. 116-118</ref>。
{{Commons|Julius Nepos}}


またネポスという名はダルマチアにおいて際立った権威を持つ一族に由来するかも知れない。ダルマティアにおいてはアエリア・ネポテス、アリア・ネポス、ユリウス・ネポス、ネポテスと四人の名が刻まれた貴族の記念碑が発見されている。またサロナにある教会の碑銘にもユリウス・ネポスが生まれる以前にネポスの名が既に使用されている<ref name="Warlords42">MacGeorge (2002), p. 42</ref>。
{{西ローマ皇帝||[[473年]]-[[475年]],[[476年]]-[[480年]]}}

=== 台頭 ===
ネポスはダルマティアに支配権を持つローマ貴族として、東方領土のローマ皇帝である[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]の姪と結婚していた。ネポスの名も通常はこれに由来すると考えられている。

474年、[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]は自らの義甥ネポスを西方領土の皇帝に推挙した。制度上、テトラルキア時代から東西皇帝制は共同皇帝制に基いており、従って主となる皇帝が自身の共同者を指名する権限を持ちえていた。[[グリケリウス]]帝と対立していた[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]は、親族の人間を共同皇帝に指名したのである。ネポス軍の前に[[グリケリウス]]帝は成す術も無く投降し、サロナ市の主教としてダルマティアに追放された。

[[グリケリウス]]帝を失脚させたネポスは自身が義伯父の共同皇帝であると宣言、ローマ皇帝'''フラウィウス・ユリウス・ネポス'''(''Flavius Julius Nepos'')として即位した。

== 治世 ==
=== 再建への努力 ===
[[Image:628px-Western-Eastern-Roman-Empires-476AD.PNG|thumb|350px|476年時点でのローマ帝国]]
[[File:Young Folks' History of Rome illus420.png|thumb|250px|オドアケルに退位させられる[[ロムルス・アウグストゥルス]]]]
皇帝として、ネポス帝は西方領土の残る領域(イタリア本土、ダルマティアを含むイリュリア、ガリア地方における幾つかの領土)を統合しようと試みた。ネポス帝は南ガリアからイベリアを占領している西ゴート王国と交渉を行い、西ゴート王エウリックと和平条約を締結する事に成功した。協定で帝国が維持する事が困難であった幾つかの都市を平和的に譲る代わりに、ガリア南東のプロヴァンス地方に強固な支配権を回復させた。同様にサルディニアやコルシカ、アフリカを中心に地中海の制海権を脅かしていたヴァンダル王国のガイセリック王とも交渉を行ったが、こちらは不首尾に終っている。ネポス帝即位前にレオ1世と不戦条約を結んでいたガイセリックは譲歩に応じなかった。

国内的には元老院との対立が悩みの種であった。ネポス帝の帝位はそれまでの[[テオドシウス朝]]断絶後の君主の中でも最も正当な背景を持っていたが、それでも元老院からは支持を得られなかった。一番の要因は正当性の背景でもある義伯父レオ1世の存在で、西方領土の自主性を脅かされたと感じた元老院はネポス帝即位に悪感情を抱いていた。

=== ダルマティア亡命 ===
ネポス帝にとって命取りとなったのが、新たな軍務長官に[[フラウィウス・オレステス]]を指名した事であった。フン族の王アッティラの重臣であったというオレステスは軍務長官に抜擢されると、475年8月28日に軍を率いて反乱を起こした。不意を突かれたネポス帝はラヴェンナを攻め落とされたが、辛うじて伯父の領地であったダルマティア地方へ海路を使って脱出した。オレステスは自らがローマ人の女性に産ませた混血児[[ロムルス・アウグストゥルス]]が新たな皇帝になると宣言した。「小さな皇帝」を意味する名を持った12歳の少年は父オレステスの傀儡でしかなかった。

事態を知った東方皇帝[[ゼノン]]は[[ロムルス・アウグストゥルス]]をローマ法に基かない僭称帝であると弾劾して、その即位を承認しなかった<ref>[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/secondary/BURLAT/12*.html#4 J. B. Bury, ''History of the Later Roman Empire'', &sect;4, p. 408.]</ref>。従ってネポス帝は依然として正当性を持つ皇帝としての身分を保ち、また伯父マルケリヌスと同じくダルマティアに強固な軍閥政権を確立した。やがてオレステスと仲違いしたヘルール族の族長オドアケルがオレステスを殺害して、その息子[[ロムルス・アウグストゥルス]]帝を退位させる事件が起きる。

476年、オドアケルは西方帝国の元老院を通じて[[ゼノン]]に西方帝位を返却し、その上で皇帝への忠誠と引き換えに自身の身分保障を求めた。[[ゼノン]]は概ねオドアケルの要求を認めて彼に[[ドゥクス]]の称号を与え、イタリア本土の実効支配を委ねた。だだしネポス帝が新たな西方皇帝であり、オドアケルが忠誠を誓うべき君主は二人であると厳命した。オドアケルは忠誠の証として自らの支配権で新たに発行した金貨にネポス帝の名と肖像を刻印した。しかしその身分はあくまでも形式的でしかなく、ネポス帝はダルマティア支配に専念する事になった。

=== 暗殺 ===
歴史の進展次第ではこの体制はもっと長く続いた可能性もあったが、ネポス帝は建前上の皇帝に甘んじる事を潔しとしなかった。自身から実権を取り戻す為の準備を進めた事を知ったオドアケルはネポスを危険視し、最終的にゼノンと敵対する可能性を抱えてでもネポス帝を殺害する決意を固めたと考えられている。また、かつて追放された[[グリケリウス]]も密かに復讐の機会を伺っていたとされる。

480年、ネポス帝は自らを警護する護衛兵の手によって暗殺された。詳しい時期については諸説があり、暗殺日については[[4月25日]]説・[[5月9日]]説・[[6月22日]]説の三つが挙げられている<ref>Ensslin, Wilhelm, “Julius Nepos”, in ''Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft'', Band XVI,2 (1935), S. 1505–1510.</ref>。ダルマティアのサロナ市にある宮殿に滞在している際、兵士によって刺殺されたという。この宮殿はディオクレティアヌス帝が建設した離宮と同じ建物であったかも知れない。

実行者についてコムスはネポス軍の将軍[[:en:Ovida|オヴィダ]]が裏切ったのではないかと記している。別の歴史家[[:en:Malchus (historian)|マルチュス]]は[[グリケリウス]]が加担していた可能性を指摘している。[[グリケリウス]]はネポス帝の臣下として暗殺時に宮殿の近郊に滞在していた<ref name="Warlords62">MacGeorge (2002), p. 62</ref>。

事実はともかく[[:en:Ovida|オヴィダ]]はダルマティア総督としてオドアケルに承認されたが、後にネポス殺害を大義名分とするオドアケル軍に攻め滅ぼされた<ref name="Warlords62">MacGeorge (2002), p. 62</ref>。オヴィダは殺害され、12月9日にダルマティアはオドアケル領に併合された。一方、[[グリケリウス]]はミラノ司教としてオドアケルの重臣に転じており、これが一層に彼の関与を疑わせる要因になっている。

==家系図==
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==関連項目==
*[[ローマ皇帝一覧]]

==出典==
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==資料==
* {{cite book | last=MacGeorge | first=Penny | title=Late Roman warlords | publisher=Oxford University Press | year=2002 | isbn=0199252440 | http://books.google.gr/books?id=7iNqpYo9Qd0C&dq=Julius+Nepos+Marcellinus+%22Warlords%22&source=gbs_navlinks_s}}
* {{Cite EB1911|wstitle=Nepos, Julius}}
*[http://www.roman-emperors.org/nepos.htm Ralph W. Mathisen, "Julius Nepos (19/24 June 474 – [28 August 475 – 25 April/9 May/22 June 480)"]
* [[Arnold Hugh Martin Jones]]: ''The Later Roman Empire 284–602. A Social, Economic and Administrative Survey.'' 3 Volumes, Oxford 1964, S. 244 f. (Reprinted in 2 Volumes, Baltimore 1986).
*Martindale, John R. (ed.), ''Prosopography of the Later Roman Empire: Volume II A.D. 395-527'', 1980
*R. W. Burgess, "From Gallia Romana to Gallia Gothica: the view from Spain" in Drinkwater, J.F. & Elton, Hugh (eds.), ''Fifth-Century Gaul: A Crisis of Identity?'', 2002, pp. 19-27
*A. Kazhdan (ed.), ''The Oxford Dictionary of Byzantium'', Oxford University Press, 1991
*O'Flynn, John Michael. ''Generalissimos of the Western Roman Empire''

== 外部リンク ==
{{Wikisource1911Enc|Nepos, Julius}}
{{Commons-inline|Category:Iulius Nepos|Julius Nepos}}
*[http://www.roman-emperors.org/nepos.htm Ralph W. Mathisen, "Julius Nepos (19/24 June 474 – [28 August 475 – 25 April/9 May/22 June 480)"]
*http://www.acsearch.info/record.html?id=52935

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2012年3月12日 (月) 00:06時点における版

ユリウス・ネポス
Julius Nepos
ローマ皇帝
ユリウス・ネポスを彫ったトレミッシス金貨
在位 474年6月頃 - 475年8月28日
ダルマティア滞在期
475年 - 480年

全名 フラウィウス・ユリウス・ネポス
Flavius Julius Nepos
出生 430年
ナルニイタリア本土
死去 480年4月25日5月9日説、6月22日説あり)
スパラトゥムダルマティア
簒奪 ロムルス・アウグストゥルス(475年以降)
配偶者 東方皇帝レオ1世の姪
王朝 レオ朝外戚
父親 ネポティアヌス
母親 マルケリヌスの妹
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フラウィウス・ユリウス・ネポスJulius Nepos[1]Flavius Julius Nepos 430年 - 480年)は西暦5世紀ローマ皇帝、及び帝位請求者。皇帝としてはホノリウス帝から数えて12人目となる西ローマ皇帝(西方皇帝)で、外戚関係にあるレオ朝出身の皇帝に加える場合もある。475年8月28日以降にダルマティアへ逃れてからは対立皇帝として西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスへの抵抗を続けた。アウグストゥルス帝退位後も皇帝称号を使用しており、何人かの歴史家は東ローマ皇帝ゼノンなどの承認を得ていた点から、彼の帝位請求が正当であったと考えている。

ダルマティア総督領を支配する将軍マルケリヌスの甥として生まれる。テオドシウス朝断絶後、帝位簒奪が続いていた西方帝位においてユリウス・ネポスは東ローマ皇帝位にあった妻の叔父レオ1世の支持を得て挙兵した。レオ1世の支援は大義名分を得る上で大きな力を発揮し、ネポスのアグノーメンもラテン語で「」を意味すると考えられている。

ネポスが挙兵に及ぶとたちまちブルグント軍は逃散してしまい、後ろ盾を失ったグリケリウス帝は退位を宣言した。ネポスはグリケリウスを助命してダルマティアへ追放した後、自らが西方帝位を継承した。この時、ローマ帝国の西方領土は蛮族の侵入によって縮小していたが、未だイタリア本土とダルマティア、そしてガリア地方に幾つかの領地を押さえていた。しかしネポス帝の支配が本格化するより前に蛮族出身の軍師オレステスの反乱に遭い、短期間で帝都を追われる結末となった。

帝都を追われた後、ネポス帝は一族の領地であるダルマティアに逃れ、同地の実効支配を通じて抵抗を続けた。対するオレステスは自らがローマ人の妻に産ませた息子ロムルス・アウグストゥルスを即位させ、院政を布いた(自らが即位しなかった理由については諸説あるが、確かな事は不明である)。ローマ法においても不当行為であるアウグストゥルス帝の即位を共同君主たる東ローマ皇帝ゼノン(レオ1世の娘婿)は承認せず、全面的にネポス帝の行動を支持した。476年、オレステスが異なる蛮族の指導者オドアケルと待遇面で対立した末、殺害されるとアウグストゥルス帝は退位して帝都を去った。

オドアケルもまた、オレステスと同じく自らが皇帝になるという選択肢は取らなかったし、ゼノンもネポス帝復帰への支持を変えなかった。オドアケルはネポス帝を迂回してレオ1世と直接交渉するべく、形骸化していた元老院を復権させて彼らに陳情を行わせた。オドアケルは西方帝位の称号をレオ1世に返却し、自らはその臣下として従いたいと嘆願した。レオ1世はオドアケルをドゥクス(地方司令官、公爵の語源)に叙任、またイタリア本土の実効支配を委ねる判断を下した。一方に条件として自身の共同君主たるネポス帝にも忠誠を誓う様に要求して、オドアケルは渋々ながらもこれを認めて鋳造する貨幣にネポス帝の名を刻印させた。形式的には「ゼノン→ネポス→オドアケル」の構図であったが、ネポス帝はダルマティアに留め置かれており、オドアケルも建前上の君主として彼を扱った。

こうした状況下は4年ほど継続したが、480年にネポス帝が暗殺された事で終焉を迎えた。暗殺はオドアケル、もしくはグリケリウスによる行為と考えられている。

生い立ち

出自

広く受け入れられている説として[2]、ローマ帝国の貴族(伯、コムス)であったネポティアヌスの息子フラウィウス・ユリウスとして生まれたと考えられている。後にネポティアヌスは皇帝から軍務長官の一人に指名され、461年から南ガリアやヒスパニアの帝国領に派遣、465年に任地で死没したと記録されている[3]。母は父と同じ軍務長官としてダルマティア総督を務めるマルケリヌスの妹であったと伝えられている[4]

出自については歴史家ヨルダネスの記録以外には余り残っておらず、不明瞭な部分が多い事から異説も存在する[2]。父ネポティアヌスが将軍であったのかどうかについても、別の同名人物と混同した可能性も指摘されている[2]。叔父マルケリヌスについてはヨルダネス以外にも6世紀の歴史家マルケリヌス・コムスがネポスについて「総督マルケリヌスの甥で貴族出身」と記している[5]。ヨルダネスも『ゲティカ』で「マルケリヌスの甥」と記録しているが[1][6]、ヨルダネスが頻繁にコムスの記述を引用する点から単に書き写された可能性も考えられている[5]。どうあれマルケリヌスの甥である事と、ローマ貴族の一員であった点については可能性が高いと考えられている。

叔父マルケリヌスの存在はネポスの台頭において重要であった。偉大な将軍として知られるフラウィウス・アエティウスの配下として従軍し、皇帝ウァレンティニアヌス3世がアエティウスを暗殺した際に反乱を起こした将軍の一人であった。以来、マルケリヌスはダルマティア地方に強固な地方軍閥を作り上げ、テオドシウス朝断絶後も諸皇帝から独立した自治権を持つ存在としてダルマティアを承認させ、その総督として君臨していた。蛮族出身の軍務長官リキメルの専横に対して、アンテミウス帝から重臣として迎えられていた。468年、マルケリヌスリキメルによってシチリア滞在中に暗殺された[7][8][9]

またネポスという名はダルマチアにおいて際立った権威を持つ一族に由来するかも知れない。ダルマティアにおいてはアエリア・ネポテス、アリア・ネポス、ユリウス・ネポス、ネポテスと四人の名が刻まれた貴族の記念碑が発見されている。またサロナにある教会の碑銘にもユリウス・ネポスが生まれる以前にネポスの名が既に使用されている[10]

台頭

ネポスはダルマティアに支配権を持つローマ貴族として、東方領土のローマ皇帝であるレオ1世の姪と結婚していた。ネポスの名も通常はこれに由来すると考えられている。

474年、レオ1世は自らの義甥ネポスを西方領土の皇帝に推挙した。制度上、テトラルキア時代から東西皇帝制は共同皇帝制に基いており、従って主となる皇帝が自身の共同者を指名する権限を持ちえていた。グリケリウス帝と対立していたレオ1世は、親族の人間を共同皇帝に指名したのである。ネポス軍の前にグリケリウス帝は成す術も無く投降し、サロナ市の主教としてダルマティアに追放された。

グリケリウス帝を失脚させたネポスは自身が義伯父の共同皇帝であると宣言、ローマ皇帝フラウィウス・ユリウス・ネポスFlavius Julius Nepos)として即位した。

治世

再建への努力 

476年時点でのローマ帝国
オドアケルに退位させられるロムルス・アウグストゥルス

皇帝として、ネポス帝は西方領土の残る領域(イタリア本土、ダルマティアを含むイリュリア、ガリア地方における幾つかの領土)を統合しようと試みた。ネポス帝は南ガリアからイベリアを占領している西ゴート王国と交渉を行い、西ゴート王エウリックと和平条約を締結する事に成功した。協定で帝国が維持する事が困難であった幾つかの都市を平和的に譲る代わりに、ガリア南東のプロヴァンス地方に強固な支配権を回復させた。同様にサルディニアやコルシカ、アフリカを中心に地中海の制海権を脅かしていたヴァンダル王国のガイセリック王とも交渉を行ったが、こちらは不首尾に終っている。ネポス帝即位前にレオ1世と不戦条約を結んでいたガイセリックは譲歩に応じなかった。

国内的には元老院との対立が悩みの種であった。ネポス帝の帝位はそれまでのテオドシウス朝断絶後の君主の中でも最も正当な背景を持っていたが、それでも元老院からは支持を得られなかった。一番の要因は正当性の背景でもある義伯父レオ1世の存在で、西方領土の自主性を脅かされたと感じた元老院はネポス帝即位に悪感情を抱いていた。

ダルマティア亡命

ネポス帝にとって命取りとなったのが、新たな軍務長官にフラウィウス・オレステスを指名した事であった。フン族の王アッティラの重臣であったというオレステスは軍務長官に抜擢されると、475年8月28日に軍を率いて反乱を起こした。不意を突かれたネポス帝はラヴェンナを攻め落とされたが、辛うじて伯父の領地であったダルマティア地方へ海路を使って脱出した。オレステスは自らがローマ人の女性に産ませた混血児ロムルス・アウグストゥルスが新たな皇帝になると宣言した。「小さな皇帝」を意味する名を持った12歳の少年は父オレステスの傀儡でしかなかった。

事態を知った東方皇帝ゼノンロムルス・アウグストゥルスをローマ法に基かない僭称帝であると弾劾して、その即位を承認しなかった[11]。従ってネポス帝は依然として正当性を持つ皇帝としての身分を保ち、また伯父マルケリヌスと同じくダルマティアに強固な軍閥政権を確立した。やがてオレステスと仲違いしたヘルール族の族長オドアケルがオレステスを殺害して、その息子ロムルス・アウグストゥルス帝を退位させる事件が起きる。

476年、オドアケルは西方帝国の元老院を通じてゼノンに西方帝位を返却し、その上で皇帝への忠誠と引き換えに自身の身分保障を求めた。ゼノンは概ねオドアケルの要求を認めて彼にドゥクスの称号を与え、イタリア本土の実効支配を委ねた。だだしネポス帝が新たな西方皇帝であり、オドアケルが忠誠を誓うべき君主は二人であると厳命した。オドアケルは忠誠の証として自らの支配権で新たに発行した金貨にネポス帝の名と肖像を刻印した。しかしその身分はあくまでも形式的でしかなく、ネポス帝はダルマティア支配に専念する事になった。

暗殺

歴史の進展次第ではこの体制はもっと長く続いた可能性もあったが、ネポス帝は建前上の皇帝に甘んじる事を潔しとしなかった。自身から実権を取り戻す為の準備を進めた事を知ったオドアケルはネポスを危険視し、最終的にゼノンと敵対する可能性を抱えてでもネポス帝を殺害する決意を固めたと考えられている。また、かつて追放されたグリケリウスも密かに復讐の機会を伺っていたとされる。

480年、ネポス帝は自らを警護する護衛兵の手によって暗殺された。詳しい時期については諸説があり、暗殺日については4月25日説・5月9日説・6月22日説の三つが挙げられている[12]。ダルマティアのサロナ市にある宮殿に滞在している際、兵士によって刺殺されたという。この宮殿はディオクレティアヌス帝が建設した離宮と同じ建物であったかも知れない。

実行者についてコムスはネポス軍の将軍オヴィダが裏切ったのではないかと記している。別の歴史家マルチュスグリケリウスが加担していた可能性を指摘している。グリケリウスはネポス帝の臣下として暗殺時に宮殿の近郊に滞在していた[13]

事実はともかくオヴィダはダルマティア総督としてオドアケルに承認されたが、後にネポス殺害を大義名分とするオドアケル軍に攻め滅ぼされた[13]。オヴィダは殺害され、12月9日にダルマティアはオドアケル領に併合された。一方、グリケリウスはミラノ司教としてオドアケルの重臣に転じており、これが一層に彼の関与を疑わせる要因になっている。

家系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ネポティアヌス
 
マルケリヌスの妹
 
マルケリヌス
 
レオ1世の兄弟姉妹
 
レオ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ユリウス・ネポス
 
レオ1世の姪
 
 
 
 
 
レオ2世
 
 
アリアドネ
 
ゼノン
 
 

関連項目

出典

  1. ^ a b Martindale 1980, s.v. Iulius Nepos (3), pp. 777–778
  2. ^ a b c Drinkwater & Elton 2002, pp. 24-25
  3. ^ Martindale 1980, s.v. Nepotianus (2), p. 778
  4. ^ Ralph W. Mathisen, "Julius Nepos (19/24 June 474 – [28 August 475 – 25 April/9 May/22 June 480)"
  5. ^ a b MacGeorge (2002), p. 29
  6. ^ Jordanes, "The Origins and Deeds of the Goths". Chapter XLV (45). 1915 translation by Charles C. Mierow
  7. ^ Martindale 1980, pp. 708-710, s.v. Marcellinus (6)
  8. ^ A. Kazhdan 1991, p. 1081, s.v. Julius Nepos
  9. ^ O'Flynn 1983, pp. 116-118
  10. ^ MacGeorge (2002), p. 42
  11. ^ J. B. Bury, History of the Later Roman Empire, §4, p. 408.
  12. ^ Ensslin, Wilhelm, “Julius Nepos”, in Paulys Realencyclopädie der classischen Altertumswissenschaft, Band XVI,2 (1935), S. 1505–1510.
  13. ^ a b MacGeorge (2002), p. 62

資料

  • MacGeorge, Penny (2002). Late Roman warlords. Oxford University Press. ISBN 0199252440 
  • Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Nepos, Julius" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
  • Ralph W. Mathisen, "Julius Nepos (19/24 June 474 – [28 August 475 – 25 April/9 May/22 June 480)"
  • Arnold Hugh Martin Jones: The Later Roman Empire 284–602. A Social, Economic and Administrative Survey. 3 Volumes, Oxford 1964, S. 244 f. (Reprinted in 2 Volumes, Baltimore 1986).
  • Martindale, John R. (ed.), Prosopography of the Later Roman Empire: Volume II A.D. 395-527, 1980
  • R. W. Burgess, "From Gallia Romana to Gallia Gothica: the view from Spain" in Drinkwater, J.F. & Elton, Hugh (eds.), Fifth-Century Gaul: A Crisis of Identity?, 2002, pp. 19-27
  • A. Kazhdan (ed.), The Oxford Dictionary of Byzantium, Oxford University Press, 1991
  • O'Flynn, John Michael. Generalissimos of the Western Roman Empire

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、Julius Neposに関するメディアがあります。

ユリウス・ネポス

430年 - 480年

爵位・家督
先代
グリケリウス
ローマ皇帝
474年–480年
次代
ゼノン
先代
グリケリウス
西ローマ皇帝
474年–475年
次代
ロムルス・アウグストゥルス
先代
マルケリヌス
ダルマティア総督
468–480
次代
オヴィダ