「ロクセラーナ」の版間の差分
m r2.7.1) (ロボットによる 追加: an, az, bg, br, de, eo, es, fr, hu, hy, it, ksh, nl, pl, ru, sr, sv, th, tr, uk, zh |
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
||
(59人の利用者による、間の115版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{基礎情報 君主の正配 |
|||
{{Infobox person |
|||
| |
| 人名 = ヒュッレム・スルタン |
||
| 各国語表記 = {{Lang|ota|خُرَّم سلطان}} |
|||
| image = Khourrem.jpg |
|||
| 正配称号 = オスマン皇后 |
|||
| image_size = |
|||
| 画像 = File:Tizian 123.jpg |
|||
| caption = '''Hürrem (''Khurram'' or ''Karima'') <br />Haseki Sultan, خرم سلطان<br />Roxelana''' |
|||
| 画像説明 = 16世紀、[[ティツィアーノ・ヴェチェッリオ|ティツィアーノ]]画 |
|||
|birth_name = Alexandra Anastasia Lisowska |
|||
| 在位 = [[1533年]]/[[1534年]] – [[1558年]][[4月15日]] |
|||
|birth_date = 1506年 |
|||
| 戴冠日 = |
|||
|birth_place = [[ロハティン]](現:[[ウクライナ]]) |
|||
| 別称号 = {{仮リンク|ハセキ・スルタン|en|Haseki sultan|tr|Haseki sultan}}<br>{{Lang|ota|خُرَّم خاصکى}} |
|||
|death_date = 1558年4月18日 |
|||
| 全名 = |
|||
|death_place = [[コンスタンティノープル]](現:[[イスタンブル]]) |
|||
| 別称 = ロクセラーナ<br>{{Lang|la|Roxolena}} |
|||
|death_cause = |
|||
| 出生日 = [[1502年]] - [[1504年]]頃 |
|||
|resting_place = [[イスタンブル]]の[[スレイマニエ・モスク]] |
|||
| 生地 = [[ファイル:Kingdom of Poland-flag.svg|border|25px]] [[ポーランド王国]]、{{仮リンク|ロハティン|en|Rohatyn}}(現:{{UKR}}) |
|||
|resting_place_coordinates = |
|||
| 死亡日 = [[1558年]][[4月15日]] |
|||
|residence = |
|||
| 没地 = {{OTT1517}}、[[コンスタンティノープル]](現:{{TUR}}・[[イスタンブール]])、[[トプカプ宮殿]] |
|||
|ethnicity = [[ウクライナ人]]([[ルテニア人]]) |
|||
| 埋葬日 = |
|||
|religion = 初めは[[ギリシア正教]]、後に[[イスラム教]]へ改宗 |
|||
| 埋葬地 = {{OTT1517}}、[[コンスタンティノープル]]、[[スレイマニエ・モスク]]<ref>''The Encyclopædia Britannica'', Vol.7, Edited by Hugh Chisholm, (1911), 3; ''Constantinople, the capital of the Turkish Empire...''</ref><ref>[http://concise.britannica.com/ebc/article-9368294/Istanbul Britannica, Istanbul]:''When the Republic of Turkey was founded in 1923, the capital was moved to Ankara, and Constantinople was officially renamed Istanbul in 1930.''</ref> |
|||
|known_for = 皇后 |
|||
| 結婚 = |
|||
|spouse = [[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]] |
|||
| 配偶者1 = [[スレイマン1世]] |
|||
|children = [[セリム2世|セリム]]、ミフリマ王女、ジハンギール、バヤジット、メフメド |
|||
| |
| 配偶者2 = |
||
| 子女 = [[#子女|一覧参照]] |
|||
| 氏族 = <!--出身氏族--> |
|||
| 家名 = |
|||
| 父親 = Havrylo Lisowski<ref>{{Cite book|author=Dr Galina I Yermolenko|title=Roxolana in European Literature, History and Culturea|url=https://books.google.com/books?id=u-ehAgAAQBAJ|publisher=Ashgate Publishing, Ltd.|year=2013|pages=275|isbn=978-1-409-47611-5}}</ref><ref>[http://fabpedigree.com/s098/f074280.htm Ukrainian Orthodox priest, Havrylo Lisowsky, father of Roxelana]</ref> |
|||
| 母親 = Leksandra Lisowska |
|||
| 宗教 = [[ギリシア正教]]→[[イスラム教]] |
|||
| サイン = |
|||
}} |
}} |
||
'''ロクセラーナ'''({{翻字併記|uk|Роксолана|Roksolana}}、[[1502年]]から[[1504年]]頃<ref>https://web.archive.org/web/20060615093437/http://www.4dw.net/royalark/Turkey/turkey4.htm</ref> - [[1558年]][[4月15日]])こと'''ヒュッレム・ハセキ・スルタン'''({{翻字併記|ota|خُرَّم خاصکى سلطان|Hürrem Haseki Sultan}},)は、[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]の{{仮リンク|ハセキ・スルタン|en|Haseki sultan|tr|Haseki sultan|label=皇后}}である。 |
|||
それまでのオスマン帝国の慣習を破ってスレイマン1世との間に複数の男子をもうけ、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一妻の関係を築いた。スレイマン1世の後継争いに策動し、ハレムの住人が[[権謀術数]]を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配する先駆けとなった。また、スレイマン1世との関係性は、芸術作品の題材となった。 |
|||
'''ロクセラーナ''' もしくは '''ヒュッレム・ハセキ・スルタン''' (1506年<ref>http://web.archive.org/web/20060615093437/www.4dw.net/royalark/Turkey/turkey4.htm</ref> - 1558年4月17日、'''Roxelana'''/'''Hürrem Haseki Sultan'''/'''خرم سلطان''') は、[[オスマン帝国]]の[[スレイマン1世]]の后である。 |
|||
== 名前 == |
== 名前について == |
||
オスマン帝国において、彼女は主に''ハセキ・ヒュッレム・スルタン''(''Haseki Hürrem Sultan'')または ''ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルタン''(''Hürrem "balsaq" Haseki Sultan'')として知られていた(Haseki は妾の意)。[[トルコ語]]で Hürrem (ヒュッレム、ヒュルレム)とは「{{翻字併記|fa|خرم|Khurram}}(陽気な人)」と「{{翻字併記|ar|كريمة|Karima}}(高貴な人)」に由来している。 |
|||
ヨーロッパでは「ロクセラーナ」として知られ<ref>[[#ペンザー1992|ペンザー1992]]、262頁。</ref>、ヨーロッパの言語では{{lang-en-short|Roxelana}}、{{lang-fr-short|Roxelane}}、{{lang-pl-short|Roksolana}}、{{lang-la-short|Roxolana}}の他、Rossa、Ruziac として表記される。ロクセラーナは本名ではなくニックネームである。ロクセラニーとは15世紀までの[[東スラヴ人]](現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、彼女の名前はそのまま「[[ルーシ人]]の女」を意味する。 |
|||
[[ファイル:Sułtanka Roksolana.JPG|thumb|left|200px|ロクセラーナ]] |
|||
16世紀までロクセラーナの元の名前は秘密とされていたが、19世紀の[[ウクライナ語]]の民謡では''アナスタシア'' (''Anastasia'')、[[ポーランド語]]の言い伝えでは''アレクサンドラ・リソフスカ'' (''Aleksandra Lisowska'') とされる。 |
|||
== 生涯 == |
|||
彼女は主に''ハセキ・ヒュッレム・スルタン'' (''Haseki Hürrem Sulta '') または ''ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルタン'' (''Hürrem "balsaq" Haseki Sulta '') として知られていた(Haseki は妾の意)。ヨーロッパでは''ロクセラーナ'' (''Roxolena'') として知られ、ヨーロッパの言語では Roksolana、Roxolana、Roxelane、Rossa、Ruziac として表記される。[[トルコ語]]で Hürrem とは[[ペルシア語]]の خرم(''Khurram''、陽気な人の意)と[[アラビア語]]の كريمة(''Karima''、高貴な人の意)に由来している。ロクセラーナは本名ではなくニックネームである。ロクセラニーとは15世紀までの[[東スラヴ人]](現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、彼女の名前はそのまま[[ルーシ人]]の女を意味する。 |
|||
=== 奴隷として === |
|||
[[スラヴ人|スラヴ]]系<ref name="三橋1984-131">[[#三橋1984|三橋1984]]、131頁。</ref><ref>[[#陳1992|陳1992]]、177頁。</ref>で、[[ウクライナ人]]か[[ロシア人]]、もしくは[[ポーランド人]]だったという<ref name="三橋1984-131"/>。ポーランドの伝承やポーランド人の詩人{{仮リンク|サミュエル・トワルドーフスキー|en|Samuel Twardowski}}ら16世紀後半から17世紀前半の文献によると、[[ルーシ (地名)|ルテニア]]地方{{仮リンク|ロハティン|en|Rohatyn}}{{efn|[[ポーランド王国]]の一部である[[紅ルーシ]]の主要都市[[リヴィウ]]から南東へ68kmに位置する。}}の貧しい[[ギリシャ正教会|正教会]]司祭の娘で、本名は'''アレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ'''({{Lang-pl|Aleksandra Anastasia Lisowska}})であった<ref name="クロー2000-93">[[#クロー2000|クロー2000]]、93頁。</ref>。 |
|||
1520年代に[[ドニエストル]]やルテニア地方を略奪した[[クリミア・タタール人]]に捕えられて奴隷として<!--出典が不明確なためコメントアウト/[[クリミア半島]]の[[フェオドシヤ]]へ最初送られ、-->[[イスタンブール]]へ売られ<ref name="三橋1984-131"/>、[[スレイマン1世]]の[[大宰相]][[パルガル・イブラヒム・パシャ]]に買われた後、スレイマン1世に献上されたといわれる<ref name="クロー2000-93"/>。 |
|||
== 生い立ち == |
|||
=== スレイマン1世の寵愛を得る === |
|||
[[ファイル:Haseki Huerrem Sultan Roxelane.jpg|thumb|left|200px|18世紀に書かれたハセキ・ヒュッレム・スルタンの肖像]] |
|||
[[ファイル:Anton Hickel 001.JPG|thumb|180px|スレイマンとロクセラーナ(1780年、[[アントン・ヒッケル]]画)]] |
|||
ポーランド人の詩人[[サミュエル・トワルドーフスキー]]ら16世紀後半と17世紀前半の文献によると、ヒュッレムは[[ウクライナ人]](当時は[[ルテニア人]])の[[ギリシャ正教会]]の司祭を父にもち、[[ポーランド王国]]の一部である[[紅ルーシ]]の主要都市[[リヴィウ]]から 68 km 南東にある[[ロハティン]]で生まれた。1520年代、この地域に侵入した[[クリミア・タタール人]]に彼女はとらえられ奴隷として[[クリミア半島]]の[[フェオドシヤ]]へ最初送られ、[[コンスタンティノープル]]へ連れて行かれてスルタンである[[スレイマン1世]]の[[ハレム]]に選ばれた。 |
|||
ロクセラーナはすぐに主人であるスレイマン1世の注意を惹いて、ライバルたちに嫉妬されたものの、スレイマンの第2側室(イクバル)と呼ばれる側室から子供を成したことで第2夫人(イキンジ・カドゥン)となった。尚、カドゥンは夫人の意味。この時点でロクセラーナにとっての敵は、スレイマン1世の{{仮リンク|ヴァリーデ・スルタン|en|Valide sultan|tr|Valide sultan|label=母后}}{{仮リンク|ハフサ・ハトゥン|en|Ayşe_Hafsa_Sultan|label=ハフサ・ハトゥン}}と、ハフサ・ハトゥンを後ろ盾とする<ref name="鈴木1992-159">[[#鈴木1992|鈴木1992]]、159頁。</ref>第1夫人[[マヒデヴラン・スルタン|マヒデヴラン]](ギュルバハルとも<ref name="#2">[[#三橋1984|三橋1984]]、132頁。</ref>。{{efn|''Gülbahar''。''Gül''はバラを意味し、''Bahar''は春を意味する。直訳すると'''バラ色の春'''。}}、ロクセラーナの最初の所有者であったといわれる大宰相イブラヒム・パシャの3人であった<ref name="ペンザー1992-263"/>。 |
|||
[[ファイル:Mathio Pagani 001.jpg|thumb|240px|ロクセラーナ]] |
|||
[[ファイル:Letter of Roxelane to Sigismond Auguste complementing him for his accession to the throne 1549.jpg|thumb|left|200px|ヒュッレム・スルタンから[[ジグムント2世]]への1549年の手紙]] |
|||
[[1534年]]<ref name="鈴木1992-159"/>にハフサ・ハトゥンが死去するとマヒデヴランはスレイマンの不興を買って宮殿を追われ、[[1536年]]にイブラヒム・パシャは処刑された<ref name="ペンザー1992-263"/>。 |
|||
== スルタンとの生活 == |
|||
[[ファイル:Anton Hickel 001.JPG|thumb|200px|left|ロクセラーナとスルタン。この絵画(ドイツの[[アントン・ヒッケル]]による1780年の作品)にみられるように、2人の愛はヨーロッパ人の想像力をかきたてた]] |
|||
マヒデヴランが宮殿から追われた経緯について、[[ヴェネツィア共和国]]駐イスタンブール大使の{{仮リンク|ベルナルド・ナヴァゲロ|en|Bernardo Navagero}}は、マヒデヴランと口論を起こしたロクセラーナが自ら顔に引っ掻き傷を作った上でスレイマン1世に呼び出されるような工作をしてスレイマン1世の関心を惹き、ロクセラーナの顔の引っ掻き傷をマヒデヴランの仕業と思い込んだスレイマン1世がマヒデヴランと息子の{{仮リンク|ムスタファ (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Mustafa|label=ムスタファ}}を[[マニサ]]へ左遷させた。それによって、ムスタファがスレイマン1世から遠ざけられたばかりかスルタンの後継者としての地位から完全に脱落したことを内外に示すことになったと報告している<ref name="#2"/>。 |
|||
ヒュッレムはすぐに主人の注意を惹いて、ライバルたちに嫉妬された。ある日[[スレイマン1世]]の愛妾[[ギュルバハル]](''Gülbahar''。''Gül''はバラを意味し、''Bahar''は春を意味する)とヒュッレムが争った結果、ギュルバハルは息子であるムスタファ[[皇太子]]とともに、スレイマンから[[マニサ]]へ左遷された。この追放は、公式にスルタンの後継者としての地位からの脱落として示された。そして、ヒュッレムはライバルがいないスレイマンの妃としての地位を得た。後年、おそらくハレムからの讒言により謀反の疑いがあるとして、スルタンはムスタファを殺すように命じた。ギュルバハルは息子の死後、マニサの領土を失って[[ブルサ]]へ移された。 |
|||
[[ファイル:Roxelana Rohatyn Jul 2008151.JPG|thumb|240px|[[ウクライナ]]の[[ロハティン]]にあるヒュッレム・ハセキ・スルタン像]] |
|||
ヒュッレムのスルタンへの影響力は恐ろしいほど強いものだった。ヒュッレムはスレイマンとの間に5人の子供たち(ミフリマ皇女、[[セリム2世|セリム]]、バヤジット、ジハンギール、メフメド)を産み、正式な妻となった。スレイマンは[[オルハン]]以降正妻をもつ初めてのオスマントルコの皇帝である。このことはヒュッレムの宮殿内でのポジションを強めることになり、結局息子の1人である[[セリム2世|セリム]]が帝国を引き継ぐこととなった。ヒュッレムは様々な問題に対するスレイマンのアドバイザ的な役割をしていたともいわれ、[[外交政策]]や[[国際関係]]の政治問題に影響がみられる。彼女から[[ポーランド君主一覧#ポーランド・リトアニア連合王国のポーランド王|ポーランド王]][[ジグムント2世|ジグムント2世アウグスト]]へ出した手紙は保存されており、彼女が生きている間は[[オスマン帝国]]とポーランドの間は同盟関係だった。 |
|||
その結果、ロクセラーナはもはやライバルがいなくなったスレイマンの皇后としての地位を得た。また、イブラヒム・パシャについても、ロクセラーナが処刑に関与した具体的な証拠は存在しない<ref name="ペンザー1992-263"/>が、人々はロクセラーナの関与を疑った<ref name="林1997-157">[[#林1997|林1997]]、157頁。</ref>。 |
|||
== 慈善事業 == |
|||
[[ファイル:Bath of Roxelane Istanbul 2007.jpg|thumb|240px|ハセキ・ヒュッレム・スルタン・[[ハンマーム]]]] |
|||
[[ファイル:Istanbul - Süleymaniye camii - Türbe di Roxellana - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006.jpg|thumb|240px|ヒュッレム・スルタンの霊廟]] |
|||
ヒュッレムは政治活動とは別に、カリフ・[[ハールーン・アッ=ラシード]]の妃[[ズバイダ]]にならって慈善財団をつくり、[[メッカ]]から[[エルサレム]]までの公共建造物の多くに携わった。最初に[[モスク]]と2つの学校([[マドラサ]])、噴水と女性用の病院を、コンスタンティノープルの女性奴隷市場の近くに建築した。さらに公共浴場(ハセキ・ヒュッレム・スルタン・[[ハンマーム]])を[[アヤソフィア]]への巡礼者のために設け、エルサレムでは1552年に貧窮者の公共給食施設であるハセキ・スルタン・イマレトを設けた。 |
|||
=== 策動 === |
|||
また、彼女自身もしくは彼女の監督下でつくられた[[刺繍]]の一部は残っており、[[サファヴィー朝|イラン国王]]の[[タフマースブ1世]]へ1547年に送ったものや、1549年に[[ジグムント2世|ポーランド王]]へ送ったものがある。 |
|||
[[ファイル:Letter of Roxelane to Sigismond Auguste complementing him for his accession to the throne 1549.jpg|thumb|200px|1549年にロクセラーナが[[ポーランド国王]][[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世アウグスト]]へ宛てた手紙]] |
|||
ロクセラーナはスレイマン1世との間に儲けた5人の皇子たち({{仮リンク|メフメト (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Mehmed|label=メフメト}}、{{仮リンク|アブドゥラー (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Abdullah|label=アブドゥラー}}、[[セリム2世|セリム]]、{{仮リンク|バヤズィト (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Bayezid|label=バヤズィト}}、{{仮リンク|ジハンギル (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Cihangir|label=ジハンギル}})のうち、早世したアブドゥラーを除く4人の皇子たちのいずれかを次期スルタンとするべく策動したといわれている<ref name="林1997-157"/>。 |
|||
一時は長男のメフメトが有力となったが1543年に[[天然痘]]に罹って<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、250頁。</ref>早世し、マヒデヴランの子ムスタファが再び有力となった。しかし、ムスタファは1553年にイラン遠征軍の陣中で突然処刑され、マヒデヴランはマニサから[[ブルサ]]へ移された。ムスタファは軍人として名声が高く<ref name="鈴木1992-168-169">[[#鈴木1992|1992]]、168-169頁。</ref>、とりわけ[[イェニチェリ]]から強く支持されており<ref name="フリーリ2005-255">[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、255頁。</ref>、突然の処刑にイェニチェリは怒り、反乱を起こす寸前にまで至った<ref name="鈴木1992-168-169"/><ref name="フリーリ2005-255"/>。 |
|||
[[エステル・ハンダリ]] (Esther Handali) がよく彼女の秘書・仲介者として働いた。 |
|||
スレイマン1世がムスタファを処刑した動機は不明だが、政権内を含む世論はロクセラーナが娘の{{仮リンク|ミフリマー・スルタン|en|Mihrimah Sultan (daughter of Suleiman I)|label = }}とその婿で大宰相の[[リュステム・パシャ]]とともに「徳の高いスルタンの目をくもらせた」と考えた<ref>[[#林1997|林1997]]、157-158頁・161-162頁。</ref>{{efn|イスタンブールの住民の間では、ドゥカーギンザーデ・ヤフヤーによる、ムスタファの死を悼み、リュステム・パシャ(および暗にその任命権者であるスレイマン1世)を批判する詩が流行した<ref>[[#林1997|林1997]]、162-164頁。</ref>。}}。 |
|||
== 死 == |
|||
16世紀の女流詩人ニサーイーは次のような、スレイマン1世と「ロシアの魔女」、すなわちロクセラーナを非難する詩を作った<ref>[[#林1997|林1997]]、155-156頁</ref>。 |
|||
ヒュッレムは1558年4月18日に没し、洗練された[[イズニク]]・タイルで装飾された霊廟(テュルベ)に葬られた。霊廟は[[スレイマニエ・モスク]]のスレイマンのものと隣接している。 |
|||
{{Quotation| |
|||
ロシアの魔女の言葉を耳に入れ |
|||
企みと魔術にだまされて、あの悪女の言いなりとなり |
|||
生命の園の収穫を、あの気ままな糸杉のなすがままにした |
|||
ああ、無慈悲なる世界の王よ |
|||
かつてあなたが若かった時、あなたは何ごとも公平に正しく行っていたのに |
|||
その振る舞いと気質で民を幸福にしていたのに |
|||
年老いた今、悪しき不正義を行うとは}} |
|||
スレイマン1世はムスタファの子や側近も処刑する一方、政権内の不満を抑えるために[[1553年]]にリュステム・パシャを罷免した<ref>[[#林1997|林1997]]、161頁。</ref>。さらにリュステム・パシャが処刑されるという噂が立つと、ロクセラーナは助命のために奔走した。結局、リュステム・パシャは[[1555年]]に大宰相の地位に返り咲いた<ref name="林1997-158">[[#林1997|林1997]]、158頁。</ref>。ロクセラーナの庇護の下、リュステム・パシャは蓄財に精を出し、財力をもって党派を形成して政治力を保持した。この手法は以降の時代の政治家によって踏襲された<ref name="林1997-158"/>。 |
|||
ロクセラーナは{{仮リンク|ヴァリーデ・スルタン|label=ヴァリーデ・スルタン(スルタンの母后)|en|Valide sultan|tr|Valide sultan}}や第一カドゥン(側室)、宦官ら[[ハレム]]の住人たちが権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配する{{仮リンク|女人政治 (オスマン帝国)|en|Sultanate of Women|tr|Kadınlar saltanatı|label=カドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)}}<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、259頁。</ref>と呼ばれる時代の幕を開けたと評価されている<ref>[[#ペンザー1992|ペンザー1992]]、281-282頁。</ref>。 |
|||
また、ロクセラーナは様々な問題に対するスレイマンのアドバイザー的な役割をしていたともいわれ、[[外交政策]]や[[国際関係]]の政治問題に影響が見られる。一例として彼女から[[ポーランド国王]][[ジグムント2世 (ポーランド王)|ジグムント2世アウグスト]]へ出した手紙が現存している。ロクセラーナの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれた。 |
|||
=== 逝去 === |
|||
[[ファイル:Istanbul - Süleymaniye camii - Türbe di Roxellana - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006.jpg|thumb|200px|ロクセラーナの霊廟]] |
|||
[[ファイル:Mausoleum of Roxelana 02.jpg|thumb|200px|ロクセラーナの棺]] |
|||
ムスタファの処刑により、スレイマン1世の後継候補はロクセラーナが産んだ3人の男子に絞られた<ref name="鈴木1992-169">[[#鈴木1992|鈴木1992]]、169頁。</ref>が、このうち、ジハンギルはムスタファが処刑された直後に死亡した(処刑にショックを受けたことが原因ともいわれている)<ref>[[#林1997|林1997]]、161-162頁。</ref>。 |
|||
残るセリムとバヤズィトのうち、ロクセラーナはより有能なバヤズィトの即位を望んでいたとされるが、いずれが後継者となるかを見届けることなく、[[1558年]][[4月15日]]に、50代半ばで逝去した<ref name="鈴木1992-169"/>。 |
|||
遺体は宮廷お抱えの建築家[[ミマール・スィナン]]が[[スレイマニエ・モスク]]の境内に建てた霊廟(テュルベ)に葬られた。後にスレイマン1世の霊廟もスレイマニエ・モスクの境内に建てられた。2つの霊廟は八角形でドームを複雑に配置した構造で、「単純多角形の本体にドームが1つ」という当時の伝統的なデザインとは大きく異なっている<ref>[[#陳1992|陳1992]]、175頁。</ref>。 |
|||
=== 死後 === |
|||
セリムとバヤズィトの衝突を辛うじて抑えていた<ref name="#3">[[#林1997|林1997]]、165頁。</ref>ロクセラーナの死後、両者の後継争いは激化し<ref name="#3"/><ref>[[#三橋1984|三橋1984]]、140頁。</ref>、セリムは側近の[[ララ・ムスタファ・パシャ]]の策謀によってバヤズィトに対するスレイマン1世の評価を低下させることに成功した<ref>[[#鈴木1992|鈴木1992]]、169頁。</ref><ref>[[#クロー2000|クロー2000]]、219-220頁。</ref>。 |
|||
形勢不利を悟ったバヤズィトは軍事行動を起こしたものの、スレイマン1世の支持を受けたセリムの前に敗れ、イラン([[サファヴィー朝]])に亡命したが最終的にはセリムに引き渡され、1561年に処刑された<ref>[[#林1997|林1997]]、166-168頁。</ref>。「サルホシュ・セリム(酔っぱらいのセリム)」と呼ばれた<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、256頁。</ref><ref>[[#クロー2000|クロー2000]]、207頁。</ref>セリムが後継争いに勝利したのは、臆病であったがゆえに自ら積極的な行動に出なかったためとも、ロクセラーナがセリムに飲酒を薦めて無能者のふりをするように命じたためともいわれている<ref>[[#林1997|林1997]]、167頁。</ref>。 |
|||
スレイマン1世の死後スルタンに即位した[[セリム2世|セリム]]は国家の運営を官人に任せきりにし<ref>[[#林1997|林1997]]、170-172頁。</ref>、「バーブ・ウッサーデ(至福の家)」と呼ばれる館で酒と女に溺れる日々を過ごした<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、258-259頁。</ref>。セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官人による支配にスルタンが従う形で行われるようになった<ref>[[#林1997|林1997]]、172頁。</ref>。 |
|||
{{Clear}} |
|||
== 子女 == |
|||
スレイマン1世との間に6人の子を儲けた。 |
|||
* {{仮リンク|メフメト (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Mehmed|label=メフメト}}(1521年 - 1543年) - [[天然痘]]に罹り病死<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、244・250頁。</ref> |
|||
* {{仮リンク|ミフリマー・スルタン|en|Mihrimah Sultan (daughter of Suleiman I)|label = }}(1522年 - 1578年) - 大宰相[[リュステム・パシャ]]と結婚<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、244・249頁。</ref>。[[イスタンブール]]にはその名を冠したモスクが2つある<ref>[[#陳1992|陳1992]]、189-190頁。</ref> |
|||
* {{仮リンク|アブドゥラー (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Abdullah|label=アブドゥラー}}(1522年 - 1526年) - 疫病に罹り病死<ref name="#1">[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、244頁。</ref>。 |
|||
* [[セリム2世]](1524年 - 1574年) |
|||
* {{仮リンク|バヤズィト (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Bayezid|label=バヤズィト}}(1525年 - 1561年) - ロクセラーナの死後、セリムとの後継争いに敗れ処刑された<ref>[[#林1997|林1997]]、165-168頁。</ref> |
|||
* {{仮リンク|ジハンギル (スレイマン1世の子)|en|Şehzade Cihangir|label=ジハンギル}}(1531年 - 1553年) - [[くる病]]を患い、「エーリ(せむし)」と呼ばれた。腹違いの兄ムスタファの処刑の直後に病死<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、244・255頁。</ref> |
|||
== 人物 == |
|||
ロクセラーナについて、[[ヴェネツィア共和国]]の大使ブラガディーノは、「美人ではないが愛想がよく、陽気な性格である」と報告している<ref>[[#クロー2000|クロー2000]]、93頁。</ref>。同じくヴェネツィア共和国の大使ナヴァゲロは、「性質のよくない、いわばずる賢い女性である」と報告している<ref>[[#三橋1984|三橋1984]]、131頁。</ref>。 |
|||
== 後世への影響 == |
== 後世への影響 == |
||
=== 慣習への挑戦 === |
|||
ロクセラーナは自身のため、スレイマン1世にオスマン帝国の慣習を次々と破らせた。まず、オスマン帝国では1人の女性がスルタンとの間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性はスルタンから遠ざけられるという慣習があった。しかし、スレイマン1世はロクセラーナが男子を出産した後も側に置き続け、最終的にロクセラーナとの間に5人の男子を儲けて正式な妻に迎えた<ref name="林1997-156">[[#林1997|林1997]]、156頁。</ref>。 |
|||
オスマン帝国では14世紀後半に在位した[[ムラト1世]]以来、妃と法的な婚姻関係を結ぶスルタンは存在しなかった<ref name="ペンザー1992-263"/>が、ロクセラーナはこの慣習を破らせることにも成功した<ref>[[#三橋1984|三橋1984]]、133頁。</ref>。婚姻関係を結ぶに当たり、スレイマン1世はロクセラーナを奴隷の地位から解放する法的手続きをとったという<ref name="林1997-156"/>。ロクセラーナはさらに、自らの地位を脅かしうる美貌の側室数人を降嫁させ<ref>[[#ペンザー1992|ペンザー1992]]、264頁。</ref>、事実上の一夫一婦の関係を構築して自らの地位を盤石なものとした<ref name="林1997-156"/>。2人の関係に対する[[イスタンブール]]市民の反応について、イタリア人のバッサーノは「スレイマンのロクゼラナに寄せる愛情と信頼の深さは、すべての臣民があきれかえるほどで、スレイマンは魔法にかかったとさえ言われている」と書き記している<ref name="#1"/>。 |
|||
ヒュッレム・ハセキ・スルタン、もしくはロクセラーナは、ヨーロッパでは有名で、現代トルコや西側で多くの芸術作品で扱われている。絵画や、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ヨーゼフ・ハイドン]]の[[交響曲第63番 (ハイドン)|交響曲第63番]]を含む音楽作品、オペラ、バレエ、[[ウクライナ語]]や[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]で書かれた小説などのテーマとなった。 |
|||
また、ロクセラーナは[[1541年]]、自らが従える女奴隷や宦官とともに[[トプカプ宮殿]]内のスレイマン1世の居住区画に住むことを許された<ref name="ペンザー1992-263">[[#ペンザー1992|ペンザー1992]]、263頁。</ref>。 |
|||
2007年、ウクライナの港町[[マリウポリ]]の[[ムスリム]]は、ロクセラーナを祭るためにモスクを開いた<ref>[http://www.risu.org.ua/eng/news/article;18370/ Religious Information Service of Ukraine]</ref>。 |
|||
== |
=== 慈善事業 === |
||
ロクセラーナはカリフ・[[ハールーン・アッ=ラシード]]の妃[[ズバイダ]]にならって慈善財団をつくり、[[メッカ]]から[[エルサレム]]までの公共建造物の多くに携わった。最初に[[モスク]]と2つの学校([[マドラサ]])、噴水と女性用の病院を、イスタンブールの女性奴隷市場の近くに建築した。1556年に建設された公共浴場{{仮リンク|ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム|en|Hagia Sophia Hurrem Sultan Bathhouse}}は建築家[[ミマール・スィナン]]の設計によるもので、収入は当時、モスクとして使われていた[[アヤソフィア|アヤ・ソフィア]]への財政支援に充てられた<ref>[[#フリーリ2005|フリーリ2005]]、253-254頁。</ref><ref>[[#陳1992|陳1992]]、201-202頁。</ref>。エルサレムでは1552年に貧窮者の公共給食施設であるハセキ・スルタン・イマレトを設けた。 |
|||
また、彼女自身もしくは彼女の監督下で作られた[[刺繍]]の一部は残っており、[[サファヴィー朝|イラン]]国王の[[タフマースブ1世]]へ1547年に送ったものや、1549年に[[ジグムント2世 (ポーランド王)|ポーランド国王]]へ送ったものがある。 |
|||
*[[オスマン帝国]] |
|||
*[[オスマン家]] |
|||
*[[オスマン帝国の君主]] |
|||
彼女の秘書・仲介者として{{仮リンク|エステル・ハンダリ|en|Esther Handali}}がよく働いた。 |
|||
== 脚注 == |
|||
{{Reflist}} |
|||
{{gallery |
|||
|File:Bath of Roxelane Istanbul 2007.jpg|{{仮リンク|ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム|en|Hagia Sophia Hurrem Sultan Bathhouse}}(2007年撮影) |
|||
|File:Mimar Sinan 1556 Hurrem Sultan Hamami.jpg|1556年設立であることを示すプレート |
|||
}} |
|||
=== ヨーロッパ === |
|||
ロクセラーナはヨーロッパでは有名で、現代トルコや西側で多くの芸術作品で扱われている。絵画や、音楽作品、オペラ、バレエ、[[ウクライナ語]]や[[英語]]、[[フランス語]]、[[ドイツ語]]で書かれた小説などのテーマとなった。 |
|||
2007年、ウクライナの港町[[マリウポリ]]の[[ムスリム]]は、ロクセラーナを祭るためにモスクを建設した<ref>[http://www.risu.org.ua/eng/news/article;18370/ Religious Information Service of Ukraine]</ref>。 |
|||
== ギャラリー == |
|||
{{gallery |
|||
|File:Mathio Pagani 001.jpg|1540-50年代画、[[大英博物館]]収蔵 |
|||
|File:Khourrem.jpg|16世紀画 |
|||
|File:Rosa, Consort of Suleiman, Emperor of the Turks.jpg|17世紀画、[[ロイヤル・コレクション|英王室コレクション]] |
|||
|File:Haseki Huerrem Sultan Roxelane.jpg|18世紀画、[[トプカプ宮殿]]博物館収蔵 |
|||
|File:Stamp of Ukraine s148.jpg|1997年発行、[[ウクライナ]]共和国の[[切手]] |
|||
}} |
|||
== 参考文献== |
== 参考文献== |
||
=== 日本語の文献 === |
|||
* {{Cite book|和書|author = アンドレ・クロー(著)|others = 浜田正美(訳)|year = 2000|title = スレイマン大帝とその時代|publisher = 法政大学出版局|isbn = 4-588-23802-7|ref = クロー2000}} |
|||
* {{Cite book|和書|author= 鈴木董|authorlink=鈴木董|year = 1992|title = オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」|series = 講談社現代新書 1097|publisher = 講談社|isbn = 4-06-149097-4|ref = 鈴木1992}} |
|||
* {{Cite book|和書|author= 陳舜臣|authorlink=陳舜臣|year = 1992|title = イスタンブール|series = 世界の都市の物語4|publisher = [[文藝春秋]]|isbn = 4-16-509560-5|ref = 陳1992}} |
|||
* {{Cite book|和書|author= 林佳世子|authorlink=林佳世子|year = 1997|title = オスマン帝国の時代|series = 世界史リブレット19|publisher = 山川出版社|isbn = 4-634-34190-5|ref = 林1997}} |
|||
* {{Cite book|和書|author = ジョン・フリーリ(著)|others = 鈴木董(監修)、長縄忠(訳)|year = 2005|title = イスタンブール 三つの顔をもつ帝都|publisher = [[エヌ・ティ・ティ出版|NTT出版]]|isbn = 4-7571-4066-5|ref = フリーリ2005}} |
|||
* {{Cite book|和書|author = N.M.ペンザー(著)|others = 岩永博(訳)|year = 1992|title = トプカプ宮殿の光と影|series = りぶらりあ選書|publisher = 法政大学出版局|isbn = 4-588-02130-3|ref = ペンザー1992}} |
|||
* {{Cite book|和書|author = 三橋富治男|year = 1984|title = オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝|series = 清水新書 010|publisher = [[清水書院]]|isbn = 4-389-44010-1|ref = 三橋1984}} |
|||
=== 日本語以外の文献 === |
|||
*Thomas M. Prymak, "Roxolana: Wife of Suleiman the Magnificent," ''Nashe zhyttia/Our Life'', LII, 10 (New York, 1995), 15–20. 英語で書かれた写真入りのバイオグラフィ。 |
*Thomas M. Prymak, "Roxolana: Wife of Suleiman the Magnificent," ''Nashe zhyttia/Our Life'', LII, 10 (New York, 1995), 15–20. 英語で書かれた写真入りのバイオグラフィ。 |
||
*Zygmunt Abrahamowicz, "Roksolana," ''Polski Slownik Biograficzny'', vo. XXXI (Wroclaw-etc., 1988–89), 543–5. ポーランド人トルコ研究家が書いたポーランド語の記事。 |
*Zygmunt Abrahamowicz, "Roksolana," ''Polski Slownik Biograficzny'', vo. XXXI (Wroclaw-etc., 1988–89), 543–5. ポーランド人トルコ研究家が書いたポーランド語の記事。 |
||
*Galina Yermolenko, "Roxolana: The Greatest Empresse of the East," ''The Muslim World'', 95, 2 (2005), 231–48. ヨーロッパ人(特にイタリア人)から |
*Galina Yermolenko, "Roxolana: The Greatest Empresse of the East," ''The Muslim World'', 95, 2 (2005), 231–48. ヨーロッパ人(特にイタリア人)から見たもので、ウクライナ語とポーランド語の文献に精通している。 |
||
*ロクセラーナについては、英語で多くの[[歴史小説]]が書かれた。 Barbara Chase Riboud's ''Valide'' (1986); Alum Bati's ''Harem Secrets'' (2008); Colin Falconer, Aileen Crawley (1981–83), and Louis Gardel (2003); ''Pawn in Frankincense'', the fourth book of the ''Lymond Chronicles'' by Dorothy Dunnett; [[ロバート・E・ハワード|Robert E. Howard]] in ''The Shadow of the Vulture''. |
|||
== 題材とした作品 == |
|||
=== 文学等 === |
|||
==== 日本語 ==== |
|||
;小説 |
|||
* {{Cite book|和書|author = [[渋沢幸子]]|year = 1998|title = 寵妃ロクセラーナ|publisher = [[集英社]]|isbn = 4-08-783103-5}} |
|||
;漫画 |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[篠原千絵]]|title=[[夢の雫、黄金の鳥籠]]|publisher=[[小学館]]}} |
|||
==== 日本語以外 ==== |
|||
[[File:Émilie Leverd dans le rôle de Roxelane (Trois Sultanes de Favart).jpg|thumb|200px|ロクセラーナを演じる女優{{仮リンク|ジャンヌ=エミリー・レヴァード|fr|Jeanne-Émilie Leverd}}(1808年、{{仮リンク|アデル・ローマニー|en|Adèle Romany}}画)]] |
|||
;戯曲 |
|||
*『ソリマン2世、あるいは3人のスルタンの妻』(Soliman II ou Les Trois Sultanes) - [[フランス]]の[[劇作家]]{{仮リンク|シャルル・シモン・ファヴァール|en|Charles Simon Favart}}による[[喜劇]] |
|||
;小説 |
|||
*ロクセラーナについて、英語で多くの[[歴史小説]]が書かれた。 Barbara Chase Riboud's ''Valide'' (1986); Alum Bati's ''Harem Secrets'' (2008); Colin Falconer, Aileen Crawley (1981–83), and Louis Gardel (2003); ''Pawn in Frankincense'', the fourth book of the ''Lymond Chronicles'' by Dorothy Dunnett; [[ロバート・E・ハワード|Robert E. Howard]] in ''The Shadow of the Vulture''. |
|||
*ウクライナ語の小説では右記がある。 Osyp Nazaruk (1930), Mykola Lazorsky (1965), Serhii Plachynda (1968), and [[パヴロ・ザフレベルニィ|Pavlo Zahrebelnyi]] (1980). |
*ウクライナ語の小説では右記がある。 Osyp Nazaruk (1930), Mykola Lazorsky (1965), Serhii Plachynda (1968), and [[パヴロ・ザフレベルニィ|Pavlo Zahrebelnyi]] (1980). |
||
*その他の言語 |
*その他の言語についても、フランス語では、Willy Sperco の伝記小説 (1972) ; ドイツ語では Johannes Tralow の小説 (1944) ; セルビア語では Radovan Samardzic の小説 (1987); トルコ語では Ulku Cahit (2001).がある。 |
||
=== 音楽 === |
|||
*[[交響曲第63番 (ハイドン)]] - 第2楽章の副題が「ラ・ロクスラーヌ」(La Roxelane) |
|||
===ドラマ=== |
|||
*ウクライナのテレビドラマ『{{仮リンク|ロクセラーナ (テレビドラマ)|label=ロクセラーナ|uk|Роксолана (телесеріал)}}』 1996-2003年。 |
|||
*トルコのテレビドラマ『[[オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜]]』{{efn|直訳したタイトル名は『'''華麗なる世紀'''』。}} |
|||
:ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)をトルコ系ドイツ人女優の{{仮リンク|メルイェム・ウゼルリ|en|Meryem Uzerli|tr|Meryem Uzerli|label=メルイェム・ウゼルリ}}(第1シーズンから第3シーズンまで)とトルコ人女優の{{仮リンク|ヴァリーデ・ペルキン|en|Vahide Perçin|tr|Vahide Perçin|label=ヴァリーデ・ペルキン}}(最終第4シーズン)が演じた。日本(2017年、[[チャンネル銀河]]放映や[[Hulu]]配信)を含む多くの国で放送されている。 |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
=== 注釈 === |
|||
{{Notelist}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|2}} |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
{{ |
{{Commonscat|Roxelana}} |
||
*{{コトバンク|ロクソラン}} |
|||
*[http://www.ucalgary.ca/applied_history/tutor/islam/empires/ottoman/roxelana.html University of Calgary | Roxelana] |
|||
*{{コトバンク|ヒュルレム}} |
|||
*[http://www.sinanasaygi.com/en/eserler.asp?action=eserDetay&ID=75 Roxelana's tomb] |
|||
*{{Wayback|url=http://www.ucalgary.ca/applied_history/tutor/islam/empires/ottoman/roxelana.html|title=University of Calgary | Roxelana|date=20120620014647}} |
|||
{{S-start}} |
|||
{{デフォルトソート:ろくせらあな}} |
|||
{{S-roy|tr}} |
|||
[[Category:1510年代生]] |
|||
{{S-new|reason=}} |
|||
[[Category:1558年没]] |
|||
{{S-ttl|title={{OTT}}[[:en:Haseki Sultan|皇后(ハセキ・スルタン)]]|years=[[1533年]]/[[1534年]] – [[1558年]][[4月15日]]}} |
|||
{{S-aft|after=[[ヌール・バヌ|ヌールバヌ・スルタン]]}} |
|||
{{End}} |
|||
{{Normdaten}} |
|||
{{DEFAULTSORT:ろくせらあな}} |
|||
[[Category:オスマン帝国の后妃]] |
[[Category:オスマン帝国の后妃]] |
||
[[Category: |
[[Category:スレイマン1世|*ろくせらあな]] |
||
[[Category: |
[[Category:16世紀の后妃]] |
||
[[Category:奴隷]] |
[[Category:奴隷]] |
||
[[Category:イスラム教への改宗者]] |
|||
[[Category:リトアニア大公国の人物]] |
|||
[[an:Roksolana]] |
|||
[[Category:16世紀ヨーロッパの女性]] |
|||
[[az:Xürrəm Sultan]] |
|||
[[Category:16世紀トルコの人物]] |
|||
[[bg:Александра Лисовска]] |
|||
[[Category:1500年代生]] |
|||
[[br:Hürrem Sultan]] |
|||
[[ |
[[Category:1558年没]] |
||
[[en:Roxelana]] |
|||
[[eo:Roksolana]] |
|||
[[es:Roxelana]] |
|||
[[fr:Roxelane]] |
|||
[[hu:Hürrem szultána]] |
|||
[[hy:Ռոկսելանա]] |
|||
[[it:Roxelana]] |
|||
[[ksh:Roxelane]] |
|||
[[nl:Roxelana]] |
|||
[[pl:Roksolana]] |
|||
[[ru:Роксолана]] |
|||
[[sr:Рокселана]] |
|||
[[sv:Roxelana]] |
|||
[[th:ร็อกเซลานา]] |
|||
[[tr:Hürrem Sultan]] |
|||
[[uk:Роксолана]] |
|||
[[zh:许蕾姆苏丹]] |
2024年9月18日 (水) 11:37時点における最新版
ヒュッレム・スルタン خُرَّم سلطان | |
---|---|
オスマン皇后 | |
16世紀、ティツィアーノ画 | |
在位 | 1533年/1534年 – 1558年4月15日 |
別称号 |
ハセキ・スルタン خُرَّم خاصکى |
別称 |
ロクセラーナ Roxolena |
出生 |
1502年 - 1504年頃 ポーランド王国、ロハティン(現: ウクライナ) |
死去 |
1558年4月15日 オスマン帝国、コンスタンティノープル(現: トルコ・イスタンブール)、トプカプ宮殿 |
埋葬 | オスマン帝国、コンスタンティノープル、スレイマニエ・モスク[1][2] |
配偶者 | スレイマン1世 |
子女 | 一覧参照 |
父親 | Havrylo Lisowski[3][4] |
母親 | Leksandra Lisowska |
宗教 | ギリシア正教→イスラム教 |
ロクセラーナ(ウクライナ語: Роксолана, ラテン文字転写: Roksolana、1502年から1504年頃[5] - 1558年4月15日)ことヒュッレム・ハセキ・スルタン(オスマントルコ語: خُرَّم خاصکى سلطان, ラテン文字転写: Hürrem Haseki Sultan,)は、オスマン帝国のスレイマン1世の皇后である。
それまでのオスマン帝国の慣習を破ってスレイマン1世との間に複数の男子をもうけ、法的な婚姻関係を結び、事実上の一夫一妻の関係を築いた。スレイマン1世の後継争いに策動し、ハレムの住人が権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配する先駆けとなった。また、スレイマン1世との関係性は、芸術作品の題材となった。
名前について
[編集]オスマン帝国において、彼女は主にハセキ・ヒュッレム・スルタン(Haseki Hürrem Sultan)または ヒュッレム・"バルサク"・ハセキ・スルタン(Hürrem "balsaq" Haseki Sultan)として知られていた(Haseki は妾の意)。トルコ語で Hürrem (ヒュッレム、ヒュルレム)とは「ペルシア語: خرم, ラテン文字転写: Khurram(陽気な人)」と「アラビア語: كريمة, ラテン文字転写: Karima(高貴な人)」に由来している。
ヨーロッパでは「ロクセラーナ」として知られ[6]、ヨーロッパの言語では英: Roxelana、仏: Roxelane、波: Roksolana、羅: Roxolanaの他、Rossa、Ruziac として表記される。ロクセラーナは本名ではなくニックネームである。ロクセラニーとは15世紀までの東スラヴ人(現在のウクライナの住民)の呼び方の1つであり、彼女の名前はそのまま「ルーシ人の女」を意味する。
生涯
[編集]奴隷として
[編集]スラヴ系[7][8]で、ウクライナ人かロシア人、もしくはポーランド人だったという[7]。ポーランドの伝承やポーランド人の詩人サミュエル・トワルドーフスキーら16世紀後半から17世紀前半の文献によると、ルテニア地方ロハティン[注釈 1]の貧しい正教会司祭の娘で、本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ(ポーランド語: Aleksandra Anastasia Lisowska)であった[9]。
1520年代にドニエストルやルテニア地方を略奪したクリミア・タタール人に捕えられて奴隷としてイスタンブールへ売られ[7]、スレイマン1世の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャに買われた後、スレイマン1世に献上されたといわれる[9]。
スレイマン1世の寵愛を得る
[編集]ロクセラーナはすぐに主人であるスレイマン1世の注意を惹いて、ライバルたちに嫉妬されたものの、スレイマンの第2側室(イクバル)と呼ばれる側室から子供を成したことで第2夫人(イキンジ・カドゥン)となった。尚、カドゥンは夫人の意味。この時点でロクセラーナにとっての敵は、スレイマン1世の母后ハフサ・ハトゥンと、ハフサ・ハトゥンを後ろ盾とする[10]第1夫人マヒデヴラン(ギュルバハルとも[11]。[注釈 2]、ロクセラーナの最初の所有者であったといわれる大宰相イブラヒム・パシャの3人であった[12]。
1534年[10]にハフサ・ハトゥンが死去するとマヒデヴランはスレイマンの不興を買って宮殿を追われ、1536年にイブラヒム・パシャは処刑された[12]。
マヒデヴランが宮殿から追われた経緯について、ヴェネツィア共和国駐イスタンブール大使のベルナルド・ナヴァゲロは、マヒデヴランと口論を起こしたロクセラーナが自ら顔に引っ掻き傷を作った上でスレイマン1世に呼び出されるような工作をしてスレイマン1世の関心を惹き、ロクセラーナの顔の引っ掻き傷をマヒデヴランの仕業と思い込んだスレイマン1世がマヒデヴランと息子のムスタファをマニサへ左遷させた。それによって、ムスタファがスレイマン1世から遠ざけられたばかりかスルタンの後継者としての地位から完全に脱落したことを内外に示すことになったと報告している[11]。
その結果、ロクセラーナはもはやライバルがいなくなったスレイマンの皇后としての地位を得た。また、イブラヒム・パシャについても、ロクセラーナが処刑に関与した具体的な証拠は存在しない[12]が、人々はロクセラーナの関与を疑った[13]。
策動
[編集]ロクセラーナはスレイマン1世との間に儲けた5人の皇子たち(メフメト、アブドゥラー、セリム、バヤズィト、ジハンギル)のうち、早世したアブドゥラーを除く4人の皇子たちのいずれかを次期スルタンとするべく策動したといわれている[13]。
一時は長男のメフメトが有力となったが1543年に天然痘に罹って[14]早世し、マヒデヴランの子ムスタファが再び有力となった。しかし、ムスタファは1553年にイラン遠征軍の陣中で突然処刑され、マヒデヴランはマニサからブルサへ移された。ムスタファは軍人として名声が高く[15]、とりわけイェニチェリから強く支持されており[16]、突然の処刑にイェニチェリは怒り、反乱を起こす寸前にまで至った[15][16]。
スレイマン1世がムスタファを処刑した動機は不明だが、政権内を含む世論はロクセラーナが娘のミフリマー・スルタンとその婿で大宰相のリュステム・パシャとともに「徳の高いスルタンの目をくもらせた」と考えた[17][注釈 3]。
16世紀の女流詩人ニサーイーは次のような、スレイマン1世と「ロシアの魔女」、すなわちロクセラーナを非難する詩を作った[19]。
ロシアの魔女の言葉を耳に入れ
企みと魔術にだまされて、あの悪女の言いなりとなり
生命の園の収穫を、あの気ままな糸杉のなすがままにした
ああ、無慈悲なる世界の王よ
かつてあなたが若かった時、あなたは何ごとも公平に正しく行っていたのに
その振る舞いと気質で民を幸福にしていたのに
年老いた今、悪しき不正義を行うとは
スレイマン1世はムスタファの子や側近も処刑する一方、政権内の不満を抑えるために1553年にリュステム・パシャを罷免した[20]。さらにリュステム・パシャが処刑されるという噂が立つと、ロクセラーナは助命のために奔走した。結局、リュステム・パシャは1555年に大宰相の地位に返り咲いた[21]。ロクセラーナの庇護の下、リュステム・パシャは蓄財に精を出し、財力をもって党派を形成して政治力を保持した。この手法は以降の時代の政治家によって踏襲された[21]。
ロクセラーナはヴァリーデ・スルタン(スルタンの母后)や第一カドゥン(側室)、宦官らハレムの住人たちが権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)[22]と呼ばれる時代の幕を開けたと評価されている[23]。
また、ロクセラーナは様々な問題に対するスレイマンのアドバイザー的な役割をしていたともいわれ、外交政策や国際関係の政治問題に影響が見られる。一例として彼女からポーランド国王ジグムント2世アウグストへ出した手紙が現存している。ロクセラーナの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれた。
逝去
[編集]ムスタファの処刑により、スレイマン1世の後継候補はロクセラーナが産んだ3人の男子に絞られた[24]が、このうち、ジハンギルはムスタファが処刑された直後に死亡した(処刑にショックを受けたことが原因ともいわれている)[25]。
残るセリムとバヤズィトのうち、ロクセラーナはより有能なバヤズィトの即位を望んでいたとされるが、いずれが後継者となるかを見届けることなく、1558年4月15日に、50代半ばで逝去した[24]。
遺体は宮廷お抱えの建築家ミマール・スィナンがスレイマニエ・モスクの境内に建てた霊廟(テュルベ)に葬られた。後にスレイマン1世の霊廟もスレイマニエ・モスクの境内に建てられた。2つの霊廟は八角形でドームを複雑に配置した構造で、「単純多角形の本体にドームが1つ」という当時の伝統的なデザインとは大きく異なっている[26]。
死後
[編集]セリムとバヤズィトの衝突を辛うじて抑えていた[27]ロクセラーナの死後、両者の後継争いは激化し[27][28]、セリムは側近のララ・ムスタファ・パシャの策謀によってバヤズィトに対するスレイマン1世の評価を低下させることに成功した[29][30]。
形勢不利を悟ったバヤズィトは軍事行動を起こしたものの、スレイマン1世の支持を受けたセリムの前に敗れ、イラン(サファヴィー朝)に亡命したが最終的にはセリムに引き渡され、1561年に処刑された[31]。「サルホシュ・セリム(酔っぱらいのセリム)」と呼ばれた[32][33]セリムが後継争いに勝利したのは、臆病であったがゆえに自ら積極的な行動に出なかったためとも、ロクセラーナがセリムに飲酒を薦めて無能者のふりをするように命じたためともいわれている[34]。
スレイマン1世の死後スルタンに即位したセリムは国家の運営を官人に任せきりにし[35]、「バーブ・ウッサーデ(至福の家)」と呼ばれる館で酒と女に溺れる日々を過ごした[36]。セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官人による支配にスルタンが従う形で行われるようになった[37]。
子女
[編集]スレイマン1世との間に6人の子を儲けた。
- メフメト(1521年 - 1543年) - 天然痘に罹り病死[38]
- ミフリマー・スルタン(1522年 - 1578年) - 大宰相リュステム・パシャと結婚[39]。イスタンブールにはその名を冠したモスクが2つある[40]
- アブドゥラー(1522年 - 1526年) - 疫病に罹り病死[41]。
- セリム2世(1524年 - 1574年)
- バヤズィト(1525年 - 1561年) - ロクセラーナの死後、セリムとの後継争いに敗れ処刑された[42]
- ジハンギル(1531年 - 1553年) - くる病を患い、「エーリ(せむし)」と呼ばれた。腹違いの兄ムスタファの処刑の直後に病死[43]
人物
[編集]ロクセラーナについて、ヴェネツィア共和国の大使ブラガディーノは、「美人ではないが愛想がよく、陽気な性格である」と報告している[44]。同じくヴェネツィア共和国の大使ナヴァゲロは、「性質のよくない、いわばずる賢い女性である」と報告している[45]。
後世への影響
[編集]慣習への挑戦
[編集]ロクセラーナは自身のため、スレイマン1世にオスマン帝国の慣習を次々と破らせた。まず、オスマン帝国では1人の女性がスルタンとの間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性はスルタンから遠ざけられるという慣習があった。しかし、スレイマン1世はロクセラーナが男子を出産した後も側に置き続け、最終的にロクセラーナとの間に5人の男子を儲けて正式な妻に迎えた[46]。
オスマン帝国では14世紀後半に在位したムラト1世以来、妃と法的な婚姻関係を結ぶスルタンは存在しなかった[12]が、ロクセラーナはこの慣習を破らせることにも成功した[47]。婚姻関係を結ぶに当たり、スレイマン1世はロクセラーナを奴隷の地位から解放する法的手続きをとったという[46]。ロクセラーナはさらに、自らの地位を脅かしうる美貌の側室数人を降嫁させ[48]、事実上の一夫一婦の関係を構築して自らの地位を盤石なものとした[46]。2人の関係に対するイスタンブール市民の反応について、イタリア人のバッサーノは「スレイマンのロクゼラナに寄せる愛情と信頼の深さは、すべての臣民があきれかえるほどで、スレイマンは魔法にかかったとさえ言われている」と書き記している[41]。
また、ロクセラーナは1541年、自らが従える女奴隷や宦官とともにトプカプ宮殿内のスレイマン1世の居住区画に住むことを許された[12]。
慈善事業
[編集]ロクセラーナはカリフ・ハールーン・アッ=ラシードの妃ズバイダにならって慈善財団をつくり、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わった。最初にモスクと2つの学校(マドラサ)、噴水と女性用の病院を、イスタンブールの女性奴隷市場の近くに建築した。1556年に建設された公共浴場ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマームは建築家ミマール・スィナンの設計によるもので、収入は当時、モスクとして使われていたアヤ・ソフィアへの財政支援に充てられた[49][50]。エルサレムでは1552年に貧窮者の公共給食施設であるハセキ・スルタン・イマレトを設けた。
また、彼女自身もしくは彼女の監督下で作られた刺繍の一部は残っており、イラン国王のタフマースブ1世へ1547年に送ったものや、1549年にポーランド国王へ送ったものがある。
彼女の秘書・仲介者としてエステル・ハンダリがよく働いた。
-
ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハンマーム(2007年撮影)
-
1556年設立であることを示すプレート
ヨーロッパ
[編集]ロクセラーナはヨーロッパでは有名で、現代トルコや西側で多くの芸術作品で扱われている。絵画や、音楽作品、オペラ、バレエ、ウクライナ語や英語、フランス語、ドイツ語で書かれた小説などのテーマとなった。
2007年、ウクライナの港町マリウポリのムスリムは、ロクセラーナを祭るためにモスクを建設した[51]。
ギャラリー
[編集]参考文献
[編集]日本語の文献
[編集]- アンドレ・クロー(著)『スレイマン大帝とその時代』浜田正美(訳)、法政大学出版局、2000年。ISBN 4-588-23802-7。
- 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社〈講談社現代新書 1097〉、1992年。ISBN 4-06-149097-4。
- 陳舜臣『イスタンブール』文藝春秋〈世界の都市の物語4〉、1992年。ISBN 4-16-509560-5。
- 林佳世子『オスマン帝国の時代』山川出版社〈世界史リブレット19〉、1997年。ISBN 4-634-34190-5。
- ジョン・フリーリ(著)『イスタンブール 三つの顔をもつ帝都』鈴木董(監修)、長縄忠(訳)、NTT出版、2005年。ISBN 4-7571-4066-5。
- N.M.ペンザー(著)『トプカプ宮殿の光と影』岩永博(訳)、法政大学出版局〈りぶらりあ選書〉、1992年。ISBN 4-588-02130-3。
- 三橋富治男『オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝』清水書院〈清水新書 010〉、1984年。ISBN 4-389-44010-1。
日本語以外の文献
[編集]- Thomas M. Prymak, "Roxolana: Wife of Suleiman the Magnificent," Nashe zhyttia/Our Life, LII, 10 (New York, 1995), 15–20. 英語で書かれた写真入りのバイオグラフィ。
- Zygmunt Abrahamowicz, "Roksolana," Polski Slownik Biograficzny, vo. XXXI (Wroclaw-etc., 1988–89), 543–5. ポーランド人トルコ研究家が書いたポーランド語の記事。
- Galina Yermolenko, "Roxolana: The Greatest Empresse of the East," The Muslim World, 95, 2 (2005), 231–48. ヨーロッパ人(特にイタリア人)から見たもので、ウクライナ語とポーランド語の文献に精通している。
題材とした作品
[編集]文学等
[編集]日本語
[編集]- 小説
- 渋沢幸子『寵妃ロクセラーナ』集英社、1998年。ISBN 4-08-783103-5。
- 漫画
日本語以外
[編集]- 戯曲
- 『ソリマン2世、あるいは3人のスルタンの妻』(Soliman II ou Les Trois Sultanes) - フランスの劇作家シャルル・シモン・ファヴァールによる喜劇
- 小説
- ロクセラーナについて、英語で多くの歴史小説が書かれた。 Barbara Chase Riboud's Valide (1986); Alum Bati's Harem Secrets (2008); Colin Falconer, Aileen Crawley (1981–83), and Louis Gardel (2003); Pawn in Frankincense, the fourth book of the Lymond Chronicles by Dorothy Dunnett; Robert E. Howard in The Shadow of the Vulture.
- ウクライナ語の小説では右記がある。 Osyp Nazaruk (1930), Mykola Lazorsky (1965), Serhii Plachynda (1968), and Pavlo Zahrebelnyi (1980).
- その他の言語についても、フランス語では、Willy Sperco の伝記小説 (1972) ; ドイツ語では Johannes Tralow の小説 (1944) ; セルビア語では Radovan Samardzic の小説 (1987); トルコ語では Ulku Cahit (2001).がある。
音楽
[編集]- 交響曲第63番 (ハイドン) - 第2楽章の副題が「ラ・ロクスラーヌ」(La Roxelane)
ドラマ
[編集]- ウクライナのテレビドラマ『ロクセラーナ』 1996-2003年。
- トルコのテレビドラマ『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』[注釈 4]
- ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)をトルコ系ドイツ人女優のメルイェム・ウゼルリ(第1シーズンから第3シーズンまで)とトルコ人女優のヴァリーデ・ペルキン(最終第4シーズン)が演じた。日本(2017年、チャンネル銀河放映やHulu配信)を含む多くの国で放送されている。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ The Encyclopædia Britannica, Vol.7, Edited by Hugh Chisholm, (1911), 3; Constantinople, the capital of the Turkish Empire...
- ^ Britannica, Istanbul:When the Republic of Turkey was founded in 1923, the capital was moved to Ankara, and Constantinople was officially renamed Istanbul in 1930.
- ^ Dr Galina I Yermolenko (2013). Roxolana in European Literature, History and Culturea. Ashgate Publishing, Ltd.. pp. 275. ISBN 978-1-409-47611-5
- ^ Ukrainian Orthodox priest, Havrylo Lisowsky, father of Roxelana
- ^ https://web.archive.org/web/20060615093437/http://www.4dw.net/royalark/Turkey/turkey4.htm
- ^ ペンザー1992、262頁。
- ^ a b c 三橋1984、131頁。
- ^ 陳1992、177頁。
- ^ a b クロー2000、93頁。
- ^ a b 鈴木1992、159頁。
- ^ a b 三橋1984、132頁。
- ^ a b c d e ペンザー1992、263頁。
- ^ a b 林1997、157頁。
- ^ フリーリ2005、250頁。
- ^ a b 1992、168-169頁。
- ^ a b フリーリ2005、255頁。
- ^ 林1997、157-158頁・161-162頁。
- ^ 林1997、162-164頁。
- ^ 林1997、155-156頁
- ^ 林1997、161頁。
- ^ a b 林1997、158頁。
- ^ フリーリ2005、259頁。
- ^ ペンザー1992、281-282頁。
- ^ a b 鈴木1992、169頁。
- ^ 林1997、161-162頁。
- ^ 陳1992、175頁。
- ^ a b 林1997、165頁。
- ^ 三橋1984、140頁。
- ^ 鈴木1992、169頁。
- ^ クロー2000、219-220頁。
- ^ 林1997、166-168頁。
- ^ フリーリ2005、256頁。
- ^ クロー2000、207頁。
- ^ 林1997、167頁。
- ^ 林1997、170-172頁。
- ^ フリーリ2005、258-259頁。
- ^ 林1997、172頁。
- ^ フリーリ2005、244・250頁。
- ^ フリーリ2005、244・249頁。
- ^ 陳1992、189-190頁。
- ^ a b フリーリ2005、244頁。
- ^ 林1997、165-168頁。
- ^ フリーリ2005、244・255頁。
- ^ クロー2000、93頁。
- ^ 三橋1984、131頁。
- ^ a b c 林1997、156頁。
- ^ 三橋1984、133頁。
- ^ ペンザー1992、264頁。
- ^ フリーリ2005、253-254頁。
- ^ 陳1992、201-202頁。
- ^ Religious Information Service of Ukraine
外部リンク
[編集]オスマン帝室 | ||
---|---|---|
新設 | オスマン帝国皇后(ハセキ・スルタン) 1533年/1534年 – 1558年4月15日 |
次代 ヌールバヌ・スルタン |