「マレー沖海戦」の版間の差分
m →関連項目 |
参考文献1冊追加、対応部分若干追記 |
||
(3人の利用者による、間の5版が非表示) | |||
23行目: | 23行目: | ||
== 背景 == |
== 背景 == |
||
(以下日付、時刻は現地時刻) |
|||
=== 彼我の情勢 === |
=== 彼我の情勢 === |
||
イギリスの海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するために |
1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)を[[シンガポール]][[要塞]]で防御し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]59頁</ref>。幾度かの計画変更の後、1941年4月には米・英・蘭の間で協定が結ばれ、米国は艦隊を派遣して地中海のイタリア艦隊を抑制し、英国は東洋艦隊を極東に派遣するという方針を確認する<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]67頁</ref>。[[ウィンストン・チャーチル]]英国首相・[[国防相]]は[[キング・ジョージ5世級戦艦]]「[[デューク・オブ・ヨーク (戦艦)|デューク・オブ・ヨーク]]」、[[レナウン級巡洋戦艦]]1隻、空母1隻の派遣を提案したが、海軍大臣は反対した<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]78頁</ref>。英軍海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するために[[ネルソン級戦艦]]2隻、[[リヴェンジ級戦艦]]4隻、空母「ハーミス」、「アーク・ロイヤル」、「インドミタブル」を送る計画であり、新鋭の[[キング・ジョージ5世級戦艦]]2隻は、ドイツ海軍[[ビスマルク級戦艦]]「[[ティルピッツ (戦艦)|ティルピッツ]]」の出撃に備えて英国本国の[[スカパフロー]]から動かすつもりはなかった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]79頁、[[#須藤、1982]]11-12頁</ref>。これに対しチャーチルは高速戦艦を中心とした遊撃部隊を送って抑止力とすることを強く主張する<ref>[[#豊田、1988]]179頁、[[#須藤,1982]]12-13頁</ref>。チャーチルは[[大和型戦艦]]の存在を気にかけていたという<ref>[[#ウエールス最後]]p.10</ref>。最終的に、キング・ジョージ5世級の一艦である「[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」、[[レナウン級巡洋戦艦]]「[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]」、空母「[[インドミタブル (空母)|インドミタブル]]」、護衛の[[駆逐艦]]「[[エレクトラ (駆逐艦)|エレクトラ]]」、「[[エクスプレス (駆逐艦)|エクスプレス]]」、「[[エンカウンター (駆逐艦)|エンカウンター]]」、「[[ジュピター (駆逐艦)|ジュピター]]」からなるG部隊が編成された<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]79頁</ref>。「プリンス・オブ・ウェールズ」は10月23日にスカパフローを出港、11月16日[[南アフリカ]]のケープタウン、セイロン島を経て[[1941年]][[12月8日]]の太平洋戦争開戦直前の[[12月2日]]に[[シンガポール]]のセレター軍港に到着した<ref>[[#豊田、1988]]184-185頁、[[#須藤,1982]]17頁</ref>。「プリンス・オブ・ウェールズ」はマレー駐屯陸軍司令官パーシバル中将に出迎えられ、各国報道陣に公開されて英連邦諸国民に安心感を与えた<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]82-83頁、[[#須藤,1982]]18頁</ref>。 |
||
その一方、空母「インドミタブル」は11月13日に[[ジャマイカ島]]近海で座礁事故を起こし、合流できなかった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]81頁、[[#須藤,1982]]13頁</ref>。かわりに小型空母「[[ハーミーズ (空母)|ハーミーズ]]」の合流が決定したが、ダーバンで修理中のため、合流できなかった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]81頁、[[#須藤,1982]]13頁</ref>。フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、[[リヴェンジ級戦艦]]「[[リヴェンジ (戦艦・2代)|リヴェンジ]]」、「[[ロイヤル・サブリン (戦艦)|ロイヤル・サブリン]]」、[[クイーン・エリザベス級戦艦]]「[[ウォースパイト (戦艦)|ウォースパイト]]」の12月20頃までに派遣するよう希望している<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]85頁</ref>。航空機に関して英軍参謀本部は「日本軍機とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度(英軍の60%)」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を決定したが、実際には半数程度しか配備されていなかった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]63-65頁</ref>。これはチャーチル首相が[[ソビエト連邦]]に大量の航空機を供給していたからである<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]72-73、183頁</ref>。 |
|||
日本軍は英国東洋艦隊の実情を把握しており、[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は「ウェールズをやっつけたら、次はジョージ5世でも6世でも良い」と陣中日誌「戦藻録」に記録している<ref>[[#戦藻録(九版)]]26頁</ref>。実際に日本軍は[[松永貞一]]少将の第二十一航空戦隊(美幌航空隊 ツドモー基地:[[九六式陸上攻撃機]]27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機させ、新たに鹿島航空隊の[[一式陸上攻撃機]]54機を配備して英国東洋艦隊を待ちうけていた<ref>[[#ウエールス最後]]p.3</ref>。12月8日の早朝、[[ハワイ]]の[[真珠湾攻撃]]より70分早く、日本軍は[[タイ王国|タイ]]国の国境に近い[[マレーシア|マレー]]領[[コタバル]]に陸軍部隊を上陸させた([[大本営]]もこのコタバル上陸をもって、対米英蘭豪への宣戦を布告したと報じた)。この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの根拠地、[[シンガポール]]を攻撃予定であった。 |
|||
日本軍は英国東洋艦隊の実情を把握しており、また対策をとっていた。12月7日、シンガポールの北東約300kmにあたる[[アナンバス諸島]]とマレー半島東岸の[[チオマン島]]の間に[[機雷敷設艦|特設敷設艦]]「[[辰宮丸]]」が機雷を敷設、さらに第四・第五潜水戦隊の潜水艦12隻が哨戒していた<ref>[[#豊田、1988]]75頁、 [[#須藤,1982]]9頁</ref>。[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は「ウェールズをやっつけたら、次はジョージ5世でも6世でも良い」と陣中日誌「戦藻録」に記録している<ref>[[#戦藻録(九版)]]26頁</ref>。実際に日本軍は[[松永貞市]]少将の第二十一航空戦隊(美幌航空隊 ツドモー基地:[[九六式陸上攻撃機]]27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機させ、新たに鹿島航空隊の[[一式陸上攻撃機]]54機を配備して英国東洋艦隊を待ちうけていた<ref> [[#須藤,1982]] 9頁、[[#ウエールス最後]]p.3</ref>。12月8日の早朝、[[ハワイ]]の[[真珠湾攻撃]]より70分早く、日本軍は[[タイ王国|タイ]]国の国境に近い[[マレーシア|マレー]]領[[コタバル]]に陸軍部隊を上陸させた([[大本営]]もこのコタバル上陸をもって、対米英蘭豪への宣戦を布告したと報じた)。この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの極東における根拠地、[[シンガポール]]を攻撃予定であった。 |
|||
イギリス東洋艦隊(司令長官[[トーマス・フィリップス]]海軍大将)は、この日本軍マレー上陸部隊の輸送船団攻撃のため、Z部隊を編成して12月8日17時過ぎにシンガポールを出航した<ref>[[#ウエールス最後]]p.11</ref>。 |
|||
; Z部隊兵力 |
|||
=== 日本軍のマレー半島上陸 === |
|||
* 戦艦:プリンス・オブ・ウェールズ |
|||
12月6日、日本軍輸送船団はオーストラリア空軍偵察機に発見され、同機は戦艦1隻を含む大部隊が南方に向かっていることを報告した<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]86頁、[[#須藤、1982]]39-40頁</ref>。英軍は日本軍輸送船団がタイ国へ上陸するのか、マレー半島へと上陸するのか、判断できなかった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]87頁</ref>。12月7日午前9時50分、宣戦布告前にも関わらず、日本軍[[零式水上偵察機]]と陸軍戦闘機隊が[[PBY (航空機)|PBYカタリナ飛行艇]]を撃墜する<ref>[[#須藤、1982]]42-43頁</ref>。午前10時30分、小沢中将の艦隊はG点に到達し、日本軍輸送船団は予定に従って分散した。行く先は、プラチャップ方面に輸送船1隻、バンドン方面に「香椎」と輸送船3隻、ナコン方面に「占守」と輸送船3隻、シンゴラとパタニ方面に第二〇駆逐隊・第十二駆逐隊・掃海艇3隻・輸送船17隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル方面に軽巡洋艦「川内」、第十九駆逐隊(磯波、綾波、浦波、敷波)・掃海艇3隻、輸送船3隻である<ref>[[#須藤、1982]]44-45頁</ref>。12月8日午前1時30分日本軍はコタバル上陸を開始、英軍も応戦し、[[真珠湾攻撃]]より2時間前に交戦がはじまった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]93頁、[[#須藤、1982]]51頁</ref>。英軍機は輸送船「淡路山丸」を航行不能とし、「綾戸山丸」「佐倉丸」大破という戦果をあげ、護衛部隊司令官[[橋本信太郎]]第三水雷戦隊司令官に一時退避を決断させた<ref>[[#須藤、1982]]51-53頁</ref>。 |
|||
* 巡洋戦艦:レパルス |
|||
* 駆逐艦:エレクトラ、エクスプレス、[[テネドス (駆逐艦)|テネドス]]、[[ヴァンパイア (駆逐艦・初代)|ヴァンパイア]](この艦はオーストラリア籍) |
|||
第一航空部隊松永少将は、英国東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため、配下部隊にシンガポールの四箇所の飛行場爆撃を命じる。元山航空隊は悪天候のため引き返したが、美幌航空隊32機が12月8日午前5時38分からシンガポールを爆撃、損害なくツドモー基地に帰投した<ref>[[#須藤、1982]]54頁</ref>。この時、山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し、『1120、湾内に戦艦2(プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)、巡洋艦4、駆逐艦4』を報告した<ref>[[#須藤、1982]]55頁</ref>。 |
|||
=== 英国東洋艦隊出撃 === |
|||
{{gallery |
{{gallery |
||
|ファイル:HMS Prince Of Wales in Singapore.jpg|新戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」 |
|ファイル:HMS Prince Of Wales in Singapore.jpg|新戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」 |
||
45行目: | 45行目: | ||
}} |
}} |
||
; Z部隊兵力 |
|||
この他にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在したが、いずれも修理中や低速などの理由でZ部隊には加わらなかった。この時までに、米太平洋艦隊が真珠湾で受けた損害の大きさは明らかになっており、その増援は望めなかった。フィリップス提督は、自部隊は単独では日本艦隊に対抗するには力不足であり、かつ空軍の航空支援も期待できないことを知っていたが、マレー半島が侵攻される危機に際して出撃しないわけにはいかなかった。同時に出撃計画を友軍に知らせなかったため、シンガポールの英軍戦闘機隊はZ部隊を掩護することが出来なかった<ref name="ウエールス14">[[#ウエールス最後]]p.14</ref>。またインドシナの日本軍基地からの距離を考えると、日本軍航空機の性能を過小評価していたため空襲による危険は大きくなく、また主力艦が致命的な被害を受けることもないだろうと判断していた<ref name="ウエールス14"/>。そのときまでに作戦行動中に空襲で沈められた最も大きな軍艦は重巡洋艦だった。もっとも、ドイツ戦艦「[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]」が[[フェアリー ソードフィッシュ]]雷撃機の雷撃によって舵とスクリューを破壊され、間接的に撃沈に追い込まれた事例は存在する。 |
|||
* 戦艦:プリンス・オブ・ウェールズ |
|||
* 巡洋戦艦:レパルス |
|||
* 駆逐艦:エレクトラ、エクスプレス、[[テネドス (駆逐艦)|テネドス]]、[[ヴァンパイア (駆逐艦・初代)|ヴァンパイア]](この艦はオーストラリア籍) |
|||
この他にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在したが、いずれも修理中や低速などの理由でZ部隊には加わらなかった。この時までに、米太平洋艦隊が真珠湾で受けた損害の大きさは明らかになっており、その増援は望めなかった。[[トーマス・フィリップス]]提督はシンガポールの極東軍総司令部で航空掩護を求めたが結論は出ず、提督は午後3時50分に「ウェールズ」に戻ると作戦計画を練った<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]94頁、[[#須藤、1982]]61-62頁</ref>。東洋艦隊司令部は、日本軍輸送船団を撃滅することで日本軍の機先を制し、日本軍が体勢を建て直す間に英軍は増援を待つという方針を立てる<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]95頁、[[#須藤、1982]]62頁</ref>。ところが英国空軍司令部はコタバル飛行場から撤退したこともあり、フィリップスに対し哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]96-97頁、[[#須藤、1982]]63頁</ref>。「プリンス・オブ・ウェールズ」が抜錨してまもなく、空軍司令官は『遺憾なるも、戦闘機による護衛不可能』と連絡している<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]97頁</ref>。それでも東洋艦隊は12月8日午後8時25分にシンガポールを出撃した。事前に英国東洋艦隊の存在があまりにも宣伝されすぎたため、また極東英連邦国民に「危機になれば東洋艦隊が出撃する」と長年にわたって約束していたため、[[面子]]の関係からも出撃しないわけにはいかなかったのである<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]111頁</ref>。マレー半島とアナンバン諸島の間に日本軍が機雷を敷設していたためZ部隊はマレー半島沿いに北上することが出来ず、同諸島東方を迂回して日本軍輸送船団に向けて進撃した<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]98頁</ref>。 |
|||
一方、日本海軍の戦力としてこの方面には[[近藤信竹]]中将指揮の[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]があり、[[金剛型戦艦]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」と「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」がいた。近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢30年になる老艦だった。また元来巡洋戦艦だったため、兵装・装甲の厚さも最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」よりも劣っていた。このため、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」に砲撃戦を挑むことは想定していなかった。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。ただし後の調査で、両軍艦隊は一時「プリンス・オブ・ウェールズ」の主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている。他にも[[重巡洋艦]]や[[水雷戦隊]]もあったが、砲力の差は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。いずれにせよ、8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断。「金剛」「榛名」以下の艦隊は[[カムラン湾]]に引き上げて燃料補給を実施することした。輸送船団護衛の任にあった[[小沢治三郎]]中将([[重巡洋艦]][[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]座乗)指揮の[[南遣艦隊]](巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。 |
|||
英軍は前述のように日本軍航空機の性能を過小評価していたため空襲による危険は大きくなく、また主力艦が致命的な被害を受けることもないだろうと判断していた<ref>[[#ウェールス最後]]p.14、[[#須藤、1982]]65頁</ref>。そのときまでに作戦行動中に空襲で沈められた最も大きな軍艦は重巡洋艦だった。もっとも、かつて「プリンス・オブ・ウェールズ」を砲撃戦で大破させた[[ビスマルク級戦艦|ドイツ戦艦]]「[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]]」が[[フェアリー ソードフィッシュ]]の雷撃によって舵とスクリューを破壊され、間接的に撃沈に追い込まれた事例は存在する。 |
|||
一方、日本海軍の戦力としてこの方面には[[近藤信竹]]中将指揮の[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]があり、[[金剛型戦艦]]「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」と「[[榛名 (戦艦)|榛名]]」がいた。近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢30年になる老艦であり、また元来巡洋戦艦だったため、兵装・装甲の厚さも最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」より劣っていた<ref>[[#須藤、1982]]230頁</ref>。このため、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」に砲撃戦を挑むことは想定していなかった。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。ただし後の調査で、両軍艦隊は一時「プリンス・オブ・ウェールズ」の主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている<ref>[[#須藤、1982]]80頁</ref>。他にも[[重巡洋艦]]や[[水雷戦隊]]もあったが、砲力の差は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。いずれにせよ、8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断。「金剛」「榛名」以下の艦隊は[[カムラン湾]]に引き上げて燃料補給を実施することした。輸送船団護衛の任にあった[[小沢治三郎]]中将([[重巡洋艦]][[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]座乗)指揮の[[南遣艦隊]](巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。 |
|||
{{gallery |
{{gallery |
||
56行目: | 63行目: | ||
=== 12月9日~10日の動き === |
=== 12月9日~10日の動き === |
||
9日 |
9日午後3時15分、潜水艦[[伊号第一六五潜水艦|伊65]]がZ部隊を発見、以下の電文を打電した<ref>[[#須藤、1982]]8頁、[[#聯合艦隊作戦室]]29頁</ref>。 |
||
: 敵「レパルス」型戦艦二隻見ユ 地点「 |
: 敵「レパルス」型戦艦二隻見ユ 地点「フモハ26」<ref group="注">サイゴンの南南西、約65km。</ref>、針路三四〇度 速力20[[ノット|節]] 一五一五<!--敵レパルス型戦艦二隻見ユ地点コチサ一一 新路三四〇度 速力十四節 一五一五<ref>ドキュメント・マレー沖海戦、34ページ</ref>--> |
||
宇垣参謀長の「戦藻録」によれば、「伊65」のZ部隊発見地点はマレー半島プロコンドル島の196度225浬である<ref>[[#戦藻録(九版)]]35頁</ref>。「伊65」は打電後も接触を続けたが、 |
宇垣参謀長の「戦藻録」によれば、「伊65」のZ部隊発見地点はマレー半島プロコンドル島の196度225浬である<ref>[[#戦藻録(九版)]]35頁</ref>。「伊65」は打電後も接触を続けたが、午後5時20分に一旦見失った<ref>ドキュメント・マレー沖海戦、34-35ページ</ref>。[[近藤信竹]]中将の第二艦隊には、午後5時25分に「レパルス型戦艦2隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻」という情報が入った<ref>[[#愛宕戦時日誌(2)]]pp.12-13</ref>。第二艦隊は反転南下した。「伊65」は午後6時22分に再度発見したもの、上空に水上偵察機(軽巡洋艦鬼怒搭載機)が出現したため潜航したので目標を見失った<ref>ドキュメント・マレー沖海戦、35ページ</ref>。空からは、第四潜水戦隊旗艦・軽巡洋艦「鬼怒」と第五潜水戦隊旗艦・軽巡「由良」の[[九四式水上偵察機]]、第七戦隊([[栗田健男]]少将)旗艦・[[最上型重巡洋艦|重巡洋艦]]「[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]」の[[零式水上偵察機]]が日没まで触接を続け、由良機が未帰還となった<ref>[[#須藤、1982]]73頁</ref>。 |
||
午後5時15分に東洋艦隊発見報告を受けた小沢中将は<ref>[[#須藤、1982]]69頁</ref>、船団は[[タイランド湾|シャム湾]]に避退するよう命じ、基地航空部隊にZ部隊の捜索と攻撃を、そして艦隊にはただちに集結の上南下するよう命令した<ref>[[#須藤、1982]]71頁</ref>。[[松永貞市]]少将は攻撃隊3波を発進させた<ref>[[#元山空調書(1)]]p.13、[[#須藤、1982]]77頁</ref>。陸攻部隊は爆弾を装備し、英戦艦にダメージを与えて日本軍艦隊を掩護する事が任務だったという<ref>[[#ウエールス最後]]p.4</ref>。しかし、天候がますますひどくなり、やむなく松永少将は各隊に引き返すよう命令した。美幌空第二中隊(武田八郎大尉)は「鳥海」をZ部隊と誤認し、「敵艦隊見ゆ。オビ島の150度、90浬」と報告して吊光弾を投下する<ref>[[#豊田、1988]]114頁、[[#須藤、1982]]78頁</ref>。仰天した小沢は松永少将あての電報「照明弾下にあるは味方なり」を連送信して攻撃中止と陸攻隊全機帰投を命じ<ref>[[#聯合艦隊作戦室]]29頁。「愛宕」でも受信。</ref>、これは小沢が本海戦で発した数少ない命令の一つである<ref>[[#豊田、1988]]114頁、[[#須藤、1982]]79頁</ref>。 |
|||
その頃、Z部隊では[[スコール]]にも恵まれ順調に航行を続けていた。この状態を保てば、10日早朝には船団に奇襲をかけることができるだろうと判断していた。しかし、18時30分に日本の水上偵察機が複数出現し、フィリップスは進撃を続けるかどうか思案した。とりあえず、テネドスが燃料不足気味だったので単艦でシンガポールに引き返させた。5隻となったZ部隊はなおも進撃を続けていたが、深夜になってフィリップス以下司令部が検討した結果、「日本機によって発見され通報されている公算が大きい」と判断。シンガポールに引き返すこととした。 |
|||
その頃、Z部隊では[[スコール]]にも恵まれ順調に航行を続けていた。「プリンス・オブ・ウェールズ」のレーダーは日本軍水上偵察機を捉えていたが、フィリップスは船団攻撃の決意を変えず、以下の命令を出している<ref>[[#豊田、1988]]108頁</ref>。 |
|||
#わが目標はシンゴラ沖にして、日本軍上陸部隊支援部隊中主力艦は[[金剛 (戦艦)|金剛]]ただ一隻なるものの如し。他に愛宕級3、加古級1、神通級2の各型巡洋艦と駆逐艦多数あり。 |
|||
#本長官は明早朝、敵の航空攻撃を受ける以前に敵上陸支援部隊を奇襲せんとするも、これに先立って金剛と遭遇するときは優先的にこれと戦い撃滅せんとす。 |
|||
#1800(東京時間午後7時30分)信号を待ちて針路を320度とし、さらに1930(午後9時)280度に変針し、24ノットに造即すべし。その後は10日1600(午後5時30分)C地点(アナンバス諸島付近)に於いて集合し得る如く行動せよ。 |
|||
#明日0745(午前9時15分)を期しシンゴラ突入を決行す。攻撃後は東方に避退す。 |
|||
#10日未明以前に駆逐艦3隻を分離帰投せしめ、その後は戦艦のみにて突撃す。全軍の武運を祈る。 |
|||
フィリップスは駆逐艦「テネドス」が燃料不足気味だったため、午後6時30分に艦隊から分離、単艦でシンガポールに引き返させた<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]100頁</ref>。その際、テネドス艦長に対し10日朝に無線封止を解除し、アナンバス諸島東方に連合国軍巡洋艦・駆逐艦を集結させるよう求めている<ref>[[#豊田、1988]]113頁</ref>。その後もZ部隊はシンゴラ沖の日本軍上陸船団を目指したが、午後9時45分頃にZ部隊前方5マイルに青い閃光を確認する<ref>[[#豊田、1988]]113頁</ref>。これは武田機が投下した吊光投弾であり、シンガポールのパリサー参謀長から受信した「本日午後の航空偵察によれば、コタバル付近の海面に戦艦1、最上型巡洋艦1、駆逐艦11及び輸送船多数集結中なり」との報告を検討した結果、針路をシンゴラから南東のコタバルに変更した<ref>[[#豊田、1988]]116頁</ref>。Z部隊と小沢艦隊の距離は23マイルに接近しており、[[豊田穣]]は「プリンス・オブ・ウェールズ」のレーダー(25マイル)が「鳥海」を捉えなかったことを不思議な事と指摘している<ref>[[#豊田、1988]]117頁</ref>。午後10時30分、フィリップスは作戦中止とシンガポール基地に戻り戦力再編を行うことを伝達した<ref>[[#豊田、1988]]120頁</ref>。12月10日午前1時、Z部隊はパリサー参謀長より日本軍がクアンタンに上陸したとの入電があり、フィリップスはシンガポールの帰路中に日本軍輸送船団を砲撃することを決意する<ref>[[#豊田、1988]]121頁</ref>。だがクアンタン日本軍上陸は誤報であり、Z部隊はかえって日本軍空襲圏内にとどまることになった<ref>[[#豊田、1988]]121-122頁</ref>。 |
|||
翌12月10日午前1時22分、同じく同海域でZ部隊の動向を見張っていた潜水艦「[[伊号第一五八潜水艦|伊58]]」が、右20度600メートルの至近距離に駆逐艦のようなものを発見し潜航した<ref>ドキュメント・マレー沖海戦、39ページ</ref>。直後、針路180度で航行中の戦艦を発見し、以下のように打電した。 |
|||
: 〇一二二 敵主力反転 針路一八〇度 |
|||
この電文は全軍に向けて打電されたはずだったが、[[第三水雷戦隊]]が受信を確認したこと以外は第二艦隊司令部も含めて受信が確認されなかった。「伊58」は以後も接触を続け、午前1時45分、「レパルス」に向けて魚雷5本を発射したが、Z部隊の変針が重なり命中しなかった<ref>[[#豊田、1988]]122-124頁、[[#須藤、1982]]96頁</ref>。「伊58」は浮上航走しつつZ部隊を追跡、以下の3通の電文を打電した<ref>[[#豊田、1988]]124頁</ref>。 |
|||
#我地点「フモロ」45<ref group="注">クアンタンの57度140海里の地点</ref>ニテ「レパルス」ニ対シ魚雷ヲ発射セシモ命中セズ 敵針路一八〇度 敵速二二節 〇三四一 |
|||
#敵ハ黒煙ヲ吐キツツ二四〇度方向二逃走ス 我之ニ触接中 〇四二五 |
|||
#我触接ヲ失ス 〇六一五 |
|||
6時15分に打電された電文を最後に、Z部隊の動向は全くつかめなくなった。電文から推測するに、Z部隊は真南(180度)の方向に航行していると見られ、燃料不足の懸念から[[近藤信竹]]中将は午前8時15分「水上部隊の追撃を断念す」と打電<ref>[[#聯合艦隊作戦室]]30頁</ref>、小沢中将も潜水部隊による追跡を諦め、9日に続いて松永少将指揮下の陸攻部隊にZ部隊への攻撃を託すことになった<ref>[[#豊田、1988]]131頁、[[#戦藻録(九版)]]42頁</ref>。 |
|||
== 戦闘経過 == |
|||
=== 日本軍の索敵 === |
|||
; 海軍第二十二航空戦隊(司令官:松永貞市海軍少将、司令部はサイゴン(現在の[[ホーチミン市|ホーチミン]])、[[第十一航空艦隊]]所属) |
; 海軍第二十二航空戦隊(司令官:松永貞市海軍少将、司令部はサイゴン(現在の[[ホーチミン市|ホーチミン]])、[[第十一航空艦隊]]所属) |
||
* [[元山海軍航空隊]](前田孝成大佐) |
* [[元山海軍航空隊]](前田孝成大佐) |
||
68行目: | 95行目: | ||
* 山田部隊(山田豊中佐、第二十三航空戦隊より増派) |
* 山田部隊(山田豊中佐、第二十三航空戦隊より増派) |
||
12月10日6時25分、まず松永は元山空第四中隊の[[九六式陸上攻撃機]]9機(中隊長、牧野大尉)を索敵任務に投入した<ref>[[#豊田、1988]]133頁</ref>。予想では4時間後に艦隊を発見できるはずであった。索敵機の発進後、攻撃隊も各基地から出撃する。索敵機からの報告を手がかりに、各航空隊が現場に急行する手はずが取り決められた。まず7時55分にサイゴンから元山航空隊(九六式陸攻26機。魚雷装備17機、爆弾装備9機)が出撃、続いて8時14分にはツドゥムから鹿屋航空隊([[一式陸上攻撃機|一式陸攻]]26機。全機雷装)が出撃、直後の8時20分にツドゥムから美幌航空隊(九六式陸攻33機。雷装8機、爆装25機)が出撃した。最後の機が離陸したのは9時30分のことであった。元山航空隊の雷装九六式陸攻1機はエンジン故障のため引き返した<ref>[[#元山空調書(1)]]p.15</ref>。連合艦隊旗艦[[長門型戦艦|戦艦]]「[[長門 (戦艦)|長門]]」では、[[山本五十六]]連合艦隊司令長官が「リナウン(レパルス)は撃沈できるが、キング・ジョージⅤ世(プリンス・オブ・ウェールズ)は大破だろう」と発言、[[三和義勇]]作戦参謀が2隻とも沈めると反論すると、山本は自論の正しさに[[ビール]]10ダースを賭けた<ref>[[#勝つ戦略負ける戦略]]71頁</ref>。 |
|||
翌12月10日未明、同じく同海域でZ部隊の動向を見張っていた潜水艦[[伊号第一五八潜水艦|伊58]]が、右20度600メートルの至近距離に駆逐艦のようなものを発見し潜航する。直後、針路180度で航行中の戦艦を発見し、以下のように打電した。 |
|||
: 〇一二二 敵主力反転 針路一八〇度 |
|||
この電文は全軍に向けて打電されたはずだったが、[[第三水雷戦隊]]が受信を確認したこと以外は第二艦隊司令部も含めて受信が確認されなかった。伊58は以後も接触を続け、Z部隊に対して好射点についた際「レパルス」に向けて雷撃を行ったが、発射時の不手際によりタイミングがずれたためか命中しなかった。接触中、以下の3通の電文を打電した。 |
|||
: 我地点「フモロ」45<ref group="注">クアンタンの57度140海里の地点</ref>ニテ「レパルス」ニ対シ魚雷ヲ発射セシモ命中セズ 敵針路一八〇度 敵速二二節 〇三四一 |
|||
: 敵ハ黒煙ヲ吐キツツ二四〇度方向二逃走ス 我之ニ触接中 〇四二五 |
|||
: 我触接ヲ失ス 〇六一五 |
|||
6時15分に打電された電文を最後に、Z部隊の動向は全くつかめなくなった。電文から推測するに、Z部隊は真南(180度)の方向に航行していると見られ、近藤中将および小沢中将は、水上部隊と潜水部隊による追跡を諦め、9日に続いて松永少将指揮下の陸攻部隊にZ部隊への攻撃を託すことになった<ref>[[#戦藻録(九版)]]42頁</ref>。 |
|||
一方でZ部隊は朝になってから日本軍のコタバル上陸を知らされ、針路をコタバルに向けた。日の出は午前7時57分(現地時間0627)、まもなくZ部隊はレーダーで4つの反応を探知して接近したが、貨物船であった<ref>[[#豊田、1988]]194頁</ref>。午前8時15分、Z部隊はスーパーマリン・ウォーラス偵察機を発艦させてクアンタン方面を偵察したが、同方面は平穏で日本軍は存在しなかった<ref>[[#豊田、1988]]195頁</ref>。駆逐艦「エクスプレス」も海岸を偵察したが日本軍は存在せず、誤報にふりまわされたZ部隊は午前10時30分ごろシンガポールへの帰路についた<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]101頁</ref>。Z部隊は機雷原を避けるため、一旦北東へ向かい、それから南東に針路をとってアナンバス諸島の東方をまわってシンガポールへ向かう<ref>[[#豊田、1988]]196頁</ref>。後述の帆足機が「針路60度-30度-160度」と逐次報告したのは、この艦隊運動とされる<ref>[[#豊田、1988]]196頁</ref>。 |
|||
== 戦闘経過 == |
|||
[[ファイル:Repulse-8.jpg|thumb|left|200px|攻撃にさらされる東洋艦隊。巧みな機動で爆撃を回避する「レパルス」と逆に集中攻撃を受ける「プリンス・オブ・ウェールズ」。]] |
|||
[[ファイル:Escaping from Prince of Wales.jpg|thumb|left|200px|沈んでいく「プリンス・オブ・ウェールズ」から横づけして乗員を移乗する駆逐艦「エクスプレス」。]] |
|||
12月10日6時25分、まず松永は索敵機9機を発進させた。予想では4時間後に艦隊を発見できるはずであった。索敵機の発進後、攻撃隊も各基地から出撃する。索敵機からの報告を手がかりに、各航空隊が現場に急行する手はずが取り決められた。まず7時55分にサイゴンから元山航空隊(九六式陸攻26機。魚雷装備17機、爆弾装備9機)が出撃、続いて8時14分にはツドゥムから鹿屋航空隊([[一式陸上攻撃機|一式陸攻]]26機。全機雷装)が出撃、直後の8時20分にツドゥムから美幌航空隊(九六式陸攻33機。雷装8機、爆装25機)が出撃した。最後の機が離陸したのは9時30分のことであった。 |
|||
日本軍も本命の東洋艦隊はなかなか発見できなかった。九六陸攻に比べ速力の出る一式陸攻部隊はシンガポール付近まで進出したという<ref>[[#ウエールス最後]]p.5</ref>。11時13分、サイゴンに引き返す途中の4番索敵機が帰還中の「テネドス」(Z部隊より東南東130マイル)を発見して60kg爆弾2発を投下したが命中せず、英駆逐艦の位置を発信した<ref>[[#豊田、1988]]202頁</ref>。午後12時14分、500kg爆弾を装備する元山航空隊第三中隊(二階堂大尉)の九六陸攻9機が戦艦「レパルス」と見誤って攻撃したものの命中弾は得られなかった<ref>[[#元山空調書(1)]]p.15 、[[#豊田、1988]]207-208頁、[[#須藤、1982]]122頁</ref>。「テネドス」は負傷者1名を出したものの無傷でシンガポールに退避した<ref>[[#豊田、1988]]209頁</ref>。 |
|||
一方でZ部隊は朝になってから日本軍のコタバル上陸を知らされ、針路をコタバルに向けた。<!--At 0515, objects were spotted on the horizon. Thinking that they were the invasion force, Force Z turned towards them. They turned out to be a trawler towing barges. At 0630, Repulse reported seeing an aircraft shadowing the ships.-->7時18分にスーパーマリン・ウォーラス偵察機を発艦させ、駆逐艦エクスプレスとクアンタン方面を偵察したが日本軍を発見できなかった。<!--At 1005, Tenedos reported that she was being attacked by Japanese aircraft, about 140 miles southeast of Force Z. At 1015, more Japanese aircraft spotted the ships, after Force Z failed to find any Japanese invasion forces, and was heading back south.-->日本軍を発見できなかったZ部隊本隊も再び南へ引き返した。 |
|||
午前11時45分、3番索敵機(機長・[[帆足正音]]予備少尉)が東洋艦隊主力を発見し、約15分の間に司令部に以下の3つの電文を打電した<ref>[[#須藤、1982]]109頁、[[#豊田、1988]]192-193頁</ref>。 |
|||
日本軍も本命の東洋艦隊はなかなか発見できなかった。九六陸攻に比べ速力の出る一式陸攻部隊はシンガポール付近まで進出したという<ref>[[#ウエールス最後]]p.5</ref>。10時52分、サイゴンに引き返す途中の4番索敵機が帰還中の「テネドス」を発見し、500kg爆弾を装備する元山航空隊の爆装陸攻隊が戦艦と見誤って攻撃したものの命中弾は得られず、少数とはいえ爆弾を無駄にしてしまった。 |
|||
#敵主力見ユ、北緯四度、東経一〇三度五五分、針路六〇度、一一四五 |
|||
11時45分、3番索敵機(機長・[[帆足正音]]予備少尉)が待望の東洋艦隊主力を発見し、約15分の間に司令部に以下の3つの電文を打電した。 |
|||
#敵主力ハ三〇度ニ変針ス、一一五〇 |
|||
#敵主力ハ駆逐艦三隻ヨリナル直衛ヲ配ス、航行序列、キング型、レパルス、一二〇五 |
|||
: 敵主力ハ駆逐艦三隻ヨリナル直衛ヲ配ス、航行序列、キング型、レパルス、一二〇五 |
|||
司令部はすぐさま各攻撃隊に電文を転送し、各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到した。 |
|||
司令部はすぐさま各攻撃隊に電文を転送し、各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到した。帆足は独断で索敵コースを変更しており、東洋艦隊の射撃を受けてから「敵発見」を報告するなど不手際があったが、その過失を問われることはなかった<ref>[[#須藤、1982]]110-111頁</ref>。 |
|||
=== 九六式陸攻の攻撃 === |
|||
主力上空に最初に到達したのは美幌航空隊の爆装隊の一部8機と元山航空隊の雷装のいずれも九六式陸攻隊であった。爆装陸攻隊はレパルスを目標に投弾、うち1発が命中した。ただし、「レパルス」の損害は軽微であった。雷装陸攻隊は二手に分かれて「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」の両艦を狙った。「レパルス」はテナント艦長の巧みな操艦ですべて回避したものの、舵効きの悪い「プリンス・オブ・ウェールズ」には左舷後方に魚雷2本が命中した。うち1本の命中した衝撃は「プリンス・オブ・ウェールズ」に重大な損傷を与えた。[[魚雷]]命中による損傷に加え、衝撃で湾曲した推進軸は回転する[[太鼓]]の[[撥|バチ]]の様に周囲を殴打して破壊の限りを尽くした。この時に隔壁が破壊されたため「プリンス・オブ・ウェールズ」は早くも多量の浸水を見るにいたり速力が低下する。また、缶室や機関室、発電機室などにも浸水が及んで、電力供給途絶により後部にある4基の両用砲が旋回不能になり、対空射撃等に甚大な影響が出た。舵機も故障して操艦も不如意となった<ref>[[#ウエールス最後]]p.13</ref>。 |
|||
[[ファイル:Repulse-8.jpg|thumb|left|200px|攻撃にさらされる東洋艦隊。巧みな機動で爆撃を回避する「レパルス」と逆に集中攻撃を受ける「プリンス・オブ・ウェールズ」。]] |
|||
英国東洋艦隊上空に最初に到達したのは、美幌航空隊の爆装隊の一部8機と、元山航空隊の雷装の、いずれも九六式陸攻隊だった<ref>[[#美幌空調書(1)]]p.12、[[#美幌叢書(1)]]p.49、[[#レパルス投弾]]134頁</ref>。Z部隊は突如出現した8機の日本軍機に対空砲火を浴びせるが、効果はなかった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]102頁、[[#豊田、1988]]218-220頁</ref>。午後12時45分、美幌空陸攻隊8機(白井中隊)は「レパルス」を目標に各機2発搭載した250kg爆弾による水平爆撃を実施する<ref>[[#豊田、1988]]217頁、[[#レパルス投弾]]136頁、[[#須藤、1982]]123頁</ref>。第二小隊二番機は第一弾投下直後に被弾したため第二弾を投下できず<ref>[[#レパルス投弾]]137頁</ref>、別の1機も故障で投下ができなかったため、250kg爆弾計14発が投下された<ref>[[#美幌叢書(1)]]p.49</ref>。このうち、最初の爆撃で1発が「レパルス」の右舷後部カタパルト付近に命中した<ref>[[#須藤、1982]]126頁</ref>。右舷後部飛行機格納庫甲板、海兵隊印居住区甲板を貫通し、装甲を施した下甲板で爆発した<ref>[[#豊田、1988]]228頁</ref>。爆風でダメージコントロール班員が多数死傷、副長は消火隊5隊を投入したが、艦内の火災は中々鎮火できなかった<ref>[[#豊田、1988]]229、231頁</ref>。飛行機格納庫ではカタパルト上の水上機1機が炎上し、海中投棄を行っている<ref>[[#豊田、1988]]231頁</ref>。最大の被害は、命中箇所直下の罐室で高圧蒸気管が破裂したことだった<ref>[[#豊田、1988]]232頁</ref>。このような事態になってもフリップスは英空軍に掩護を求めず、バッファロー戦闘機はシンガポールでの待機を続けた<ref>[[#豊田、1988]]237頁</ref>。 |
|||
水平爆撃を行った美幌航空隊白井中隊が退避する中、元山航空隊九六陸攻隊16機(雷装)が東洋艦隊上空に到達する<ref>[[#元山空調書(1)]]pp.15-17 、[[#豊田、1988]]226頁、[[#須藤、1982]]133頁</ref>。フィリップス提督は日本軍機が雷撃を行えるとは考えておらず、「プリンス・オブ・ウェールズ」の反応は遅れた<ref>[[#豊田、1988]]268-269頁</ref>。英軍にとって不運なことに、対空火器として期待を集めたポンポン砲は頻繁に故障を起こした<ref>[[#豊田、1988]]270頁</ref>。日本軍航空隊は、第一中隊(石原薫大尉)9機と第二中隊(高井貞夫大尉)6機(第二小隊一番機はエンジン故障で帰投)の二手に分かれ、それぞれ「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」に雷撃を行った<ref>[[#豊田、1988]]244頁、[[#須藤、1982]]135頁</ref>。第一中隊三番機は撃墜され、二番機(大竹典夫 一飛曹)は「プリンス・オブ・ウェールズ」が転舵を止めたため目標を見失い、直後に右旋回中の「レパルス」を狙った<ref>[[#豊田、1988]]262-265頁、[[#須藤、1982]]135,137頁</ref>。第二中隊・高井中隊長は艦型が似ている巡洋戦艦「レパルス」と[[金剛型戦艦]]の区別がつかず<ref group="注">戦艦「金剛」は、もともとイギリスで建造された巡洋戦艦である。</ref>、英国国旗を確認してから雷撃を行った<ref>[[#豊田、1988]]246-247頁</ref>。「レパルス」はテナント艦長の巧みな操艦で8本の魚雷を全て回避した<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]103頁、[[#須藤、1982]]138頁</ref>。午後1時14分、「プリンス・オブ・ウェールズ」に5本の魚雷が接近、左舷後方と左舷中央に魚雷2本(英軍記録魚雷1本が左舷後方)が命中した<ref>[[#豊田、1988]]267頁、[[#須藤、1982]]136-137頁</ref>。ロースン副長は左舷中央の魚雷は命中ではなく自爆と推測、水圧により浸水が発生したが被害は限定的だった<ref>[[#豊田、1988]]273-274頁</ref>。これに対し、左舷後方に命中した魚雷は「プリンス・オブ・ウェールズ」に重大な損傷を与えた。[[魚雷]]命中による損傷に加え、衝撃で湾曲した左舷外側推進軸は回転する[[太鼓]]の[[撥|バチ]]の様に周囲を殴打して破壊の限りを尽くした<ref>[[#豊田、1988]]274頁</ref>。この時に隔壁が破壊されたため「プリンス・オブ・ウェールズ」は早くも多量の浸水を見るにいたり、左舷に10度傾斜、右舷2軸運転となり速力は20ノットに低下する<ref>[[#豊田、1988]]274,279頁、[[#須藤、1982]]161頁</ref>。艦内では推進機軸管を伝って浸水が広がり、最下層甲板中部(缶室、機関室、機関科指揮所、発電機室)などにも浸水が及んで電力供給が途絶、後部4基の両用砲が旋回不能になり、対空射撃等に甚大な影響が出た<ref>[[#豊田、1988]]274-276頁</ref>。艦内電話は通じなくなり、通風が不十分となって機械室では[[熱射病]]で倒れる乗組員が続出、応急注排水装置が故障、操舵機も電力を絶たれ人力操舵となる<ref>[[#豊田、1988]]344-345頁、[[#ウエールス最後]]p.13</ref>。後部指揮所にいた士官は、たった1本の魚雷で「プリンス・オブ・ウェールズ」が致命傷を受けたことに「誰が不沈戦艦と名づけたんだ」とぼやいていた<ref>[[#豊田、1988]]346頁</ref>。「プリンス・オブ・ウェールズ」は重大な損傷を受けたにも関わらず、「レパルス」に被害を報告せず、「レパルス」テナント艦長は旗艦の動きと傾斜から損害を推測した<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]103-104頁</ref>。この他、魚雷1本が駆逐艦「エクスプレス」の付近で自爆した<ref>[[#豊田、1988]]270頁</ref>。 |
|||
13時50分に戦場に到着したのは鹿屋航空隊の[[一式陸上攻撃機|一式陸攻]]であった。鹿島航空隊は2機喪失と引き換えに英国戦艦に深刻な損傷を与えた<ref>[[#ウエールス最後]]p.6</ref>。第二波攻撃で機動能力を落としていた「プリンス・オブ・ウェールズ」は右舷に4本、「レパルス」は雷撃により操舵室を破壊され計5本の魚雷が命中した。対水雷防御に欠ける「レパルス」は被雷後約4分を経た14時3分ごろに沈没した。「プリンス・オブ・ウェールズに」は大量の浸水が生じ傾斜がひどくなった。その後間もなく、美幌航空隊のうち第一波攻撃に参加した機を除く機が「プリンス・オブ・ウェールズ」と駆逐艦を襲い、「プリンス・オブ・ウェールズ」に500キロ爆弾1発を命中させた。爆弾は最上甲板を貫通し内部で炸裂したため同艦の船体中央部の飛行機甲板は全体が盛り上がるほどの損傷を受け、さらに通称「シネマデッキ」に収容されていた負傷兵に多数の死者が出た。 |
|||
午後1時20分、美幌航空隊第四中隊(高橋勝作大尉)の九六式陸攻8機が戦場に到達した<ref>[[#美幌空調書(1)]]p.12、[[#豊田、1988]]290頁、[[#須藤、1982]]147頁</ref>。第四中隊も元山航空隊と同じく「レパルス」と「[[金剛 (戦艦)|金剛]]」の見分けがつかず、撃たれてから英軍と確信した<ref>[[#豊田、1988]]294-295頁</ref>。午後1時27分、故障で魚雷投下に失敗した高橋機を除く7機は魚雷7本を投下するも「レパルス」は全て回避する<ref>[[#豊田、1988]]297頁、[[#須藤、1982]]151頁</ref>。高橋中隊の損害は被弾小破3機で、魚雷投下行動を2度やりなおした高橋機の損害は大きかった。第四中隊は魚雷3本命中・左舷傾斜を主張するが、実際には命中していない<ref>[[#美幌空調書(1)]]p.12、[[#美幌叢書(1)]]p.49、[[#豊田、1988]]297頁</ref>。午後1時28分(1157)、「レパルス」のテナントは独断で無線封止を破り『発レパルス、宛関連全友軍艦艇。我敵機の雷爆撃を受けつつあり、至急空軍の援助を乞う、位置134NYTW22X09、時刻1158』と発信した<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]104頁、[[#豊田、1988]]348頁</ref>。午後1時46分、11機の[[F2A (航空機)|F2Aブリュースターバッファロー戦闘機]]がシンガポールを発進したが、到着見込みは午後2時30分以降であった<ref>[[#豊田、1988]]348頁、[[#須藤、1982]]141,145頁</ref>。[[豊田穣]]は、午後12時30分までに英空軍が出動しなければ、日本軍航空隊の空襲までにバッファローがZ部隊上空に到達できないと指摘している<ref>[[#豊田、1988]]349頁</ref>。 |
|||
合計4本(日本軍主張7本)の魚雷が命中した「プリンス・オブ・ウェールズ」は左舷への傾斜がひどくなり、駆逐艦「エクスプレス」が乗員救助のために右舷に横付けして乗員の収容を始めた。トーマス・フィリップスは幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振った<ref group="注">世界文化社刊『連合艦隊・下巻激闘編』 1997年等、マレー沖海戦を記述した日本側書籍の多くはフィリップ提督の退艦拒否の状況をこの様に記述している。</ref><ref group="注">ただし英語版wikipediaにこの記述はなく、退艦を拒んだかまたは逃げ遅れたとしている([[:en:HMS Prince of Wales (53)|en]])。リーチ艦長は退艦しており、付近の海面上で目撃されていたが、生還しなかった([[:en:John Leach (Royal Navy officer)|en]])。「レパルス」のテナント艦長は救助された。</ref>。14時50分、「プリンス・オブ・ウェールズ」は左へ転覆し艦尾から沈没した。 |
|||
=== レパルス沈没 === |
|||
日本軍の攻撃でプリンス・オブ・ウェールズが沈んでから間もなく、オーストラリア第453飛行隊の[[F2A (航空機)|ブリュースターバッファロー]]11機が戦場に到着して、上空直掩を行った。エクスプレスがプリンス・オブ・ウェールズの乗員を救助している間、エレクトラとヴァンパイアが沈没したレパルスの乗組員を捜索し、エレクトラが571名、ヴァンパイアがレパルスの艦長と従軍記者を含む225名を救助した。また、テネドスは無事にシンガポールに帰還した。 |
|||
午後1時37分、[[宮内七三]]少佐率いる鹿屋航空隊の[[一式陸上攻撃機]]26機は積雲の切れ間から右方向に水上偵察機を発見<ref>[[#須藤、1982]]157-158頁</ref>、午後1時47-48分に雲下に出るとZ部隊を発見した<ref>[[#豊田、1988]]368頁、[[#須藤、1982]]160-161頁</ref>。この水上機は、「レパルス」から発進したビル・クローザー准尉の[[スーパーマリン ウォーラス]]水上偵察機だった。『我れ航行の自由を失えり』の信号旗を掲げた「プリンス・オブ・ウェールズ」は、推進軸損傷のため20ノットで緩慢に左旋回し、「レパルス」は28ノットに増速すると右に急速転舵する<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]104頁、[[#須藤、1982]]166頁</ref>。鹿屋航空隊第一中隊9機のうち、4機が「ウェールズ」を攻撃して右舷に魚雷3本・左舷1本命中を主張<ref>[[#須藤、1982]]171-172頁</ref>。5機が「レパルス」に向かい、左舷に魚雷1本を命中させて左舷機関室に浸水を生じさせた<ref>[[#須藤、1982]]175頁</ref>。続いて鹿屋航空隊第二中隊8機は、2機が「ウェールズ」を攻撃して右舷に魚雷1本命中を主張、6機が「レパルス」を攻撃し、「ウェールズ」に合計魚雷4-5本、「レパルス」に魚雷合計7-10本命中を主張している<ref>[[#須藤、1982]]177頁</ref>。これは魚雷命中の水柱を攻撃側が自機の戦果と誤認したものであり、鹿屋空第一中隊第二小隊長として本海戦に参加した須藤は、「レパルス」への魚雷命中は5-6本程度と推測している<ref>[[#須藤、1982]]178-179頁</ref>。「レパルス」に乗艦していた英国人記者によれば、最初に左舷へ魚雷2本(機関部浸水)、次に右舷中央部に2本、最後に1本が後部に命中したと記録している<ref>[[#須藤、1982]]179頁</ref>。また、命中したものの不発だった魚雷も目撃されている<ref>[[#豊田、1988]]404頁</ref>。鹿屋空第三中隊9機は「レパルス」に挟撃雷撃を行い<ref>[[#須藤、1982]]180頁</ref>、対空砲火で2機が撃墜された<ref>[[#須藤、1982]]181-182頁</ref>。この他に11機が被弾し、3機の被害は大きかった<ref>[[#須藤、1982]]183頁</ref>。対水雷防御に欠ける[[巡洋戦艦]]である「レパルス」は浸水が激しく、被雷から4分を経た午後2時3分(英軍時間12:33)、左舷に転覆して沈没した<ref>[[#豊田、1988]]408頁、[[#須藤、1982]]193頁</ref>。駆逐艦「エレクトラ」が571名、「ヴァンパイア」がテナント艦長と従軍記者を含む225名を救助した<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]106頁</ref>。宮内少佐・鹿屋空雷撃隊総指揮官は『敵戦艦1隻撃沈、1隻は攻撃続行の要あり』と打電して帰途についた<ref>[[#須藤、1982]]194頁</ref>。 |
|||
午後2時、美幌航空隊の九六式陸上攻撃機(武田中隊8機、大平中隊9機、各機500kg通常爆弾装備)が、雷撃を受けて炎上する英戦艦2隻上空に到達した<ref>[[#須藤、1982]]189頁、[[#美幌叢書(1)]]p.50</ref>。英軍によれば、最初に攻撃を行ったのは大平中隊である<ref>[[#豊田、1988]]417頁</ref>。大平中隊は何もない海面を誤爆して帰還したが<ref>[[#須藤、1982]]195頁</ref>、駆逐艦1隻を撃沈したと報告した<ref>[[#須藤、1982]]211頁</ref>。戦後、大平は「プリンス・オブ・ウェールズ」を狙って水平爆撃を行おうとしたが、初陣の爆撃手のミスにより、英戦艦のかなり手前の海面に投弾したと証言している<ref>[[#豊田、1988]]414-415頁</ref>。英戦艦乗組員が安堵したのも束の間、武田中隊は「プリンス・オブ・ウェールズ」に水平爆撃を行い、午後2時13分に後部主砲塔付近と左舷艦尾に命中を主張した(英軍によれば命中弾1、不落下弾1)<ref>[[#豊田、1988]]421-422頁</ref>。 |
|||
戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍[[大尉]]は両艦の沈没した海域に再度飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対し敬意を表した。[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は、英国戦艦2隻の引揚げと日本軍編入を思案したが、実現しなかった<ref>[[#戦藻録(九版)]]43頁</ref>。 |
|||
「プリンス・オブ・ウェールズ」には、午後1時50分ごろ魚雷1本が艦首右舷に命中、2本目が艦橋右舷付近に命中、3本目は後部三番砲塔右舷付近に命中、4本目は右舷外側推進器軸付近に命中、「ウェールズ」の傾斜は回復したが1軸運転・最大発揮速力8ノットとなった<ref>[[#豊田、1988]]373-374頁</ref>。武田中隊が命中させた爆弾は「プリンス・オブ・ウェールズ」の最上甲板を貫通して艦内で炸裂、同艦の船体中央部の飛行機甲板は全体が盛り上がるほどの損傷を受け、さらに通称「シネマデッキ」に収容されていた負傷兵に多数の死者が出たほか、火災の煙が罐室に逆流・機関兵は退去した<ref>[[#豊田、1988]]429-430頁</ref>。武田大尉は「プリンス・オブ・ウェールズ」がシンガポールに帰航する可能性を考慮し、日本軍潜水艦により「プリンス・オブ・ウェールズ」にとどめを刺すよう要請して戦場を離脱した<ref>[[#須藤、1982]]194頁</ref>。もっとも、爆撃により英戦艦は最後の罐室を放棄したので、航行能力を完全に失っていた。日本軍航空隊が英軍駆逐艦を攻撃せず救助作業を妨害しなかったのは、単純に爆弾や魚雷を使い果たした上に燃料が少なかった為であり、戦後、須藤(一式陸攻雷撃隊)から事情を聞いた「ウェールズ」のゴーディ機関長は落胆している<ref>[[#須藤、1982]]199頁</ref>。 |
|||
=== 不沈戦艦の沈没 === |
|||
[[ファイル:Escaping from Prince of Wales.jpg|thumb|left|200px|沈んでいく「プリンス・オブ・ウェールズ」から横づけして乗員を移乗する駆逐艦「エクスプレス」。]] |
|||
合計4-5本(日本軍主張7本)の魚雷が命中した「プリンス・オブ・ウェールズ」は完全に航行不能になり、左舷艦尾から沈み始めていた<ref>[[#豊田、1988]]386頁</ref>。駆逐艦「エクスプレス」がカートライト艦長の判断で乗員救助のため「プリンス・オブ・ウェールズ」右舷に横付けすると乗組員の収容を始めた<ref>[[#豊田、1988]]431-432頁、[[#須藤、1982]]174頁</ref>。リーチ艦長は負傷者のみ「エクスプレス」への移乗を許可し、残る乗組員には戦闘配置につき「プリンス・オブ・ウェールズ」をシンガポールへ回航させると演説している<ref>[[#豊田、1988]]432頁</ref>。トーマス・フィリップスは幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振った<ref group="注">世界文化社刊『連合艦隊・下巻激闘編』 1997年等、マレー沖海戦を記述した日本側書籍の多くはフィリップ提督の退艦拒否の状況をこの様に記述している。</ref><ref group="注">ただし英語版wikipediaにこの記述はなく、退艦を拒んだかまたは逃げ遅れたとしている([[:en:HMS Prince of Wales (53)|en]])。</ref>。だが英戦艦の艦腹から海に飛び込んだ姿も数人に目撃されており<ref>[[#豊田、1988]]440頁</ref>、またヒラリー・ノーマン水雷中佐は救命胴衣をつけたフィリップの遺体が海面を漂うのを目撃している<ref>[[#豊田、1988]]440-441頁</ref>。「艦長が艦と運命を共にするのは無益だ」と公言していたリーチ艦長は付近の海面上で目撃されたが、生還しなかった([[:en:John Leach (Royal Navy officer)|en]]) <ref>[[#豊田、1988]]441頁</ref>。「レパルス」のテナント艦長は救助された。午後2時30分、三番索敵機(帆足予備少尉機)が戦場に戻り、Z部隊の監視を行う<ref>[[#豊田、1988]]433頁</ref>。「レパルス」は既に沈没し、「プリンス・オブ・ウェールズ」は艦中央と艦尾で火災が発生し、艦首は東を向いて惰性で動いていた<ref>[[#須藤、1982]]198頁</ref>。日本時間午後2時50分(現地時間13時20分)、「プリンス・オブ・ウェールズ」は左へ転覆し艦尾から沈没した<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]107頁</ref>。帆足機は『レパルス型1420ごろ、キング・ジョージ型1450ごろ爆発沈没せり。駆逐艦、レパルスの救助作業につとめたるも、わずかに収容せるのみ。キング・ジョージ型は総員艦と運命をともにせり』と報告した。実際の戦死者は士官20名、下士官兵307名(全乗組員士官110名、下士官兵1502名)、であり、またバッファロー戦闘機隊指揮官は沈没寸前に火焔と黒煙が上がるも大爆発はなかったと証言している<ref>[[#豊田、1988]]444,448頁、[[#須藤、1982]]199頁</ref>。 |
|||
午後2時45分、オーストラリア第453飛行隊の[[F2A (航空機)|ブリュースターバッファロー戦闘機]]11機が戦場に到着、完全に転覆し、艦尾から沈んでいく「プリンス・オブ・ウェールズ」を目撃した<ref>[[#豊田、1988]]444頁</ref>。帆足機はバッファロー8機を視認して積乱雲に退避、午後9時20分にサイゴン基地に着陸して13時間の索敵任務を終えた<ref>[[#須藤、1982]]204頁</ref>。また、テネドスは無事にシンガポールに帰還した。 |
|||
戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった[[壱岐春記]]海軍大尉は両艦の沈没した海域に再度飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対し敬意を表した。[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長は、英国戦艦2隻の引揚げと日本軍編入を思案したが、実現しなかった<ref>[[#戦藻録(九版)]]43頁</ref>。 |
|||
== 両軍の損害 == |
== 両軍の損害 == |
||
* 日本軍 |
* 日本軍 |
||
** 陸上攻撃機 |
** 一式陸上攻撃機2、九六式陸上攻撃機1喪失<br/>一式陸攻1不時着(後、処分)<ref>[[#鹿屋空調書(1)]]p.18、[[#須藤、1982]]220-222頁</ref>、偵察機未帰還2<ref group="注">不時着大破1と偵察機未帰還2は英wikiに拠る。</ref> |
||
* イギリス軍 |
* イギリス軍 |
||
** 沈没:戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス |
** 沈没:戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス |
||
** 戦死:フィリップス大将、リーチ大佐ほか将兵840名。 |
** 戦死:フィリップス大将、リーチ大佐ほか将兵840名。 |
||
なお、これ以外にも日本軍の参加機の多くが被弾し、 |
なお、これ以外にも日本軍の参加機の多くが被弾して工廠修理2機、隊内修理25機、喪失機ふくめ21名戦死という被害を出し、2隻の対空砲火がいかに激しかったかを物語る証拠となった<ref>[[#須藤、1982]]235頁</ref>。また日本軍は甲巡洋艦1隻の撃沈を記録しているが、これは駆逐艦へ水平爆撃を行った時の至近弾を誤認したものである<ref>[[#鳥海戦闘詳報(1)]]p.3</ref>。 |
||
== その後 == |
== その後 == |
||
134行目: | 164行目: | ||
=== 影響 === |
=== 影響 === |
||
==== 戦術的影響 ==== |
==== 戦術的影響 ==== |
||
既述の通り「作戦行動中の[[戦艦]]を航空機で沈めることができる」ことを証明した海戦であった。[[大艦巨砲主義|大艦巨砲主義者]]であった[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長ですら |
既述の通り、マレー沖海戦は「作戦行動中の[[戦艦]]を航空機で沈めることができる」ことを証明した海戦であった<ref>[[#須藤、1982]]227頁</ref>。[[大艦巨砲主義|大艦巨砲主義者]]であった[[宇垣纏]]連合艦隊参謀長ですら『鴨がネギを背負って現れた。新鋭戦艦も無謀な行動で海の藻屑になった』と評し、[[真珠湾攻撃]]の大戦果とあわせて「日本海軍航空隊」を賞賛している<ref>[[#戦藻録(九版)]]42-43頁</ref>。これを[[戦訓]]として、各国海軍とも各種艦船に装備されている対空火器を、改めて大幅に増強した。 |
||
航空機が戦艦を沈める事が可能であるなら、当然だが航空機による戦艦の護衛は必須となり、地上基地の航空部隊の行動圏外では戦艦を初めとする水上部隊は、敵側に航空戦力が存在する状況ではもはや[[空母]]なしで単独では行動できなくなってしまった。マレー沖海戦以後は、各国海軍は航空支援なしに戦艦を出撃させることに極めて慎重にな |
航空機が戦艦を沈める事が可能であるなら、当然だが航空機による戦艦の護衛は必須となり、地上基地の航空部隊の行動圏外では戦艦を初めとする水上部隊は、敵側に航空戦力が存在する状況ではもはや[[空母]]なしで単独では行動できなくなってしまった。マレー沖海戦以後は、各国海軍は航空支援なしに戦艦を出撃させることに極めて慎重になる。だが脆弱な飛行甲板という構造上の弱点を抱え、かつ航空機用燃料や爆弾、魚雷といった可燃物を満載している空母がわずか1-2発の爆弾命中で航行不能に陥ったり沈没した事例の枚挙にいとまがない事と比較して、砲戦用の分厚い装甲を備え、水中防御も充実した戦艦を航空機だけで沈めることは、依然として難題であり続けた。例えば、日本海軍航空隊が沈めた航行中の戦艦は本海戦における「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」のみである。「プリンズ・オブ・ウェールズ」の沈没について、[[ラッセル・グレンフェル]]英海軍大佐は著書の中で『ただ、それは実際上対空防御の伴わぬ戦艦は、空襲により沈められ得るという事実を示したに過ぎなかった』と評している<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]115頁</ref>。米軍航空隊も[[大和型戦艦]]「[[大和 (戦艦)|大和]]」と「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]」の2隻にとどまった。この巨艦2隻の場合も、日本軍側に航空機の護衛が1機もないという特殊な事例だった。 |
||
その一方、日本軍は戦闘機の護衛なしに艦隊攻撃を行う危険性を認識しなかった。空母「インドミタブル」が随伴しているか、英空軍戦闘機がマレー半島に多数配備されていた場合、海戦の様相は変わっていた可能性がある<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]108頁、[[#勝つ戦略負ける戦略]]72頁</ref>。実際に1942年2月20日の[[ニューギニア沖海戦]]では、空母「[[レキシントン (CV-2)]]」を攻撃した第二十四航空戦隊の[[一式陸上攻撃機]]15機が[[F4F_(航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]]と対空砲火の迎撃で13機を撃墜されて完敗した。 |
|||
その一方、日本軍は戦闘機の護衛なしに艦隊攻撃を行う危険性を認識しなかった。1942年2月20日の[[ニューギニア沖海戦]]では、空母「[[レキシントン (CV-2)]]」を攻撃した第二十四航空戦隊の[[一式陸上攻撃機]]15機が[[F4F_(航空機)|F4Fワイルドキャット戦闘機]]と対空砲火の迎撃で13機を撃墜されて完敗した。しかし、第二十四航空戦隊は「サラトガ型に非ざる空母1隻を轟沈せること確実なり」と報告している<ref>[[#戦藻録(九版)]]86頁</ref>。同年5月の[[珊瑚海海戦]]では、第二十五航空戦隊の[[九六式陸上攻撃機]]38機(雷装12、爆装26)、[[零式艦上戦闘機]]12機が連合国軍重巡洋艦2隻([[オーストラリア (重巡洋艦)|オーストラリア]]、[[シカゴ (CA-29)|シカゴ]])、軽巡洋艦「[[ホバート (軽巡洋艦)|ホバート]]」、駆逐艦2隻([[パーキンス (DD-377)|パーキンス]]、[[ウォーク (駆逐艦・DD-416)|ウォーク]])に攻撃を行い、1発の命中弾も得られなかったにも関わらず、英軍戦艦「[[ウォースパイト (戦艦)|ウォースパイト]]」を雷撃撃沈、戦艦もしくは重巡洋艦1隻を大破(おそらく沈没)を報告している<ref>[[#戦藻録(九版)]]113頁</ref>。[[大本営発表]]では、カルフォルニア型戦艦1隻・サラトガ型空母1隻・ヨークタウン型空母1隻・駆逐艦1隻撃沈、ウォースパイト型戦艦1隻・キャンベラ型甲巡洋艦1隻大破と大戦果を誇示している<ref>「週報第293号」p.9、11</ref>。日本軍航空隊による戦果誤認問題は[[第一次ソロモン海戦]]や[[台湾沖航空戦]]を筆頭に、日本軍の作戦そのものに影響を与え続けた。 |
|||
==== 戦略的影響 ==== |
==== 戦略的影響 ==== |
||
マレー沖海戦では[[イギリス海軍]]の最新鋭戦艦1隻 |
マレー沖海戦では[[イギリス海軍]]の最新鋭戦艦1隻と巡洋戦艦が撃沈されたが、これは[[アヘン戦争]]([[1840年]]~[[1842年]])以来100年に亘るイギリス[[植民地主義]]と海軍全盛時代の「破局の序章」でもあった<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]116,181頁</ref>。シンガポールでは、「プリンス・オブ・ウェールズ」撃沈の速報がラジオを通じてもたらされた瞬間、パニックが発生している<ref>[[#陥落の記録]]87-88頁</ref>。 |
||
この戦いにより制海権を失った後、2ヶ月後の[[シンガポールの戦い|シンガポール陥落]]([[1942年]][[2月15日]])でイギリス陸軍は敗れており、東南アジア征服の象徴・要というべきチョークポイントであるシンガポールを失うということは東南アジア支配の終焉を予感させるものとして、[[インド]]など当時イギリスの植民地であった[[東南アジア]]各国の独立への機運に影響を与えた。 |
この戦いにより制海権を失った後、2ヶ月後の[[シンガポールの戦い|シンガポール陥落]]([[1942年]][[2月15日]])でイギリス陸軍は敗れており、東南アジア征服の象徴・要というべきチョークポイントであるシンガポールを失うということは東南アジア支配の終焉を予感させるものとして、[[インド]]など当時イギリスの植民地であった[[東南アジア]]各国の独立への機運に影響を与えた<ref>[[#主力艦隊シンガポールへ]]197頁</ref>。 |
||
イギリスの歴史学者である[[アーノルド・J・トインビー]]は、[[毎日新聞]][[1968年]][[3月22日]]付にてこう述べた。「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、[[東アジア]]における英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、[[1967年]]の[[ヴェトナム]]に明らかである。」 |
イギリスの歴史学者である[[アーノルド・J・トインビー]]は、[[毎日新聞]][[1968年]][[3月22日]]付にてこう述べた。「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、[[東アジア]]における英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、[[1967年]]の[[ヴェトナム]]に明らかである。」 |
||
149行目: | 179行目: | ||
== その後 == |
== その後 == |
||
魚雷・爆弾の命中数に関して日英の資料で食い違いを見せている。 |
魚雷・爆弾の命中数に関して日英の資料で食い違いを見せている。 |
||
* 日本側資料 |
* 日本側資料<ref>[[#豊田、1988]]385頁</ref> |
||
** プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷7本、爆弾2発 |
** プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷7本、爆弾2発 |
||
** レパルス:魚雷13本、爆弾1発 |
** レパルス:魚雷13本、爆弾1発 |
||
155行目: | 185行目: | ||
** プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷6本、爆弾1発 |
** プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷6本、爆弾1発 |
||
** レパルス:魚雷5本、爆弾1発 |
** レパルス:魚雷5本、爆弾1発 |
||
日本側は至近弾による水柱を魚雷の命中と誤認したと言われており、「戦闘経過」では参考文献中のイギリス側資料に準拠している。しかし後年の海底調査では、プリンス・オブ・ウェールズの船体には4箇所の破孔が認められるのみであった<ref>シーハンター 海底に沈む英国戦艦 ナショナル ジオグラフィック</ref>。 |
日本側は至近弾による水柱を魚雷の命中と誤認したと言われており、「戦闘経過」では参考文献中のイギリス側資料に準拠している。しかし後年の海底調査では、「プリンス・オブ・ウェールズ」の船体には4箇所の破孔が認められるのみであった<ref>シーハンター 海底に沈む英国戦艦 ナショナル ジオグラフィック</ref>。 |
||
沈没したプリンス・オブ・ウェールズは水面下68 m(223フィート)の位置で見つかり、不法ダイバーに盗まれるのを危惧したことから2002年になってベルが取り外された。ベルはリバプールの博物館(Merseyside Maritime Museum)で展示されている。レパルスはさらに浅い40メートルの海底に沈んでおり、海面から船体が視認できる状態である。双方の艦とも完全に転覆した状態で海底に横たわっている。 |
沈没した「プリンス・オブ・ウェールズ」は水面下68 m(223フィート)の位置で見つかり、不法ダイバーに盗まれるのを危惧したことから2002年になってベルが取り外された。ベルはリバプールの博物館(Merseyside Maritime Museum)で展示されている。「レパルス」はさらに浅い40メートルの海底に沈んでおり、海面から船体が視認できる状態である。双方の艦とも完全に転覆した状態で海底に横たわっている。 |
||
== 注釈 == |
== 注釈 == |
||
162行目: | 192行目: | ||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{reflist}} |
{{reflist|2}} |
||
== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
||
168行目: | 198行目: | ||
**Ref.A06031045500「週報 第293号」(昭和17年5月20日) |
**Ref.A06031045500「週報 第293号」(昭和17年5月20日) |
||
**Ref.A06031079500「写真週報200号」(昭和16年12月24日号) |
**Ref.A06031079500「写真週報200号」(昭和16年12月24日号) |
||
**Ref.A06031079600「写真週報201号」(昭和16年12月31日号) |
|||
**Ref.C08030766200「昭和16年12月10日 プリンス・オブ・ウエールスの最後」 |
**Ref.C08030766200「昭和16年12月10日 プリンス・オブ・ウエールスの最後」 |
||
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030765900|title=昭和16年12月10日 プリンス・オブ・ウエールスの最後|ref=ウエールス最後}}(海兵第四十四期会) |
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030765900|title=昭和16年12月10日 プリンス・オブ・ウエールスの最後|ref=ウエールス最後}}(海兵第四十四期会) |
||
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030746900|title=昭和16年12月4日~昭和17年11月5日 鳥海戦闘詳報 (馬来沖海戦.ソロモン海戦等)(1)|ref=鳥海戦闘詳報(1)}} |
|||
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030744300|title=昭和16年12月1日~昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(1)|ref=愛宕戦時日誌(1)}} |
|||
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08030744400|title=昭和16年12月1日~昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(2)|ref=愛宕戦時日誌(2)}} |
|||
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051613100|title=昭和16年12月~昭和17年2月 鹿屋空 飛行機隊戦闘行動調書(1)|ref=鹿屋空調書(1)}} |
|||
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051615300|title=昭和16年12月~昭和17年3月 美幌空 飛行機隊戦闘行動調書(1)|ref=美幌空調書(1)}} |
|||
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051612100|title=昭和16年12月~昭和17年5月 元山空 飛行機隊戦闘行動調書(1)|ref=元山空調書(1)}} |
|||
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08051770700|title=史話美幌海軍航空隊 美幌叢書 第5号(1)|ref=美幌叢書(1)}} |
|||
**Ref.C08030743300「昭和16年~昭和17年 大東亜戦争綴 (第4戦隊高雄)(3)」 |
**Ref.C08030743300「昭和16年~昭和17年 大東亜戦争綴 (第4戦隊高雄)(3)」 |
||
*{{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]著|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=1968|title=戦藻録|publisher=原書房|ref=戦藻録(九版)}} |
*{{Cite book|和書|author=[[宇垣纏]]著|coauthors=[[成瀬恭]]発行人|year=1968|title=戦藻録|publisher=原書房|ref=戦藻録(九版)}} |
||
* 防衛研究所戦史室編『戦史叢書98 潜水艦史』朝雲新聞社、1979年 |
* 防衛研究所戦史室編『戦史叢書98 潜水艦史』朝雲新聞社、1979年 |
||
*{{Cite book|和書|author=[[須藤朔]]|year=1982|title=マレー沖海戦|publisher=朝日ソノラマ文庫航空戦史シリーズ|isbn=4-257-17005-0|ref=須藤、1982}}<br/>須藤は鹿島航空隊所属、レパルスを雷撃。 |
|||
* 佐藤和正「南方攻略作戦」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X |
* 佐藤和正「南方攻略作戦」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X |
||
* 石橋孝夫「プリンス・オブ・ウェールズ撃沈の秘密」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年。 |
* 石橋孝夫「プリンス・オブ・ウェールズ撃沈の秘密」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年。 |
||
*{{Cite book|和書|author=[[豊田穣]]|year=1988|title=マレー沖海戦|publisher=集英社|isbn=4-08-749362-8|ref=豊田、1988}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[岩崎嘉秋]]|year=1990|title=われレパルスに投弾命中せり {{small|ある陸攻操縦員の生還}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-0505-5|ref=レパルス投弾}} |
|||
*甲斐克彦、『ドキュメント・マレー沖海戦』、「歴史群像太平洋戦史シリーズ2 大捷マレー沖海戦」、学習研究社、1994年、ISBN 4-05-600368-8 |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[ノエル・バーバー]]著|coauthors=[[原田栄一]]訳|year=1995|title=不吉な黄昏 {{small|シンガポール陥落の記録}}|publisher=中央公論社|isbn=4-12-202224-x|ref=陥落の記録}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[生出寿]]|year=1997|month=7|title=勝つ戦略 負ける戦略 {{small|東郷平八郎と山本五十六}}|publisher=徳間文庫|isbn=4-19-890714-5|ref=勝つ戦略負ける戦略}} |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[中島親孝]]|year=1997|month=10|title=聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 {{small|参謀が描く聯合艦隊興亡記}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2175-1|ref=聯合艦隊作戦室}} 中島は近藤中将の第二艦隊参謀として「愛宕」に乗艦していた。 |
|||
*{{Cite book|和書|author=[[ラッセル・グレンフェル]]著|coauthors=[[田中啓眞]]訳|year=2008|title={{small|プリンス オブ ウエルスの最期}} 主力艦隊シンガポールへ {{small|日本勝利の記録}}|publisher=[[錦正社]]|isbn=978-4-7646-0326-4|ref=主力艦隊シンガポールへ}} 昭和28年啓明社版を再出版したもの。 |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
{{wikisource|不沈艦の最期}} |
{{wikisource|不沈艦の最期}} |
||
{{Commons|Category:Battle of Malaya}} |
|||
* [[太平洋戦争の年表]] |
* [[太平洋戦争の年表]] |
||
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]] |
* [[大日本帝国海軍艦艇一覧]] |
||
186行目: | 233行目: | ||
* [[アヘン戦争]](イギリス植民地主義が始まった戦争) |
* [[アヘン戦争]](イギリス植民地主義が始まった戦争) |
||
* [[ロンドンオリンピック (1948年)]]:{{要出典範囲|「プリンス・オブ・ウェールズを忘れるな」と日本選手団の参加を拒否した。|date=2010年8月}} |
* [[ロンドンオリンピック (1948年)]]:{{要出典範囲|「プリンス・オブ・ウェールズを忘れるな」と日本選手団の参加を拒否した。|date=2010年8月}} |
||
* [[大艦巨砲主義]] |
|||
* [[ハワイ・マレー沖海戦]] - 海軍省のバックアップで製作された[[東宝]]映画。 |
* [[ハワイ・マレー沖海戦]] - 海軍省のバックアップで製作された[[東宝]]映画。 |
||
{{Commons|Category:Battle of Malaya}} |
|||
{{太平洋戦争・詳細}} |
{{太平洋戦争・詳細}} |
||
{{デフォルトソート:まれいおきかいせん}} |
{{デフォルトソート:まれいおきかいせん}} |
2011年10月27日 (木) 15:35時点における版
マレー沖海戦 | |
---|---|
日本軍機の猛攻撃を受け沈没するプリンス・オブ・ウェールズとレパルス | |
戦争:大東亜戦争 / 太平洋戦争 | |
年月日:1941年12月10日 | |
場所:南シナ海 | |
結果:日本の戦術的・戦略的勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 (海軍第二十二航空戦隊) |
イギリス (海軍東洋艦隊) |
指導者・指揮官 | |
松永貞市少将 | トーマス・フィリップス大将 |
戦力 | |
九六式陸攻59 一式陸攻26 |
戦艦1 巡洋戦艦1 駆逐艦4 |
損害 | |
九六式陸攻1 一式陸攻2 不時着大破1 偵察機2 |
戦艦1 巡洋戦艦1沈没 |
マレー沖海戦(マレーおきかいせん)とは、第二次世界大戦列びに太平洋戦争の初期の1941年12月10日に、マレー半島東方沖で、日本海軍の航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘。
日本軍はイギリス海軍が東南アジアの制海権確保の為に派遣した戦艦2隻を撃沈し、この方面での初期作戦上で大成功をおさめた。また、当時の「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることはできない[注 1][注 2]」との常識を覆した[1]。当時の世界の海軍戦略である大艦巨砲主義の終焉を告げる出来事として海軍史上に刻まれている[2]。
背景
彼我の情勢
1930年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)をシンガポール要塞で防御し、その間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった[3]。幾度かの計画変更の後、1941年4月には米・英・蘭の間で協定が結ばれ、米国は艦隊を派遣して地中海のイタリア艦隊を抑制し、英国は東洋艦隊を極東に派遣するという方針を確認する[4]。ウィンストン・チャーチル英国首相・国防相はキング・ジョージ5世級戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、レナウン級巡洋戦艦1隻、空母1隻の派遣を提案したが、海軍大臣は反対した[5]。英軍海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するためにネルソン級戦艦2隻、リヴェンジ級戦艦4隻、空母「ハーミス」、「アーク・ロイヤル」、「インドミタブル」を送る計画であり、新鋭のキング・ジョージ5世級戦艦2隻は、ドイツ海軍ビスマルク級戦艦「ティルピッツ」の出撃に備えて英国本国のスカパフローから動かすつもりはなかった[6]。これに対しチャーチルは高速戦艦を中心とした遊撃部隊を送って抑止力とすることを強く主張する[7]。チャーチルは大和型戦艦の存在を気にかけていたという[8]。最終的に、キング・ジョージ5世級の一艦である「プリンス・オブ・ウェールズ」、レナウン級巡洋戦艦「レパルス」、空母「インドミタブル」、護衛の駆逐艦「エレクトラ」、「エクスプレス」、「エンカウンター」、「ジュピター」からなるG部隊が編成された[9]。「プリンス・オブ・ウェールズ」は10月23日にスカパフローを出港、11月16日南アフリカのケープタウン、セイロン島を経て1941年12月8日の太平洋戦争開戦直前の12月2日にシンガポールのセレター軍港に到着した[10]。「プリンス・オブ・ウェールズ」はマレー駐屯陸軍司令官パーシバル中将に出迎えられ、各国報道陣に公開されて英連邦諸国民に安心感を与えた[11]。
その一方、空母「インドミタブル」は11月13日にジャマイカ島近海で座礁事故を起こし、合流できなかった[12]。かわりに小型空母「ハーミーズ」の合流が決定したが、ダーバンで修理中のため、合流できなかった[13]。フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じ、リヴェンジ級戦艦「リヴェンジ」、「ロイヤル・サブリン」、クイーン・エリザベス級戦艦「ウォースパイト」の12月20頃までに派遣するよう希望している[14]。航空機に関して英軍参謀本部は「日本軍機とパイロットの能力はイタリア空軍と同程度(英軍の60%)」と想定し、マレー防衛計画に336機の配備を決定したが、実際には半数程度しか配備されていなかった[15]。これはチャーチル首相がソビエト連邦に大量の航空機を供給していたからである[16]。
日本軍は英国東洋艦隊の実情を把握しており、また対策をとっていた。12月7日、シンガポールの北東約300kmにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に特設敷設艦「辰宮丸」が機雷を敷設、さらに第四・第五潜水戦隊の潜水艦12隻が哨戒していた[17]。宇垣纏連合艦隊参謀長は「ウェールズをやっつけたら、次はジョージ5世でも6世でも良い」と陣中日誌「戦藻録」に記録している[18]。実際に日本軍は松永貞市少将の第二十一航空戦隊(美幌航空隊 ツドモー基地:九六式陸上攻撃機27、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻27)を南方に進出待機させ、新たに鹿島航空隊の一式陸上攻撃機54機を配備して英国東洋艦隊を待ちうけていた[19]。12月8日の早朝、ハワイの真珠湾攻撃より70分早く、日本軍はタイ国の国境に近いマレー領コタバルに陸軍部隊を上陸させた(大本営もこのコタバル上陸をもって、対米英蘭豪への宣戦を布告したと報じた)。この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの極東における根拠地、シンガポールを攻撃予定であった。
日本軍のマレー半島上陸
12月6日、日本軍輸送船団はオーストラリア空軍偵察機に発見され、同機は戦艦1隻を含む大部隊が南方に向かっていることを報告した[20]。英軍は日本軍輸送船団がタイ国へ上陸するのか、マレー半島へと上陸するのか、判断できなかった[21]。12月7日午前9時50分、宣戦布告前にも関わらず、日本軍零式水上偵察機と陸軍戦闘機隊がPBYカタリナ飛行艇を撃墜する[22]。午前10時30分、小沢中将の艦隊はG点に到達し、日本軍輸送船団は予定に従って分散した。行く先は、プラチャップ方面に輸送船1隻、バンドン方面に「香椎」と輸送船3隻、ナコン方面に「占守」と輸送船3隻、シンゴラとパタニ方面に第二〇駆逐隊・第十二駆逐隊・掃海艇3隻・輸送船17隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル方面に軽巡洋艦「川内」、第十九駆逐隊(磯波、綾波、浦波、敷波)・掃海艇3隻、輸送船3隻である[23]。12月8日午前1時30分日本軍はコタバル上陸を開始、英軍も応戦し、真珠湾攻撃より2時間前に交戦がはじまった[24]。英軍機は輸送船「淡路山丸」を航行不能とし、「綾戸山丸」「佐倉丸」大破という戦果をあげ、護衛部隊司令官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官に一時退避を決断させた[25]。
第一航空部隊松永少将は、英国東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため、配下部隊にシンガポールの四箇所の飛行場爆撃を命じる。元山航空隊は悪天候のため引き返したが、美幌航空隊32機が12月8日午前5時38分からシンガポールを爆撃、損害なくツドモー基地に帰投した[26]。この時、山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し、『1120、湾内に戦艦2(プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)、巡洋艦4、駆逐艦4』を報告した[27]。
英国東洋艦隊出撃
- Z部隊兵力
この他にシンガポールには軽巡洋艦や駆逐艦が存在したが、いずれも修理中や低速などの理由でZ部隊には加わらなかった。この時までに、米太平洋艦隊が真珠湾で受けた損害の大きさは明らかになっており、その増援は望めなかった。トーマス・フィリップス提督はシンガポールの極東軍総司令部で航空掩護を求めたが結論は出ず、提督は午後3時50分に「ウェールズ」に戻ると作戦計画を練った[28]。東洋艦隊司令部は、日本軍輸送船団を撃滅することで日本軍の機先を制し、日本軍が体勢を建て直す間に英軍は増援を待つという方針を立てる[29]。ところが英国空軍司令部はコタバル飛行場から撤退したこともあり、フィリップスに対し哨戒と艦隊上空警戒を約束できなかった[30]。「プリンス・オブ・ウェールズ」が抜錨してまもなく、空軍司令官は『遺憾なるも、戦闘機による護衛不可能』と連絡している[31]。それでも東洋艦隊は12月8日午後8時25分にシンガポールを出撃した。事前に英国東洋艦隊の存在があまりにも宣伝されすぎたため、また極東英連邦国民に「危機になれば東洋艦隊が出撃する」と長年にわたって約束していたため、面子の関係からも出撃しないわけにはいかなかったのである[32]。マレー半島とアナンバン諸島の間に日本軍が機雷を敷設していたためZ部隊はマレー半島沿いに北上することが出来ず、同諸島東方を迂回して日本軍輸送船団に向けて進撃した[33]。
英軍は前述のように日本軍航空機の性能を過小評価していたため空襲による危険は大きくなく、また主力艦が致命的な被害を受けることもないだろうと判断していた[34]。そのときまでに作戦行動中に空襲で沈められた最も大きな軍艦は重巡洋艦だった。もっとも、かつて「プリンス・オブ・ウェールズ」を砲撃戦で大破させたドイツ戦艦「ビスマルク」がフェアリー ソードフィッシュの雷撃によって舵とスクリューを破壊され、間接的に撃沈に追い込まれた事例は存在する。
一方、日本海軍の戦力としてこの方面には近藤信竹中将指揮の第二艦隊があり、金剛型戦艦「金剛」と「榛名」がいた。近代化改装を受けてはいたが、両艦とも艦齢30年になる老艦であり、また元来巡洋戦艦だったため、兵装・装甲の厚さも最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」より劣っていた[35]。このため、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」に砲撃戦を挑むことは想定していなかった。また戦闘が始まったときは日本の戦艦部隊は北に離れており、海戦には間に合わず、戦艦同士の砲戦は起こらなかった。ただし後の調査で、両軍艦隊は一時「プリンス・オブ・ウェールズ」の主砲射程圏まで接近していたことが明らかになっている[36]。他にも重巡洋艦や水雷戦隊もあったが、砲力の差は如何ともしがたく、万が一の際は水雷攻撃に全力を傾けるつもりであった。いずれにせよ、8日および12月9日には敵情報が入ってこなかったことから「特に敵情に変化はなし」と判断。「金剛」「榛名」以下の艦隊はカムラン湾に引き上げて燃料補給を実施することした。輸送船団護衛の任にあった小沢治三郎中将(重巡洋艦鳥海座乗)指揮の南遣艦隊(巡洋艦及び水雷戦隊など)も、上陸部隊を乗せた輸送船団の護衛を終えてカムラン湾に引き返しつつあった。
12月9日~10日の動き
9日午後3時15分、潜水艦伊65がZ部隊を発見、以下の電文を打電した[37]。
宇垣参謀長の「戦藻録」によれば、「伊65」のZ部隊発見地点はマレー半島プロコンドル島の196度225浬である[38]。「伊65」は打電後も接触を続けたが、午後5時20分に一旦見失った[39]。近藤信竹中将の第二艦隊には、午後5時25分に「レパルス型戦艦2隻、重巡洋艦2隻、駆逐艦3隻」という情報が入った[40]。第二艦隊は反転南下した。「伊65」は午後6時22分に再度発見したもの、上空に水上偵察機(軽巡洋艦鬼怒搭載機)が出現したため潜航したので目標を見失った[41]。空からは、第四潜水戦隊旗艦・軽巡洋艦「鬼怒」と第五潜水戦隊旗艦・軽巡「由良」の九四式水上偵察機、第七戦隊(栗田健男少将)旗艦・重巡洋艦「熊野」の零式水上偵察機が日没まで触接を続け、由良機が未帰還となった[42]。
午後5時15分に東洋艦隊発見報告を受けた小沢中将は[43]、船団はシャム湾に避退するよう命じ、基地航空部隊にZ部隊の捜索と攻撃を、そして艦隊にはただちに集結の上南下するよう命令した[44]。松永貞市少将は攻撃隊3波を発進させた[45]。陸攻部隊は爆弾を装備し、英戦艦にダメージを与えて日本軍艦隊を掩護する事が任務だったという[46]。しかし、天候がますますひどくなり、やむなく松永少将は各隊に引き返すよう命令した。美幌空第二中隊(武田八郎大尉)は「鳥海」をZ部隊と誤認し、「敵艦隊見ゆ。オビ島の150度、90浬」と報告して吊光弾を投下する[47]。仰天した小沢は松永少将あての電報「照明弾下にあるは味方なり」を連送信して攻撃中止と陸攻隊全機帰投を命じ[48]、これは小沢が本海戦で発した数少ない命令の一つである[49]。
その頃、Z部隊ではスコールにも恵まれ順調に航行を続けていた。「プリンス・オブ・ウェールズ」のレーダーは日本軍水上偵察機を捉えていたが、フィリップスは船団攻撃の決意を変えず、以下の命令を出している[50]。
- わが目標はシンゴラ沖にして、日本軍上陸部隊支援部隊中主力艦は金剛ただ一隻なるものの如し。他に愛宕級3、加古級1、神通級2の各型巡洋艦と駆逐艦多数あり。
- 本長官は明早朝、敵の航空攻撃を受ける以前に敵上陸支援部隊を奇襲せんとするも、これに先立って金剛と遭遇するときは優先的にこれと戦い撃滅せんとす。
- 1800(東京時間午後7時30分)信号を待ちて針路を320度とし、さらに1930(午後9時)280度に変針し、24ノットに造即すべし。その後は10日1600(午後5時30分)C地点(アナンバス諸島付近)に於いて集合し得る如く行動せよ。
- 明日0745(午前9時15分)を期しシンゴラ突入を決行す。攻撃後は東方に避退す。
- 10日未明以前に駆逐艦3隻を分離帰投せしめ、その後は戦艦のみにて突撃す。全軍の武運を祈る。
フィリップスは駆逐艦「テネドス」が燃料不足気味だったため、午後6時30分に艦隊から分離、単艦でシンガポールに引き返させた[51]。その際、テネドス艦長に対し10日朝に無線封止を解除し、アナンバス諸島東方に連合国軍巡洋艦・駆逐艦を集結させるよう求めている[52]。その後もZ部隊はシンゴラ沖の日本軍上陸船団を目指したが、午後9時45分頃にZ部隊前方5マイルに青い閃光を確認する[53]。これは武田機が投下した吊光投弾であり、シンガポールのパリサー参謀長から受信した「本日午後の航空偵察によれば、コタバル付近の海面に戦艦1、最上型巡洋艦1、駆逐艦11及び輸送船多数集結中なり」との報告を検討した結果、針路をシンゴラから南東のコタバルに変更した[54]。Z部隊と小沢艦隊の距離は23マイルに接近しており、豊田穣は「プリンス・オブ・ウェールズ」のレーダー(25マイル)が「鳥海」を捉えなかったことを不思議な事と指摘している[55]。午後10時30分、フィリップスは作戦中止とシンガポール基地に戻り戦力再編を行うことを伝達した[56]。12月10日午前1時、Z部隊はパリサー参謀長より日本軍がクアンタンに上陸したとの入電があり、フィリップスはシンガポールの帰路中に日本軍輸送船団を砲撃することを決意する[57]。だがクアンタン日本軍上陸は誤報であり、Z部隊はかえって日本軍空襲圏内にとどまることになった[58]。
翌12月10日午前1時22分、同じく同海域でZ部隊の動向を見張っていた潜水艦「伊58」が、右20度600メートルの至近距離に駆逐艦のようなものを発見し潜航した[59]。直後、針路180度で航行中の戦艦を発見し、以下のように打電した。
- 〇一二二 敵主力反転 針路一八〇度
この電文は全軍に向けて打電されたはずだったが、第三水雷戦隊が受信を確認したこと以外は第二艦隊司令部も含めて受信が確認されなかった。「伊58」は以後も接触を続け、午前1時45分、「レパルス」に向けて魚雷5本を発射したが、Z部隊の変針が重なり命中しなかった[60]。「伊58」は浮上航走しつつZ部隊を追跡、以下の3通の電文を打電した[61]。
- 我地点「フモロ」45[注 4]ニテ「レパルス」ニ対シ魚雷ヲ発射セシモ命中セズ 敵針路一八〇度 敵速二二節 〇三四一
- 敵ハ黒煙ヲ吐キツツ二四〇度方向二逃走ス 我之ニ触接中 〇四二五
- 我触接ヲ失ス 〇六一五
6時15分に打電された電文を最後に、Z部隊の動向は全くつかめなくなった。電文から推測するに、Z部隊は真南(180度)の方向に航行していると見られ、燃料不足の懸念から近藤信竹中将は午前8時15分「水上部隊の追撃を断念す」と打電[62]、小沢中将も潜水部隊による追跡を諦め、9日に続いて松永少将指揮下の陸攻部隊にZ部隊への攻撃を託すことになった[63]。
戦闘経過
日本軍の索敵
- 元山海軍航空隊(前田孝成大佐)
- 美幌海軍航空隊(近藤勝治大佐)
- 鹿屋海軍航空隊本隊(藤吉直四郎大佐、第二十一航空戦隊より応援で第二十二航空戦隊指揮下に入る)
- 山田部隊(山田豊中佐、第二十三航空戦隊より増派)
12月10日6時25分、まず松永は元山空第四中隊の九六式陸上攻撃機9機(中隊長、牧野大尉)を索敵任務に投入した[64]。予想では4時間後に艦隊を発見できるはずであった。索敵機の発進後、攻撃隊も各基地から出撃する。索敵機からの報告を手がかりに、各航空隊が現場に急行する手はずが取り決められた。まず7時55分にサイゴンから元山航空隊(九六式陸攻26機。魚雷装備17機、爆弾装備9機)が出撃、続いて8時14分にはツドゥムから鹿屋航空隊(一式陸攻26機。全機雷装)が出撃、直後の8時20分にツドゥムから美幌航空隊(九六式陸攻33機。雷装8機、爆装25機)が出撃した。最後の機が離陸したのは9時30分のことであった。元山航空隊の雷装九六式陸攻1機はエンジン故障のため引き返した[65]。連合艦隊旗艦戦艦「長門」では、山本五十六連合艦隊司令長官が「リナウン(レパルス)は撃沈できるが、キング・ジョージⅤ世(プリンス・オブ・ウェールズ)は大破だろう」と発言、三和義勇作戦参謀が2隻とも沈めると反論すると、山本は自論の正しさにビール10ダースを賭けた[66]。
一方でZ部隊は朝になってから日本軍のコタバル上陸を知らされ、針路をコタバルに向けた。日の出は午前7時57分(現地時間0627)、まもなくZ部隊はレーダーで4つの反応を探知して接近したが、貨物船であった[67]。午前8時15分、Z部隊はスーパーマリン・ウォーラス偵察機を発艦させてクアンタン方面を偵察したが、同方面は平穏で日本軍は存在しなかった[68]。駆逐艦「エクスプレス」も海岸を偵察したが日本軍は存在せず、誤報にふりまわされたZ部隊は午前10時30分ごろシンガポールへの帰路についた[69]。Z部隊は機雷原を避けるため、一旦北東へ向かい、それから南東に針路をとってアナンバス諸島の東方をまわってシンガポールへ向かう[70]。後述の帆足機が「針路60度-30度-160度」と逐次報告したのは、この艦隊運動とされる[71]。
日本軍も本命の東洋艦隊はなかなか発見できなかった。九六陸攻に比べ速力の出る一式陸攻部隊はシンガポール付近まで進出したという[72]。11時13分、サイゴンに引き返す途中の4番索敵機が帰還中の「テネドス」(Z部隊より東南東130マイル)を発見して60kg爆弾2発を投下したが命中せず、英駆逐艦の位置を発信した[73]。午後12時14分、500kg爆弾を装備する元山航空隊第三中隊(二階堂大尉)の九六陸攻9機が戦艦「レパルス」と見誤って攻撃したものの命中弾は得られなかった[74]。「テネドス」は負傷者1名を出したものの無傷でシンガポールに退避した[75]。
午前11時45分、3番索敵機(機長・帆足正音予備少尉)が東洋艦隊主力を発見し、約15分の間に司令部に以下の3つの電文を打電した[76]。
- 敵主力見ユ、北緯四度、東経一〇三度五五分、針路六〇度、一一四五
- 敵主力ハ三〇度ニ変針ス、一一五〇
- 敵主力ハ駆逐艦三隻ヨリナル直衛ヲ配ス、航行序列、キング型、レパルス、一二〇五
司令部はすぐさま各攻撃隊に電文を転送し、各攻撃隊は東洋艦隊主力めがけて殺到した。帆足は独断で索敵コースを変更しており、東洋艦隊の射撃を受けてから「敵発見」を報告するなど不手際があったが、その過失を問われることはなかった[77]。
九六式陸攻の攻撃
英国東洋艦隊上空に最初に到達したのは、美幌航空隊の爆装隊の一部8機と、元山航空隊の雷装の、いずれも九六式陸攻隊だった[78]。Z部隊は突如出現した8機の日本軍機に対空砲火を浴びせるが、効果はなかった[79]。午後12時45分、美幌空陸攻隊8機(白井中隊)は「レパルス」を目標に各機2発搭載した250kg爆弾による水平爆撃を実施する[80]。第二小隊二番機は第一弾投下直後に被弾したため第二弾を投下できず[81]、別の1機も故障で投下ができなかったため、250kg爆弾計14発が投下された[82]。このうち、最初の爆撃で1発が「レパルス」の右舷後部カタパルト付近に命中した[83]。右舷後部飛行機格納庫甲板、海兵隊印居住区甲板を貫通し、装甲を施した下甲板で爆発した[84]。爆風でダメージコントロール班員が多数死傷、副長は消火隊5隊を投入したが、艦内の火災は中々鎮火できなかった[85]。飛行機格納庫ではカタパルト上の水上機1機が炎上し、海中投棄を行っている[86]。最大の被害は、命中箇所直下の罐室で高圧蒸気管が破裂したことだった[87]。このような事態になってもフリップスは英空軍に掩護を求めず、バッファロー戦闘機はシンガポールでの待機を続けた[88]。
水平爆撃を行った美幌航空隊白井中隊が退避する中、元山航空隊九六陸攻隊16機(雷装)が東洋艦隊上空に到達する[89]。フィリップス提督は日本軍機が雷撃を行えるとは考えておらず、「プリンス・オブ・ウェールズ」の反応は遅れた[90]。英軍にとって不運なことに、対空火器として期待を集めたポンポン砲は頻繁に故障を起こした[91]。日本軍航空隊は、第一中隊(石原薫大尉)9機と第二中隊(高井貞夫大尉)6機(第二小隊一番機はエンジン故障で帰投)の二手に分かれ、それぞれ「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」に雷撃を行った[92]。第一中隊三番機は撃墜され、二番機(大竹典夫 一飛曹)は「プリンス・オブ・ウェールズ」が転舵を止めたため目標を見失い、直後に右旋回中の「レパルス」を狙った[93]。第二中隊・高井中隊長は艦型が似ている巡洋戦艦「レパルス」と金剛型戦艦の区別がつかず[注 5]、英国国旗を確認してから雷撃を行った[94]。「レパルス」はテナント艦長の巧みな操艦で8本の魚雷を全て回避した[95]。午後1時14分、「プリンス・オブ・ウェールズ」に5本の魚雷が接近、左舷後方と左舷中央に魚雷2本(英軍記録魚雷1本が左舷後方)が命中した[96]。ロースン副長は左舷中央の魚雷は命中ではなく自爆と推測、水圧により浸水が発生したが被害は限定的だった[97]。これに対し、左舷後方に命中した魚雷は「プリンス・オブ・ウェールズ」に重大な損傷を与えた。魚雷命中による損傷に加え、衝撃で湾曲した左舷外側推進軸は回転する太鼓のバチの様に周囲を殴打して破壊の限りを尽くした[98]。この時に隔壁が破壊されたため「プリンス・オブ・ウェールズ」は早くも多量の浸水を見るにいたり、左舷に10度傾斜、右舷2軸運転となり速力は20ノットに低下する[99]。艦内では推進機軸管を伝って浸水が広がり、最下層甲板中部(缶室、機関室、機関科指揮所、発電機室)などにも浸水が及んで電力供給が途絶、後部4基の両用砲が旋回不能になり、対空射撃等に甚大な影響が出た[100]。艦内電話は通じなくなり、通風が不十分となって機械室では熱射病で倒れる乗組員が続出、応急注排水装置が故障、操舵機も電力を絶たれ人力操舵となる[101]。後部指揮所にいた士官は、たった1本の魚雷で「プリンス・オブ・ウェールズ」が致命傷を受けたことに「誰が不沈戦艦と名づけたんだ」とぼやいていた[102]。「プリンス・オブ・ウェールズ」は重大な損傷を受けたにも関わらず、「レパルス」に被害を報告せず、「レパルス」テナント艦長は旗艦の動きと傾斜から損害を推測した[103]。この他、魚雷1本が駆逐艦「エクスプレス」の付近で自爆した[104]。
午後1時20分、美幌航空隊第四中隊(高橋勝作大尉)の九六式陸攻8機が戦場に到達した[105]。第四中隊も元山航空隊と同じく「レパルス」と「金剛」の見分けがつかず、撃たれてから英軍と確信した[106]。午後1時27分、故障で魚雷投下に失敗した高橋機を除く7機は魚雷7本を投下するも「レパルス」は全て回避する[107]。高橋中隊の損害は被弾小破3機で、魚雷投下行動を2度やりなおした高橋機の損害は大きかった。第四中隊は魚雷3本命中・左舷傾斜を主張するが、実際には命中していない[108]。午後1時28分(1157)、「レパルス」のテナントは独断で無線封止を破り『発レパルス、宛関連全友軍艦艇。我敵機の雷爆撃を受けつつあり、至急空軍の援助を乞う、位置134NYTW22X09、時刻1158』と発信した[109]。午後1時46分、11機のF2Aブリュースターバッファロー戦闘機がシンガポールを発進したが、到着見込みは午後2時30分以降であった[110]。豊田穣は、午後12時30分までに英空軍が出動しなければ、日本軍航空隊の空襲までにバッファローがZ部隊上空に到達できないと指摘している[111]。
レパルス沈没
午後1時37分、宮内七三少佐率いる鹿屋航空隊の一式陸上攻撃機26機は積雲の切れ間から右方向に水上偵察機を発見[112]、午後1時47-48分に雲下に出るとZ部隊を発見した[113]。この水上機は、「レパルス」から発進したビル・クローザー准尉のスーパーマリン ウォーラス水上偵察機だった。『我れ航行の自由を失えり』の信号旗を掲げた「プリンス・オブ・ウェールズ」は、推進軸損傷のため20ノットで緩慢に左旋回し、「レパルス」は28ノットに増速すると右に急速転舵する[114]。鹿屋航空隊第一中隊9機のうち、4機が「ウェールズ」を攻撃して右舷に魚雷3本・左舷1本命中を主張[115]。5機が「レパルス」に向かい、左舷に魚雷1本を命中させて左舷機関室に浸水を生じさせた[116]。続いて鹿屋航空隊第二中隊8機は、2機が「ウェールズ」を攻撃して右舷に魚雷1本命中を主張、6機が「レパルス」を攻撃し、「ウェールズ」に合計魚雷4-5本、「レパルス」に魚雷合計7-10本命中を主張している[117]。これは魚雷命中の水柱を攻撃側が自機の戦果と誤認したものであり、鹿屋空第一中隊第二小隊長として本海戦に参加した須藤は、「レパルス」への魚雷命中は5-6本程度と推測している[118]。「レパルス」に乗艦していた英国人記者によれば、最初に左舷へ魚雷2本(機関部浸水)、次に右舷中央部に2本、最後に1本が後部に命中したと記録している[119]。また、命中したものの不発だった魚雷も目撃されている[120]。鹿屋空第三中隊9機は「レパルス」に挟撃雷撃を行い[121]、対空砲火で2機が撃墜された[122]。この他に11機が被弾し、3機の被害は大きかった[123]。対水雷防御に欠ける巡洋戦艦である「レパルス」は浸水が激しく、被雷から4分を経た午後2時3分(英軍時間12:33)、左舷に転覆して沈没した[124]。駆逐艦「エレクトラ」が571名、「ヴァンパイア」がテナント艦長と従軍記者を含む225名を救助した[125]。宮内少佐・鹿屋空雷撃隊総指揮官は『敵戦艦1隻撃沈、1隻は攻撃続行の要あり』と打電して帰途についた[126]。
午後2時、美幌航空隊の九六式陸上攻撃機(武田中隊8機、大平中隊9機、各機500kg通常爆弾装備)が、雷撃を受けて炎上する英戦艦2隻上空に到達した[127]。英軍によれば、最初に攻撃を行ったのは大平中隊である[128]。大平中隊は何もない海面を誤爆して帰還したが[129]、駆逐艦1隻を撃沈したと報告した[130]。戦後、大平は「プリンス・オブ・ウェールズ」を狙って水平爆撃を行おうとしたが、初陣の爆撃手のミスにより、英戦艦のかなり手前の海面に投弾したと証言している[131]。英戦艦乗組員が安堵したのも束の間、武田中隊は「プリンス・オブ・ウェールズ」に水平爆撃を行い、午後2時13分に後部主砲塔付近と左舷艦尾に命中を主張した(英軍によれば命中弾1、不落下弾1)[132]。
「プリンス・オブ・ウェールズ」には、午後1時50分ごろ魚雷1本が艦首右舷に命中、2本目が艦橋右舷付近に命中、3本目は後部三番砲塔右舷付近に命中、4本目は右舷外側推進器軸付近に命中、「ウェールズ」の傾斜は回復したが1軸運転・最大発揮速力8ノットとなった[133]。武田中隊が命中させた爆弾は「プリンス・オブ・ウェールズ」の最上甲板を貫通して艦内で炸裂、同艦の船体中央部の飛行機甲板は全体が盛り上がるほどの損傷を受け、さらに通称「シネマデッキ」に収容されていた負傷兵に多数の死者が出たほか、火災の煙が罐室に逆流・機関兵は退去した[134]。武田大尉は「プリンス・オブ・ウェールズ」がシンガポールに帰航する可能性を考慮し、日本軍潜水艦により「プリンス・オブ・ウェールズ」にとどめを刺すよう要請して戦場を離脱した[135]。もっとも、爆撃により英戦艦は最後の罐室を放棄したので、航行能力を完全に失っていた。日本軍航空隊が英軍駆逐艦を攻撃せず救助作業を妨害しなかったのは、単純に爆弾や魚雷を使い果たした上に燃料が少なかった為であり、戦後、須藤(一式陸攻雷撃隊)から事情を聞いた「ウェールズ」のゴーディ機関長は落胆している[136]。
不沈戦艦の沈没
合計4-5本(日本軍主張7本)の魚雷が命中した「プリンス・オブ・ウェールズ」は完全に航行不能になり、左舷艦尾から沈み始めていた[137]。駆逐艦「エクスプレス」がカートライト艦長の判断で乗員救助のため「プリンス・オブ・ウェールズ」右舷に横付けすると乗組員の収容を始めた[138]。リーチ艦長は負傷者のみ「エクスプレス」への移乗を許可し、残る乗組員には戦闘配置につき「プリンス・オブ・ウェールズ」をシンガポールへ回航させると演説している[139]。トーマス・フィリップスは幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振った[注 6][注 7]。だが英戦艦の艦腹から海に飛び込んだ姿も数人に目撃されており[140]、またヒラリー・ノーマン水雷中佐は救命胴衣をつけたフィリップの遺体が海面を漂うのを目撃している[141]。「艦長が艦と運命を共にするのは無益だ」と公言していたリーチ艦長は付近の海面上で目撃されたが、生還しなかった(en) [142]。「レパルス」のテナント艦長は救助された。午後2時30分、三番索敵機(帆足予備少尉機)が戦場に戻り、Z部隊の監視を行う[143]。「レパルス」は既に沈没し、「プリンス・オブ・ウェールズ」は艦中央と艦尾で火災が発生し、艦首は東を向いて惰性で動いていた[144]。日本時間午後2時50分(現地時間13時20分)、「プリンス・オブ・ウェールズ」は左へ転覆し艦尾から沈没した[145]。帆足機は『レパルス型1420ごろ、キング・ジョージ型1450ごろ爆発沈没せり。駆逐艦、レパルスの救助作業につとめたるも、わずかに収容せるのみ。キング・ジョージ型は総員艦と運命をともにせり』と報告した。実際の戦死者は士官20名、下士官兵307名(全乗組員士官110名、下士官兵1502名)、であり、またバッファロー戦闘機隊指揮官は沈没寸前に火焔と黒煙が上がるも大爆発はなかったと証言している[146]。
午後2時45分、オーストラリア第453飛行隊のブリュースターバッファロー戦闘機11機が戦場に到着、完全に転覆し、艦尾から沈んでいく「プリンス・オブ・ウェールズ」を目撃した[147]。帆足機はバッファロー8機を視認して積乱雲に退避、午後9時20分にサイゴン基地に着陸して13時間の索敵任務を終えた[148]。また、テネドスは無事にシンガポールに帰還した。
戦闘の数日後、第二次攻撃隊長だった壱岐春記海軍大尉は両艦の沈没した海域に再度飛来し、機上から沈没現場の海面に花束を投下して英海軍将兵の敢闘に対し敬意を表した。宇垣纏連合艦隊参謀長は、英国戦艦2隻の引揚げと日本軍編入を思案したが、実現しなかった[149]。
両軍の損害
- 日本軍
- イギリス軍
- 沈没:戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス
- 戦死:フィリップス大将、リーチ大佐ほか将兵840名。
なお、これ以外にも日本軍の参加機の多くが被弾して工廠修理2機、隊内修理25機、喪失機ふくめ21名戦死という被害を出し、2隻の対空砲火がいかに激しかったかを物語る証拠となった[151]。また日本軍は甲巡洋艦1隻の撃沈を記録しているが、これは駆逐艦へ水平爆撃を行った時の至近弾を誤認したものである[152]。
その後
2戦艦が撃沈された時点で、まだシンガポールには重巡洋艦エクセター、軽巡洋艦モーリシャス、ダーバン、ダエナ、ドラゴン、駆逐艦ジュピター、エンカウンター、ストロングホールド、スコット、サーネット、オランダ海軍のジャワ級軽巡洋艦ジャワ、アメリカ海軍の駆逐艦ホイップル、ジョン・D・エドワーズ、エドソール、オールデンがあった。このうち4隻のアメリカ駆逐艦部隊はシンガポールを出航して戦地に向かい、帰路に就く駆逐艦エクスプレスらと遭遇した。エクスプレスは戦闘が終了したことを伝えた。アメリカ駆逐艦部隊は北上を続け、漂流者の捜索を行ったが発見できなかった。
この海戦の結果、インド洋に進出していた東洋艦隊の大部分が日本軍の航空攻撃を警戒し、マレー方面進出を断念したためマレー作戦は順調に進行した。しかし、残存艦はスラバヤ(ジャワ島)に後退してABDA艦隊を編成し、1月24日にはアメリカ駆逐艦部隊による攻撃(バリクパパン沖海戦)でボルネオ島上陸部隊が妨害を受けるなど予断は許されない状況であった。
当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは著書の中でマレー沖海戦でこの2隻を失ったことが第二次世界大戦でもっとも衝撃を受けたことだと記している[153]。
影響
戦術的影響
既述の通り、マレー沖海戦は「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることができる」ことを証明した海戦であった[154]。大艦巨砲主義者であった宇垣纏連合艦隊参謀長ですら『鴨がネギを背負って現れた。新鋭戦艦も無謀な行動で海の藻屑になった』と評し、真珠湾攻撃の大戦果とあわせて「日本海軍航空隊」を賞賛している[155]。これを戦訓として、各国海軍とも各種艦船に装備されている対空火器を、改めて大幅に増強した。
航空機が戦艦を沈める事が可能であるなら、当然だが航空機による戦艦の護衛は必須となり、地上基地の航空部隊の行動圏外では戦艦を初めとする水上部隊は、敵側に航空戦力が存在する状況ではもはや空母なしで単独では行動できなくなってしまった。マレー沖海戦以後は、各国海軍は航空支援なしに戦艦を出撃させることに極めて慎重になる。だが脆弱な飛行甲板という構造上の弱点を抱え、かつ航空機用燃料や爆弾、魚雷といった可燃物を満載している空母がわずか1-2発の爆弾命中で航行不能に陥ったり沈没した事例の枚挙にいとまがない事と比較して、砲戦用の分厚い装甲を備え、水中防御も充実した戦艦を航空機だけで沈めることは、依然として難題であり続けた。例えば、日本海軍航空隊が沈めた航行中の戦艦は本海戦における「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」のみである。「プリンズ・オブ・ウェールズ」の沈没について、ラッセル・グレンフェル英海軍大佐は著書の中で『ただ、それは実際上対空防御の伴わぬ戦艦は、空襲により沈められ得るという事実を示したに過ぎなかった』と評している[156]。米軍航空隊も大和型戦艦「大和」と「武蔵」の2隻にとどまった。この巨艦2隻の場合も、日本軍側に航空機の護衛が1機もないという特殊な事例だった。
その一方、日本軍は戦闘機の護衛なしに艦隊攻撃を行う危険性を認識しなかった。空母「インドミタブル」が随伴しているか、英空軍戦闘機がマレー半島に多数配備されていた場合、海戦の様相は変わっていた可能性がある[157]。実際に1942年2月20日のニューギニア沖海戦では、空母「レキシントン (CV-2)」を攻撃した第二十四航空戦隊の一式陸上攻撃機15機がF4Fワイルドキャット戦闘機と対空砲火の迎撃で13機を撃墜されて完敗した。
戦略的影響
マレー沖海戦ではイギリス海軍の最新鋭戦艦1隻と巡洋戦艦が撃沈されたが、これはアヘン戦争(1840年~1842年)以来100年に亘るイギリス植民地主義と海軍全盛時代の「破局の序章」でもあった[158]。シンガポールでは、「プリンス・オブ・ウェールズ」撃沈の速報がラジオを通じてもたらされた瞬間、パニックが発生している[159]。
この戦いにより制海権を失った後、2ヶ月後のシンガポール陥落(1942年2月15日)でイギリス陸軍は敗れており、東南アジア征服の象徴・要というべきチョークポイントであるシンガポールを失うということは東南アジア支配の終焉を予感させるものとして、インドなど当時イギリスの植民地であった東南アジア各国の独立への機運に影響を与えた[160]。
イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーは、毎日新聞1968年3月22日付にてこう述べた。「英国最新最良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。それはまた、永続的な重要性を持つ出来事でもあった。何故なら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。1941年、日本は全ての非西洋国民に対し、西洋は無敵でない事を決定的に示した。この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、1967年のヴェトナムに明らかである。」
その後
魚雷・爆弾の命中数に関して日英の資料で食い違いを見せている。
- 日本側資料[161]
- プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷7本、爆弾2発
- レパルス:魚雷13本、爆弾1発
- イギリス側資料
- プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷6本、爆弾1発
- レパルス:魚雷5本、爆弾1発
日本側は至近弾による水柱を魚雷の命中と誤認したと言われており、「戦闘経過」では参考文献中のイギリス側資料に準拠している。しかし後年の海底調査では、「プリンス・オブ・ウェールズ」の船体には4箇所の破孔が認められるのみであった[162]。 沈没した「プリンス・オブ・ウェールズ」は水面下68 m(223フィート)の位置で見つかり、不法ダイバーに盗まれるのを危惧したことから2002年になってベルが取り外された。ベルはリバプールの博物館(Merseyside Maritime Museum)で展示されている。「レパルス」はさらに浅い40メートルの海底に沈んでおり、海面から船体が視認できる状態である。双方の艦とも完全に転覆した状態で海底に横たわっている。
注釈
- ^ 作戦行動中ではなく停泊中ならばタラント空襲や真珠湾攻撃がある。
- ^ 1941年4月23日にドイツ空軍は戦艦「キルキス」と「レムノス」を撃沈した。ただし両艦とも旧式化して練習戦艦となっていた。
- ^ サイゴンの南南西、約65km。
- ^ クアンタンの57度140海里の地点
- ^ 戦艦「金剛」は、もともとイギリスで建造された巡洋戦艦である。
- ^ 世界文化社刊『連合艦隊・下巻激闘編』 1997年等、マレー沖海戦を記述した日本側書籍の多くはフィリップ提督の退艦拒否の状況をこの様に記述している。
- ^ ただし英語版wikipediaにこの記述はなく、退艦を拒んだかまたは逃げ遅れたとしている(en)。
- ^ 不時着大破1と偵察機未帰還2は英wikiに拠る。
脚注
- ^ 「写真週報200号」p.9
- ^ #ウエールス最後p.17
- ^ #主力艦隊シンガポールへ59頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ67頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ78頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ79頁、#須藤、198211-12頁
- ^ #豊田、1988179頁、#須藤,198212-13頁
- ^ #ウエールス最後p.10
- ^ #主力艦隊シンガポールへ79頁
- ^ #豊田、1988184-185頁、#須藤,198217頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ82-83頁、#須藤,198218頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ81頁、#須藤,198213頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ81頁、#須藤,198213頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ85頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ63-65頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ72-73、183頁
- ^ #豊田、198875頁、 #須藤,19829頁
- ^ #戦藻録(九版)26頁
- ^ #須藤,1982 9頁、#ウエールス最後p.3
- ^ #主力艦隊シンガポールへ86頁、#須藤、198239-40頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ87頁
- ^ #須藤、198242-43頁
- ^ #須藤、198244-45頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ93頁、#須藤、198251頁
- ^ #須藤、198251-53頁
- ^ #須藤、198254頁
- ^ #須藤、198255頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ94頁、#須藤、198261-62頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ95頁、#須藤、198262頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ96-97頁、#須藤、198263頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ97頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ111頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ98頁
- ^ #ウェールス最後p.14、#須藤、198265頁
- ^ #須藤、1982230頁
- ^ #須藤、198280頁
- ^ #須藤、19828頁、#聯合艦隊作戦室29頁
- ^ #戦藻録(九版)35頁
- ^ ドキュメント・マレー沖海戦、34-35ページ
- ^ #愛宕戦時日誌(2)pp.12-13
- ^ ドキュメント・マレー沖海戦、35ページ
- ^ #須藤、198273頁
- ^ #須藤、198269頁
- ^ #須藤、198271頁
- ^ #元山空調書(1)p.13、#須藤、198277頁
- ^ #ウエールス最後p.4
- ^ #豊田、1988114頁、#須藤、198278頁
- ^ #聯合艦隊作戦室29頁。「愛宕」でも受信。
- ^ #豊田、1988114頁、#須藤、198279頁
- ^ #豊田、1988108頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ100頁
- ^ #豊田、1988113頁
- ^ #豊田、1988113頁
- ^ #豊田、1988116頁
- ^ #豊田、1988117頁
- ^ #豊田、1988120頁
- ^ #豊田、1988121頁
- ^ #豊田、1988121-122頁
- ^ ドキュメント・マレー沖海戦、39ページ
- ^ #豊田、1988122-124頁、#須藤、198296頁
- ^ #豊田、1988124頁
- ^ #聯合艦隊作戦室30頁
- ^ #豊田、1988131頁、#戦藻録(九版)42頁
- ^ #豊田、1988133頁
- ^ #元山空調書(1)p.15
- ^ #勝つ戦略負ける戦略71頁
- ^ #豊田、1988194頁
- ^ #豊田、1988195頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ101頁
- ^ #豊田、1988196頁
- ^ #豊田、1988196頁
- ^ #ウエールス最後p.5
- ^ #豊田、1988202頁
- ^ #元山空調書(1)p.15 、#豊田、1988207-208頁、#須藤、1982122頁
- ^ #豊田、1988209頁
- ^ #須藤、1982109頁、#豊田、1988192-193頁
- ^ #須藤、1982110-111頁
- ^ #美幌空調書(1)p.12、#美幌叢書(1)p.49、#レパルス投弾134頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ102頁、#豊田、1988218-220頁
- ^ #豊田、1988217頁、#レパルス投弾136頁、#須藤、1982123頁
- ^ #レパルス投弾137頁
- ^ #美幌叢書(1)p.49
- ^ #須藤、1982126頁
- ^ #豊田、1988228頁
- ^ #豊田、1988229、231頁
- ^ #豊田、1988231頁
- ^ #豊田、1988232頁
- ^ #豊田、1988237頁
- ^ #元山空調書(1)pp.15-17 、#豊田、1988226頁、#須藤、1982133頁
- ^ #豊田、1988268-269頁
- ^ #豊田、1988270頁
- ^ #豊田、1988244頁、#須藤、1982135頁
- ^ #豊田、1988262-265頁、#須藤、1982135,137頁
- ^ #豊田、1988246-247頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ103頁、#須藤、1982138頁
- ^ #豊田、1988267頁、#須藤、1982136-137頁
- ^ #豊田、1988273-274頁
- ^ #豊田、1988274頁
- ^ #豊田、1988274,279頁、#須藤、1982161頁
- ^ #豊田、1988274-276頁
- ^ #豊田、1988344-345頁、#ウエールス最後p.13
- ^ #豊田、1988346頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ103-104頁
- ^ #豊田、1988270頁
- ^ #美幌空調書(1)p.12、#豊田、1988290頁、#須藤、1982147頁
- ^ #豊田、1988294-295頁
- ^ #豊田、1988297頁、#須藤、1982151頁
- ^ #美幌空調書(1)p.12、#美幌叢書(1)p.49、#豊田、1988297頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ104頁、#豊田、1988348頁
- ^ #豊田、1988348頁、#須藤、1982141,145頁
- ^ #豊田、1988349頁
- ^ #須藤、1982157-158頁
- ^ #豊田、1988368頁、#須藤、1982160-161頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ104頁、#須藤、1982166頁
- ^ #須藤、1982171-172頁
- ^ #須藤、1982175頁
- ^ #須藤、1982177頁
- ^ #須藤、1982178-179頁
- ^ #須藤、1982179頁
- ^ #豊田、1988404頁
- ^ #須藤、1982180頁
- ^ #須藤、1982181-182頁
- ^ #須藤、1982183頁
- ^ #豊田、1988408頁、#須藤、1982193頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ106頁
- ^ #須藤、1982194頁
- ^ #須藤、1982189頁、#美幌叢書(1)p.50
- ^ #豊田、1988417頁
- ^ #須藤、1982195頁
- ^ #須藤、1982211頁
- ^ #豊田、1988414-415頁
- ^ #豊田、1988421-422頁
- ^ #豊田、1988373-374頁
- ^ #豊田、1988429-430頁
- ^ #須藤、1982194頁
- ^ #須藤、1982199頁
- ^ #豊田、1988386頁
- ^ #豊田、1988431-432頁、#須藤、1982174頁
- ^ #豊田、1988432頁
- ^ #豊田、1988440頁
- ^ #豊田、1988440-441頁
- ^ #豊田、1988441頁
- ^ #豊田、1988433頁
- ^ #須藤、1982198頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ107頁
- ^ #豊田、1988444,448頁、#須藤、1982199頁
- ^ #豊田、1988444頁
- ^ #須藤、1982204頁
- ^ #戦藻録(九版)43頁
- ^ #鹿屋空調書(1)p.18、#須藤、1982220-222頁
- ^ #須藤、1982235頁
- ^ #鳥海戦闘詳報(1)p.3
- ^ #ウエールス最後p.15
- ^ #須藤、1982227頁
- ^ #戦藻録(九版)42-43頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ115頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ108頁、#勝つ戦略負ける戦略72頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ116,181頁
- ^ #陥落の記録87-88頁
- ^ #主力艦隊シンガポールへ197頁
- ^ #豊田、1988385頁
- ^ シーハンター 海底に沈む英国戦艦 ナショナル ジオグラフィック
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)
- Ref.A06031045500「週報 第293号」(昭和17年5月20日)
- Ref.A06031079500「写真週報200号」(昭和16年12月24日号)
- Ref.A06031079600「写真週報201号」(昭和16年12月31日号)
- Ref.C08030766200「昭和16年12月10日 プリンス・オブ・ウエールスの最後」
- Ref.C08030765900『昭和16年12月10日 プリンス・オブ・ウエールスの最後』。(海兵第四十四期会)
- Ref.C08030746900『昭和16年12月4日~昭和17年11月5日 鳥海戦闘詳報 (馬来沖海戦.ソロモン海戦等)(1)』。
- Ref.C08030744300『昭和16年12月1日~昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(1)』。
- Ref.C08030744400『昭和16年12月1日~昭和17年11月30日 軍艦愛宕戦時日誌(2)』。
- Ref.C08051613100『昭和16年12月~昭和17年2月 鹿屋空 飛行機隊戦闘行動調書(1)』。
- Ref.C08051615300『昭和16年12月~昭和17年3月 美幌空 飛行機隊戦闘行動調書(1)』。
- Ref.C08051612100『昭和16年12月~昭和17年5月 元山空 飛行機隊戦闘行動調書(1)』。
- Ref.C08051770700『史話美幌海軍航空隊 美幌叢書 第5号(1)』。
- Ref.C08030743300「昭和16年~昭和17年 大東亜戦争綴 (第4戦隊高雄)(3)」
- 宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録』原書房、1968年。
- 防衛研究所戦史室編『戦史叢書98 潜水艦史』朝雲新聞社、1979年
- 須藤朔『マレー沖海戦』朝日ソノラマ文庫航空戦史シリーズ、1982年。ISBN 4-257-17005-0。
須藤は鹿島航空隊所属、レパルスを雷撃。 - 佐藤和正「南方攻略作戦」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
- 石橋孝夫「プリンス・オブ・ウェールズ撃沈の秘密」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年。
- 豊田穣『マレー沖海戦』集英社、1988年。ISBN 4-08-749362-8。
- 岩崎嘉秋『われレパルスに投弾命中せり ある陸攻操縦員の生還』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0505-5。
- 甲斐克彦、『ドキュメント・マレー沖海戦』、「歴史群像太平洋戦史シリーズ2 大捷マレー沖海戦」、学習研究社、1994年、ISBN 4-05-600368-8
- ノエル・バーバー著、原田栄一訳『不吉な黄昏 シンガポール陥落の記録』中央公論社、1995年。ISBN 4-12-202224-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- 生出寿『勝つ戦略 負ける戦略 東郷平八郎と山本五十六』徳間文庫、1997年7月。ISBN 4-19-890714-5。
- 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社NF文庫、1997年10月。ISBN 4-7698-2175-1。 中島は近藤中将の第二艦隊参謀として「愛宕」に乗艦していた。
- ラッセル・グレンフェル著、田中啓眞訳『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録』錦正社、2008年。ISBN 978-4-7646-0326-4。 昭和28年啓明社版を再出版したもの。
関連項目
- 太平洋戦争の年表
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 第二次世界大戦 - 太平洋戦争
- 海軍 - 大日本帝国海軍- アメリカ合衆国海軍-イギリス海軍
- 英国東洋艦隊潰滅
- アヘン戦争(イギリス植民地主義が始まった戦争)
- ロンドンオリンピック (1948年):「プリンス・オブ・ウェールズを忘れるな」と日本選手団の参加を拒否した。[要出典]
- 大艦巨砲主義
- ハワイ・マレー沖海戦 - 海軍省のバックアップで製作された東宝映画。