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「アリー・アブドッラー・サーレハ」の版間の差分

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{{大統領
{{大統領
| 人名 = アリ・アブドラ・サーレハ
|name = アリ・アブド・サーレハ
| 各国語表記 = علي عبد الله صالح
|各国語表記 = {{lang|ar| علي عبد الله صالح}}
| 画像 = Ali Abdullah Saleh 2004.jpg
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| 出生日 = {{生年月日と年齢|1942|3|21}}
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| 国名3 = {{flagicon|NYE}} イエメン・アラブ共和国
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|birth_date = {{生年月日と年齢|1947|3|21|no}}
|birth_place = [[ファイル:Flag of the Mutawakkilite Kingdom of Yemen.svg|border|25x20px]] [[イエメン王国|イエメン・ムタワッキリテ王国]]、{{仮リンク|ハーシド氏族|en|Hashid|label=アル=アフマル}}
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|allegiance = [[ファイル:Flag of the Mutawakkilite Kingdom of Yemen.svg|border|25x20px]] [[イエメン王国|北イエメン王国]]<br />{{flagicon|NYE}} [[北イエメン|北イエメン共和国]]<br />{{flagicon|YEM}} [[イエメン共和国]]
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}}
}}
'''アリー・アブドッラー・サーレハ'''({{翻字併記|ar|علي عبد الله صالح|ʿAlī ʿAbdullāh Ṣāliḥ}}、[[1947年]][[3月21日]]<ref name="aps">{{citation|title=YEMEN – Ali Abdullah Saleh Al-Ahmar.|date=26 June 2006|url=http://www.thefreelibrary.com/YEMEN+-+Ali+Abdullah+Saleh+Al-Ahmar.-a0147921372|journal=APS Review Downstream Trends|accessdate=7 April 2011}} <!--alternate url: http://www.allbusiness.com/sector-21-mining/oil-gas-extraction-crude/1183280-1.html--></ref><ref name="hutchinson">{{citation |title=The Hutchinson encyclopedia of modern political biography |year=1999 |publisher=Helicon |isbn=9781859862735 |at=378|url=https://books.google.co.jp/books?id=UwoZAQAAIAAJ&q=saleh&redir_esc=y&hl=ja |accessdate=14 March 2011}}</ref><ref name=worldbio>{{citation |title=Encyclopedia of World Biography |year=2005–06 |publisher=Thomson Gale |isbn= |page= |pages= |url=http://www.bookrags.com/biography/ali-abdallah-salih/ |accessdate=7 April 2011}}</ref> - [[2017年]][[12月4日]])は、[[イエメン|イエメン共和国]]の[[政治家]]。同国[[イエメンの大統領|大統領]](初代)を務めた。
'''アリー・アブドゥッラー・サーレハ'''([[英語]]:''Ali Abdullah Saleh''、[[アラビア語]]:'''{{lang|ar|علي عبد الله صالح}}'''ʿ Alī Abdullāh Sālih、[[1942年]][[3月21日]] - )は、[[イエメン]]の[[政治家]]。旧[[イエメン・アラブ共和国]](北イエメン)の[[北イエメン大統領の一覧|大統領]]([[1978年]] - [[1990年]])を経て、現任の[[イエメンの大統領|イエメン共和国大統領]](1990年 -)。イエメン共和国軍最高司令官、国防評議会議長。[[元帥]]。ハーシド部族連合の出身。


== 経歴 ==
== 概要 ==
旧[[イエメン・アラブ共和国|北イエメン共和国]](イエメン・アラブ共和国)の陸軍総司令官を経て北イエメン共和国大統領となり、 [[1990年]]の南北イエメン統合によって統一政府の初代大統領に選出される。北イエメン時代を含めれば1978年から2012年まで34年間にわたり国家指導者の立場にあった<ref>{{citation |last=Dresch |first=Paul |title=A History of Modern Yemen |publisher=Cambridge University Press |year=2000 |location=Cambridge |at=184|isbn=0-521-79482-X }}</ref>。よって北イエメン大統領時代からカウントすれば、在任年数で[[赤道ギニア]]の[[テオドロ・オビアン・ンゲマ]]大統領を上回り、2012年の退任時点で世界最長政権を率いる人物であった(君主を除く)。
* [[1942年]][[3月21日]]:[[シーア派]]の[[ザイド派]]で、ハーシド部族連合の有力な家庭に生まれたが、[[イエメン王国]]の体制下では排除されていた。生地はアル=アハマである。
* [[1958年]]:高等教育を受けずに北イエメン軍に入隊。
* [[1960年]]:[[サナア]]の[[陸軍士官学校]]に入学、[[伍長]]となる。
* [[1963年]]: 陸軍士官学校を卒業。陸軍[[少尉]]に任官。
* [[1977年]]: 当時の[[イエメン・アラブ共和国]](北イエメン)大統領である[[アフマド・ビン・フセイン・アル=ガーシミー]]の寵愛を受け、[[タイズ]]の軍司令官に任命される。
* [[1978年]]6月24日: ガシミ大統領が暗殺される。サーレハは臨時大統領評議会議長と北イエメン軍副最高司令官、陸軍参謀総長を兼任。
* 1978年7月18日:北イエメン大統領(第6代)に就任。
* 1978年[[7月24日]]:北イエメン軍最高司令官を兼務。
* [[1983年]]:大統領兼軍最高司令官に再選。
* [[1988年]]:大統領兼軍最高司令官に三選。
* [[1990年]][[5月22日]]:[[イエメン人民民主共和国]](南イエメン)と北イエメンの統一による[[イエメン共和国]]成立を受け、大統領評議会議長兼国防評議会議長兼軍最高司令官に就任。
* [[1994年]]10月:イエメン共和国[[イエメンの大統領|大統領]]に選出される。
* [[1995年]]6月:[[国民全体会議]]議長([[与党]][[党首]])に選出される。
* [[1997年]]12月:[[軍隊]][[階級]]における[[元帥]]の称号に昇級。
* [[1999年]]3月:イエメンの[[国家元首]]として、初めて[[日本]]を訪問。
* [[1999年]][[9月25日]]:[[国民]]の[[直接選挙|直接投票]]によって、初めて再任される。
* [[2006年]][[9月20日]]:[[選挙]]で再任される。しかし、[[野党]]勢力は[[不正選挙]]を主張して抗議活動を行なっている。
* [[2011年]][[2月2日]]:今期限りで大統領を退くと発表。
* 2011年6月3日:反政府勢力より砲撃を受け負傷、翌4日に[[サウジアラビア]]の病院へ搬送。


2011年12月22日に事実上、副大統領の[[アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー]]に大統領権限を移譲。退任後もイエメン軍元帥、及び[[国民全体会議]]党首として一定の影響力を維持し、反政府勢力[[フーシ]]と連携して、ハーディー大統領派と事実上の内戦を戦うも、その後決裂してフーシに殺害された<ref name=afpbb17124/>。
== その他 ==
イエメン国内ではサーレハの肖像画や壁画があちこちにみられ、周辺のアラブ諸国同様に指導者に対する個人崇拝を行なっている。最近ではサーレハの名前を模した巨大モスクが建てられ、国民から反発を買っている<ref>http://www.foxnews.com/story/0,2933,456506,00.html</ref>。


軍人としては北イエメン軍の総司令官を務め、その後統合された南北イエメン軍でも陸軍元帥の名誉称号を与えられた。こうした軍との深い関係が権力掌握における重要な後ろ盾となった。
また、自身の子息や親戚を軍の要職に登用して一族による支配を行った。長男の[[アフマド・アリー・アブドゥッラー・サーレハ|アフマド]]は共和国防衛隊兼軍特殊部隊司令官で、三人の甥であるターリク・ムハンマド・アブドゥッラー・サーレハ、ヤフヤー・ムハンマド・サーレハ、アンマール・ムハンマド・サーレハはそれぞれ大統領特別警護隊司令官、中央治安軍司令官、国家保安局長官に任命されている。<ref>http://english.dohainstitute.org/Home/Details?entityID=5ea4b31b-155d-4a9f-8f4d-a5b428135cd5&resourceId=82eaa6e3-772b-4e9e-b08b-0c6bae9b76df</ref>


== 人物 ==
[[2011年]]になり、[[チュニジア]]での[[ジャスミン革命]]、また[[エジプト]]における[[2011年エジプト騒乱|騒乱]]など、アラブ諸国で長期政権への批判が高まる中で、イエメンでも[[2011年イエメン騒乱]]が起こり、サーレハも批判の対象となった。このため、[[2月2日]]に、[[2013年]]に予定されている大統領選挙に出馬しない意向を表明<ref>{{Cite news
[[イエメン王国|イエメン・ムタワッキリテ王国]]のアル=アフマル市に生まれる<ref name="aps"/>(サナア県バイト・アル=アフマル村とするものもある<ref>{{cite web|url=http://www.presidentsaleh.gov.ye/shownews.php?lng=ar&_newsctgry=2|title=نبذة عن فخامة الرئيس علي عبدالله صالح|publisher=موقع فخامة الرئيس علي عبدالله صالح|accessdate=2012-12-04}}</ref>)。同地は{{仮リンク|ハーシド氏族|en|Hashid}}の統治する地域で、サーレハ家は[[シーア派]]([[ザイド派]])を信仰する[[アラブ人|アラブ系]][[イエメン|イエメン人]]であった<ref name="aps" />。ザイド派はイエメンでは主流とされているイスラム教宗派だが、サーレハ家は厳密にはさらにその中でも少数派の宗派に属しており、ザイド派の多数派が伝統的に王侯貴族を独占していた北イエメン王国のザイド・イマーム制では国政に関わる権利を持たなかった<ref name=sixthwar>{{cite news |title=The sixth war |author=Gregory D Johnsen |url=http://www.islamdaily.org/en/world-issues/middle-east/7942.the-sixth-war.htm/ |newspaper=[[The National (Abu Dhabi)]] |date=12 November 2009 |accessdate=7 April 2011}}</ref>。
|url=http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPnTK883598820110202

|title=イエメン大統領、現在の任期満了で退任を表明
1958年、サーレハは中等教育を途中で放棄すると北イエメン王国軍に入隊して兵士となった。1960年には北イエメン王立士官学校で学び<ref name="presidentsaleh.gov.ye">{{cite web|url=http://www.presidentsaleh.gov.ye/shownews.php?lng=en&_newsctgry=2 |title=President Ali Abdullah Saleh Web Site |publisher=Presidentsaleh.gov.ye |date= |accessdate=18 November 2010}}</ref>、下士官として[[伍長]]に昇進した<ref name=aps/>。北イエメン革命では{{仮リンク|アブドゥッラー・アッ=サッラール|en|Abdullah as-Sallal}}大佐らの軍事クーデター([[北イエメン革命]])に賛同し、革命終了後に北イエメン共和国軍少尉に昇進する<ref name=presidentsaleh.gov.ye/>。
|work=ロイター

|publisher=[[ロイター]]
==経歴==
|date=2011-02-02
===北イエメンでの独裁===
|accessdate=2011-02-03
[[File:Ali Abdullah Saleh.jpg|thumb|left|[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ジョージ・ブッシュ]]米大統領と談笑するサーレハ]]
|language=日本語
共和国政府と王党派の亡命政府による[[北イエメン内戦]]が始まると各地を転戦して昇進を重ね、1977年に{{仮リンク|アフマド・ビン・フセイン・アル=ガシュミー|en|Ahmed bin Hussein al-Ghashmi}}大統領から[[タイズ県]]の軍司令官に任命される<ref name=aps/>。
}}</ref>。その後も国内の混乱は続いており、退陣を含む調停案が[[湾岸協力会議]]から提案されたがこれを数度にわたり拒否。6月3日には大統領宮殿の敷地内にあるモスクが反政府勢力により砲撃され、正副の首相や国会議長、またサーレハ自身も負傷し<ref>{{Cite news

|url=http://www.47news.jp/CN/201106/CN2011060301001106.html
1978年6月24日、ガシュミー大統領が暗殺されると臨時召集された最高行政委員会の一員として事態収拾にあたり、また若手将校ながら[[参謀|幕僚会議]]議長代理として軍参謀本部を統制した<ref name=presidentsaleh.gov.ye/><ref name=aps/>。7月17日、軍を押さえたサーレハは最高行政委員会から北イエメン共和国第6代大統領に任命され、国家元首として陸軍総司令官および陸軍参謀総長を兼任する事を宣言した<ref name=presidentsaleh.gov.ye/>。これが北イエメン共和国議会の承認を伴ったかは議論がある。
|title=宮殿に砲撃、大統領負傷 イエメン、護衛6人死亡

|work=47NEWS
自らへの暗殺未遂として30名の将校を処刑するなど軍内で大規模な粛清を行い<ref name=aps/>、軍人としても陸軍大佐に昇進するなど影響力を強めていった。軍権力を後ろ盾にした独裁が危惧される中、1期目の任期終了後にサーレハは諸政党を翼賛的に合流させる構想を発表。1982年8月30日に自身が党首を務める翼賛連合「[[国民全体会議]]」を組織し、同党により2期目を共和国議会に承認させた<ref name="presidentsaleh.gov.ye"/>。
|newspaper=[[共同通信]]

|date=2011-06-03
これ以降、実質的に議会は[[国民全体会議]]の[[一党独裁]]状態となり、党首であるサーレハの独裁体制が継続していくことになる。
|accessdate=2011-06-04

}}</ref><ref>{{Cite news
===イエメン統合後===
|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011060400063
隣国の南イエメン共和国ではソ連からの支援が途絶えた事で物資不足や国力の低下が進み、冷戦終結が目前に迫った1990年頃から北イエメンとの統合議論が本格化していた。サーレハもこの構想に前向きな姿勢を見せ、南イエメンの実質的な指導者である[[イエメン社会党|南イエメン社会党]]書記長{{仮リンク|アリー・サーリム・アル=ベイド|en|Ali Salim al-Beidh}}との交渉を行った。両者の協議でイエメン統合後の新政府ではサーレハが大統領、アリー・サーレムが首相および副大統領に就任する事などが決定された<ref name="Burrowes 1986">{{citation |title=The Yemen Arab Republic: The Politics of Development, 1962–1986 |last=Burrowes |first=Robert D. |year=1987 |publisher=Westview Press |location= |isbn=9780813304359 |page= |pages= |url= |accessdate=}}</ref>。1990年5月22日、イエメン統合によりサーレハは初代イエメン大統領に就任した。
|title=大統領府攻撃を非難=イエメンに戦闘停止呼び掛け-米

|work=時事ドットコム
1990年8月2日、[[湾岸戦争]]が勃発すると、サーレハは同じ[[:en:Arab Cooperation Council|アラブ協力会議]]の加盟国である[[ヨルダン]]の[[フセイン1世]]とともにイラクの[[サッダーム・フセイン|フセイン]]政権と戦うことを拒否し、国際社会のみならず、アラブ諸国の非難を受けた。抗議としてクウェート政府は国内のイエメン人労働者を全て国外追放処分にした<ref>{{cite news |title=Gulf aid may not be enough to bring Yemen back from the brink |first=Judith |last=Evans |url=http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/middle_east/article6868805.ece |newspaper=[[The Sunday Times]] |date=10 October 2009 |accessdate=7 April 2011 |location=London}}</ref>。
|newspaper=[[時事通信]]

|date=2011-06-04
1993年、統合政府としては初めてとなる{{仮リンク|1993年イエメン総選挙|en|Yemeni parliamentary election, 1993|label=総選挙}}が行われ、旧・北イエメンの翼賛政党である[[国民全体会議]]が全体議席の3分の1以上となる301議席中122議席を獲得した<ref name=elections>{{citation |title=Elections in Asia: A data handbook, Volume I |editor1-last=Nohlen |editor1-first=Dieter |editor2-last=Grotz |editor2-first=Florian |editor3-last=Hartmann |editor3-first=Christof |year=2001 |publisher=Oxford University Press |location=Oxford |isbn= 9780199249589 |pages=309–310 |url=https://books.google.co.jp/books?id=BVFBXa69tWMC&pg=PA309&redir_esc=y&hl=ja |accessdate=7 April 2011}}</ref>{{rp|309}}。北イエメン時代には及ばないものの、統合イエメンにおいてもサーレハが強大な権限を有している事を示した。
|accessdate=2011-06-04

}}</ref>、治療のためサウジアラビアへと搬送。副大統領の{{仮リンク|アブドゥッラッボ・マンスール・ハーディー|en|Abd al-Rab Mansur al-Hadi}}が大統領代行に就任した<ref>{{Cite news
1994年5月4日に北イエメン派の主導する統治に反感を抱いた副大統領アリー・サーリム・アル=ベイドは再分離を主張して[[イエメン内戦 (1994年)|イエメン内戦]]を引き起こすが、サーレハは2か月間の戦いを経て反乱軍を鎮圧した。対立勢力を排除したサーレハは統合イエメンでの独裁体制確立に向けた動きを本格化させる。
|url=http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2804001/7301248

|title=イエメン大統領、サウジアラビアの病院へ搬送
1997年12月24日、サーレハは軍から陸軍元帥の名誉称号を授与され{{R|presidentsaleh.gov.ye|aps}}、統合イエメン軍の最高司令官という立場を得た{{R|aps}}。続いて1999年には{{仮リンク|1999年イエメン大統領総選挙|en|Yemeni presidential election, 1999|label=イエメン大統領選挙}}で「96.2%の得票を得て」大統領に再選された{{R|elections|page1=310}}。この選挙ではまともな対立候補が立てられておらず<ref name=REVERSAL>{{cite news |title=In eleventh-hour reversal, President Saleh announces candidacy |url=http://www.irinnews.org/report.aspx?reportid=27058 |work=[[IRIN]] |date=25 June 2006 |accessdate=14 December 2010}}</ref>、統合政府においてもサーレハの独裁が確実視されつつあった。

総選挙後に大統領の任期を7年間に延長するなど大統領に権限を集中させる法律を可決させ{{R|presidentsaleh.gov.ye}}、国際団体「[[フリーダム・ハウス]]」はイエメンでの政治的自由が悪化していると警告した<ref name=FH>{{cite web |url=http://www.freedomhouse.org/inc/content/pubs/fiw/inc_country_detail.cfm?country=2424&pf |title=Freedom in the World – Yemen (2002) |author= |year=2002 |work= |publisher=Freedom House |accessdate=7 April 2011}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>。国外の批判に対してサーレハは2005年7月に次期大統領選挙への不出馬を表明したが<ref name=NOCONTEST>{{cite news |title=Yemen leader rules himself out of polls |url=http://english.aljazeera.net/archive/2005/07/20084101450797901.html |work=Al Jazeera |date=17 July 2005 |accessdate=14 December 2010}}</ref>、2006年9月20日に前言を撤回して大統領選挙に出馬した。この事には政権内でも批判が噴出したが、サーレハは出馬を強行した{{R|REVERSAL}}。

[[File:Vladimir Putin with Ali Abdullah Saleh.jpg|thumb|right|ウラジーミル・プーチン露大統領と会談するサーレハ]]
2006年、{{仮リンク|2006年イエメン大統領総選挙|en|Yemeni presidential election, 2006|label=イエメン大統領選挙}}でサーレハは対抗馬となった[[ファイサル・ビン・シャムラン]]に20%以上の投票を奪われるというアクシデントに見舞われたものの{{R|presidentsaleh.gov.ye}}<ref>{{cite news |title=Saleh re-elected president of Yemen |url=http://english.aljazeera.net/archive/2006/09/200841013335763406.html |work=Al Jazeera |date=23 September 2006 |accessdate=14 December 2010}}</ref>、結局は77.2%の票を獲得して再選を決定した。既に統合から16年間、北イエメン時代から数えれば24年目の統治であり、独裁以外の何物でもなかった。サーレハは新しい任期について、アメリカとの対テロ協力などをスローガンに掲げ<ref>{{cite news |title=Yemeni president takes constitutional oath for his new term |url=http://news.xinhuanet.com/english/2006-09/27/content_5146302.htm |work=Xinhua |date=27 September 2006 |accessdate=14 December 2010}}</ref>、演説で[[米艦コール襲撃事件]]での対米協力を強調する発言を行った<ref>{{cite news |title=US mulled occupying Aden after Cole bombing: Yemen |url=http://www.khaleejtimes.com/Displayarticle.asp?section=middleeast&xfile=data/middleeast/2005/december/middleeast_december20.xml |newspaper=[[Khaleej Times]] |date=1 December 2005 |accessdate=14 December 2010}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>。

イエメン国内ではサーレハの[[肖像画]]や[[壁画]]が無数に作られ、自身の名前を模した巨大[[モスク]]が建てられるなど<ref>http://www.foxnews.com/story/0,2933,456506,00.html</ref>、周辺のアラブ諸国同様に指導者に対する神格化を進めていた。

===イランとの友好関係===
[[File:Ali Abdullah Saleh meets Donald H. Rumsfeld at Pentagon 2004.jpg|thumb|米[[国防総省]]との会談([[ペンタゴン]])]]
2000年4月、サーレハはイランを訪問した<ref>{{cite news|author=|url=http://1click.indiatimes.com/photo/0d8lafe5gD2dK?q=Tehran |title=Photo from Getty Images - Yemeni President Ali Abdullah Saleh (L) |publisher=1click.indiatimes.com |date=2000-04-18 |accessdate=2011-04-25}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref><ref>{{cite news|author= |url=http://1click.indiatimes.com/photo/0g50fTf5yaaCM?q=Tehran |title=Photo from Getty Images - Iranian President Mohammad Khatami welcomes Yemeni president Ali Abdullah Saleh at Saad Abad Palace |publisher=1click.indiatimes.com |date=2000-04-17 |accessdate=2011-04-25}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>。イランとの友好関係は継続され、2003年5月15日にイラク戦争が発生するとアメリカによる独裁体制への干渉を危惧して結びつきをさらに深め、イランの[[モハンマド・ハータミー|ハータミー]]大統領がシリアと共にイエメンを同盟国として訪問した<ref>{{cite news|author=|url=http://1click.indiatimes.com/photo/0clqbsm3ST69A?q=Tehran |title=Photo from Getty Images - Yemeni President Ali Abdullah Saleh (R)|publisher=1click.indiatimes.com |date=2003-05-15 |accessdate=2011-04-25}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>。

2010年時点ですら、イエメンは原子力関連についてイランとの協力関係を維持し<ref name=trend>{{cite news |title=President’s Envoy: Iran-Yemen ties, precious sample for neighbors |author= |url=http://en.trend.az/regions/iran/1802159.html |newspaper=Trend |location=Azerbaijan |date=23 December 2010 |accessdate=7 April 2011}}</ref>、2011年2月のスーダン問題は南イエメンとの対立を抱える統合政府をイランとの結束強化に動かした。イラン政府はサーレハの南部イエメン支配を支持する宣言を行っている<ref name=trend/>。

===イエメン騒乱===
{{Main|2011年イエメン騒乱}}
2011年、チュニジアでのジャスミン革命を発端とするアラブ世界での民主化運動([[アラブの春]])が広がりを見せると、30年以上の独裁が続くイエメンにもサーレハ政権打倒を求める動きが発生した<ref>[http://www.globalpost.com/dispatch/middle-east/110123/yemen-protests-tawakkol-karmans-arrest Yemen: Protests intensify after arrest of journalist Tawakkol Karman], ''Global Post'', 23 January 2011</ref>。背景には政治的な不自由に加えて、イエメンの経済が停滞して高失業率状態にある事も存在している。当初サーレハは国民に福祉政策などの懐柔策を示す一方、警官隊を動員してデモを弾圧するなど硬軟を織り交ぜた方針を採ったが、国際的な流れもあって反政府運動は一向に収まらなかった。

2011年2月2日、サーレハは二度目となる次期大統領選挙への不出馬を表明して事態収拾を図った<ref name=wsj2011>{{cite news|url=http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703960804576119421179920308.html |title=Yemeni President Won't Run Again. |publisher=Wall Street Journal |date=February 2, 2011 |accessdate=February 2, 2011 |first=Hakim |last=Almasmari}}</ref>。党内でもサーレハへの不信感が高まり、2月23日にデモ弾圧に抗議して11名の議員が辞職した<ref>[https://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-12557617 Yemen protest: Ruling party MPs resign over violence], ''[[BBC News]]'', 23 February 2011.</ref>。3月5日には新たに閣僚経験者を含む13名が辞職した<ref>[http://english.aljazeera.net/news/middleeast/2011/03/20113514455840795.html Yemen MPs quit ruling party], ''[[Al Jazeera English]]'', 3 March 2011</ref>。3月10日、サーレハは新憲法に関して国民投票を行う意向を宣言した<ref>[http://english.aljazeera.net/news/middleeast/2011/03/201131073622898186.html 'New constitution for Yemen']. '[[Al Jazeera English]]'', 10 March 2011''</ref>。

3月18日、警察隊によってデモ隊への攻撃が行われ、52人が死亡し200名以上が負傷する惨事が起きた<ref>[http://english.aljazeera.net/news/middleeast/2011/03/201131983335486248.html# Yemen opposition activists clash with police], ''[[Al Jazeera English]]'', 19 March 2011</ref>。3月20日、サーレハは首相ら内閣に総辞職を命じ<ref>[http://english.aljazeera.net/news/middleeast/2011/03/2011320180579476.html Yemen president fires cabinet], ''[[Al Jazeera English]]'', 20 March 2011</ref>、その二日後には「私を追放しようとすれば、必ず内戦へと繋がるだろう」と不穏な内容の演説を行った<ref>[https://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-12819003 Yemen president warns of coup], ''[[BBC News]]'', 22 March 2011</ref>。

4月23日、[[湾岸協力会議]]の仲介案に基づいて訴追の否定、政権引継ぎへの準備期間などを条件に退陣へ同意した<ref name="WashPo">{{cite news | url=https://www.washingtonpost.com/world/yemens-president-saleh-agrees-to-step-down-in-return-for-immunity/2011/04/23/AFu59SWE_story.html | title=Yemen’s President Saleh agrees to step down in return for immunity | publisher=Washington Post | accessdate=23 April 2011 | first=Michael | last=Birnbaum | date=23 April 2011}}</ref><ref>[https://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-13181324 Yemen President defiant over exit] BBC News, 24 April 2011</ref>。後継者に副大統領アブド・ラッボ・マンスール・ハーディーを指名する事も決定された。2011年5月18日、サーレハは反対勢力の代表との協定に署名する事を了承し、1か月以内に退陣すると表明した<ref name="latimesblogs.latimes.com">http://latimesblogs.latimes.com/babylonbeyond/2011/05/yemen-deal-outlined-for-saleh-to-step-down-with-immunity.html Los Angeles Times, 18 May 2011</ref>。

しかし5月23日になってサーレハは一転、全ての和平交渉を破棄すると宣言し、[[湾岸協力会議]]やアメリカ政府の交渉を一方的に打ち切った<ref name="news.sky.com"/><ref name="news.sky.com">http://news.sky.com/skynews/Home/World-News/Yemen-President-Saleh-Fails-To-Sign-Deal-For-Him-To-Leave-Office-After-33-Years/Article/201105415997388 ''[[Sky News]]'', 23 May 2011</ref>。

===暗殺未遂事件===
交渉終了によって再び警察や軍による弾圧が再開され、これに反対する軍・警察部隊やデモ隊との衝突が激化、内戦前夜の状況に至り始めた。6月3日、反政府軍によって大統領宮殿へ[[RPG (兵器)|RPG]]を使用した砲撃が行われ、宮殿内に着弾した砲弾によって大統領の護衛兵4名が死亡し、大統領自身も閣僚数名と共に負傷した(砲撃ではなく、爆弾の爆破とするものもある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2010/2011-10_005.pdf?noprint|author=松本弘|title=イエメンの混迷―その背景と特質|publisher=日本国際問題研究所|accessdate=2012-12-14}}</ref>)。一部では死亡説も流れるなど国内は騒然となったが、同日中にサーレハは音声によるラジオ演説を行い反政府軍への攻撃続行を宣言した。一方でサーレハが負った傷は直ちに命に別状はないものの、重傷である事も複数のメディアによって報道された。サーレハはより大規模で安全な医療施設のあるサウジアラビアの陸軍病院へ移送され、結果的に国外へ一時亡命する形になった<ref>http://english.aljazeera.net/news/middleeast/2011/06/201164164346765100.html</ref>。6月4日、サーレハは副大統領アブド・ラッボ・マンスール・ハーディーを大統領代行に指名した<ref>[http://blogs.aljazeera.net/liveblog/yemen-jun-4-2011-2332 Al-Hadi acting President of Yemen]</ref>。

アメリカ政府の発表した情報によれば、サーレハは全身の40%に火傷を負った重体であると主張されている<ref>{{cite news | title = Sources: Yemeni head Saleh has collapsed lung, burns over 40% of body | url = http://edition.cnn.com/2011/WORLD/meast/06/07/yemen.unrest/ | publisher = CNN | date = 7 Jun 2011 }}</ref>。対するサウジアラビア政府はサーレハに対して体内の砲弾破片の摘出と、首神経への治療を主に行ったと声明を出した<ref>{{cite news | url = http://www.catholic.org/international/international_story.php?id=41673 | title = Yemeni president flees nation for medical treatment }}</ref>。

2011年7月7日、サーレハは全身を包帯で保護した状態ながら、映像によるテレビ演説をイエメン全土に放送した。その中でアル=ハディへの政権移譲の予定を改めて表明した<ref>{{cite news| url=https://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-14072324 | work=BBC News | title=Yemen President Ali Abdullah Saleh appears on TV | date=7 July 2011}}</ref>。そして9月23日、暗殺未遂から数か月ぶりにイエメンへ帰国、大統領に復帰した事をイエメン政府が発表した<Ref>http://english.aljazeera.net/news/middleeast/2011/09/201192344820432439.html</ref>。

=== 大統領退陣 ===
2011年11月23日にサーレハはサウジアラビアの[[リヤド]]を訪問し、[[アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー]]副大統領らへの30日以内の権限移譲などが盛り込まれた[[湾岸協力会議]](GCC)や欧米による調停案に署名した<ref>{{Cite news
|url=http://www.asahi.com/international/update/1124/TKY201111230580.html
|title=イエメン大統領、退陣へ 権限移譲の調停案に署名
|work=asahi.com
|newspaper=[[朝日新聞]]
|date=2011-11-24
|accessdate=2011-11-26
}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref><ref name=mainichi20111124>{{Cite news
|url=https://web.archive.org/web/20111216212855/http://mainichi.jp/select/world/news/20111124k0000m030103000c.html
|title=イエメン:サレハ大統領サウジに 権限移譲案受け入れへ
|work=毎日.jp
|newspaper=[[毎日新聞]]
|date=2011-11-24
|accessdate=2011-11-26
}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>。これにより12月23日をもって暫定政権に移行し(ただし名目上の大統領職にはとどまる<ref>{{Cite news
|url=https://web.archive.org/web/20120121221556/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120121/mds12012119560002-n1.htm
|title=イエメン大統領の訴追免除法案可決
|work=MSN産経ニュース
|newspaper=[[産経新聞]]
|date=2012-01-21
|accessdate=2012-01-23
}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>)、その後60日後の2012年2月21日に大統領選挙が行われることが確定。サーレハは大統領選挙をもって正式に大統領を退くこととなった<ref>{{Cite news
|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2845213?pid=8188313
|title=イエメン、挙国一致内閣を発足 宣誓就任式行う
|work=AFPBB News
|work=AFPBB News
|publisher=[[フランス通信社]]
|publisher=[[フランス通信社]]
|date=2011-06-05
|date=2011-12-11
|accessdate=2011-06-05
|accessdate=2012-01-04
}}</ref>。この背景には、長引く紛争による大統領派の弱体化が指摘されている<ref name=mainichi20111124 />。アメリカや日本、EUなどはこれを支持する声明を発表したが<ref>{{Cite news
}}</ref>。内戦への懸念が高まっているが、解決の糸口はみえていない。
|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111124-OYT1T00363.htm
|title=イエメンの大統領権限移譲、米大統領が歓迎
|work=YOMIURI ONLINE
|newspaper=[[読売新聞]]
|date=2011-11-24
|accessdate=2011-11-26
}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref><ref>{{Cite news
|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011112401063
|title=権力移行案署名を歓迎=玄葉外相
|work=時事ドットコム
|newspaper=[[時事通信]]
|date=2011-11-24
|accessdate=2011-11-24
}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref><ref>{{Cite news
|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20111124-OYT1T00382.htm
|title=イエメン国民に「最大級の称賛」…EU外相
|work=YOMIURI ONLINE
|newspaper=[[読売新聞]]
|date=2011-11-24
|accessdate=2011-11-26
}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>、一方でサーレハは退陣の見返りとして訴追免除と身の安全が保障されることとなったことに反政府派が反発<ref>{{Cite news
|url=http://jp.wsj.com/World/Europe/node_350003
|title=サレハ大統領の訴追免除にデモ隊が抗議―イエメン
|work=wsj.com
|publisher=[[ウォール・ストリート・ジャーナル]]
|date=2011-11-25
|accessdate=2011-11-26
}}</ref>。2012年1月21日に議会が訴追免除を可能にする法律を可決させ<ref name=sankei20120121>{{Cite news
|url=https://web.archive.org/web/20120121221556/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120121/mds12012119560002-n1.htm
|title=イエメン大統領の訴追免除法案可決
|work=MSN産経ニュース
|newspaper=[[産経新聞]]
|date=2012-01-21
|accessdate=2012-02-16
}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>、翌22日にはサナアで数千人による抗議デモが発生した。


訴追免除の法律が成立した翌日に治療目的で渡米、テレビ演説で国民に対し謝罪の言葉を口にした<ref name=cnn30005368>{{Cite news
== 脚注 ==
|url=http://www.cnn.co.jp/world/30005368.html
{{Reflist}}
|title=イエメン大統領、治療目的で訪米 国民には謝罪
|work=CNN.co.jp
|publisher=[[CNN]]
|date=2012-01-23
|accessdate=2012-01-23
}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>。2月21日に行われた大統領選挙ではアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーが当選、2月25日にハーディーは議会において大統領就任を宣誓した。これによってサーレハは正式に大統領職を退き、2月27日に権限委譲式典を行った<ref>{{Cite news|url=http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012022700888|title=サレハ大統領が離任=イエメン|work=時事ドットコム|newspaper=[[時事通信]]|date=2012-02-27|accessdate=2012-02-28}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>。ただし同選挙は信任選挙という側面が強く、候補者はハーディーの一名のみで選択肢は存在していない。またハーディー副大統領はサーレハの腹心として政権運営に深く関わり続けた人物であり、サーレハ自身も先述の通り後継者に指名している。


こうした点からハーディー当選は独裁政権の後継であると考える反サーレハ派による選挙ボイコットが呼びかけられた。結果、有効票内の得票率が99.8%を記録する一方で国民の投票率は66%に留まっている<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/international/update/0225/TKY201202250324.html |title=ハディ氏得票率99.8% イエメン暫定大統領に当選|newspaper=朝日新聞|date=2012-02-25|accessdate=2012-03-01}}</ref>。オバマ米大統領は選挙自体は公正に行われた事を高く評価し、「平和的な解決」と結果を支持している<ref name=cnn0226>{{Cite news |url=http://www.cnn.co.jp/world/30005731.html |title=ハディ新大統領が就任宣誓、東部では爆弾テロ イエメン|publisher=CNN|date=2012-02-26|accessdate=2012-03-01}}{{リンク切れ|date=2012年11月}}</ref>。自らが望む形での決着に加え、議会内の最大勢力である[[国民全体会議]]党首としてサーレハの影響力は維持されている<ref name=cnn0226 />。
== 外部リンク ==
{{commons|Ali Abdullah Saleh}}
* [http://www.presidentsaleh.gov.ye/en/ President Ali Abdullah Saleh Official Website]([[英語]])


=== 反政府勢力との蜜月と殺害 ===
大統領退任後のサーレハは、かつて大統領在任中に弾圧した反政府勢力[[フーシ]]と蜜月を築き、共通の敵のハーディー大統領派と事実上の内戦を戦った<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO84725670T20C15A3000000/ 「[FT]「フーシ派」台頭、内戦に追い込まれるイエメン 」]Financial Times2015/3/24</ref><ref>[http://www.47news.jp/smp/47topics/e/263702.php 「【Q&A イエメン軍事介入】イランの覇権拡大を警戒 サウジ、地上戦が焦点」]共同通信2015/03/31 </ref>。しかし、2017年12月2日にはフーシとの同盟関係が崩れたと発表。同時に、フーシへの攻撃を続けるサウジアラビア主導の連合軍と和平協議を行う用意があると発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3153934|title=イエメン前大統領、サウジ連合と和平協議の「用意ある」 フーシ派と同盟崩壊か|publisher=AFP|date=2017-12-03|accessdate=2017-12-06}}</ref>。12月4日、フーシが樹立した政府の内務省はサーレハ殺害を公表し<ref>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3154120|title=イエメンの反政府武装勢力、サレハ前大統領の「殺害」を発表|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2017-12-04|accessdate=2020-10-23}}</ref>、遺体も確認された。70歳没。{{see also|イエメン内戦 (2015年-)}}

== 略歴 ==
* [[1947年]]:[[イエメン王国|北イエメン王国]]のアル=アフマル市に生まれる。
* [[1958年]]:北イエメン軍入隊。
* [[1960年]]:[[陸軍士官学校]]入校。王国軍[[伍長]]昇進。
* [[1962年]]:北イエメン革命で反乱軍に参加(-1970年)
* [[1963年]]:共和国軍[[少尉]]昇進。
* [[1964年]]:上級指揮課程入校。装甲車両指揮を専攻分野に選択。
* [[1970年]]:[[北イエメン内戦]]終結。軍幹部として友好国への駐在武官などを経験。
* [[1977年]]:北イエメン共和国大統領[[アフマド・ビン・フセイン・アル=ガーシミー]]により、[[タイズ]]方面軍司令官に任命。
* [[1978年]]
** [[6月24日]]:ガシミ大統領暗殺事件発生。臨時政府から副大統領および軍幕僚会議議長代理に任命される。
** [[7月18日]]:北イエメン共和国大統領(第6代)就任。サーレハ政権成立。
** [[7月24日]]:軍最高司令官の兼務を宣言。
* [[1979年]]:軍内の反サーレハ派に対する粛清。陸軍大佐昇進。
* [[1982年]]:[[国民全体会議]]による事実上の[[一党独裁]]体制が確立。
* [[1983年]]:北イエメン大統領に再選(2期目)
* [[1988年]]:北イエメン大統領に再々選(3期目)
* [[1990年]]:イエメン統合。南イエメン大統領アリー・サーレム・アル=ビードが副大統領に、自身は大統領に就任。
* [[1993年]]:[[国民全体会議]]が統合イエメンでも議会第一党の地位を確保。
* [[1994年]]
** [[5月4日]]:[[イエメン内戦 (1994年)|イエメン内戦]]勃発。サーリム副大統領、南イエメンの再分離を宣言。
** [[7月7日]]:イエメン内戦終結。サーリム元副大統領亡命。
** [[10月1日]]:共和国憲法改正。イエメン大統領に再選(2期目)。
* [[1997年]]:陸軍元帥昇進。
* [[1999年]]:イエメン大統領に再選(3期目)。大統領任期を7年間に延長。
* [[2006年]]:イエメン大統領に再選(4期目)。
* [[2011年]]
** [[1月18日]]:[[2011年イエメン騒乱|イエメン騒乱]]勃発。デモ隊への弾圧行為で国際社会の非難を受ける。
** [[4月23日]]:訴追否定、任期終了後の不出馬など[[湾岸協力会議]]仲裁案を了承。
** [[5月23日]]:[[湾岸協力会議]]仲裁案を破棄。デモ隊への弾圧を再開。
** [[6月3日]]:反政府勢力より砲撃を受け負傷、翌4日に[[サウジアラビア]]の病院へ搬送。
** [[9月23日]]:イエメンへ帰国。大統領に復帰。
** [[11月23日]]:30日以内の大統領権限移譲に同意。
** [[12月23日]]:30日以内の大統領権限移譲案に従い事実上の退任。
* [[2012年]]
** [[1月22日]]:治療目的の訪米。
** [[2月25日]]:大統領選挙終了後、ハーディー副大統領に元首権限を移譲。
* [[2017年]]
** [[12月2日]]:共闘関係にあったイスラム過激派組織フーシとの同盟関係が崩れたと発表。
** [[12月4日]]:フーシが樹立した政府の内務省がサーレハ殺害を公表。

== 政策 ==
{{main|アリー・アブドゥッラー・サーレハの政策}}

==エピソード==
*自身の子息や親戚を軍の要職に登用して一族による支配を行っている
**長男の{{ill2|アフマド・アリー・アブドゥッラー・サーレハ|en|Ahmed Saleh|label=アフマド}}は共和国防衛隊兼軍特殊部隊司令官を務めている
**三人の甥である[[ターリク・ムハンマド・アブドゥッラー・サーレハ]]、[[ヤフヤー・ムハンマド・サーレハ]]、[[アンマール・ムハンマド・サーレハ]]はそれぞれ大統領特別警護隊司令官、中央治安軍司令官、国家保安局長官に任命されている<ref>http://english.dohainstitute.org/Home/Details?entityID=5ea4b31b-155d-4a9f-8f4d-a5b428135cd5&resourceId=82eaa6e3-772b-4e9e-b08b-0c6bae9b76df</ref>。

==出典==
{{reflist|30em|refs=
<ref name=afpbb17124>{{Cite news|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3154120|title=イエメンの反政府武装勢力、サレハ前大統領の「殺害」を発表|work=AFPBB News|agency=[[フランス通信社]]|date=2017-12-04|accessdate=2017-12-04}}</ref>
}}

==外部リンク==
{{Wikiquote|en:Ali Abdullah Saleh|アリー・アブドッラー・サーレハ}}
*[http://www.yemen-nic.net/English%20site/SITE%20CONTAINTS/presedency/President/Biog.pres.htm President Ali Abdullah Saleh] profile from the National Information Center of Yemen, ([http://www.yemen-nic.info/fr_site/President/ in French])
*[http://www.presidentsaleh.gov.ye/ President Ali Abdullah Saleh] official Yemen government website
*{{C-SPAN|alisaleh}}
*{{Aljazeeratopic|people/ali-abdullah-saleh}}
*{{JPosttopic|Ali_Abdullah_Saleh}}
*{{NYTtopic|people/s/ali_abdullah_saleh}}
*{{NNDB|813/000162327}}
*[http://armiesofliberation.com/archives/2006/04/08/ali-abdullah-saleh-family-in-yemen-govt-and-business/ Ali Abdullah Saleh Family in Yemen Govt and Business], Jane Novak, ''Armies of Liberation'' blog, April 8, 2006
*[http://www.reuters.com/article/2011/03/22/us-yemen-president-events-idUSTRE72L3DV20110322 Timeline: Saleh's 32-year rule in Yemen], ''[[Reuters]]'', 22 March 2011
*[https://www.washingtonpost.com/world/yemeni-leader-offers-to-hand-over-power-but-only-to-safe-hands/2011/03/25/AF7aO7VB_story.html In Yemen, onetime foes united in opposing President Saleh], Sudarsan Raghavan in Sanaa, ''[[The Washington Post]]'', 25 March 2011
*[https://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-13179385 Profile: Yemen's Ali Abdullah Saleh], ''[[BBC News]]'', 23 April 2011


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アリー・アブドッラー・サーレハ
علي عبد الله صالح

アリー・アブドッラー・サーレハ(1990年)

任期 1990年5月22日 – 2012年2月27日
副大統領 アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー

任期 1978年7月18日 – 1990年5月22日

北イエメンの旗 イエメン・アラブ共和国
副大統領
任期 1978年6月24日 – 1978年7月18日

出生 (1947-03-21) 1947年3月21日
イエメン・ムタワッキリテ王国アル=アフマル英語版
死去 (2017-12-04) 2017年12月4日(70歳没)
政党 国民全体会議
出身校 北イエメン王立士官学校
北イエメン軍事アカデミー
現職 軍人政治家
配偶者 アサマ・サーレハ
宗教 シーア派ザイド派

アリー・アブドッラー・サーレハアラビア語: علي عبد الله صالح, ラテン文字転写: ʿAlī ʿAbdullāh Ṣāliḥ1947年3月21日[1][2][3] - 2017年12月4日)は、イエメン共和国政治家。同国大統領(初代)を務めた。

概要

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北イエメン共和国(イエメン・アラブ共和国)の陸軍総司令官を経て北イエメン共和国大統領となり、 1990年の南北イエメン統合によって統一政府の初代大統領に選出される。北イエメン時代を含めれば1978年から2012年まで34年間にわたり国家指導者の立場にあった[4]。よって北イエメン大統領時代からカウントすれば、在任年数で赤道ギニアテオドロ・オビアン・ンゲマ大統領を上回り、2012年の退任時点で世界最長政権を率いる人物であった(君主を除く)。

2011年12月22日に事実上、副大統領のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに大統領権限を移譲。退任後もイエメン軍元帥、及び国民全体会議党首として一定の影響力を維持し、反政府勢力フーシと連携して、ハーディー大統領派と事実上の内戦を戦うも、その後決裂してフーシに殺害された[5]

軍人としては北イエメン軍の総司令官を務め、その後統合された南北イエメン軍でも陸軍元帥の名誉称号を与えられた。こうした軍との深い関係が権力掌握における重要な後ろ盾となった。

人物

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イエメン・ムタワッキリテ王国のアル=アフマル市に生まれる[1](サナア県バイト・アル=アフマル村とするものもある[6])。同地はハーシド氏族英語版の統治する地域で、サーレハ家はシーア派ザイド派)を信仰するアラブ系イエメン人であった[1]。ザイド派はイエメンでは主流とされているイスラム教宗派だが、サーレハ家は厳密にはさらにその中でも少数派の宗派に属しており、ザイド派の多数派が伝統的に王侯貴族を独占していた北イエメン王国のザイド・イマーム制では国政に関わる権利を持たなかった[7]

1958年、サーレハは中等教育を途中で放棄すると北イエメン王国軍に入隊して兵士となった。1960年には北イエメン王立士官学校で学び[8]、下士官として伍長に昇進した[1]。北イエメン革命ではアブドゥッラー・アッ=サッラール英語版大佐らの軍事クーデター(北イエメン革命)に賛同し、革命終了後に北イエメン共和国軍少尉に昇進する[8]

経歴

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北イエメンでの独裁

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ジョージ・ブッシュ米大統領と談笑するサーレハ

共和国政府と王党派の亡命政府による北イエメン内戦が始まると各地を転戦して昇進を重ね、1977年にアフマド・ビン・フセイン・アル=ガシュミー英語版大統領からタイズ県の軍司令官に任命される[1]

1978年6月24日、ガシュミー大統領が暗殺されると臨時召集された最高行政委員会の一員として事態収拾にあたり、また若手将校ながら幕僚会議議長代理として軍参謀本部を統制した[8][1]。7月17日、軍を押さえたサーレハは最高行政委員会から北イエメン共和国第6代大統領に任命され、国家元首として陸軍総司令官および陸軍参謀総長を兼任する事を宣言した[8]。これが北イエメン共和国議会の承認を伴ったかは議論がある。

自らへの暗殺未遂として30名の将校を処刑するなど軍内で大規模な粛清を行い[1]、軍人としても陸軍大佐に昇進するなど影響力を強めていった。軍権力を後ろ盾にした独裁が危惧される中、1期目の任期終了後にサーレハは諸政党を翼賛的に合流させる構想を発表。1982年8月30日に自身が党首を務める翼賛連合「国民全体会議」を組織し、同党により2期目を共和国議会に承認させた[8]

これ以降、実質的に議会は国民全体会議一党独裁状態となり、党首であるサーレハの独裁体制が継続していくことになる。

イエメン統合後

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隣国の南イエメン共和国ではソ連からの支援が途絶えた事で物資不足や国力の低下が進み、冷戦終結が目前に迫った1990年頃から北イエメンとの統合議論が本格化していた。サーレハもこの構想に前向きな姿勢を見せ、南イエメンの実質的な指導者である南イエメン社会党書記長アリー・サーリム・アル=ベイド英語版との交渉を行った。両者の協議でイエメン統合後の新政府ではサーレハが大統領、アリー・サーレムが首相および副大統領に就任する事などが決定された[9]。1990年5月22日、イエメン統合によりサーレハは初代イエメン大統領に就任した。

1990年8月2日、湾岸戦争が勃発すると、サーレハは同じアラブ協力会議の加盟国であるヨルダンフセイン1世とともにイラクのフセイン政権と戦うことを拒否し、国際社会のみならず、アラブ諸国の非難を受けた。抗議としてクウェート政府は国内のイエメン人労働者を全て国外追放処分にした[10]

1993年、統合政府としては初めてとなる総選挙英語版が行われ、旧・北イエメンの翼賛政党である国民全体会議が全体議席の3分の1以上となる301議席中122議席を獲得した[11]:309。北イエメン時代には及ばないものの、統合イエメンにおいてもサーレハが強大な権限を有している事を示した。

1994年5月4日に北イエメン派の主導する統治に反感を抱いた副大統領アリー・サーリム・アル=ベイドは再分離を主張してイエメン内戦を引き起こすが、サーレハは2か月間の戦いを経て反乱軍を鎮圧した。対立勢力を排除したサーレハは統合イエメンでの独裁体制確立に向けた動きを本格化させる。

1997年12月24日、サーレハは軍から陸軍元帥の名誉称号を授与され[8][1]、統合イエメン軍の最高司令官という立場を得た[1]。続いて1999年にはイエメン大統領選挙英語版で「96.2%の得票を得て」大統領に再選された[11]:310。この選挙ではまともな対立候補が立てられておらず[12]、統合政府においてもサーレハの独裁が確実視されつつあった。

総選挙後に大統領の任期を7年間に延長するなど大統領に権限を集中させる法律を可決させ[8]、国際団体「フリーダム・ハウス」はイエメンでの政治的自由が悪化していると警告した[13]。国外の批判に対してサーレハは2005年7月に次期大統領選挙への不出馬を表明したが[14]、2006年9月20日に前言を撤回して大統領選挙に出馬した。この事には政権内でも批判が噴出したが、サーレハは出馬を強行した[12]

ウラジーミル・プーチン露大統領と会談するサーレハ

2006年、イエメン大統領選挙英語版でサーレハは対抗馬となったファイサル・ビン・シャムランに20%以上の投票を奪われるというアクシデントに見舞われたものの[8][15]、結局は77.2%の票を獲得して再選を決定した。既に統合から16年間、北イエメン時代から数えれば24年目の統治であり、独裁以外の何物でもなかった。サーレハは新しい任期について、アメリカとの対テロ協力などをスローガンに掲げ[16]、演説で米艦コール襲撃事件での対米協力を強調する発言を行った[17]

イエメン国内ではサーレハの肖像画壁画が無数に作られ、自身の名前を模した巨大モスクが建てられるなど[18]、周辺のアラブ諸国同様に指導者に対する神格化を進めていた。

イランとの友好関係

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国防総省との会談(ペンタゴン

2000年4月、サーレハはイランを訪問した[19][20]。イランとの友好関係は継続され、2003年5月15日にイラク戦争が発生するとアメリカによる独裁体制への干渉を危惧して結びつきをさらに深め、イランのハータミー大統領がシリアと共にイエメンを同盟国として訪問した[21]

2010年時点ですら、イエメンは原子力関連についてイランとの協力関係を維持し[22]、2011年2月のスーダン問題は南イエメンとの対立を抱える統合政府をイランとの結束強化に動かした。イラン政府はサーレハの南部イエメン支配を支持する宣言を行っている[22]

イエメン騒乱

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2011年、チュニジアでのジャスミン革命を発端とするアラブ世界での民主化運動(アラブの春)が広がりを見せると、30年以上の独裁が続くイエメンにもサーレハ政権打倒を求める動きが発生した[23]。背景には政治的な不自由に加えて、イエメンの経済が停滞して高失業率状態にある事も存在している。当初サーレハは国民に福祉政策などの懐柔策を示す一方、警官隊を動員してデモを弾圧するなど硬軟を織り交ぜた方針を採ったが、国際的な流れもあって反政府運動は一向に収まらなかった。

2011年2月2日、サーレハは二度目となる次期大統領選挙への不出馬を表明して事態収拾を図った[24]。党内でもサーレハへの不信感が高まり、2月23日にデモ弾圧に抗議して11名の議員が辞職した[25]。3月5日には新たに閣僚経験者を含む13名が辞職した[26]。3月10日、サーレハは新憲法に関して国民投票を行う意向を宣言した[27]

3月18日、警察隊によってデモ隊への攻撃が行われ、52人が死亡し200名以上が負傷する惨事が起きた[28]。3月20日、サーレハは首相ら内閣に総辞職を命じ[29]、その二日後には「私を追放しようとすれば、必ず内戦へと繋がるだろう」と不穏な内容の演説を行った[30]

4月23日、湾岸協力会議の仲介案に基づいて訴追の否定、政権引継ぎへの準備期間などを条件に退陣へ同意した[31][32]。後継者に副大統領アブド・ラッボ・マンスール・ハーディーを指名する事も決定された。2011年5月18日、サーレハは反対勢力の代表との協定に署名する事を了承し、1か月以内に退陣すると表明した[33]

しかし5月23日になってサーレハは一転、全ての和平交渉を破棄すると宣言し、湾岸協力会議やアメリカ政府の交渉を一方的に打ち切った[34][34]

暗殺未遂事件

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交渉終了によって再び警察や軍による弾圧が再開され、これに反対する軍・警察部隊やデモ隊との衝突が激化、内戦前夜の状況に至り始めた。6月3日、反政府軍によって大統領宮殿へRPGを使用した砲撃が行われ、宮殿内に着弾した砲弾によって大統領の護衛兵4名が死亡し、大統領自身も閣僚数名と共に負傷した(砲撃ではなく、爆弾の爆破とするものもある[35])。一部では死亡説も流れるなど国内は騒然となったが、同日中にサーレハは音声によるラジオ演説を行い反政府軍への攻撃続行を宣言した。一方でサーレハが負った傷は直ちに命に別状はないものの、重傷である事も複数のメディアによって報道された。サーレハはより大規模で安全な医療施設のあるサウジアラビアの陸軍病院へ移送され、結果的に国外へ一時亡命する形になった[36]。6月4日、サーレハは副大統領アブド・ラッボ・マンスール・ハーディーを大統領代行に指名した[37]

アメリカ政府の発表した情報によれば、サーレハは全身の40%に火傷を負った重体であると主張されている[38]。対するサウジアラビア政府はサーレハに対して体内の砲弾破片の摘出と、首神経への治療を主に行ったと声明を出した[39]

2011年7月7日、サーレハは全身を包帯で保護した状態ながら、映像によるテレビ演説をイエメン全土に放送した。その中でアル=ハディへの政権移譲の予定を改めて表明した[40]。そして9月23日、暗殺未遂から数か月ぶりにイエメンへ帰国、大統領に復帰した事をイエメン政府が発表した[41]

大統領退陣

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2011年11月23日にサーレハはサウジアラビアのリヤドを訪問し、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー副大統領らへの30日以内の権限移譲などが盛り込まれた湾岸協力会議(GCC)や欧米による調停案に署名した[42][43]。これにより12月23日をもって暫定政権に移行し(ただし名目上の大統領職にはとどまる[44])、その後60日後の2012年2月21日に大統領選挙が行われることが確定。サーレハは大統領選挙をもって正式に大統領を退くこととなった[45]。この背景には、長引く紛争による大統領派の弱体化が指摘されている[43]。アメリカや日本、EUなどはこれを支持する声明を発表したが[46][47][48]、一方でサーレハは退陣の見返りとして訴追免除と身の安全が保障されることとなったことに反政府派が反発[49]。2012年1月21日に議会が訴追免除を可能にする法律を可決させ[50]、翌22日にはサナアで数千人による抗議デモが発生した。

訴追免除の法律が成立した翌日に治療目的で渡米、テレビ演説で国民に対し謝罪の言葉を口にした[51]。2月21日に行われた大統領選挙ではアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーが当選、2月25日にハーディーは議会において大統領就任を宣誓した。これによってサーレハは正式に大統領職を退き、2月27日に権限委譲式典を行った[52]。ただし同選挙は信任選挙という側面が強く、候補者はハーディーの一名のみで選択肢は存在していない。またハーディー副大統領はサーレハの腹心として政権運営に深く関わり続けた人物であり、サーレハ自身も先述の通り後継者に指名している。

こうした点からハーディー当選は独裁政権の後継であると考える反サーレハ派による選挙ボイコットが呼びかけられた。結果、有効票内の得票率が99.8%を記録する一方で国民の投票率は66%に留まっている[53]。オバマ米大統領は選挙自体は公正に行われた事を高く評価し、「平和的な解決」と結果を支持している[54]。自らが望む形での決着に加え、議会内の最大勢力である国民全体会議党首としてサーレハの影響力は維持されている[54]

反政府勢力との蜜月と殺害

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大統領退任後のサーレハは、かつて大統領在任中に弾圧した反政府勢力フーシと蜜月を築き、共通の敵のハーディー大統領派と事実上の内戦を戦った[55][56]。しかし、2017年12月2日にはフーシとの同盟関係が崩れたと発表。同時に、フーシへの攻撃を続けるサウジアラビア主導の連合軍と和平協議を行う用意があると発表した[57]。12月4日、フーシが樹立した政府の内務省はサーレハ殺害を公表し[58]、遺体も確認された。70歳没。

略歴

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政策

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エピソード

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出典

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  57. ^ “イエメン前大統領、サウジ連合と和平協議の「用意ある」 フーシ派と同盟崩壊か”. AFP. (2017年12月3日). https://www.afpbb.com/articles/-/3153934 2017年12月6日閲覧。 
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外部リンク

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公職
先代
アリー・アブドッラー・サーレハ
(北イエメン大統領)
イエメンの旗 イエメン共和国大統領
(1990 - 1994年は大統領評議会議長)
初代:1990 - 2012
次代
アブド・ラッボ・マンスール・ハーディー
先代
アブドルカリーム・アブドッラー・アル=アラシー英語版
北イエメンの旗 イエメン・アラブ共和国大統領
第6代:1978 - 1990
次代
アリー・アブドッラー・サーレハ
(独立)