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'''親衛隊特務部隊'''( |
'''親衛隊特務部隊'''(しんえいたいとくむぶたい、独:'''SS'''-'''V'''erfügungs'''t'''ruppe, 略号:SS-VT)は、[[ドイツ]]の[[政党]][[国民社会主義ドイツ労働者党|国民社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)]]の組織[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊(以下SS)]]が保有していた[[軍事組織]]。[[武装親衛隊|武装親衛隊(以下武装SS)]]の前身となった組織である。[[ドイツ語]]の「Verfügung」には「自由使用」といった意味があり、この部隊名には[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]や[[親衛隊全国指導者]][[ハインリヒ・ヒムラー]]が自由に使用できる部隊という意味が込められていた<ref name="山下(2010)164">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.164]]</ref>。 |
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== 沿革 == |
== 沿革 == |
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=== 前身 === |
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1934年9月24日、ヒトラーは常設の武装部隊を親衛隊に創設することを[[ドイツ国防軍|国防三軍]]上層部に通達した。武装部隊は既存の SS-Sonderkommando と Politische Bereitschaten から編成されるとし、3個連隊の兵力規模に限定、更に部隊はナチス党指導部の警護の役目を有するとした。 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1988-001-25, Berlin-Lichterfelde, Leibstandarte-SS Adolf Hitler.jpg|thumb|250px|1933年、ベルリン=リヒターフェルデに駐留するライプシュタンダルテ。]] |
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[[1933年]][[1月30日]]の[[ナチ党の権力掌握|ナチ党の政権掌握]]後に、武装SSの前身となる武装化されたSS部隊が出現するようになった。1つ目はアドルフ・ヒトラーの警護部隊である「[[第1SS装甲師団|ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte SS Adolf Hitler、略称LSSAH)]]」。2つ目は「[[親衛隊政治予備隊|SS政治予備隊(SS-Politische Bereitschaft)]]」。3つ目は[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所(KZ)]]の警備を行う「[[親衛隊髑髏部隊|SS髑髏部隊(SS-Totenkopfverbände、略称SS-TV)]]」である<ref name="スティン(2001)42">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.42]]</ref>。 |
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このうち、SS政治予備隊とライプシュタンダルテがSS特務部隊の前身であった<ref name="ヘーネ(1981)430">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.430]]</ref>。特に政治予備隊が直接の前身である<ref name="フォステン(1972)20">[[#フォステン(1972)|フォステン、マリオン(1972)、p.20]]</ref><ref name="山下(2010)163">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.163]]</ref>。髑髏部隊は[[テオドール・アイケ]]の下にSS特務部隊とは別の発展を遂げたSS武装部隊であり、戦時中になってようやく武装SSとして特務部隊と合同することとなった。 |
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同日、国防省 ([[:de:Reichswehrministerium|Reichskriegsministerium]]) は下記の通りに定め、その存在を認めた。『総統の決定に基づき、親衛隊は3個歩兵連隊、1個通信大隊、1個工兵大隊の常設兵力を保有する。同部隊は[[親衛隊全国指導者]]である[[ハインリッヒ・ヒムラー]]の指揮下にあり、平時にあっては国防軍から独立するが、戦時にあっては親衛隊武装部隊は国防軍の指揮下に入るものとする。如何なる型で組み入れるについては国内政治状況およびこれら親衛隊武装部隊の軍事能力の達成度に応じて決定されることとする。平時にあっては同部隊は国防大臣の指示に基づき軍事訓練に専念し、訓練にあたっては国防大臣に従うものとする。』 |
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親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、総統アドルフ・ヒトラーのイニシアチブで創設された最初の武装化されたSS部隊ライプシュタンダルテに触発され、1933年春に[[ハンブルク]]、[[ドレスデン]]、[[ミュンヘン]]、[[エルヴァンゲン]]([[:de:Ellwangen|de]])、[[アロルゼン]]([[:de:Bad Arolsen|de]])などに政治予備隊を創設した<ref name="芝(1995)28">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.28]]</ref><ref name="スティン(2001)42">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.42]]</ref><ref>[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.426-427]]</ref><ref name="学研1,35">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.35]]</ref>。政治予備隊は[[左翼]]の内乱準備を粉砕するという名目で組織され、[[補助警察]](プロイセン州内相[[ヘルマン・ゲーリング]]が[[突撃隊|突撃隊(以下SA)]]や親衛隊から組織させた警察)の特別コマンドとして武装化が正当化され、一般の警察より強力な火力を持ち、またかなり自動車化されていた<ref name="芝(1995)28">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.28]]</ref><ref name="山下(2010)163">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.163]]</ref>。政治予備隊はまもなく全ドイツに配置されるようになった<ref name="ヘーネ(1981)427">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.427]]</ref>。 |
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1935年3月16日、ヒトラーは[[ヴェルサイユ条約]]の軍事条項を破棄、ドイツ陸軍は36個師団を擁し、そのうち1個師団は親衛隊特務部隊とすると再軍備を宣言した。 |
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1934年6月初頭の[[長いナイフの夜]]事件において[[ヴァイマル共和国軍|国軍]]と対立していたSA幹部は[[粛清]]された。この粛清を主導したのはSSであり、政治予備隊、ライプシュタンダルテ、髑髏部隊といったSSの武装部隊は粛清の実行部隊として活動した<ref name="スティン(2001)43">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.43]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)429">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.429]]</ref><ref name="山下(2010)163">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.163]]</ref><ref name="ラムスデン(1997)97">[[#ラムスデン(1997)|ラムスデン(1997)、p.97]]</ref>。 |
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1935年8月8日、親衛隊特務部隊が創設され、指揮官には親衛隊出身者のみならず、ヴァイマール共和国時代の陸軍士官、国防軍の陸軍士官、警察出身者が充当された。給与待遇面に関しては国防軍のそれと同じ規定が適用された。国防軍からの移籍に当たっては同等の階級が与えられた。 |
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=== 創設 === |
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== パウル・ハウサー == |
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SSのこの「功績」により、1934年7月26日にヒトラーはSSをSAから正式に独立させた<ref>[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.62-63]]</ref>。1934年8月1日に[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]大統領が死去し、全ドイツ軍はただちにヒトラーに[[忠誠宣誓 (ドイツ)|忠誠宣誓]]を行った<ref name="キーガン(1972)62">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.62]]</ref>。これによりSSも国軍も同じ人物に忠誠を誓うことになったのだが、ヒトラーは軍部を信じていなかったので、SSの軍隊化を急いだ<ref name="キーガン(1972)65">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.65]]</ref>。 |
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1936年10月1日、親衛隊指揮本部 (Führungshauptamt) に[[パウル・ハウサー]]をトップとする特務部隊総監部 (Inspektorat der SS-Verfügungstruppe) が設けられた。 |
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ヒトラーは「国軍こそがドイツ唯一の武装の担い手であり、SSの武装化は例外に過ぎない」ことを強調しつつ、SSの武装化を国軍に認めさせようとした<ref name="芝(1995)30">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.30]]</ref>。これを受けて国防相[[ヴェルナー・フォン・ブロンベルク]][[上級大将]]は9月24日に3個歩兵連隊、1個通信大隊からなる'''SS特務部隊'''(SS-VT)の設置を認めた<ref>[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p.284-285]]</ref><ref name="芝(1995)29">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.29]]</ref><ref name="広田(2010)87">[[#広田(2010)|広田(2010)、p.87]]</ref>。 |
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1938年6月までに下記の3個連隊の編成が完了した。 |
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* 第1連隊ドイチュラント (SS-Standarte 1 "Deutschland") 指揮官:[[フェリックス・シュタイナー]] |
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* 第2連隊ゲルマニア (SS-Standarte 2 "Germania") 指揮官:カール=マリア・デーメルフバー |
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* 第3連隊デァ・フューラー (SS-Standarte 3 "Der Führer") 指揮官:ゲオルク・ケプラー |
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そしてヒムラーは政治予備隊とライプシュタンダルテを統合し、SS特務部隊を創設した<ref name="ヘーネ(1981)430">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.430]]</ref>。特務部隊への勤務は兵役に同等と定められた<ref name="芝(1995)30">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.30]]</ref>。すなわち特務部隊隊員には[[給与]]支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)の所持が認められ、兵員給料や軍人恩給の対象となった<ref name="芝(1995)30">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.30]]</ref>。なおこれ以降、特務部隊以外のSS隊員は[[一般親衛隊|一般SS(Allgemeine SS)]]と呼ばれるようになった<ref name="山下(2010)47">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.47]]</ref>。 |
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1938年、親衛隊特務部隊の隊員数は16,000名に達した。国防軍は親衛隊特務部隊における4ヵ年間の勤務を義務兵役期間として認知した。 |
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1935年3月16日にヒトラーは[[国会 (ドイツ)|国会]]において[[ヴェルサイユ条約]]のドイツ軍備制限条項(あらゆる近代兵器の保有や徴兵制の導入、参謀本部の設置などを禁じる内容)の破棄を宣言した<ref name="芝(1995)35">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.35]]</ref><ref name="スティン(2001)45">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.45]]</ref><ref name="学研1,38">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.38]]</ref>。そして陸軍と海軍の増強、空軍の再建、徴兵制の導入を宣言した<ref name="スティン(2001)45"/><ref name="学研1,38"/>。また併せてSS師団の創設も宣言した<ref name="キーガン(1972)65">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.65]]</ref><ref name="スティン(2001)45">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.45]]</ref>。しかしSSの師団編成には軍の反発が根強かったため、結局1939年の開戦後までSS師団は編成されなかった<ref name="スティン(2001)45">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.45]]</ref>。 |
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国防軍上層部の不信感を排除するために、ヒトラーは1938年8月17日に「親衛隊と国防軍の共通する役割の境界線に関する秘密指令」において下記のように述べている。『親衛隊特務部隊は国防軍の一部でもなく、また警察の一部でもない。この武装部隊は私だけが自由に意のままに命令・出動させることができるものである。戦時においては陸軍の隷下に入り、平時の騒乱については私の指示の下に置かれる。・・・。』 |
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=== 運営と拡大 === |
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同年8月19日、ヒトラーは国防軍最高司令部への命令で下記のように指示した。『親衛隊特務部隊の兵力を即日に国防軍最高司令部の隷下におき、私の指示の下に陸軍総司令官がその出動を決定する。』 |
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[[File:Bundesarchiv Bild 146-1973-122-16, Paul Hausser.jpg|thumb|200px|1943年の[[パウル・ハウサー]]。]] |
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特務部隊の編成と訓練は国軍の協力を持って進められた。1934年10月にはバイエルン州[[バート・テルツ]]([[:de:Bad Tölz|de]]){{仮リンク|親衛隊士官学校|en|SS-Junker Schools}}が創設された。続いて翌年初めに[[ブラウンシュヴァイク]]にもSS士官学校が開設された<ref name="芝(1995)31">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.31]]</ref>。かつて陸軍中将だった[[パウル・ハウサー]]をSSに招き、これらの士官学校の校長に就任してもらい、訓練を任せた<ref name="キーガン(1972)67">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.67]]</ref>。ヒムラーは士官学校の入学者として人種的・肉体的・政治的要求を多く突き付けたが、知的・学歴的な要求は一切しなかった。結果、1938年以前のSS士官学校は最終学歴が小学校の者が40%を占めている<ref name="キーガン(1972)67">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.67]]</ref><ref name="スティン(2001)50">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.50]]</ref>。また農民家庭の出身者が多く、陸軍の将校は軍人家庭の出身者が50%以上を占めていたが、特務部隊の将校は軍人家庭出身者は5%程度しかおらず、90%以上が農民家庭出身者であった<ref name="広田(2010)105">[[#広田(2010)|広田(2010)、p.105]]</ref>。 |
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1936年4月1日には特務部隊と髑髏部隊はそろって国家機関として認められ、内務省の警察予算から経費を受けるようになった<ref name="スティン(2001)46">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.46]]</ref>。 |
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同年10月10日、親衛隊特務部隊は[[SS特務師団]]として[[ズデーテンラント]]占領に出動した。1939 |
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年9月には兵力は25,000名に達した。 |
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1936年10月1日には[[親衛隊本部|SS本部]]の下にSS特務部隊総監部(Inspektorat der SS-Verfügungstruppe)が設置され、ハウサーが特務部隊総監に就任した<ref name="スティン(2001)46">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.46]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)431">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.431]]</ref><ref name="山下(2010)163">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.163]]</ref>。SS特務部隊はミュンヘンに駐留する「ドイッチュラント」連隊とハンブルクに駐留する「ゲルマニア」連隊の二個連隊から構成された<ref name="スティン(2001)47">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.47]]</ref><ref name="学研1,38">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.38]]</ref>。さらに1938年の[[オーストリア併合]]後には[[ウィーン]]や[[クラーゲンフルト]]に駐留するSS特務部隊として第3SS連隊「デア・フューラー 」(SS-Standarte 3 "Der Führer")が創設された<ref name="ヘーネ(1981)431"/><ref name="キーガン(1972)70">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.70]]</ref><ref name="スティン(2001)58">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.58]]</ref>。しかしハウサーが特務部隊の指揮権を握るにはかなり苦労があったという。まず[[親衛隊地区|SS地区]](政治予備隊はここに属していた)との間にも指揮権の争いが生じた<ref name="ヘーネ(1981)431">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.431]]</ref>。またライプシュタンダルテも特務部隊総監部の指揮下に入れられたが、指揮官のディートリヒはなかなかハウサーの指揮に服そうとしなかった<ref name="学研1,38">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.38]]</ref><ref name="広田(2010)92">[[#広田(2010)|広田(2010)、p.92]]</ref><ref>[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.431-432]]</ref>。 |
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戦前期のSS特務部隊への入隊は、一般SSより厳しく選抜が行われた。たとえば入隊条件として178センチ以上(ライプシュタンダルテは180センチ)以上の身長を要求していた<ref name="スティン(2001)47">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.47]]</ref>。年齢上限23歳、「純粋[[北方人種]]」であるか「圧倒的に北方人種かファーレン人種」であることを要求した<ref name="芝(1995)41">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.41]]</ref>。ヒムラーはのちに「1936年までは[[虫歯]]が一本でもある者はSS特務部隊もライプシュタンダルテも採用を拒否していた。初期の武装SSは最良の男たちを集めることができた」と豪語している<ref name="スティン(2001)47">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.47]]</ref>。 |
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入隊後には厳しい訓練が行われた。特務部隊では[[陸上競技]]、[[ボクシング]]、[[ボート]]などのスポーツ身体訓練がトレーニング計画の一部になっていた(陸軍では勤務後のレクリエーション扱いだった)。こうした訓練を特務部隊では将校・下士官・兵士問わず実施したため、将校・下士官・兵士の間に信頼関係が育ち、陸軍よりも強い仲間意識で結ばれていた<ref name="スティン(2001)50">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.50]]</ref>。たとえば[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]]では部下が上官の大佐に呼びかける時には「大佐殿(Herr Oberst)!」と呼びかけねばならないところ、特務部隊では「大佐(Standartenführer)!」と敬称を付けずに呼び捨てることが許されていた<ref name="山下167">[[#山下|山下、p.167]]</ref>。また戦前期の特務部隊は小規模な部隊だったため、陸軍歩兵部隊よりも高い水準の訓練を受けることができた。1939年には特務部隊は[[イギリス軍]]の[[ブリティッシュ・コマンドス|コマンド部隊]]、[[アメリカ軍]]の[[第75レンジャー連隊 (アメリカ軍)|レンジャー部隊]]に匹敵する訓練を受けていたという<ref name="スティン(2001)51">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.51]]</ref>。[[実弾]]訓練や砲兵の[[弾幕]]射撃まで実施された<ref name="スティン(2001)52">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.52]]</ref>。その結果、訓練で死傷者が出るようになった。「ドイツの優秀な若者を無駄に消耗させるのは止めよ」という批判に対して、ヒムラーは同意しつつ「平時に流れた血の一滴は戦時に流れる血の海を救う」などと反論していた<ref name="スティン(2001)52">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.52]]</ref>。 |
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特務部隊の隊員数は1939年8月19日までに1万8000人に達した<ref name="クノップ(2003)285">[[#クノップ(2003)|クノップ(2003)、p.285]]</ref>。 |
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=== 国防軍との対立 === |
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はじめ国防軍はSSを「アスファルト兵士」と呼んで馬鹿にしていたが、次第に看過できなくなり、SSを敵視して圧力をかけてくるようになった<ref name="スティン(2001)45">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.45]]</ref>。特に陸軍総司令官[[ヴェルナー・フォン・フリッチュ]]上級大将がSS特務部隊の勢力拡大について頻繁にヒトラーに抗議をしていた<ref name="広田(2010)105">[[#広田(2010)|広田(2010)、p.105]]</ref>。国防軍は特務部隊については国防軍兵役免除相当と認めていたが、SS髑髏部隊とSS士官学校については兵役免除相当とする事を拒否し続けた<ref name="芝(1995)35">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.35]]</ref>。マスコミを通じての特務部隊の隊員募集も、国防軍から禁止されていた<ref name="芝(1995)39">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.39]]</ref>。1937年10月には国防軍の圧力でSS国境警備隊も解散させられた<ref name="芝(1995)35">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.35]]</ref>。SS師団の創設という約束も、毎年先延ばしにされていた<ref name="スティン(2001)56">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.56]]</ref>。 |
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しかし1938年2月4日、国防相ブロンベルク元帥と陸軍総司令官フリッチュ上級大将はSSや空軍総司令官ゲーリング上級大将の策動でスキャンダルを理由に解任された([[ブロンベルク罷免事件|ブロンベルク=フリッチュ解任事件]])<ref name="芝(1995)37">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.37]]</ref><ref name="スティン(2001)57">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.57]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)242">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.242]]</ref>。ヒトラー自らが国防相を兼務し、国防省は[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|国防軍最高司令部]](OKW)に改組され、その長官にはヒトラーの「[[イエスマン]]」[[ヴィルヘルム・カイテル]]砲兵大将が就任し、また陸軍総司令官には同じくヒトラーに恭順的な[[ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ]]砲兵大将が就任した<ref name="スティン(2001)57">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.57]]</ref>。さらに粛清人事が行われ、ナチ党に非協力的だった16人の将軍たちが強制退役させられた<ref name="スティン(2001)57">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.57]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)245">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.245]]</ref>。 |
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とはいえ国防軍を掌握したヒトラーがSSに肩入れするようになったわけでもなく、引き続き国防軍とSSの対立は続いた<ref name="ヘーネ(1981)251">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.251]]</ref>。ヒトラーに従順なカイテルでさえ、SSによる軍事介入の阻止が自分の任務と心得ていた<ref name="ヘーネ(1981)251"/>。 |
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=== 1938年8月17日の総統布告 === |
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国防軍からの統制要求もあって、ヒトラーは1938年8月17日に秘密総統布告を出した。これはSS特務部隊と国防軍の役割の区分を図るとともにSS特務部隊を恒久的戦力として認めるものであった<ref name="キーガン(1972)70">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.70]]</ref><ref name="スティン(2001)58">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.58]]</ref>。 |
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この中でヒトラーは特務部隊について「国防軍の一部でも警察の一部でもなく、私の意のままに動く独立した武装部隊である」と定義した<ref name="スティン(2001)59">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.59]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)436">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.436]]</ref>。また「SSは基本的に政治組織であって武装はしないが、SS特務部隊、SS士官学校、SS髑髏部隊は内政に特別な任務を負っており、また戦時には陸軍の指揮下に戦時動員されるので武装・訓練・編成を施す必要がある」とした<ref name="キーガン(1972)70"/><ref name="スティン(2001)59"/>。これにより、これまで軍事組織と認められていなかったSS士官学校とSS髑髏部隊も軍事組織として認められることとなった<ref name="芝(1995)54">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.54]]</ref>。 |
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またSS特務部隊は常備部隊でありながら[[予備部隊]]を持っていなかったが、これについても「戦時にはSS髑髏部隊の特定の部隊をイデオロギーに適合する予備部隊としてSS特務部隊へ移籍させる」と定められた<ref name="スティン(2001)62">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.62]]</ref>。 |
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特務部隊の指揮権については、戦時の戦場への出動の場合は陸軍に、平時の治安出動の場合は親衛隊全国指導者兼ドイツ警察長官(ヒムラー)にあるとされた<ref name="学研1,39">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.39]]</ref>。平時には国防軍とSS特務部隊に組織上の繋がりはないとされ、これまで軍と揉めてきた特務部隊の人員確保の問題について裁可権はヒトラーにある事が確認された<ref name="芝(1995)54">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.54]]</ref><ref>[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.59-61]]</ref>。 |
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=== 第二次大戦前の外征 === |
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1936年3月の[[ラインラント進駐]]にライプシュタンダルテが国防軍に従軍している<ref name="学研1,38"/><ref name="芝(1995)58">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.58]]</ref><ref name="スティン(2001)65">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.65]]</ref>。1938年3月11日のオーストリア進駐([[オーストリア併合]])にもライプシュタンダルテの一個自動車大隊が陸軍第16軍隷下で従軍した<ref name="スティン(2001)58">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.58]]</ref><ref name="学研1,38"/>。 |
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1938年10月のズデーテン進駐([[ズデーテン併合]])にはライプシュタンダルテのみならず「ドイッチュラント」連隊と「ゲルマニア」連隊、また髑髏部隊の「オーバーバイエルン」連隊も従軍した<ref name="スティン(2001)64">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.64]]</ref><ref name="学研1,39">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.39]]</ref>。このズデーテン進駐の際の教訓からSS特務部隊の自動車化が急速にすすめられ、1939年3月の[[ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体|チェコスロバキア併合]]の際にはSS特務部隊の4個連隊が従軍したが、陸軍の機械化師団に遅れることなく[[プラハ]]に進駐できた<ref name="学研1,39"/>。 |
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=== 対ポーランド戦 === |
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1939年5月には特務部隊の「ドイッチュラント」連隊がミュンスター陸軍演習場で突撃演習を行った。ヒトラーや国防軍将軍たちを驚嘆させるほどのものであったという<ref name="学研1,39"/><ref name="芝(1995)58">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.58]]</ref><ref name="スティン(2001)65">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.65]]</ref>。この演習の結果、ヒトラーはSS特務部隊の師団編成を認めた<ref name="芝(1995)58"/><ref name="スティン(2001)64">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.64]]</ref>。これを受けて急遽SS砲兵連隊が編成されたが<ref name="学研1,39"/>、1939年9月1日からはじまる[[ポーランド侵攻|対ポーランド戦]]までには師団編成は間に合わなかった<ref name="学研1,40">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.40]]</ref>。 |
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対ポーランド戦直前の1939年8月10日、SS「ドイッチュラント」連隊とSS砲兵連隊は、陸軍戦車部隊とともに[[装甲師団「ケンプフ」]]([[:de:Panzer-Division Kempf|de]])(師団長[[ウェルナー・ケンプフ|ヴェルナー・ケンプフ]]少将)を編成することとなった<ref name="学研1,40"/><ref name="スティン(2001)69">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.69]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)440">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.440]]</ref>。同師団の主力となる戦車部隊は陸軍第7装甲連隊でもって編成されたが、歩兵部隊はSS「ドイッチュラント」連隊で編成され、また砲兵部隊はSS砲兵連隊をもって編成された<ref name="学研1,41">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.41]]</ref>。同師団は[[北方軍集団]](司令官[[フェードア・フォン・ボック]]上級大将)隷下の[[第3軍 (ドイツ軍)|第3軍]](司令官[[ゲオルク・フォン・キュヒラー]]大将)隷下の[[第1軍団 (ドイツ軍)|第1軍団]]([[:de:I Army Corps (Germany)|de]])(軍団長[[ヴァルター・ペトツェル]]中将)の隷下に組み入れられ<ref name="広田(2010)108">[[#広田(2010)|広田(2010)、p.108]]</ref>、ポーランド北方の[[東プロイセン]]南部に配置された<ref name="学研1,41"/>。同師団は第1軍団唯一の装甲師団であった<ref name="学研1,41"/>。 |
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同師団は1939年9月1日の開戦と同時に東プロイセンから南進を開始し、[[ムワヴァの戦い]]([[:de:Schlacht von Mława|de]])や[[ルジャンの戦い]]([[:en:Battle of Różan|en]])に参加し、大きな損害を出しながらも同地のポーランド軍を撤退させた<ref>[[#学研1|『武装SS全史I』、p.42-43]]</ref>。続いて[[ブーフ川]]を渡河して南下し、首都[[ワルシャワ]]を防衛せんと向かうポーランド予備軍の進路を断つことに貢献した<ref name="学研1,43"/>。その後、9月27日のポーランド降伏まで[[モドリンの戦い]]([[:de:Schlacht um Modlin|de]])に参戦した<ref name="学研1,43"/>。 |
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一方ライプシュタンダルテは[[南方軍集団]]([[ゲルト・フォン・ルントシュテット]]上級大将)隷下の[[第8軍 (ドイツ軍)|第8軍]](司令官[[ヨハネス・ブラスコヴィッツ]]大将)の隷下の第13軍団隷下の連隊戦闘団として対ポーランド戦に参戦した<ref name="学研1,43"/>。第8軍は軍集団中央から進撃する第10軍の擁護のためにその左翼から進撃する軍であり、装甲部隊は無く、自動車化されたライプシュタンダルテが唯一の機動兵力であった<ref name="学研1,43">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.43]]</ref>。ライプシュタンダルテは9月1日に[[グラ (ポーランド)|グラ]]で初めて戦火の洗礼を受けた。その後第17師団の隷下に加えられ、ウッチ占領に貢献した<ref name="学研1,44">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.44]]</ref>。さらにその後第4装甲師団に転属となり、[[ブズラの戦い]]([[:de:Schlacht an der Bzura|de]])で活躍しポーランド回廊から撤退してくる[[ポーランド軍]]がワルシャワに向かうのを防いだ<ref name="学研1,44"/>。その後ライプシュタンダルテは9月21日からモドリン要塞の攻撃に参加。ポーランド降伏まで戦った<ref name="学研1,44"/>。 |
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「ゲルマニア」連隊は南方軍集団隷下の[[第14軍 (ドイツ軍)|第14軍]](司令官[[ヴィルヘルム・リスト]]大将)隷下で参戦した<ref name="広田(2010)108">[[#広田(2010)|広田(2010)、p.108]]</ref>。チェコスロバキアから国境を超えて進軍し、ポーランドの工業地帯や[[レンベルク]]を攻撃した<ref name="広田(2010)320">[[#広田(2010)|広田(2010)、p.320]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)440">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.440]]</ref>。 |
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「デア・フューラー」連隊は未だ訓練が終了していない状態だったので対ポーランド戦には参戦しなかった<ref name="芝(1995)59">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.59]]</ref>。 |
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SS特務部隊は対ポーランド戦において大きな戦果をあげたとは言えないが<ref name="キーガン(1972)73">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.73]]</ref><ref name="芝(1995)59">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.59]]</ref>、その割に損害は甚大であった<ref name="キーガン(1972)73">[[#キーガン(1972)|キーガン(1972)、p.73]]</ref><ref>[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.440-441]]</ref>。これについて陸軍からは「SS特務部隊は陸軍の師団の一員となれるほど訓練を受けていない。特務部隊将校は軍事教養がほとんどなく指揮官として無能に近い」と指摘された<ref name="芝(1995)60">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.60]]</ref><ref name="スティン(2001)69">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.69]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)441">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.441]]</ref>。一方SS側は「面識もない陸軍軍人の指揮下に置かれ、しばしば陸軍はまともな重火器支援もせず、食料も渡さずにSS特務部隊に困難な任務を押し付けた。解決方法は一つだけであり、それはSS特務部隊に師団編成を認め、重火器も食料もSSで自給できるようにすることである」と反論している<ref>[[#芝(1995)|芝(1995)、p.60-61]]</ref><ref name="スティン(2001)69">[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.69]]</ref><ref name="ヘーネ(1981)441">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.441]]</ref>。 |
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=== SS特務師団創設 === |
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ポーランド戦後、SS特務部隊は師団編成のためにただちにドイツへ帰還した。1939年10月10日にライプシュタンダルテを除くSS特務部隊は師団として編成され、ここにSS特務師団が誕生した。パウル・ハウサーが師団長に就任した<ref name="学研1,45">[[#学研1|『武装SS全史I』、p.45]]</ref>。 |
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この頃、ポーランド戦においてSS砲兵連隊の隊員が[[ユダヤ人]]を無法に銃殺したとして陸軍はこのSS隊員を軍規違反で軍法会議にかけた。ヒムラーはこれに激怒し、軍からSS隊員の裁判権を奪ってほしいとヒトラーに要請するようになった。ヒトラーはこれを許可し、1939年10月17日に国防閣僚会議布告としてSS特務部隊員の裁判権はSS全国指導者の助言に基づいて総統が任命した裁判官から成るSS特別裁判所にあると定め、国防軍の裁判権からSS特務部隊を解放した。なおも特務部隊には国防軍の軍規に従う事が義務付けられてはいたが、もはや軍の軍法会議で裁かれることは無くなった<ref>[[#スティン(2001)|スティン(2001)、p.71-72]]</ref>。 |
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=== 武装SSに改組 === |
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ポーランド戦後、特務部隊の特務師団とは別に[[親衛隊髑髏部隊|髑髏部隊]]から髑髏師団、さらに[[秩序警察]]から警察官が抽出されて警察師団が編成された<ref name="ヘーネ(1981)444">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.444]]</ref>。これらSS傘下の武装勢力を合わせて「武装SS」と呼ぶようになった(親衛隊の命令書に「武装SS」の語が初めて登場したのは1939年10月29日)<ref name="芝(1995)61">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.61]]</ref>。 |
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1939年11月末にヒムラーが公式に3個師団、14個髑髏連隊、2SS士官学校から成る武装SSの発足を宣言した<ref name="芝(1995)61">[[#芝(1995)|芝(1995)、p.61]]</ref>。1940年3月8日には[[国防軍最高司令部 (ドイツ)|国防軍最高司令部(OKW)]]も武装SSを承認した<ref name="ヘーネ(1981)445">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.445]]</ref>。 |
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1940年6月にはSS特務部隊総監府は武装SS司令部(Kommandoamt-Waffen SS)と名称を変え、[[親衛隊本部|SS本部]]からの独立が許可された<ref name="山下(2010)159">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.159]]</ref>。さらに1940年8月15日には武装SS司令部とSS本部の兵員補充以外の部門が統合されて[[親衛隊作戦本部|SS作戦本部]]が創設された<ref name="ヘーネ(1981)446">[[#ヘーネ(1981)|ヘーネ(1981)、p.446]]</ref><ref name="山下(2010)159">[[#山下(2010)|山下(2010)、p.159]]</ref>。 |
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以降の歴史については[[武装親衛隊]]の項目を参照のこと。 |
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== 編制 == |
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|+'''親衛隊特務部隊の連隊(シュタンダルテ)''' |
|+'''親衛隊特務部隊の連隊(シュタンダルテ)'''(1938年時) |
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== 出典 == |
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== 親衛隊特務部隊から武装親衛隊へ == |
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1940年4月22日付親衛隊指揮本部指令 No.1481 が下記の通り親衛隊特務部隊の全部隊に通達された。『[[ハインリヒ・ヒムラー|親衛隊全国指導者]]の命令により親衛隊の武装部隊はすべて'''武装親衛隊'''として統合される。(・・・・)今後、親衛隊特務部隊 (SS-Verfügungstruppe) および親衛隊髑髏部隊 (SS-Totenkopfverbände) なる名称は使用してはならない。』 |
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{{Reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
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これをもって[[武装親衛隊]]が誕生することになった。 |
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*{{Cite book|和書|author=ジョン・キーガン|authorlink=ジョン・キーガン|translator=[[芳地昌三]]|year=1972|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>|publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局|series=第二次世界大戦ブックス35|asin=B000J9H4WO|ref=キーガン(1972)}} |
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**{{Cite book|和書|author=ジョン・キーガン著|translator=芳地昌三|year=1985|title=ナチ武装親衛隊 <small>ヒトラーの鉄血師団</small>(上記文庫版)|publisher=[[サンケイ出版]]|series=第二次世界大戦文庫24|isbn=978-4383024280|ref=キーガン(1985)}} |
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*{{Cite book|和書|author=グイド・クノップ|authorlink=グイド・クノップ|translator=高木玲|year=2003|title=ヒトラーの親衛隊|publisher=原書房|isbn=978-4562036776|ref=クノップ(2003)}} |
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*{{Cite book|和書|author=芝健介|authorlink=芝健介|year=1995|title=武装SS <small>ナチスもう一つの暴力装置</small>|publisher=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4062580397|ref=芝(1995)}} |
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*{{Cite book|和書|author=ジョージ・H・スティン(en)|authorlink=:en:George H. Stein|translator=[[吉本貴美子]]|others=[[吉本隆昭]]監修|year=2001|title=詳解 武装SS興亡史 <small>ヒトラーのエリート護衛部隊の実像 1939‐45</small>|publisher=[[Gakken|学研]]|series=WW selection|isbn=978-4054013186|ref=スティン(2001)}} |
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*{{Cite book|和書|author=広田厚司|authorlink=広田厚司|year=2010|title=武装親衛隊 <small>ドイツ軍の異色兵力を徹底研究</small>|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4769826569|ref=広田(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|author=D.S.V.フォステン, R.J.マリオン|translator=[[芳地昌三]]|year=1972|title=武装親衛隊ミリタリー・ルック <small>制服・制帽・装備から階級章まで</small>|publisher=[[サンケイ新聞社]]出版局|series=第二次世界大戦ブックス別巻2|asin=B000J9KHD2|ref=フォステン(1972)}} |
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*{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ|authorlink=ハインツ・ヘーネ|translator=[[森亮一]]|year=1981|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small>|publisher=[[フジ出版社]]|isbn=978-4892260506|ref=ヘーネ(1981)}} |
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**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 上|publisher=[[講談社学術文庫]]|isbn=978-4061594937|ref=ヘーネ(2001)上}} |
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**{{Cite book|和書|author=ハインツ・ヘーネ著|translator=森亮一|year=2001|title=SSの歴史 <small>髑髏の結社</small> 下|publisher=講談社学術文庫|isbn=978-4061594944|ref=ヘーネ(2001)下}} |
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*{{Cite book|和書|author=山下英一郎|authorlink=山下英一郎|year=2010|title=制服の帝国 <small>ナチスSSの組織と軍装</small>|publisher=彩流社|isbn=978-4779114977|ref=山下(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|author=ロビン・ラムスデン|authorlink=ロビン・ラムスデン|translator=[[知野龍太]]|year=1997|title=ナチス親衛隊軍装ハンドブック|publisher=[[原書房]]|isbn=978-4562029297|ref=ラムスデン(1997)}} |
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*{{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史I|series=欧州戦史シリーズVol.17|publisher=[[Gakken|学研]]|isbn=978-4056026429|ref=学研1}} |
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*{{Cite book|和書|year=2001|title=武装SS全史II|publisher=学研|series=欧州戦史シリーズVol.18|isbn=978-4056026436|ref=学研2}} |
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== 関連項目 == |
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* [[武装親衛隊]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://www.zweiter-weltkrieg-lexikon.de/phpBB2/lexicon.php?letter=SS-Verf%FCgungstruppe%20(SS-VT) Der Weg der SS-Verfügungstruppe zur Waffen-SS](ドイツ語) |
* [http://www.zweiter-weltkrieg-lexikon.de/phpBB2/lexicon.php?letter=SS-Verf%FCgungstruppe%20(SS-VT) Der Weg der SS-Verfügungstruppe zur Waffen-SS](ドイツ語) |
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[[Category:ナチ親衛隊|*とくむふたい]] |
[[Category:ナチス親衛隊|*とくむふたい]] |
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[[Category:ドイツ武装親衛隊|*しんえいたいとくむふたい]] |
[[Category:ドイツ武装親衛隊|*しんえいたいとくむふたい]] |
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[[de:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[en:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[es:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[fi:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[fr:Verfügungstruppe]] |
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[[hr:SS Verfügungstruppe]] |
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[[ko:SS전투부대]] |
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[[lt:SS pavaldumo daliniai]] |
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[[nl:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[no:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[pl:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[pt:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[simple:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[sv:SS-Verfügungstruppe]] |
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[[tr:SS-Verfügungstruppe]] |
2024年12月4日 (水) 11:07時点における最新版
親衛隊特務部隊(しんえいたいとくむぶたい、独:SS-Verfügungstruppe, 略号:SS-VT)は、ドイツの政党国民社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)の組織親衛隊(以下SS)が保有していた軍事組織。武装親衛隊(以下武装SS)の前身となった組織である。ドイツ語の「Verfügung」には「自由使用」といった意味があり、この部隊名には総統アドルフ・ヒトラーや親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが自由に使用できる部隊という意味が込められていた[1]。
沿革
[編集]前身
[編集]1933年1月30日のナチ党の政権掌握後に、武装SSの前身となる武装化されたSS部隊が出現するようになった。1つ目はアドルフ・ヒトラーの警護部隊である「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(Leibstandarte SS Adolf Hitler、略称LSSAH)」。2つ目は「SS政治予備隊(SS-Politische Bereitschaft)」。3つ目は強制収容所(KZ)の警備を行う「SS髑髏部隊(SS-Totenkopfverbände、略称SS-TV)」である[2]。
このうち、SS政治予備隊とライプシュタンダルテがSS特務部隊の前身であった[3]。特に政治予備隊が直接の前身である[4][5]。髑髏部隊はテオドール・アイケの下にSS特務部隊とは別の発展を遂げたSS武装部隊であり、戦時中になってようやく武装SSとして特務部隊と合同することとなった。
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、総統アドルフ・ヒトラーのイニシアチブで創設された最初の武装化されたSS部隊ライプシュタンダルテに触発され、1933年春にハンブルク、ドレスデン、ミュンヘン、エルヴァンゲン(de)、アロルゼン(de)などに政治予備隊を創設した[6][2][7][8]。政治予備隊は左翼の内乱準備を粉砕するという名目で組織され、補助警察(プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングが突撃隊(以下SA)や親衛隊から組織させた警察)の特別コマンドとして武装化が正当化され、一般の警察より強力な火力を持ち、またかなり自動車化されていた[6][5]。政治予備隊はまもなく全ドイツに配置されるようになった[9]。
1934年6月初頭の長いナイフの夜事件において国軍と対立していたSA幹部は粛清された。この粛清を主導したのはSSであり、政治予備隊、ライプシュタンダルテ、髑髏部隊といったSSの武装部隊は粛清の実行部隊として活動した[10][11][5][12]。
創設
[編集]SSのこの「功績」により、1934年7月26日にヒトラーはSSをSAから正式に独立させた[13]。1934年8月1日にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が死去し、全ドイツ軍はただちにヒトラーに忠誠宣誓を行った[14]。これによりSSも国軍も同じ人物に忠誠を誓うことになったのだが、ヒトラーは軍部を信じていなかったので、SSの軍隊化を急いだ[15]。
ヒトラーは「国軍こそがドイツ唯一の武装の担い手であり、SSの武装化は例外に過ぎない」ことを強調しつつ、SSの武装化を国軍に認めさせようとした[16]。これを受けて国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク上級大将は9月24日に3個歩兵連隊、1個通信大隊からなるSS特務部隊(SS-VT)の設置を認めた[17][18][19]。
そしてヒムラーは政治予備隊とライプシュタンダルテを統合し、SS特務部隊を創設した[3]。特務部隊への勤務は兵役に同等と定められた[16]。すなわち特務部隊隊員には給与支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)の所持が認められ、兵員給料や軍人恩給の対象となった[16]。なおこれ以降、特務部隊以外のSS隊員は一般SS(Allgemeine SS)と呼ばれるようになった[20]。
1935年3月16日にヒトラーは国会においてヴェルサイユ条約のドイツ軍備制限条項(あらゆる近代兵器の保有や徴兵制の導入、参謀本部の設置などを禁じる内容)の破棄を宣言した[21][22][23]。そして陸軍と海軍の増強、空軍の再建、徴兵制の導入を宣言した[22][23]。また併せてSS師団の創設も宣言した[15][22]。しかしSSの師団編成には軍の反発が根強かったため、結局1939年の開戦後までSS師団は編成されなかった[22]。
運営と拡大
[編集]特務部隊の編成と訓練は国軍の協力を持って進められた。1934年10月にはバイエルン州バート・テルツ(de)親衛隊士官学校が創設された。続いて翌年初めにブラウンシュヴァイクにもSS士官学校が開設された[24]。かつて陸軍中将だったパウル・ハウサーをSSに招き、これらの士官学校の校長に就任してもらい、訓練を任せた[25]。ヒムラーは士官学校の入学者として人種的・肉体的・政治的要求を多く突き付けたが、知的・学歴的な要求は一切しなかった。結果、1938年以前のSS士官学校は最終学歴が小学校の者が40%を占めている[25][26]。また農民家庭の出身者が多く、陸軍の将校は軍人家庭の出身者が50%以上を占めていたが、特務部隊の将校は軍人家庭出身者は5%程度しかおらず、90%以上が農民家庭出身者であった[27]。
1936年4月1日には特務部隊と髑髏部隊はそろって国家機関として認められ、内務省の警察予算から経費を受けるようになった[28]。
1936年10月1日にはSS本部の下にSS特務部隊総監部(Inspektorat der SS-Verfügungstruppe)が設置され、ハウサーが特務部隊総監に就任した[28][29][5]。SS特務部隊はミュンヘンに駐留する「ドイッチュラント」連隊とハンブルクに駐留する「ゲルマニア」連隊の二個連隊から構成された[30][23]。さらに1938年のオーストリア併合後にはウィーンやクラーゲンフルトに駐留するSS特務部隊として第3SS連隊「デア・フューラー 」(SS-Standarte 3 "Der Führer")が創設された[29][31][32]。しかしハウサーが特務部隊の指揮権を握るにはかなり苦労があったという。まずSS地区(政治予備隊はここに属していた)との間にも指揮権の争いが生じた[29]。またライプシュタンダルテも特務部隊総監部の指揮下に入れられたが、指揮官のディートリヒはなかなかハウサーの指揮に服そうとしなかった[23][33][34]。
戦前期のSS特務部隊への入隊は、一般SSより厳しく選抜が行われた。たとえば入隊条件として178センチ以上(ライプシュタンダルテは180センチ)以上の身長を要求していた[30]。年齢上限23歳、「純粋北方人種」であるか「圧倒的に北方人種かファーレン人種」であることを要求した[35]。ヒムラーはのちに「1936年までは虫歯が一本でもある者はSS特務部隊もライプシュタンダルテも採用を拒否していた。初期の武装SSは最良の男たちを集めることができた」と豪語している[30]。
入隊後には厳しい訓練が行われた。特務部隊では陸上競技、ボクシング、ボートなどのスポーツ身体訓練がトレーニング計画の一部になっていた(陸軍では勤務後のレクリエーション扱いだった)。こうした訓練を特務部隊では将校・下士官・兵士問わず実施したため、将校・下士官・兵士の間に信頼関係が育ち、陸軍よりも強い仲間意識で結ばれていた[26]。たとえばドイツ陸軍では部下が上官の大佐に呼びかける時には「大佐殿(Herr Oberst)!」と呼びかけねばならないところ、特務部隊では「大佐(Standartenführer)!」と敬称を付けずに呼び捨てることが許されていた[36]。また戦前期の特務部隊は小規模な部隊だったため、陸軍歩兵部隊よりも高い水準の訓練を受けることができた。1939年には特務部隊はイギリス軍のコマンド部隊、アメリカ軍のレンジャー部隊に匹敵する訓練を受けていたという[37]。実弾訓練や砲兵の弾幕射撃まで実施された[38]。その結果、訓練で死傷者が出るようになった。「ドイツの優秀な若者を無駄に消耗させるのは止めよ」という批判に対して、ヒムラーは同意しつつ「平時に流れた血の一滴は戦時に流れる血の海を救う」などと反論していた[38]。
特務部隊の隊員数は1939年8月19日までに1万8000人に達した[39]。
国防軍との対立
[編集]はじめ国防軍はSSを「アスファルト兵士」と呼んで馬鹿にしていたが、次第に看過できなくなり、SSを敵視して圧力をかけてくるようになった[22]。特に陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将がSS特務部隊の勢力拡大について頻繁にヒトラーに抗議をしていた[27]。国防軍は特務部隊については国防軍兵役免除相当と認めていたが、SS髑髏部隊とSS士官学校については兵役免除相当とする事を拒否し続けた[21]。マスコミを通じての特務部隊の隊員募集も、国防軍から禁止されていた[40]。1937年10月には国防軍の圧力でSS国境警備隊も解散させられた[21]。SS師団の創設という約束も、毎年先延ばしにされていた[41]。
しかし1938年2月4日、国防相ブロンベルク元帥と陸軍総司令官フリッチュ上級大将はSSや空軍総司令官ゲーリング上級大将の策動でスキャンダルを理由に解任された(ブロンベルク=フリッチュ解任事件)[42][43][44]。ヒトラー自らが国防相を兼務し、国防省は国防軍最高司令部(OKW)に改組され、その長官にはヒトラーの「イエスマン」ヴィルヘルム・カイテル砲兵大将が就任し、また陸軍総司令官には同じくヒトラーに恭順的なヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ砲兵大将が就任した[43]。さらに粛清人事が行われ、ナチ党に非協力的だった16人の将軍たちが強制退役させられた[43][45]。
とはいえ国防軍を掌握したヒトラーがSSに肩入れするようになったわけでもなく、引き続き国防軍とSSの対立は続いた[46]。ヒトラーに従順なカイテルでさえ、SSによる軍事介入の阻止が自分の任務と心得ていた[46]。
1938年8月17日の総統布告
[編集]国防軍からの統制要求もあって、ヒトラーは1938年8月17日に秘密総統布告を出した。これはSS特務部隊と国防軍の役割の区分を図るとともにSS特務部隊を恒久的戦力として認めるものであった[31][32]。
この中でヒトラーは特務部隊について「国防軍の一部でも警察の一部でもなく、私の意のままに動く独立した武装部隊である」と定義した[47][48]。また「SSは基本的に政治組織であって武装はしないが、SS特務部隊、SS士官学校、SS髑髏部隊は内政に特別な任務を負っており、また戦時には陸軍の指揮下に戦時動員されるので武装・訓練・編成を施す必要がある」とした[31][47]。これにより、これまで軍事組織と認められていなかったSS士官学校とSS髑髏部隊も軍事組織として認められることとなった[49]。
またSS特務部隊は常備部隊でありながら予備部隊を持っていなかったが、これについても「戦時にはSS髑髏部隊の特定の部隊をイデオロギーに適合する予備部隊としてSS特務部隊へ移籍させる」と定められた[50]。
特務部隊の指揮権については、戦時の戦場への出動の場合は陸軍に、平時の治安出動の場合は親衛隊全国指導者兼ドイツ警察長官(ヒムラー)にあるとされた[51]。平時には国防軍とSS特務部隊に組織上の繋がりはないとされ、これまで軍と揉めてきた特務部隊の人員確保の問題について裁可権はヒトラーにある事が確認された[49][52]。
第二次大戦前の外征
[編集]1936年3月のラインラント進駐にライプシュタンダルテが国防軍に従軍している[23][53][54]。1938年3月11日のオーストリア進駐(オーストリア併合)にもライプシュタンダルテの一個自動車大隊が陸軍第16軍隷下で従軍した[32][23]。
1938年10月のズデーテン進駐(ズデーテン併合)にはライプシュタンダルテのみならず「ドイッチュラント」連隊と「ゲルマニア」連隊、また髑髏部隊の「オーバーバイエルン」連隊も従軍した[55][51]。このズデーテン進駐の際の教訓からSS特務部隊の自動車化が急速にすすめられ、1939年3月のチェコスロバキア併合の際にはSS特務部隊の4個連隊が従軍したが、陸軍の機械化師団に遅れることなくプラハに進駐できた[51]。
対ポーランド戦
[編集]1939年5月には特務部隊の「ドイッチュラント」連隊がミュンスター陸軍演習場で突撃演習を行った。ヒトラーや国防軍将軍たちを驚嘆させるほどのものであったという[51][53][54]。この演習の結果、ヒトラーはSS特務部隊の師団編成を認めた[53][55]。これを受けて急遽SS砲兵連隊が編成されたが[51]、1939年9月1日からはじまる対ポーランド戦までには師団編成は間に合わなかった[56]。
対ポーランド戦直前の1939年8月10日、SS「ドイッチュラント」連隊とSS砲兵連隊は、陸軍戦車部隊とともに装甲師団「ケンプフ」(de)(師団長ヴェルナー・ケンプフ少将)を編成することとなった[56][57][58]。同師団の主力となる戦車部隊は陸軍第7装甲連隊でもって編成されたが、歩兵部隊はSS「ドイッチュラント」連隊で編成され、また砲兵部隊はSS砲兵連隊をもって編成された[59]。同師団は北方軍集団(司令官フェードア・フォン・ボック上級大将)隷下の第3軍(司令官ゲオルク・フォン・キュヒラー大将)隷下の第1軍団(de)(軍団長ヴァルター・ペトツェル中将)の隷下に組み入れられ[60]、ポーランド北方の東プロイセン南部に配置された[59]。同師団は第1軍団唯一の装甲師団であった[59]。
同師団は1939年9月1日の開戦と同時に東プロイセンから南進を開始し、ムワヴァの戦い(de)やルジャンの戦い(en)に参加し、大きな損害を出しながらも同地のポーランド軍を撤退させた[61]。続いてブーフ川を渡河して南下し、首都ワルシャワを防衛せんと向かうポーランド予備軍の進路を断つことに貢献した[62]。その後、9月27日のポーランド降伏までモドリンの戦い(de)に参戦した[62]。
一方ライプシュタンダルテは南方軍集団(ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)隷下の第8軍(司令官ヨハネス・ブラスコヴィッツ大将)の隷下の第13軍団隷下の連隊戦闘団として対ポーランド戦に参戦した[62]。第8軍は軍集団中央から進撃する第10軍の擁護のためにその左翼から進撃する軍であり、装甲部隊は無く、自動車化されたライプシュタンダルテが唯一の機動兵力であった[62]。ライプシュタンダルテは9月1日にグラで初めて戦火の洗礼を受けた。その後第17師団の隷下に加えられ、ウッチ占領に貢献した[63]。さらにその後第4装甲師団に転属となり、ブズラの戦い(de)で活躍しポーランド回廊から撤退してくるポーランド軍がワルシャワに向かうのを防いだ[63]。その後ライプシュタンダルテは9月21日からモドリン要塞の攻撃に参加。ポーランド降伏まで戦った[63]。
「ゲルマニア」連隊は南方軍集団隷下の第14軍(司令官ヴィルヘルム・リスト大将)隷下で参戦した[60]。チェコスロバキアから国境を超えて進軍し、ポーランドの工業地帯やレンベルクを攻撃した[64][58]。
「デア・フューラー」連隊は未だ訓練が終了していない状態だったので対ポーランド戦には参戦しなかった[65]。
SS特務部隊は対ポーランド戦において大きな戦果をあげたとは言えないが[66][65]、その割に損害は甚大であった[66][67]。これについて陸軍からは「SS特務部隊は陸軍の師団の一員となれるほど訓練を受けていない。特務部隊将校は軍事教養がほとんどなく指揮官として無能に近い」と指摘された[68][57][69]。一方SS側は「面識もない陸軍軍人の指揮下に置かれ、しばしば陸軍はまともな重火器支援もせず、食料も渡さずにSS特務部隊に困難な任務を押し付けた。解決方法は一つだけであり、それはSS特務部隊に師団編成を認め、重火器も食料もSSで自給できるようにすることである」と反論している[70][57][69]。
SS特務師団創設
[編集]ポーランド戦後、SS特務部隊は師団編成のためにただちにドイツへ帰還した。1939年10月10日にライプシュタンダルテを除くSS特務部隊は師団として編成され、ここにSS特務師団が誕生した。パウル・ハウサーが師団長に就任した[71]。
この頃、ポーランド戦においてSS砲兵連隊の隊員がユダヤ人を無法に銃殺したとして陸軍はこのSS隊員を軍規違反で軍法会議にかけた。ヒムラーはこれに激怒し、軍からSS隊員の裁判権を奪ってほしいとヒトラーに要請するようになった。ヒトラーはこれを許可し、1939年10月17日に国防閣僚会議布告としてSS特務部隊員の裁判権はSS全国指導者の助言に基づいて総統が任命した裁判官から成るSS特別裁判所にあると定め、国防軍の裁判権からSS特務部隊を解放した。なおも特務部隊には国防軍の軍規に従う事が義務付けられてはいたが、もはや軍の軍法会議で裁かれることは無くなった[72]。
武装SSに改組
[編集]ポーランド戦後、特務部隊の特務師団とは別に髑髏部隊から髑髏師団、さらに秩序警察から警察官が抽出されて警察師団が編成された[73]。これらSS傘下の武装勢力を合わせて「武装SS」と呼ぶようになった(親衛隊の命令書に「武装SS」の語が初めて登場したのは1939年10月29日)[74]。
1939年11月末にヒムラーが公式に3個師団、14個髑髏連隊、2SS士官学校から成る武装SSの発足を宣言した[74]。1940年3月8日には国防軍最高司令部(OKW)も武装SSを承認した[75]。
1940年6月にはSS特務部隊総監府は武装SS司令部(Kommandoamt-Waffen SS)と名称を変え、SS本部からの独立が許可された[76]。さらに1940年8月15日には武装SS司令部とSS本部の兵員補充以外の部門が統合されてSS作戦本部が創設された[77][76]。
以降の歴史については武装親衛隊の項目を参照のこと。
編制
[編集]連隊名 | 所在地 | 国防軍徴兵事務所 | 備考 |
---|---|---|---|
Leibstandarte-SS "Adolf Hitler" | Berlin-Lichterfelde | 第1 | 第1軍管区(オストプロイセン)、第2軍管区(メクレンブルク)、第3軍管区(アルトマルク、ノイマルク、ブランデンブルク)、第4軍管区(ザクセン、オスト=テューリンゲン)、第8軍管区(シュレージエン、ズデーテンラント)に居住地のある入隊志願者。 身長が178 cm を超える応募者はいずれの軍管区からでも応募可能。 |
1. SS-Standarte "Deutschland" | München | 第3 | 第5軍管区(エルザス、バーデン、ヴュルテンベルク)、 第7軍管区(南バイエルン)、 第12軍管区(ラインラント南部、ロートリンゲン、プファルツ)に居住地のある志願者 |
2. SS-Standarte "Germania" | Hamburg-Veddel | 第2 | 第6軍管区(ヴェストファーレン)、第9軍管区(ヘッセン、ヴェスト=テューリンゲン)、第10軍管区(シュレスヴッヒ=ホルシュタイン、ハノファー北部)、第11軍管区(ブラウンシュヴァイク、アンハルト、ハノファー南部)に居住地のある志願者 |
3. SS-Standarte "Der Führer" | Wien | 第4 | オストマルク(オーストリア)に居住地のある志願者 |
出典
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参考文献
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- グイド・クノップ 著、高木玲 訳『ヒトラーの親衛隊』原書房、2003年。ISBN 978-4562036776。
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- ハインツ・ヘーネ 著、森亮一 訳『SSの歴史 髑髏の結社』フジ出版社、1981年。ISBN 978-4892260506。
- ハインツ・ヘーネ著 著、森亮一 訳『SSの歴史 髑髏の結社 上』講談社学術文庫、2001年。ISBN 978-4061594937。
- ハインツ・ヘーネ著 著、森亮一 訳『SSの歴史 髑髏の結社 下』講談社学術文庫、2001年。ISBN 978-4061594944。
- 山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装』彩流社、2010年。ISBN 978-4779114977。
- ロビン・ラムスデン 著、知野龍太 訳『ナチス親衛隊軍装ハンドブック』原書房、1997年。ISBN 978-4562029297。
- 『武装SS全史I』学研〈欧州戦史シリーズVol.17〉、2001年。ISBN 978-4056026429。
- 『武装SS全史II』学研〈欧州戦史シリーズVol.18〉、2001年。ISBN 978-4056026436。