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|人口=約50万人
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'''高麗人'''(こうらいじん、コリョイン、{{Lang|ko|고려인}}/{{Lang|ko|고려사람}})は、旧[[ソビエト連邦]]の領内に住み、現在は[[独立国家共同体]] (CIS) 諸国の[[国籍]]を持つ[[朝鮮民族]]の人々の自称名である。
'''高麗人'''(こうらいじん、コリョイン、{{Lang|ko|고려인}}/{{Lang|ko|고려사람}}、{{Lang|ru|Корё сарам}})は、[[ソビエト連邦]]崩壊後の[[独立国家共同体]](CIS)諸国の[[国籍]]を持つ[[朝鮮民族]]のこと。


[[高麗]]とは[[朝鮮半島]]に[[10世紀]]から[[14世紀]]まで存在した[[朝鮮半島]]の[[国家]]で、[[日本]]では[[江戸時代]]まで多くの場合「朝鮮人」ではなく「高麗人」と呼んでいた。「[[オタネニンジン|高麗人参]]」はその名残である。また、世界的にも「朝鮮半島=高麗」という認識があり、非[[漢字]]圏では朝鮮民族のことを[[英語]]ではコリアン (''Korean'') 、[[ロシア語]]ではカリェーエツ (''{{Lang|ru|кореец}}'') というように、朝鮮民族の呼称として“高麗人”にあたる語が広く用いられている。旧ソ連地域の高麗人は、その他称としての「高麗人」が自称に転化したものである。
[[高麗]]とは[[朝鮮半島]]に[[10世紀]]から[[14世紀]]まで存在した[[朝鮮半島]]の[[国家]]で、[[日本]]では[[江戸時代]]まで多くの場合「朝鮮人」ではなく「高麗人」と呼んでいた。「[[オタネニンジン|高麗人参]]」はその名残である。また、世界的にも「朝鮮半島=高麗」という認識があり、非[[漢字]]圏では朝鮮民族のことを[[英語]]ではコリアン (''Korean'') 、[[ロシア語]]ではカリェーエツ (''{{Lang|ru|кореец}}'') というように、朝鮮民族の呼称として“高麗人”にあたる語が広く用いられている。旧ソ連地域の高麗人は、その他称としての「高麗人」が自称に転化したものである。


現在の主な居住地は、[[ロシア]]をはじめとして[[ウズベキスタン]]、[[カザフスタン]]、[[タジキスタン]]、[[トルクメニスタン]]、[[キルギス]]、[[ウクライナ]]などである。約 50万名の高麗人が[[中央アジア]]を中心に居住しており、ロシア南部の[[ヴォルゴグラード]]近郊や[[カフカース]]、ウクライナ南部にも高麗人コミュニティが形成されている。これらのコミュニティは、19世紀後半まで[[朝鮮]]と境を接した[[沿海州]](現在の[[沿海地方]])に居住していたが、[[1930年代]]後半~[[第二次世界大戦]]中にかけて中央アジアに追放された高麗人によって形成されたものである。
もとの居住地は[[朝鮮]]と境を接した沿海州([[沿海地方]])であったが、[[1930年代]]後半から[[第二次世界大戦]]中にかけて[[中央アジア]]に追放された。現在の主な居住地は[[カザフスタン]]と[[ウズベキスタン]]である。ウズベキスタンに住む朝鮮系の人口は20万人ほどで、カザフスタンにも10万人ほどが居住する。

[[樺太]]にも、ロシア本土とは別に[[在樺コリアン]]が居住している。19世紀後半~20世紀初頭にかけてロシア本土へ移住した者達とは異なり、樺太における朝鮮人は、主に1930年代~40年代にかけて主に[[慶尚道]]と[[全羅道]]から移住した者達である。彼らは、[[第二次世界大戦]]期の労動力不足を補う為に、南樺太へ出稼ぎや[[国民徴用令|徴用]]によって移住していた<ref>三木理史『国境の植民地・樺太』(塙書房、2006年)</ref>。


[[大韓民国|韓国]]は、高麗人を在外同胞とみなして支援を行っている。
[[大韓民国]]政府は、高麗人を在外同胞とみなして支援を行っている。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 極東ロシアとシベリア移住 ===
高麗人すなわち旧[[ロシア帝国]]領内の朝鮮民族は、[[中国]]の[[朝鮮族]]と同じく主に[[19世紀]]以降に、[[李氏朝鮮]]北部から国境を越えて[[沿海州]]に定住した。半島北部はもともと[[農業]]に厳しい気候であった上、ひとたび[[飢饉]]が起こると農村は疲弊し、厳しい生活から逃れるために、窮乏農民が北へと流入したと考えられている。
19世紀の[[李氏朝鮮]]は、国政が混乱して少数の[[両班]]達が大部分の土地を独占するようになった。現在の高麗人の祖先達は、[[中華人民共和国|中国]]の[[朝鮮族]]と同様に故郷を離れ、李氏朝鮮北部からロシアを目指したが、[[清]]の領地がそれを阻む形となった。それでも、朝鮮人移民第1期となった761家族5,310人は、当時清の領土だった沿海州に移住し、同地は[[1860年]]の[[北京条約]]によってロシアに割譲されることとなった。半島北部はもともと[[農業]]に厳しい気候であった上、ひとたび[[飢饉]]が起こると農村は疲弊し、厳しい生活から逃れるために、窮乏農民が北へと流入したと考えられている。


その後も、多くの農民達が[[シベリア]]に移住するようになり、19世紀末にはその数が急増し、[[1869年]]には朝鮮人が沿海州における人口の 20%を占めるようになった。[[シベリア鉄道]]が完成するより前に、[[極東連邦管区|極東ロシア]]における朝鮮人の人口はロシア人より多くなり、地方官吏達は彼らに帰化を推奨した。[[1897年]]の[[ロシア帝国]]の人口調査によれば、ロシア全体で[[朝鮮語]]を話す人口が26,005人(男性:16,225、女性:9,780)という結果が出ており、<ref>{{cite news| url= http://demoscope.ru/weekly/ssp/rus_lan_97.php| title=Первая всеобщая перепись населения Российской Империи 1897 г. (General Population Census of the Russian Empire in 1897)| work=Demoscope.ru | date= | accessdate= 2007-05-20 | location=}}</ref>、この頃には多くの都市に高麗人村や高麗人農場ができるようになった。
[[1910年]]に[[大日本帝国]]が[[大韓帝国]](李氏朝鮮から改称)を[[韓国併合|併合]]し植民地支配を開始。[[1924年]]にロシアでは[[共産主義]]を掲げるソビエト連邦が成立すると、日本は共産主義革命の波及を恐れて朝鮮半島北部で国境を接するソ連と激しく対立し、かつては比較的出入りの緩やかであった朝鮮と沿海州の国境は閉鎖された。


20世紀初頭に、ロシアは日本と朝鮮半島における権益を巡って対立するようになり、[[日露戦争]]が勃発し、戦争は日本の勝利に終わった。[[1907年]]に、ロシアでは日本の干渉によって朝鮮人を排斥する法律が制定され、朝鮮人の農場主は土地を没収され、朝鮮人労動者達は職を失うこととなった<ref name="Lee"> Lee, Kwang-kyu (2000), Overseas Koreans, Seoul: Jimoondang, ISBN 89-88095-18-9</ref>。同時に、ロシアは朝鮮独立運動の為のシェルターとなり、朝鮮人の[[ナショナリズム|民族主義]]者達と[[共産主義]]者達はシベリアや沿海州、[[満州]]に亡命した。[[十月革命]]と東アジアでの共産主義の台頭とともに、シベリアは在ソ連朝鮮人の日本に対抗する為の独立軍養成の基盤になった。[[1919年]]に、[[ウラジオストク]]の新韓村(高麗人街)に集まった朝鮮のリーダーたちが [[三・一運動]]を支援した。この村は、軍隊の物資補給を含めた民族主義者達の足場となったが、[[1920年]][[4月4日]]には日本軍の総攻撃によって、100人以上が死亡した<ref name="Lee"/>。
[[日本軍]]による[[シベリア出兵]]以来、日ソ両国は互いを[[仮想敵国]]とみなしていたが、[[満州事変]]以降、ソ連の指導者[[ヨシフ・スターリン]]は、沿海州に居住する高麗人住民が日本のために[[スパイ]]活動を行なっていると考えるようになった。また、満州において抗日戦を展開しようとしていた[[中国共産党]]との協力体制を構築するためにも、自国内にスパイの恐れのある民族を留まらせておくわけには行かなかったとも言われる。スターリンの下で[[大粛清]]が開始されると、高麗人のスパイ活動への関与の疑いが高まり、高麗人のほとんどは日本側の活動とは無関係であったにもかかわらず、対日協力の疑いで中央アジアに集団追放された。当時の沿海州には20万人の朝鮮人が居住していたが、そのすべてが[[強制移住]]の対象となった。


ウラジオストクに移住した朝鮮人達は、キリスト教を受け入れるなど積極的にロシア文化に順応するようになった。何よりも、日本の影に怯えることなく働くことが出来るということが、移住の最大の理由だった。
強制移住先の中央アジアの乾燥地帯は、農耕には不向きな土地で、20万人いた高麗人は数年後には10万人にまで減少した。しかし、他の場所から強制連行されてきた[[ドイツ人]]、[[チェチェン人]]、[[トルコ人]]らと協力し合いながら、不毛の大地を一大農業地帯に変えていった。その姿勢が評価され、ソ連共産党から模範的社会主義者(労働英雄)として表彰される者もあった。


[[1922年]]に、ロシアで共産主義を掲げる[[ソビエト連邦]]が成立すると、日本は共産主義革命の波及を恐れて朝鮮半島北部で国境を接するソ連と激しく対立するようになった。一方で、ソ連国内における高麗人の人口は、[[1923年]]に106,817 人にまで増加し、翌[[1924年]]からソ連政府によって国内の高麗人の人口を抑制する為の対策が取られるようになったこともあって、[[1931年]]に嘗ては比較的出入りの緩やかであった朝鮮と沿海州の国境は閉鎖されることとなった。
高麗人に対する評価の変化に伴い、第二次世界大戦末期、対日戦争をにらんで、ソ連当局は、一部の高麗人を軍・共産党に受け入れ始めた。彼らは、終戦後、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の経済再建や[[朝鮮人民軍]]の創設に大きく貢献したが、ほぼ全員が粛清された。


=== 強制移住 ===
戦後も、軍事的な要地である沿海州に高麗人が戻って不安定要素が生ずることを望まない、ソ連当局の意向によって、高麗人は、沿海州や朝鮮に帰還する権利を認められず、その後も多くの高麗人がそのまま中央アジアに住み続けた。スターリンの死後、法的には移動の自由が認められたが、一般のソ連人と同様、実際に移動の許可を得るにまでに多大な労力を要し、また、高麗人の現地への定着が進んでいたため、沿海州に帰還する者はほとんどなかった。
{{See also|高麗人の強制移住}}
[[日本軍]]による[[シベリア出兵]]以来、日ソ両国は互いを[[仮想敵国]]とみなしていたが、[[満州事変]]以降、ソ連の指導者[[ヨシフ・スターリン]]は、沿海州に居住する高麗人住民が日本のために[[スパイ]]活動を行なっていると考えるようになった。また、満州において抗日戦を展開しようとしていた[[中国共産党]]との協力体制を構築するためにも、自国内にスパイの恐れのある民族を留まらせておくわけには行かなかったとも言われる。スターリンの下で[[大粛清]]が開始されると、高麗人のスパイ活動への関与の疑いが高まり、高麗人の殆どは日本側の活動とは無関係であったにもかかわらず、[[ニコライ・エジョフ]]の報告によると[[1937年]][[10月25日]]までに沿海州に居住していた36,442家族171,781人の高麗人が、対日協力の疑いで中央アジアに集団追放されたと記録されている<ref name="Pohl">Pohl, J. Otto (1999), Ethnic Cleansing in the USSR, 1937-1949, Greenwood, ISBN 0313309213</ref>。


強制移住先の中央アジアの乾燥地帯は、農耕には不向きな土地で、ソ連政府によって保障されていた筈の資金援助は受けることが出来なかったことに加え、移住させられた者の殆どが[[稲作]]農家や[[漁師]]だったこともあって、乾燥地帯への適応に困難を伴うこととなり、[[1938年]]までに少なくとも4万人の高麗人が死亡している<ref name="Pohl"/>。しかし、他の場所から強制連行されてきた[[ドイツ人]]、[[チェチェン人]]、[[トルコ人]]らと協力し合いながら、[[灌漑]]施設を設置するなどの工夫を重ねたうえで稲作を始め、移住から3年後には不毛の大地を一大農業地帯に変えることに成功した。その姿勢が評価され、[[ソ連共産党]]から模範的社会主義者(労働英雄)として表彰される者もあった。
スターリン時代、高麗人は、公式の場で[[朝鮮語]]を使用することを禁止され、学校の授業もすべてロシア語で行われた。スターリンの死後、これらの制限は撤廃されたが、ソ連社会に同化した高麗人は、進学や社会的栄達に有利なロシア語を母語としていた。子供を持つ高麗人の両親の中には、朝鮮語をもはや不要なものと考え、朝鮮語の授業の廃止を要請する者もいた。しかし、インターナショナリズムを標榜するソ連当局は、これら一部の高麗人の両親達の訴えを退けた。フルシチョフ及びブレジネフ時代、朝鮮語紙「レーニンの旗幟」([[1938年|1938]]~[[1989年]]発行)が発行され、朝鮮語で上演される朝鮮劇場が中央アジア各地を巡業した。よって、スターリン時代を除けば、ソ連で朝鮮語が弾圧されたというのは事実に反する。但し社会的な圧力があったことは否定できない。


戦後も、軍事的な要地である沿海州に高麗人が戻って不安定要素が生ずることを望まない、ソ連当局の意向によって、高麗人は、沿海州や朝鮮に帰還する権利を認められず、その後も多くの高麗人がそのまま中央アジアに住み続けた。スターリンの死後、法的には移動の自由が認められたが、一般のソ連人と同様、実際に移動の許可を得るにまでに多大な労力を要し、また、高麗人の現地への定着が進んでいたため、沿海州に帰還する者はほとんどなかった。また、[[グラスノスチ]]が始まるまでは、強制移住に対して発言することは許されなかった。
ペレストロイカとグラースノスチの訪れと共に、短期間の朝鮮民族復興運動が始まった。ソ連の各共和国には、朝鮮民族協会が設立され、[[朝鮮語]]を学ぶ高麗人の若者が増加した。高麗人の知識人層の中では、沿海州への帰還運動も起こったが、実際に沿海州に再移住したのは数千人に過ぎなかった。


=== ソ連崩壊以降 ===
==== ロシア ====
2002年の人口調査では、148,556人の高麗人がロシアに居住し、男性が75,835人、女性が 72,721人だった。そのうち、25%はシベリアと極東ロシアに居住している。同地の高麗人達はその移住経路が多様で、1937年の強制移住から帰って来たCIS諸国の国籍を保持した 33,000人以外にも、約4,000~12,000人の北朝鮮から移住者も確認されている。大韓民国や中国少数民族出身の高麗人も定住し、投資を行うなど国境貿易に参加している。

==== ウクライナ ====
[[2001年]]の人口調査では、高麗人を自称する者が12,711人存在しているという結果が出たが、これは[[1989年]]の8,669人より大幅に増加している。特に人口が多い都市は[[ハルキウ]]、[[キエフ]]、[[オデッサ]]、[[ムィコラーイウ]]、[[チェルカースィ]]、[[リヴィウ]]、[[ルハーンシク]]、[[ドネツィク]]、[[ドニプロペトロウシク]]、[[ザポリージャ]]、[[クリミア半島]]などである。ウクライナで一番規模が大きい高麗人コミュニティは、ハルキウにあり、約150人の高麗人家族が居住している。最初の韓国語学校が、1996年に開校している。

==== 中央アジア ====
ソ連崩壊後、50年を経て生活基盤が中央アジアに完全に定着してしまった高麗人の多くは、そのまま中央アジアに住み続けているが、中央アジア諸国は、いずれも民族主義的志向が強く、ロシアに流出する傾向にある。例えば、ソ連時代、モスクワの高麗人の人口は数千人に過ぎなかったが、1990年代末には1万5000人にまで達している。
ソ連崩壊後、50年を経て生活基盤が中央アジアに完全に定着してしまった高麗人の多くは、そのまま中央アジアに住み続けているが、中央アジア諸国は、いずれも民族主義的志向が強く、ロシアに流出する傾向にある。例えば、ソ連時代、モスクワの高麗人の人口は数千人に過ぎなかったが、1990年代末には1万5000人にまで達している。


同地域における高麗人は、その多くがウズベキスタンとカザフスタンに居住している。カザフスタンにおける高麗人文化は嘗ての首都だった[[アルマトイ]]を中心に発信されており、同都市では中央アジアでは唯一の朝鮮語新聞である『高麗新聞』と朝鮮語劇場が運営されている。カザフスタンの人口調査では、1939年には96,500人、1959年には74,000人、1970年には81,600人、1989年には100,700人、1999年には99,700人の高麗人がそれぞれ記録されている。
彼らは自主的に朝鮮語教育を再開し、朝鮮語新聞を発行するなど、民族としての意識向上を図っているが、若年世代の朝鮮語離れは依然として続いている。それにともなって他民族との結婚も増え、高麗人の共同体維持は厳しい状況に置かれている。この点で[[在日韓国・朝鮮人]]とも類似した問題を抱えている。


[[File:Samarqand Afrasiab cemetery2.jpg|thumb|225px|ウズベキスタンの[[サマルカンド]]にある高麗人墓地]]
高麗人はソビエト連邦という多民族国家で育った影響で異民族との交流が盛んで、韓国・朝鮮人が単一民族国家意識が強いのとは正反対である。
ウズベキスタンの高麗人達は、農村地域に広く散らばっている。同国では、高麗人達が公用語である[[ウズベク語]]ではなくロシア語を常用していたことから、言葉の壁にぶつかるといったケースが続発することとなった。ウズベキスタンの独立後、多くの高麗人達ウズベク語を話すことが出来ないために、失業の憂き目に遭うこととなった。その一部は、極東ロシアに移住したが、そこでも生活の困難に直面することとなった。


タジキスタンにも小規模ながら高麗人コミュニティがある。ウズベキスタンとカザフスタン以外の地域への移動を禁じる規制が緩和された1950年代後半から1960年代前半にかけて、高麗人達の同地への大規模な移住が始まった。移住の引き金となったのは、豊富な天然資源と温暖な気候だった。同国における高麗人の人口は1959年に2,400人、1979年に11,000人 、1989年に13,000人にまで増加し、その殆どが首都の[[ドゥシャンベ]]に住み、少数ながら[[クルガン・テッパ]]と[[ホジェンド]]にも居住する者もいた。他の中央アジア諸国の高麗人と同様に、タジキスタンの高麗人達も他の民族より高い平均収入を誇る傾向があった。しかし、1992年5月に勃発した[[タジキスタン内戦]]により、多くの高麗人達は同国を離れることとなり、その人口は1996年までに7年前の半分以下となる6,300人にまで減少した。内戦終了後の2000年にも、[[イスラム解放党]]のメンバーがドゥシャンベにある高麗人のキリスト教教会で爆弾テロ事件を起こし、9人が死亡、30人が重軽傷を負う事態となった。現在も同国に残っている高麗人の殆どは、農業と小売業に従事している。
なお、彼等の話す朝鮮語は、ロシア語の影響を極めて強く受けた[[高麗語 (コリョマル)|高麗語]]と呼ばれるものであり、本国の朝鮮語との乖離は特に日常の話し言葉において甚大である。韓国・北朝鮮・[[延辺朝鮮族自治州]]で話される[[朝鮮語]]はどれもほとんど問題なく互いの意思疎通が出来るが、高麗語や[[在日朝鮮語]]の場合は意思疎通は無理ではないにしろ、かなりの困難さを伴う。


== 在樺太高麗人 ==
==== 無国籍となった高麗人 ====
[[ソ連崩壊]]以降、一部の高麗人達は無国籍となった。ソ連時代に連邦だった国々が、ロシア国籍を認めなかったために、国籍を再度申請しなければならないところを、これを知らなかった、書類を紛失してしまった、住民登録を忘れていた、経済的な余裕が無かったため、パスポートの再申請が出来なかったなど、理由は様々であった。この背景には、生まれ育った家庭が貧困だったため、教育など社会生活を送るうえで必要な情報を得られなかったという事情があり、このような不利益は彼らの子孫にまでそのまま受け継がれてしまっている。CISには現在、高麗人全体の10%にあたる約5万人の無国籍者がいることが推測されている。
{{see|在樺コリアン}}


こうした事態に対して、韓国政府は2007年から現地の国籍を取得させる為の外交活動と法的支援といった無国籍高麗人支援事業を開始し、ウクライナでは移民局が、「ウクライナ国籍がない高麗人の身分を、「韓国大使館」が証明すれば国籍回復手続きを手助けできる」という意向を明らかにしたものの、各国の法律や文化的な障壁に阻まれ、成果を上げるには至っていない<ref>[http://japanese.joins.com/article/123/117123.html?servcode=A00&sectcode=A00 中央日報 - 韓国政府「高麗人は歴史的被害者」認め始める(2)]</ref><ref>[http://japanese.joins.com/article/124/117124.html 中央日報 - 韓国政府「高麗人は歴史的被害者」認め始める(2)]</ref>。
== 北朝鮮に帰還した高麗人 ==

{{節stub}}
==== 朝鮮半島に帰還した高麗人 ====
[[File:Gwanghui-dong, Seoul Russian-speaking church and Kyrgyz restaurant.jpg|thumb|225px|[[ソウル特別市]][[中区 (ソウル特別市)|中区]]光熙洞にある高麗人を対象としたキリスト教教会。2階にはキルギス料理店が見られる。]]
[[第二次世界大戦]]前後に、小規模ながら高麗人の朝鮮半島への帰還移動があった。主なグループとしては
#[[日本統治時代の朝鮮|日本統治下]]における諜報活動を行う為に派遣された者。
#大戦後の[[1945年]]~[[1946年]]にかけて到着した[[赤軍]]兵士
#1946年~[[1948年]]にかけて[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]に到着した各方面の指導者。
#一身上の都合でソ連から北朝鮮に渡った一般人。
に分類される。

前述した通り、中央アジアにおける高麗人の品行方正ぶりが評価されたことにより、第二次世界大戦末期から対日戦争をにらんで、ソ連当局は一部の高麗人を軍・共産党に受け入れ始めた。彼らは終戦後、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の経済再建や[[朝鮮人民軍]]の創設に大きく貢献したが、ほぼ全員が粛清されることとなった。

後に、大規模の韓国への労働移住が展開されることとなった。 2005年の時点で、10,000人ものウズベキスタン人が韓国での労働に従事しており、その大部分が高麗人である。 韓国からウズベキスタンへの送金は、毎年1億ドルを超えると見積もられている。<ref>{{citation|last=Baek|first=Il-hyun|title=Scattered Koreans turn homeward|date=2005-09-14|periodical=Joongang Daily|accessdate=2006-11-27|url=http://joongangdaily.joins.com/200509/14/200509142129404979900091009101.html |archiveurl = http://web.archive.org/web/20051127093846/http://joongangdaily.joins.com/200509/14/200509142129404979900091009101.html |archivedate = 2005-11-27}}</ref>

== 文化 ==
中央アジアへの移住以降の高麗人達は、稲作農家として暮らしていた以外にも、周辺の遊牧民とは殆ど交流せず、教育に重点を置いた現地人とは異なる様式の生活を送ることとなった。また服装に関しても、この頃から[[韓服]]の着用を止め、中央アジアで着られているスタイルのものより、西洋式の洋服を着る生活を送るようになった。

高麗人コミュニティにおける生活風習は、様々な変化がもたらされることとなった。 結婚に関してはロシア式のスタイルが取り入れられることとなった一方で、葬式に関しては朝鮮における伝統的な方法が受け継がれることとなった。また名前に関しては、既に亡くなった世代の者の場合、伝統に乗っ取って漢字で表記されているが、現在存命している者の場合、スターリン時代の影響もあって、漢字を解する者は殆どいないため、ハングル文字のみで表記されている。一方で、1歳の誕生日([[トルチャンチ]])と[[還暦|還甲]]の儀式は、葬式と同様に伝統的な方式が受け継がれることとなった。

大戦後に生まれた高麗人は、ソビエト連邦という多民族国家で育った影響から、異民族との交流を盛んに持つようになり、韓国・朝鮮人が単一民族国家意識が強いのとは正反対である。

== 言語状況 ==
スターリン時代、高麗人は、公式の場で[[朝鮮語]]を使用することを禁止され、学校の授業もすべてロシア語で行われた。スターリンの死後、これらの制限は撤廃されたが、ソ連社会に同化した高麗人は、進学や社会的栄達に有利なロシア語を母語としていた。子供を持つ高麗人の両親の中には、朝鮮語をもはや不要なものと考え、朝鮮語の授業の廃止を要請する者もいた。しかし、インターナショナリズムを標榜するソ連当局は、これら一部の高麗人の両親達の訴えを退けた。フルシチョフ及びブレジネフ時代、朝鮮語紙「レーニンの旗幟」([[1938年]]~[[1989年]]発行)が発行され、朝鮮語で上演される朝鮮劇場が中央アジア各地を巡業した。よって、スターリン時代を除けば、ソ連で朝鮮語が弾圧されたというのは事実に反する。但し社会的な圧力があったことは否定できない。

[[ペレストロイカ]]とグラスノスチの訪れと共に、短期間の朝鮮民族復興運動が始まった。ソ連の各共和国には、朝鮮民族協会が設立され、[[朝鮮語]]を学ぶ高麗人の若者が増加した。高麗人の知識人層の中では、沿海州への帰還運動も起こったが、実際に沿海州に再移住したのは数千人に過ぎなかった。

彼らは自主的に朝鮮語教育を再開し、朝鮮語新聞を発行するなど、民族としての意識向上を図っているが、若年世代の朝鮮語離れは依然として続いている。それにともなって他民族との結婚も増え、高麗人の共同体維持は厳しい状況に置かれている。この点で[[在日韓国・朝鮮人]]とも類似した問題を抱えている。

なお、彼等の話す朝鮮語は、ロシア語の影響を極めて強く受けた[[コリョマル|高麗語]]と呼ばれるものであり、本国の朝鮮語との乖離は特に日常の話し言葉において甚大である。韓国・北朝鮮・[[延辺朝鮮族自治州]]で話される[[中国朝鮮語]]はどれもほとんど問題なく互いの意思疎通が出来るが、高麗語や[[在日朝鮮語]]の場合は、意思疎通は無理ではないにしろ、かなりの困難さを伴う。


== 高麗人の著名人 ==
== 高麗人の著名人 ==
* [[アレクサンドル・ミン]]:ソ連の軍人。高麗人唯一の[[ソ連邦英雄]]
* [[アレクサンドル・ミン]]:ソ連の軍人。高麗人唯一の[[ソ連邦英雄]]
* [[ヴィクトル・ツォイ]]:ソ連末期のロック・ミュージシャン
* [[ヴィクトル・ツォイ]]:ソ連末期のロック・ミュージシャン
* [[ゲルマン・キム]]:ソ連科学アカデミ会員
* {{仮リク|ユーリ・キム|en|Yuliy Kim}}シンガーングライタ
* {{仮リンク|ゲルマン・キム|en|German Kim}}:ソ連科学アカデミー会員
* [[ボリス・ユガイ]]:キルギスの軍人。参謀総長
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* [[許哥誼]](ホ・ガイ):北朝鮮のソ連派の有力者。
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* [[南日]](ナム・イル):朝鮮人民軍高官。外相。
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* [[キム・ビョンファ]]:コルホーズ経営者。
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* [[デニス・テン]]:フィギュアスケート選手。
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* [[金ギョン天|金{{lang|ko|擎}}天]]:朝鮮独立運動家
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== 参考資料 ==
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* [[在日韓国・朝鮮人]]
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* [[ソ連派 (朝鮮)|朝鮮労働党ソ連派]]
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== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
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2011年6月12日 (日) 12:02時点における版

高麗人
고려인 / 고려사람
Корё сарам
アレクサンドル・ミンユーリ・キムヴィクトル・ツォイ
コンスタンチン・チューアニータ・ツォイデニス・テン
総人口
約50万人
居住地域
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン198,000[1]
ロシアの旗 ロシア125,000[1]
カザフスタンの旗 カザフスタン105,000[1]
キルギスの旗 キルギス19,000[1]
 ウクライナ12,000[1]
タジキスタンの旗 タジキスタン6,000[1]
その他CIS諸国5,000[1]
言語
ロシア語高麗語
宗教
ロシア正教会プロテスタント仏教儒教
関連する民族
朝鮮民族在樺コリアン

高麗人(こうらいじん、コリョイン、고려인/고려사람Корё сарам)は、ソビエト連邦崩壊後の独立国家共同体(CIS)諸国の国籍を持つ朝鮮民族のこと。

高麗とは朝鮮半島10世紀から14世紀まで存在した朝鮮半島国家で、日本では江戸時代まで多くの場合「朝鮮人」ではなく「高麗人」と呼んでいた。「高麗人参」はその名残である。また、世界的にも「朝鮮半島=高麗」という認識があり、非漢字圏では朝鮮民族のことを英語ではコリアン (Korean) 、ロシア語ではカリェーエツ (кореец) というように、朝鮮民族の呼称として“高麗人”にあたる語が広く用いられている。旧ソ連地域の高麗人は、その他称としての「高麗人」が自称に転化したものである。

現在の主な居住地は、ロシアをはじめとしてウズベキスタンカザフスタンタジキスタントルクメニスタンキルギスウクライナなどである。約 50万名の高麗人が中央アジアを中心に居住しており、ロシア南部のヴォルゴグラード近郊やカフカース、ウクライナ南部にも高麗人コミュニティが形成されている。これらのコミュニティは、19世紀後半まで朝鮮と境を接した沿海州(現在の沿海地方)に居住していたが、1930年代後半~第二次世界大戦中にかけて中央アジアに追放された高麗人によって形成されたものである。

樺太にも、ロシア本土とは別に在樺コリアンが居住している。19世紀後半~20世紀初頭にかけてロシア本土へ移住した者達とは異なり、樺太における朝鮮人は、主に1930年代~40年代にかけて主に慶尚道全羅道から移住した者達である。彼らは、第二次世界大戦期の労動力不足を補う為に、南樺太へ出稼ぎや徴用によって移住していた[2]

大韓民国政府は、高麗人を在外同胞とみなして支援を行っている。

歴史

極東ロシアとシベリア移住

19世紀の李氏朝鮮は、国政が混乱して少数の両班達が大部分の土地を独占するようになった。現在の高麗人の祖先達は、中国朝鮮族と同様に故郷を離れ、李氏朝鮮北部からロシアを目指したが、の領地がそれを阻む形となった。それでも、朝鮮人移民第1期となった761家族5,310人は、当時清の領土だった沿海州に移住し、同地は1860年北京条約によってロシアに割譲されることとなった。半島北部はもともと農業に厳しい気候であった上、ひとたび飢饉が起こると農村は疲弊し、厳しい生活から逃れるために、窮乏農民が北へと流入したと考えられている。

その後も、多くの農民達がシベリアに移住するようになり、19世紀末にはその数が急増し、1869年には朝鮮人が沿海州における人口の 20%を占めるようになった。シベリア鉄道が完成するより前に、極東ロシアにおける朝鮮人の人口はロシア人より多くなり、地方官吏達は彼らに帰化を推奨した。1897年ロシア帝国の人口調査によれば、ロシア全体で朝鮮語を話す人口が26,005人(男性:16,225、女性:9,780)という結果が出ており、[3]、この頃には多くの都市に高麗人村や高麗人農場ができるようになった。

20世紀初頭に、ロシアは日本と朝鮮半島における権益を巡って対立するようになり、日露戦争が勃発し、戦争は日本の勝利に終わった。1907年に、ロシアでは日本の干渉によって朝鮮人を排斥する法律が制定され、朝鮮人の農場主は土地を没収され、朝鮮人労動者達は職を失うこととなった[4]。同時に、ロシアは朝鮮独立運動の為のシェルターとなり、朝鮮人の民族主義者達と共産主義者達はシベリアや沿海州、満州に亡命した。十月革命と東アジアでの共産主義の台頭とともに、シベリアは在ソ連朝鮮人の日本に対抗する為の独立軍養成の基盤になった。1919年に、ウラジオストクの新韓村(高麗人街)に集まった朝鮮のリーダーたちが 三・一運動を支援した。この村は、軍隊の物資補給を含めた民族主義者達の足場となったが、1920年4月4日には日本軍の総攻撃によって、100人以上が死亡した[4]

ウラジオストクに移住した朝鮮人達は、キリスト教を受け入れるなど積極的にロシア文化に順応するようになった。何よりも、日本の影に怯えることなく働くことが出来るということが、移住の最大の理由だった。

1922年に、ロシアで共産主義を掲げるソビエト連邦が成立すると、日本は共産主義革命の波及を恐れて朝鮮半島北部で国境を接するソ連と激しく対立するようになった。一方で、ソ連国内における高麗人の人口は、1923年に106,817 人にまで増加し、翌1924年からソ連政府によって国内の高麗人の人口を抑制する為の対策が取られるようになったこともあって、1931年に嘗ては比較的出入りの緩やかであった朝鮮と沿海州の国境は閉鎖されることとなった。

強制移住

日本軍によるシベリア出兵以来、日ソ両国は互いを仮想敵国とみなしていたが、満州事変以降、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、沿海州に居住する高麗人住民が日本のためにスパイ活動を行なっていると考えるようになった。また、満州において抗日戦を展開しようとしていた中国共産党との協力体制を構築するためにも、自国内にスパイの恐れのある民族を留まらせておくわけには行かなかったとも言われる。スターリンの下で大粛清が開始されると、高麗人のスパイ活動への関与の疑いが高まり、高麗人の殆どは日本側の活動とは無関係であったにもかかわらず、ニコライ・エジョフの報告によると1937年10月25日までに沿海州に居住していた36,442家族171,781人の高麗人が、対日協力の疑いで中央アジアに集団追放されたと記録されている[5]

強制移住先の中央アジアの乾燥地帯は、農耕には不向きな土地で、ソ連政府によって保障されていた筈の資金援助は受けることが出来なかったことに加え、移住させられた者の殆どが稲作農家や漁師だったこともあって、乾燥地帯への適応に困難を伴うこととなり、1938年までに少なくとも4万人の高麗人が死亡している[5]。しかし、他の場所から強制連行されてきたドイツ人チェチェン人トルコ人らと協力し合いながら、灌漑施設を設置するなどの工夫を重ねたうえで稲作を始め、移住から3年後には不毛の大地を一大農業地帯に変えることに成功した。その姿勢が評価され、ソ連共産党から模範的社会主義者(労働英雄)として表彰される者もあった。

戦後も、軍事的な要地である沿海州に高麗人が戻って不安定要素が生ずることを望まない、ソ連当局の意向によって、高麗人は、沿海州や朝鮮に帰還する権利を認められず、その後も多くの高麗人がそのまま中央アジアに住み続けた。スターリンの死後、法的には移動の自由が認められたが、一般のソ連人と同様、実際に移動の許可を得るにまでに多大な労力を要し、また、高麗人の現地への定着が進んでいたため、沿海州に帰還する者はほとんどなかった。また、グラスノスチが始まるまでは、強制移住に対して発言することは許されなかった。

ソ連崩壊以降

ロシア

2002年の人口調査では、148,556人の高麗人がロシアに居住し、男性が75,835人、女性が 72,721人だった。そのうち、25%はシベリアと極東ロシアに居住している。同地の高麗人達はその移住経路が多様で、1937年の強制移住から帰って来たCIS諸国の国籍を保持した 33,000人以外にも、約4,000~12,000人の北朝鮮から移住者も確認されている。大韓民国や中国少数民族出身の高麗人も定住し、投資を行うなど国境貿易に参加している。

ウクライナ

2001年の人口調査では、高麗人を自称する者が12,711人存在しているという結果が出たが、これは1989年の8,669人より大幅に増加している。特に人口が多い都市はハルキウキエフオデッサムィコラーイウチェルカースィリヴィウルハーンシクドネツィクドニプロペトロウシクザポリージャクリミア半島などである。ウクライナで一番規模が大きい高麗人コミュニティは、ハルキウにあり、約150人の高麗人家族が居住している。最初の韓国語学校が、1996年に開校している。

中央アジア

ソ連崩壊後、50年を経て生活基盤が中央アジアに完全に定着してしまった高麗人の多くは、そのまま中央アジアに住み続けているが、中央アジア諸国は、いずれも民族主義的志向が強く、ロシアに流出する傾向にある。例えば、ソ連時代、モスクワの高麗人の人口は数千人に過ぎなかったが、1990年代末には1万5000人にまで達している。

同地域における高麗人は、その多くがウズベキスタンとカザフスタンに居住している。カザフスタンにおける高麗人文化は嘗ての首都だったアルマトイを中心に発信されており、同都市では中央アジアでは唯一の朝鮮語新聞である『高麗新聞』と朝鮮語劇場が運営されている。カザフスタンの人口調査では、1939年には96,500人、1959年には74,000人、1970年には81,600人、1989年には100,700人、1999年には99,700人の高麗人がそれぞれ記録されている。

ウズベキスタンのサマルカンドにある高麗人墓地

ウズベキスタンの高麗人達は、農村地域に広く散らばっている。同国では、高麗人達が公用語であるウズベク語ではなくロシア語を常用していたことから、言葉の壁にぶつかるといったケースが続発することとなった。ウズベキスタンの独立後、多くの高麗人達ウズベク語を話すことが出来ないために、失業の憂き目に遭うこととなった。その一部は、極東ロシアに移住したが、そこでも生活の困難に直面することとなった。

タジキスタンにも小規模ながら高麗人コミュニティがある。ウズベキスタンとカザフスタン以外の地域への移動を禁じる規制が緩和された1950年代後半から1960年代前半にかけて、高麗人達の同地への大規模な移住が始まった。移住の引き金となったのは、豊富な天然資源と温暖な気候だった。同国における高麗人の人口は1959年に2,400人、1979年に11,000人 、1989年に13,000人にまで増加し、その殆どが首都のドゥシャンベに住み、少数ながらクルガン・テッパホジェンドにも居住する者もいた。他の中央アジア諸国の高麗人と同様に、タジキスタンの高麗人達も他の民族より高い平均収入を誇る傾向があった。しかし、1992年5月に勃発したタジキスタン内戦により、多くの高麗人達は同国を離れることとなり、その人口は1996年までに7年前の半分以下となる6,300人にまで減少した。内戦終了後の2000年にも、イスラム解放党のメンバーがドゥシャンベにある高麗人のキリスト教教会で爆弾テロ事件を起こし、9人が死亡、30人が重軽傷を負う事態となった。現在も同国に残っている高麗人の殆どは、農業と小売業に従事している。

無国籍となった高麗人

ソ連崩壊以降、一部の高麗人達は無国籍となった。ソ連時代に連邦だった国々が、ロシア国籍を認めなかったために、国籍を再度申請しなければならないところを、これを知らなかった、書類を紛失してしまった、住民登録を忘れていた、経済的な余裕が無かったため、パスポートの再申請が出来なかったなど、理由は様々であった。この背景には、生まれ育った家庭が貧困だったため、教育など社会生活を送るうえで必要な情報を得られなかったという事情があり、このような不利益は彼らの子孫にまでそのまま受け継がれてしまっている。CISには現在、高麗人全体の10%にあたる約5万人の無国籍者がいることが推測されている。

こうした事態に対して、韓国政府は2007年から現地の国籍を取得させる為の外交活動と法的支援といった無国籍高麗人支援事業を開始し、ウクライナでは移民局が、「ウクライナ国籍がない高麗人の身分を、「韓国大使館」が証明すれば国籍回復手続きを手助けできる」という意向を明らかにしたものの、各国の法律や文化的な障壁に阻まれ、成果を上げるには至っていない[6][7]

朝鮮半島に帰還した高麗人

ソウル特別市中区光熙洞にある高麗人を対象としたキリスト教教会。2階にはキルギス料理店が見られる。

第二次世界大戦前後に、小規模ながら高麗人の朝鮮半島への帰還移動があった。主なグループとしては

  1. 日本統治下における諜報活動を行う為に派遣された者。
  2. 大戦後の1945年1946年にかけて到着した赤軍兵士
  3. 1946年~1948年にかけて北朝鮮に到着した各方面の指導者。
  4. 一身上の都合でソ連から北朝鮮に渡った一般人。

に分類される。

前述した通り、中央アジアにおける高麗人の品行方正ぶりが評価されたことにより、第二次世界大戦末期から対日戦争をにらんで、ソ連当局は一部の高麗人を軍・共産党に受け入れ始めた。彼らは終戦後、北朝鮮の経済再建や朝鮮人民軍の創設に大きく貢献したが、ほぼ全員が粛清されることとなった。

後に、大規模の韓国への労働移住が展開されることとなった。 2005年の時点で、10,000人ものウズベキスタン人が韓国での労働に従事しており、その大部分が高麗人である。 韓国からウズベキスタンへの送金は、毎年1億ドルを超えると見積もられている。[8]

文化

中央アジアへの移住以降の高麗人達は、稲作農家として暮らしていた以外にも、周辺の遊牧民とは殆ど交流せず、教育に重点を置いた現地人とは異なる様式の生活を送ることとなった。また服装に関しても、この頃から韓服の着用を止め、中央アジアで着られているスタイルのものより、西洋式の洋服を着る生活を送るようになった。

高麗人コミュニティにおける生活風習は、様々な変化がもたらされることとなった。 結婚に関してはロシア式のスタイルが取り入れられることとなった一方で、葬式に関しては朝鮮における伝統的な方法が受け継がれることとなった。また名前に関しては、既に亡くなった世代の者の場合、伝統に乗っ取って漢字で表記されているが、現在存命している者の場合、スターリン時代の影響もあって、漢字を解する者は殆どいないため、ハングル文字のみで表記されている。一方で、1歳の誕生日(トルチャンチ)と還甲の儀式は、葬式と同様に伝統的な方式が受け継がれることとなった。

大戦後に生まれた高麗人は、ソビエト連邦という多民族国家で育った影響から、異民族との交流を盛んに持つようになり、韓国・朝鮮人が単一民族国家意識が強いのとは正反対である。

言語状況

スターリン時代、高麗人は、公式の場で朝鮮語を使用することを禁止され、学校の授業もすべてロシア語で行われた。スターリンの死後、これらの制限は撤廃されたが、ソ連社会に同化した高麗人は、進学や社会的栄達に有利なロシア語を母語としていた。子供を持つ高麗人の両親の中には、朝鮮語をもはや不要なものと考え、朝鮮語の授業の廃止を要請する者もいた。しかし、インターナショナリズムを標榜するソ連当局は、これら一部の高麗人の両親達の訴えを退けた。フルシチョフ及びブレジネフ時代、朝鮮語紙「レーニンの旗幟」(1938年1989年発行)が発行され、朝鮮語で上演される朝鮮劇場が中央アジア各地を巡業した。よって、スターリン時代を除けば、ソ連で朝鮮語が弾圧されたというのは事実に反する。但し社会的な圧力があったことは否定できない。

ペレストロイカとグラスノスチの訪れと共に、短期間の朝鮮民族復興運動が始まった。ソ連の各共和国には、朝鮮民族協会が設立され、朝鮮語を学ぶ高麗人の若者が増加した。高麗人の知識人層の中では、沿海州への帰還運動も起こったが、実際に沿海州に再移住したのは数千人に過ぎなかった。

彼らは自主的に朝鮮語教育を再開し、朝鮮語新聞を発行するなど、民族としての意識向上を図っているが、若年世代の朝鮮語離れは依然として続いている。それにともなって他民族との結婚も増え、高麗人の共同体維持は厳しい状況に置かれている。この点で在日韓国・朝鮮人とも類似した問題を抱えている。

なお、彼等の話す朝鮮語は、ロシア語の影響を極めて強く受けた高麗語と呼ばれるものであり、本国の朝鮮語との乖離は特に日常の話し言葉において甚大である。韓国・北朝鮮・延辺朝鮮族自治州で話される中国朝鮮語はどれもほとんど問題なく互いの意思疎通が出来るが、高麗語や在日朝鮮語の場合は、意思疎通は無理ではないにしろ、かなりの困難さを伴う。

高麗人の著名人

参考資料

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d e f g 기광서, 「구 소련 한인사회의 역사적 변천과 현실」, 《Proceedings of 2002 Conference of the Association for the Study of Overseas Koreans (ASOK)》, Association for the Study of Overseas Koreans, 2002.12.15
  2. ^ 三木理史『国境の植民地・樺太』(塙書房、2006年)
  3. ^ “Первая всеобщая перепись населения Российской Империи 1897 г. (General Population Census of the Russian Empire in 1897)”. Demoscope.ru. http://demoscope.ru/weekly/ssp/rus_lan_97.php 2007年5月20日閲覧。 
  4. ^ a b Lee, Kwang-kyu (2000), Overseas Koreans, Seoul: Jimoondang, ISBN 89-88095-18-9
  5. ^ a b Pohl, J. Otto (1999), Ethnic Cleansing in the USSR, 1937-1949, Greenwood, ISBN 0313309213
  6. ^ 中央日報 - 韓国政府「高麗人は歴史的被害者」認め始める(2)
  7. ^ 中央日報 - 韓国政府「高麗人は歴史的被害者」認め始める(2)
  8. ^ Baek, Il-hyun (2005-09-14), “Scattered Koreans turn homeward”, Joongang Daily, オリジナルの2005-11-27時点におけるアーカイブ。, http://web.archive.org/web/20051127093846/http://joongangdaily.joins.com/200509/14/200509142129404979900091009101.html 2006年11月27日閲覧。 

外部リンク