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{{基礎情報 皇族・貴族 |
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{{otheruses|元イタリア王太子であるサヴォイア家の現当主|その他の人物|ヴィットーリオ・エマヌエーレ}} |
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| 人名 = ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア |
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| 各国語表記 =Vittorio Emanuele di Savoia |
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| 家名・爵位 =[[サヴォイア=カリニャーノ家]]<BR>(現・[[サヴォイア家|サヴォイア本家]]) |
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| 画像 = |
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| 画像説明 =アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ公爵(1930年) |
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| 続柄 =王太子 |
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| 称号 =ピエモンテ王<BR>ナポリ公爵 |
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| 身位 =旧王族([[イタリア王国]]) |
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| 敬称 =ナポリ公(Prince of Naples) |
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| 出生日 =[[1937年]][[2月12日]] |
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| 生地 =[[イタリア王国]][[カンパニア州]][[ナポリ]] |
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| 死亡日 = |
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| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 配偶者1 =[[:en:Marina, Princess of Naples|マリナ・リコルフィ・ドーリア]] |
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| 配偶者2 = |
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| 配偶者3 = |
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| 配偶者4 = |
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| 配偶者5 = |
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| 配偶者6 = |
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| 配偶者7 = |
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| 配偶者8 = |
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| 配偶者9 = |
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| 配偶者10 = |
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| 子女 =[[エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア|エマヌエーレ・フィリベルト]] |
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| 父親 =[[ウンベルト2世]](イタリア王) |
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| 母親 =[[マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ]](ベルギー王女) |
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| 役職 =サヴォイア家当主<BR>王位請求者 |
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'''ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア'''('''Vittorio Emanuele di Savoia'''、[[1937年]][[2月12日]] - )は[[イタリア王国]]において最後の国王となった[[ウンベルト2世]]の長男で、現サヴォイア家当主及び[[爵位]]・[[王位請求者]]。1946年の共和制移行により成立したイタリア共和国において王位のみならず全ての貴族称号は承認されていないが、国内に残る王党派は「'''ナポリ公爵ヴィットーリオ・エマヌエーレ'''」と敬称で呼んでいる。また一部急進派からは「'''イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ4世'''」と呼ばれているとされる。 |
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イタリア王位やナポリ公爵位以外にも様々な称号や継承権を父から引き継いでおり、その中には[[エルサレム王]]の請求権まで含まれている。名誉ある血筋と継承権を持ち、欧州に数多く居る「没落貴族のコミュニティー」でも大物の一人と見なされている。しかしその一方で亡命先のスイス・フランスなどで様々な非合法事業に加わり、また私生活でも一族の反対を無視して[[貴賎結婚]]を行うなど身辺に問題の多い人物でもある。王党派やネオファシストらの秘密結社であるロッジP2との関連が報道された事もある。 |
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[[イタリア王国]]最後の[[イタリア王|国王]][[ウンベルト2世]]と王妃[[マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ]]の子で、[[王政]]が廃止されるまでは[[皇太子|王太子]]であった。[[第二次世界大戦]]後の[[1946年]]に王政が廃止されて以降は、主として[[スイス]]や[[ポルトガル]]で亡命生活を余儀なくされていた。 |
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しかし、[[2002年]]に[[イタリア]]への帰国が認められ、翌[[2003年]]に、スイスから一人息子の[[エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア|エマヌエーレ・フィリベルト]]らとともに帰国を果たした。入国に際しイタリアの共和制を認め、王位継承権を放棄した。 |
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===生い立ち=== |
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[[1937年]][[2月12日]]、王政時代のイタリアで当時はまだイタリア王太子であった父[[ウンベルト2世]]と、その妻であるベルギー王女[[マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ]]との長男として[[ナポリ]]の離宮で生まれる。祖父である第3代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は男児の孫を授かった事を喜び、赤子のヴィットーリオを膝に乗せている写真が残されている。祖父からはナポリ公爵の称号を与えられ、父が即位すると王太子の称号を譲られた。だが僅かに9才の時、王政廃止によってサヴォイア家や他のイタリア貴族達は亡命を強いられ、没落貴族に仲間入りせざるを得なくなった。祖父母は[[エジプト]]へ、王位を継いでいた父と母は[[ポルトガル]]へと亡命した。 |
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暫くして両親は実質的な別居状態に入り、母[[マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ]]に引き取られて妹達と[[スイス]]へと移住(現在でもヴィットーリオはスイスに邸宅を所有している)、幼少期を送った。 |
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[[2006年]][[6月16日]]に、[[イタリア]]捜査当局によって、[[売春]]などを行う[[マフィア]]がらみの[[犯罪組織]]に関与したとして[[逮捕]]された。スイス滞在時にも、武器の不法携帯や、薬物中毒の[[ドイツ人]]留学生を銃で殺害した疑いで2度逮捕されているが、ドイツ人留学生の殺害容疑は留学生の友人らの偽証もあり、証拠不十分でのちに釈放されている。 |
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===貴賎結婚=== |
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ヴィットーリオ・エマヌエーレが逮捕されてまもない2006年7月7日、分家筋の第5代アオスタ公[[アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ|アメデーオ]]がサヴォイア家家長およびサヴォイア公の称号を名乗ることを宣言し、イタリア王家家長の地位をめぐってヴィットーリオ・エマヌエーレと並立、競合することになった。ヴィットーリオ・エマヌエーレは訴訟を起こしてアメデーオがサヴォイア公を称するのを禁じようとしており、2008年6月6日にはこの裁判に関する最初の審理が開かれている。 |
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20歳の時、スイス人の女性スキー選手[[:en:Marina, Princess of Naples|マリナ・リコルフィ・ドーリア]]と結婚する。平民(非貴族)との[[貴賎結婚]]は如何に没落貴族とはいえ家格を貶めると考えられ、父ウンベルト2世からは強く反対されたがヴィットーリオはこれを無視した。間に生まれた息子[[エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア|エマヌエーレ・フィリベルト]]にピエモンテ・ヴィネツィア公爵の称号を分与した。1969年、ヴィットーリオは自身が第5代イタリア王として国家主権を有すると宣言した<ref>[http://www.realcasadisavoia.it/files/ufficiostudi/19691215_VEIV_decreto1_en.pdf Royal Decree No. 1]</ref><ref>[http://www.realcasadisavoia.it/files/comunicati/20060707_allegato2_en.pdf Pro Veritate analysis n.1 by Prof. Edoardo Adami]</ref>。貴賎結婚を巡る父との対立と家督問題が背景にあったと言われている<ref>Gigi Speroni, ''Umberto II'', Milan, Riscoli Libri</ref>。王位請求者としての権限でリコルフィ・ドーリアをナポリ公爵夫人として強引に家格を引き上げさせる行為も行われた<ref>[http://www.realcasadisavoia.it/files/comunicati/20060707_allegato1_en.pdf Pro Veritate analysis n.2 by Prof. Edoardo Adami]</ref>。 |
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別の分家筋である[[サヴォイア=アオスタ家]]の当主[[アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ]]は[[サヴォイア=カリニャーノ家]]の継承が先代当主の同意を得ていないとして、自らが対立請求者として行動した。一連の騒動でサヴォイア家はカリニャーノ派とアオスタ派に分かれての内紛が始まり、ややカリニャーノ派が優勢ながらも現在に至るまで一族内の対立は続いている。 |
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==ロッジP2== |
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[[フリーメイソン]]のロッジであることを隠れ蓑に、マフィアとの関係が深いネオファシストの[[リーチオ・ジェッリ]]代表のもと、[[アルゼンチン]]の軍事政権に対する武器買い付けや、[[マネーロンダリング]]などの違法行為が指摘され、[[1976年]]にフリーメイソンのロッジの認証が取り消された後も「認証されていないロッジ」として一部のメンバーにより活動が継続された「[[ロッジP2]]」のメンバーであったことが、イタリア[[警察]]により確認されている。 |
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またヴィットーリオは王位請求者としてだけでなく事業家として行動を起こした。初めは銀行業や航空機会社から、そして次第に武器密輸などの非合法事業などに手を広げていった<ref name="Popham2">{{cite news |first= Peter |last= Popham |title= The prince and the prostitutes |url= http://findarticles.com/p/articles/mi_qn4158/is_20060622/ai_n16494232/pg_1 |publisher= [[The Independent]] |date=2006-06-22 |accessdate=2008-04-10 |quote=Selling helicopters to his high and mighty friends was one of the prince's successful projects, from which he went on to become an arms dealer.}}</ref>。 |
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==関連項目== |
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* [[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]] |
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===銃撃事件=== |
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1978年8月18日、ヴィットーリオはコルシカ島のカバルロで停泊していたヨットに乗り込み、ライフル銃で乗船していた青年を射殺する事件を起こした。射殺された青年はディーク・ハマーという資産家の息子で本来ヴィットーリオが撃った相手の友人であったが、銃弾の流れ弾に当たって死亡した。1978年8月28日、ヴィットーリオは事件関与を否定していたものの被害者の資産家からの民事訴訟を受けている<ref name="Hamer">[http://www.worldlii.org/eu/cases/ECHR/1996/30.html HAMER v. FRANCE - 19953/92 [1996] ECHR 30 (7 August 1996)]</ref>。 |
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1989年10月11日にフランス警察から襲撃と武器の不法所持により逮捕されるが、13年前の事件という事もあって武器の[[M1ガーランド]]銃の不法所持のみが罪に問われた<ref name="Hamer"/>。内容は6ヶ月間の禁固刑と極めて軽い内容であった<ref>[http://sim.law.uu.nl/SIM/CaseLaw/Hof.nsf/d0cd2c2c444d8d94c12567c2002de990/f17b35d53bcc006dc1256640004c3306?OpenDocument Summary of trial proceedings concerned the killing of Dirk Hamer]</ref>。 |
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===イタリアへの帰国=== |
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イタリアの王政廃止は僅差により決定されており、共和国政府は王政復活を恐れてサヴォイア家当主の入国を禁止していた。ヴィットーリオは帰国許可を求める運動を起こし、1999年には欧州裁判所に帰国を身分により制限するのは基本的人権に違反しているとしてイタリア政府を提訴した<ref>{{cite court |litigants= Victor Emmanuel de Savoie v. Italy |vol= 656 |reporter= |opinion= to hold a hearing on the merits of the admissible complaints on a date to be fixed subsequently |pinpoint= |court= [[European Court of Human Rights]] |date= 2001-09-21 |url= http://www.echr.coe.int/eng/Press/2001/Sep/DecisiondeSavoieepresse.htm }}</ref>。共和国政府側も折れる事無く対立を続け、最終的にヴィットーリオが「形式的」ながらも共和制の存在を認め、国家主権の返還を求めない(王政復古の否定)と事と引き換えに帰国を決定した。 |
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2002年2月、ピエモンテ・ヴィネツィア公爵[[エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア|エマヌエーレ・フィリベルト]]と共に[[イタリア共和国憲法]]を承認する宣言を行った<ref>{{cite news |title= Vittorio Emanuele di Savoia: "Fedelta alla Costituzione" |url= http://www.repubblica.it/online/politica/savoia/fedeli/fedeli.html |publisher= [[La Repubblica]] |location= |date= February 2, 2002 |accessdate=2008-04-10 |language= Italian }}</ref>。これを受けて、2002年10月23日にイタリア共和国議会はサヴォイア家当主の入国禁止法を撤廃する法案を可決した。2002年11月10日に半世紀ぶりに故郷へと戻ったヴィットーリオはイタリア国内の要人と会見した後、[[ヴァチカン]]に招かれて教皇[[ヨハネ・パウロ2世]]と会談した<ref>{{cite news |first= Philip |last= Willan |title= Exiled Italian royals go home |url= http://www.guardian.co.uk/italy/story/0,12576,865055,00.html |publisher= [[The Guardian]] |date=2002-12-24 |accessdate=2008-04-10 }}</ref>。 |
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王政復古を行わない事を条件にしつつも、政府内には民衆の支持次第では再び王党派の反乱が起きるのではないかと不安に思う意見も見られた。だが既に王政廃止から50年間が経過しており、王政時代を知る住民は少数派になっていた。住民レベルでの反応は乏しく、大衆は既にサヴォイア家の復位という概念に無関心であった<ref name="Popham2"/>。またかつての出生地であるナポリでは両シチリア運動を支持するボルボニスト(ボルボン家派)と、サヴォイアニスト(サヴォイア家派)との衝突が起きた<ref>{{cite news |author=Johnston, Bruce |url=http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2003/03/16/witaly16.xml|publisher=[[Telegraph.co.uk]] |title= Italy's exiled royal family shunned as they return |date=2008-01-08 |accessdate=2008-04-24}}</ref>。 |
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王政復古の否定は度重なる問題行動に敵意を深めていた[[アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ]]らアオスタ派との対立を決定的にした。両者の対立はイタリアの王党派組織を巻き込んだものにまで発展していった。 |
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=== アオスタ公アメデーオ殴打事件 === |
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2004年、対立の最中に開かれたスペイン王[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]の晩餐会に招待されたヴィットーリオは同じく招待されていた[[アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ]]と口論になり、アメデーオの顔面を殴り飛ばした('''アオスタ公アメデーオ殴打事件''')。殴られたアメデーオは鼻血を出してその場に倒れ、階段を転げ落ちた<ref>[http://www.guardian.co.uk/spain/article/0,2763,1227375,00.html Right royal punch-up at Spanish prince's wedding]</ref><ref name="mcintosh">{{cite journal| last = McIntosh| first = David| title = The Sad Demise of the House of Savoy| journal = European Royal History Journal| volume = 8.6| issue = XLVIII| pages = 3?6| publisher = Arturo E. Beeche| date = 2005 12}}</ref>。 |
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ギリシャ王妃[[アンナ=マリア (ギリシャ王妃)|アンナ=マリア]]がアメデーオの出血を布で抑える間、訪れた[[フアン・カルロス1世 (スペイン王)|フアン・カルロス1世]]は「このような事は許されない」と晩餐会が請求者同士の諍いに利用された事に激怒したという<ref name="mcintosh"/>。 |
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=== 再逮捕 === |
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2006年6月16日、[[マフィア]]の犯罪事業に関わっていたとしてイタリア警察に拘束された<ref>{{cite news |first= Peter |last= Popham |title= Son of Italy's last king held over Mafia and prostitution claims |url= http://news.independent.co.uk/europe/article1089773.ece |publisher= [[The Independent]] |date=2006-06-17 |accessdate=2008-04-10 |quote= The son of Italy's last king, Prince Victor Emmanuel, has been arrested in the north Italian town of Lecco as part of an investigation into charges he was involved with the [[Sicilian Mafia]] and a prostitution racket.}}</ref>。事態に呼応して7月7日、アオスタ公アメデーオはサヴォイア家家長およびサヴォイア公の称号を名乗ることを宣言、ヴィットーリオも訴訟を起こしてアメデーオがサヴォイア公を称するのを差し止める裁判を起こした。 |
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2008年6月6日に最初の審理が開かれ、現在も裁判中である。 |
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== 家族 == |
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* 祖父:[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]](第3代イタリア王) |
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* 祖母:[[エレナ・デル・モンテネグロ]](モンテネグロ王女) |
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* 父:[[ウンベルト2世]](第4代イタリア王) |
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* 母:[[マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ]](ベルギー王女) |
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* 妻:[[:en:Marina, Princess of Naples|マリナ・リコルフィ・ドーリア]](モデル、スキー選手) |
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* 長男:[[エマヌエーレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア|エマヌエーレ・フィリベルト]](ピエモンテ・ヴィネツィア公) |
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==称号== |
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===騎士団=== |
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*団長 |
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** [[:en:Order of the Annunziata|聖ラザロ・モーリス騎士団]]総長([[聖ラザロ騎士団]]、聖モーリス騎士団の後身) |
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** [[:en:Order of the Annunziata|聖アンヌンツィアータ(聖なる受胎告知)騎士団]]総長 |
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==出典== |
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<references/> |
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{{サヴォイア家|[[サヴォイア家]]家長|1983年 - }} |
{{サヴォイア家|[[サヴォイア家]]家長|1983年 - }} |
2011年11月19日 (土) 08:16時点における版
ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア Vittorio Emanuele di Savoia | |
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サヴォイア=カリニャーノ家 (現・サヴォイア本家) | |
続柄 | 王太子 |
全名 |
Vittorio Emanuele Alberto Carlo Teodoro Umberto Bonifacio Amadeo Damiano Bernardino Gennaro Maria di Savoia ヴィットーリオ・エマヌエーレ・アルベルト・カルロ・テオドーロ・ウンベルト・ボニファツィオ・アマデオ・ダミアノ・ベルナルディノ・ジェンナロ・マリア・ディ・サヴォイア |
称号 |
ピエモンテ王 ナポリ公爵 |
身位 | 旧王族(イタリア王国) |
敬称 | ナポリ公(Prince of Naples) |
出生 |
1937年2月12日 イタリア王国カンパニア州ナポリ |
配偶者 | マリナ・リコルフィ・ドーリア |
子女 | エマヌエーレ・フィリベルト |
父親 | ウンベルト2世(イタリア王) |
母親 | マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ(ベルギー王女) |
役職 |
サヴォイア家当主 王位請求者 |
ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(Vittorio Emanuele di Savoia、1937年2月12日 - )はイタリア王国において最後の国王となったウンベルト2世の長男で、現サヴォイア家当主及び爵位・王位請求者。1946年の共和制移行により成立したイタリア共和国において王位のみならず全ての貴族称号は承認されていないが、国内に残る王党派は「ナポリ公爵ヴィットーリオ・エマヌエーレ」と敬称で呼んでいる。また一部急進派からは「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ4世」と呼ばれているとされる。
イタリア王位やナポリ公爵位以外にも様々な称号や継承権を父から引き継いでおり、その中にはエルサレム王の請求権まで含まれている。名誉ある血筋と継承権を持ち、欧州に数多く居る「没落貴族のコミュニティー」でも大物の一人と見なされている。しかしその一方で亡命先のスイス・フランスなどで様々な非合法事業に加わり、また私生活でも一族の反対を無視して貴賎結婚を行うなど身辺に問題の多い人物でもある。王党派やネオファシストらの秘密結社であるロッジP2との関連が報道された事もある。
経歴
生い立ち
1937年2月12日、王政時代のイタリアで当時はまだイタリア王太子であった父ウンベルト2世と、その妻であるベルギー王女マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョとの長男としてナポリの離宮で生まれる。祖父である第3代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は男児の孫を授かった事を喜び、赤子のヴィットーリオを膝に乗せている写真が残されている。祖父からはナポリ公爵の称号を与えられ、父が即位すると王太子の称号を譲られた。だが僅かに9才の時、王政廃止によってサヴォイア家や他のイタリア貴族達は亡命を強いられ、没落貴族に仲間入りせざるを得なくなった。祖父母はエジプトへ、王位を継いでいた父と母はポルトガルへと亡命した。
暫くして両親は実質的な別居状態に入り、母マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョに引き取られて妹達とスイスへと移住(現在でもヴィットーリオはスイスに邸宅を所有している)、幼少期を送った。
貴賎結婚
20歳の時、スイス人の女性スキー選手マリナ・リコルフィ・ドーリアと結婚する。平民(非貴族)との貴賎結婚は如何に没落貴族とはいえ家格を貶めると考えられ、父ウンベルト2世からは強く反対されたがヴィットーリオはこれを無視した。間に生まれた息子エマヌエーレ・フィリベルトにピエモンテ・ヴィネツィア公爵の称号を分与した。1969年、ヴィットーリオは自身が第5代イタリア王として国家主権を有すると宣言した[1][2]。貴賎結婚を巡る父との対立と家督問題が背景にあったと言われている[3]。王位請求者としての権限でリコルフィ・ドーリアをナポリ公爵夫人として強引に家格を引き上げさせる行為も行われた[4]。
別の分家筋であるサヴォイア=アオスタ家の当主アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタはサヴォイア=カリニャーノ家の継承が先代当主の同意を得ていないとして、自らが対立請求者として行動した。一連の騒動でサヴォイア家はカリニャーノ派とアオスタ派に分かれての内紛が始まり、ややカリニャーノ派が優勢ながらも現在に至るまで一族内の対立は続いている。
またヴィットーリオは王位請求者としてだけでなく事業家として行動を起こした。初めは銀行業や航空機会社から、そして次第に武器密輸などの非合法事業などに手を広げていった[5]。
銃撃事件
1978年8月18日、ヴィットーリオはコルシカ島のカバルロで停泊していたヨットに乗り込み、ライフル銃で乗船していた青年を射殺する事件を起こした。射殺された青年はディーク・ハマーという資産家の息子で本来ヴィットーリオが撃った相手の友人であったが、銃弾の流れ弾に当たって死亡した。1978年8月28日、ヴィットーリオは事件関与を否定していたものの被害者の資産家からの民事訴訟を受けている[6]。
1989年10月11日にフランス警察から襲撃と武器の不法所持により逮捕されるが、13年前の事件という事もあって武器のM1ガーランド銃の不法所持のみが罪に問われた[6]。内容は6ヶ月間の禁固刑と極めて軽い内容であった[7]。
イタリアへの帰国
イタリアの王政廃止は僅差により決定されており、共和国政府は王政復活を恐れてサヴォイア家当主の入国を禁止していた。ヴィットーリオは帰国許可を求める運動を起こし、1999年には欧州裁判所に帰国を身分により制限するのは基本的人権に違反しているとしてイタリア政府を提訴した[8]。共和国政府側も折れる事無く対立を続け、最終的にヴィットーリオが「形式的」ながらも共和制の存在を認め、国家主権の返還を求めない(王政復古の否定)と事と引き換えに帰国を決定した。
2002年2月、ピエモンテ・ヴィネツィア公爵エマヌエーレ・フィリベルトと共にイタリア共和国憲法を承認する宣言を行った[9]。これを受けて、2002年10月23日にイタリア共和国議会はサヴォイア家当主の入国禁止法を撤廃する法案を可決した。2002年11月10日に半世紀ぶりに故郷へと戻ったヴィットーリオはイタリア国内の要人と会見した後、ヴァチカンに招かれて教皇ヨハネ・パウロ2世と会談した[10]。
王政復古を行わない事を条件にしつつも、政府内には民衆の支持次第では再び王党派の反乱が起きるのではないかと不安に思う意見も見られた。だが既に王政廃止から50年間が経過しており、王政時代を知る住民は少数派になっていた。住民レベルでの反応は乏しく、大衆は既にサヴォイア家の復位という概念に無関心であった[5]。またかつての出生地であるナポリでは両シチリア運動を支持するボルボニスト(ボルボン家派)と、サヴォイアニスト(サヴォイア家派)との衝突が起きた[11]。
王政復古の否定は度重なる問題行動に敵意を深めていたアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタらアオスタ派との対立を決定的にした。両者の対立はイタリアの王党派組織を巻き込んだものにまで発展していった。
アオスタ公アメデーオ殴打事件
2004年、対立の最中に開かれたスペイン王フアン・カルロス1世の晩餐会に招待されたヴィットーリオは同じく招待されていたアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタと口論になり、アメデーオの顔面を殴り飛ばした(アオスタ公アメデーオ殴打事件)。殴られたアメデーオは鼻血を出してその場に倒れ、階段を転げ落ちた[12][13]。
ギリシャ王妃アンナ=マリアがアメデーオの出血を布で抑える間、訪れたフアン・カルロス1世は「このような事は許されない」と晩餐会が請求者同士の諍いに利用された事に激怒したという[13]。
再逮捕
2006年6月16日、マフィアの犯罪事業に関わっていたとしてイタリア警察に拘束された[14]。事態に呼応して7月7日、アオスタ公アメデーオはサヴォイア家家長およびサヴォイア公の称号を名乗ることを宣言、ヴィットーリオも訴訟を起こしてアメデーオがサヴォイア公を称するのを差し止める裁判を起こした。
2008年6月6日に最初の審理が開かれ、現在も裁判中である。
家族
- 祖父:ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(第3代イタリア王)
- 祖母:エレナ・デル・モンテネグロ(モンテネグロ王女)
- 父:ウンベルト2世(第4代イタリア王)
- 母:マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョ(ベルギー王女)
- 妻:マリナ・リコルフィ・ドーリア(モデル、スキー選手)
- 長男:エマヌエーレ・フィリベルト(ピエモンテ・ヴィネツィア公)
称号
騎士団
- 団長
- 聖ラザロ・モーリス騎士団総長(聖ラザロ騎士団、聖モーリス騎士団の後身)
- 聖アンヌンツィアータ(聖なる受胎告知)騎士団総長
出典
- ^ Royal Decree No. 1
- ^ Pro Veritate analysis n.1 by Prof. Edoardo Adami
- ^ Gigi Speroni, Umberto II, Milan, Riscoli Libri
- ^ Pro Veritate analysis n.2 by Prof. Edoardo Adami
- ^ a b Popham, Peter (2006年6月22日). “The prince and the prostitutes”. The Independent 2008年4月10日閲覧. "Selling helicopters to his high and mighty friends was one of the prince's successful projects, from which he went on to become an arms dealer."
- ^ a b HAMER v. FRANCE - 19953/92 [1996] ECHR 30 (7 August 1996)
- ^ Summary of trial proceedings concerned the killing of Dirk Hamer
- ^ Victor Emmanuel de Savoie v. Italy, 656 to hold a hearing on the merits of the admissible complaints on a date to be fixed subsequently (European Court of Human Rights 2001-09-21).
- ^ “Vittorio Emanuele di Savoia: "Fedelta alla Costituzione"” (Italian). La Repubblica. (February 2, 2002) 2008年4月10日閲覧。
- ^ Willan, Philip (2002年12月24日). “Exiled Italian royals go home”. The Guardian 2008年4月10日閲覧。
- ^ Johnston, Bruce (2008年1月8日). “Italy's exiled royal family shunned as they return”. Telegraph.co.uk 2008年4月24日閲覧。
- ^ Right royal punch-up at Spanish prince's wedding
- ^ a b McIntosh, David (2005 12). “The Sad Demise of the House of Savoy”. European Royal History Journal (Arturo E. Beeche) 8.6 (XLVIII): 3?6.
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