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'''樺太朝鮮人虐殺事件'''(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、[[1945年]][[8月]][[太平洋戦争]]終戦の混乱の中で、[[樺太]]で起きたという[[日本人]]による一連の朝鮮人虐殺事件。 |
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== 事件の経緯 == |
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2011年2月7日 (月) 17:18時点における版
樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きたという日本人による一連の朝鮮人虐殺事件。
概要
ソ連軍の南樺太侵攻による恐怖と混乱の中で、朝鮮人がソ連のスパイないしは協力者であるという風説が流れ、スパイ容疑をかけられた朝鮮人が虐殺されたとされている。
南樺太占領後のソ連の現場検証や賠償請求裁判などにおける朝鮮人側の主張によると、1945年8月18日(もしくは17日)に敷香郡敷香町上敷香(ポロナイスク)と、同年8月20日から8月23日にかけて真岡郡清水村瑞穂(ホルムスク)で事件が起こったとされる。(瑞穂村という行政区分ではなく、真岡郡清水村の一集落。)
事件の経緯
1945年8月11日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に無視し、南樺太に対して侵攻を開始した(樺太の戦い)。敷香町北部では国境を越えてきたソ連軍と日本軍(大日本帝国軍のこと。以降も同様)との戦闘が、日本(大日本帝国のこと。以降も同様)のポツダム宣言受諾後の8月15日以降も続いていた。
韓国の社会人類学者の崔吉城の論文によれば、この事件は以下のように進展した。南樺太の日本軍はソ連のスパイに対処するために、樺太少数民族(ウィルタ・ニヴフ・アイヌ)を利用して諜報活動を行っていたが、スパイに朝鮮人を起用することは少なかった[1]。この状況はソ連領であった北樺太でも同様で、ソ連は朝鮮人が日本人と見分けがつきにくく、日本のスパイであるという疑念を払うことができなかった。1937年になると、ソ連は沿海州と北樺太の朝鮮人を中央アジアに強制移住させた(高麗人)[2]。以上、樺太在住の朝鮮人に対する不信は日本側とソ連側双方にあり、このような不信感を背景として終戦直後、ソ連の樺太侵攻という混乱期に朝鮮人に対する虐殺が行われた。
ただし、証言と推論のみであり、事件を物語る状況証拠は未だ見つかっていない。また、諜報活動に際し、日ソ双方の領土に居住する現地原住民族を用いるのは当然である上に、日本人と区別がつき難い朝鮮人をあえて起用する理由が存在しない。「不信感から諜報員に不採用」「諜報員に不採用つまり不信感や民族差別」というような短慮な回答は著しく合理性を欠くことに留意する必要がある。[要出典]
敷香町上敷香
1945年8月17日(あるいは8月16日[3])、上敷香で19人の朝鮮人が「ソ連のスパイの疑いがある」という理由で警察署に連行され、うち18人が翌8月18日(あるいは8月17日)警察署内で射殺された。警察署の便所の汲み取り口から必死に逃げだした日本名中田という朝鮮人が、これを証言した[4]。
ただし、上敷香には、8月16日に義勇戦闘隊も含めた総員避難命令が出され、翌17日朝には日本軍のトラックによって残留していた全住民が南の敷香へと移されている。住民の避難後、約2500戸からなる上敷香市街には火が放たれ、さらにソ連軍機20機の空襲があって全焼している[5]。以上のように、17日から18日にかけて日本側の軍部も警察も、上記のような行動を取る余裕はなく、実行可能性も大変薄い。同地へのソ連軍の進駐は8月20日に行われたため、ソ連軍との混同も考え難い。[要出典]
清水村瑞穂
この地域では日本人と朝鮮人は混在して生活しており、朝鮮人は日本人農家の小作人や村の土木事業などを請け負う労働者として働いていた。1945年8月20日、ソ連軍がホルムスクに上陸すると、この地域にも戦争の危険が迫ってきた。北の日ソ国境方面から逃れてきた日本人たちは「赤軍の部隊に朝鮮人が協力している」「非難する日本人の物資を朝鮮人が略奪している」というような証言をし、村の日本人の危機感をあおった。瑞穂村の日本人は身の危険から隣家の朝鮮人たちを抹殺することを決意した。8月20日から8月23日にわたって27人の朝鮮人が惨殺された[6][7]。
ノンフィクション作家の林えいだい[8]によると、瑞穂事件では、事件後、ソ連側のKGBによる捜査が行われ、ウラジオストックで(ソ連軍主導の)軍事裁判が行われた。捜査記録の他、エ・エム・グドユーフ主法鑑査官の検証報告や、日本人被告人の法廷陳述などを証拠として、7名に死刑判決が下された[9]。
また林は、ガポニエンコ・コンスタンチン・エロフェエビッチが、1987年シベリア・ホムスクのKGBで、検事調書・死体発掘写真・死体鑑定書・判決文などを入手し、ソ連共産党機関紙『コミュニスト』に5回にわたって連載記事を書いたとしている[10]。
虐殺の背景
崔吉城は虐殺の背景として、樺太に入植した日本人が拳銃などを所持し、準武装していたことを挙げている。清水村瑞穂では在郷軍人会と青年会が日本人だけで組織されており、その会員は全員武器を所持して武装化していたことが原因であるとする[11]。
その後
1991年8月、虐殺事件被害者の遺族によって国を相手取って賠償請求の提訴がなされたが、1995年7月27日、東京地方裁判所は時効を理由に訴え自体を棄却した[12]。
参考文献
- 林えいだい 『証言・樺太朝鮮人虐殺事件』風媒社、1992年
- 崔吉城 「樺太における日本人の朝鮮人虐殺」『世界法史の単一性と複数性』(比較法史研究13)未來社、2005年 ISBN: 978-4624011697
- 崔吉城 『樺太朝鮮人の悲劇 サハリン朝鮮人の現在』第一書房、2007年5月 ISBN: 978-4-8042-0770-4
脚注
- ^ 樺太警察は朝鮮人の独立運動や独立思想への傾倒が強いことを警戒し、出身地・思想傾向などからランク付けをして厳重に監視した。(崔吉城、pp.289-291)
- ^ この移住政策については農業開拓移住のためという説もあるが、崔吉城は朝鮮人をスパイとして疑うスターリンの意向があるという。(崔吉城、p.290)
- ^ 旧ソ連の尋問に答えた朝鮮人の証言によると虐殺は8月17日におこなわれた。参照:サハリンレポートによる記事
- ^ 林えいだい、p.41。
- ^ 中山隆志『一九四五年夏 最後の日ソ戦』中公文庫、2001年、125頁、165頁。
- ^ 崔吉城、pp.291-296。
- ^ 崔吉城『樺太朝鮮人の悲劇』p.141 -182。
- ^ 林えいだいプロフィール
- ^ 林えいだい、p.252-290。
- ^ 林えいだい、P.252-257。
- ^ 崔吉城『樺太朝鮮人の悲劇』p.183 -201。
- ^ 『判例時報』一五六三号、P. 121。