「ドーリットル空襲」の版間の差分
記述洩れの修正 |
|||
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
15行目: | 15行目: | ||
| strength1=- |
| strength1=- |
||
| strength2=[[B-25 (航空機)|B-25]]x16機<br>空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]など<br>中華民国軍は基地を提供 |
| strength2=[[B-25 (航空機)|B-25]]x16機<br>空母[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]など<br>中華民国軍は基地を提供 |
||
| casualties1=死者 |
| casualties1=監視艇5隻沈没<br>戦闘機1、攻撃機1、爆撃機3機事故喪失<br>民間人死者87人、家屋262戸 |
||
| casualties2=戦死1名、行方不明2名、捕虜8名 |
| casualties2=B-25全損16機<br>艦爆1機事故喪失<br>戦死1名、行方不明2名、捕虜8名 |
||
|}} |
|}} |
||
'''ドーリットル空襲'''(-くうしゅう、[[英語]]:Doolittle Raid)、または'''ドゥリットル空襲'''とは、[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]][[4月18日]]に、[[アメリカ軍]]が、[[航空母艦]]に搭載した[[アメリカ陸軍|陸軍]]の[[爆撃機]]によって行った[[大日本帝国|日本]]本土に対する[[空襲]]である。なお作戦遂行において[[中華民国軍]]の支援を受けた。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。 |
'''ドーリットル空襲'''(-くうしゅう、[[英語]]:Doolittle Raid)、または'''ドゥリットル空襲'''とは、[[第二次世界大戦]]中の[[1942年]][[4月18日]]に、[[アメリカ軍]]が、[[航空母艦]]に搭載した[[アメリカ陸軍|陸軍]]の[[爆撃機]]によって行った[[大日本帝国|日本]]本土に対する[[空襲]]である。なお作戦遂行において[[中華民国軍]]の支援を受けた。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。 |
||
36行目: | 36行目: | ||
=== 空母艦載機による空襲計画 === |
=== 空母艦載機による空襲計画 === |
||
[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]は、真珠湾攻撃から間もない1942年1月16日の段階で、海軍に日本本土空襲の可能性を研究させていた<ref>『ドーリットル空襲秘録』11頁</ref>。1月31日、空母「ホーネット」を上空から視察した海軍作戦部作戦参謀フランシス・S・ロー海軍大佐は、双発爆撃機を空母から発進させるプランを思いつく。ローはこのアイデアを航空作戦参謀ドナルド・B・ダンカン海軍大佐に報告した<ref>『ドーリットル空襲秘録』12頁</ref>。2月1日、ノーフォーク沖でジョン・E・フィッツラルド海軍大尉とジェームス・F・マッカーシー海軍大尉がB-25を空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」から発進させることに成功する<ref>『ドーリットル空襲秘録』13頁</ref>。そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母から発艦させ、爆撃後には同盟国である[[中華民国]]の領土に着陸させてはどうだろうか」とルーズベルトに進言した。 |
|||
そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母から発艦させ、爆撃後には同盟国である[[中華民国]]の領土に着陸させてはどうだろうか」と[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]に進言。[[ノースアメリカン]][[B-25_(航空機)|B-25]]爆撃機を急遽、空母の短い[[飛行甲板]]から発進出来るように軽量化を図った。搭載されたB-25は、迎撃用の機銃なども含め多くの機材が撤去された。 |
|||
陸軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦はトップシークレットとされた。また、空母に着艦するのではなく、[[日本列島]]を横断して当時、[[日本軍]]と戦争中であり、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に[[中華民国国軍]]の誘導信号の下で着陸する予定となった。B-25を搭載する空母は[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]とされ、[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]が護衛に付くこととなった。 |
陸軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦の詳細は大統領にさえトップシークレットとされた。また、空母に着艦するのではなく、[[日本列島]]を横断して当時、[[日本軍]]と戦争中であり、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に[[中華民国国軍]]の誘導信号の下で着陸する予定となった。米軍はロシアのウラジオストックを避難場所とすることを検討し、ソ連に提案したが、日本と同盟を結んでいた同国は拒否した<ref>『ドーリットル空襲秘録』16頁</ref>。B-25を搭載する空母は「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」とされ、「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」が護衛に付くこととなった。 |
||
[[ノースアメリカン]][[B-25_(航空機)|B-25]]爆撃機の方は、第17爆撃隊(第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)から志願者を選別し、24機を抽出した。長距離飛行が要求されるため、燃料タンクを大幅に増設したほか、任務の性格上必要ないと判断されたノルデン爆撃照準器を取り外した<ref>『ドーリットル空襲秘録』18頁</ref>。4月1日、16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で空母「ホーネット」の甲板にクレーンで搭載された<ref>『ドーリットル空襲秘録』21頁</ref>。 |
|||
=== 参加兵力 === |
|||
'''第18任務部隊''' |
|||
* [[ウィリアム・ハルゼー|ウィリアム・F・ハルゼー]]中将 |
|||
*空母 「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」 |
|||
**重巡洋艦:[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]] |
|||
**重巡洋艦:[[ヴィンセンス (重巡洋艦)|ヴィンセンス]] |
|||
**軽巡洋艦:[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]] |
|||
*第52駆逐隊 |
|||
**駆逐艦:グイ、グレイソン、メレデス、モンセン |
|||
***給油艦:シマロン |
|||
(4月13日、ミッドウェー環礁北方で第16任務部隊と合同。同部隊に編入) |
|||
'''第16任務部隊''' |
|||
*空母 「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」 |
|||
**重巡洋艦:[[ソルトレイクシティ (重巡洋艦)|ソルトレイクシティ]] |
|||
**重巡洋艦:[[ノーザンプトン (重巡洋艦)|ノーザンプトン]] |
|||
**駆逐艦:ヴァルチ、ベンヘン、ファニング、エレット |
|||
***給油艦:サビン |
|||
== 経過 == |
== 経過 == |
||
[[Image:James H Doolittle medal bomb.jpg|thumb|200px| |
[[Image:James H Doolittle medal bomb.jpg|thumb|200px|日本の勲章を取り付けるジミー・ドーリットル中佐]] |
||
[[Image:No.23-NittoMaru.jpg|thumb|right|200px|第二十三日東丸]] |
[[Image:No.23-NittoMaru.jpg|thumb|right|200px|第二十三日東丸]] |
||
[[Image:No.23-NittoMaru-1942.jpg|thumb|right|200px|炎上する第二十三日東丸]] |
[[Image:No.23-NittoMaru-1942.jpg|thumb|right|200px|炎上する第二十三日東丸]] |
||
[[Image:Japanese fishing boat sunken by Doolittle-Raiders.jpg|thumb|right|200px|敵艦発見を報じた後、撃沈された日本の特設監視艇]] |
[[Image:Japanese fishing boat sunken by Doolittle-Raiders.jpg|thumb|right|200px|敵艦発見を報じた後、撃沈された日本の特設監視艇]] |
||
[[Image:Tokio Kid Say.png|thumb|right|200px|搭乗員を処刑した事に対するアメリカのプロパガンダ風刺画]] |
[[Image:Tokio Kid Say.png|thumb|right|200px|搭乗員を処刑した事に対するアメリカのプロパガンダ風刺画]] |
||
=== 艦隊発見 === |
|||
1942年4月1日、16機のB-25を搭載した空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」および護衛の[[巡洋艦]]3隻、[[駆逐艦]]3隻は[[サンフランシスコ]]を出撃した。途中、「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」と巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かった。攻撃予定日前日の4月17日、アメリカ海軍艦船レーダーに映った国籍不明の2隻の漁船を哨戒機で確認中に日本軍[[特設艦船#特設監視艇|特設監視艇]]「[[第二十三日東丸]]」に発見された。「第二十三日東丸」は軽巡「[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]」の砲撃で午前7時頃に撃沈され(「エンタープライズ」艦載機の攻撃も受けている)、乗員14人全員は艇と運命を共にした。発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたことで、爆撃隊は予定より早く空母「ホーネット」を発艦した。なお、「ナッシュビル」はもう1隻の監視艇(「長渡丸」)を撃沈している。 |
|||
1942年4月1日、16機のB-25を搭載した空母「[[ホーネット (CV-8)|ホーネット]]」および護衛の[[巡洋艦]]3隻、[[駆逐艦]]3隻は[[サンフランシスコ]]を出撃した。途中、「[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]」と巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かった。攻撃予定日前日の4月18日午前2時10分、空母「エンタープライズ」はレーダーに光点を2つ発見する<ref>『ドーリットル空襲秘録』28頁</ref>。艦隊は午前4時に索敵のための艦載機を発進させた。午前6時44分、艦隊は哨戒艇を視認。それは日本軍[[特設艦船#特設監視艇|特設監視艇]]「[[第二十三日東丸]]」に発見されたことを意味した<ref>『ドーリットル空襲秘録』29頁</ref>。「第二十三日東丸」は軽巡「[[ナッシュビル (軽巡洋艦)|ナッシュビル]]」の砲撃で午前7時23分に撃沈され、乗員14人全員は艇と運命を共にした。ただしナッシュビルは撃沈に6インチ砲弾915発と30分を必要とし、日東丸が無線を使う時間を与えてしまった<ref>『ドーリットル空襲秘録』39、142頁</ref>。さらに「エンタープライズ」を発進した[[SBDドーントレス]]は周辺の哨戒艇を攻撃。午前7時に「栗田丸」、午前10時に「海神丸」、午前11時に「第一岩手丸」と「第二旭丸」、「長久丸」。午前11時30分に「第一福久丸」、「興和丸」、「第二十六南進丸」。午後12時には「栄吉丸」と「栗田丸」(2回目)、「第三千代丸」をそれぞれ攻撃した<ref>『ドーリットル空襲秘録』39-42頁、142-151頁、206頁</ref>。「第一岩手丸」はSBDドーントレスの爆撃と機銃掃射で航行不能になり、翌日午後5時に沈没した。船員は潜水艦「[[伊一七四型潜水艦|伊七四]]」に救助された<ref>『ドーリットル空襲秘録』150頁</ref>。「長久丸」は機銃掃射で火災が発生し、翌日午前3時に沈没した。生存者は「栗田丸」に救助された<ref>『ドーリットル空襲秘録』143-144頁</ref>。「栄吉丸」はSBD1機と交戦し、航行不能。支援艦「赤城丸」に曳航されて本土に向かった。午後12時50分、「第二一南進丸」が至近弾で航行不能となり、翌日午後5時に軽巡洋艦「[[木曾 (軽巡洋艦)|木曾]]」が砲撃処分した。乗員は「木曽」に救助された<ref>『ドーリットル空襲秘録』148頁</ref>。午後1時36分、「ナッシュビル」が「長渡丸」を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めた。長渡丸の乗員9名が戦死し、5名が「ナッシュビル」に救助されている<ref>『ドーリットル空襲秘録』43、150頁</ref>。第二哨戒艇部隊は監視艇3隻と22名を失い、第三哨戒部隊は監視艇2隻と11名を失った<ref>『ドーリットル空襲秘録』212頁</ref>。 |
|||
このように米艦隊は発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたことで、爆撃隊は予定よりかなり早い午前7時20分に空母「ホーネット」を発艦した。最後のB-25が発進したのは午前8時19分で、米艦隊は直ちに退避を開始した<ref>『ドーリットル空襲秘録』36頁</ref>。なお、B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍武官補佐官ステファン・ユーリカ海軍中尉の所有物で、かつて日本から授与された勲章紀元2600年式典記念章がドーリットルの手で装着されていた<ref>『ドーリットル空襲秘録』82頁</ref>。 |
|||
第二十三日東丸の通報を受けた日本軍は、正午すぎに第十一航空艦隊指揮下の一式陸攻(魚雷装備)29機、零戦12機を米艦隊発見地点に向かわせた。しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった<ref>坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』(光人社、2000)26頁</ref>。 |
|||
=== 空襲 === |
|||
[[ジミー・ドーリットル]]中佐率いるB-25爆撃機16機は[[東京府]][[東京市]]、[[神奈川県]][[川崎市]]、[[横須賀市]]、[[愛知県]][[名古屋市]]、[[三重県]][[四日市市]]、[[兵庫県]][[神戸市]]を爆撃した。16機中15機が爆撃に成功した。特筆すべき機のみ記載する。 |
|||
ドーリットル機は茨城県から東京上空に侵入し、午後12時15分に空襲を行った。本当は陸軍造兵廠東京工廠を目標としたが、全く無関係の場所を爆撃してしまう<ref>『ドーリットル空襲秘録』50頁</ref>。結果、早稲田中学校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡、重傷者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。ドーリットル機は日本陸軍の[[九七式戦闘機]]の追尾をふりきり、海軍厚木基地近くを通過して海上に出た。この時厚木基地に配備されていた機体は、旧式の[[九六式艦上攻撃機]]だった<ref>『ドーリットル空襲秘録』52頁</ref>。 |
|||
なおこのうち一機(ホーネットを4番目に発艦した機長エベレット・W・ホームストロム[[少尉]]のB-25)は正規の防空戦闘機隊ではないキ61試作機([[三式戦闘機|三式戦闘機飛燕]])の追撃をうけ、翼内燃料タンク漏れと旋回銃故障に陥った{{要出典|date=2010年12月}}。 |
|||
相模湾を北上して侵入しようとした4番機(機長エベレット・W・ホームストロム[[少尉]])は、唯一爆弾を海上に捨てて離脱したB-25となった。機長は日本軍機多数に迎撃され、機銃も故障して離脱したと申告したが、対応する日本軍機は存在しない。事実、後述の横須賀航空隊の零戦小隊も、対空砲火の中を飛ぶB-25を発見(味方機と誤認)したが、交戦はしていない<ref>『ドーリットル空襲秘録』67頁</ref>。 |
|||
B-25は6番機が中国沿岸で不時着し、爆撃手ダイター軍曹と航空機関士フィッツマーリス伍長が死亡。機長ホールマーク中尉、副機長メダー少尉、ネルソン航空士が捕虜となった。16番機(ウィリアム・G・ファロウ中尉)は名古屋から和歌山に向かい、後に中国奥地で全員が捕虜になった。この16番機は各地で民間人に対する機銃掃射を行い、これが後の死刑判決に繋がった。 |
|||
B-25の8番機(エドワード・J・ヨーク大尉)は鹿島灘から侵入したが、燃料消費がはやく、北上して栃木県西那須野駅、新潟県阿賀野川鉄橋付近を爆撃しつつ、日本海へ抜けて[[ウラジオストク]]に向かった。午後7時35分に不時着したが、ソ連警察に拘留されてしまう。乗員は各地を転々と移送されたのち、イラクに脱出して、1943年5月29日にようやくアメリカに帰還した<ref>『ドーリットル空襲秘録』87頁</ref>。 |
|||
B-25の13番機(エドワード・E・マックエロイ中尉)は、房総半島の南部を横断して横須賀に向かった。記念艦「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」の上空から爆撃を開始し、3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドックで水上機母艦から空母へと改装中だった「大鯨」([[龍鳳 (空母)|龍鳳]])に命中。火災が発生した。13番機は日本海軍の中枢を爆撃することに成功し、対空砲火の中を離脱した。他にも14番機が名古屋を、15番機が神戸を爆撃した。 |
|||
空襲を終えた15機のB-25は日本本土南岸の洋上を飛んで中国大陸に向かった。この時、B-25は遭遇した船舶に対して機銃弾のある限り攻撃を行った<ref>『ドーリットル空襲秘録』125-129頁</ref>。午後3時、室戸岬沖で漁船「高島丸」が攻撃を受け重傷1名。午後4時、足摺岬沖で漁船「第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷。午後5時15分、鹿児島県口永良部島近海で漁船「昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出た。 |
|||
=== 日本軍の反応 === |
|||
4月18日午前6時30分、第二十三日東丸から「空母を含む機動部隊発見」という通報を受けた日本軍は警戒態勢を強めた。しかし日本海軍は、米軍の攻撃は航続距離の短い艦載機によるものと判断したことから、米軍機発進は19日早朝と推測した<ref>『ドーリットル空襲秘録』6、154頁</ref>。連合艦隊は「対米国艦隊作戦第三法」を下令し、本土近海に出現した米機動部隊の補足・撃滅を命じた。横須賀にいた軽空母「[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]」、重巡洋艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」と「[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]」、水上機母艦「[[瑞穂 (水上機母艦)|瑞穂]]」、駆逐艦「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」と「[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]」に加え、三河湾にいた重巡洋艦「[[摩耶 (重巡洋艦)|摩耶]]」、瀬戸内海にいた重巡洋艦「[[羽黒 (重巡洋艦)|羽黒]]」と「[[妙高 (重巡洋艦)|妙高]]」、軽巡洋艦「[[神通 (軽巡洋艦)|神通]]」、日本に帰投中の重巡洋艦「[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]」が米艦隊迎撃任務にあたることになった<ref>『ドーリットル空襲秘録』6-7頁</ref>。同時に第二六航空戦隊も戦闘準備を整えつつ、哨戒機を発進させた。 |
|||
日本海軍からの通報を受けた陸軍は、万一に備えて各地の航空隊と防空部隊に防衛と哨戒命令を出した。さらに敵爆撃機警戒警報を出したが、「敵機の高度は高い」の通達が各地の判断を惑わせる。このため各部隊はB-25編隊を発見しつつ、日本軍機と勘違いして上級司令部へ通報してしまう<ref>『ドーリットル空襲秘録』155頁</ref>。菅谷と岩屋監視哨はB-25を米軍機と断定して報告したが、電話交換手と監視隊本部との押し問答で15分を浪費し、情報は有効に生かされなかった<ref>『ドーリットル空襲秘録』155-156頁</ref>。かろうじてB-25の通過前に迎撃を開始した高射砲部隊もあったが、1928年製の[[八八式7.5cm野戦高射砲]]でB-25を補足することは出来なかった<ref>『ドーリットル空襲秘録』158-161頁</ref>。逆に高射砲弾の破片が市民7名を負傷させた。陸軍よりも海軍の高射砲台の方が活発に射撃したが、1発の命中弾もなく終わる<ref>『ドーリットル空襲秘録』162-166頁</ref>。横須賀軍港には多数の艦艇が停泊しており、重巡洋艦「[[愛宕 (重巡洋艦)|愛宕]]」、「[[高雄 (重巡洋艦)|高雄]]」、駆逐艦「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」、「[[野分 (陽炎型駆逐艦)|野分]]」、「[[朝潮 (朝潮型駆逐艦)|朝潮]]」、「[[荒潮 (駆逐艦)|荒潮]]」、「[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]」、「[[漣 (吹雪型駆逐艦)|漣]]」、「第二十二駆潜艇」が発砲したが、いずれも命中弾はなかった<ref>『ドーリットル空襲秘録』166頁</ref>。なお陸、海軍とも[[三八式歩兵銃]]による対空射撃が多数記録されているが、当然、全く命中しなかった。 |
|||
[[三沢海軍航空隊]][[第十一航空艦隊 (日本海軍)|第十一航空艦隊]]第二六航空戦隊の木更津基地からは、[[一式陸上攻撃機]]部隊が米艦隊捜索に発進した。第四索敵機(有川俊雄中尉)が双発飛行艇2機(B-25)を発見したのみで、米艦隊発見には至らなかった<ref>『ドーリットル空襲秘録』170頁</ref>。午後12時30分、第十一航空艦隊は敵艦隊の位置がわからないまま、一式陸攻(魚雷装備)30機、偶然内地に帰還していた空母「[[加賀 (空母)|加賀]]」所属の零戦24機を米艦隊発見地点に向かわせた。しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった<ref>坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』(光人社、2000)26頁</ref>。一式陸攻3機が墜落と不時着で失われ、零戦1機も不時着して大破した。三沢海軍航空隊は19日も空襲に備えて待機したが、もはや出番はなかった。 |
|||
B-25の大半の侵入ルートにあった水戸陸軍飛行学校は、本来航空通信と機上射手の教育を目的としていたため、航空戦力がなかった。平原金治教官/曹長が[[九七式戦闘機]]で出撃したものの、B-25には追いつけなかった<ref>『ドーリットル空襲秘録』99頁</ref>。陸軍飛行実験部からは、試作戦闘機「キ-61」([[三式戦闘機|三式戦「飛燕」]])が梅川亮三郎少尉の手で離陸した。キ-61はB-25の11番機(ロスグリーニング大尉)を補足し、白煙をふかせた。11番機は東京に侵入することができず、偶然発見した香取海軍飛行場を爆撃し、九十九里浜を抜けて離脱した<ref>『ドーリットル空襲秘録』99-103頁</ref>。なお大尉は日本軍戦闘機2機の撃墜を報告したが、キ-61は無事帰還した。また川崎を爆撃したB-25の9番機(ハロルド・F・ワトソン中尉)は、機関銃を4丁装備した引き込み脚の戦闘機から攻撃を受けたと報告したが、対応する日本機は存在しない<ref>『ドーリットル空襲秘録』175頁</ref>。 |
|||
さらに正午に翌日ラバウルへ送るために試験飛行をしていた海軍の十三試双発陸上戦闘機が横浜上空に高角砲の弾幕と山肌スレスレを飛行する双尾翼の双発機を目撃して操縦していた小野飛曹長は[[九六式陸上攻撃機]]かと思ったものの当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていて米軍機かもしれないと考えて、陸軍のキ61とは違い実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず急いで木更津基地へ滑り込んだ{{要出典|date=2010年12月}}。 |
さらに正午に翌日ラバウルへ送るために試験飛行をしていた海軍の十三試双発陸上戦闘機が横浜上空に高角砲の弾幕と山肌スレスレを飛行する双尾翼の双発機を目撃して操縦していた小野飛曹長は[[九六式陸上攻撃機]]かと思ったものの当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていて米軍機かもしれないと考えて、陸軍のキ61とは違い実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず急いで木更津基地へ滑り込んだ{{要出典|date=2010年12月}}。 |
||
横須賀航空隊からは、[[宮崎勇 (軍人)|宮崎勇]]飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは着陸してからだった<ref>宮崎勇『還って来た紫電改 <small>紫電改戦闘機隊物語</small>』(光人社、1993年 |
横須賀航空隊からは、[[宮崎勇 (軍人)|宮崎勇]]飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは着陸してからだった<ref>宮崎勇『還って来た紫電改 <small>紫電改戦闘機隊物語</small>』(光人社、1993年)14-16頁</ref>。 |
||
東海地区では、B-25到達までに時間があったことから、空襲前に迎撃機が発進した。鈴鹿海軍航空隊から[[九六式艦上戦闘機]]9機、[[九六式艦上攻撃機]]4機、[[九七式艦上攻撃機]]6機が出撃したが、空振りに終わった。「陸上爆撃機は高高度襲来」の思い込みから高高度で待機し、少数機が低空で飛行するB-25を見落とした結果だった。逆に洋上哨戒に出た九七式艦上攻撃機1機が不時着し、乗員は救助された<ref>『ドーリットル空襲秘録』177頁</ref>。陸軍からは[[明野陸軍飛行学校]]が臨時防空戦闘機隊を編成し、[[一式戦闘機|一式戦闘機(隼)]]3機、[[九七式戦闘機]]15機に飛行学校教官が搭乗して離陸した。この部隊もB-25と遭遇できずに帰還した<ref>『ドーリットル空襲秘録』178頁</ref>。阪神地区では、陸軍飛行第十三戦隊が空襲にまったく対応できず、出撃記録も不明である。ただし、B-25の15番機が神戸上空で九七式戦闘機2機を目撃している。海軍は阪神地区の防空を担当しておらず、動きはなかった。岩国航空隊が所属機を横須賀に派遣したのみである。 |
|||
⚫ | 日本側には |
||
洋上では、佐伯空所属の[[九九式艦上爆撃機]]2機が午後3時47分に高知県足摺岬沖でB-25を発見した。井上文刀大尉は追跡を命じたが、速度の遅い艦上爆撃機ではいかんともしがたく、振り切られた。午後4時17分には、宮崎県都井岬沖で駆逐艦「[[黒潮 (駆逐艦)|黒潮]]」がB-25数機を発見し、主砲と機銃で攻撃したが、損害を与えることはできなかった<ref>『ドーリットル空襲秘録』125頁</ref>。 |
|||
⚫ | 爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部に |
||
== 結果 == |
|||
⚫ | |||
⚫ | 日本側には死者87名、重軽傷者466名、家屋262戸の被害が出た<ref>『ドーリットル空襲秘録』211頁</ref>。[[国際法]]上禁止されている非戦闘員に対する攻撃に至った機もあり、[[葛飾区]]にある水元国民学校高等科の少年 石出巳之助が[[機銃掃射]]を受け死亡した<ref name="sakuramoto">{{cite web|url=http://www.sakuramo.to/profile/student008.html |title=第8回 教育塔(2) |author=[[櫻本富雄]] |accessdate=2010-06-06}}</ref>。この学童には「悲運銃撃善士」という[[戒名]]が与えられた<ref name="sakuramoto"/>。また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。ただし、このB-25(3番機)は学校屋上に設置されていた防空監視櫓を見て軍事施設と誤認した可能性が高い<ref>『ドーリットル空襲秘録』64頁</ref>。14番機は名古屋病院を爆撃したが、これは第三師団司令部を狙った攻撃がそれたためである<ref>『ドーリットル空襲秘録』112頁</ref>。16番機は他のB-25に比べて積極的に機銃掃射を行った。 |
||
⚫ | 爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュート脱出した。この結果、15機のB-25が全損となった。8番機はソ連の[[ウラジオストク]]に不時着、乗員は抑留された。乗員は戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となったのが8名で、残りはアメリカへ帰還した。[[大本営]]はこの被害を隠蔽し、「敵機9機を撃墜。損害軽微」などと発表した。しかし当日は晴天であり、墜落した航空機など市民からは一機も確認されなかったため、大本営の発表に対し、『皇軍は空機(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ』と揶揄するものもいた<ref>佐々木冨秦・網谷りょういち「続・事故の鉄道史」([[日本経済評論社]]、1995年)の77頁で、著者の佐々木冨秦が読売新聞社の記者をしていた兄の話として記述されている。</ref>。そのため日本陸軍は中国に不時着したB-25の残骸を回収し、4月25日から靖国神社で展示して、国民の疑念を晴らそうとした<ref>『ドーリットル空襲秘録』191頁</ref>。 |
||
⚫ | |||
日本軍は空襲に対して疑心暗鬼となった。空襲前日の4月17日、伊豆諸島沖を航行していたソ連商船「セルゲイ・キロフ」が駆逐艦「[[澤風 (駆逐艦)|澤風]]」の臨検を無視して逃走し、「澤風」が拿捕した。ソ連船は4月22日まで拘留された。足摺岬沖のソ連商船「バンゼッチ」も、九九式艦爆2機から威嚇射撃を受けた。これはソ連商船がB-25の行動を本国に報告しており、空襲と関係があるものと疑ったためである<ref>『ドーリットル空襲秘録』182頁</ref>。空襲後は各地の監視哨から存在しない敵大編隊発見の報告が入り、上級司令部を混乱させた。カモメの大群を「敵味方不明の大編隊」とする報告や、存在しない米軍機との交戦報告が多数よせられている<ref>『ドーリットル空襲秘録』183-184頁</ref>。また陸海軍機に対する誤認と誤射が18日から21日にかけて多数発生し<ref>『ドーリットル空襲秘録』186-188頁</ref>、鹿島空の[[九六式陸上攻撃機]]が陸軍戦闘機から誤射され、高橋光夫電信員が戦死した。 |
|||
⚫ | |||
⚫ | |||
これに対してアメリカは、『[[野蛮|野蛮人]]の蛮行』として大々的に[[プロパガンダ]]に利用した。また日本の指導者であった[[東条英機]]を「血に飢えた独裁者」であると宣伝し、現在もアメリカ国内ではそのように認識されている。1944年にこれら捕虜を描いた映画『パープル・ハート』が20世紀フォックスによって製作された。 |
これに対してアメリカは、『[[野蛮|野蛮人]]の蛮行』として大々的に[[プロパガンダ]]に利用した。また日本の指導者であった[[東条英機]]を「血に飢えた独裁者」であると宣伝し、現在もアメリカ国内ではそのように認識されている。1944年にこれら捕虜を描いた映画『パープル・ハート』が20世紀フォックスによって製作された。 |
||
85行目: | 135行目: | ||
== エピソード == |
== エピソード == |
||
=== 東条機とすれ違う === |
=== 東条機とすれ違う === |
||
首相だった東条英機は、この日の午前中に宇都宮市内を視察した後、次の目的地である水戸に大臣専用機で向かった。水戸上空 |
首相だった東条英機は、この日の午前中に宇都宮市内を視察した後、次の目的地である水戸に大臣専用機で向かった。正午、専用機は水戸上空でドーリットル機と約20kmの距離ですれ違った<ref>『ドーリットル空襲秘録』9頁</ref>。東条は同乗した秘書官に「あれはアメリカ(の飛行機)だぞ」と叫んだ。秘書官によれば双方の顔が見える距離まで接近していたという。アメリカ側も東条の飛行機を銃撃せずそのまま西へ向かった。東条の飛行機が飛行場に着陸するや、東条は「すぐ飛行機で(東京に)帰る」と言い出したが、周囲が「東京の警戒を混乱させる」という理由で、水戸発午後3時の列車で帰京させた<ref>『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』P.78 中公新書ラクレ 2010年</ref>。なお連合艦隊司令長官[[山本五十六]]は、腹痛で勤務を休んでいた。 |
||
=== シャングリラ === |
=== シャングリラ === |
||
93行目: | 143行目: | ||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
{{ |
{{脚注ヘルプ}} |
||
{{reflist|2}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
* 柴田武彦、原勝洋『<small>日米全調査</small> ドーリットル空襲秘録』(三修社、2003) |
|||
* 工藤洋三、奥住喜重『写真が語る日本空襲』(現代史料出版、2008) |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2011年2月11日 (金) 16:48時点における版
ドーリットル空襲 | |
---|---|
空母から発艦するドーリットル隊所属のB-25 | |
戦争:太平洋戦争/大東亜戦争 | |
年月日:1942年4月18日 | |
場所:東京 | |
結果:- | |
交戦勢力 | |
日本軍 | アメリカ軍、中華民国軍 |
指導者・指揮官 | |
- | ジミー・ドーリットル中佐 |
戦力 | |
- | B-25x16機 空母ホーネット、エンタープライズなど 中華民国軍は基地を提供 |
損害 | |
監視艇5隻沈没 戦闘機1、攻撃機1、爆撃機3機事故喪失 民間人死者87人、家屋262戸 |
B-25全損16機 艦爆1機事故喪失 戦死1名、行方不明2名、捕虜8名 |
ドーリットル空襲(-くうしゅう、英語:Doolittle Raid)、またはドゥリットル空襲とは、第二次世界大戦中の1942年4月18日に、アメリカ軍が、航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った日本本土に対する空襲である。なお作戦遂行において中華民国軍の支援を受けた。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。
背景
相次ぐアメリカ本土攻撃
1941年12月8日に行われた真珠湾攻撃以降、アメリカ軍は日本軍に対して各方面で一方的な敗退を続け、さらに開戦後には、同攻撃の援護を行っていた日本海軍の巡潜乙型潜水艦計9隻(伊9、伊10、伊15、伊17、伊19、伊21、伊23、伊25、伊26[1]。10隻との記録もある)は、太平洋のアメリカとカナダ、メキシコの西海岸に展開し、12月20日頃より連合国、特にアメリカに対する通商破壊戦を展開した。
その結果、翌年上旬までにアメリカ西海岸沿岸を航行中のアメリカのタンカーや貨物船を5隻撃沈、5隻大破し、その総トン数は6万4669トンに上った。中には西海岸沿岸の住宅街の沖わずか数キロにおいて、日中に多くの市民が見ている目前で貨物船を撃沈した他、浮上して艦船への砲撃を行い撃沈するなど、派手な作戦を行った。
さらに1942年2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を行うなど[2]、一連の本土への先制攻撃を行った。
日本本土攻撃計画
これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は、これまで長い間本土を攻撃された経験のないアメリカ政府のみならず国民に大きな衝撃を与え、この様な状況を受けて、アメリカ軍は士気を高める方策として帝都、東京を攻撃する計画を立てた。
しかし、当時アジア太平洋の各地域で敗退を続けていたアメリカ海軍の潜水艦は、警戒の厳しい日本本土を砲撃することのみならず、近付くにも大きな危険が伴うために、海軍艦船による砲撃は行えないと考えられた。さらに当時アメリカ海軍は、航空機を搭載した大型潜水艦を所有していなかった。
また、アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆撃のためには空母を日本近海に接近させる必要があり、これは太平洋上で唯一動ける空母機動部隊が危険に晒されることを意味した。
空母艦載機による空襲計画
ルーズベルト大統領は、真珠湾攻撃から間もない1942年1月16日の段階で、海軍に日本本土空襲の可能性を研究させていた[3]。1月31日、空母「ホーネット」を上空から視察した海軍作戦部作戦参謀フランシス・S・ロー海軍大佐は、双発爆撃機を空母から発進させるプランを思いつく。ローはこのアイデアを航空作戦参謀ドナルド・B・ダンカン海軍大佐に報告した[4]。2月1日、ノーフォーク沖でジョン・E・フィッツラルド海軍大尉とジェームス・F・マッカーシー海軍大尉がB-25を空母「ホーネット」から発進させることに成功する[5]。そんな中、アメリカ海軍の潜水艦乗組員が「航続距離の長い陸軍の爆撃機を空母から発艦させ、爆撃後には同盟国である中華民国の領土に着陸させてはどうだろうか」とルーズベルトに進言した。
陸軍爆撃機の空母からの発艦は実戦では初であり、この作戦の詳細は大統領にさえトップシークレットとされた。また、空母に着艦するのではなく、日本列島を横断して当時、日本軍と戦争中であり、連合国軍の主要構成国の1国であった中華民国東部に中華民国国軍の誘導信号の下で着陸する予定となった。米軍はロシアのウラジオストックを避難場所とすることを検討し、ソ連に提案したが、日本と同盟を結んでいた同国は拒否した[6]。B-25を搭載する空母は「ホーネット」とされ、「エンタープライズ」が護衛に付くこととなった。
ノースアメリカンB-25爆撃機の方は、第17爆撃隊(第34、第37、第95爆撃中隊、第89偵察中隊)から志願者を選別し、24機を抽出した。長距離飛行が要求されるため、燃料タンクを大幅に増設したほか、任務の性格上必要ないと判断されたノルデン爆撃照準器を取り外した[7]。4月1日、16機がサンフランシスコ・アラメダ埠頭で空母「ホーネット」の甲板にクレーンで搭載された[8]。
参加兵力
第18任務部隊
- ウィリアム・F・ハルゼー中将
- 空母 「ホーネット」
- 第52駆逐隊
- 駆逐艦:グイ、グレイソン、メレデス、モンセン
- 給油艦:シマロン
- 駆逐艦:グイ、グレイソン、メレデス、モンセン
(4月13日、ミッドウェー環礁北方で第16任務部隊と合同。同部隊に編入)
第16任務部隊
経過
艦隊発見
1942年4月1日、16機のB-25を搭載した空母「ホーネット」および護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。途中、「エンタープライズ」と巡洋艦2隻、駆逐艦4隻と合流し、日本へ向かった。攻撃予定日前日の4月18日午前2時10分、空母「エンタープライズ」はレーダーに光点を2つ発見する[9]。艦隊は午前4時に索敵のための艦載機を発進させた。午前6時44分、艦隊は哨戒艇を視認。それは日本軍特設監視艇「第二十三日東丸」に発見されたことを意味した[10]。「第二十三日東丸」は軽巡「ナッシュビル」の砲撃で午前7時23分に撃沈され、乗員14人全員は艇と運命を共にした。ただしナッシュビルは撃沈に6インチ砲弾915発と30分を必要とし、日東丸が無線を使う時間を与えてしまった[11]。さらに「エンタープライズ」を発進したSBDドーントレスは周辺の哨戒艇を攻撃。午前7時に「栗田丸」、午前10時に「海神丸」、午前11時に「第一岩手丸」と「第二旭丸」、「長久丸」。午前11時30分に「第一福久丸」、「興和丸」、「第二十六南進丸」。午後12時には「栄吉丸」と「栗田丸」(2回目)、「第三千代丸」をそれぞれ攻撃した[12]。「第一岩手丸」はSBDドーントレスの爆撃と機銃掃射で航行不能になり、翌日午後5時に沈没した。船員は潜水艦「伊七四」に救助された[13]。「長久丸」は機銃掃射で火災が発生し、翌日午前3時に沈没した。生存者は「栗田丸」に救助された[14]。「栄吉丸」はSBD1機と交戦し、航行不能。支援艦「赤城丸」に曳航されて本土に向かった。午後12時50分、「第二一南進丸」が至近弾で航行不能となり、翌日午後5時に軽巡洋艦「木曾」が砲撃処分した。乗員は「木曽」に救助された[15]。午後1時36分、「ナッシュビル」が「長渡丸」を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めた。長渡丸の乗員9名が戦死し、5名が「ナッシュビル」に救助されている[16]。第二哨戒艇部隊は監視艇3隻と22名を失い、第三哨戒部隊は監視艇2隻と11名を失った[17]。
このように米艦隊は発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたことで、爆撃隊は予定よりかなり早い午前7時20分に空母「ホーネット」を発艦した。最後のB-25が発進したのは午前8時19分で、米艦隊は直ちに退避を開始した[18]。なお、B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍武官補佐官ステファン・ユーリカ海軍中尉の所有物で、かつて日本から授与された勲章紀元2600年式典記念章がドーリットルの手で装着されていた[19]。
空襲
ジミー・ドーリットル中佐率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市、兵庫県神戸市を爆撃した。16機中15機が爆撃に成功した。特筆すべき機のみ記載する。
ドーリットル機は茨城県から東京上空に侵入し、午後12時15分に空襲を行った。本当は陸軍造兵廠東京工廠を目標としたが、全く無関係の場所を爆撃してしまう[20]。結果、早稲田中学校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡、重傷者4名、軽傷者15名、家屋50棟という被害が出た。ドーリットル機は日本陸軍の九七式戦闘機の追尾をふりきり、海軍厚木基地近くを通過して海上に出た。この時厚木基地に配備されていた機体は、旧式の九六式艦上攻撃機だった[21]。
相模湾を北上して侵入しようとした4番機(機長エベレット・W・ホームストロム少尉)は、唯一爆弾を海上に捨てて離脱したB-25となった。機長は日本軍機多数に迎撃され、機銃も故障して離脱したと申告したが、対応する日本軍機は存在しない。事実、後述の横須賀航空隊の零戦小隊も、対空砲火の中を飛ぶB-25を発見(味方機と誤認)したが、交戦はしていない[22]。
B-25は6番機が中国沿岸で不時着し、爆撃手ダイター軍曹と航空機関士フィッツマーリス伍長が死亡。機長ホールマーク中尉、副機長メダー少尉、ネルソン航空士が捕虜となった。16番機(ウィリアム・G・ファロウ中尉)は名古屋から和歌山に向かい、後に中国奥地で全員が捕虜になった。この16番機は各地で民間人に対する機銃掃射を行い、これが後の死刑判決に繋がった。
B-25の8番機(エドワード・J・ヨーク大尉)は鹿島灘から侵入したが、燃料消費がはやく、北上して栃木県西那須野駅、新潟県阿賀野川鉄橋付近を爆撃しつつ、日本海へ抜けてウラジオストクに向かった。午後7時35分に不時着したが、ソ連警察に拘留されてしまう。乗員は各地を転々と移送されたのち、イラクに脱出して、1943年5月29日にようやくアメリカに帰還した[23]。
B-25の13番機(エドワード・E・マックエロイ中尉)は、房総半島の南部を横断して横須賀に向かった。記念艦「三笠」の上空から爆撃を開始し、3発目の爆弾が、横須賀軍港第4ドックで水上機母艦から空母へと改装中だった「大鯨」(龍鳳)に命中。火災が発生した。13番機は日本海軍の中枢を爆撃することに成功し、対空砲火の中を離脱した。他にも14番機が名古屋を、15番機が神戸を爆撃した。
空襲を終えた15機のB-25は日本本土南岸の洋上を飛んで中国大陸に向かった。この時、B-25は遭遇した船舶に対して機銃弾のある限り攻撃を行った[24]。午後3時、室戸岬沖で漁船「高島丸」が攻撃を受け重傷1名。午後4時、足摺岬沖で漁船「第二三木丸」が2機に銃撃され、2名が死傷。午後5時15分、鹿児島県口永良部島近海で漁船「昌栄丸」が機銃掃射を受け、重傷1名が出た。
日本軍の反応
4月18日午前6時30分、第二十三日東丸から「空母を含む機動部隊発見」という通報を受けた日本軍は警戒態勢を強めた。しかし日本海軍は、米軍の攻撃は航続距離の短い艦載機によるものと判断したことから、米軍機発進は19日早朝と推測した[25]。連合艦隊は「対米国艦隊作戦第三法」を下令し、本土近海に出現した米機動部隊の補足・撃滅を命じた。横須賀にいた軽空母「祥鳳」、重巡洋艦「愛宕」と「高雄」、水上機母艦「瑞穂」、駆逐艦「嵐」と「野分」に加え、三河湾にいた重巡洋艦「摩耶」、瀬戸内海にいた重巡洋艦「羽黒」と「妙高」、軽巡洋艦「神通」、日本に帰投中の重巡洋艦「鳥海」が米艦隊迎撃任務にあたることになった[26]。同時に第二六航空戦隊も戦闘準備を整えつつ、哨戒機を発進させた。
日本海軍からの通報を受けた陸軍は、万一に備えて各地の航空隊と防空部隊に防衛と哨戒命令を出した。さらに敵爆撃機警戒警報を出したが、「敵機の高度は高い」の通達が各地の判断を惑わせる。このため各部隊はB-25編隊を発見しつつ、日本軍機と勘違いして上級司令部へ通報してしまう[27]。菅谷と岩屋監視哨はB-25を米軍機と断定して報告したが、電話交換手と監視隊本部との押し問答で15分を浪費し、情報は有効に生かされなかった[28]。かろうじてB-25の通過前に迎撃を開始した高射砲部隊もあったが、1928年製の八八式7.5cm野戦高射砲でB-25を補足することは出来なかった[29]。逆に高射砲弾の破片が市民7名を負傷させた。陸軍よりも海軍の高射砲台の方が活発に射撃したが、1発の命中弾もなく終わる[30]。横須賀軍港には多数の艦艇が停泊しており、重巡洋艦「愛宕」、「高雄」、駆逐艦「嵐」、「野分」、「朝潮」、「荒潮」、「潮」、「漣」、「第二十二駆潜艇」が発砲したが、いずれも命中弾はなかった[31]。なお陸、海軍とも三八式歩兵銃による対空射撃が多数記録されているが、当然、全く命中しなかった。
三沢海軍航空隊第十一航空艦隊第二六航空戦隊の木更津基地からは、一式陸上攻撃機部隊が米艦隊捜索に発進した。第四索敵機(有川俊雄中尉)が双発飛行艇2機(B-25)を発見したのみで、米艦隊発見には至らなかった[32]。午後12時30分、第十一航空艦隊は敵艦隊の位置がわからないまま、一式陸攻(魚雷装備)30機、偶然内地に帰還していた空母「加賀」所属の零戦24機を米艦隊発見地点に向かわせた。しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった[33]。一式陸攻3機が墜落と不時着で失われ、零戦1機も不時着して大破した。三沢海軍航空隊は19日も空襲に備えて待機したが、もはや出番はなかった。
B-25の大半の侵入ルートにあった水戸陸軍飛行学校は、本来航空通信と機上射手の教育を目的としていたため、航空戦力がなかった。平原金治教官/曹長が九七式戦闘機で出撃したものの、B-25には追いつけなかった[34]。陸軍飛行実験部からは、試作戦闘機「キ-61」(三式戦「飛燕」)が梅川亮三郎少尉の手で離陸した。キ-61はB-25の11番機(ロスグリーニング大尉)を補足し、白煙をふかせた。11番機は東京に侵入することができず、偶然発見した香取海軍飛行場を爆撃し、九十九里浜を抜けて離脱した[35]。なお大尉は日本軍戦闘機2機の撃墜を報告したが、キ-61は無事帰還した。また川崎を爆撃したB-25の9番機(ハロルド・F・ワトソン中尉)は、機関銃を4丁装備した引き込み脚の戦闘機から攻撃を受けたと報告したが、対応する日本機は存在しない[36]。
さらに正午に翌日ラバウルへ送るために試験飛行をしていた海軍の十三試双発陸上戦闘機が横浜上空に高角砲の弾幕と山肌スレスレを飛行する双尾翼の双発機を目撃して操縦していた小野飛曹長は九六式陸上攻撃機かと思ったものの当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていて米軍機かもしれないと考えて、陸軍のキ61とは違い実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず急いで木更津基地へ滑り込んだ[要出典]。
横須賀航空隊からは、宮崎勇飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは着陸してからだった[37]。
東海地区では、B-25到達までに時間があったことから、空襲前に迎撃機が発進した。鈴鹿海軍航空隊から九六式艦上戦闘機9機、九六式艦上攻撃機4機、九七式艦上攻撃機6機が出撃したが、空振りに終わった。「陸上爆撃機は高高度襲来」の思い込みから高高度で待機し、少数機が低空で飛行するB-25を見落とした結果だった。逆に洋上哨戒に出た九七式艦上攻撃機1機が不時着し、乗員は救助された[38]。陸軍からは明野陸軍飛行学校が臨時防空戦闘機隊を編成し、一式戦闘機(隼)3機、九七式戦闘機15機に飛行学校教官が搭乗して離陸した。この部隊もB-25と遭遇できずに帰還した[39]。阪神地区では、陸軍飛行第十三戦隊が空襲にまったく対応できず、出撃記録も不明である。ただし、B-25の15番機が神戸上空で九七式戦闘機2機を目撃している。海軍は阪神地区の防空を担当しておらず、動きはなかった。岩国航空隊が所属機を横須賀に派遣したのみである。
洋上では、佐伯空所属の九九式艦上爆撃機2機が午後3時47分に高知県足摺岬沖でB-25を発見した。井上文刀大尉は追跡を命じたが、速度の遅い艦上爆撃機ではいかんともしがたく、振り切られた。午後4時17分には、宮崎県都井岬沖で駆逐艦「黒潮」がB-25数機を発見し、主砲と機銃で攻撃したが、損害を与えることはできなかった[40]。
結果
日本側には死者87名、重軽傷者466名、家屋262戸の被害が出た[41]。国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃に至った機もあり、葛飾区にある水元国民学校高等科の少年 石出巳之助が機銃掃射を受け死亡した[42]。この学童には「悲運銃撃善士」という戒名が与えられた[42]。また、日本軍の航空機と勘違いし、手を振った学童に対しても機銃掃射したが死者は出なかった。ただし、このB-25(3番機)は学校屋上に設置されていた防空監視櫓を見て軍事施設と誤認した可能性が高い[43]。14番機は名古屋病院を爆撃したが、これは第三師団司令部を狙った攻撃がそれたためである[44]。16番機は他のB-25に比べて積極的に機銃掃射を行った。
爆撃機隊は日本列島を横断し、中華民国東部にて乗員はパラシュート脱出した。この結果、15機のB-25が全損となった。8番機はソ連のウラジオストクに不時着、乗員は抑留された。乗員は戦死が1名、行方不明が2名、捕虜となったのが8名で、残りはアメリカへ帰還した。大本営はこの被害を隠蔽し、「敵機9機を撃墜。損害軽微」などと発表した。しかし当日は晴天であり、墜落した航空機など市民からは一機も確認されなかったため、大本営の発表に対し、『皇軍は空機(9機と空気をかけた駄洒落)を撃墜したのだ』と揶揄するものもいた[45]。そのため日本陸軍は中国に不時着したB-25の残骸を回収し、4月25日から靖国神社で展示して、国民の疑念を晴らそうとした[46]。
日本軍は空襲に対して疑心暗鬼となった。空襲前日の4月17日、伊豆諸島沖を航行していたソ連商船「セルゲイ・キロフ」が駆逐艦「澤風」の臨検を無視して逃走し、「澤風」が拿捕した。ソ連船は4月22日まで拘留された。足摺岬沖のソ連商船「バンゼッチ」も、九九式艦爆2機から威嚇射撃を受けた。これはソ連商船がB-25の行動を本国に報告しており、空襲と関係があるものと疑ったためである[47]。空襲後は各地の監視哨から存在しない敵大編隊発見の報告が入り、上級司令部を混乱させた。カモメの大群を「敵味方不明の大編隊」とする報告や、存在しない米軍機との交戦報告が多数よせられている[48]。また陸海軍機に対する誤認と誤射が18日から21日にかけて多数発生し[49]、鹿島空の九六式陸上攻撃機が陸軍戦闘機から誤射され、高橋光夫電信員が戦死した。
一方、日本軍に逮捕された爆撃機搭乗員8人は、都市の無差別爆撃と非戦闘員に対する機銃掃射を実施した戦時国際法違反であるとして、捕虜ではなく戦争犯罪人として扱われ、上海市で開廷された軍事裁判の結果、8人全員に死刑が言い渡され1942年10月15日に上海競馬場で操縦士2名と銃手1名が処刑された(ディーン・E・ハルマーク(ホールマーク)中尉、ウィリアム・ファロー中尉、ハロルド・スパッツ軍曹)。
3人の遺体は火葬ののち国際赤十字を通じてアメリカ側に引き渡された。残りの5人であるが死刑執行は猶予されたが、ロバート・J・メダー少尉が1943年12月1日に南京で栄養失調による赤痢と脚気で死亡し、残りの4人は1943年8月にアメリカ側に引き渡されたが、1人は1945年当時重慶で療養していたと報道された[50]。
これに対してアメリカは、『野蛮人の蛮行』として大々的にプロパガンダに利用した。また日本の指導者であった東条英機を「血に飢えた独裁者」であると宣伝し、現在もアメリカ国内ではそのように認識されている。1944年にこれら捕虜を描いた映画『パープル・ハート』が20世紀フォックスによって製作された。
影響
アメリカ本土空襲
敗退続きだったアメリカ国内はこの空襲によって沸き立ったが、この東京初空襲に対抗して、6月21日には日本海軍の潜水艦が、オレゴン州アストリアにあるスティーブンス海軍基地を砲撃し基地の施設に被害を与え、兵士を負傷させた他、9月には日本海軍の潜水艦の艦載機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度に渡り空襲した(アメリカ本土空襲)。
しかし、「ドーリットル空襲」後も敗退を続けたアメリカ政府及び軍は、国民への精神的ダメージを配慮してこの空襲の事実を公表しなかった。なおこの空襲は、現在に至るまでアメリカ本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。
この攻撃の報に、本土防空を受け持っていた陸軍はもとより海軍の山本五十六連合艦隊司令長官は衝撃を受けた。真珠湾攻撃の影響を免れたアメリカの空母機動部隊によるハラスメント的な攻撃は1942年前半から既に島嶼部で始まっていたが、「本土空襲を受けて山本長官は日本本土の安全確保のため、敵空母殲滅を視野に入れたミッドウェー島攻略作戦の実行を急がせた」とされる説も見受けられる。しかし、ミッドウェー作戦は4月16日付の大本営海軍部指示にて裁可されているので、これは俗説であり事実と異なる。
中華民国軍飛行場の破壊
陸軍はドーリットル空襲の再発を防ぐため、作戦に利用された浙江省以南の中華民国軍の飛行場を利用できなくすることを目的として、支那派遣軍に命じて浙贛作戦を実施した。作戦は1942年5月中旬から6月にかけて実施され、動員兵力約18万、飛行機3個飛行戦隊により、目的の飛行場の破壊と同地を守る顧祝同の率いる第三戦区軍34個師団を打ち破ることに成功する。同作戦は1942年9月30日に終了が発表された。連合国側の投入予定の爆撃部隊が「タイダルウェーブ作戦」の前にルーマニア油田の空爆に転属される影響を受けた。
成増飛行場
本空襲は、帝都防衛のあり方を問う大きなきっかけとなった。東部軍司令官の中村孝太郎大将は、陸軍防空学校および高射砲第7連隊の高射機関砲を皇居周辺へ配備し、1942年4月20日に、独立飛行第47中隊を防衛司令官の指揮下に入れ、帝都防空の任に当たらせた。軍では、この目的にかなう飛行場として、成増飛行場を建設した。
エピソード
東条機とすれ違う
首相だった東条英機は、この日の午前中に宇都宮市内を視察した後、次の目的地である水戸に大臣専用機で向かった。正午、専用機は水戸上空でドーリットル機と約20kmの距離ですれ違った[51]。東条は同乗した秘書官に「あれはアメリカ(の飛行機)だぞ」と叫んだ。秘書官によれば双方の顔が見える距離まで接近していたという。アメリカ側も東条の飛行機を銃撃せずそのまま西へ向かった。東条の飛行機が飛行場に着陸するや、東条は「すぐ飛行機で(東京に)帰る」と言い出したが、周囲が「東京の警戒を混乱させる」という理由で、水戸発午後3時の列車で帰京させた[52]。なお連合艦隊司令長官山本五十六は、腹痛で勤務を休んでいた。
シャングリラ
「ドーリットル空襲」の成功はすぐにアメリカ本国でも宣伝されたが、作戦の全容は長く秘匿された。空母ホーネットの名も例外ではなく、記者会見で空襲の成功を発表したルーズベルト大統領は記者団からの「爆撃機はどこから発進したのか?」という質問に対し、「発進地はシャングリラ」と答え、煙に巻いた。
シャングリラとは当時の小説で映画化もされた「失われた地平線」に出てくるヒマラヤ付近にあるとされる架空の地名であり、それを知らない記者には冗談が通じず「爆撃機は空母シャングリラから発進」と一部で誤って報道された。なお、このエピソードが元になったものか、後日、本当に空母シャングリラ(CV-38;エセックス級航空母艦の1隻)が就役している。
脚注
- ^ 『帝国海軍太平洋作戦史 1』P.100 学研 2009年
- ^ 『帝国海軍太平洋作戦史 1』P.102 学研 2009年
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』11頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』12頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』13頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』16頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』18頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』21頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』28頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』29頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』39、142頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』39-42頁、142-151頁、206頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』150頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』143-144頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』148頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』43、150頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』212頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』36頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』82頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』50頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』52頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』67頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』87頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』125-129頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』6、154頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』6-7頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』155頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』155-156頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』158-161頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』162-166頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』166頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』170頁
- ^ 坂井三郎ほか『零戦搭乗員空戦記』(光人社、2000)26頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』99頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』99-103頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』175頁
- ^ 宮崎勇『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』(光人社、1993年)14-16頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』177頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』178頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』125頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』211頁
- ^ a b 櫻本富雄. “第8回 教育塔(2)”. 2010年6月6日閲覧。
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』64頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』112頁
- ^ 佐々木冨秦・網谷りょういち「続・事故の鉄道史」(日本経済評論社、1995年)の77頁で、著者の佐々木冨秦が読売新聞社の記者をしていた兄の話として記述されている。
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』191頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』182頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』183-184頁
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』186-188頁
- ^ 朝日新聞1945年9月28日朝刊
- ^ 『ドーリットル空襲秘録』9頁
- ^ 『歴代陸軍大将全覧 昭和篇/太平洋戦争期』P.78 中公新書ラクレ 2010年
参考文献
- 柴田武彦、原勝洋『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』(三修社、2003)
- 工藤洋三、奥住喜重『写真が語る日本空襲』(現代史料出版、2008)
関連項目
- 無差別爆撃
- 東京大空襲
- ロサンゼルスの戦い
- 太平洋戦争の年表
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 第二次世界大戦 - 太平洋戦争
- 海軍 - 大日本帝国海軍- アメリカ合衆国海軍
- パール・ハーバー (映画)
- タイダルウェーブ作戦