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「イギリス委任統治領パレスチナ」の版間の差分

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'''イギリス委任統治領パレスチナ'''(イギリスいにんとうちりょうパレスチナ、[[英語]]:{{lang|en|'''British Mandate for Palestine'''}}、[[アラビア語]]:{{lang|ar|'''الانتداب البريطاني على فلسطين'''}}、[[ヘブライ語]]:{{lang|he|'''המנדט הבריטי על פלשתינה א"י'''}})は、イギリスの[[委任統治]]領である。
'''イギリス委任統治領パレスチナ'''(イギリスいにんとうちりょうパレスチナ、[[英語]]:{{lang|en|'''British Mandate for Palestine'''}}、[[アラビア語]]:{{lang|ar|'''الانتداب البريطاني على فلسطين'''}}、[[ヘブライ語]]:{{lang|he|'''המנדט הבריטי על פלשתינה א"י'''}})は、[[国際連盟]]により[[パレスチナ]]に創設された、イギリスの[[委任統治]]領である。パレスチナは、16世紀以来この地を治めていた[[オスマン帝国]]から、[[第一次世界大戦]]後にイギリスの委任統治下に入った領土である。


委任統治領パレスチナの決議案は[[1922年]][[7月24日]]に国際連盟理事会で公式に承認され、[[1923年]][[9月26日]]に発効した<ref name=cmd5479>[http://unispal.un.org/UNISPAL.NSF/0/88A6BF6F1BD82405852574CD006C457F Palestine Royal Commission Report Presented by the Secretary of State for the Colonies to Parliament by Command of His Majesty, July 1937, Cmd. 5479]. His Majesty’s Stationery Office., London, 1937. 404 pages + maps.</ref>。この決議案は、委任統治の原則を定めた'''国際連盟憲章第22条'''と、第一次世界大戦後に[[連合国 (第一次世界大戦)|連合国]]主要国が集まりオスマン帝国を分割して委任統治領を置くことを協議した'''[[サンレモ会議]]'''([[1920年]][[4月25日]])で決められた原則に基づく<ref name=cmd5479/>。これにより、オスマン領シリアの南部(パレスチナ)に1923年から1948年にかけて委任統治領が成立することになる。
== 概要 ==
[[オスマン帝国]]から[[第一次世界大戦]]後にイギリスの委任統治下にはいった領土である。


一方、[[1922年]][[9月16日]]の国際連盟による承諾によって、イギリスは委任統治領を2つの地域に分けた。すなわち、イギリスの直轄支配を受ける[[ヨルダン川]]より西の'''パレスチナ'''と、[[ヒジャーズ王国]]の王族[[ハーシム家]]が治めるヨルダン川東部の自治領'''[[トランスヨルダン]]'''である。トランスヨルダンの創設は、イギリスがハーシム家との間に約束した[[1915年]]の'''[[マクマホン宣言]]'''に基づく。この分割により、イギリスがロスチャイルド卿との間に交わした'''[[バルフォア宣言]]'''でパレスチナに創設することを認めたユダヤ人の'''ナショナル・ホーム(民族郷土)'''の範囲から、トランスヨルダンの部分は除外されることになった<ref name=cmd5479/><ref>Marjorie M. Whiteman, ''Digest of International Law'', vol. 1, US State Department (Washington, DC: U.S. Government Printing Office, 1963) pp 650–652</ref>。

パレスチナ委任統治決議の序文には次のようにある。これはバルフォア宣言の条文を基本的にそのまま使ったものである。
<blockquote>連合国主要国は、委任統治が、1917年11月2日にイギリス国王陛下の政府により発せられ、いわゆる列強が承認した宣言を実行し、ユダヤ人のナショナル・ホームをパレスチナに確立することに責任を負うべきであると合意した。また、パレスチナに存在する非ユダヤ人コミュニティーの市民的・宗教的権利を不利にすることや、あらゆる他の国に在住するユダヤ人が享受する権利や政治的地位を不利にすることはなされてはならないと明確に了解された。<ref name="AvalonPalmanda">[http://avalon.law.yale.edu/20th_century/palmanda.asp The Palestine Mandate, The Avalon Project]</ref> </blockquote>

== 背景 ==
=== オスマン帝国に対する戦略 ===
[[File:Sykes-Picot-1916.gif|thumb|サイクス・ピコ協定における中東分割(青系=フランス、赤系=イギリス)。直轄地(濃い色)と影響圏(薄い色)のほか、パレスチナに共同統治領が置かれる]]
1915年、オスマン帝国が[[中央同盟国]]に参加して第一次世界大戦に参戦すると、[[スエズ運河]]がオスマン帝国軍の脅威にさらされ、連合国の戦略的利益が危うくなり、とりわけイギリスは[[インド]]との連絡が危うくなった。これに対し、イギリス政府と軍は、[[地中海]]と[[ペルシャ湾]]の間に陸橋状の地域を確保するという戦略を立てた。これにより、スエズ運河の代替となる陸上ルートを確保でき、陸上からペルシャ湾岸に軍を送ることが可能になり、インドの権益を守ることも、北からのロシアの侵略を防ぐこともできるようになるという計画であった<ref>[http://www.jewishagency.org/JewishAgency/English/Jewish+Education/Educational+Resources/More+Educational+Resources/Azure/9/9-porat.html.htm Tom Segev's New Mandate, Yehoshua Porath]</ref>。このために地中海側のパレスチナを確保することが重要となった。

オスマン帝国の戦後処理に対する[[フランス]]の発案に応え、イギリスは1915年にデ・ブンセン委員会(De Bunsen Committee)を設立し、戦争が勝利に終わった場合のイギリスのトルコおよびアジアにおける基本方針の性質を考えることにした。委員会はさまざまなシナリオを用意し、今後のオスマン帝国分割に際して、フランス、[[イタリア]]、[[ロシア帝国]]との協議にあたっての指針を決定した。委員会の推薦した案は、オスマン帝国を、非中央集権的な複数の国による連邦とすることであった<ref>The Middle East and North Africa in World Politics: A Documentary Record, by J. C. Hurewitz, 1979, Yale University Press; 2nd edition, ISBN 0-300-02203-4, page 26, BRITISH WAR AIMS IN OTTOMAN ASIA: REPORT OF THE DE BUNSEN COMMITTEE 30 June 1915</ref>。イギリスはフランスと同時に[[ガリポリの戦い]](1915年)を開始すると同時にメソポタミアにおいても戦端を開いたが、ガリポリではオスマン軍に撃退される結果になった。

[[1916年]]、フランスとイギリスは秘密のうちに[[サイクス・ピコ協定]]を結んだ。これにより中東は両国の影響圏により分割され、[[聖地]]を含むパレスチナは共同統治ということになった。一方、イギリスは中東に獲得する予定の土地について、これと相反する可能性のある約束を交わしている。[[メッカ]]の太守(シャリーフ)[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]に対しては、[[フサイン=マクマホン協定|マクマホン書簡]]において、彼らがイギリス軍に協力する代わりにアラブ人の住む中東のほとんどを対象とするアラブ王国の創設を約束した。[[ウォルター・ロスチャイルド]]卿に対しては、[[バルフォア宣言]]で、ユダヤ人がイギリスに協力する代わりに、パレスチナに「民族郷土」(ナショナル・ホーム)を作ることを承認した。

=== パレスチナにおける第一次世界大戦 ===
[[ファイル:Ottoman surrender of Jerusalem restored.jpg|thumb|1917年12月9日、イギリス軍に対して白旗を掲げるエルサレム市長]]
1915年から、シオニストの指導者で親英派の[[ゼエヴ・ジャボチンスキー]]は、イギリスに対して、シオニストによる義勇軍を結成するよう迫った。独立の戦闘部隊を結成することは人数面や偏見などから困難となり、イギリスは最終的に輜重部隊である「シオン騾馬隊」の結成を受け入れた。彼らはガリポリの戦いで補給などに活躍する。

[[デビッド・ロイド・ジョージ]]が首相となると、イギリスは[[エドムンド・アレンビー]]将軍の指揮によるシナイ・パレスチナ作戦を立ち上げることになった。この時にはイギリスは複数の大隊からなる[[ユダヤ軍団]](Jewish Legion)の創設を認め、シナイ・パレスチナ作戦に参加させた。この軍団にはロシアや東欧やアメリカ合衆国などから多数のユダヤ人が参加して、イギリス側で戦っている。同時期、[[トーマス・エドワード・ロレンス]]らは[[フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)|フサイン・イブン・アリー]]とともに[[アラブの反乱]]を立ち上げ、アラビアでゲリラ戦を行った後にシナイ・パレスチナ作戦に参加している。

この戦いで、オスマン軍はイギリス軍に敗れ、パレスチナ及びシリアはイギリス軍により占領され、戦中から戦後にかけて軍政が続いた。

=== 戦後 ===
[[ファイル:OETA Syria.png|thumb|OET(占領下敵国領土)の区分。旧アレッポ州海岸部からベイルート州までの地中海岸がフランス統治下の「OET北」、ベイルート州南部からエルサレム郡までの海岸部がイギリス統治下の「OET南」、その内陸のアレッポ州からシリア州の部分が「OET東」]]
オスマン帝国は[[1918年]][[10月30日]]、[[ムドロス休戦協定]]によって降伏し、[[1918年]][[11月23日]]にはオスマン帝国の領土を「占領下敵国領土」(occupied enemy territories, OET)に分割するという布告が発せられた。中東は3つのOETに分割された。OET南は[[シナイ半島]]のエジプト国境からパレスチナ・レバノンに伸び、北は[[アッコ]]および[[ナブルス]]まで、東は[[ヨルダン川]]へ伸びていた。イギリス軍政官がこの地域を統治した<ref>[http://www.encyclopedia.com/doc/1G1-142205397.html See also "The Armistice in the Middle East," in]</ref>。この他にフランス軍政官が統治するOET北(レバノン)と、フサイン・イブン・アリーの子でダマスカスに入城した[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]の部下アリ・リザ・エル=リッカビが統治するOET東(シリアとトランスヨルダン)が存在した。OETは委任統治領パレスチナ成立の時までパレスチナの統治を継続した。

[[1919年]]の[[ドーヴィル]]での会談で、イギリス首相[[デビッド・ロイド・ジョージ]]とフランスの[[ジョルジュ・クレマンソー]]は1918年12月1日-4日の英仏合意を最終的に確認した。新しい合意は、シリアおよびレバノンでのフランスの勢力確立をイギリスが支援する代わりに、サイクス・ピコ協定でフランス勢力圏だった[[モースル]]と共同統治だったパレスチナをイギリス勢力圏にするというものだった<ref>[http://books.google.com/books?id=vbJWx89nJSIC&pg=PA123&dq=&client=#PPA122,M1 Allenby and British Strategy in the Middle East, 1917–1919, Matthew Hughes, Taylor & Francis, 1999, ISBN 0-7146-4473-0, page 122]</ref>。1919年10月、シリアのイギリス軍とヨルダン川東岸のイギリス部隊は撤退し、ダマスカスのファイサルがこれらの土地の唯一の統治者となった。

一方でフランスは[[シリア]]における軍事的政治的影響を着々と増強しており、ファイサルの政府は窮地に追いやられた。これに対しイギリスはアラブの権利を主張しフランスを牽制した。[[パリ講和会議]]では、イギリス首相ロイド・ジョージはフランス首相クレマンソーや他の連合国代表に、マクマホン書簡は条約義務であると説明した。ロイド・ジョージは、フサイン・イブン・アリーとの書簡は実際にサイクス・ピコ協定の基礎となっており、フランスは創設予定の委任統治を用いてこの書簡による同意を破ってはならないと述べた。また、フランスはシリアの[[ホムス]]、[[ハマー (都市)|ハマー]]、[[ダマスカス]]、[[アレッポ]]といった独立アラブ王国が作られる場所を軍事占領しないことをフランスは同意していたことも指摘した<ref>see pages 1–10 of the minutes of the meeting of the Council of Four starting here: [http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=goto&id=FRUS.FRUS1919Parisv05&isize=M&submit=Go+to+page&page=1]</ref>。

パリ講和会議で始まったオスマン帝国分割交渉は1920年のロンドン会議に持ち越され、1920年4月の[[サンレモ会議]]でようやく最終的に固まった。連合国最高委員会は委任統治領パレスチナと[[イギリス委任統治領メソポタミア|委任統治領メソポタミア]]をイギリスに、[[フランス委任統治領シリア|委任統治領シリア]]と[[フランス委任統治領レバノン|委任統治領レバノン]]をフランスに、それぞれ与えることで合意した。1920年8月、これらの原則は[[セーヴル条約]]で公式に公開された。

これに先立つ[[1920年]][[3月7日]]、ファイサルはシリア国民会議の支持で[[大シリア]]の国王への即位を宣言したが、サンレモ会議の結果を受けたフランスはフランス・シリア戦争を開始した。シリアは7月23日のマイサルンの戦いで敗北し、ファイサルはダマスカスからイギリスに亡命する事態になる。こうしてアラブ独立国の一角であったシリアはフランス領となってしまった。

一方、シオニストもアラブ代表もパリ講和会議に出ており、フサイン王の代理である[[ファイサル1世 (イラク王)|ファイサル]]と[[ハイム・ヴァイツマン]]は会談を行い互いの民族国家創設に協力するという[[ファイサル・ヴァイツマン合意]]を行ったが<ref>http://www.mideastweb.org/feisweiz.htm</ref>、これが発効することはなかった。

== 委任統治決議 ==
{{Wikisource|en:Palestine Mandate|パレスチナ委任統治決議}}
=== 実務上及び法的基礎 ===
1922年6月の国際連盟公式文書では、委任統治に対する国際連盟の権力は極めて限られているとするバルフォア卿の意見を収録している。彼によれば、委任統治とは連合国が考えたもので国際連盟が創設したものではないこと、連盟の義務は、委任統治の特例や詳細が、連合国が決定したものと合致しているか確認することに限られること、委任統治は連盟の統治の下ではなく連盟の監督の下で行われること、委任統治とは占領した領土に占領国が主権を行使するにあたって自ら課した制約であることなどが述べられている<ref>[http://unispal.un.org/unispal.nsf/9a798adbf322aff38525617b006d88d7/b08168048e277b5a052565f70058cef3?OpenDocument Excerpts from League of Nations Official Journal dated June 1922, pp. 546–549]</ref>。

サイクス・ピコ協定ではアラブ人の主権は必要とされていない。そのかわり、「アラブの首長の宗主権」および「国際管理 - その形態はロシアとの協議の上決定され、最終的には他の連合国や、メッカの太守の代表との協議のうえ決定される」ということになっている<ref>[http://www.yale.edu/lawweb/avalon/mideast/sykes.htm The Sykes-Picot Agreement: 1916, Avalon Project]</ref> 。パリ講和会議ではファイサルがアラブの独立を、最低でも委任統治を行うことを主張した<ref>[http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1919Parisv03.p0899&q1=Feisal&q2=Clemenceau Foreign Relations of the United States, Statement of Emir Faisal to the Council of Ten]</ref>。最終的に、イギリス委任統治下のアラブ国家を推奨している<ref>[http://query.nytimes.com/mem/archive-free/pdf?_r=1&res=9805EED61039E13ABC4053DFB4668382609EDE&oref=slogin DESIRES OF HEDJAZ STIR PARIS CRITICS; Arab Kingdom's Aspirations Clash With French Aims in Asia Minor]</ref>。シオニスト組織も、メッカ太守との[[ファイサル・ヴァイツマン合意]]に沿って互いの国家創設の合意を求めるようになった。[[世界シオニスト機構]]も「パレスチナに対するユダヤ人の歴史的権利」を掲げ、イギリスによる委任統治を求めた<ref>[http://domino.un.org/UNISPAL.NSF/9a798adbf322aff38525617b006d88d7/2d1c045fbc3f12688525704b006f29cc!OpenDocument Statement of the Zionist Organization regarding Palestine, 3 February 1919]</ref>。ファイサル・ヴァイツマン合意では両民族の紛争の調停はイギリスが行い、またパリ講和会議のあとに両民族の「国家」(「アラブ国家」と「ユダヤ人民族郷土」)の境界画定のための委員会を開いて境界を画定することを求めている。[[世界シオニスト機構]]は、講和会議に対して、[[ヒジャーズ鉄道]]より東(トランスヨルダンの大部分)を含まない、ヨルダン川を挟んだユダヤ人国家の境界案を提出している。アメリカによる、旧オスマン帝国領土の非トルコ人国民や英仏の植民地主義的活動に対する1919年の「キング=クレーン調査団」(King-Crane Commission)の報告書のうち、秘密とされた付属書では、ユダヤ人がバルフォア宣言の影響でイギリスによる委任統治を明確に支持していること、フランスはイギリスがダマスカスのファイサルに対して巨額の助成金を毎月払っていることに不快感を示しており、この補助金によりアラブ人がイギリスの代理として汚い仕事を行い、イギリスはさも自分の手が汚れていないかのように見せかけているとフランスが見ていることを述べている<ref>[http://www.hri.org/docs/king-crane/appendix.html The King-Crane Commission Report, 28 August 1919 Confidential Appendix]</ref>。

1920年のサンレモ会議では、シリア・パレスチナ分割にあたり、聖都[[エルサレム]]に[[聖座]]([[ローマ教皇庁]])とフランス・イタリア代表団が統治する「聖座保護領」(Protectorate of the Holy See)を置くことになっていた。しかしこの案は、イギリス委任統治を求める世界シオニスト機構の要求によって弱体化されている<ref>The Vatican and Zionism: Conflict in the Holy Land, 1895–1925, Sergio I. Minerbi, Oxford University Press, USA, 1990, ISBN 0-19-505892-5</ref>。

イギリス委任統治は法的・行政的機構であって、地理的領域ではなかった。委任統治領に対する土地管轄権は条約や利用やその他の法的手段の変更による影響を受けた。多くの観測によれば、委任統治領パレスチナは、東はヨルダン川を越え、委任統治領メソポタミアの境界線まで広がっていると見ていた。しかし一方で、1915年のマクマホン書簡において、アレッポ・ホムス・ハマー・ダマスカスを結ぶ線の東(トランスヨルダンを含む)には単一もしくは複数のアラブ国家が作られることになっており、この線より東にまで委任統治領パレスチナが広がるとすれば矛盾が存在することになる。

=== トランスヨルダン ===
マクマホン書簡とサイクス・ピコ協定に基づき、ヨルダン川の東をアラブ人地域とし、ユダヤ人民族郷土の範囲からヨルダン川東岸を除く必要が生じた。1920年に開催された連合国同士の会議やサンレモ会議に基づくパレスチナ委任統治決議案には、トランスヨルダンを定義する後の25条の文言「ヨルダン川から、最終的に決定するパレスチナ東部境界の間の地域」は含まれていなかった。

トランスヨルダンはかつてオスマン帝国ではダマスカスに中心を置くシリア州に属していた。ダマスカスにあったファイサル王とハーシム・アル=アターシー首相の民族主義政府は、シリア内陸とヨルダン川東岸とを支配していた。この政府が1920年7月にフランスによって倒されると、シリアの範囲の定義、シリアにトランスヨルダンが含まれるか否かということにイギリスは深い感心を示し始めた。1920年7月には、イギリスはフランスが支配しようとしている「シリア」には、パレスチナと関係の深いトランスヨルダンが含まれていないことを確認しようとしている<ref>Hubert Young to Ambassador Hardinge (Paris), 27 July 1920, FO 371/5254, cited in King Abdullah, Britain and the Making of Jordan, Mary Christina Wilson, Cambridge,1988, ISBN 0-521-32421-1, page 44</ref>。フランスがファイサルの王国をダマスカスから追い出した後、イギリス外相[[ジョージ・カーゾン (初代カーゾン・オヴ・ケドルストン侯爵)|ジョージ・カーゾン]]卿はパレスチナの東部国境の画定を先送りにするよう指示し、[[1921年]][[3月21日]]の外務省・植民地省法律顧問団が「25条」の導入を決定した。1921年3月31日にカーゾン卿が承認し、1922年7月22日には25条を含んだ(トランスヨルダンを領域に含めた)パレスチナ委任統治決議の最終案が国際連盟に提出された。決議案25条はマクマホン書簡にも配慮をしたものであった。この条文では、委任統治国に対し、その時点での地域の状況にふさわしくないと判断された委任統治の適用を延期するか差し控えるとされていた。

ファイサルがダマスカスを離れイギリスに亡命すると、カーゾン外相は1920年8月、パレスチナに置いた高等弁務官[[ハーバート・サミュエル]]に、サイクス・ピコ協定のラインの南にはフランスの支配が及ばないこと、ラインの南のトランスヨルダンはパレスチナとは独立しているが密接な関係にあることを確認する書簡を送った<ref>Telegram from Earl Curzon to Sir Herbert Samuel, dated 6 August 1920, in Rohan Butler et al., Documents of British Foreign Policy, 1919–1939, first series volume XIII London: Her Majesty's Stationery Office, 1963, p. 331</ref>。サミュエルはこれに返信し、ヨルダン川東岸の部族や首長たちは従来のダマスカス政府に不満を持っており、その復活を受け入れることは考え難いとし<ref>Telegram 7 August 1920, in Rohan Butler et al., Documents of British Foreign Policy, 1919–1939, first series volume XIII London: Her Majesty's Stationery Office, 1963, p. 334, in {{Harvnb|Aruri|1972|p= 18}}</ref>、最終的にトランスヨルダンはイギリスの委任統治の範囲内にあると宣言した<ref name="ReferenceA">Aruri, Naseer Hasan (1972). Jordan: A Study in Political Development 1923–1965. The Hague: Martinus Nijhoff Publishers. ISBN 9789024712175. Retrieved 2 May 2009 p.18</ref>。サミュエルはロンドンの指示なくトランスヨルダンの当時の中心都市[[サルト (ヨルダン)|サルト]]に入り、指導者たちにこの地域がダマスカスから独立して委任統治領に入ること、しかしトランスヨルダンがパレスチナに併合されるわけではないことを説明した<ref name="ReferenceA"/>。カーゾン卿はサミュエルの行動への関与を後に否定している<ref name="wasserstein">Bernard Wasserstein, ‘Samuel, Herbert Louis, first Viscount Samuel (1870–1963)’, ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, September 2004; online edn, May 2006 [http://www.oxforddnb.com/view/article/35928, accessed 21 April 2007].</ref>。一方で、ファイサルの兄弟[[アブドゥッラー1世|アブドゥッラー]]がファイサルのシリア王権を支持するためにヒジャーズから軍を率いてトランスヨルダンに北上し緊張する局面があった。

こうした問題の解決のため、当時の植民地相[[ウィンストン・チャーチル]]は1921年3月にカイロ会議を招集した。彼はパレスチナ及びメソポタミアの委任統治領問題を話し合うため、トーマス・エドワード・ロレンス、[[ガートルード・ベル]]、[[パーシー・コックス]]ら中東専門家をこの会議に招いた。大きな課題は、中東のイギリス勢力圏から反仏軍事行動をおこさせないために、トランスヨルダンにどのような政策を適用すべきかということだった。この会議での結論は、シリアを追われたファイサルにメソポタミアを与え[[イラク王国|イラク国王]]とすること、その兄弟のアブドゥッラーにトランスヨルダンの首長の地位を与えること、トランスヨルダンはアラブ人地域としてパレスチナを構成するということだった。この会議の結論によりヒジャーズ王国の王子たちが中東のイギリス勢力圏に国を持つことになり、マクマホン書簡の約束は果たされたとチャーチルは考えた。チャーチルとアブドゥッラーによるエルサレムでのさらなる会合で、トランスヨルダンがアブドゥッラー首長の名目上の支配下に置かれるという条件でイギリス委任統治領に入ること、トランスヨルダンはヨルダン川の西に築かれる「ユダヤ人の民族郷土(ナショナル・ホーム)」の一部にはされない、ということを相互に確認した<ref>Palestine Papers, 1917–1922, Doreen Ingrams, George Braziller 1973 Edition, pages 116–117</ref><ref name=Lustick>{{Cite book|title=''For the Land and the Lord: Jewish Fundamentalism in Israel''|author=Ian Lustick|year=1988|publisher=Council on Foreign Relations|page=37|isbn=0876090366}}</ref>。この合意は委任統治領が公式に成立する前に文書化され、イギリスはヨルダン川東岸には「ユダヤ人の民族郷土(ナショナル・ホーム)」に関する規定を延期または恒久的に控えることができるとされた<ref>[http://www.yale.edu/lawweb/avalon/mideast/palmanda.htm#art25 Article 25 of the Mandate for Palestine]</ref><ref>{{Cite book|title= A History of Modern Palestine: One Land, Two Peoples |last= Pappé |first= Ilan |authorlink= Ilan Pappé |year= 2004 |page= 84 |publisher=[[Cambridge University Press]] |isbn= 0521556325 }}</ref>。

ユダヤ人のシオニスト主流派も、トランスヨルダンには民族郷土が作られないという条件を承認し、バルフォア宣言の範囲をヨルダン川より西に縮小することを了解した。しかし一方で、ヨルダン川東岸でのトランスヨルダンの成立によりパレスチナにおけるアラブ国家成立はすでに果たされたと主張する立場や、トランスヨルダンの成立すら認めずヨルダン川を挟んで広がる「大イスラエル」を建設しようという強硬な民族主義者もシオニストの中に登場する。

これ以後、イギリスはヨルダン川より西の、面積にして当初のパレスチナ全体の23%の部分を「パレスチナ」とし、ヨルダン川より東の面積にして77%の部分を「トランスヨルダン」として統治した。この2つの委任統治領は、一人のイギリス人高等弁務官により統治された。トランスヨルダンではアラブ政府に対する権限委譲が徐々に進み、[[1923年]]には地方行政が承認され、[[1928年]]にはほとんどの行政機能が移管された。しかし[[1928年]][[2月20日]]のイギリスおよび首長国政府による合意後も委任統治の地位は変わらなかった。この合意でトランスヨルダンにおける独立政府の存在が承認され、その権力の範囲や限界が定められた。[[1929年]][[10月31日]]に合意は批准され交換された。イギリスは[[1946年]]にヨルダン・ハシミテ王国が独立するまで、この地域に対する委任統治を継続した。

=== 宗教と共同体の問題 ===
パレスチナ委任統治決議14条は、イギリスがパレスチナにおける異なった宗教共同体同士の権利や主張を、研究・定義・決定する委員会を置くよう求めていた。しかしこの委員会はついに創設されることがなかった。

第15条では委任統治府に、あらゆる形態の崇拝の自由な実践と、完全な良心の自由とが認められるということを求める内容だった。

=== 境界線 ===
[[ファイル:Faisal-Weizmann map.png|thumb|right|1919年のパリ講和会議にシオニスト代表が提出したユダヤ人国家の境界案(赤線)]]
第一次世界大戦中から戦後まで、イギリスはパレスチナ地域の統治や将来の分割に関わる、衝突のもととなるさまざまな関与を行ってきた。バルフォア宣言、マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定をはじめ、1922年に発表されたチャーチル白書(バルフォア宣言をイギリスがどう見るかを述べた白書)などが含まれる。1920年のサンレモ会議の時点では委任統治領の範囲や境界はいまだ決まってはいなかった<ref name="Biger 2004 173">Biger, Gideon (2004). [http://books.google.com/books?id=jC9MbKNh8GUC The Boundaries of Modern Palestine, 1840–1947]. p 173. London: Routledge. ISBN 9780714656540. Retrieved 2 May 2009.</ref>。

まずイギリスとフランスの勢力圏の境界をはっきりさせる必要があり、1920年12月の英仏境界合意でその大筋が決まった<ref name="treaty1920">Franco-British Convention on Certain Points Connected with the Mandates for Syria and the Lebanon, Palestine and Mesopotamia, signed 23 December 1920. Text available in ''American Journal of International Law'', Vol. 16, No. 3, 1922, 122–126.</ref>。この合意では[[ゴラン高原]]の大部分をフランスの範囲とした。また境界を地面に設置する共同委員会も作られることになった<ref name="treaty1920"/>。共同委員会は1922年2月3日に最終報告書を発行し、いくつかの修正とともに1923年9月29日にイギリスおよびフランス政府が承認した<ref>[http://untreaty.un.org/unts/60001_120000/20/29/00039450.pdf Agreement between His Majesty's Government and the French Government respecting the Boundary Line between Syria and Palestine from the Mediterranean to El Hámmé, Treaty Series No. 13 (1923), Cmd. 1910]. Also Louis, 1969, p. 90.</ref><ref name = "FSU Law">[http://www.law.fsu.edu/library/collection/LimitsinSeas/IBS075.pdf FSU Law].</ref>。この合意で、シリアとレバノンの住民は[[フラ湖]]、[[ガリラヤ湖]]、ヨルダン川における漁業および航行権をパレスチナ住民同様に認められ、これらの水域の警察権はパレスチナに認められた。この境界画定の最中、世界シオニスト機構は、パレスチナ側に少しでも多くの水源地を含めるように両国政府に圧力をかけ続けた。結果、ガリラヤ湖全体、その上流のヨルダン川の両岸、フラ湖、ダンの泉、[[ヤルムーク川]]の一部がパレスチナ領となった

境界の画定に引き続き、イギリスとフランスは[[1926年]][[2月2日]]にパレスチナ・シリア・レバノンの委任統治領相互間の善隣関係合意に調印した<ref>Text in ''League of Nations Treaty Series'', vol. 56, pp. 80–87.</ref>。

=== 委任統治決議の草案 ===
イギリス外相のカーゾン卿は、フランスおよびイタリア政府と共同で委任統治決議の初期の草案を拒絶した。これには「さらにまた、ユダヤ民族とパレスチナの歴史的関係と、それにより当地に彼らの民族郷土を再設立しようという主張を認識し…」という文章があったからであった。外務省が設置したパレスチナ委員会は、この「主張」に対する言及を除去するよう提言した。連合国はセーヴル条約ですでに「歴史的関係」に言及しており、ユダヤ人の法的主張については認めていなかった。

ヴァチカン、フランス、イタリアは、成立しなかった聖座保護領案およびフランス・エルサレム保護領案に基づく独自の法的主張を続けた。聖地に対する主張を解決するための国際管理というアイデアはセーヴル条約の95条に成文化されており、パレスチナ委任統治決議の14条(異なった宗教共同体間の聖地などについての意見を判断する委員会の設立)にも再度取り上げられた。これに関する交渉が委任統治決議の成立を遅らせる一因になった。イギリスは委任統治決議の13条(各宗教の聖地の保護や権利の承認)をもとに、聖地に対する自らの責任を主張した。結局、14条に基づき、聖地に関する委員会や宗教間の問題解決のための委員会が作られることはなかった<ref>[http://bcrfj.revues.org/document3502.html The End of the French Religious Protectorate in Jerusalem (1918–1924), Catherine Nicault]</ref>。高等弁務官はユダヤ人共同体から[[正統派 (ユダヤ教)|正統派]][[ラビ]]の委員会を設立し、各宗教の共同体ごとに自治を任せたオスマン帝国のミッレト制のようなものを開始した。この制度により11の宗教共同体が公認されたが、これには正統派以外のユダヤ人やプロテスタントの共同体は含まれなかった。

=== 国際連盟による批准 ===
連合国によるサンレモ会議では、国際連盟憲章22条(委任統治の原則)に基づきイギリスによるパレスチナ委任統治を認定した<ref name="San Remo Convention">[http://wwi.lib.byu.edu/index.php/San_Remo_Convention San Remo Convention]</ref>。連合国はイギリスにバルフォア宣言の実現に責任を持つよう決定している。1922年6月、国際連盟は、委任統治領シリアに対するイタリアとフランスの争いが解決するまで発効しないという規定のもと、パレスチナ委任統治の条件を許可した。この問題は1923年9月に解決し、国際連盟は[[1923年]][[9月29日]]の会合で2つの委任統治領を有効とすることを決議した<ref>{{Cite news| title = League of Nations Official Journal | volume = 4 | year = 1923 | page = 1355}}</ref>。

== ユダヤ人の民族郷土(ナショナル・ホーム) ==
バルフォア宣言と委任統治決議の両方に「'''ユダヤ人民族郷土'''」('''ナショナル・ホーム''')という語句が登場している。ユダヤ人の故郷となるべき土地を作ることを示唆する「民族郷土」という語句が使われた一方、パレスチナに摩擦を起こす可能性のある「ユダヤ人の国家」という語句は使われなかった。1919年、世界シオニスト機構の総書記でパリ講和会議にシオニスト機構を代表して出席した[[ナフム・ソコロフ]](Nahum Sokolow, 1859年 - 1936年)は『シオニズムの歴史:1600年から1918年まで』を著した。彼はこの中で、シオニズムの目的はパレスチナへの「故郷」設立であり、独立国家の設立ではないと述べている。

{{rquote|left|シオニズムの目的は、ユダヤ人のために、公法によって守られた故郷をパレスチナに打ち立てることである。… …シオニズムに対する反対者は、シオニズムは独立した「ユダヤ人国家」の創設を目指している、とかつて主張していたし、今でもかたくなに繰り返し繰り返し主張し続けているが、これは誤りである。「ユダヤ人国家」はシオニズムの綱領の中には決して含まれていない。「ユダヤ人国家」は[[テオドール・ヘルツル]]の最初の小冊子の題名であったが、これは人々に考えることを強いるための題名である。この小冊子は第1回[[シオニスト会議]]へと続き、バーゼル綱領が採択された。これが存在する唯一の綱領である。|ナフム・ソコロフ、『シオニズムの歴史』<ref>See History of Zionism (1600–1918), Volume I, Nahum Sokolow, 1919 Longmans, Green, and Company, London, pages xxiv–xxv</ref>}}

1947年に開催された[[国際連合パレスチナ問題特別委員会]](United Nations Special Committee on Palestine, UNSCOP)は、[[1897年]]の第1回[[シオニスト会議]]で採択されたバーゼル綱領から来た「ユダヤ人民族郷土」という概念について、その意味、狙い、法的性格について多くの議論を引き起こしてきたと述べる。特に、未知の法的含意をもつこと、その解釈について国際法には前例がないことが問題となったとも述べている。「民族郷土」という語はバルフォア宣言と委任統治決議の両方にも登場しているが、これらでも、民族郷土の設立を約束しつつ、その意味を定義してはいない。植民地省が1922年6月3日に発行した「イギリスのパレスチナ政策」という声明には、バルフォア宣言を制限するように説明した内容が述べられている。この声明では、「パレスチナにおけるアラブの人口、言語、習慣の消滅や従属」、あるいは「パレスチナ住民全体に対するユダヤ国籍の強制」といったようなことを排除し、委任統治の観点からみれば、ユダヤ人民族郷土はパレスチナの中に設立されるもので、パレスチナが丸ごとユダヤ人民族郷土に転換されるわけではないということが明確にされている。国際連合パレスチナ問題特別委員会は、建設(民族郷土の意味する範囲をかなり制約したもの)は、国際連盟による委任統治領の認可に先立って行われ、当時シオニスト機構の幹部たちが公式に受け入れていたとしている<ref>See the report of the United Nations Special Committee on Palestine, UN Document A/364, 3 September 1947</ref>。

しかしシオニストの勢力や主張が強まるにつれ、パレスチナ人は自分たちの自治がユダヤ人によって縮小されると危惧するようになった。国際連盟の委任統治委員会は、委任統治領は二重の義務を負っているという立場をとっている。1932年、アラブ人住民の自治機構創設に関する要望にこたえて、国際連盟委任統治委員会は、委任統治領パレスチナの代表に対し、委任統治決議の様々な条文、とりわけ第2条(民族郷土の設立、およびパレスチナ全住民の権利保護に関する条文)に関して質問を行っている。議長は、「同じ条の規約するところにより、委任統治府はつい最近ユダヤ人民族郷土を立ち上げたばかりである」と述べている<ref>{{Cite web|title=PERMANENT MANDATES COMMISSION MINUTES OF THE TWENTY-SECOND SESSION|url=http://unispal.un.org/UNISPAL.NSF/0/B887C0FE3914081705256616005A499B|publisher=LEAGUE OF NATIONS|accessdate=8 June 2010}}</ref>。1930年3月、イギリス植民地相のパスフィールド男爵[[シドニー・ウェッブ]]は内閣文書を出し、次のように述べた<ref>Memorandum By The Secretary of State for the Colonies, "PALESTINE: HIGH COMMISSIONERS VIEWS ON POLICY", March 1930, UK National Archives Cabinet Paper CAB/24/211, formerly C.P. 108 (30)</ref>。まずバルフォア宣言では、ユダヤ人はパレスチナにおいてアラブ人住民以上の特別な地位を得る、というようなことや、パレスチナ人の自治要求は、ユダヤ人民族郷土の設立のために縮小されるべきである、というようなことは示唆されていない。しかし、シオニズム指導者はパレスチナ人のあらゆる形態の自治に対する反対を隠そうとはしていない。委任統治決議第2条はアラブ人の自治を制約するためのものであるという解釈すら主張されているが、同22条およびイギリスとアラブとの約束から見ればこの主張は認めがたいものである、とウェッブは述べた。

[[ファイル:Peel map pd.png|thumb|right|ピール分割案。青はユダヤ人国家、緑はアラブ人国家、エルサレムから海岸部を繋ぐ赤は国際管理地域]]
1936年から1939年にかけて続いた大規模なアラブ人反乱を受けて、1937年にウィリアム・ピール率いるイギリス王立調査団は、1937年にパレスチナを2つの国家に分割する「ピール分割案」を提出した。この時、ユダヤ国家創設という案が登場した。チューリヒの第20回シオニスト会議はこれを拒絶したが、どのような形でもユダヤ国家をパレスチナに作るためさらなる協議に応じるとした。一方、[[アミーン・フサイニー|ハジ・アミン・フセイニー]]率いるアラブ最高委員会は分割案を拒否し、パレスチナの分割自体を考慮することをも拒否した。イギリスはこの問題でアラブ全体から反発を買うことを恐れていた。すでにイギリスはアラブ大反乱の鎮圧のために大軍をパレスチナに送っており、ヨーロッパでの大戦を控えていたこの時期に、アラブ全体の反英感情を刺激してアラブ各地に軍を送るような余裕はなかった。イギリスはピール調査団の勧告を受容せず、さらにウッドヘッド調査団を送り、同調査団はユダヤ人国家の範囲を縮小したプランB、プランCを提出したが、やはりユダヤやアラブ側からの同意を得ることができないままだった。

[[ダヴィド・ベン=グリオン]]は1937年の書簡でピール分割案には好意を示し、その理由をパレスチナの一部にユダヤ人国家ができることは第一歩でありこれが最終段階ではないからと述べた。彼はパレスチナ全域のユダヤ人国家化を目指しており、アラブ人の同意の有無に関わらずシオニストが残りの国土に入植するためには第一級のユダヤ軍が必要と述べている<ref>See "Letters to Paula and the Children", David Ben Gurion, translated by Aubry Hodes, University of Pittsburg Press, 1971 page 153-157</ref>。ベン=グリオンもヴァイツマンも、パレスチナ分割案はパレスチナ全体へのユダヤ人国家拡大の第一歩として前向きに見ていた<ref>See "Righteous victims: a history of the Zionist-Arab conflict, 1881–1999", by Benny Morris, Knopf, 1999, ISBN 0-679-42120-3, page 138</ref>。1937年は[[イツハク・サデー]]がアラブ反乱に対してFOSH(「野戦部隊」)を作った年で、彼の策定した「アヴナー計画」(Avner Plan)は、1948年のイスラエル独立時にハガナーがパレスチナの要地の占拠およびパレスチナ人住民の追放を行った「[[ダーレット計画]]」(プランD、Plan Dalet)へとつながった<ref>See Scars of war, wounds of peace: the Israeli-Arab tragedy, By Shlomo Ben-Ami, Oxford University Press, USA, 2006, ISBN 0-19-518158-1, page 17</ref>。

中東問題におけるイギリスの政策は、シオニストへの配慮から、人口ではシオニストをはるかにしのぐアラブやムスリム重視のものへとシフトしていった。1939年にイギリスが発表した[[パレスチナ白書]]([[マクドナルド白書]])は、分割案を破棄し、パレスチナ国家の10年以内の独立、ユダヤ人移民の抑制、ユダヤ人への土地売却規制をうたったもので、これは民族郷土を破棄されたと感じたユダヤ人による反英運動の激化を招いた。修正主義シオニストが反英テロを行う一方、主流派シオニストはイギリスからアメリカへと協力相手を変え、[[1942年]]には、[[ニューヨーク]]にシオニズム運動家が集まりビルトモア・ホテルで[[ビルトモア会議]]が開かれ、パレスチナ全体にユダヤ共同体を確立するという「'''ビルトモア綱領'''」が採択された。[[1946年]]にはイギリスが再度パレスチナ問題の主導権を握ろうと英米調査委員会(モリソン・グレイディ委員会 Grady-Morrison Committee)を開き、バルフォア宣言や委任統治決議以上の権限のユダヤ人国家の創設、アラブ・ユダヤ連邦を結成というモリソン・グレイディ案を出してロンドンで和平会議を開こうとしたが、ユダヤ人側はこれを議論の土台にすることを拒否し、出席も拒んだ。

== 委任統治下のパレスチナ ==
=== 軍政から民政へ ===
1917年から1918年にかけてのイギリス軍による占領に続き、パレスチナは占領下敵国領土当局(Occupied Enemy Territory Administration)の統治下に置かれた。[[1920年]]7月、OETは軍政から高等弁務官による民政に切り替えられた<ref>''Official Records of the Second Session of the General Assembly'', Supplement No. 11, United Nations Special Committee on Palestine, Report to the General Assembly, Volume 1. Lake Success, NY, 1947. A/364, 3 September 1947, Chapter II.C.68., at [http://domino.un.org/UNISPAL.NSF/9a798adbf322aff38525617b006d88d7/07175de9fa2de563852568d3006e10f3!OpenDocument]</ref> 。初代[[高等弁務官]]の[[ハーバート・サミュエル]]は1920年6月20日にパレスチナ入りし、7月1日に高等弁務官に就任した。[[1923年]]に[[委任統治]]が始まるとサミュエルがそのまま高等弁務官を続けた。1923年10月、イギリスは国際連盟に対し、委任統治開始前のパレスチナの1920年から1922年にかけての行政報告書を提出している<ref>League of Nations, Official Journal, October 1923, p 1217.</ref>。国際連盟に加入しなかったアメリカ合衆国は、委任統治領の法的地位に対する立場を公的に表明する必要はなかったが、委任統治領が事実上存在するという立場を認め、各委任統治領を支配する政府と個別の条約を締結している。パレスチナに対しても、1924年にアメリカ国民のパレスチナにおける地位や財産などを守るため、イギリスと条約を結んだ<ref>United States Department of State / Papers relating to the foreign relations of the United States, 1924 Volume II (1924) – [http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=goto&id=FRUS.FRUS1924v02&isize=M&submit=Go+to+page&page=212 Palestine Mandate Convention between the United States of America and Great Britain] Signed at London, 3 December 1924, pp 212–222.</ref>。

=== アラブ人の政治的権利 ===
[[File:British Mandate Palestinian passport.jpg|thumb|150px|委任統治領パレスチナのパスポート]]
サンレモ会議では、パレスチナの非ユダヤ人共同体の現存する権利について保護するという条項が設けられた。サンレモ会議はパレスチナに委任統治を行うことを承認し、パレスチナにおける非ユダヤ人共同体が享受する諸権利が放棄されることはないという委任統治国による法的保証を調書に挿入することを確認した<ref>See Papers relating to the foreign relations of the United States, The Paris Peace Conference, 1919, Page 94 [http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=goto&id=FRUS.FRUS1919Parisv13&isize=M&submit=Go+to+page&page=94]</ref>。メソポタミアとパレスチナの委任統治案草案では、また第一次大戦後のすべての平和条約では、宗教共同体や少数派の権利保護の条項が含まれていた。各地の委任統治領は紛争が起こった場合、[[常設国際司法裁判所]]の強制管轄(compulsory jurisdiction)を受けることになっていた<ref>See Summary of the work of the League of Nations, January 1920 – March 1922, League of Nations Union, 1922, page 4 [http://www.archive.org/details/summaryofworkofl00leagiala]</ref>。

[[1878年]][[7月13日]]の[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]62条では<ref>[http://www.fordham.edu/halsall/mod/1878berlin.html See Article 62 (LXII) of the Treaty of Berlin]</ref>、オスマン帝国全域における宗教的自由と市民的政治的権利が扱われていた<ref>See Defending the Rights of Others, by Carol Fink, Cambridge University, 2006, ISBN 0-521-02994-5, page 28</ref>。この保証はしばしば「宗教の権利」や「少数派の権利」と呼ばれている。しかし、この保証は市民的・政治的事項での差別待遇の禁止も含まれていた。宗教の違いが、市民的政治的権利や公職への就任やあらゆる経済活動において、ある人を排除したり不適格としたりする理由にされてはならないとされた。

[[国際連合]]の[[国際司法裁判所]]による法分析では、国際連盟憲章は、パレスチナの諸共同体を暫定的に独立国家相当と認めていたとされる。委任統治は一時的なもので、その地域を独立の国家へと導くことをその目的としていた<ref name="Ormsby-Gore">See the Statement of the Principal Accredited Representative, Hon. W. Ormsby-Gore, C.330.M.222, Mandate for Palestine – Minutes of the Permanent Mandates Commission/League of Nations 32nd session, 18 August 1937, [http://domino.un.org/UNISPAL.NSF/0145a8233e14d2b585256cbf005af141/fd05535118aef0de052565ed0065ddf7?OpenDocument]</ref>。ヒギンス判事は、パレスチナの人々にはその土地で自治を行う資格があり、自身の国家を持つ資格もあると説明している<ref>See the Judgment in "Legal Consequences of the Construction of a Wall in the Occupied Palestinian Territory" [http://www.icj-cij.org/docket/files/131/1681.pdf]</ref>。国際司法裁判所は、移動の自由や聖地への接近に関する、1878年のベルリン条約で認められていた特別な保証は、パレスチナ委任統治の下でも、[[国際連合総会決議181]](国連パレスチナ分割案、1947年)の下でも保存されていたとしている<ref>See paragraphs 49, 70, and 129 of the International Court of Justice Advisory Opinion, Legal Consequences of the Construction of a Wall in the Occupied Palestinian Territory [http://www.icj-cij.org/docket/files/131/1671.pdf] and PAUL J. I. M. DE WAART (2005). International Court of Justice Firmly Walled in the Law of Power in the Israeli–Palestinian Peace Process. Leiden Journal of International Law, 18 , pp 467–487, doi:10.1017/S0922156505002839</ref>。

[[File:Stamp palestine 10 mils.jpg|thumb|150px|パレスチナの切手(1928年ごろ)]]
しかしながらアメリカの歴史家のラシード・ハリディー(Rashid Khalidi)は、委任統治ではアラブ人の権利が無視されていたとする<ref>Khalidi, Rashid (2006). [http://books.google.com/books?id=xp3MQavDxjIC The Iron Cage: The Story of the Palestinian Struggle for Statehood]. pp.32-33. Beacon Press. ISBN 0-8070-0308-5. Retrieved 2 May 2009.
</ref>。アラブ人指導者は何度もイギリスに対して民族的政治的権利を認めるよう要求し続けていた。彼らはアメリカのウィルソン大統領による[[十四か条の平和原則]]や大戦中のイギリスによるアラブ人への約束を信じて、自治がかなうものと考えていた。しかしイギリスは、委任統治の実施を、アラブ人の憲法上の地位のあらゆる種類の変更の前提条件とした。1922年のパレスチナ政令では立法評議会が提案されていたが<ref>[http://domino.un.org/UNISPAL.NSF/361eea1cc08301c485256cf600606959/c7aae196f41aa055052565f50054e656!OpenDocument The Palestine Order in Council, of 1922]</ref>、委任統治の規定に反する条例は通すことが出来ないとされていた。アラブ人はこの規定を受け容れることを自殺行為と考えた<ref>Khalidi 2006, pp. 33–34</ref>。戦間期の間、イギリス政府は、パレスチナにおける多数支配の原則や、その他多数派であるアラブ人にパレスチナ政府の支配権を与えるような手段の導入を拒否し続けた<ref>Khalidi 2006, pp. 32, 36</ref>。

委任統治の期間に、パレスチナとトランスヨルダン双方に自治機関が成立されることが求められていた。1947年、イギリス外務省のベヴィンは、イギリス政府は25年間の委任統治で、アラブの利益を害することなくユダヤ人共同体の正当な願望を促進することに最善を尽くしたが、委任統治が求める自治機関の発展を確実にすることには失敗したと認めた<ref>See Foreign relations of the United States, 1947. The Near East and Africa Volume V, page 1033</ref>。

=== イシューヴ(ユダヤ人共同体) ===
パレスチナには19世紀以前からユダヤ人が暮らしていたが、20世紀初頭からシオニズムに基づくヨーロッパからのユダヤ人移住が増え、ダマスカスなどの不在地主から土地を買ってパレスチナ人を排除した入植地を広げ、次第にユダヤ人人口が増加していった。パレスチナにおけるユダヤ人共同体は'''[[イシューヴ]]'''と呼ばれる。委任統治初期にはすでにパレスチナの人口の6分の一に達したユダヤ人人口は、委任統治末期には3分の1に増えていた。1920年から1945年の間に、主に東欧からの367,845人のユダヤ人と、33,304人の非ユダヤ人がパレスチナに移入している<ref>{{Cite book|title=A Survey of Palestine: Prepared in December 1945 and January 1946 for the Information of the Anglo-American Committee of Inquiry |volume=1|pages=185|publisher=Govt. printer|location=Palestine|year=1946}}</ref>。さらに不法移民を行った者もおり、そのほとんどはユダヤ人で人数は5万から6万に達すると見られる<ref>Ibid., pp. 210: "Arab illegal immigration is mainly ... casual, temporary and seasonal". pp. 212: "The conclusion is that Arab illegal immigration for the purpose of permanent settlement is insignificant".</ref>。委任統治期間中に起こった人口増加のうち、ユダヤ人においては人口増の主な理由は移民で、パレスチナ人は出生などの自然増が主だった<ref>{{Cite book|author=J. McCarthy|title=The population of Palestine: population history and statistics of the late Ottoman period and the Mandate|publisher=Darwin Press|year=1995|location=Princeton, N.J.}}</ref>。

パレスチナにおけるユダヤ人共同体(イシューヴ)を代表し、移民受け容れや募集、土地購入や教育に当たったのは、[[1929年]]に設立された'''[[ユダヤ機関]]'''(Jewish Agency for Israel, {{lang-he|הסוכנות היהודית לארץ ישראל}}, ''HaSochnut HaYehudit L'Eretz Yisra'el'')だった。その前段階となる[[ハイム・ヴァイツマン]]らの[[シオニスト委員会]]は、バルフォア宣言後の1918年にイギリス政府の後援で結成され、同年4月にパレスチナに向かい、パレスチナ各地のユダヤ人入植地を視察し、世界シオニスト機構のパレスチナ事務所を発展させ農業局、入植局、土地局、教育局などさまざまな機関を作った。1920年4月19日にはイシューヴの代表会議の選挙を行った<ref name="Chronicle">The Palestine Chronicle: [http://www.palestinechronicle.com/view_article_details.php?id=14037 Palestine Through History: A Chronology (I)]</ref>。こうして設置された代議員会(General Assembly, 立法府の役を果たす)と、そこから選出されるユダヤ民族評議会(Jewish National Council, Va'ad Le'umi, 行政府の役を果たす)が、後のイスラエル国会と内閣に繋がった。また、20世紀初頭から主流派であった社会主義シオニストの政党や、これと対立する右派の修正主義シオニスト(反英、大イスラエル志向)の政党は、それぞれ教育や医療やレクリエーション組織を設立している。

これら自治組織とは別に、1922年の委任統治決議4条では、ユダヤ人の民族郷土の確立や、パレスチナのユダヤ人の利益確立のために、経済や社会などの問題においてパレスチナ行政当局に意見を行い協力する適切なユダヤ人機関が必要であるとされていた。イギリス当局はアラブ人にも同様の機関設立を求めたが、委任統治の合法性自体を疑うアラブ指導者らから拒否されている。

1921年にはシオニスト委員会は、4条に規定されたユダヤ機関へと発展させるべくパレスチナ・シオニスト委員会(Palestine Zionist Executive)となり、学校、病院、自衛組織('''[[ハガナー]]''')などを運営していった。ハイム・ヴァイツマンはパレスチナ・シオニスト委員会と世界シオニスト機構双方の指導者であった。1929年にはユダヤ機関が正式に作られた。これはシオニストのユダヤ人と、非シオニストのユダヤ人が半々で構成するもので、シオニストであるなしに関わらずユダヤ人の民族郷土の確立に向けて協力するためのものであった。ユダヤ機関が解決に当たろうとしたのは、イギリスによるユダヤ人のパレスチナへの移民枠の拡大であった。

[[1922年]][[6月3日]]に植民地相の[[ウィンストン・チャーチル]]が発表したいわゆる[[チャーチル白書]]は、バルフォア宣言やフセイン=マクマホン書簡を解釈したもので、パレスチナはマクマホン書簡で約束されたアラブ国家の領域外であること、パレスチナすべてがユダヤ人民族郷土になるわけではないことを述べた。さらにユダヤ人移民によりユダヤ人の数が増えることを民族郷土の設立のために必要としながらも、パレスチナへの移民数に制限を設けた。雇用や経済力などパレスチナの「経済的容量」に応じて半年ごとに移民数は見直され、それ以上の移民は許可されなかった。以後、この移民枠がイギリスとシオニストの間の争点となる。

=== ユダヤ人とパレスチナ人の衝突 ===
ユダヤ人移民は当初はパレスチナ人の抵抗をあまり受けなかった。しかし19世紀末から20世紀にかけてのヨーロッパでの反ユダヤ感情の高まりに押される形で、ユダヤ人移民(そのほとんどはヨーロッパから)の数が急速に増加し、アラブとの衝突が起こり始めた。当初のユダヤ人移民は農園を所有し多数のパレスチナ人を小作人として使っていたのに比べ、社会主義的なシオニストを中心とした20世紀初頭からのユダヤ人移民はユダヤ人同士の集団農場による労働を理想とし、パレスチナ人を排除する傾向があった。こうした独立性・孤立性の高いユダヤ人共同体が、パレスチナ全体の面積からはごく小さいものの、各地に広がりつつあった。[[1907年]]には[[バル・ギオラ]](Bar-Giora)が、1909年には[[ハショマー]](Hashomer)と呼ばれる自衛組織が既に登場している。

[[ファイル:Jerusalem-nabi-moussa-april-1920.jpg|thumb|250px|1920年のナビー・ムーサーの日]]
委任統治開始前から反ユダヤ暴動が起こり始める。[[1920年]][[4月4日]]には、[[エルサレム]]でのムスリムのナビー・ムーサーの祭りの際に、シオニストやイギリスのユダヤ民族郷土計画に反対する騒動が起き、数日間の間に死者も出た([[ナビー・ムーサー暴動]]とも呼ばれる)。[[1921年]]5月には、ユダヤ人共産主義者による[[ヤッファ]]から[[テルアビブ]]へのメーデー行進の際に暴動が起こり、騒ぎがパレスチナに広がり、ユダヤ人とパレスチナ人双方にそれぞれ50人弱の死者が出た。こうしたことから、ユダヤ人側は自衛を目的として民兵組織([[ハガナー]])を作り始める。

委任統治期間には3つの大きな反ユダヤ暴動が起こった。1920年から1921年にかけての上述の事件に続き、[[1929年]][[8月15日]]にはユダヤ人青年組織ベタルのメンバーによる行進をきっかけにした'''[[嘆きの壁事件]]'''が起こり、ヘブロンの近代以前からのユダヤ人共同体で虐殺が起きる事態に発展した。[[1936年]]から[[1939年]]にかけては'''[[パレスチナのアラブ大反乱|アラブ大反乱]]'''が起きた。[[アミーン・フサイニー|ハジ・アミン・フセイニー]]率いるアラブ人指導部はイギリス政府にユダヤ人移民の制限やユダヤ人への土地売却禁止を求めてパレスチナ全土で[[ゼネスト]]に入り、イギリス軍はその鎮圧に長期間を要した。委任統治の限界が明らかになったこの大反乱で、ユダヤ人側はユダヤ機関やハガナーがイギリス軍に協力して戦った。一方で、この時期から強硬派のユダヤ人が[[エツェル]](イルグン)や[[レヒ]]のような武装組織を結成し、パレスチナ人とイギリス軍の双方に対して[[テロ]]も含む過激な攻撃を繰り広げた。

=== パレスチナの経済 ===

=== パレスチナのアラブ人指導部 ===

=== マクドナルド白書と大戦下のパレスチナ ===

== 国連のパレスチナ分割案 ==

== 委任統治の終了 ==

== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://histclo.com/essay/war/ip/man/pal-man.html British Mandate of Palestine]


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2011年1月20日 (木) 12:54時点における版

イギリス委任統治領パレスチナ
British Mandate for Palestine(英語)
الانتداب البريطاني على فلسطين(アラビア語)
המנדט הבריטי על פלשתינה א"י(ヘブライ語)
オスマン帝国 1920年 - 1948年 トランスヨルダン
イスラエル
イギリス委任統治領パレスチナの国旗 イギリス委任統治領パレスチナの国章
イギリス委任統治領パレスチナの旗イギリス委任統治領パレスチナの紋章
国の標語: なし
イギリス委任統治領パレスチナの位置
公用語 英語
アラビア語
ヘブライ語
首都 エルサレム
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
イギリス委任統治 1920年
トランスヨルダン独立1946年
イスラエル独立1948年

イギリス委任統治領パレスチナ(イギリスいにんとうちりょうパレスチナ、英語British Mandate for Palestineアラビア語الانتداب البريطاني على فلسطينヘブライ語המנדט הבריטי על פלשתינה א"י)は、国際連盟によりパレスチナに創設された、イギリスの委任統治領である。パレスチナは、16世紀以来この地を治めていたオスマン帝国から、第一次世界大戦後にイギリスの委任統治下に入った領土である。

委任統治領パレスチナの決議案は1922年7月24日に国際連盟理事会で公式に承認され、1923年9月26日に発効した[1]。この決議案は、委任統治の原則を定めた国際連盟憲章第22条と、第一次世界大戦後に連合国主要国が集まりオスマン帝国を分割して委任統治領を置くことを協議したサンレモ会議1920年4月25日)で決められた原則に基づく[1]。これにより、オスマン領シリアの南部(パレスチナ)に1923年から1948年にかけて委任統治領が成立することになる。

一方、1922年9月16日の国際連盟による承諾によって、イギリスは委任統治領を2つの地域に分けた。すなわち、イギリスの直轄支配を受けるヨルダン川より西のパレスチナと、ヒジャーズ王国の王族ハーシム家が治めるヨルダン川東部の自治領トランスヨルダンである。トランスヨルダンの創設は、イギリスがハーシム家との間に約束した1915年マクマホン宣言に基づく。この分割により、イギリスがロスチャイルド卿との間に交わしたバルフォア宣言でパレスチナに創設することを認めたユダヤ人のナショナル・ホーム(民族郷土)の範囲から、トランスヨルダンの部分は除外されることになった[1][2]

パレスチナ委任統治決議の序文には次のようにある。これはバルフォア宣言の条文を基本的にそのまま使ったものである。

連合国主要国は、委任統治が、1917年11月2日にイギリス国王陛下の政府により発せられ、いわゆる列強が承認した宣言を実行し、ユダヤ人のナショナル・ホームをパレスチナに確立することに責任を負うべきであると合意した。また、パレスチナに存在する非ユダヤ人コミュニティーの市民的・宗教的権利を不利にすることや、あらゆる他の国に在住するユダヤ人が享受する権利や政治的地位を不利にすることはなされてはならないと明確に了解された。[3]

背景

オスマン帝国に対する戦略

サイクス・ピコ協定における中東分割(青系=フランス、赤系=イギリス)。直轄地(濃い色)と影響圏(薄い色)のほか、パレスチナに共同統治領が置かれる

1915年、オスマン帝国が中央同盟国に参加して第一次世界大戦に参戦すると、スエズ運河がオスマン帝国軍の脅威にさらされ、連合国の戦略的利益が危うくなり、とりわけイギリスはインドとの連絡が危うくなった。これに対し、イギリス政府と軍は、地中海ペルシャ湾の間に陸橋状の地域を確保するという戦略を立てた。これにより、スエズ運河の代替となる陸上ルートを確保でき、陸上からペルシャ湾岸に軍を送ることが可能になり、インドの権益を守ることも、北からのロシアの侵略を防ぐこともできるようになるという計画であった[4]。このために地中海側のパレスチナを確保することが重要となった。

オスマン帝国の戦後処理に対するフランスの発案に応え、イギリスは1915年にデ・ブンセン委員会(De Bunsen Committee)を設立し、戦争が勝利に終わった場合のイギリスのトルコおよびアジアにおける基本方針の性質を考えることにした。委員会はさまざまなシナリオを用意し、今後のオスマン帝国分割に際して、フランス、イタリアロシア帝国との協議にあたっての指針を決定した。委員会の推薦した案は、オスマン帝国を、非中央集権的な複数の国による連邦とすることであった[5]。イギリスはフランスと同時にガリポリの戦い(1915年)を開始すると同時にメソポタミアにおいても戦端を開いたが、ガリポリではオスマン軍に撃退される結果になった。

1916年、フランスとイギリスは秘密のうちにサイクス・ピコ協定を結んだ。これにより中東は両国の影響圏により分割され、聖地を含むパレスチナは共同統治ということになった。一方、イギリスは中東に獲得する予定の土地について、これと相反する可能性のある約束を交わしている。メッカの太守(シャリーフ)フサイン・イブン・アリーに対しては、マクマホン書簡において、彼らがイギリス軍に協力する代わりにアラブ人の住む中東のほとんどを対象とするアラブ王国の創設を約束した。ウォルター・ロスチャイルド卿に対しては、バルフォア宣言で、ユダヤ人がイギリスに協力する代わりに、パレスチナに「民族郷土」(ナショナル・ホーム)を作ることを承認した。

パレスチナにおける第一次世界大戦

1917年12月9日、イギリス軍に対して白旗を掲げるエルサレム市長

1915年から、シオニストの指導者で親英派のゼエヴ・ジャボチンスキーは、イギリスに対して、シオニストによる義勇軍を結成するよう迫った。独立の戦闘部隊を結成することは人数面や偏見などから困難となり、イギリスは最終的に輜重部隊である「シオン騾馬隊」の結成を受け入れた。彼らはガリポリの戦いで補給などに活躍する。

デビッド・ロイド・ジョージが首相となると、イギリスはエドムンド・アレンビー将軍の指揮によるシナイ・パレスチナ作戦を立ち上げることになった。この時にはイギリスは複数の大隊からなるユダヤ軍団(Jewish Legion)の創設を認め、シナイ・パレスチナ作戦に参加させた。この軍団にはロシアや東欧やアメリカ合衆国などから多数のユダヤ人が参加して、イギリス側で戦っている。同時期、トーマス・エドワード・ロレンスらはフサイン・イブン・アリーとともにアラブの反乱を立ち上げ、アラビアでゲリラ戦を行った後にシナイ・パレスチナ作戦に参加している。

この戦いで、オスマン軍はイギリス軍に敗れ、パレスチナ及びシリアはイギリス軍により占領され、戦中から戦後にかけて軍政が続いた。

戦後

OET(占領下敵国領土)の区分。旧アレッポ州海岸部からベイルート州までの地中海岸がフランス統治下の「OET北」、ベイルート州南部からエルサレム郡までの海岸部がイギリス統治下の「OET南」、その内陸のアレッポ州からシリア州の部分が「OET東」

オスマン帝国は1918年10月30日ムドロス休戦協定によって降伏し、1918年11月23日にはオスマン帝国の領土を「占領下敵国領土」(occupied enemy territories, OET)に分割するという布告が発せられた。中東は3つのOETに分割された。OET南はシナイ半島のエジプト国境からパレスチナ・レバノンに伸び、北はアッコおよびナブルスまで、東はヨルダン川へ伸びていた。イギリス軍政官がこの地域を統治した[6]。この他にフランス軍政官が統治するOET北(レバノン)と、フサイン・イブン・アリーの子でダマスカスに入城したファイサルの部下アリ・リザ・エル=リッカビが統治するOET東(シリアとトランスヨルダン)が存在した。OETは委任統治領パレスチナ成立の時までパレスチナの統治を継続した。

1919年ドーヴィルでの会談で、イギリス首相デビッド・ロイド・ジョージとフランスのジョルジュ・クレマンソーは1918年12月1日-4日の英仏合意を最終的に確認した。新しい合意は、シリアおよびレバノンでのフランスの勢力確立をイギリスが支援する代わりに、サイクス・ピコ協定でフランス勢力圏だったモースルと共同統治だったパレスチナをイギリス勢力圏にするというものだった[7]。1919年10月、シリアのイギリス軍とヨルダン川東岸のイギリス部隊は撤退し、ダマスカスのファイサルがこれらの土地の唯一の統治者となった。

一方でフランスはシリアにおける軍事的政治的影響を着々と増強しており、ファイサルの政府は窮地に追いやられた。これに対しイギリスはアラブの権利を主張しフランスを牽制した。パリ講和会議では、イギリス首相ロイド・ジョージはフランス首相クレマンソーや他の連合国代表に、マクマホン書簡は条約義務であると説明した。ロイド・ジョージは、フサイン・イブン・アリーとの書簡は実際にサイクス・ピコ協定の基礎となっており、フランスは創設予定の委任統治を用いてこの書簡による同意を破ってはならないと述べた。また、フランスはシリアのホムスハマーダマスカスアレッポといった独立アラブ王国が作られる場所を軍事占領しないことをフランスは同意していたことも指摘した[8]

パリ講和会議で始まったオスマン帝国分割交渉は1920年のロンドン会議に持ち越され、1920年4月のサンレモ会議でようやく最終的に固まった。連合国最高委員会は委任統治領パレスチナと委任統治領メソポタミアをイギリスに、委任統治領シリア委任統治領レバノンをフランスに、それぞれ与えることで合意した。1920年8月、これらの原則はセーヴル条約で公式に公開された。

これに先立つ1920年3月7日、ファイサルはシリア国民会議の支持で大シリアの国王への即位を宣言したが、サンレモ会議の結果を受けたフランスはフランス・シリア戦争を開始した。シリアは7月23日のマイサルンの戦いで敗北し、ファイサルはダマスカスからイギリスに亡命する事態になる。こうしてアラブ独立国の一角であったシリアはフランス領となってしまった。

一方、シオニストもアラブ代表もパリ講和会議に出ており、フサイン王の代理であるファイサルハイム・ヴァイツマンは会談を行い互いの民族国家創設に協力するというファイサル・ヴァイツマン合意を行ったが[9]、これが発効することはなかった。

委任統治決議

実務上及び法的基礎

1922年6月の国際連盟公式文書では、委任統治に対する国際連盟の権力は極めて限られているとするバルフォア卿の意見を収録している。彼によれば、委任統治とは連合国が考えたもので国際連盟が創設したものではないこと、連盟の義務は、委任統治の特例や詳細が、連合国が決定したものと合致しているか確認することに限られること、委任統治は連盟の統治の下ではなく連盟の監督の下で行われること、委任統治とは占領した領土に占領国が主権を行使するにあたって自ら課した制約であることなどが述べられている[10]

サイクス・ピコ協定ではアラブ人の主権は必要とされていない。そのかわり、「アラブの首長の宗主権」および「国際管理 - その形態はロシアとの協議の上決定され、最終的には他の連合国や、メッカの太守の代表との協議のうえ決定される」ということになっている[11] 。パリ講和会議ではファイサルがアラブの独立を、最低でも委任統治を行うことを主張した[12]。最終的に、イギリス委任統治下のアラブ国家を推奨している[13]。シオニスト組織も、メッカ太守とのファイサル・ヴァイツマン合意に沿って互いの国家創設の合意を求めるようになった。世界シオニスト機構も「パレスチナに対するユダヤ人の歴史的権利」を掲げ、イギリスによる委任統治を求めた[14]。ファイサル・ヴァイツマン合意では両民族の紛争の調停はイギリスが行い、またパリ講和会議のあとに両民族の「国家」(「アラブ国家」と「ユダヤ人民族郷土」)の境界画定のための委員会を開いて境界を画定することを求めている。世界シオニスト機構は、講和会議に対して、ヒジャーズ鉄道より東(トランスヨルダンの大部分)を含まない、ヨルダン川を挟んだユダヤ人国家の境界案を提出している。アメリカによる、旧オスマン帝国領土の非トルコ人国民や英仏の植民地主義的活動に対する1919年の「キング=クレーン調査団」(King-Crane Commission)の報告書のうち、秘密とされた付属書では、ユダヤ人がバルフォア宣言の影響でイギリスによる委任統治を明確に支持していること、フランスはイギリスがダマスカスのファイサルに対して巨額の助成金を毎月払っていることに不快感を示しており、この補助金によりアラブ人がイギリスの代理として汚い仕事を行い、イギリスはさも自分の手が汚れていないかのように見せかけているとフランスが見ていることを述べている[15]

1920年のサンレモ会議では、シリア・パレスチナ分割にあたり、聖都エルサレム聖座ローマ教皇庁)とフランス・イタリア代表団が統治する「聖座保護領」(Protectorate of the Holy See)を置くことになっていた。しかしこの案は、イギリス委任統治を求める世界シオニスト機構の要求によって弱体化されている[16]

イギリス委任統治は法的・行政的機構であって、地理的領域ではなかった。委任統治領に対する土地管轄権は条約や利用やその他の法的手段の変更による影響を受けた。多くの観測によれば、委任統治領パレスチナは、東はヨルダン川を越え、委任統治領メソポタミアの境界線まで広がっていると見ていた。しかし一方で、1915年のマクマホン書簡において、アレッポ・ホムス・ハマー・ダマスカスを結ぶ線の東(トランスヨルダンを含む)には単一もしくは複数のアラブ国家が作られることになっており、この線より東にまで委任統治領パレスチナが広がるとすれば矛盾が存在することになる。

トランスヨルダン

マクマホン書簡とサイクス・ピコ協定に基づき、ヨルダン川の東をアラブ人地域とし、ユダヤ人民族郷土の範囲からヨルダン川東岸を除く必要が生じた。1920年に開催された連合国同士の会議やサンレモ会議に基づくパレスチナ委任統治決議案には、トランスヨルダンを定義する後の25条の文言「ヨルダン川から、最終的に決定するパレスチナ東部境界の間の地域」は含まれていなかった。

トランスヨルダンはかつてオスマン帝国ではダマスカスに中心を置くシリア州に属していた。ダマスカスにあったファイサル王とハーシム・アル=アターシー首相の民族主義政府は、シリア内陸とヨルダン川東岸とを支配していた。この政府が1920年7月にフランスによって倒されると、シリアの範囲の定義、シリアにトランスヨルダンが含まれるか否かということにイギリスは深い感心を示し始めた。1920年7月には、イギリスはフランスが支配しようとしている「シリア」には、パレスチナと関係の深いトランスヨルダンが含まれていないことを確認しようとしている[17]。フランスがファイサルの王国をダマスカスから追い出した後、イギリス外相ジョージ・カーゾン卿はパレスチナの東部国境の画定を先送りにするよう指示し、1921年3月21日の外務省・植民地省法律顧問団が「25条」の導入を決定した。1921年3月31日にカーゾン卿が承認し、1922年7月22日には25条を含んだ(トランスヨルダンを領域に含めた)パレスチナ委任統治決議の最終案が国際連盟に提出された。決議案25条はマクマホン書簡にも配慮をしたものであった。この条文では、委任統治国に対し、その時点での地域の状況にふさわしくないと判断された委任統治の適用を延期するか差し控えるとされていた。

ファイサルがダマスカスを離れイギリスに亡命すると、カーゾン外相は1920年8月、パレスチナに置いた高等弁務官ハーバート・サミュエルに、サイクス・ピコ協定のラインの南にはフランスの支配が及ばないこと、ラインの南のトランスヨルダンはパレスチナとは独立しているが密接な関係にあることを確認する書簡を送った[18]。サミュエルはこれに返信し、ヨルダン川東岸の部族や首長たちは従来のダマスカス政府に不満を持っており、その復活を受け入れることは考え難いとし[19]、最終的にトランスヨルダンはイギリスの委任統治の範囲内にあると宣言した[20]。サミュエルはロンドンの指示なくトランスヨルダンの当時の中心都市サルトに入り、指導者たちにこの地域がダマスカスから独立して委任統治領に入ること、しかしトランスヨルダンがパレスチナに併合されるわけではないことを説明した[20]。カーゾン卿はサミュエルの行動への関与を後に否定している[21]。一方で、ファイサルの兄弟アブドゥッラーがファイサルのシリア王権を支持するためにヒジャーズから軍を率いてトランスヨルダンに北上し緊張する局面があった。

こうした問題の解決のため、当時の植民地相ウィンストン・チャーチルは1921年3月にカイロ会議を招集した。彼はパレスチナ及びメソポタミアの委任統治領問題を話し合うため、トーマス・エドワード・ロレンス、ガートルード・ベルパーシー・コックスら中東専門家をこの会議に招いた。大きな課題は、中東のイギリス勢力圏から反仏軍事行動をおこさせないために、トランスヨルダンにどのような政策を適用すべきかということだった。この会議での結論は、シリアを追われたファイサルにメソポタミアを与えイラク国王とすること、その兄弟のアブドゥッラーにトランスヨルダンの首長の地位を与えること、トランスヨルダンはアラブ人地域としてパレスチナを構成するということだった。この会議の結論によりヒジャーズ王国の王子たちが中東のイギリス勢力圏に国を持つことになり、マクマホン書簡の約束は果たされたとチャーチルは考えた。チャーチルとアブドゥッラーによるエルサレムでのさらなる会合で、トランスヨルダンがアブドゥッラー首長の名目上の支配下に置かれるという条件でイギリス委任統治領に入ること、トランスヨルダンはヨルダン川の西に築かれる「ユダヤ人の民族郷土(ナショナル・ホーム)」の一部にはされない、ということを相互に確認した[22][23]。この合意は委任統治領が公式に成立する前に文書化され、イギリスはヨルダン川東岸には「ユダヤ人の民族郷土(ナショナル・ホーム)」に関する規定を延期または恒久的に控えることができるとされた[24][25]

ユダヤ人のシオニスト主流派も、トランスヨルダンには民族郷土が作られないという条件を承認し、バルフォア宣言の範囲をヨルダン川より西に縮小することを了解した。しかし一方で、ヨルダン川東岸でのトランスヨルダンの成立によりパレスチナにおけるアラブ国家成立はすでに果たされたと主張する立場や、トランスヨルダンの成立すら認めずヨルダン川を挟んで広がる「大イスラエル」を建設しようという強硬な民族主義者もシオニストの中に登場する。

これ以後、イギリスはヨルダン川より西の、面積にして当初のパレスチナ全体の23%の部分を「パレスチナ」とし、ヨルダン川より東の面積にして77%の部分を「トランスヨルダン」として統治した。この2つの委任統治領は、一人のイギリス人高等弁務官により統治された。トランスヨルダンではアラブ政府に対する権限委譲が徐々に進み、1923年には地方行政が承認され、1928年にはほとんどの行政機能が移管された。しかし1928年2月20日のイギリスおよび首長国政府による合意後も委任統治の地位は変わらなかった。この合意でトランスヨルダンにおける独立政府の存在が承認され、その権力の範囲や限界が定められた。1929年10月31日に合意は批准され交換された。イギリスは1946年にヨルダン・ハシミテ王国が独立するまで、この地域に対する委任統治を継続した。

宗教と共同体の問題

パレスチナ委任統治決議14条は、イギリスがパレスチナにおける異なった宗教共同体同士の権利や主張を、研究・定義・決定する委員会を置くよう求めていた。しかしこの委員会はついに創設されることがなかった。

第15条では委任統治府に、あらゆる形態の崇拝の自由な実践と、完全な良心の自由とが認められるということを求める内容だった。

境界線

1919年のパリ講和会議にシオニスト代表が提出したユダヤ人国家の境界案(赤線)

第一次世界大戦中から戦後まで、イギリスはパレスチナ地域の統治や将来の分割に関わる、衝突のもととなるさまざまな関与を行ってきた。バルフォア宣言、マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定をはじめ、1922年に発表されたチャーチル白書(バルフォア宣言をイギリスがどう見るかを述べた白書)などが含まれる。1920年のサンレモ会議の時点では委任統治領の範囲や境界はいまだ決まってはいなかった[26]

まずイギリスとフランスの勢力圏の境界をはっきりさせる必要があり、1920年12月の英仏境界合意でその大筋が決まった[27]。この合意ではゴラン高原の大部分をフランスの範囲とした。また境界を地面に設置する共同委員会も作られることになった[27]。共同委員会は1922年2月3日に最終報告書を発行し、いくつかの修正とともに1923年9月29日にイギリスおよびフランス政府が承認した[28][29]。この合意で、シリアとレバノンの住民はフラ湖ガリラヤ湖、ヨルダン川における漁業および航行権をパレスチナ住民同様に認められ、これらの水域の警察権はパレスチナに認められた。この境界画定の最中、世界シオニスト機構は、パレスチナ側に少しでも多くの水源地を含めるように両国政府に圧力をかけ続けた。結果、ガリラヤ湖全体、その上流のヨルダン川の両岸、フラ湖、ダンの泉、ヤルムーク川の一部がパレスチナ領となった

境界の画定に引き続き、イギリスとフランスは1926年2月2日にパレスチナ・シリア・レバノンの委任統治領相互間の善隣関係合意に調印した[30]

委任統治決議の草案

イギリス外相のカーゾン卿は、フランスおよびイタリア政府と共同で委任統治決議の初期の草案を拒絶した。これには「さらにまた、ユダヤ民族とパレスチナの歴史的関係と、それにより当地に彼らの民族郷土を再設立しようという主張を認識し…」という文章があったからであった。外務省が設置したパレスチナ委員会は、この「主張」に対する言及を除去するよう提言した。連合国はセーヴル条約ですでに「歴史的関係」に言及しており、ユダヤ人の法的主張については認めていなかった。

ヴァチカン、フランス、イタリアは、成立しなかった聖座保護領案およびフランス・エルサレム保護領案に基づく独自の法的主張を続けた。聖地に対する主張を解決するための国際管理というアイデアはセーヴル条約の95条に成文化されており、パレスチナ委任統治決議の14条(異なった宗教共同体間の聖地などについての意見を判断する委員会の設立)にも再度取り上げられた。これに関する交渉が委任統治決議の成立を遅らせる一因になった。イギリスは委任統治決議の13条(各宗教の聖地の保護や権利の承認)をもとに、聖地に対する自らの責任を主張した。結局、14条に基づき、聖地に関する委員会や宗教間の問題解決のための委員会が作られることはなかった[31]。高等弁務官はユダヤ人共同体から正統派ラビの委員会を設立し、各宗教の共同体ごとに自治を任せたオスマン帝国のミッレト制のようなものを開始した。この制度により11の宗教共同体が公認されたが、これには正統派以外のユダヤ人やプロテスタントの共同体は含まれなかった。

国際連盟による批准

連合国によるサンレモ会議では、国際連盟憲章22条(委任統治の原則)に基づきイギリスによるパレスチナ委任統治を認定した[32]。連合国はイギリスにバルフォア宣言の実現に責任を持つよう決定している。1922年6月、国際連盟は、委任統治領シリアに対するイタリアとフランスの争いが解決するまで発効しないという規定のもと、パレスチナ委任統治の条件を許可した。この問題は1923年9月に解決し、国際連盟は1923年9月29日の会合で2つの委任統治領を有効とすることを決議した[33]

ユダヤ人の民族郷土(ナショナル・ホーム)

バルフォア宣言と委任統治決議の両方に「ユダヤ人民族郷土」(ナショナル・ホーム)という語句が登場している。ユダヤ人の故郷となるべき土地を作ることを示唆する「民族郷土」という語句が使われた一方、パレスチナに摩擦を起こす可能性のある「ユダヤ人の国家」という語句は使われなかった。1919年、世界シオニスト機構の総書記でパリ講和会議にシオニスト機構を代表して出席したナフム・ソコロフ(Nahum Sokolow, 1859年 - 1936年)は『シオニズムの歴史:1600年から1918年まで』を著した。彼はこの中で、シオニズムの目的はパレスチナへの「故郷」設立であり、独立国家の設立ではないと述べている。

シオニズムの目的は、ユダヤ人のために、公法によって守られた故郷をパレスチナに打ち立てることである。… …シオニズムに対する反対者は、シオニズムは独立した「ユダヤ人国家」の創設を目指している、とかつて主張していたし、今でもかたくなに繰り返し繰り返し主張し続けているが、これは誤りである。「ユダヤ人国家」はシオニズムの綱領の中には決して含まれていない。「ユダヤ人国家」はテオドール・ヘルツルの最初の小冊子の題名であったが、これは人々に考えることを強いるための題名である。この小冊子は第1回シオニスト会議へと続き、バーゼル綱領が採択された。これが存在する唯一の綱領である。

—ナフム・ソコロフ、『シオニズムの歴史』[34]

1947年に開催された国際連合パレスチナ問題特別委員会(United Nations Special Committee on Palestine, UNSCOP)は、1897年の第1回シオニスト会議で採択されたバーゼル綱領から来た「ユダヤ人民族郷土」という概念について、その意味、狙い、法的性格について多くの議論を引き起こしてきたと述べる。特に、未知の法的含意をもつこと、その解釈について国際法には前例がないことが問題となったとも述べている。「民族郷土」という語はバルフォア宣言と委任統治決議の両方にも登場しているが、これらでも、民族郷土の設立を約束しつつ、その意味を定義してはいない。植民地省が1922年6月3日に発行した「イギリスのパレスチナ政策」という声明には、バルフォア宣言を制限するように説明した内容が述べられている。この声明では、「パレスチナにおけるアラブの人口、言語、習慣の消滅や従属」、あるいは「パレスチナ住民全体に対するユダヤ国籍の強制」といったようなことを排除し、委任統治の観点からみれば、ユダヤ人民族郷土はパレスチナの中に設立されるもので、パレスチナが丸ごとユダヤ人民族郷土に転換されるわけではないということが明確にされている。国際連合パレスチナ問題特別委員会は、建設(民族郷土の意味する範囲をかなり制約したもの)は、国際連盟による委任統治領の認可に先立って行われ、当時シオニスト機構の幹部たちが公式に受け入れていたとしている[35]

しかしシオニストの勢力や主張が強まるにつれ、パレスチナ人は自分たちの自治がユダヤ人によって縮小されると危惧するようになった。国際連盟の委任統治委員会は、委任統治領は二重の義務を負っているという立場をとっている。1932年、アラブ人住民の自治機構創設に関する要望にこたえて、国際連盟委任統治委員会は、委任統治領パレスチナの代表に対し、委任統治決議の様々な条文、とりわけ第2条(民族郷土の設立、およびパレスチナ全住民の権利保護に関する条文)に関して質問を行っている。議長は、「同じ条の規約するところにより、委任統治府はつい最近ユダヤ人民族郷土を立ち上げたばかりである」と述べている[36]。1930年3月、イギリス植民地相のパスフィールド男爵シドニー・ウェッブは内閣文書を出し、次のように述べた[37]。まずバルフォア宣言では、ユダヤ人はパレスチナにおいてアラブ人住民以上の特別な地位を得る、というようなことや、パレスチナ人の自治要求は、ユダヤ人民族郷土の設立のために縮小されるべきである、というようなことは示唆されていない。しかし、シオニズム指導者はパレスチナ人のあらゆる形態の自治に対する反対を隠そうとはしていない。委任統治決議第2条はアラブ人の自治を制約するためのものであるという解釈すら主張されているが、同22条およびイギリスとアラブとの約束から見ればこの主張は認めがたいものである、とウェッブは述べた。

ピール分割案。青はユダヤ人国家、緑はアラブ人国家、エルサレムから海岸部を繋ぐ赤は国際管理地域

1936年から1939年にかけて続いた大規模なアラブ人反乱を受けて、1937年にウィリアム・ピール率いるイギリス王立調査団は、1937年にパレスチナを2つの国家に分割する「ピール分割案」を提出した。この時、ユダヤ国家創設という案が登場した。チューリヒの第20回シオニスト会議はこれを拒絶したが、どのような形でもユダヤ国家をパレスチナに作るためさらなる協議に応じるとした。一方、ハジ・アミン・フセイニー率いるアラブ最高委員会は分割案を拒否し、パレスチナの分割自体を考慮することをも拒否した。イギリスはこの問題でアラブ全体から反発を買うことを恐れていた。すでにイギリスはアラブ大反乱の鎮圧のために大軍をパレスチナに送っており、ヨーロッパでの大戦を控えていたこの時期に、アラブ全体の反英感情を刺激してアラブ各地に軍を送るような余裕はなかった。イギリスはピール調査団の勧告を受容せず、さらにウッドヘッド調査団を送り、同調査団はユダヤ人国家の範囲を縮小したプランB、プランCを提出したが、やはりユダヤやアラブ側からの同意を得ることができないままだった。

ダヴィド・ベン=グリオンは1937年の書簡でピール分割案には好意を示し、その理由をパレスチナの一部にユダヤ人国家ができることは第一歩でありこれが最終段階ではないからと述べた。彼はパレスチナ全域のユダヤ人国家化を目指しており、アラブ人の同意の有無に関わらずシオニストが残りの国土に入植するためには第一級のユダヤ軍が必要と述べている[38]。ベン=グリオンもヴァイツマンも、パレスチナ分割案はパレスチナ全体へのユダヤ人国家拡大の第一歩として前向きに見ていた[39]。1937年はイツハク・サデーがアラブ反乱に対してFOSH(「野戦部隊」)を作った年で、彼の策定した「アヴナー計画」(Avner Plan)は、1948年のイスラエル独立時にハガナーがパレスチナの要地の占拠およびパレスチナ人住民の追放を行った「ダーレット計画」(プランD、Plan Dalet)へとつながった[40]

中東問題におけるイギリスの政策は、シオニストへの配慮から、人口ではシオニストをはるかにしのぐアラブやムスリム重視のものへとシフトしていった。1939年にイギリスが発表したパレスチナ白書マクドナルド白書)は、分割案を破棄し、パレスチナ国家の10年以内の独立、ユダヤ人移民の抑制、ユダヤ人への土地売却規制をうたったもので、これは民族郷土を破棄されたと感じたユダヤ人による反英運動の激化を招いた。修正主義シオニストが反英テロを行う一方、主流派シオニストはイギリスからアメリカへと協力相手を変え、1942年には、ニューヨークにシオニズム運動家が集まりビルトモア・ホテルでビルトモア会議が開かれ、パレスチナ全体にユダヤ共同体を確立するという「ビルトモア綱領」が採択された。1946年にはイギリスが再度パレスチナ問題の主導権を握ろうと英米調査委員会(モリソン・グレイディ委員会 Grady-Morrison Committee)を開き、バルフォア宣言や委任統治決議以上の権限のユダヤ人国家の創設、アラブ・ユダヤ連邦を結成というモリソン・グレイディ案を出してロンドンで和平会議を開こうとしたが、ユダヤ人側はこれを議論の土台にすることを拒否し、出席も拒んだ。

委任統治下のパレスチナ

軍政から民政へ

1917年から1918年にかけてのイギリス軍による占領に続き、パレスチナは占領下敵国領土当局(Occupied Enemy Territory Administration)の統治下に置かれた。1920年7月、OETは軍政から高等弁務官による民政に切り替えられた[41] 。初代高等弁務官ハーバート・サミュエルは1920年6月20日にパレスチナ入りし、7月1日に高等弁務官に就任した。1923年委任統治が始まるとサミュエルがそのまま高等弁務官を続けた。1923年10月、イギリスは国際連盟に対し、委任統治開始前のパレスチナの1920年から1922年にかけての行政報告書を提出している[42]。国際連盟に加入しなかったアメリカ合衆国は、委任統治領の法的地位に対する立場を公的に表明する必要はなかったが、委任統治領が事実上存在するという立場を認め、各委任統治領を支配する政府と個別の条約を締結している。パレスチナに対しても、1924年にアメリカ国民のパレスチナにおける地位や財産などを守るため、イギリスと条約を結んだ[43]

アラブ人の政治的権利

委任統治領パレスチナのパスポート

サンレモ会議では、パレスチナの非ユダヤ人共同体の現存する権利について保護するという条項が設けられた。サンレモ会議はパレスチナに委任統治を行うことを承認し、パレスチナにおける非ユダヤ人共同体が享受する諸権利が放棄されることはないという委任統治国による法的保証を調書に挿入することを確認した[44]。メソポタミアとパレスチナの委任統治案草案では、また第一次大戦後のすべての平和条約では、宗教共同体や少数派の権利保護の条項が含まれていた。各地の委任統治領は紛争が起こった場合、常設国際司法裁判所の強制管轄(compulsory jurisdiction)を受けることになっていた[45]

1878年7月13日ベルリン条約62条では[46]、オスマン帝国全域における宗教的自由と市民的政治的権利が扱われていた[47]。この保証はしばしば「宗教の権利」や「少数派の権利」と呼ばれている。しかし、この保証は市民的・政治的事項での差別待遇の禁止も含まれていた。宗教の違いが、市民的政治的権利や公職への就任やあらゆる経済活動において、ある人を排除したり不適格としたりする理由にされてはならないとされた。

国際連合国際司法裁判所による法分析では、国際連盟憲章は、パレスチナの諸共同体を暫定的に独立国家相当と認めていたとされる。委任統治は一時的なもので、その地域を独立の国家へと導くことをその目的としていた[48]。ヒギンス判事は、パレスチナの人々にはその土地で自治を行う資格があり、自身の国家を持つ資格もあると説明している[49]。国際司法裁判所は、移動の自由や聖地への接近に関する、1878年のベルリン条約で認められていた特別な保証は、パレスチナ委任統治の下でも、国際連合総会決議181(国連パレスチナ分割案、1947年)の下でも保存されていたとしている[50]

パレスチナの切手(1928年ごろ)

しかしながらアメリカの歴史家のラシード・ハリディー(Rashid Khalidi)は、委任統治ではアラブ人の権利が無視されていたとする[51]。アラブ人指導者は何度もイギリスに対して民族的政治的権利を認めるよう要求し続けていた。彼らはアメリカのウィルソン大統領による十四か条の平和原則や大戦中のイギリスによるアラブ人への約束を信じて、自治がかなうものと考えていた。しかしイギリスは、委任統治の実施を、アラブ人の憲法上の地位のあらゆる種類の変更の前提条件とした。1922年のパレスチナ政令では立法評議会が提案されていたが[52]、委任統治の規定に反する条例は通すことが出来ないとされていた。アラブ人はこの規定を受け容れることを自殺行為と考えた[53]。戦間期の間、イギリス政府は、パレスチナにおける多数支配の原則や、その他多数派であるアラブ人にパレスチナ政府の支配権を与えるような手段の導入を拒否し続けた[54]

委任統治の期間に、パレスチナとトランスヨルダン双方に自治機関が成立されることが求められていた。1947年、イギリス外務省のベヴィンは、イギリス政府は25年間の委任統治で、アラブの利益を害することなくユダヤ人共同体の正当な願望を促進することに最善を尽くしたが、委任統治が求める自治機関の発展を確実にすることには失敗したと認めた[55]

イシューヴ(ユダヤ人共同体)

パレスチナには19世紀以前からユダヤ人が暮らしていたが、20世紀初頭からシオニズムに基づくヨーロッパからのユダヤ人移住が増え、ダマスカスなどの不在地主から土地を買ってパレスチナ人を排除した入植地を広げ、次第にユダヤ人人口が増加していった。パレスチナにおけるユダヤ人共同体はイシューヴと呼ばれる。委任統治初期にはすでにパレスチナの人口の6分の一に達したユダヤ人人口は、委任統治末期には3分の1に増えていた。1920年から1945年の間に、主に東欧からの367,845人のユダヤ人と、33,304人の非ユダヤ人がパレスチナに移入している[56]。さらに不法移民を行った者もおり、そのほとんどはユダヤ人で人数は5万から6万に達すると見られる[57]。委任統治期間中に起こった人口増加のうち、ユダヤ人においては人口増の主な理由は移民で、パレスチナ人は出生などの自然増が主だった[58]

パレスチナにおけるユダヤ人共同体(イシューヴ)を代表し、移民受け容れや募集、土地購入や教育に当たったのは、1929年に設立されたユダヤ機関(Jewish Agency for Israel, ヘブライ語: הסוכנות היהודית לארץ ישראל‎, HaSochnut HaYehudit L'Eretz Yisra'el)だった。その前段階となるハイム・ヴァイツマンらのシオニスト委員会は、バルフォア宣言後の1918年にイギリス政府の後援で結成され、同年4月にパレスチナに向かい、パレスチナ各地のユダヤ人入植地を視察し、世界シオニスト機構のパレスチナ事務所を発展させ農業局、入植局、土地局、教育局などさまざまな機関を作った。1920年4月19日にはイシューヴの代表会議の選挙を行った[59]。こうして設置された代議員会(General Assembly, 立法府の役を果たす)と、そこから選出されるユダヤ民族評議会(Jewish National Council, Va'ad Le'umi, 行政府の役を果たす)が、後のイスラエル国会と内閣に繋がった。また、20世紀初頭から主流派であった社会主義シオニストの政党や、これと対立する右派の修正主義シオニスト(反英、大イスラエル志向)の政党は、それぞれ教育や医療やレクリエーション組織を設立している。

これら自治組織とは別に、1922年の委任統治決議4条では、ユダヤ人の民族郷土の確立や、パレスチナのユダヤ人の利益確立のために、経済や社会などの問題においてパレスチナ行政当局に意見を行い協力する適切なユダヤ人機関が必要であるとされていた。イギリス当局はアラブ人にも同様の機関設立を求めたが、委任統治の合法性自体を疑うアラブ指導者らから拒否されている。

1921年にはシオニスト委員会は、4条に規定されたユダヤ機関へと発展させるべくパレスチナ・シオニスト委員会(Palestine Zionist Executive)となり、学校、病院、自衛組織(ハガナー)などを運営していった。ハイム・ヴァイツマンはパレスチナ・シオニスト委員会と世界シオニスト機構双方の指導者であった。1929年にはユダヤ機関が正式に作られた。これはシオニストのユダヤ人と、非シオニストのユダヤ人が半々で構成するもので、シオニストであるなしに関わらずユダヤ人の民族郷土の確立に向けて協力するためのものであった。ユダヤ機関が解決に当たろうとしたのは、イギリスによるユダヤ人のパレスチナへの移民枠の拡大であった。

1922年6月3日に植民地相のウィンストン・チャーチルが発表したいわゆるチャーチル白書は、バルフォア宣言やフセイン=マクマホン書簡を解釈したもので、パレスチナはマクマホン書簡で約束されたアラブ国家の領域外であること、パレスチナすべてがユダヤ人民族郷土になるわけではないことを述べた。さらにユダヤ人移民によりユダヤ人の数が増えることを民族郷土の設立のために必要としながらも、パレスチナへの移民数に制限を設けた。雇用や経済力などパレスチナの「経済的容量」に応じて半年ごとに移民数は見直され、それ以上の移民は許可されなかった。以後、この移民枠がイギリスとシオニストの間の争点となる。

ユダヤ人とパレスチナ人の衝突

ユダヤ人移民は当初はパレスチナ人の抵抗をあまり受けなかった。しかし19世紀末から20世紀にかけてのヨーロッパでの反ユダヤ感情の高まりに押される形で、ユダヤ人移民(そのほとんどはヨーロッパから)の数が急速に増加し、アラブとの衝突が起こり始めた。当初のユダヤ人移民は農園を所有し多数のパレスチナ人を小作人として使っていたのに比べ、社会主義的なシオニストを中心とした20世紀初頭からのユダヤ人移民はユダヤ人同士の集団農場による労働を理想とし、パレスチナ人を排除する傾向があった。こうした独立性・孤立性の高いユダヤ人共同体が、パレスチナ全体の面積からはごく小さいものの、各地に広がりつつあった。1907年にはバル・ギオラ(Bar-Giora)が、1909年にはハショマー(Hashomer)と呼ばれる自衛組織が既に登場している。

1920年のナビー・ムーサーの日

委任統治開始前から反ユダヤ暴動が起こり始める。1920年4月4日には、エルサレムでのムスリムのナビー・ムーサーの祭りの際に、シオニストやイギリスのユダヤ民族郷土計画に反対する騒動が起き、数日間の間に死者も出た(ナビー・ムーサー暴動とも呼ばれる)。1921年5月には、ユダヤ人共産主義者によるヤッファからテルアビブへのメーデー行進の際に暴動が起こり、騒ぎがパレスチナに広がり、ユダヤ人とパレスチナ人双方にそれぞれ50人弱の死者が出た。こうしたことから、ユダヤ人側は自衛を目的として民兵組織(ハガナー)を作り始める。

委任統治期間には3つの大きな反ユダヤ暴動が起こった。1920年から1921年にかけての上述の事件に続き、1929年8月15日にはユダヤ人青年組織ベタルのメンバーによる行進をきっかけにした嘆きの壁事件が起こり、ヘブロンの近代以前からのユダヤ人共同体で虐殺が起きる事態に発展した。1936年から1939年にかけてはアラブ大反乱が起きた。ハジ・アミン・フセイニー率いるアラブ人指導部はイギリス政府にユダヤ人移民の制限やユダヤ人への土地売却禁止を求めてパレスチナ全土でゼネストに入り、イギリス軍はその鎮圧に長期間を要した。委任統治の限界が明らかになったこの大反乱で、ユダヤ人側はユダヤ機関やハガナーがイギリス軍に協力して戦った。一方で、この時期から強硬派のユダヤ人がエツェル(イルグン)やレヒのような武装組織を結成し、パレスチナ人とイギリス軍の双方に対してテロも含む過激な攻撃を繰り広げた。

パレスチナの経済

パレスチナのアラブ人指導部

マクドナルド白書と大戦下のパレスチナ

国連のパレスチナ分割案

委任統治の終了

脚注

  1. ^ a b c Palestine Royal Commission Report Presented by the Secretary of State for the Colonies to Parliament by Command of His Majesty, July 1937, Cmd. 5479. His Majesty’s Stationery Office., London, 1937. 404 pages + maps.
  2. ^ Marjorie M. Whiteman, Digest of International Law, vol. 1, US State Department (Washington, DC: U.S. Government Printing Office, 1963) pp 650–652
  3. ^ The Palestine Mandate, The Avalon Project
  4. ^ Tom Segev's New Mandate, Yehoshua Porath
  5. ^ The Middle East and North Africa in World Politics: A Documentary Record, by J. C. Hurewitz, 1979, Yale University Press; 2nd edition, ISBN 0-300-02203-4, page 26, BRITISH WAR AIMS IN OTTOMAN ASIA: REPORT OF THE DE BUNSEN COMMITTEE 30 June 1915
  6. ^ See also "The Armistice in the Middle East," in
  7. ^ Allenby and British Strategy in the Middle East, 1917–1919, Matthew Hughes, Taylor & Francis, 1999, ISBN 0-7146-4473-0, page 122
  8. ^ see pages 1–10 of the minutes of the meeting of the Council of Four starting here: [1]
  9. ^ http://www.mideastweb.org/feisweiz.htm
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参考文献

外部リンク

関連項目