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トロツキーは国外からも反スターリン、世界革命の運動を続けようとしたが、そのためにトルコから[[フランス]]、[[ノルウェー]]、[[メキシコ]]と転々と亡命先を移ることとなった。この間、[[1938年]]には[[第四インターナショナル]]を結成し、[[コミンテルン]]に代わる国際社会主義運動の組織化に乗り出すが、スターリンはソ連国内で反対者の大粛清を進めており、ついには国外にいたトロツキーの身辺にもスターリンの送り込んだと思われる襲撃者が現れるようになっていた。1940年[[8月20日]]、トロツキーは[[ラモン・メルカデル]]によってピッケルで後頭部を打ち抜かれ、翌日収容先の病院で死亡した。この[[暗殺]]が、スターリンの指示によるものということが情報公開により明らかになりつつある。 |
トロツキーは国外からも反スターリン、世界革命の運動を続けようとしたが、そのためにトルコから[[フランス]]、[[ノルウェー]]、[[メキシコ]]と転々と亡命先を移ることとなった。この間、[[1938年]]には[[第四インターナショナル]]を結成し、[[コミンテルン]]に代わる国際社会主義運動の組織化に乗り出すが、スターリンはソ連国内で反対者の大粛清を進めており、ついには国外にいたトロツキーの身辺にもスターリンの送り込んだと思われる襲撃者が現れるようになっていた。1940年[[8月20日]]、トロツキーは[[ラモン・メルカデル]]によってピッケルで後頭部を打ち抜かれ、翌日収容先の病院で死亡した。この[[暗殺]]が、スターリンの指示によるものということが情報公開により明らかになりつつある。 |
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==トロツキー暗殺== |
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[[1940年]]の時点でソ連の独裁者スターリンの「殺しのリスト」には、まだ1人だけ大物が残っていた。それがトロツキーだった。これに先立つ数年間、スターリンは「古参ボルシェビキ」を大量粛清している。右派、左派、中道を問わず、自らの権力のライバルとみなした人間を裁判による死刑宣告で事毎に抹殺した。[[ジノヴィエフ]]、[[カーメネフ]]、[[ラデック]]、[[ブハーリン]]、[[ピアタコフ]]等の革命の元勲もこれに含まれる。宿敵として残ったのはトロツキーのみだった。 |
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ロシア革命を現実に指導したのは、トロツキーとレーニンの2巨頭だった。トロツキーは[[赤軍]]([[赤衛軍]])の創始者で、[[白軍]]([[白衛軍]])に対する内戦でこれを勝利に導いた立役者だった。[[1924年]]にレーニンが死亡すると、トロツキーと共産党第1書記スターリンが相対峙する2巨頭として残った。スターリンの方が策略に長けていた。党内の地位を最大限に活用し、時にはジノヴィエフやカーメネフ、時には右派のブハーリンと組み、トロツキーの地盤を次第に蚕食した。スターリンは、トロツキーの[[世界革命論]]に反対し、[[1国社会主義論]]を唱えた。党の官僚たちには魅力的な提案である。[[1925年]]、トロツキーは軍の[[コミッサール]]([[人民委員]])の地位を解任された。[[1927年]]には党から除名され、[[1929年]]にはソ連から追放された。 |
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まず、[[トルコ]]が彼に亡命を認めた。[[1933年]]には[[フランス]]へ、[[1935年]]には[[ノルウェー]]に移った。しかし、翌[[1936年]]、ノルウェーはソ連の圧力で彼に国外退去を求めた。トロツキーはメキシコに居を定めた。しかし、ここでスターリンの放った刺客にしつこくつけ狙われる。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2005年10月24日 (月) 11:41時点における版
ソビエト連邦 |
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最高指導者 共産党書記長 |
レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
標章 |
ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章 ソビエト連邦の国歌 鎌と槌 |
政治 |
ボリシェヴィキ · メンシェヴィキ ソビエト連邦共産党 ソビエト連邦の憲法· 最高会議 チェーカー · 国家政治保安部 ソ連国家保安委員会 |
軍事 |
赤軍 · ソビエト連邦軍 ソビエト連邦地上軍 · ソビエト連邦海軍 ソビエト連邦空軍 · ソビエト連邦防空軍 戦略ロケット軍 |
場所 |
モスクワ · レニングラード スターリングラード ·クレムリン · 赤の広場 |
イデオロギー |
共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
歴史 |
ロシア革命 ·ロシア内戦 ·大粛清· 独ソ不可侵条約· バルト諸国占領·冬戦争· 独ソ戦 ·冷戦 · 中ソ対立 · キューバ危機 ベトナム戦争 · 中ソ国境紛争 アフガニスタン紛争 · ペレストロイカ ·チェルノブイリ原子力発電所事故·マルタ会談 · 8月クーデター ソビエト連邦の崩壊 |
レフ・ダヴィドヴィチ・トロツキー(Лев Давидович Троцкий,Lev Davidovich Trotskii, 1879年10月26日(グレゴリオ暦11月7日) - 1940年8月21日)は、ロシアの革命家・政治家・思想家。赤軍の創設者のひとりとしてソビエト連邦の草創期に活躍したが、のちにスターリンと対立して追放され、亡命先のメキシコで暗殺された。
英語風の綴りLeon Trotsky にもとづいた、レオン・トロツキーとの表記も非常に多い。本名はレフ・ダヴィドヴィチ・ブロンシュテイン(Лев Давидович Бронштейн (Lev Davidovich Bronstein)といい、晩年は後妻ナターリアの姓をとってセドフ(Лев Давидович Седов (Lev Davidovich Sedov)に改姓した。ただし、一般に「レフ・セドフ」という場合は、トロツキーとナターリアの間に生まれた長男(愛称「リョーヴァ」)の事を指す。「レフ」は英語の「レオン」と同じで、「ライオン」という意味の名前である。
生涯
トロツキーは、1879年に現在のウクライナ南部にあたるイワノフカで、ユダヤ系の富農の子として生まれた。学生時代の1896年に初めてマルクス主義に触れ、共産主義運動に入る。1898年には南ロシア労働者同盟の幹部として働いていたために2年の懲役刑を受けてオデッサで収監された。1900年からはシベリアへの流刑に処されるが、2年後に脱走した。トロツキーの姓は、この逃亡時に、以前オデッサで収監されていた当時の看守の名前が印象に残ったため、それを借用したものである。
トロツキーはスイスを経てロンドンに亡命し、そこで機関紙『イスクラ』を出版していたウラジーミル・レーニンらの社会民主労働党と合流した。翌1903年、社会民主労働党が分裂すると、レーニンらの「多数派」(ボリシェヴィキ)ではなく、「少数派」(メンシェヴィキ)に所属する。
1905年、メンシェヴィキからも早々に離脱したトロツキーは、血の日曜日事件以来政治変動の続くロシアに帰国して地下活動に入り、サンクトペテルブルク・ソビエトの指導者となった。10月にはロシア全土で起こったゼネストにも関与するが、12月に逮捕され、サンクトペテルブルク・ソビエトも壊滅した。トロツキーはシベリアへの終身刑を宣告されたが、流刑の護送中に脱走。ウィーンへと亡命して雑誌『プラウダ』を創刊し、永続革命論を提唱した。第一次世界大戦がはじまると、居をスイス、ついでフランスに移し、雑誌『ナーシェ・スローヴォ』に拠ってドイツ社会民主党、フランス社会党など戦争支持を決めた社会主義政党を批判する論陣を張る一方、1915年にはスイス社会党が主宰した「ツィンメルワルト会議」で反戦を訴えた。しかし翌年、フランスから追放され、スペイン経由でアメリカ合衆国のニューヨークへと移る。ニューヨークではニコライ・ブハーリンらと共に露語新聞『ノーヴィ・ミール』に参加している。
1917年、ロシアで2月革命が起こってロシア革命が始まるとニューヨークを発ってロシアへ帰国。メジライオンツィ(「統一社会民主主義者地区間組織」。ボリシェヴィキ、メンシェヴィキいずれにも所属しない社会主義者組織)の指導者としてボリシェヴィキと歩調をあわせ、革命運動に参加した。7月にはボリシェヴィキに入党し、9月にペトログラード・ソビエト議長に就任。10月革命では、軍事革命委員会の委員長として軍事蜂起を指導、ボリシェヴィキの権力奪取に貢献した。
レーニンが人民委員会議議長(首相に相当)に就任したボリシェヴィキ・左派エスエル(社会革命党)連立政権のもとでは外務人民委員(外相に相当)に就任。ドイツとの講和交渉を担当し、ブレスト・リトフスク条約の締結に関わった。条約締結に際しては、ボリシェヴィキ党内では意見が分かれ、トロツキーは当初、ブハーリンら戦争継続派には反対しつつ、即時講和を主張するレーニンの立場も危険が大きいとし、「戦争もなく、講和もなく、ドイツ労働者の蜂起を待つ」との姿勢をとった。しかしドイツ政府が強硬姿勢を見せ、軍をロシア領内に侵攻させると、レーニンに賛成し、講和に踏み切った。
1918年2月に外務人民委員を辞任し、かわって軍事人民委員・革命軍事会議議長に就任する。軍事的な組織と扇動に巧みで、大衆の人気も高かったといわれるトロツキーは赤軍の組織に着手し、内戦において赤軍の指揮者として反革命軍(白軍)の撃破や外国の干渉の排除に大きな功績をあげた。しかし、1922年のクロンシュタット軍港の水兵たちの革命的蜂起を武力弾圧し、またウクライナ地方最大の革命勢力だったネストル・マフノ率いる農民アナキズム運動を圧殺するなど、後のスターリンに似た横顔を見せる。
1924年のレーニンの死後、スターリンが後継者として台頭すると、トロツキーはその政治的ライバルとして政治的に排除され、1925年には軍事人民委員を解任され、閑職に追いやられた。さらにスターリンはトロツキーの永続革命論にもとづく世界革命の構想に反対して一国社会主義論を打ち出したので、トロツキーはイデオロギー上でも党の主流派と激しく対立。「左翼反対派」、ついで「合同反対派」を組織して抵抗するが、戦争と内戦に疲弊した大衆を味方につけたスターリンの前に敗北し、政府・党の全役職を解任された上、1928年に中央アジアのアルマ・アタ(現在のカザフスタンのアルマトイ)へと追放された。1929年にはソビエト連邦から国外追放され、トルコのイスタンブルに送り出された。
トロツキーは国外からも反スターリン、世界革命の運動を続けようとしたが、そのためにトルコからフランス、ノルウェー、メキシコと転々と亡命先を移ることとなった。この間、1938年には第四インターナショナルを結成し、コミンテルンに代わる国際社会主義運動の組織化に乗り出すが、スターリンはソ連国内で反対者の大粛清を進めており、ついには国外にいたトロツキーの身辺にもスターリンの送り込んだと思われる襲撃者が現れるようになっていた。1940年8月20日、トロツキーはラモン・メルカデルによってピッケルで後頭部を打ち抜かれ、翌日収容先の病院で死亡した。この暗殺が、スターリンの指示によるものということが情報公開により明らかになりつつある。
トロツキー暗殺
1940年の時点でソ連の独裁者スターリンの「殺しのリスト」には、まだ1人だけ大物が残っていた。それがトロツキーだった。これに先立つ数年間、スターリンは「古参ボルシェビキ」を大量粛清している。右派、左派、中道を問わず、自らの権力のライバルとみなした人間を裁判による死刑宣告で事毎に抹殺した。ジノヴィエフ、カーメネフ、ラデック、ブハーリン、ピアタコフ等の革命の元勲もこれに含まれる。宿敵として残ったのはトロツキーのみだった。
ロシア革命を現実に指導したのは、トロツキーとレーニンの2巨頭だった。トロツキーは赤軍(赤衛軍)の創始者で、白軍(白衛軍)に対する内戦でこれを勝利に導いた立役者だった。1924年にレーニンが死亡すると、トロツキーと共産党第1書記スターリンが相対峙する2巨頭として残った。スターリンの方が策略に長けていた。党内の地位を最大限に活用し、時にはジノヴィエフやカーメネフ、時には右派のブハーリンと組み、トロツキーの地盤を次第に蚕食した。スターリンは、トロツキーの世界革命論に反対し、1国社会主義論を唱えた。党の官僚たちには魅力的な提案である。1925年、トロツキーは軍のコミッサール(人民委員)の地位を解任された。1927年には党から除名され、1929年にはソ連から追放された。
まず、トルコが彼に亡命を認めた。1933年にはフランスへ、1935年にはノルウェーに移った。しかし、翌1936年、ノルウェーはソ連の圧力で彼に国外退去を求めた。トロツキーはメキシコに居を定めた。しかし、ここでスターリンの放った刺客にしつこくつけ狙われる。
関連項目
- ロシア革命
- ウラジミール・レーニン
- トロツキスト
- マルクス主義
- 共産主義
- クロンシュタットの反乱
- ネストル・マフノ
- 社会革命党左派
- オットー・シュトラッサー(ナチス左派。「ナチのトロツキー」と呼ばれる)
現在日本で入手可能な著作
- 『裏切られた革命』現代思潮新社 ISBN 4329002140
- 『裏切られた革命』岩波文庫
- 『文学と革命』岩波文庫(全2巻)
- 『ロシア革命史』岩波文庫(全5巻) ISBN 4003412745,ISBN 4003412753,ISBN 4003412761,ISBN 400341277X,ISBN 4003412788
- 『トロツキーわが生涯』岩波文庫(全2巻) ISBN 4003412796,ISBN 400341280X
- 『レーニン』中公文庫
トロツキーを扱った映画作品
- 『暗殺者のメロディー』(1972年、監督:ジョセフ・ロージー 主演:アラン・ドロン)
トロツキーを扱った漫画作品
- 『虹色のトロツキー』(安彦良和)
トロツキーを扱った小説作品(架空戦記SF)
- 『紺碧の艦隊』「18巻 東シベリヤ共和国」(荒巻義雄)