「アルフォンソ13世 (スペイン王)」の版間の差分
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[[1906年]]5月31日、アルフォンソは[[ヴィクトリア]]を妃として華燭の典を挙げた。[[バッテンベルグ]]の[[ヘンリー公爵]]の令嬢で、[[イギリス]]国王[[ジョージ5世]]の従妹でもある。この婚儀が公表されると、イギリスとスペインの両国で議論が沸騰した。公表と同時にヴィクトリア姫は[[プロテスタント]]から[[カトリック]]へ改宗した。これでイギリス国内の強硬分子は「ローマ・カトリック教会何するものぞ」と甲高い叫びを上げた。彼女の実家には「公爵」の称号がある。そこで議論は政府レベルに持ち上げられた。ただし、このレベルの議論はあっさりけりがつく。称号は形だけで、彼女は公金の受領者ではなかったからだ。一方、スペインではカトリック教徒の多くがヴィクトリア姫を攻撃した。改宗とは結婚のための方便であり、ローマ・カトリックを本当に信仰しての行為か怪しいもの、というのが主たる理由であった。 |
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結婚の儀式が終了し、ロイヤル・カップルが無蓋の馬車で大聖堂からパレードに移ったときも、[[などリード]]にはこの空気が張り詰めていた。警備は完璧のはずだった。しかし、沿道の人垣から1人の男が飛び出し、易々とロイヤル・カップルの馬車に近づき1発の爆弾を投じた。それは馬車には命中せず路上で爆発した。現場はパニックに陥った。警護の兵士と観衆31人が命を落とした。新婚の王と王妃は無事だった。犯人は逮捕される前に自殺して果てた。当初宗教問題が犯行の動機と考えられたが、そうではなかった。調査の結果、犯人は[[マテオ・モラレス]](通称モラール)という[[無政府主義者]]([[アナーキスト]])とわかった。 |
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翌日、新王妃は勇気を証明することでスペイン大衆の中での自らの立場を強化した。つまり、当初日程の通り闘牛見物を続行した。観客は総立ちでこれを歓呼した。これに続く歳月、アルフォンソ王はしばしば社会改革の努力を行う。しかし、途絶えることのないテロの嵐で政府高官は次々に暗殺され、統治の形態はますます旧来の抑圧へ傾斜を深めた。[[1923年]]には絶対独裁へ逆戻りしていた。[[1931年]]、その反動としての短期間の共和政府の下で、アルフォンソは「'''王としての権限の中断'''」を布告する羽目に追い込まれ、国外に脱出した。後に亡命先で退位し、名目上の王位を子息のフアンに譲った。 |
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== 関連項目 == |
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2005年10月24日 (月) 10:49時点における版
アルフォンソ13世(Alfonso XIII, 1886年5月17日 - 1941年2月28日)はスペイン王。父アルフォンソ12世、母マリア・クリスティーナ(ハプスブルク家)。
父の死後に生まれたため、出生と同時に国王となり、母が摂政を務める。1902年親政開始。 イギリス女王ヴィクトリアの孫娘ヴィクトリア・ユージェニー王女と結婚。四男二女をもうけるが皇太子と末息子が血友病に冒された。
失政が多く、1931年に亡命、スペインは共和制になる。死の直前に三男バルセロナ伯爵フアンに王位継承権を譲る。
なお、スペインは1975年に王政復古し、ファンの息子フアン・カルロス1世が王位につく。
アルフォンソ13世暗殺未遂
1906年5月31日、アルフォンソはヴィクトリアを妃として華燭の典を挙げた。バッテンベルグのヘンリー公爵の令嬢で、イギリス国王ジョージ5世の従妹でもある。この婚儀が公表されると、イギリスとスペインの両国で議論が沸騰した。公表と同時にヴィクトリア姫はプロテスタントからカトリックへ改宗した。これでイギリス国内の強硬分子は「ローマ・カトリック教会何するものぞ」と甲高い叫びを上げた。彼女の実家には「公爵」の称号がある。そこで議論は政府レベルに持ち上げられた。ただし、このレベルの議論はあっさりけりがつく。称号は形だけで、彼女は公金の受領者ではなかったからだ。一方、スペインではカトリック教徒の多くがヴィクトリア姫を攻撃した。改宗とは結婚のための方便であり、ローマ・カトリックを本当に信仰しての行為か怪しいもの、というのが主たる理由であった。
結婚の儀式が終了し、ロイヤル・カップルが無蓋の馬車で大聖堂からパレードに移ったときも、などリードにはこの空気が張り詰めていた。警備は完璧のはずだった。しかし、沿道の人垣から1人の男が飛び出し、易々とロイヤル・カップルの馬車に近づき1発の爆弾を投じた。それは馬車には命中せず路上で爆発した。現場はパニックに陥った。警護の兵士と観衆31人が命を落とした。新婚の王と王妃は無事だった。犯人は逮捕される前に自殺して果てた。当初宗教問題が犯行の動機と考えられたが、そうではなかった。調査の結果、犯人はマテオ・モラレス(通称モラール)という無政府主義者(アナーキスト)とわかった。
翌日、新王妃は勇気を証明することでスペイン大衆の中での自らの立場を強化した。つまり、当初日程の通り闘牛見物を続行した。観客は総立ちでこれを歓呼した。これに続く歳月、アルフォンソ王はしばしば社会改革の努力を行う。しかし、途絶えることのないテロの嵐で政府高官は次々に暗殺され、統治の形態はますます旧来の抑圧へ傾斜を深めた。1923年には絶対独裁へ逆戻りしていた。1931年、その反動としての短期間の共和政府の下で、アルフォンソは「王としての権限の中断」を布告する羽目に追い込まれ、国外に脱出した。後に亡命先で退位し、名目上の王位を子息のフアンに譲った。
関連項目
前任者: アルフォンソ12世 |
後任者: アルカラ・サモーラ |