「蝦夷」の版間の差分
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古代の「蝦夷」は、日本の[[東]]に居住し、政治的・文化的に、朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた人間集団を指した。蝦夷と呼ばれた人間集団の中には、明治以後のアイヌにつながる集団も、アイヌ以外のいわゆる和人につながる集団も含まれていたと見られる。統一した政治勢力をなさず、次第に朝廷により征服・吸収された |
古代の「蝦夷」は、日本の[[東]]に居住し、政治的・文化的に、朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた人間集団を指した。蝦夷と呼ばれた人間集団の中には、明治以後のアイヌにつながる集団も、アイヌ以外のいわゆる和人につながる集団も含まれていたと見られる。統一した政治勢力をなさず、次第に朝廷により征服・吸収された。 |
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蝦夷について最古い言及は『[[日本書紀]]』にあり、それによると[[大和王権]]に順う[[熟蝦夷]](にきえみし)が最近く、ついで朝廷に逆らう(まつろわぬ)[[荒蝦夷]](あらえみし、麁蝦夷とも)、最遠方の[[都加留]](つがる)の三種類が存在したという。四尺にもわたる長い髭をたたえ、専ら[[狩猟]]・[[漁撈]]によって生活していた。蝦夷の勢力は、[[東日本]]([[関東]]、[[東北地方|東北]])に広く及んでいた。但し、こうした記述がどこまで事実を反映しているのか、時代・場所・民族が正しいのかは定かでない。 |
蝦夷について最古い言及は『[[日本書紀]]』にあり、それによると[[大和王権]]に順う[[熟蝦夷]](にきえみし)が最近く、ついで朝廷に逆らう(まつろわぬ)[[荒蝦夷]](あらえみし、麁蝦夷とも)、最遠方の[[都加留]](つがる)の三種類が存在したという。四尺にもわたる長い髭をたたえ、専ら[[狩猟]]・[[漁撈]]によって生活していた。蝦夷の勢力は、[[東日本]]([[関東]]、[[東北地方|東北]])に広く及んでいた。但し、こうした記述がどこまで事実を反映しているのか、時代・場所・民族が正しいのかは定かでない。 |
2005年10月16日 (日) 01:11時点における版
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蝦夷(えみし、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、朝廷によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化しており、特に古代の蝦夷を一個の民族と見なすことは強く疑問視されている。尚、近世の蝦夷はアイヌ人を指す。
呼称と語源
語源については諸説あり、中に樺太アイヌのアイヌ語で「人」を意味する「encu」と同語源とするものもある。
古代には「えみし」あるいは「えびす」と読まれており、平安時代後半頃から「えぞ」と読むようになった。こうした読みの変化が指し示す対象の変化に対応しているとする考えもある。
えみし
古代の「蝦夷」は、日本の東に居住し、政治的・文化的に、朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた人間集団を指した。蝦夷と呼ばれた人間集団の中には、明治以後のアイヌにつながる集団も、アイヌ以外のいわゆる和人につながる集団も含まれていたと見られる。統一した政治勢力をなさず、次第に朝廷により征服・吸収された。
蝦夷について最古い言及は『日本書紀』にあり、それによると大和王権に順う熟蝦夷(にきえみし)が最近く、ついで朝廷に逆らう(まつろわぬ)荒蝦夷(あらえみし、麁蝦夷とも)、最遠方の都加留(つがる)の三種類が存在したという。四尺にもわたる長い髭をたたえ、専ら狩猟・漁撈によって生活していた。蝦夷の勢力は、東日本(関東、東北)に広く及んでいた。但し、こうした記述がどこまで事実を反映しているのか、時代・場所・民族が正しいのかは定かでない。
7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道全域・樺太などに広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、780年に多賀城を一時陥落させた伊治呰麻呂、789年に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。日本は大軍で繰り返し遠征し、坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服した。日本の支配に服した蝦夷は、俘囚と呼ばれた。
蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。
9世紀に蝦夷に対する朝廷(関西)からの征服活動は、岩手県と秋田県のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。こうして、東北地方では12世紀には蝦夷としての独立性は失われた。
蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を日本人の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、考古学からする文化圏の検討と、北東北に分布するアイヌ語地名から、7世紀以降の蝦夷についてアイヌとの連続性を認める説が有力である。この場合、北海道から北東北にかけての広がりを持った擦文文化を担った人々こそが蝦夷であったとみなし、北海道の蝦夷はアイヌ人に継承され、東北地方の蝦夷と国内に移配された俘囚は日本人に合流したとされる。
しかし、文献史学の情報、考古学による発掘の進展などは擦文文化の広がりや実態、続縄文文化から擦文文化への、又擦文文化からアイヌ文化への移行過程がかなり複雑な様相を呈しており、前述の説ほど単純に割り切れるものではない事を浮かび上がらせつつあるため、単純にそのままの形では定説とみなされてはいない。従って『書紀』が語る東日本全域の蝦夷や、遡って縄文人・弥生人等との関係についての議論では、未だ確定的な説はない。
「蝦夷」は朝廷側からの蔑称(他称)であり、蝦夷側に民族集団としての自意識が有ったか無かったかに触れた史料はない。蝦夷に統一アイデンティティーは無かったと解するか、朝廷の対応から反動的に民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。
蝦夷を、現代の日本人につながる集団か、アイヌにつながる集団か、あるいはそれ以外の集団かに強引に帰属させる議論は無意味である。蝦夷の実態の解明とは、東日本の多様な人間集団が日本人とアイヌという大集団に再編されるプロセスの解明に他ならない。
えぞ
中世以後の蝦夷は、アイヌを指す。13世紀から14世紀頃には、現在アイヌと呼ばれる民族と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。
関連項目
参考文献
- 高橋崇『蝦夷――古代東北人の歴史』、中央公論新社[中公新書]、1986年。ISBN 4121008049
- 高橋崇『蝦夷の末裔――前九年・後三年の役の実像』、中央公論新社[中公新書]、1991年。ISBN 4121010418
- 新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-06627-6
- 川内春人「唐から見たエミシ 中国史料の分析を通して」『史学雑誌』113編1号、pp.43-61、2004年。(ISSN 00182478)