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2005年9月11日 (日) 06:45時点における版
重光 葵(しげみつ まもる、1887年7月29日 - 1957年1月26日)は、昭和期の外交官・政治家。大分県杵築市出身、東京帝国大学法学部卒。各国において日本国公使として勤務していたが、1930年には駐華公使として上海事変の収拾に尽力する。同年、朝鮮共産党員によるテロで爆弾を投げつけられ、片足を失う。その後、駐ソ公使・駐英大使を歴任。特に、日英関係が険悪化する中で、関係改善に努力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っている。非常に正確なものだったといわれた。
東條英機内閣・小磯国昭内閣において外務大臣。東條内閣にあっては、大東亜省設置に反対したこと、東條総理のブレーンとして大東亜会議成功のために奔走したことで知られる。
1945年9月2日、東京湾上に停泊した米戦艦ミズーリ号甲板上で行われた、連合国への降伏文書調印において、日本国全権として署名した。
太平洋戦争後の極東国際軍事裁判で禁固7年の判決を受けて服役。1951年に出獄後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務め、第一次鳩山一郎内閣では外務大臣を務める。1956年にはソ連との国交の正常化を目指す全権委員となり、北方領土問題の解決に尽力するが、間もなく狭心症の発作により、神奈川県湯河原の別荘で死去。
著作
- 『昭和の動乱』(上・下巻) 中央公論新社 中公BIBLIO文庫 ISBN 4122039185 ISBN 4122039193
- 『重光葵―外交回想録 人間の記録 (7)』 日本図書センター ISBN 482054246X
- 『重光葵 最高戦争指導会議記録・手記』中央公論新社 ISBN 4120035492
その他
重光は上記の通り、駐華公使として赴任していたとき、爆弾テロによって片足を吹き飛ばされたが、全く意に介さなかった。重光を知る者は「欠点がないことがやつの欠点だ」と語ったという。ちなみに、同席しており、片目を潰された海軍大将野村吉三郎は、のちに駐米大使となり、日米交渉の最前線に立つことになる。
しかし、戦後、鳩山内閣で外務大臣を務めた際、鳩山は「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と発言したため、外交官出身の重光は、首相鳩山一郎との関係が悪化。また、鳩山内閣は日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し、重光は対ソ強硬論者であった。というのも、重光の脳裏には、日ソ平和条約を一方的に破棄し、満洲を侵略してきた野蛮なソ連像が焼きついていたからである。