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== 参考 == |
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2009年8月31日 (月) 09:28時点における版
この項目には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。なお、この刑罰は中国の影響を色濃く受けた李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。また、これに酷似したものとして隗肉刑がある。
概要
凌遅刑の原型は春秋時代に遡れる。孔子の弟子子路が反乱で落命し体を切り刻まれ、塩漬けにされる刑罰を受けたという記述が『史記』および「孔子世家」にある。また漢代には彭越が死骸を切り刻まれた上で塩漬けにされた。
法制化されたのは五代十国時代で宋代には斬首、絞首とならぶ死刑の手段とされた(宋代には実際に行われなかった)。
征服王朝にも「長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑」は取り入れられ、金ではモンゴルのアンバガイ・ハーンに対して「木馬に生きながら手足を釘で打ち付け、全身の皮を剥がす」という処刑方法を行った。
この刑は「残虐である」として何度か廃止が建議されてきた。清末には西洋のジャーナリストによってこの刑罰の凄惨な様子が写真などで伝わり、「中国の野蛮な刑罰」と非難された。完全に廃止されたのは光緒31年(1905年)である。
凌遅刑された人々
- 劉瑾
- 宦官の劉瑾が「聖上を晦まし、国政を壟断(ろうだん)した」罪で「凌遅三日」処され、3日かけて3,357回に切り刻まれたという(但し劉瑾は2日目の400回程度切り刻まれた際に死亡している)。また屍骸の肉片は彼に殺された者の遺族に配られ、位牌に捧げるものや憎さのあまり食う者もいたという。
- 鄭蔓
- 1622年に崇禎帝の指示により処刑された、科挙を経て官僚になった人物で、派閥争いに巻き込まれ強引に罪(母を虐待し妹を犯した)を突きつけられた上に凌遅刑に処された。劉瑾と同じく処刑の詳細が記されている。処刑された後の鄭蔓の肉を拾い販売する業者もいたと記されている。
- 太平天国の「翼王」。
- 壬午事変の首謀者の1人。彼以外に10名以上が同処刑法で処罰された。
- 暗殺された後、朝鮮政府によって遺体がこの刑に処された。写真も現存している。
参考
イギリスにおいても類似した処刑方法が行われていた。詳細については首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑を参照。
関連事項
外部リンク
- Chinese executions. Visualising their differences with "Supplices" of Christian Europe
- 凌遲——中國「酷刑」簡史
- 最後凌遅処死の写真と状況
- "Death by a Thousand Cuts", Harvard University Press
- Bourgon, Jérôme. "Abolishing 'Cruel Punishments': A Reappraisal of the Chinese Roots and Long-Term Efficiency of the in Legal Reforms." Modern Asian Studies 37, no. 4 (2003): 851-62.