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# 生物学的性に対する、社会・文化的性。下述。 |
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[[先天的]]・身体的・生物学的性別を示す'''セックス'''(Sex)に対して、[[後天的]]・社会的・文化的性別のことを'''ジェンダー'''(Gender)というとされる。定義は文脈や使う場面によって異なる場合がある。また、「ジェンダーはセックスに基づいている」という指摘や、「どこまでがセックスでどこまでがジェンダーなのか」という疑問も出ており、セックスとジェンダーの境界を簡単に定義づけることはできない。 |
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==言葉の由来 |
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古くはこの2つの「[[性別]]」はしばしば混同されていた。例えば、女性は生まれながらにして家事に向いた性質を持っていると見なされることが多かった。 |
古くはこの2つの「[[性別]]」はしばしば混同されていた。例えば、女性は生まれながらにして家事に向いた性質を持っていると見なされることが多かった。 |
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[[フェミニズム]]運動、あるいは現代でいう[[ジェンダー論]]の研究の中で、人間に生まれながらにして存在する生物学的な性差と、後天的な環境要因により構築される社会的・文化的な性差とを区別する必要が叫ばれるようになった。 |
[[フェミニズム]]運動、あるいは現代でいう[[ジェンダー論]]の研究の中で、人間に生まれながらにして存在する生物学的な性差と、後天的な環境要因により構築される社会的・文化的な性差とを区別する必要が叫ばれるようになった。 |
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性別が関わる慣習は、地域や時代によって異なる点も見られるので、先天的(生物学的)な性とは区別して考えることができるともいえる。その際に、生物学的な性を従来通り「性(Sex)」と呼ぶことにし、それとは区別されるべき |
性別が関わる慣習は、地域や時代によって異なる点も見られるので、先天的(生物学的)な性とは区別して考えることができるともいえる。その際に、生物学的な性を従来通り「性(Sex)」と呼ぶことにし、それとは区別されるべき文化的な性を指す言葉として新たに「文化的性(Gender)」の言葉が用いられるようになった(なお、「Gender」とは元来、[[ロマンス語]]などに見られる名詞の[[性 (文法)|性]]を指す言葉である)。 |
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以前の版に「性自認」や「性的指向」の記述がありましたが、「性自認」「性的指向」は「文化的性」の問題とは別に、自分の「性(Sex)」がどちらであるかや、恋愛の相手がどの「性(Sex)」かの問題(Sexual Orientationの問題)なので、本項目に混在させないほうがよいと考えられます。 |
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⚫ | また、生物学的性と文化的性を区別するのではなく、性別の概念自体を解体してしまおうとする考え方も存在する。フェミニズムの一派(ラディカルフェミニズム)は「性別・性差の存在自体が差別の要因であるから解消すべきだ」というドグマを掲げているが、「生物学的性」の概念があるかぎり、「どこまでがセックスでどこまでがジェンダーなのか」という問題が浮上し、そのドグマを正当化することができなかった。そこで一部のフェミニストは、生物学的な「男」「女」の区別の概念自体を否定してしまおうと考え、ジェンダーについての新たな定義を持ち出した。その定義とは、ジェンダーとは単なる性の「カテゴリー」であるというものだ。すなわち、「男」「女」の区別というのは人が定めたものだ、というのである。「本来多様なはずの性」を、性器への関心(男根の有無)のみによって二元化し、無理やり人を男/女という二つの性に分類してゆく権力作用であるとし、それを総称して「ジェンダー」と呼ぶ、ということにした。 |
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⚫ | また、生物学的性と文化的性を区別するのではなく、性別の概念自体を解体してしまおうとする考え方も存在する。フェミニズムの一派(ラディカルフェミニズム)は「性別・性差の存在自体が差別の要因であるから解消すべきだ」というドグマを掲げているが、「生物学的性」の概念があるかぎり、「どこまでがセックスでどこまでがジェンダーなのか」という問題が浮上し、そのドグマを正当化することができなかった。そこで一部のフェミニストは、生物学的な「男」「女」の区別の概念自体を否定してしまおうと考え、ジェンダーについての新たな定義を持ち出した。その定義とは、ジェンダーとは単なる性の「カテゴリー」であるというものだ。すなわち、「男」「女」の区別というのは人が定めたものだ、というのである。「本来多様なはずの性」を、性器への関心(男根の有無)のみによって二元化し、無理やり人を男/女という二つの性に分類してゆく権力作用であるとし、それを総称して「ジェンダー」と呼ぶ、ということにした。<br/> |
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※フェミニストにも立場の違いがあり、「フェミニズムの主張」として一枚岩化して語ることはできない。性差そのものを否定する論者もいるし、生物学的性差までは否定しない論者もいる。 |
※フェミニストにも立場の違いがあり、「フェミニズムの主張」として一枚岩化して語ることはできない。性差そのものを否定する論者もいるし、生物学的性差までは否定しない論者もいる。 |
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だが、これをもってジェンダーのあり方を現状のままにしておく正当性は明らかではないとし、その一部またはすべてをよくない「因習」などとして積極的に変えていこうという人々もいる。 |
だが、これをもってジェンダーのあり方を現状のままにしておく正当性は明らかではないとし、その一部またはすべてをよくない「因習」などとして積極的に変えていこうという人々もいる。 |
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ジェンダーは、性別に応じて一定の権利や義務や選択肢や制限を与えるという形で形成されている部分が大きい。たとえば、「男の子は何々をしてはいけない/しなければならない」「女の子は……」とは子どもの教育のために良く用いられる台詞である。 |
ジェンダーは、性別に応じて一定の権利や義務や選択肢や制限を与えるという形で形成されている部分が大きい。たとえば、「男の子は何々をしてはいけない/しなければならない」「女の子は……」とは子どもの教育のために良く用いられる台詞である。しかし、「ジェンダーを無条件に肯定することは、個人の自由や権利を過剰に制限し、可能性を狭めてしまう恐れがある」とし、これを解消すべきであると、主にフェミニストが主張している。 |
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ただし、性的少数者の中でも、特に[[性同一性障害]]者の中にはこの考え方に強く反対する人も多い点には注意すべきである。 |
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なお,性差の存在を根底から否定する考え方とその反論については、後述の「ラディカルフェミニズムにおけるジェンダーとその批判」を参照のこと。 |
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一方、それぞれの社会の文化は、多かれ少なかれジェンダーのあり方に依存して構築されている。そのため、「ジェンダーが制約になることもあるからといって、それを無条件に悪しきものとして否定してしまうと、人々の生活様式が大きく変更されて混乱がおきたり、その社会で育まれてきた伝統的な文化が失われてしまう可能性がある」との批判がなされている。このような主張は、それぞれの文化の保守派に多くみられる。 |
※セクシャルマイノリティ(性的少数者)の一部にも、この考え方をとる人がいる。ただし、セクシャルマイノリティだからといってこの主張をしているとは限らず、特に性転換者の中には強く反対する人も多い点には注意すべきである。 |
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が、それぞれの社会の文化は、多かれ少なかれジェンダーのあり方に依存して構築されている。そのため、「ジェンダーが制約になることもあるからといって、それを無条件に悪しきものとして否定してしまうと、人々の生活様式が大きく変更されて混乱がおきたり、その社会で育まれてきた伝統的な文化が失われてしまう可能性がある」との批判がなされている。このような主張は、それぞれの文化の保守派に多くみられる。 |
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また、ジェンダーによる制約は単に外からの圧力として存在するのではなく、個人の精神の中に内面化されて存在する部分もあるので、人権を名目にジェンダーのあり方を変えようとしても、制約を受けているとされる当事者がそれを望まないというケースもある。たとえば、女性がお洒落をしようと考えることについて、社会的な抑圧によるものだというフェミニストもいるが、意匠を凝らした服装を積極的に選びとる女性は少なくない。世界の各地域の伝統的文化においては、イスラム教の女性が「その美しいところ」を見せることを禁じる戒律や、極端な例ではアラブ・アフリカの一部に見られる女性器切除の習慣は、未だ少なからぬ現地女性により支持されている。 |
また、ジェンダーによる制約は単に外からの圧力として存在するのではなく、個人の精神の中に内面化されて存在する部分もあるので、人権を名目にジェンダーのあり方を変えようとしても、制約を受けているとされる当事者がそれを望まないというケースもある。たとえば、女性がお洒落をしようと考えることについて、社会的な抑圧によるものだというフェミニストもいるが、意匠を凝らした服装を積極的に選びとる女性は少なくない。世界の各地域の伝統的文化においては、イスラム教の女性が「その美しいところ」を見せることを禁じる戒律や、極端な例ではアラブ・アフリカの一部に見られる女性器切除の習慣は、未だ少なからぬ現地女性により支持されている。 |
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このような事情から、人権や自由を重んじてジェンダーをことごとく否定しようとする者、逆に文化と秩序を重んじて個人の自由が制限されるのは当然と考える者、その両極端の間に、あらゆる過激な意見や穏健な意見が存在する。そして、それらの論者によって長くに論争が繰り広げられてきた歴史がある。 |
このような事情から、人権や自由を重んじてジェンダーをことごとく否定しようとする者、逆に文化と秩序を重んじて個人の自由が制限されるのは当然と考える者、その両極端の間に、あらゆる過激な意見や穏健な意見が存在する。そして、それらの論者によって長くに論争が繰り広げられてきた歴史がある。 |
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==ラディカルフェミニズムにおけるジェンダーとその批判== |
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一部のフェミニズム(ラディカルフェミニズム)では、ジェンダーを単なる性の「カテゴリー」だと定義している。「男」「女」の区別の概念自体が、人が定めたものであるというのだ。<br/> |
一部のフェミニズム(ラディカルフェミニズム)では、ジェンダーを単なる性の「カテゴリー」だと定義している。「男」「女」の区別の概念自体が、人が定めたものであるというのだ。<br/> |
2005年8月19日 (金) 12:06時点における版
ジェンダーとは、
- 文法における性(Grammatical gender)のこと。
- 生物学的性に対する、社会・文化的性。下述。
先天的・身体的・生物学的性別を示すセックス(Sex)に対して、後天的・社会的・文化的性別のことをジェンダー(Gender)というとされる。定義は文脈や使う場面によって異なる場合がある。また、「ジェンダーはセックスに基づいている」という指摘や、「どこまでがセックスでどこまでがジェンダーなのか」という疑問も出ており、セックスとジェンダーの境界を簡単に定義づけることはできない。
言葉の由来
古くはこの2つの「性別」はしばしば混同されていた。例えば、女性は生まれながらにして家事に向いた性質を持っていると見なされることが多かった。
フェミニズム運動、あるいは現代でいうジェンダー論の研究の中で、人間に生まれながらにして存在する生物学的な性差と、後天的な環境要因により構築される社会的・文化的な性差とを区別する必要が叫ばれるようになった。
性別が関わる慣習は、地域や時代によって異なる点も見られるので、先天的(生物学的)な性とは区別して考えることができるともいえる。その際に、生物学的な性を従来通り「性(Sex)」と呼ぶことにし、それとは区別されるべき文化的な性を指す言葉として新たに「文化的性(Gender)」の言葉が用いられるようになった(なお、「Gender」とは元来、ロマンス語などに見られる名詞の性を指す言葉である)。
ただし、生物学的性に対してどこからを文化的性といえるのかには様々な議論がある。性別が関わる慣習のほとんどに生物学的性の違い(生殖機能や男女の体つきの特徴など)が影響しているのだ、とする考え方もあれば、ほとんどが生物学的性とは無関係に形成されたとする考え方もあり、これらを両極端とし、その中間に位置する考え方も多く存在する。したがって、「文化的性(Gender)」が具体的に何を指すのかという厳密な定義はできない。
また、生物学的性と文化的性を区別するのではなく、性別の概念自体を解体してしまおうとする考え方も存在する。フェミニズムの一派(ラディカルフェミニズム)は「性別・性差の存在自体が差別の要因であるから解消すべきだ」というドグマを掲げているが、「生物学的性」の概念があるかぎり、「どこまでがセックスでどこまでがジェンダーなのか」という問題が浮上し、そのドグマを正当化することができなかった。そこで一部のフェミニストは、生物学的な「男」「女」の区別の概念自体を否定してしまおうと考え、ジェンダーについての新たな定義を持ち出した。その定義とは、ジェンダーとは単なる性の「カテゴリー」であるというものだ。すなわち、「男」「女」の区別というのは人が定めたものだ、というのである。「本来多様なはずの性」を、性器への関心(男根の有無)のみによって二元化し、無理やり人を男/女という二つの性に分類してゆく権力作用であるとし、それを総称して「ジェンダー」と呼ぶ、ということにした。
(しかし、この考え方はあくまでも一部の論者の主張であり、一般的には、「ジェンダー」は「文化的性」の意味で用いられることが多い。)
※フェミニストにも立場の違いがあり、「フェミニズムの主張」として一枚岩化して語ることはできない。性差そのものを否定する論者もいるし、生物学的性差までは否定しない論者もいる。
※ジェンダー論とフェミニズム運動は切りはなしえないものであるとフェミニストは考えており、かつ、「ジェンダー」概念は単に(中立的な)事象を記述するものではなく、フェミニズム運動の政治的実践において機能するべきものであるとしている。また、日本では「ジェンダー」という言葉は中立的な用語であるという間違った理解が主として行政を中心に広まっているが、もともとはフェミニズム運動の政治的要求に基づいて意味が与えられた(または意味が与えられるべき)、きわめて政治的な概念であるという指摘をするフェミニストもいる。
関連文献:上野千鶴子『差異の政治学』(岩波書店)、ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(青土社) など
論争
ジェンダー、つまり「文化的に形作られ、子どもたちに暗に明に教育され、構築されていく性差」とされるものは、文化人類学者による調査の行われたことのある範囲では、あらゆる文化に存在する。また、歴史学者による調査の範囲内では、過去のあらゆる文化にもジェンダーは存在した。
だが、これをもってジェンダーのあり方を現状のままにしておく正当性は明らかではないとし、その一部またはすべてをよくない「因習」などとして積極的に変えていこうという人々もいる。
ジェンダーは、性別に応じて一定の権利や義務や選択肢や制限を与えるという形で形成されている部分が大きい。たとえば、「男の子は何々をしてはいけない/しなければならない」「女の子は……」とは子どもの教育のために良く用いられる台詞である。しかし、「ジェンダーを無条件に肯定することは、個人の自由や権利を過剰に制限し、可能性を狭めてしまう恐れがある」とし、これを解消すべきであると、主にフェミニストが主張している。
※セクシャルマイノリティ(性的少数者)の一部にも、この考え方をとる人がいる。ただし、セクシャルマイノリティだからといってこの主張をしているとは限らず、特に性転換者の中には強く反対する人も多い点には注意すべきである。
が、それぞれの社会の文化は、多かれ少なかれジェンダーのあり方に依存して構築されている。そのため、「ジェンダーが制約になることもあるからといって、それを無条件に悪しきものとして否定してしまうと、人々の生活様式が大きく変更されて混乱がおきたり、その社会で育まれてきた伝統的な文化が失われてしまう可能性がある」との批判がなされている。このような主張は、それぞれの文化の保守派に多くみられる。
また、ジェンダーによる制約は単に外からの圧力として存在するのではなく、個人の精神の中に内面化されて存在する部分もあるので、人権を名目にジェンダーのあり方を変えようとしても、制約を受けているとされる当事者がそれを望まないというケースもある。たとえば、女性がお洒落をしようと考えることについて、社会的な抑圧によるものだというフェミニストもいるが、意匠を凝らした服装を積極的に選びとる女性は少なくない。世界の各地域の伝統的文化においては、イスラム教の女性が「その美しいところ」を見せることを禁じる戒律や、極端な例ではアラブ・アフリカの一部に見られる女性器切除の習慣は、未だ少なからぬ現地女性により支持されている。
このような事情から、人権や自由を重んじてジェンダーをことごとく否定しようとする者、逆に文化と秩序を重んじて個人の自由が制限されるのは当然と考える者、その両極端の間に、あらゆる過激な意見や穏健な意見が存在する。そして、それらの論者によって長くに論争が繰り広げられてきた歴史がある。
一部のフェミニズム(ラディカルフェミニズム)では、ジェンダーを単なる性の「カテゴリー」だと定義している。「男」「女」の区別の概念自体が、人が定めたものであるというのだ。
この定義は、次のようなラディカルフェミニズムのドグマから生み出された。
ラディカルフェミニストは、育児が女性(母親)に期待されることや、男性が女性よりも企業での活躍を期待されることなどは、男性による女性の支配の構造だと考えている。ここから、ジェンダーとは「性(Sex)をもとに特定の役割を人にわりふる、非対称化された「階層秩序(男が支配者/女が被支配者)」である」という結論を導き出す。この考え方に基づけば、企業などで実績を挙げる「男なみ」の女がいたとしても、彼女がジェンダーから自由だということはなく、彼女は支配される「女」というジェンダーを捨て、支配する「男」という側に移行しただけということになる。たとえその移行が成功したとしても、ジェンダーが性器の性に強力な意味を持たせている限り、彼女は「女らしくない女」としてさらに疎外される可能性がある。これをなくすには、「男」「女」の区別意識もなくさなければならない。
そこで、性差の存在を根底から否定するために、「ジェンダー」という言葉について新たに定義し直したのである。
(以降、「文化的性差」の意味と区別するため、上記の定義の意味の場合については「ジェンダー[カテゴリー]」と表記)。
※この考え方に基づき、いわゆる「ジェンダーフリー(性差からの自由)」運動が生まれた。その目的については、従来のジェンダーによる評価を個々の個性という尺度で評価し直すことによって、それまで男女の性差を基準に評価されたものを全て個体差に還元してしまおうというものである、と主張されている。この場合、前記の「女らしくない女」という否定的評価は、個性(自分らしさ)という肯定的評価へと転じることができるのだという。だが、運動の背景がラディカルフェミニズムのドグマに拠るものゆえ、事実上、女性が育児などの役割から解放されるべきであるとか、「男」「女」の区別があるかぎりその役割を「女」が担うよう期待されるので性差が存在するという意識をなくしてしまうべきである、といった文脈で運動が展開されている。実際に、一部では性差そのものを否定するような過激な政策も実施されている。しかしながら、「ジェンダーフリー」の方向性には賛同しつつも性差自体を否定することはいきすぎであるという論者もおり、運動は混迷している状態といえる。また、もしも男女間の平等を目指したいのならば、ジェンダーフリーよりも先に、まずジェンダー間の社会資源の分配に差があることを認識し、それをなるべく平等にする「ジェンダーセンシティブ」(ジェンダー間不平等に敏感であること。対義語:ジェンダーブラインド)がむしろ要求されるべきだというフェミニストもいる。
※こうした、ジェンダー概念の深化にはクィア理論などが提出した、性に対する考察の進展がかかせなかった。
ジェンダーが文化的性差という意味で用いられるかぎり、それは単に慣習等の事実を指すものであるから、既存の文化や宗教、社会体制の存在を否定するというものではない。社会を構成する複数の要素の一つとしてジェンダーが存在しているということである。一方、上記のようなジェンダー[カテゴリー]概念を用いて何かが語られるとき、そこには、現在の社会や文化、宗教、社会体制などの一部または全てを改変しようという意図が含まれている。
ジェンダー[カテゴリー]概念を用いることにより、フェミニズムでは、まず、既存の文化におけるジェンダーをカテゴリー化の一形態であるとして相対化する。そのうえで、そのジェンダーが他の階層秩序(人種、民族、階級、宗教、年齢など)と相互に絡み合い、抑圧と疎外の構造を強化している、といった主張をする。たとえば、イスラム教の女性が「その美しいところ」を見せることを禁じる戒律や、女性器切除の習慣が未だ少なからぬ現地女性により支持されている、といった事例などは抑圧の構造だというのである。
が、これには根本的な問題がある。現地のジェンダー観を否定しているのに対し、フェミニズムが主張するジェンダー観のみを、絶対のものとして措定してしまっているのである。結局のところ、「フェミニズムの基準でのみ現地の文化の"正誤"は判断される。現地の文化を支持する女性は誤った意識にとらわれている」と言っているにすぎない。それぞれの社会の文化は多かれ少なかれ生物学的、文化的性差のあり方に依存し、かつ、その地域で特色あるものとして構築されてきた部分も多いのだから、無条件にフェミニズムの価値観を絶対とし、現地の宗教や慣習などを単に抑圧や疎外の構造と見なすことは避けるべきである。
むろん、伝統の名の下に、性に対する旧来の価値観を正当化しすぎることも問題である。日本の歴史を見れば、江戸時代の伝統的男女観を現代に適用することはできないと考えられるし、数十年前と比べても変化が見られる。したがって、現地の男女が望んでいないことがあればそれも十分に尊重しつつ、もしその地域や時代において新たな男女観の潮流が生まれたとき、それがどのように受け止められ、そして新旧の価値観が溶け合っていくかを評価する必要がある。
必要なのは、一部のフェミニズムに見られるような普遍的価値の僭称ではなく、その地域、時代に生きている男女の感覚が純粋に文化的性差として表出するのだということを認めることである。