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サーサーン朝
パルティア 226年 - 651年 正統カリフ
ペルシアの位置
公用語 ペルシア語
首都 クテシフォン
シャーハンシャー
226年 - 241年 アルダシール1世(初代)
241年 - 272年シャープール1世(第2代)
309年 - 379年シャープール2世(第10代)
531年 - 579年ホスロー1世(第22代)
632年 - 651年ヤズデギルド3世(最後)
変遷
成立 226年
事実上崩壊642年
滅亡651年

サーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、アラビア語 ساسانيون Sāsāniyūn 、ペルシア語 ساسانيان Sāsāniyān 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝帝国。しばしばササン朝ペルシアとも呼ばれる。首都はクテシフォン(現在はイラク領)。ゾロアスター教を国教とし、アケメネス朝ペルシャの復興を目標とした。その支配領域はエーラーン・シャフル Ērān Šahr と呼ばれ、おおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタン周辺まで及んだ。ペルシアを支配した勢力の中で、ゾロアスター教を国教とした最後の政権である。

概要

イランの歴史
イランの歴史
イランの歴史
イランの先史時代英語版
原エラム
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

サーサーン朝は、アケメネス朝と同じくイラン高原パールス地方から勃興した勢力で、特に始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教神官階層から出現したこともあって、様々な変遷はあったもののゾロアスター教の王権思想と強い結びつきを持った政権であった。

後期サーサーン朝では官僚的中央集権化が進み、その諸制度は後のアッバース朝などのイスラム帝国に引き継がれた。また、後代シーア派イマームや、サファヴィー朝の宗祖サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク1252/3年 - 1334年)がサーサーン王家の血を引いているなどの伝承が生まれた。

特にカスピ海南岸の地域ではズィヤール朝バーワンド家などサーサーン朝時代まで遡る名家が、他の地域同様、アラブ征服時代以降にイラン方面まで進出したハーシム家などの後にサイイドと呼ばれる人々と婚姻を結んで来た歴史を持つ。

そのため、現在のイラン民族にとって、アケメネス朝ではなく、サーサーン朝の方が直接の国家的祖先と見なされている。これは近代化の影響だけでなく、そもそもサーサーン朝時代の歴史などを編纂し始めた王朝末期やアッバース朝時代の頃には、すでにアケメネス朝時代は完全に神話化・伝説化し、セレウコス朝時代については失伝、パルティア時代も殆ど忘れ去られていた状態で、過去への歴史的な憧憬は神話時代を除くとペルシア文学ではサーサーン朝後期のホスロー1世の時代が特に賞揚されてきた伝統によっている。

歴史

起源

サーサーン朝の起源については不明な点が多い。サーサーン朝を開いたのはアルダシール1世であるが、彼の出自は謎に包まれている。まず王朝の名に用いられているサーサーンと言う人物が何者であるのかもはっきりしない。サーサーンが王位に付いたという事実は現在までのところ確認されてはいないし、サーサーンに関する伝説でも、アケメネス朝の後裔とするものやパールスの王族であったとするもの、神官であったとするものなどがある。アルダシールの父親バーバク(パーパクとも)はパールス地方の支配権を持った王であり、サーサーン朝が実際に独立勢力となったのは彼の時代である。彼はサーサーンの息子とも遠い子孫ともいわれる。しかし、バーバクは間もなくパルティアと戦って敗れ、結局パルティアの宗主権下に納まった。そしてバーバクの跡を継いだアルダシール1世がサーサーン朝を偉大な帝国として起こすことになる。

アルダシール1世は西暦224年に即位すると再びパルティアとの戦いに乗り出し、エリマイス王国などイラン高原の諸国を次々制圧し、226年にはホルミズドの戦いでパルティア王アルタバヌス4世と戦って勝利を収め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用した。この勝利によってパルティアの大貴族がアルダシール1世の覇権を承認するようになった。230年にはメソポタミア全域を傘下に納め、ローマ帝国の介入を排してアルメニアにまで覇権を及ぼした。東ではクシャーナ朝トゥーラーンの王達との戦いでも勝利を納め、彼らに自らの宗主権を承認させ、旧パルティア領の大半を支配下に置くことに成功した。

以後サーサーン朝とローマ帝国(東ローマ帝国)はサーサーン朝が滅亡するまで断続的に衝突を繰り返した。アルダシール1世の後継者シャープール1世は、このローマとの戦いの初期に最大級の成功を収めた。244年シリア地方の安全保障のためにサーサーン朝が占領していたニシビスなどの都市を奪回すべくローマ皇帝ゴルディアヌス3世がサーサーン朝へと侵攻した。これを迎え撃ったシャープール1世はマッシナの戦いでゴルディアヌス3世を戦死させた。そしてローマで新しく皇帝となったフィリップスとの和平において莫大な賠償金を獲得した。後にローマはヴァレリアヌス帝の下で再度サーサーン朝を攻撃したが、シャープール1世は260年エデッサの戦いでヴァレリアヌスを捕虜にするという大戦果を収めた。シャープール1世は馬上のシャープール1世にひざまずいて命乞いをするヴァレリアヌスの浮き彫りを作らせた。そしてこれ以後、「エーラーンとエーラーン外の諸王の王」を号するようになった。

王位継承問題と弱体化

シャープール1世が死去すると長男のホルミズド1世(ホルミズド・アルダシール)が即位したが、間もなく死去したので続いて次男のバハラーム1世が即位した。バハラーム1世の治世ではシャープール1世の時代に祭司長となっていたカルティール(キルデール)が影響力を大幅に拡大していった。カルティールは王と同じように各地に碑文を残しており、その絶大な権力がうかがい知れる。ゾロアスター教の祭司として宗教活動に勤しんだ彼は異端宗教の排除を主張し、マニ教仏教ユダヤ教ネストリウス派キリスト教などの排斥を進めた。マニ教の経典によればカルティールは教祖マニの処刑に関わっていたとされる。

バハラーム1世が死去すると、その弟であったナルセ1世と、息子であったバハラーム2世との間で不穏な気配が流れた。既にバハラーム1世の生前にバハラーム2世が後継者に指名されていたが、ナルセ1世はこれに激しく反発した。しかしカルティールや貴族の支持を得たバハラーム2世が即位した。バハラーム2世の治世にはホラーサーンの反乱やローマとの戦争での敗北などでサーサーン朝の勢力は若干減退した。しかしホラーサーンの反乱の鎮圧には成功している。カルティールは尚も強い影響力を保持し続けた。バハラーム2世の死去後、その息子バハラーム3世が更に王位についた。

しかしナルセ1世はこれに強く反対し、またカルティールなどと敵対する中小の貴族の支援を受けてバハラーム3世を攻撃し排除した。王位についたナルセ1世はローマに奪われていた西メソポタミアやその他の州の奪回を目指してローマと戦い、西メソポタミアを奪回した。しかし、逆襲にあってアルメニアを喪失し、両国の間に和平協定が結ばれた。この和平は40年間に渡って維持された。

統治体制の完成

ナルセ1世の死後、ホルミズド2世の短い治世を経てシャープール2世が即位した。シャープール2世は生まれる前に貴族や聖職者達によって擁立された。ホルミズド2世には多くの息子がいたが、長男は貴族たちによって殺害され、次男、三男は幽閉されて王位から退けられた。そしてまだ生まれてすらいない胎児であったシャープール2世が即位することが決定され、シャープール2世の母親のお腹の上に王冠が戴せられた。こうしてシャープール2世は生まれると同時に即位し、少年時代を通じて貴族達の傀儡として過ごした。しかし、彼は長じるに連れてその才能を示して実権を握りサーサーン朝史上最長の在位期間を持った王となった。シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧するとともに都市を破壊した。また前王の死後領内に侵入していたアラブ人と戦ってこれを撃退し、アラビア奥深くまで追撃して降伏させたという。またローマ帝国との戦いでは、侵入してきたローマ皇帝ユリアヌスを戦死させ、アルメニアの支配権を握るなどした。東方のトランスオクシアナでは恐らくフン族の一派が侵入してきたが、シャープール2世は彼らを同盟者とすることに成功した。

こうして対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建するとともに、領内各地に要塞と城壁を築いて外敵の侵入に備えた。またナルセ1世以来の宗教寛容策を捨ててゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教やマニ教への圧力を強めた。こうしてシャープール2世の治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。

中間期

シャープール2世の跡を継いで379年に王となったアルダシール2世、続くシャープール3世は短命に終わった。バハラーム4世の治世に入るとフン族が中東に来襲したが、バハラーム4世はこのフン族の攻撃を回避することに成功し、シリアやアナトリアが攻撃を受けたにも関わらずサーサーン朝の領土が攻撃を受けることはなかった。

バハラーム4世の死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したと誤解されたからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下でセレウキア公会議が開かれたためだとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったことを示す証拠は存在しない。ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命王が続いた後バハラーム5世が即位した。

バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でのサーサーン朝の勢力を逆に拡大したが、以後エフタルはサーサーン朝にとって悩みの種となっていく。またバハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れて国内のキリスト教徒への大規模な弾圧を行ったために多くのキリスト教徒が東ローマ帝国へと亡命した。この亡命者を巡ってサーサーン朝と東ローマ帝国の間で交渉が持たれたが決裂して戦争となり、サーサーン朝が敗北し、サーサーン朝領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束させられた。

バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、東ローマとの若干の争いの後、相互不可侵を約して国境を固めた。また父と同じくエフタルと戦って勝利を納めたが、国内において、キリスト教徒であったアルメニア人をゾロアスター教に改宗させようとしたことから大規模な動乱が発生した。東ローマ帝国がアルメニアを支援したが、最終的にはヤズデギルド2世が勝利を納めることに成功してアルメニアのキリスト教聖職者を大量処刑し、支配を強めた。

エフタルの脅威

ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的勝利を納めることなく西暦457年世を去った。彼の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争った。ペーローズ1世はエフタルの支援を受けてこの戦いに勝利し、王座についた。その後ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年、エフタルに攻撃をかけたが大敗を喫し、ペーローズ1世は捕虜となった。そして息子のカワード1世を人質とし、エフタルに対する莫大な貢納を納めなければならなくなった。折からの旱魃もあって財政事情は逼迫し、貢納打ち切りを目指して484年再度エフタルを攻撃したが、敗れて戦死した。

ペーローズ1世の死後、貴族達によってバラーシュ1世が推挙され王となったが、エフタルに人質に出されていたカワード1世はエフタルの庇護の下でバラーシュ1世を廃位して王座を奪った。しかしマズダク教の扱いを巡って貴族達と対立したために幽閉されて廃位され、ジャーマースプが王となった。幽閉されたカワード1世は脱獄してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受けて再び首都に乗り込んだ。ジャーマースプは抵抗することなく王位返還に同意し、カワード1世が復位した。カワード1世はエフタルへの貢納の費用を捻出するために東ローマ帝国に攻め込んで若干の利得を確保するとともに領内各地の反乱を鎮圧した。また王位継承に際して貴族の干渉を受けずにこれを行うことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。

最盛期

カワード王の死後跡を継いだホスロー1世の治世はサーサーン朝の最盛期といわれる。ホスロー1世は父王の政策を継承して大貴族の影響力排除に努めるとともに、マズダク教の活動を鎮定して社会秩序を回復し、また軍制改革に取り組んだ。とりわけ中小貴族の没落を回避するために、軍備費用の自己負担を廃止して武器を国家支給とした。一方で宗教政策に力をいれ、村落レベルにまで聖なる火の崇拝を行き渡らせるなどして教会制度の再編を試みた。

一方東ローマ帝国ではキリスト教学問の発達に伴って異教的学問の排除が進み、529年にはアテネアカデミアが閉鎖された。このために失業した学者が数多くサーサーン朝に移住し、ホスロー1世は学問を奨励して彼らのための施設を作って受け入れた。この結果ギリシア語やラテン語の文献が多数翻訳されるなどし、また現存するサーサーン朝の文書の多くがこの時期に作成されたものである。

ホスロー1世は東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が西方重視の姿勢を取っているのに乗じて東ローマに圧力をかけて貢納金を課すとともに度々東ローマに侵入して賠償金を得た。その後東ローマと50年間の和平を結んで西方国境を安定させると、東方では影響力を拡大していたエフタルに対し突厥と同盟を結んで攻撃をかけた。この結果長きにわたってサーサーン朝を圧迫したエフタルを滅ぼすことに成功した。一方突厥との友好関係をその後も続けるべく婚姻外交が推し進められたが結局対立し、今度は突厥の脅威に対抗しなければならなくなった。結果として東方ではエフタルを滅ぼしたものの大きく勢力を拡大するには到らなかった。

滅亡

ホスロー1世の死後、息子のホルミズド4世が即位した。彼は比較的安定した治世を築いていたかに見えたが、590年にはクーデターにあい、両目を潰された後処刑された。そしてホルミズド4世の息子ホスロー2世が即位したが、東方でバフラーム・チョービンの反乱が発生したためにホスロー2世は東ローマとの国境地帯まで逃走した。そして東ローマ皇帝マウリキウスの援助を得て反乱を鎮圧したが、東ローマで政変がおこりマウリキウスが殺されてフォカスが皇帝となると「仇を討つ」として東ローマを攻撃した。この対東ローマ戦争は初戦で大成功を収め、シリア、エジプト、アナトリア全域を占領し、あたかもアケメネス朝が復活したかのような領域を支配下に治めることに成功した。この時エルサレムからキリストが磔になったという「真なる十字架」を奪って持ち帰ったという。

しかし、610年にフォカスを倒して東ローマ皇帝となったヘラクレイオス622年から反撃に転じると、被占領地を迂回して黒海東南部沿岸から直接サーサーン朝の中枢部メソポタミアへの攻撃を開始した。サーサーン朝はアヴァール人と共同で、皇帝が不在な東ローマの首都コンスタンティノポリスを包囲したが撃退されてしまい、戦況は逆転。今度はヘラクレイオス率いる東ローマ軍にクテシフォン近郊まで攻め込まれてしまった。その結果クテシフォンで反乱が発生し、ホスロー2世は息子のカワード2世にも裏切られて殺された。

カワード2世は即位すると東ローマとの関係改善に取り組み、「真なる十字架」を返還した。しかし間もなく病死してしまい、その後激しい王位継承の内戦が発生した。長期に渡る政治混乱の末ヤズデギルド3世が王座を獲得したが、サーサーン朝の国力は東ローマとの戦いと内乱とで消耗してしまっていた。

そんな時に、アラビア半島から勃興したイスラム帝国が勢力を拡大し、サーサーン朝に侵入した。もはやサーサーン朝に新たな敵に対処できる力は残っておらず、636年カーディシーヤの戦いでサーサーン朝は敗北し、更に642年にはニハーヴァンドの戦いでも敗北を喫してサーサーン朝は事実上崩壊した。ヤズデギルド3世は尚も再起を目指して東方に逃げたが、651年、部下の裏切りにあって殺害され、ここに名実ともに王朝は滅亡した。

ササン朝ペルシアの滅亡は、イスラーム教徒にとってはイスラーム共同体が異教の大帝国を屈服させ、名実共に世界帝国へと発展していく契機となった栄光の歴史として記憶されている。一方でゾロアスター教徒にとっては、これ以降彼らがイスラームの支配下で現代に至るまで二等市民としてさまざまな差別をこうむり続けた原因として捉らえられている。

年表

文化

この王朝で育まれた文化は後のイスラム時代の文化にも多大な影響を残した。

宗教的特徴とマニ教の成立

サーサーン朝時代は、西からキリスト教、東から仏教が浸透し、パレスチナを追われたユダヤ人は、サーサーン朝治下のバビロニアタルムードを編纂した。サーサーン朝はインドクシャーナ朝ローマ帝国中国突厥など、当時の世界帝国と交流があり、ユーラシア西部の文明の一大中心地であり十字路でもあった。このような素地の中で、インド文学ギリシャ文学などを総合したアラビアンナイトの原型「ハザール・アフサーナ」が誕生し、キリスト教、ゾロアスター教、仏教などの世界宗教を総合するマニ教が誕生した。反面国家と結びついたゾロアスター教は、キリスト教の東方への浸透と、仏教の西方への浸透を阻む役割を果たした。

銀貨

サーサーン朝で鋳造された銀貨は、ソグド人などの中央ユーラシア社会における高額決裁などの基軸通貨として大変尊重された。

自国歴史の編纂

サーサーン朝ではもともとゾロアスター教の宗教観に影響されて、文字資料の作成が忌まれていたようで、自ら歴史を編纂する事が無かったようである。そのため、サーサーン朝の歴史についてはアッバース朝時代のウラマーであるタバリーが著した『諸使徒と諸王の歴史』収録の記事が現存する通史として最古であり、他にはサーサーン朝の歴代君主たちが残した碑文群やマニ教文書、タバリーとほぼ同時期に作られたパフラヴィー語による文書資料群、ラテン語ギリシア語シリア語などの年代記、貨幣資料などによって歴史や文化などが研究されている。

手工芸

ガラス器や銀製品などの工芸品は、世界史上に残る工芸品である。7世紀の日本に渡来した文物は、正倉院に今も収められている。またペルシャ錦といわれる織物が成立した。

料理

ホスロー2世の時代に絢爛豪華で洗練された宮廷料理が成立し、サーサーン朝滅亡後もアッバース朝イスラム帝国の上流階級に引き継がれ、後には南アジア、中東、北アフリカにまで影響を及ぼした。記録に残っている料理には、ケバブブドウの葉のドルマが含まれている[1]

歴代皇帝

歴代君主の称号はシャーハンシャー(諸王の王)である。

  1. アルダシール1世224年-241年
  2. シャープール1世 (241年-272年
  3. ホルミズド1世 (272年-273年
  4. バハラーム1世 (273年-276年
  5. バハラーム2世 (276年-293年
  6. バハラーム3世 (293年)
  7. ナルセ1世293年-302年)
  8. ホルミズド2世302年-309年)
  9. アーザルナルセ309年
  10. シャープール2世 (309年-379年)
  11. アルダシール2世379年-383年)
  12. シャープール3世383年-388年)
  13. バハラーム4世388年-399年)
  14. ヤズデギルド1世399年-420年)
  15. バハラーム5世420年-438年)
  16. ヤズデギルド2世438年-457年)
  17. ホルミズド3世457年-459年)
  18. ペーローズ1世459年-484年)
  19. バラーシュ1世484年-488年)
  20. カワード1世488年-497年、復位:499年-531年
  21. ジャーマースプ (497年-499年
  22. ホスロー1世 (531年-579年
  23. ホルミズド4世 (579年-590年
  24. ホスロー2世 (590年-628年
  25. カワード2世 (628年)
  26. アルダシール3世 (628年-630年
  27. ボーラーン (630年-631年、女帝)
  28. アーザルメードゥフト (631年-632年、女帝)
  29. ヤズデギルド3世 (632年-651年

参考文献

  1. ^ Arthur Christensen. Contes persans en langue populaire. Copenhagen: Andr. Fred. Høst & Son, 1918.

関連項目

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