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「ハーン」の版間の差分

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{{告知|議論|記事名・内容を「モンゴルの称号」に変更する|4=題名に関する提案|date=2024年9月}}
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'''ハーン'''(可汗、qaġan/qaγan、khaan)は、[[北アジア]]、[[中央アジア]]、[[西アジア]]、[[南アジア]]において、主に[[遊牧民]]の[[君主]]や有力者が名乗る[[称号]]。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号'''カガン'''('''qaġan'''/qaγan)はその古形である。


{{出典の明記|date=2013年10月}}
ハーン( خان khān ; хаан/khaan)と発音するのは現代[[モンゴル語]]や現代[[ペルシア語]]などで、'''ハン'''(han, 現代[[トルコ語]])、'''カーン'''(khan)などとも発音・カナ表記される。「王者」を意味するペルシア語のハーカーン( خاقان khāqān)、トルコ語のハカン(hakan)も[[語源]]は同じである。后妃の称号は[[ハトン]]である。なお、ハーンよりも低い君主号として[[ハン]]がある。漢字表記では「'''汗'''(カン)」と書くことが多い。
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'''ハーン'''(汗、可汗、合罕、干、qaġan/qaγan、khaan)は、[[北アジア]]、[[中央アジア]]、[[西アジア]]、[[南アジア]]において、主に東北に住む[[騎馬]]の[[君主]]や有力者が名乗る[[称号]]。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号'''[[カガン]]'''([[古テュルク語]]: [[File:Old Turkic letter N1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter G1.svg|10px]][[File:Old Turkic letter Q.svg|10px]] - '''qaġan'''/qaγan)はその古形である。


== カンとカン ==
== カン(ハン)とカアン(ハー ==
[[12世紀]][[モンゴル高原]]では、カン(Qan)」は[[モンゴル民族|モンゴル]]、[[ケレイト]]、[[ナイマン]]など[[部族]]が名乗る[[称号]](君主号)であり、[[モンゴル帝国]]を築いた[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]も、彼の在世当時はチンギス・カン(Čingγis Qan/Činggiz Qan)と称ていた。しかし、チンギス・ンを継いでモンゴル帝国第2代君主となった[[オゴデイ]]は、モンゴル帝国の最高君主が他のカンたちとは格の異なった存在であることを示すために、古のカガンを復活させた'''カアン'''('''qa'an''', qaγan)」という称号を採用し、のちにモンゴル帝国の最高君主が建てた[[元 (王朝)|元]]王朝もカアンの称号を受け継いだ。帝国西部に位置するテュルク系国家や[[西遼]]などの旧領では、最高指導者を「カーン(khaqan、qa'an)」と呼ぶ慣習があったため、貨幣発行などの事例により、1220年代頃から「カン」と「カーン」の使い分けが次第にみられ、帝国東部でも1254年と1257年に印された『[[少林寺蒙漢合璧聖旨碑]]』のウイグル文字モンゴル語文/漢文が、それぞれ「カン/罕」から「カーン/合罕」へ切り替わっている事から、正式に大モンゴル国の最高指導者の呼称を「カアン」と定めたのは1250年代と考えられている


これに対して、モンゴル帝国西部の[[チャガタイ・ハン国|チャガタイ・ウルス]](チャガタイ汗国)、[[ジョチ・ウルス]](キプチャクフレグ・ウルス([[イルハン朝]])系地方の諸王にカン(ハン)」号が使用された。やがてこうしたモンゴル帝国の諸王国(汗国)の「カン(ハン)が[[ペルシア語]]では「ハーン خان khān」(ペルシア語では長母音となる)と表記・発音されたため、[[アラビア文字]]使用圏ではハーン(khān)」と「ハン(χan)」という2通りの表記が生まれ、現代の書籍においてもモンゴル帝国中央の「ハーン」と他地方の「ハン/ハーン」の混同がみられることがある
カガンの称号は、遊牧民自身が残した確実な記録としては[[突厥]]の[[テュルク諸語|テュルク語]]碑文にあらわれる。カガンは、[[漢文]]史料には'''可汗'''(かがん)と表記されて記録に残るほか、「[[皇帝]]」と漢訳する例が見られた。


なお、ペルシア語では、モンゴル帝国皇帝の称号である「カアン」を、'''カーアーン'''( قاآن '''qā'ān''')」あるいは'''カーン'''( قآن '''qān'''/qa'ān)」と表記しており、モンゴル語のカン(qan)」に由来するハーン( خان khān)」の表記とははっきり区別されていた。[[ティムール朝]]の史料では例外として「ハーカーン」という名称をチャガタイウルスなどのチンギス家の君主たち、あるいはティムール朝の君主の雅称として形容的に使われるが、オゴデイ以下のモンゴル皇帝たるカアンに対しては、もちろん「カーアーン」という語使用している。例外を除きジョチ・ウルス系の君主を始め、西方のテュルク語・ペルシア語圏の君主に対しては「カーアーン」は使われていない。
この称号の最古の用例は[[4世紀]]半ばの[[北魏]]の漢字碑文にみられる'''可寒'''(かがん)で、[[5世紀]]始めに[[柔然]]が君主の称号に採用して以来、[[テュルク]]・[[モンゴル]]系遊牧民の君主称号として広まった。[[7世紀]]に[[ヴォルガ川]]流域で王国を形成した[[ハザール]]や、[[ドナウ川]]流域に侵入した[[ブルガール]]も、カガンを王の称号としていたことが知られる。[[タバリー]]や[[イブン・ファドラーン]]などの[[アラビア語]]による史書や旅行記に記録されている[[突厥]]系や[[ハザール]]などの君主号は、上述のハーカーン( الخاقان al-khāqān)である。


<ref>村上 1970,p7</ref><ref>佐口 1968,p67</ref>
カガンの[[語源]]は明らかではないが、[[高句麗]]の王族の尊称「加」、[[百済]]の王族の尊称「瑕」、[[伽耶]](加羅)の王の称号「旱岐」などと同じ[[語源]]と考え、[[アルタイ諸語]]系統の王族を示す古い語彙に由来し、[[大韓民国|韓国]]の「韓(han)」も同系統の名であるとする説がある。


== ギス統原理とハーン ==
やがてカガンはつづまって、テュルク語ではハン(χan)、[[モンゴル語]]ではカン(qan)と発音されるようになった。カガンからカンに至る[[音声学]]上の変遷はいまだ詳らかではないが、[[天山ウイグル王国|西ウイグル王国]]では[[13世紀]]にモンゴル帝国に帰順した時期には、カガンはハンに変化していたようである。また同じ時期、[[ホラズム・シャー朝]]では、セルジューク朝などの慣例に習って王族たちは「[[マリク]]」で呼ばれていたが、地方都市の太守([[ハーキム]])を担うようなより高位の有力な王族たちなどに対して、ハン( خان khān)が尊称として使われていたことが知られている。例えば、[[オトラル事件]]で有名な[[オトラル]]の太守イナルチュクはガイル・ハン( غاير خان Ghā'ir khān)とも称されていた。
[[モンゴル高原]]では、元朝崩壊後もチンギス・ハーンの子孫でないがハーン(カアン)の位にくことはタブー視され、チンギス・ハーンの子孫ではない遊牧君主はたとえ実力でモンゴルを制覇したとしてもハーンとはなれない慣行が生まれた。{{main|[[チンギス統原理]]}}


[[15世紀]]に、これを無視してハーンに即位した[[オイラト]]の[[エセン・ハーン|エセン]]は、モンゴル高原をほぼ統一するほどの勢威を誇ったにもかかわらず、ハーン即位後すぐに内紛によって殺されてしまった。
== ゴル帝国のハーン ==


チャガタイ・ハン国分裂後の[[中央アジア]]、ジョチ・ウルス分裂後の[[キプチャク草原]]でも同様の現象が起こったが、一方でモンゴル帝国の支配からはやや離れた[[アナトリア半島]]では、早くからチンギス家の血を引かない[[オスマン家]]がハンの称号を帯びた例があり、[[イラン]]や[[インド]]では地方総督や小部族の首長などがハーンを名乗る慣行がモンゴル帝国の解体後再開している。さらに時代が下るとチンギス統原理も揺らぎ始め、[[ダライ・ラマ]]の権威によりチンギス・ハーンの血を引かない[[ジュンガル]]や[[マンギト]]などの部族長がハーンを名乗った。
12世紀のモンゴル高原では、カンは[[モンゴル]]、[[ケレイト]]、[[ナイマン]]など部族のが名乗る称号であり、[[モンゴル帝国]]を築いた[[チンギス・ハーン]]も、彼の在世当時はチンギス・カン(Chinggiz Qan/Chinggis Qan)と称されていた。しかし、チンギス・ハーンを継いでモンゴル帝国第2代君主となった[[オゴデイ]]は、恐らくモンゴル帝国の最高君主が他のハン・カンたちとは格の異なった「皇帝」であることを示すために、古のカガンを復活させた'''カアン''''''qa'an'''という称号を採用し、のちにモンゴル帝国の最高君主が建てた[[元 (王朝)|元]]王朝もカアンの称号を受け継いだ。


東アジアでは、[[17世紀]]初頭に[[女真]]出身の[[ヌルハチ]]が[[満民族|満]]([[女真]])のハンに即位して[[後金]]をてていたが、後金はヌルハチの子[[ホンタイジ]]の代でモンゴルのチンギス裔のハーンを服属させ、満だけではなくモンゴルに対してもハーンとして君臨することとなった。こうしてモンゴルのハーンとなった満のハンは、自らを[[ (王朝)|元]]のハーン政権の後継王朝と位置付け、国号を[[清]]と改める。清の支配下では、ハーンは清朝皇帝の臣下である遊牧民の王侯が称する称号、[[爵位]]の一種としても使われた。
これに対して、モンゴル帝国西部の[[チャガタイ・ハン国]]、[[ジョチ・ウルス|キプチャク・ハン]]、[[イルハン朝|イル・ハン国]]の君主、モンゴル語でカンと名乗った。こうしたモンゴル帝国の諸王の「カン」が[[ペルシア語]]では「 خان kh&#257;n」と表記・発音されたため、[[アラビア文字]]使用圏では最終的にハーン(kh&#257;n)/ハン(χan)という形で定着した


== 脚注 ==
なお、ペルシア語では、モンゴル帝国皇帝の称号である「カアン」を、'''カーアーン''' قاآن '''q&#257;'&#257;n'''あるいは'''カーン''' قآن '''q&#257;n'''/qa'ān)と表記しており、モンゴル語のカン(qan)に由来するハーン خان kh&#257;n)の表記とははっきり区別されていた。<!--ペルシア語のカーアーンは、のちに先述したハーカーン(kh&#257;q&#257;n)に置き換わる。しかし、[[ティムール朝]]の史料では「ハーカーン」という名称をキプチャハン国などのチンギス家の君主たちを指すのに用いたり、あるいはティムール朝の君主の雅称として形容的に使われたのみで、オゴデイ以下のモンゴル皇帝たるカアンに対しては、依然として「カーアーン」という語使われている。-->モンゴル帝国が解体した後もキプャクハンを始め、西方のテュルク語・ペルシア語圏の君主に対しては「カーアーン」は使われていない。
{{reflist}}


== 参考文献 ==
一方、東の元・[[北元]]ではカアンの称号が最高君主の称号として広く用いられた結果、逆に本来一般の遊牧君主を指したカンの称号が廃れて使われなくなった。また、東方のモンゴル語圏ではqの子音が変化して'''ハーン'''('''хаан'''/'''khaan''')と発音されるようになった。
* [[村上正二]] 訳注『[[元朝秘史|モンゴル秘史]] チンギス・カン物語 1』[[平凡社]]〈[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]〉、1970年。
* C.M.ドーソン 著([[佐口透]] 訳注)『モンゴル帝国史 2』平凡社〈東洋文庫〉、1968年。


== 関連項目 ==
このような経緯の結果、モンゴル帝国時代のカアンとカンは現地の現代語によってカタカナ表記するとほとんど同じハーンという発音になる。このため、区別するためにモンゴル帝国のカアンを「大ハーン」と呼ぶこともある。
*[[ハトゥン]]



== モンゴル帝国解体後のハーン ==
[[モンゴル高原]]では、元朝崩壊後もチンギス・ハーンの子孫でないものがハーン(カン、カアン)の位にくことはタブー視され、チンギス・ハーンの子孫ではない遊牧君主はたとえ実力でモンゴルを制覇したとしてもハーンとはなれない慣行が生まれた(「[[チンギス統原理]]」)。[[15世紀]]にこれを無視してハーンに即位した[[オイラト]]の[[エセン・ハーン|エセン]]は、モンゴル高原をほぼ統一するほどの勢威を誇ったにもかかわらず、ハーン即位後すぐに内紛によって殺されてしまった。

チャガタイ・ハン国分裂後の[[中央アジア]]、キプャクハン国分裂後の[[キプチャク草原]]でも同様の現象が起こったが、一方でモンゴル帝国の支配からはやや離れた[[アナトリア半島]]では、早くからチンギス家の血を引かない[[オスマン家]]がハンの称号を帯びた例があり、[[イラン]]や[[インド]]では地方総督や小部族の首長などがハーンを名乗る慣行がモンゴル帝国の解体後再開している。さらに時代が下るとチンギス統原理も揺らぎ始め、チンギス・ハーンの血を引かない[[ジュンガル]]や[[マンギト]]などの部族長がハーンを名乗った。

東アジアでは、[[17世紀]]初頭に[[女真|女真]]の[[ヌルハチ]]が[[満民族|満]](女真)のハンに即位して[[後金]]をてていたが、後金はヌルハチの子[[ホンタイジ]]のときモンゴルのチンギス裔のハーンを服属させ、満だけではなくモンゴルに対してもハーンとして君臨することとなった。こうしてモンゴルのハーンとなった満のハンは、自らを元のハーン政権の後継王朝と位置付け、国号を[[清]]と改める。清の支配下では、ハーンは清朝皇帝の臣下である遊牧民の王侯が称する称号、[[爵位]]の一種としても使われた。


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2024年10月8日 (火) 09:39時点における最新版

ハーン(汗、可汗、合罕、干、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア中央アジア西アジア南アジアにおいて、主に東北に住む騎馬民族君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。

カン(ハン)とカアン(ハーン)

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12世紀モンゴル高原では、「カン(Qan)」はモンゴルケレイトナイマンなど部族の長が名乗る称号(君主号)であり、モンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンも、彼の在世当時はチンギス・カン(Čingγis Qan/Činggiz Qan)と称していた。しかし、チンギス・カンを継いでモンゴル帝国第2代君主となったオゴデイは、モンゴル帝国の最高君主が他のカンたちとは格の異なった存在であることを示すために、古の「カガン」を復活させた「カアン(qa'an, qaγan)」という称号を採用し、のちにモンゴル帝国の最高君主が建てた王朝も「カアン」の称号を受け継いだ。帝国西部に位置するテュルク系国家や西遼などの旧領では、最高指導者を「カーン(khaqan、qa'an)」と呼ぶ慣習があったため、貨幣発行などの事例により、1220年代頃から「カン」と「カーン」の使い分けが次第にみられ、帝国東部でも1254年と1257年に印された『少林寺蒙漢合璧聖旨碑』のウイグル文字モンゴル語文/漢文が、それぞれ「カン/罕」から「カーン/合罕」へ切り替わっている事から、正式に大モンゴル国の最高指導者の呼称を「カアン」と定めたのは1250年代と考えられている。

これに対して、モンゴル帝国西部のチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗国)、ジョチ・ウルス(キプチャク汗国)、フレグ・ウルス(イルハン朝)系の地方の諸王には「カン(ハン)」号が使用された。やがてこうしたモンゴル帝国の諸王国(汗国)の「カン(ハン)」号がペルシア語では「ハーン خان khān」(ペルシア語では長母音となる)と表記・発音されたため、アラビア文字使用圏では「ハーン(khān)」と「ハン(χan)」という2通りの表記が生まれ、現代の書籍においてもモンゴル帝国中央の「ハーン」と他地方の「ハン/ハーン」の混同がみられることがある。

なお、ペルシア語では、モンゴル帝国皇帝の称号である「カアン」を、「カーアーン( قاآن qā'ān)」あるいは「カーン( قآن qān/qa'ān)」と表記しており、モンゴル語の「カン(qan)」に由来する「ハーン( خان khān)」の表記とははっきり区別されていた。ティムール朝の史料では例外として「ハーカーン」という名称をチャガタイ・ウルスなどのチンギス家の君主たち、あるいはティムール朝の君主の雅称として形容的に使われるが、オゴデイ以下のモンゴル皇帝たるカアンに対しては、もちろん「カーアーン」という語を使用している。例外を除き、ジョチ・ウルス系の君主を始め、西方のテュルク語・ペルシア語圏の君主に対しては「カーアーン」は使われていない。

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チンギス統原理とハーン

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モンゴル高原では、元朝崩壊後もチンギス・ハーンの子孫でない者がハーン(カアン)の位に就くことはタブー視され、チンギス・ハーンの子孫ではない遊牧君主はたとえ実力でモンゴルを制覇したとしてもハーンとはなれない慣行が生まれた。

15世紀に、これを無視してハーンに即位したオイラトエセンは、モンゴル高原をほぼ統一するほどの勢威を誇ったにもかかわらず、ハーン即位後すぐに内紛によって殺されてしまった。

チャガタイ・ハン国分裂後の中央アジア、ジョチ・ウルス分裂後のキプチャク草原でも同様の現象が起こったが、一方でモンゴル帝国の支配からは、やや離れたアナトリア半島では、早くからチンギス家の血を引かないオスマン家がハンの称号を帯びた例があり、イランインドでは地方総督や小部族の首長などがハーンを名乗る慣行がモンゴル帝国の解体後再開している。さらに時代が下るとチンギス統原理も揺らぎ始め、ダライ・ラマの権威によりチンギス・ハーンの血を引かないジュンガルマンギトなどの部族長がハーンを名乗った。

東アジアでは、17世紀初頭に女真出身のヌルハチ満洲女真)のハンに即位して後金を建てていたが、後金はヌルハチの子ホンタイジの代でモンゴルのチンギス裔のハーンを服属させ、満洲だけではなくモンゴルに対してもハーンとして君臨することとなった。こうしてモンゴルのハーンとなった満洲のハンは、自らをのハーン政権の後継王朝と位置付け、国号をと改める。清の支配下では、ハーンは清朝皇帝の臣下である遊牧民の王侯が称する称号、爵位の一種としても使われた。

脚注

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  1. ^ 村上 1970,p7
  2. ^ 佐口 1968,p67

参考文献

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関連項目

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