「都々逸坊扇歌」の版間の差分
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* 磯部田圃のばらばら松は 風も吹かぬに木(気)がもめる |
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:生まれ故郷の風景を唄ったもの。 |
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*諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた |
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* 都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな (辞世の唄) |
* 都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな (辞世の唄) |
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2005年1月21日 (金) 10:13時点における版
都々逸坊 扇歌(初代)(どどいつぼう せんか、文化元年(1804年) - 嘉永5年10月29日(1852年12月10日))は、 江戸末期に一世を風靡した寄席芸人で都々逸の祖として知られる。
経歴
水戸領磯部村(常陸国現在の茨城県常陸太田市)に、 岡玄作という医師を父に、四人兄弟(男二人、女二人)の末っ子として生まれる。 幼名は子の松(ねのまつ)、のちに福次郎と改める。
七歳で痘瘡を患らった時に、治療医である父親が、 医書の真偽を確かめようと痘瘡の病人には大毒といわれる鰹を与え半失明となる。
二十歳の頃江戸に出て、音曲噺で有名な落語家の初代船遊亭扇橋に弟子入りし、 その後、江戸牛込の藁店(わらだな)という寄席を中心に活躍した。 その芸は、都々逸をはじめとした唄・三味線だけでなく、 「なぞ坊主」の異名を取るほど謎かけに長けていた。 やがて、江戸で一番の人気芸人となり、 八丁四方では寄席の入りが悪くなるという意味で、 仲間うちから「八丁あらし」とあだ名された。
世相を風刺した唄も沢山作ったが、 晩年にはそれが幕府・大名批判とされ江戸を追放される。 1852年に府中(現在の茨城県石岡市)に嫁いだ姉の住まいにて病に伏し没す。
扇歌作の都々逸
都々逸は、当時上方を中心に流行していた「よしこの節」や名古屋で流行していた「名古屋節」を元に扇歌が誰でも唄えるような曲調に仕上げたものと言われている。
扇歌作の唄はそれほど多くは残っていない。 以下は、代表的なもの。
- 親がやぶならわたしもやぶよ やぶに鶯鳴くわいな
- 藪医者の息子ごときが芸人として大成できるわけがない、と叔父に江戸行きを止められたときに唄ったとされる。
- わたしゃ奥山一もと桜 八重に咲く気はさらにない
- たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車
- 白鷺が 小首かしげて二の足踏んで やつれ姿の水鏡
- 願人坊主のようななりで三味線片手に流浪していた際に自分の姿を唄ったものともいわれる。
- 乗り出した船じゃわいな 沖の果てまで さあさやりましょ面舵取り舵ゃ 船頭さんの胸じゃいな
- 扇橋に弟子入りを志願した際にこの唄を唄い無事弟子入りがかなったとされる。「船頭」は扇橋とかけている。
- 磯部田圃のばらばら松は 風も吹かぬに木(気)がもめる
- 生まれ故郷の風景を唄ったもの。
- 諦めましたよどう諦めた 諦め切れぬと諦めた
- 都々逸も うたいつくして三味線枕 楽にわたしはねるわいな (辞世の唄)
また、扇歌作の狂句(川柳)も残っている。
- 上は金 下は杭無し(食いなし) 吾妻橋
- 庶民はその日食うにも汲々しているのに政官の連中は金にあかした生活をしている様を吾妻橋にたとえて風刺した。
- 真直に 行けば五条(五常)の 道に出る
- 気に入らぬ 節もあろうに 材木屋
- 通人で知られた千葉の材木屋の宴席に呼ばれた際に唄った唄。
- 耕すの 恩は忘れず 米の味
- 江戸で名を上げて故郷に帰った際に、両親や叔父の墓前で唄ったとされる。
記念碑
- 生地の常陸太田市には、扇歌の碑がある。
- 碑には「磯辺田圃の..」の唄が刻まれている。
- 終焉の地の石岡市には、墓碑がある。
- 扇歌堂という供養堂も併設され、「たんと売れても..」の歌碑がある。