「蝦夷」の版間の差分
→えみし: 神話への言及を復活 |
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{{Otheruses| |
{{Otheruses|集団としての蝦夷}} |
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[[File:Monument to Aterui and More2.jpg|thumb|right|[[アテルイ]]、モレの顕彰碑<br>([[京都市]][[清水寺]])]] |
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'''蝦夷'''(えみし、えびす、えぞ)は、[[日本列島]]の東方、北方に住み、日本人によって異族視されていた人々に対する呼称である。時代によりその範囲が変化している。近世の蝦夷(えぞ)は[[アイヌ]]人を指す。 |
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'''蝦夷'''(えみし、えびす、えぞ)は、[[ヤマト王権|大和朝廷]]から続く歴代の中央政権から見て、[[日本列島]]の東方(現在の[[東北地方]])や、北方(現在の[[北海道]]、[[千島列島]]、[[樺太]])などに住む人々の呼称である<ref name=":0">{{Cite web|和書|url=https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kyoiku/e-kyodokan/files/2010-0604-1449.pdf|title=「エミシ」と「エゾ」|accessdate=2021-04-05|publisher=青森県立郷土館}}</ref>。 |
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大きく、「エミシ(蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。 |
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大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷(エミシ)は、[[俘囚]]と呼ばれ、他地域へ移住させられることがあった。 |
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== 語源と用字 == |
== 語源と用字 == |
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蝦夷は古くは'''愛瀰詩'''と書き([[神武東征|神武東征紀]])、次に'''毛人'''と表され、ともに「えみし」と読んだ。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる{{Sfn|高橋|1974|p=33}}。「えぞ」が使われ始めたのは11世紀か12世紀である{{sfnm|高橋|1986|1pp=25-26|工藤|2001|2p=26}}。 |
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えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征紀であり、[[神武天皇]]によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、[[日本書紀]]の[[景行天皇]]条である。そこでは、[[武内宿禰]]が北陸及び東方諸国を視察して、「[[東夷|東の夷]]の中に、[[日高見国]]有り。その国の人、男女並に椎結け身を文(もどろ)けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は「身を文けて」つまり、[[邪馬台国]]の人々と同じく、[[入れ墨]](文身)をしていたことが分かっている。 |
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語源については諸説あり、中に[[樺太アイヌ]]の[[アイヌ語]]で「人」を意味する「''encu''」と同語源とするものもある。 |
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古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言うが、我が軍には手向かいもしない)<ref>『日本書紀』神武天皇即位前紀。</ref> と歌われたこと、[[蘇我蝦夷]]、[[小野毛人]]、[[佐伯今毛人]]、[[鴨蝦夷]]のように大和朝廷側の貴族の名に使われたこと、[[平安時代#平安後期|平安時代後期]]には権威付けのために蝦夷との関連性を主張する[[豪族]]([[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]や[[出羽清原氏|清原氏]])が登場していることから、「えみし」には強さや勇敢さという語感があったと推測されている{{Sfnm|高橋|1974|1p=23|高橋|1969|2p=49|工藤|2001|3p=33}}。そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)[[勇者]]」といったものではないかという推測もある{{Sfnm|高橋|1974|1p=23|高橋|1969|2pp=49-50}}。 |
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古代の蝦夷ははじめ「'''毛人'''」と書いて「えみし」あるいは「えびす」と読み、7世紀から「蝦夷」と書かれるようになった。しかし、毛人や蝦夷にはえみしやえびすと通じる音がない。「毛」や「蝦」の字を用いたのは単なる音の転写ではなく、何らかの意味があると考えられる。ここで、毛人は蝦夷に体毛が多かったためだと解し、やはり体毛が多いアイヌと比べる説がある。蝦夷については、カイという音(アイヌ人はモンゴル人から「クイ」ロシア人からは「クリル」と呼ばれた)に通じる呼び名があったためとも、蝦(エビ)に似て髭が長かったためだとも推測される。ただし、これらは三説とも字を見て論じたもので、確かな証拠はない。蝦夷の「夷」の字は東方の異民族([[東夷]])に対する蔑称である。また、『[[続日本紀]]』[[文武天皇]]元年([[697年]])12月庚辰条には、[[越後国]](後の[[出羽国]]を含む)に住む蝦夷を「'''蝦狄'''」(「えてき」)と称している。これは、東夷と同じく北方の異民族([[狄|北狄]])に対する蔑称に由来していると考えられている。 |
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他方で[[アイヌ語]]に語源があると考えた[[金田一京助]]は、アイヌ語の雅語に人を「エンチュ (enchu, enchiu)」というのが、日本語で「えみし」になったか、あるいはアイヌ語の古い形が「えみし」であったと説いた{{Sfn|金田一|2004|pp=64-65, 110-116, 126}}。 |
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[[平安時代]]後半頃から蝦夷を「えぞ」と読むようになった。読みの変化が指し示す集団の変化に対応すると考える説もある。 |
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文献的に最古の例は毛人で、5世紀の[[倭王武]]から[[宋 (南朝)|宋]]への上表文に「東に毛人を征すること五十五国。西に衆夷を服せしむこと六十六国」とある。蝦夷の字をあてたのは、[[斉明天皇]]5年([[659年]])の[[遣唐使]]派遣の頃ではないかと言われる{{Sfnm|高橋|1974|1pp=27-28|高橋|1969|2pp=52-53}}。後代に人名に使う場合、ほとんど毛人の字を使った。[[蘇我蝦夷]]は『[[日本書紀]]』では蝦夷だが、『[[上宮聖徳法王帝説]]』では蘇我豊浦毛人と書かれている。毛人の毛が何を指しているかについても諸説あるが、一つは体毛が多いことをいったのだとして、後の[[アイヌ]]との関連性をみる説である。また、中国の地理書『[[山海経]]』に出てくる毛民国を意識して、中華の辺境を表すように字を選んだという説もある<ref>『山海経』第9海外東経(平凡社ライブラリー 132-133頁)。{{Full citation needed |date=2019-06-03 |title=刊行年、訳者など不明。}}</ref>{{Sfn|工藤|2001|pp=46-47}}。 |
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== えみし == |
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古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収された。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられている。 |
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ただし、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は、別ものである。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)は同じ漢字を用いていることから混同されやすいが、歴史に登場する時代もまったく異なり、両者は厳密に区別されなければならない。 |
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人名に使った場合であっても、[[佐伯今毛人]]が勤務評定で今蝦夷(正確には夷の字に虫偏がつく'''蛦''')と書かれた例がある{{Sfn|高橋|1986|p=16}}。蝦夷の蝦の字については、あごひげが長いのをエビに見たてて付けたのだとする説がある{{Sfn|高橋|1974|pp=32-33}}。夷の字を分解すると「弓人」、上代日本語で(ユミシ)になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある{{Sfnm|高橋|1974|1pp=32-33|高橋|1969|2p=50}}。 |
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「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一[[アイデンティティー]]は無かったと解するか、日本との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。しかし、既に文字文化を持っていたイギリスの[[ケルト人]]と異なり、文字文化を持たない民族集団が統一した[[アイデンティティー]]を有することは困難であるため([[北米]][[先住民族]]や[[高砂族]])、時代とともに遺恨も薄まり日本人に混血化していった事実が、近年のDNA解析からも判明している。 |
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[[喜田貞吉]]は、意味ではなく音「かい」が蝦夷の自称民族名だった<ref>松浦武四郎『天塩日記』</ref>のではないかと説いた。アイヌ人はモンゴル人など中国東北部の民族からは「骨嵬(クギ、クイ)」、ロシア人からは「[[千島アイヌ|クリル]]」と呼ばれた。[[千島列島]]のロシア語名はクリル諸島である。斉明天皇5年の遣使の際に、聞き取った唐人が蝦夷の字をあて、それを日本が踏襲したという{{efn2|高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く{{sfn|高橋|1986|pp=20-21}}。}}。平安初期の「[[日本書紀私記|弘仁私記]]」の序文には、蝦夷に「カイ」とルビをふっている。平安末期の「[[伊呂波字類抄]]」にも、カイの条に「蝦夷」とある<ref>正宗敦夫編『[{{NDLDC|1912551/64}} 日本古典全集 伊呂波字類抄 第三]』、昭和3年</ref>。[[秋田藩]]の藩士であった[[人見蕉雨]]によって[[1798年]](寛政10年)頃に著された黒甜瑣語には、蝦夷(夷は大と弓の上下の合字になっている)のルビを「かい」としている。そこでは「[[ダケカンバ]]と思える植物をタッチラと唱える」という記述からも、これがアイヌの事を指している事がわかる<ref>人見蕉雨『[{{NDLDC|898467/15}} 黒甜瑣語. 第3編]』、人見寛吉、明治29年</ref>。明治政府は[[開拓使]]の設置に伴い蝦夷地の名称の変更を検討。[[1869年]](明治2年)蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた[[松浦武四郎]]は政府に建白書を提出し、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案を提示した<ref name="faq02">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/d/faq/faq02.htm|title=北海道の名前について|publisher=北海道立文書館|accessdate=2020-01-20}}</ref>。明治政府は「北加伊道」を基本とし「加伊」を「海」に改めた「'''北海道'''」とすることを決定<ref name="faq02" />。明治2年8月15日太政官布告により「蝦夷地自今北海道ト被稱 十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出候事」と周知された<ref name="faq02" />。松浦は建白書において「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明している<ref name="faq02" />。[[青森県]]の伝承を集めた[[中道等]]の『奥隅奇譚』では「蝦夷崎」のルビを「かいざき」としている<ref>中道等『[{{NDLDC|1464158/11}} 奥隅奇譚]』、郷土研究社、昭和4年、p.3</ref>。 |
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蝦夷についての形式上最も古い言及は『[[日本書紀]]』にあり、[[神武天皇]]の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷であったとされる。しかし神武天皇や東征の実在性には疑問が残るため、確実な史料としては、これを蝦夷についての最古の記録とみなすことはできないと考えられている。日本書紀に従えばヤマト王権と敵対する東方の集団が蝦夷なのだが、書紀には7世紀から8世紀頃の歴史認識が反映された部分があるとみられており、古い時代の蝦夷の民族的性格と居住範囲については諸説ある。 |
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金田一京助は喜田らの説を批判し、「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた{{Sfn|金田一|2004|pp=116, 127}}{{efn2|工藤雅樹もこれを支持する{{Sfn|工藤|2001|pp=117-118}}。}}。 |
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一方で確実な史料としては、5世紀の中国の歴史書『[[宋書]]』倭国伝に、 [[478年]]倭王武が[[宋 (南朝)]]に届けた上表文として以下の記述がある。 |
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諸説ある中で唯一定まっているのは、「夷」が東の異民族([[東夷]])を指す字で、[[中華思想]]を日本中心にあてはめたものだということである。「夷」単独なら『古事記』などにも普通にあるが、その場合古訓で「ひな」と読む。多くの学者は用字の変化を異族への蔑視の表れとし、[[蘇我蝦夷|蘇我毛人]]を蘇我蝦夷としたのも『日本書紀』編者が彼を卑しめたものとする{{Sfn|高橋|1969|p=53}}。だが、佐伯今毛人や[[小野毛人]]の例を引いてこれに反対する意見もある{{Sfn|高橋|1986|pp=22-24}}。 |
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''「昔から祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き、山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。'''東は毛人を征すること、五十五国。'''西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。」'' |
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用字については、『日本書紀』では蝦夷の夷の字に[[むしへん|虫偏]]をつけた箇所も散見される{{Sfn|高橋|1986|ps=(81例中14)|pp=12-13}}。蝦夷の字の使用とほぼ同じ頃から、北の異民族を現す「狄」の字も使われた。「'''蝦狄'''」と書いて「えみし」と読んだらしい。毛人と結合して「毛狄」と書かれた例もある<ref>『日本後紀』延暦16年2月己巳(13日)条。</ref>。一字で「夷」と「狄」を使い分けることもよくあった。これは管轄する国([[令制国]])による人工的区分で、[[越後国]](後に[[出羽国]])所轄の日本海側と北海道のえみしを'''<u>蝦狄・狄</u>'''、[[陸奥国]]所轄の太平洋側のえみしを'''<u>蝦夷・夷</u>'''としたのである{{sfn|熊田|1986|pp=162-165}}。 |
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これにより既にこの時代には蝦夷の存在とその支配が進んでいた様子を確認することが出来る。 |
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== 蝦夷(えみし) == |
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蝦夷の生活を同時代人が正面から語った説明としては、[[659年]](斉明天皇5年)の[[遣唐使]]と[[唐 (王朝)|唐]]の[[高宗 (唐)|高宗]]の問答が日本書紀にある。それによると、日本に毎年入朝してくる熟蝦夷(にきえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つがる)があった。この使者の説明では、蝦夷は穀物を食べず、家を建てず、樹の下に住んでいた。しかしこのような生活は史料にみえる他の記述とも現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張するための嘘と思われる。信憑性に欠けるこの説明から確実にわかるのは、都加留(津軽)が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。 |
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古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した<ref name=":0" />。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。 |
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朝廷側の人間とは異なる「夷語(いご)」を話しているため、[[訳語]](通訳)を必要とした<ref>鈴木拓也編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』吉川弘文館、137頁</ref>。 |
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[[7世紀]]頃には、蝦夷は現在の[[宮城県]]中部から[[山形県]]以北の[[東北地方]]と、[[北海道 (地方公共団体)|北海道]]の大部分に広く住み、その一部は日本の領域の中にあった。[[658年]]には[[阿倍比羅夫]]が水軍180隻を率いて蝦夷を討っている。日本が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、又国境を越えて襲撃を行った。最大の戦いは胆沢とその周辺の蝦夷との戦いで、[[780年]]に[[多賀城]]を一時陥落させた[[宝亀の乱]]の[[伊治呰麻呂]]、[[789年]]に[[巣伏の戦い]]で遠征軍を壊滅させた阿弖流為([[アテルイ]])らの名がその指導者として伝わる。日本は大軍で繰り返し遠征し、[[征夷大将軍]][[坂上田村麻呂]]が[[胆沢城]]と[[志波城]]を築いて征服した。日本の支配に服した蝦夷は、[[俘囚]]と呼ばれた。 |
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「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一的な[[自己同一性|アイデンティティー]]は無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。 |
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蝦夷は平時には交易を行い、[[昆布]]・[[馬]]・[[毛皮]]・羽根などの特産物を日本にもたらし、代わりに[[米]]・[[布]]・[[鉄]]を得た。 |
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=== 歴史 === |
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[[9世紀]]に蝦夷に対する朝廷([[関西]])からの征服活動は、現在の[[岩手県]]と[[秋田県]]のそれぞれ中部で停止した。しかしその後も、現地の官僚や俘囚の長たちは、蝦夷内部の紛争に関与し続け、地方権力から支配を浸透させた。こうして、東北地方では[[12世紀]]には蝦夷としての独立性は失われた。このころから蝦夷とは呼ばれず、[[夷俘]]、[[俘囚]]と記録されるようになった。 |
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==== 弥生時代 ==== |
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概ね[[関東地方]]から[[東北地方]]、[[北海道]]にかけて、広く日本列島の東方に住んでいたと考えられている。 |
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[[東北地方]]北部へも水田・稲作が一時的に伝わったが放棄され、狩猟・採集文化が伝統として続いた。 |
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蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、[[江戸時代]]から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を[[日本人]]の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、[[考古学]]からする[[文化圏]]の検討と、[[北東北]]に分布するアイヌ語地名から、7世紀以降の蝦夷についてアイヌとの連続性を認める説が有力である。この場合、北海道から北東北にかけての広がりを持った[[擦文時代|擦文文化]]を担った人々こそが蝦夷であったとみなし、北海道の蝦夷はアイヌ人に継承され、東北地方の蝦夷と国内に移配された俘囚は日本人に合流したとされる。また、蝦夷が[[ツングース]]系の北方民族と考える説がないわけではない。 |
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==== 古墳時代 ==== |
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しかし、文献史学の情報、考古学による発掘の進展などは擦文文化の広がりや実態、[[続縄文時代|続縄文文化]]から擦文文化への、又擦文文化からアイヌ文化への移行過程がかなり複雑な様相を呈しており、前述の説ほど単純に割り切れるものではない事を浮かび上がらせつつあるため、単純にそのままの形では定説とみなされてはいない。従って『書紀』が語る東日本全域の蝦夷や、遡って[[縄文人]]・[[弥生人]]等との関係についての議論では、未だ確定的な説はない。 |
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[[5世紀]]の中国の歴史書『[[宋書]]』倭国伝に、[[478年]]([[順帝 (南朝宋)|順帝]][[昇明]]2年)倭王武が[[宋 (南朝)]]に届けた上表文として以下の記述がある。 |
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{{cquote|昔より{{ルビ|祖彌|そでい}}{{ルビ|躬|みずか}}ら{{ルビ|甲冑|かっちゅう}}を{{ルビ|環|つらぬ}}き、{{ルビ|山川|さんせん}}を{{ルビ|跋渉|ばっしょう}}し、{{ルビ|寧処|ねいしょ}}に{{ルビ|遑|いとま}}あらず。'''東は毛人を征すること、五十五国。'''西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。<br>(自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國)}} |
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[[Category:奈良時代]] |
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これにより既にこの時代には蝦夷の存在とその支配が進んでいた様子を確認することができる。 |
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蝦夷は、その優れた[[弓術]](和人の伝統の[[長弓]]に比べると[[短弓]]を用いた<ref name="azumakagami"/><ref>熊谷公夫 2004『古代の蝦夷と城柵』吉川弘文館 170−211頁</ref><ref>岡安光彦、古代長弓の系譜 2013年『日本考古学』</ref><ref>岡安光彦、原始和弓の起源 2015年『日本考古学』</ref>)に、[[ウマ|馬]](古墳時代に日本へもたらされた)を和人から取り入れ組合せ、飛鳥時代・奈良時代には[[騎射]]の技を磨き狩猟に用いた<ref>蝦夷は、[[倭・高句麗戦争]]直後から日本へもたらされた[[ウマ|馬]]および[[騎射]]の技を、和人よりも高度に習得し磨いた。</ref>。また同時に、騎乗武器([[蕨手刀]]を和人から取り入れた)も改良・発達させた。これらの強力な戦闘術は奈良時代・平安時代に和人へ取り入られた。 |
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===== 古墳の分布 ===== |
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古墳の分布は和人文化の範囲を示し、蝦夷との境界が北限となる。これまでの発掘調査により、[[古墳時代]]前期における最古級の[[前方後円墳]]の北限は、現在の[[新潟県]]・[[越後平野]]中部、[[福島県]]・[[会津盆地]]、[[宮城県]]・[[仙台平野]]であったと考えられている。同時代の終末期までに北限は、日本海側沿岸ではほとんど北進せずむしろ[[中越地方]]に後退するが、日本海側内陸では[[山形県]]・[[村山地方]]中部まで、太平洋側では[[岩手県]]・[[北上盆地]]南部まで北進した。 |
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{|class="wikitable" |
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|+[[前方後円墳]]の北限<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |author=滝沢規朗 |url=http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/864/789/H25-1300kirokusyu-3t.pdf |title=概説2 新潟県の弥生時代後期~古墳時代前期 |publisher=[[新潟県]] |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/913/677/H25-1300kirokusyu-9k.pdf |title=概説3 新潟県の古墳時代中期~後期 |author=春日真実 |publisher=新潟県 |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://www.lib.niigata-u.ac.jp/Zuroku/63-112.pdf|title=Ⅱ-2 考古学 |publisher=[[新潟大学]]附属図書館 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160306040511/http://www.lib.niigata-u.ac.jp/Zuroku/63-112.pdf |archivedate=2016-03-06 |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.city.niigata.lg.jp/kanko/rekishi/maibun/kuni_furutsuhachiman/seminar/sinpojiumu.files/kinenkouen2.pdf 記念講演2「東北からみた古津八幡山古墳」 菊地芳朗(福島大学)]}}{{リンク切れ|date=2019-06-02}}, {{Cite web|和書|url=http://www.city.niigata.lg.jp/kanko/rekishi/maibun/kuni_furutsuhachiman/seminar/sinpojiumu.html |title=シンポジウム「蒲原平野の王墓古津八幡山古墳を考える‐1600年の時を越えて‐」を開催しました |publisher=新潟市 |archiveurl=https://archive.is/QgmO3 |archivedate=2014-10-19 |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=藤澤敦 |title=小規模墳の消長に基づく古墳時代政治・社会構造の研究 |issue=平成15年度-平成17年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書,課題番号:15520473 |date=2006-03 |url=https://hdl.handle.net/10097/39724 |accessdate=2021-10-01}}</ref> |
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!colspan="3"|日本海側 |
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![[島嶼]] |
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!沿岸 |
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![[佐渡市|佐渡]] |
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![[新潟県]](佐渡除く) |
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![[山形県]]([[庄内地方|庄内]]除く)<br />[[福島県]][[会津]] |
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![[岩手県]]<br />[[宮城県]] |
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!最北端 |
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|align="center" rowspan="3" |なし |
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|[[菖蒲塚古墳]]({{Coord|37|46|3.7|N|138|51|57.5|E|region:JP|name=菖蒲塚古墳(4世紀後半)}})<ref name="Ayamezuka">{{Cite web|和書|url=http://www.city.niigata.lg.jp/kanko/rekishi/maizobunka/shiseki/ayameduka.html |title=国指定史跡 菖蒲塚古墳 |publisher=新潟市 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170324103922/http://www.city.niigata.lg.jp/kanko/rekishi/maizobunka/shiseki/ayameduka.html |archivedate=2017-03-24 |accessdate=2019-06-02}}</ref> |
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|[[坊主窪古墳群]]第1号墳<br />({{Coord|38|18|40.9|N|140|15|10.5|E|region:JP|name=坊主窪古墳群第1号墳(6世紀後半)}})<ref>{{Cite web|和書|format=PDF |url=http://www.town.yamanobe.yamagata.jp/yakuba/05_chiiki/pdf/200607.pdf |title=山辺 歴史散歩 第293話 |publisher=山辺町 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141025052631/http://www.town.yamanobe.yamagata.jp/yakuba/05_chiiki/pdf/200607.pdf |archivedate=2014-10-25 |accessdate=2019-06-02}}</ref> |
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|[[角塚古墳]]({{Coord|39|8|29.2|N|141|5|37.4|E|region:JP|name=角塚古墳(5世紀後半)}})<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.bunka.pref.iwate.jp/archive/bp6 |title=胆沢のクニの始まり |website= いわての文化情報大事典 |publisher=岩手県 |accessdate=2019-06-02}}</ref> |
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!最大 |
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|菖蒲塚古墳({{Coord|37|46|3.7|N|138|51|57.5|E|region:JP|name=菖蒲塚古墳(全長:53m)}})<br />全長:53m<!--新潟県最大--><ref name="Ayamezuka"/> |
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|[[亀ヶ森・鎮守森古墳|亀ヶ森古墳]]({{Coord|37|35|34.8|N|139|49|44.8|E|region:JP|name=亀ヶ森古墳(全長:127m)}})<br />全長:127m<!--福島県および山形県最大--><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2014/pdf/no04_03.pdf |format=PDF|title=福島県喜多方市 灰塚山古墳第3次発掘調査報告 |publisher=[[東北学院大学]] |accessdate=2019-06-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/material/hearing/pdf/inf17_03.pdf |format=PDF|title= 最上川流域における古墳の出現と展開 |author=川崎利夫 |publisher=国土交通省東北整備局山形河川国道事務所 |accessdate=2019-06-02}}</ref> |
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|[[雷神山古墳]]({{Coord|38|9|4.1|N|140|52|46.9|E|region:JP|name=雷神山古墳(全長:168m)}})<br />全長:168m<!--東北地方最大--><ref>{{Cite journal|和書|author=大塚初重 |title=東北日本における古墳文化の成立と展開:とくに福島・宮城・山形県を中心として |journal=駿台史学 |ISSN=05625955 |publisher=駿台史学会 |date=1986-03 |volume=67 |pages=90-118 |naid=120001442149 |url=https://hdl.handle.net/10291/6067}}</ref> |
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!最古級 |
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|[[稲場塚古墳]]({{Coord|37|41|14.8|N|138|50|31.4|E|region:JP|name=稲場塚古墳(前期)}}) |
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|[[杵ガ森古墳]]({{Coord|37|33|58.8|N|139|48|35.1|E|region:JP|name=杵ガ森古墳(前期)}}) |
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|[[かめ塚古墳]]({{Coord|38|7|17.6|N|140|52|9.9|E|region:JP|name=かめ塚古墳(前期)}}) |
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{{座標一覧}} |
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==== 神武東征伝説 ==== |
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蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『[[日本書紀]]』[[神武東征]]紀中に詠まれている[[久米歌|来目歌]]の一つに'''愛濔詩'''として登場する。 |
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: '' '''えみし'''を ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず'' |
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: ''(訳:''えみし''を、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)'' |
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:: 「愛瀰詩烏 <span style="text-decoration:underline;">毗</span><span style="text-decoration:underline;">儾</span>利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽<span style="text-decoration:underline;">毗</span>毛勢儒」<ref group="注">下線部「「<span style="text-decoration:underline;">毗</span>」は[[田部 (部首)|田へん]]に「比」の一文字、「<span style="text-decoration:underline;">儾</span>」は「{{lang|zh|亻}}」([[人部|にんべん]])に「囊(嚢)」の一文字。</ref> |
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しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせず、またここで登場する「'''えみし'''」が後の「'''蝦夷'''」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。 |
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『[[日本書紀]]』[[景行天皇]]条には、[[武内宿禰]](実在不明)が北陸及び東方諸国を視察した際の記述として「[[東夷|東の夷]](あずまえびす)の中に、[[日高見]]国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という」とあり、荒々しく勇猛な者、情を理解せず教養や文化に欠ける者としている。40年条には、天皇が[[日本武尊]]に[[東夷]]の征討を命じる際、蝦夷の特徴として「冬は穴居、夏は樹上家屋の生活」「山に登るときは飛ぶ鳥のように速く、草原を走るときは逃げる獣のように速い」「束ねた髪の中に矢を隠し、刀は衣の中に隠し持つ」「攻撃すると草原に隠れてしまい、追いかけると山中に逃げてしまう」と記述がある。 |
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==== 飛鳥時代 ==== |
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[[飛鳥時代]]([[7世紀]])頃には、蝦夷は現在の[[宮城県]]中部から[[山形県]]以北の[[東北地方]]と、[[北海道 (地方公共団体)|北海道]]の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。平時には和人と交易を行い、[[コンブ|昆布]]・[[ウマ|馬]]・[[毛皮]]・羽根などの特産物と引き換えに、[[米]]・[[布]]・鉄器・工芸品を得ていた。大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、また和人の築いた[[城柵]]を襲撃したため、[[日本書紀]]には襲撃や討伐の記録が記録されている。大和に帰順した蝦夷の集団は[[俘囚]]と呼ばれ、関東地方などへ移住させられたり、西日本で兵隊集団を勤めるなどした。 |
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蝦夷と接する地域([[陸奥国]]・[[出羽国]]・[[越後国]])では、国内の行政・司法・軍事を管掌する[[国司]]の守と介が饗給(慰撫)、征討、斥候などの外交・軍事も担当していた。特に陸奥国は面積が広く軍事的衝突が頻繁におきるため、[[陸奥国司]]には[[大宝律令]]が定める特例が多く、自らの判断で征討に出ることも許されていた。なお同じ辺境でも[[西国]]の国司は、征討のかわりに防守、饗給ではなく蕃客(外国使節の接待)と帰化が任務であった([[鎮西府]])。 |
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当初は大和側では[[秋田城]]などの[[城柵]]で儀礼的な会食(饗応)や物資の提供を行い服属を促していたが、蝦夷には中央政権が無いため恭順する集団と支配に抵抗し襲撃を行う集団が混在し、長期間にわたり交易と征伐が並行して行われる事態となった。 |
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『日本書紀』斉明天皇元年([[655年]])7月11日条には、難波朝([[難波京]]の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応したとある。そこでは「北」と「東」にそれぞれ「北越」「東陸奥」と注があり、北は越の方面、東は陸奥の方面と解せる。このうち[[越国]]は[[陸奥国]]の西に位置するが、越(高志)は都からみて北に位置するので北蝦夷としている{{Sfn|熊谷|1986|p=90}}。これらの語は当時の蝦夷が二大集団に分かれていたという意ではなく、応対する国([[令制国]])の管轄によって朝廷が用いた分類であると考えられている。この区別は後に[[出羽国]]と[[陸奥国]]の管轄になって[[平安時代]]まで踏襲されたが、字は北の異民族を指す「[[狄]]」に変わり「蝦狄」とも書かれるようになった{{Sfn|熊谷|1986|pp=87-90}}。 |
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『日本書紀』斉明天皇4年([[658年]])4月には[[阿倍比羅夫]]が水軍180隻を率いて蝦夷を討伐している。また日付は不明であるが同年には[[渡島]]に渡り[[粛慎 (日本)|粛慎]]の討伐と[[ヒグマ]]の献上を受けた記録がある。この渡島(渡嶋)とは[[外が浜]]([[陸奥湾]]沿岸の一部)から海を渡った先にある島([[北海道]])と推定される。粛慎と呼ばれる集団の詳細は不明であり本州以外に住んでいる蝦夷の別称という説もあるが、後には蝦夷と粛慎が別の集団であるかのような記述も登場する。 |
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『日本書紀』斉明天皇5年([[659年]])には朝廷に従った蝦夷が[[遣唐使]]に同行し[[唐 (王朝)|唐]]の[[高宗 (唐)|高宗]]に紹介されている。ここで引用された『伊吉連博徳書』によると、熟蝦夷(にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つかる、つがる。[[津軽]])がおり、連れてきたのは毎年入貢している熟蝦夷であること、蝦夷は肉食で[[五穀]]を食べず、家を建てずに樹の下に住んでいるなどを説明したところ、高宗は珍しく思ったと感想を述べたとしている。しかしこのような生活は他の史料にある記述や現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張しこれを従える大和の力を誇示するための創作と思われる。信憑性に欠けるこの説明から推測されるのは、稲作を行わず狩猟を中心とした食生活、北に行くほど恭順しない勢力が強く、都加留が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。続けて引用された『難波吉士男人書』では遣唐使の蝦夷の頭上に[[瓢]]を乗せ、40歩離れた位置から別の蝦夷が射るという実演をしたところ、百発百中で瓢を射貫いたという記述があり、弓術に優れていたことがうかがえる。また[[土崎港|齶田]](あきた、あぎた。[[秋田]])蝦夷の長であった[[恩荷]]は阿倍比羅夫に降伏した際、弓矢は武器ではなく狩猟の道具だと証言している。 |
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『日本書紀』斉明天皇6年3月には、阿倍臣が[[粛慎 (日本)|粛慎]]を討伐する際、陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて河を越え渡島に渡ったが、到着後に渡島に住む蝦夷から粛慎の水軍が多数襲来するので、河を渡って朝廷に仕えたいと申し出る記述があり、この時代には熟蝦夷の一部が朝廷軍として働いていたと見られている。また13世紀半ばから14世紀初頭にかけて、[[モンゴル帝国]]は[[樺太]]の[[アイヌ]]を[[モンゴルの樺太侵攻|攻撃している]]が関連は不明である。 |
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蝦夷は、産馬、産金の地である陸奥で経済力および戦闘力を付けていったのに対し、朝廷は産出物に依存する形となるなど、次第にその王権外の存在が問題視され、完全に大和化する政策に次第に舵が切られていった([[蝦夷征討]])。 |
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==== 奈良時代 ==== |
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<!--[[奈良時代]]になると[[平城京]]の造営や[[軍団 (古代日本)|軍団]]の整備により財政が悪化したことから、それまで支配の外と考えていた蝦夷を取り込んで徴税するために大規模な侵略を行ったことで戦いが激化した<ref name=":0" />。--> |
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『[[扶桑略記]]』[[養老]]2年([[718年]])8月14日、出羽と渡嶋の蝦夷が78人が馬1000頭を献納したので位と録を授けた記録がある<ref>ただし渡嶋については、北海道南西部は、考古学的に古代の馬の骨は発見されておらず詳細は不明である。</ref>。 |
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[[光仁天皇]]以降、[[蝦夷征討]]政策が本格化した。蝦夷も組織的に朝廷軍と戦うようになっていった。 |
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[[宝亀]]11年([[780年]])には[[多賀城]]を一時陥落させた[[宝亀の乱]]の[[伊治呰麻呂]]、[[延暦]]8年([[789年]])に[[巣伏の戦い]]で遠征軍を壊滅させた阿弖流為([[アテルイ]])らの名がその指導者として伝わる。 |
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[[延暦]]6年([[787年]])の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が[[綿襖甲|綿冑]]を作っている」という記述<ref>『[[類聚三代格]]』巻19</ref> があり、不正な交易が行われていたことがうかがえる。 |
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==== 平安時代以降 ==== |
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[[延暦]]20年(801年)には[[征夷大将軍]][[坂上田村麻呂]]が遠征し勝利した。延暦21年(802年)に[[胆沢城]]を築き、その周辺の蝦夷との戦いは記録に残っている中でも最大である。延暦22年(803年)には[[志波城]]を築城し、[[蝦夷征討]]の目的がほぼ達成されたと見なされた。 |
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その後、朝廷は蝦夷に対する積極的な征服政策を転じ、民衆の負担を減らすことととし、朝廷の支配領域の拡大は現在の[[岩手県]]と[[秋田県]]のそれぞれ中部付近を北限として停止する。[[延暦]]24年(805年)、藤原緒嗣から蝦夷征討と[[平安京]]の造営の一時中止を奏上され、[[桓武天皇]]は蝦夷への遠征を中止した。また[[軍団 (古代日本)|軍団]]を廃止し[[健児]]制へと移行したが、陸奥・出羽のみ蝦夷対策として軍団が維持された。 |
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その後は、現地の朝廷官僚や、大和に帰順した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったものと思われる。 |
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その後、[[前九年の役]]、[[後三年の役]]などが勃発し、[[平安時代#平安後期|平安後期]]の[[北東北|東北北部]]は戦乱の時代であった。当事者のうち[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]や[[出羽清原氏|清原氏]]は俘囚の長を自称し蝦夷との系譜的関連性を主張しているが、他方、[[源氏]]は蝦夷の系譜とは関係なく東北に乗り込んでいる。平安末期になると、蝦夷との血縁的・系譜的関係を主張する[[奥州藤原氏]]の支配が東北北端まで及ぶことになる。 |
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藤原氏3代は[[中尊寺金色堂]]でミイラになっている。「東夷之遠酋」や「俘囚之上頭」を自称する藤原氏のミイラの調査は注目された。調査の結果、このミイラには指紋には渦紋が多く頭は丸顔で歯のかみ合わせも日本人的であり、藤原氏の骨格は日本人の骨格であるとされた。また、ミイラには内臓や脳漿は全く無く、腹部は湾曲状に切られ後頭部に穴が開いていた。ただ、裂け目にネズミの歯形が付いており、[[長谷部言人]]はミイラは自然発生したと主張し藤原3代は日本人であったとした。それに対し、[[古畑種基]]はミイラの人工加工説を主張した。木棺3個とも後頭部と肛門にあたる板に穴が開けられていたが、切り口は綺麗で汚物が流出した跡は無く、また男性生殖器は切断されており、加工の跡は歴然だとした。これは極めてアイヌ的な慣行で、樺太アイヌは偉大な酋長が死ぬと近親者は遺体の脳漿と内臓を除去し、何度か塩水を付けて天日で乾かしウフイ(ミイラ)を作る。[[森嘉兵衛]]は、和人との何代かにわたる婚姻で骨格は日本人化していたが、精神や葬祭の慣行はアイヌ的なものが変わらず残っていたのではないかとしている<ref>{{Cite book |和書|title=県史シリーズ |volume=3 |author=森嘉兵衛 |publisher=山川出版社 |date=1972 |pages=38-41}}内容:岩手県の歴史。</ref>。 |
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奥州藤原氏が[[源頼朝]]率いる[[関東地方]]の[[鎌倉政権]]によって滅ぼされると、幕府は東北地方各地に東国[[武士]]を派遣し、ここに蝦夷の系譜ではなく、朝廷の系譜による鎌倉幕府(関東政権)による支配がはじめて東北北端にまで及び、大和化が成ったことになる。相前後して蝦夷、俘囚などと言った民族的諸概念は文献から姿を消し、次項に述べる「エゾ」に置き換わる。 |
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== 民族系統 == |
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東北地方の蝦夷(えみし)の民族系統については、後のアイヌとの関係を中心に、[[江戸時代]]から二種類の学説に分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を[[和人]]の一部とする蝦夷辺民説である。 |
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=== 蝦夷縄文人説 === |
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[[二重構造モデル]]では日本列島の[[縄文人]]が朝鮮半島からの渡来人との混血が進み、北九州から始まり本州全域まで及んだ[[弥生文化]]を生んだのが、[[弥生人]]・[[和人]]だが、[[縄文人]]・[[縄文文化]]は、その後も日本列島に残った。[[弥生人]]・[[和人]]との混血の度合いも、北海道を除く日本列島内では地理的に連続的だった。 |
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2020年の東京大学の都道府県遺伝子調査では、九州地方と東北地方が沖縄県に遺伝的に近く、近畿地方と四国地方が遺伝的に遠い(渡来人に近い)ことが分かった<ref>[https://ampmedia.jp/2020/10/14/u-tokyo-2/ 東大、都道府県レベルで遺伝的集団構造を解析 中国と四国は遠いなど特徴づけも | AMP アンプ - ビジネスインスピレーションメディア]</ref><ref>[https://nazology.kusuguru.co.jp/archives/71445/2 日本人の遺伝子を「47都道府県レベル」で初めて解析することに成功! 四国・近畿がもっとも”渡来人”の遺伝子に近かった (2/2) - ナゾロジー]</ref>。 |
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[[弥生人]]は[[弥生時代]]に東北地方北部へ達したが、[[古墳時代]]の[[寒冷化]]に伴い南へ退き、そこへ、[[北海道]]の[[道央]]や[[道南]]地方を中心に栄えていた[[続縄文文化]]の担い手(のちの[[アイヌ民族]])が東北地方北部を南下して[[仙台平野]]付近にまで達し<ref group="注">この頃、[[オホーツク人]]が南下し、道北・道東へ居住した。</ref>、[[西南日本]]から北上して来た[[古墳文化]]の担い手([[和人]])と接触・交流を行なったことが、考古学的に明らかとなっている。{{要出典|date=2024-11}}なお、東北地方に到来した[[続縄文文化]]の担い手は、その後再び北海道へ退いたが、東北地方の和人との接触・交流自体は続いた。 |
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==== 蝦夷アイヌ説 ==== |
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蝦夷アイヌ説では、[[続縄文文化]]の担い手が東北地方に残り蝦夷(えみし)となったと考えられている。この理論は、[[考古学]]からする[[文化圏]]の検討と、[[北東北]]にアイヌ語で説明できる地名が集中していることから、少なくとも飛鳥時代(7世紀)以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である<ref name="Uno">{{Cite book |和書 |editor=宇野俊一ほか|editor-link=宇野俊一|title=日本全史(ジャパン・クロニック) |publisher=[[講談社]] |date=1991 |page=141 |isbn=4-06-203994-X}}</ref>。 |
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蝦夷と日本の他の民族群との正確な民族関係については多くの学説が存在するが、そのうちの一つは蝦夷が[[アイヌ民族]]と関連しているとするものである。しかし、この理論は議論の的となっている。なぜなら、多くの蝦夷の部族は優れた騎馬弓兵や戦士として知られている一方で、アイヌもまた弓兵として知られているものの、彼らは馬を使用せず、戦闘スタイルは明らかに異なっていたためである。また、文化的な面でも彼らは異なっていた<ref name="Takahashi, Tomio 1982">Aston, W.G., trans. Nihongi: Chronicles of Japan from the Earliest Times to AD 697. Tokyo: Charles E.Tuttle Co., 1972 (reprint of two volume 1924 edition), VII 18. Takahashi, Tomio. ''"Hitakami.''" In Egami, Namio ed. ''Ainu to Kodai Nippon''. Tokyo: Shogakukan, 1982.</ref>。[[朝廷|中央政府]]側に通訳がついていたことから夷語が日本語と相当異なっていたことが分かり、前述の通りアイヌ語系の地名が東北北部に数多く残っていることから、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定される<ref name="Uno" />。 |
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[[縄文人]]は歴史的変遷の中で蝦夷とアイヌの両方の祖先と考えられており、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)の名前は同じ漢字で表される。すでに、「蝦夷」の名前が中世初期に津軽半島の人々を指すために使われ、北海道の縄文人が直接アイヌの祖先であったことが知られているため、この理論によれば、これは論理的な進行である。北本州の恵山文化はこの人々と関連しており、後に北海道の現代アイヌ民族を形成する上で重要な役割を果たした[[擦文文化]]に発展した。蝦夷は馬に乗り、鉄を扱う人々であった(アイヌとは異なり)。農業(キビと米)の証拠がある一方で、彼らは主に馬に乗り、狩り、漁業、交易を行っていた<ref name=":1">{{Cite book |last=Yiengpruksawan |first=Mimi Hall |url=https://books.google.com/books?id=8tTaDwAAQBAJ&dq=emishi+tungusic&pg=PA17 |title=Hiraizumi: Buddhist Art and Regional Politics in Twelfth-Century Japan |date=2020-03-31 |publisher=BRILL |isbn=978-1-68417-313-6 |pages=17 |language=en}}</ref>。 |
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最近の研究では、アイヌ語を話す人々が地元の日本語を話す人々と連携してヤマト王権の拡大に抵抗したことを示唆している<ref name="Tjeerd de Graaf">Tjeerd de Graaf "''Documentation and Revitalisation of two Endangered Languages in Eastern Asia: Nivkh and Ainu"'' 18 March 2015</ref>。[[マタギ]]は、これらのアイヌ語話者の子孫であり、彼らは地元の日本語話者に地理や彼らが狩猟した森や水の動物に関連した[[地名学|地名]]と借用語を提供したとされている<ref name="Tjeerd de Graaf" /><ref>{{Cite journal|last1=Boer|first1=Elisabeth de|last2=Yang|first2=Melinda A.|last3=Kawagoe|first3=Aileen|last4=Barnes|first4=Gina L.|date=2020|title=Japan considered from the hypothesis of farmer/language spread|journal=Evolutionary Human Sciences|language=en|volume=2|doi=10.1017/ehs.2020.7|issn=2513-843X|doi-access=free}}</ref>。 |
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縄文文化の人々の骨格特徴の研究は、先住民族の間に非均質性を示し、複数の起源と多様な民族群を示唆している。2014年の人類学的・遺伝学的研究では、「この点で、縄文時代の人々の生物学的なアイデンティティは非均質であり、それは多様な人々が存在し、それらはおそらく共通の文化、縄文文化に所属していたことを示している」と結論付けている<ref>{{Cite web|last=Schmidt, Seguchi|year=2014|title=Jōmon culture and the peopling of the Japanese archipelago|url=http://www.jjarchaeology.jp/contents/pdf/vol002/2-1_034-059.pdf | access-date=2023-06-30 |quote=These results suggest a level of inter-regional heterogeneity not expected among Jomon groups. This observation is further substantiated by the studies of Kanzawa-Kiriyama et al. (2013) and Adachi et al. (2013). Kanzawa-Kiriyama et al. (2013) analysed craniometrics and extracted aDNA from museum samples that came from the Sanganji shell mound site in Fukushima Prefecture dated to the Final Jomon Period. They tested for regional differences and found the Tokoku Jomon (northern Honshu) were more similar to Hokkaido Jomon than to geographically adjacent Kanto Jomon (central Honshu).{{pb}}Adachi et al. (2013) described the craniometrics and aDNA sequence from a Jomon individual from Nagano (Yugora cave site) dated to the middle of the initial Jomon Period (7920–7795 cal BP). This individual carried ancestry, which is widelydistributed among modern East Asians (Nohira et al. 2010; Umetsu et al. 2005) and resembled modern Northeast Asian comparison samples rather than geographical close Urawa Jomon sample.}}</ref>。 |
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二重構造モデルを提唱した[[埴原和郎]]は、「エミシはアイヌか和人か?」という議論はアイヌ異人種説を前提としており、共通の祖先をもつことが分かったためナンセンスであるとし、「中世以前に東北地方に住んでいたエミシは,アイヌと和人との分離の途上にあった集団であり,現代的な意味でのアイヌでも和人でもなく,その中間的特徴をもっていたと考えられる」とした<ref>埴原和郎 [https://www.jstage.jst.go.jp/article/geriatrics1964/30/11/30_11_923/_article/-char/ja 日本人のルーツ]</ref>。 |
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=== 蝦夷辺民説 === |
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これに対し蝦夷辺民説では、上記の[[西南日本]]から北上して来て接触・交流を行なった[[古墳文化]]の担い手([[和人]])が東北地方に住み蝦夷(えみし)となったと考える。遺伝子特徴の研究では、蝦夷は、[[アイヌ]]よりも[[和人]](特に出雲地方の古代人)に近いとの研究もある。また日本語の「[[ズーズー弁]]」(現在の[[東北方言]]の始祖)を話す和人とする説もある<ref name="小泉1998">{{Cite book |和書 |author=小泉保 |date=1998|title=縄文語の発見 |publisher=青土社 |isbn=4791756312 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-02}}</ref> 。特に[[東北方言]]と[[出雲方言]]の類似性から、[[古代出雲]]系の民族のうち[[国譲り]]後も[[ヤマト王権|大和王権]]に従わなかった勢力が蝦夷となったとする見方もある<ref>{{Cite book |和書 |author=高橋克彦 |date=2013|title=東北・蝦夷の魂 |publisher=現代書館 |isbn=9784768457009 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-02}}</ref>。最近の研究、例えばBoerらの2020年の研究では、蝦夷は主に出雲方言に密接に関連した日本語を話していたと結論付けている。さらに、蝦夷による[[稲作]]の証拠と馬の使用は、古代の出雲日本人と蝦夷との間の結びつきを強化している。この理論によれば、蝦夷は大和日本人から追い出された出雲日本人であり、彼らは天皇の統治に対して同調することを受け入れなかった<ref>{{Cite journal|last1=Boer|first1=Elisabeth de|last2=Yang|first2=Melinda A.|last3=Kawagoe|first3=Aileen|last4=Barnes|first4=Gina L.|date=2020|title=Japan considered from the hypothesis of farmer/language spread|journal=Evolutionary Human Sciences|language=en|volume=2|doi=10.1017/ehs.2020.7|issn=2513-843X|doi-access=free}}</ref>。 |
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=== 蝦夷ツングース説 === |
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出雲弁と[[ツングース諸語]]の類似<ref>{{Cite book |和書|title=古代に真実を求めて |volume=第7集 |series=古田史学論集 |date=2004 |editor=古田史学の会 |publisher=明石書店 |isbn=4750318981 |page=}}{{要ページ番号|date=2019-06-02}}</ref> などから、蝦夷はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方[[新モンゴロイド]]の[[騎馬民族]]とする説もある。[[アムール]]地域の騎馬遊牧民、特に[[ツングース諸族]]と蝦夷との間に顕著な類似性を指摘している歴史学者もいる。蝦夷の起源はツングース系住民であり、後に日本語を話す出雲系住民と同化したと提唱されている<ref name="Oishi">{{cite book |last1=直正 |first1=大石 |last2=秀人 |first2=辻 |last3=公男 |first3=熊谷 |last4=進 |first4=榎森 |last5=嘉美 |first5=守屋 |date=1998 |title=歴史のなかの東北―日本の東北・アジアの東北 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4309223254}}</ref>。 |
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蝦夷を半遊牧の[[靺鞨]]と関連付ける説がある。また、本州の蝦夷と北海道の渡島蝦夷との間には区別があった。歴史的な証拠は、本州の蝦夷と渡島蝦夷との間の頻繁な戦闘を示している。渡島蝦夷は本州の蝦夷とプロトアイヌ語話者から成っていたと主張されている。蝦夷は主にツングース起源で、一部は同化した日本語群(出雲人)であったと結論付ける説がある<ref name="Kitakamae">{{cite book |last=保男 |first=北構 |date=1993 |title=古代蝦夷の研究 |publisher=雄山閣出版 |isbn=9784639010319}}</ref>。 |
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以前アイヌ語であると考えられていた地名は、アムール地域のツングースの基層によってプロトアイヌ語に説明できるとされている。また、マタギ猟師は実際には蝦夷の子孫であり、特定の狩猟語彙([[マタギ言葉]])はアイヌ語ではなくツングース語由来であるという説がある。菊池俊彦は、北本州と北海道の先住民族が形成した擦文文化とオホーツク文化と、ロシア極東のツングースと古アジア諸族との間には、特にアムール川流域や満州平原で多くの接触があったと主張している<ref name=":1" />。 |
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しかし、蝦夷ツングース説は空想の域を出ないという批判もある<ref name="azumakagami">『[[吾妻鏡]]』[[貞応]]3年([[1224年]])2月29日条にある難破した[[高麗]]船の荷物の調査記録では、高麗の弓について「(本朝の弓と比べて)短く、夷弓(蝦夷の弓)に似ていて、皮製の弦である」と記されており、[[長弓]]を用いる和人に対し、[[短弓]]を使用していた。このような蝦夷の武器([[短弓]]、毒矢)や戦術(騎射、軽装甲)はモンゴル系民族と類似している。なおアイヌも短弓と毒矢を使用する。しかし、北方系の[[騎馬民族]]には[[刺青]]の風習はなく、[[日本在来馬]]の起源も[[蒙古馬]]から[[対州馬]]を経て、拡散されたものであり、この説は空想の域を出ない。北米の[[ネイティブ・アメリカン]]の例でもある様に、渡来した集団(この場合[[白人]])から[[馬]]を手に入れ、[[文化]]に組みこまれたものと思われる。</ref>。 |
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== えぞ == |
== えぞ == |
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[[中世]]以後の蝦夷は、アイヌを指すとの意見が主流である |
[[中世]]以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとの意見が主流である{{efn2|ただし中世の蝦夷に含まれる[[渡党]]という集団は、文化的には近世アイヌに酷似しているが、その実体については諸説あり、[[青苗文化]]人の後裔とも、和人が土着化したものとの説もある。渡党の出自が何であれ、かれらは道南で和人の支配体制に取り込まれ、次第に和人化していったとも言われる。}}。[[鎌倉時代]]後期([[13世紀]]から[[14世紀]])頃には、現在アイヌと呼ばれる人々と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、[[蝦夷地]]などと呼ばれ、欧米でも「''Yezo''」 の名で呼ばれた。「エゾ」の語源についてはアイヌ語で人を意味する「エンチュ (enchu, enchiu)」が[[東北方言]]式の発音により「Ezo」となったとする説がある<ref name="小泉1998"/>。 |
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アイヌ文化は、前代の[[擦文時代|擦文文化]]を継承しつつ[[オホーツク文化]]と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い |
アイヌ文化は、前代の[[擦文時代|擦文文化]]を継承しつつ[[オホーツク文化]](担い手はシベリア大陸系民族の一つである[[ニヴフ]]といわれる<ref>{{Citenews |url=http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html |title=オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー |newspaper=[[北海道新聞]] |date=2012年6月18日}}</ref>)と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い鎌倉時代後半(13世紀)と見られており、また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州や大陸など道外からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に和人との交渉の増大があると考えられている。具体的には[[奥州藤原氏]]政権の盛衰との関係が指摘されている。 |
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[[14世紀]]には、「'''渡党'''」 |
鎌倉時代後期([[14世紀]])には、「'''[[渡党]]'''」{{efn2|北海道[[渡島半島]]の住民で、津軽海峡を往来する交易集団。}}、「'''日の本'''」{{efn2|[[北海道 (地方公共団体)|北海道]][[太平洋]]側(近世の東蝦夷)の住民で、[[千島]]方面の産物をもたらした交易集団と推定される。}}、「'''唐子'''」{{efn2|北海道[[日本海]]側(近世の西蝦夷)の住民で、[[樺太]](唐太)とつながり、中国の産品をもたらした交易集団と推定される。}}に分かれ、「日の本」と「唐子」は農耕をせず言葉も通じず、「渡党」は多毛だが姿は似ていて和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『[[諏方大明神画詞|諏訪大明神絵詞]]』)が残っている<ref>福崎孝雄[https://chisan.or.jp/wp-content/uploads/2019/11/user-pdfD-gendaimikkyo-1112pdf-08.pdf 「エミシ」とは何か](現代密教第11・12合併号)</ref>。また、[[鎌倉時代]]には[[陸奥国]]の豪族である[[安東氏]]が、[[鎌倉幕府|幕府]]の[[執権]][[北条氏]]より[[蝦夷管領]](または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。 |
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[[15世紀]]から[[16世紀]]にかけて、 |
[[室町時代]]([[15世紀]]から[[16世紀]]にかけて)、和人とアイヌの抗争の時代を生き抜き、和人勢力を糾合して渡島半島南部の領主に成長していった[[蠣崎氏]]は[[豊臣秀吉]]・[[徳川家康]]から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、[[江戸時代]]になると蠣崎氏は松前氏と改名して[[大名]]に列した。 |
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{{main|アイヌ}} |
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== 脚注 == |
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詳細は[[アイヌ]]を参照のこと。 |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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* [[アイヌ]] |
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* [[アテルイ]] |
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* [[アラハバキ]] (荒覇吐) |
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* [[先住民族]] |
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* [[蝦夷征討]] |
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* [[移配]] |
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* [[熊襲]] |
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* [[征夷大将軍]] |
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* [[蘇我蝦夷]] |
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* [[道南十二館]] |
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* [[隼人]] |
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* [[日高見国]] |
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* [[渡党]] |
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* [[もののけ姫]](アニメ映画) |
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* [[別所]] |
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== 参考文献 == |
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<!-- 「参考文献」節には、本記事の出典として実際に使われている文献のみをご記入下さい。--> |
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* 高橋崇『蝦夷――古代東北人の歴史』、[[中央公論新社]][中公新書]、1986年。ISBN 4121008049 |
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{{参照方法|date=2019年6月3日 (月) 11:34 (UTC)|section=1}} |
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* {{Cite book|和書|author=海保嶺夫 |title=エゾの歴史 : 北の人びとと「日本」 |publisher=講談社 |year=1996 |series=講談社選書メチエ |issue=69 |NCID=BN13884071 |ISBN=4062580691 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002480455-00 |ref=harv}} |
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* {{Cite journal|和書|author=河内春人 |title=唐から見たエミシ : 中国史料の分析を通して |journal=史学雑誌 |ISSN=0018-2478 |publisher=史学会 |year=2004 |volume=113 |issue=1 |pages=43-61 |naid=110002365962 |doi=10.24471/shigaku.113.1_43 |url=https://doi.org/10.24471/shigaku.113.1_43 |ref=harv}} |
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*{{Cite book |和書 |author=金田一京助|authorlink=金田一京助 |editor=工藤雅樹|title=古代蝦夷とアイヌ |series=平凡社ライブラリー |publisher=平凡社 |date=2004 |isbn=4582-76503-3 |ref={{SfnRef|金田一|2004}} }}<!--初出は『國學院雑誌』46巻2号、1940年。 |
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* 金田一京助「本州アイヌの歴史的展開」、工藤編『古代蝦夷とアイヌ』所収。初出は『日本民俗学体系』第2巻、平凡社、1958年 |
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* 金田一京助「蝦夷名義考」、工藤編『古代蝦夷とアイヌ』所収。初出は『國學院雑誌』61巻12号、1960年。--> |
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* {{Cite book |和書 |author=工藤雅樹|authorlink=工藤雅樹|title=蝦夷の古代史 |series=平凡社新書 |publisher=平凡社 |isbn=4-582-85071-5 |date=2001-01 |ref={{SfnRef|工藤|2001}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=熊谷公男 |chapter=阿倍比羅夫北征記事に関する基礎的考察 |editor=高橋富雄|title=東北古代史の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1986 |isbn=4642022074 |ref={{SfnRef|熊谷|1986}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=熊田亮介|chapter=蝦夷と蝦狄 古代の北方問題についての覚書 |editor=高橋富雄|title=東北古代史の研究 |publisher=吉川弘文館 |date=1986 |isbn=4642022074 |ref={{SfnRef|熊田|1986}} }} |
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* 児島恭子『エミシ・エゾからアイヌへ』[[吉川弘文館]][歴史文化ライブラリー]273、2009年。ISBN 9784642056731 |
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* {{Cite book |和書 |author=高橋崇|title=蝦夷――古代東北人の歴史 |publisher=中央公論社 |series=中公新書 |date=1986-05 |isbn=4121008049 |ncid=BN00181986 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001803705-00 |ref={{SfnRef|高橋|1986}} }} |
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* 高橋崇『蝦夷の末裔――前九年・後三年の役の実像』、中央公論新社[中公新書]、1991年。ISBN 4121010418 |
* 高橋崇『蝦夷の末裔――前九年・後三年の役の実像』、中央公論新社[中公新書]、1991年。ISBN 4121010418 |
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* {{Cite book |和書 |author=高橋富雄|authorlink=高橋富雄|title=県史シリーズ 4 : 宮城県の歴史|publisher=山川出版社 |date=1969 |ref={{SfnRef|高橋|1969}} }} |
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* {{Cite book |和書 |author=高橋富雄|title=古代蝦夷 |publisher=学生社 |date=1974 |ref={{SfnRef|高橋|1974}} }} |
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* [[新野直吉]]『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-06627-6 |
* [[新野直吉]]『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-06627-6 |
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* {{cite book |url=https://archive.org/details/acrossamericaan00pumpgoog |title=Across America and Asia |author=Raphael Pumpelly |date=1870 |publisher=Leypoldt & Holt}} - アメリカ人冒険家による1861-1863年の蝦夷調査記録収録 |
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* 川内春人「唐から見たエミシ 中国史料の分析を通して」『[[史学雑誌]]』113編1号、pp.43-61、2004年。(ISSN 00182478) |
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* 海保嶺夫『エゾの歴史 北の人びとと「日本」」』、[[講談社]][講談社選書メチエ]、 1996年。ISBN 4062580691 |
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== 関連項目 == |
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* [[アラハバキ]](荒覇吐) |
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* [[雷神山古墳]]、[[遠見塚古墳]]、[[末期古墳]]、[[つぼのいしぶみ]] |
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* [[応神天皇]]、[[仁徳天皇]]、[[光仁天皇]]、[[桓武天皇]] |
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* [[鎮守府 (古代)]]、[[国府]]、[[郡山遺跡]]、[[紫波城]] |
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* [[蝦夷征討]]、[[別所 (地名解釈)|別所]] |
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* [[熊襲]]、[[隼人]] |
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* [[道南十二館]] |
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* [[出羽柵]]、[[鼠ヶ関]] |
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* [[東北熊襲発言]] |
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* [[貞観地震]] |
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* [[もののけ姫]] - 物語の主人公であるアシタカが蝦夷出身という設定。蝦夷特有の武器である[[蕨手刀]]を使用している。 |
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* [[砂沢遺跡]] - [[青森県]][[弘前市]]にある弥生時代の遺跡。発見された水田の遺構は、紀元前5~4世紀における東北地方北部への稲作への伝播を示すが、縄文文化を特徴づける[[土偶]]も発見されているために、この遺跡を、弥生時代の遺跡の一つとみなす説と、弥生時代の遺跡に含めない説がある。 |
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* [[荒蝦夷]] - 仙台市の出版社 |
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* [[坂上田村麻呂夷人説]] |
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* [[日本の古代東北経営]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://www.donan.info/modules/pukiwiki/26.html 道南ミュージアム - 古代国家と蝦夷-文書庫] |
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* [https://www.japanserve.com/nihonshi/n-reki-050-ezochi.html 蝦夷地ってなんのこと? ] - 日本史用語集 |
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*[http://www7.plala.or.jp/t-aterui/ 蝦夷 陸奥 歌枕] |
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* {{Wayback|url=http://www.donan.info/modules/pukiwiki/26.html |title=道南ミュージアム - 古代国家と蝦夷-文書庫|date=20041215185920}} {{リンク切れ|date=2017年9月}} |
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* {{Wayback|url=http://www7.plala.or.jp/t-aterui/ |title=蝦夷 陸奥 歌枕|date=20020611194632}} {{リンク切れ|date=2017年9月}} |
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*[https://1000ya.isis.ne.jp/1413.html 高橋崇「蝦夷」古代東北人の歴史]松岡正剛の千夜千冊 |
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2024年12月3日 (火) 17:48時点における最新版
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の東北地方)や、北方(現在の北海道、千島列島、樺太)などに住む人々の呼称である[1]。
大きく、「エミシ(蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。
大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷(エミシ)は、俘囚と呼ばれ、他地域へ移住させられることがあった。
語源と用字
[編集]蝦夷は古くは愛瀰詩と書き(神武東征紀)、次に毛人と表され、ともに「えみし」と読んだ。後に「えびす」とも呼ばれ、「えみし」からの転訛と言われる[2]。「えぞ」が使われ始めたのは11世紀か12世紀である[3]。
えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征紀であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条である。そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文(もどろ)けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入れ墨(文身)をしていたことが分かっている。
古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言うが、我が軍には手向かいもしない)[4] と歌われたこと、蘇我蝦夷、小野毛人、佐伯今毛人、鴨蝦夷のように大和朝廷側の貴族の名に使われたこと、平安時代後期には権威付けのために蝦夷との関連性を主張する豪族(安倍氏や清原氏)が登場していることから、「えみし」には強さや勇敢さという語感があったと推測されている[5]。そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)勇者」といったものではないかという推測もある[6]。
他方でアイヌ語に語源があると考えた金田一京助は、アイヌ語の雅語に人を「エンチュ (enchu, enchiu)」というのが、日本語で「えみし」になったか、あるいはアイヌ語の古い形が「えみし」であったと説いた[7]。
文献的に最古の例は毛人で、5世紀の倭王武から宋への上表文に「東に毛人を征すること五十五国。西に衆夷を服せしむこと六十六国」とある。蝦夷の字をあてたのは、斉明天皇5年(659年)の遣唐使派遣の頃ではないかと言われる[8]。後代に人名に使う場合、ほとんど毛人の字を使った。蘇我蝦夷は『日本書紀』では蝦夷だが、『上宮聖徳法王帝説』では蘇我豊浦毛人と書かれている。毛人の毛が何を指しているかについても諸説あるが、一つは体毛が多いことをいったのだとして、後のアイヌとの関連性をみる説である。また、中国の地理書『山海経』に出てくる毛民国を意識して、中華の辺境を表すように字を選んだという説もある[9][10]。
人名に使った場合であっても、佐伯今毛人が勤務評定で今蝦夷(正確には夷の字に虫偏がつく蛦)と書かれた例がある[11]。蝦夷の蝦の字については、あごひげが長いのをエビに見たてて付けたのだとする説がある[12]。夷の字を分解すると「弓人」、上代日本語で(ユミシ)になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある[13]。
喜田貞吉は、意味ではなく音「かい」が蝦夷の自称民族名だった[14]のではないかと説いた。アイヌ人はモンゴル人など中国東北部の民族からは「骨嵬(クギ、クイ)」、ロシア人からは「クリル」と呼ばれた。千島列島のロシア語名はクリル諸島である。斉明天皇5年の遣使の際に、聞き取った唐人が蝦夷の字をあて、それを日本が踏襲したという[注 1]。平安初期の「弘仁私記」の序文には、蝦夷に「カイ」とルビをふっている。平安末期の「伊呂波字類抄」にも、カイの条に「蝦夷」とある[16]。秋田藩の藩士であった人見蕉雨によって1798年(寛政10年)頃に著された黒甜瑣語には、蝦夷(夷は大と弓の上下の合字になっている)のルビを「かい」としている。そこでは「ダケカンバと思える植物をタッチラと唱える」という記述からも、これがアイヌの事を指している事がわかる[17]。明治政府は開拓使の設置に伴い蝦夷地の名称の変更を検討。1869年(明治2年)蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書を提出し、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案を提示した[18]。明治政府は「北加伊道」を基本とし「加伊」を「海」に改めた「北海道」とすることを決定[18]。明治2年8月15日太政官布告により「蝦夷地自今北海道ト被稱 十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出候事」と周知された[18]。松浦は建白書において「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明している[18]。青森県の伝承を集めた中道等の『奥隅奇譚』では「蝦夷崎」のルビを「かいざき」としている[19]。
金田一京助は喜田らの説を批判し、「えび」の古い日本語「えみ」が「えみし」に通じるとして付けたとする説を唱えた[20][注 2]。
諸説ある中で唯一定まっているのは、「夷」が東の異民族(東夷)を指す字で、中華思想を日本中心にあてはめたものだということである。「夷」単独なら『古事記』などにも普通にあるが、その場合古訓で「ひな」と読む。多くの学者は用字の変化を異族への蔑視の表れとし、蘇我毛人を蘇我蝦夷としたのも『日本書紀』編者が彼を卑しめたものとする[22]。だが、佐伯今毛人や小野毛人の例を引いてこれに反対する意見もある[23]。
用字については、『日本書紀』では蝦夷の夷の字に虫偏をつけた箇所も散見される[24]。蝦夷の字の使用とほぼ同じ頃から、北の異民族を現す「狄」の字も使われた。「蝦狄」と書いて「えみし」と読んだらしい。毛人と結合して「毛狄」と書かれた例もある[25]。一字で「夷」と「狄」を使い分けることもよくあった。これは管轄する国(令制国)による人工的区分で、越後国(後に出羽国)所轄の日本海側と北海道のえみしを蝦狄・狄、陸奥国所轄の太平洋側のえみしを蝦夷・夷としたのである[26]。
蝦夷(えみし)
[編集]古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した[1]。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団や敵対した集団が記録に残っている。しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。
朝廷側の人間とは異なる「夷語(いご)」を話しているため、訳語(通訳)を必要とした[27]。
「えみし」は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一的なアイデンティティーは無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。
歴史
[編集]弥生時代
[編集]概ね関東地方から東北地方、北海道にかけて、広く日本列島の東方に住んでいたと考えられている。
東北地方北部へも水田・稲作が一時的に伝わったが放棄され、狩猟・採集文化が伝統として続いた。
古墳時代
[編集]5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝に、478年(順帝昇明2年)倭王武が宋 (南朝)に届けた上表文として以下の記述がある。
「 | 昔より (自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國) |
」 |
これにより既にこの時代には蝦夷の存在とその支配が進んでいた様子を確認することができる。
蝦夷は、その優れた弓術(和人の伝統の長弓に比べると短弓を用いた[28][29][30][31])に、馬(古墳時代に日本へもたらされた)を和人から取り入れ組合せ、飛鳥時代・奈良時代には騎射の技を磨き狩猟に用いた[32]。また同時に、騎乗武器(蕨手刀を和人から取り入れた)も改良・発達させた。これらの強力な戦闘術は奈良時代・平安時代に和人へ取り入られた。
古墳の分布
[編集]古墳の分布は和人文化の範囲を示し、蝦夷との境界が北限となる。これまでの発掘調査により、古墳時代前期における最古級の前方後円墳の北限は、現在の新潟県・越後平野中部、福島県・会津盆地、宮城県・仙台平野であったと考えられている。同時代の終末期までに北限は、日本海側沿岸ではほとんど北進せずむしろ中越地方に後退するが、日本海側内陸では山形県・村山地方中部まで、太平洋側では岩手県・北上盆地南部まで北進した。
神武東征伝説
[編集]蝦夷「えみし」についての形式上最も古い言及は『日本書紀』神武東征紀中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩として登場する。
- えみしを ひたりももなひと ひとはいへども たむかひもせず
- (訳:えみしを、1人で100人に当たる強い兵だと、人はいうけれど、抵抗もせず負けてしまった)
- 「愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒」[注 3]
しかし、この来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせず、またここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため、古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。
『日本書紀』景行天皇条には、武内宿禰(実在不明)が北陸及び東方諸国を視察した際の記述として「東の夷(あずまえびす)の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という」とあり、荒々しく勇猛な者、情を理解せず教養や文化に欠ける者としている。40年条には、天皇が日本武尊に東夷の征討を命じる際、蝦夷の特徴として「冬は穴居、夏は樹上家屋の生活」「山に登るときは飛ぶ鳥のように速く、草原を走るときは逃げる獣のように速い」「束ねた髪の中に矢を隠し、刀は衣の中に隠し持つ」「攻撃すると草原に隠れてしまい、追いかけると山中に逃げてしまう」と記述がある。
飛鳥時代
[編集]飛鳥時代(7世紀)頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と、北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。平時には和人と交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物と引き換えに、米・布・鉄器・工芸品を得ていた。大和政権が支配領域を北に拡大するにつれて、しばしば防衛のために戦い、反乱を起こし、また和人の築いた城柵を襲撃したため、日本書紀には襲撃や討伐の記録が記録されている。大和に帰順した蝦夷の集団は俘囚と呼ばれ、関東地方などへ移住させられたり、西日本で兵隊集団を勤めるなどした。
蝦夷と接する地域(陸奥国・出羽国・越後国)では、国内の行政・司法・軍事を管掌する国司の守と介が饗給(慰撫)、征討、斥候などの外交・軍事も担当していた。特に陸奥国は面積が広く軍事的衝突が頻繁におきるため、陸奥国司には大宝律令が定める特例が多く、自らの判断で征討に出ることも許されていた。なお同じ辺境でも西国の国司は、征討のかわりに防守、饗給ではなく蕃客(外国使節の接待)と帰化が任務であった(鎮西府)。
当初は大和側では秋田城などの城柵で儀礼的な会食(饗応)や物資の提供を行い服属を促していたが、蝦夷には中央政権が無いため恭順する集団と支配に抵抗し襲撃を行う集団が混在し、長期間にわたり交易と征伐が並行して行われる事態となった。
『日本書紀』斉明天皇元年(655年)7月11日条には、難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応したとある。そこでは「北」と「東」にそれぞれ「北越」「東陸奥」と注があり、北は越の方面、東は陸奥の方面と解せる。このうち越国は陸奥国の西に位置するが、越(高志)は都からみて北に位置するので北蝦夷としている[44]。これらの語は当時の蝦夷が二大集団に分かれていたという意ではなく、応対する国(令制国)の管轄によって朝廷が用いた分類であると考えられている。この区別は後に出羽国と陸奥国の管轄になって平安時代まで踏襲されたが、字は北の異民族を指す「狄」に変わり「蝦狄」とも書かれるようになった[45]。
『日本書紀』斉明天皇4年(658年)4月には阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討伐している。また日付は不明であるが同年には渡島に渡り粛慎の討伐とヒグマの献上を受けた記録がある。この渡島(渡嶋)とは外が浜(陸奥湾沿岸の一部)から海を渡った先にある島(北海道)と推定される。粛慎と呼ばれる集団の詳細は不明であり本州以外に住んでいる蝦夷の別称という説もあるが、後には蝦夷と粛慎が別の集団であるかのような記述も登場する。
『日本書紀』斉明天皇5年(659年)には朝廷に従った蝦夷が遣唐使に同行し唐の高宗に紹介されている。ここで引用された『伊吉連博徳書』によると、熟蝦夷(にきえみし、にぎえみし。おとなしい蝦夷)が最も近く、麁蝦夷(あらえみし。荒々しい蝦夷)がそれより遠く、最遠方に都加留(つかる、つがる。津軽)がおり、連れてきたのは毎年入貢している熟蝦夷であること、蝦夷は肉食で五穀を食べず、家を建てずに樹の下に住んでいるなどを説明したところ、高宗は珍しく思ったと感想を述べたとしている。しかしこのような生活は他の史料にある記述や現在の考古学的知見とも矛盾し、蝦夷を野蛮人と誇張しこれを従える大和の力を誇示するための創作と思われる。信憑性に欠けるこの説明から推測されるのは、稲作を行わず狩猟を中心とした食生活、北に行くほど恭順しない勢力が強く、都加留が固有名をあげられるほどの有力集団として存在したことである。続けて引用された『難波吉士男人書』では遣唐使の蝦夷の頭上に瓢を乗せ、40歩離れた位置から別の蝦夷が射るという実演をしたところ、百発百中で瓢を射貫いたという記述があり、弓術に優れていたことがうかがえる。また齶田(あきた、あぎた。秋田)蝦夷の長であった恩荷は阿倍比羅夫に降伏した際、弓矢は武器ではなく狩猟の道具だと証言している。
『日本書紀』斉明天皇6年3月には、阿倍臣が粛慎を討伐する際、陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて河を越え渡島に渡ったが、到着後に渡島に住む蝦夷から粛慎の水軍が多数襲来するので、河を渡って朝廷に仕えたいと申し出る記述があり、この時代には熟蝦夷の一部が朝廷軍として働いていたと見られている。また13世紀半ばから14世紀初頭にかけて、モンゴル帝国は樺太のアイヌを攻撃しているが関連は不明である。
蝦夷は、産馬、産金の地である陸奥で経済力および戦闘力を付けていったのに対し、朝廷は産出物に依存する形となるなど、次第にその王権外の存在が問題視され、完全に大和化する政策に次第に舵が切られていった(蝦夷征討)。
奈良時代
[編集]『扶桑略記』養老2年(718年)8月14日、出羽と渡嶋の蝦夷が78人が馬1000頭を献納したので位と録を授けた記録がある[46]。
光仁天皇以降、蝦夷征討政策が本格化した。蝦夷も組織的に朝廷軍と戦うようになっていった。
宝亀11年(780年)には多賀城を一時陥落させた宝亀の乱の伊治呰麻呂、延暦8年(789年)に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わる。
延暦6年(787年)の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述[47] があり、不正な交易が行われていたことがうかがえる。
平安時代以降
[編集]延暦20年(801年)には征夷大将軍坂上田村麻呂が遠征し勝利した。延暦21年(802年)に胆沢城を築き、その周辺の蝦夷との戦いは記録に残っている中でも最大である。延暦22年(803年)には志波城を築城し、蝦夷征討の目的がほぼ達成されたと見なされた。
その後、朝廷は蝦夷に対する積極的な征服政策を転じ、民衆の負担を減らすことととし、朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止する。延暦24年(805年)、藤原緒嗣から蝦夷征討と平安京の造営の一時中止を奏上され、桓武天皇は蝦夷への遠征を中止した。また軍団を廃止し健児制へと移行したが、陸奥・出羽のみ蝦夷対策として軍団が維持された。
その後は、現地の朝廷官僚や、大和に帰順した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったものと思われる。
その後、前九年の役、後三年の役などが勃発し、平安後期の東北北部は戦乱の時代であった。当事者のうち安倍氏や清原氏は俘囚の長を自称し蝦夷との系譜的関連性を主張しているが、他方、源氏は蝦夷の系譜とは関係なく東北に乗り込んでいる。平安末期になると、蝦夷との血縁的・系譜的関係を主張する奥州藤原氏の支配が東北北端まで及ぶことになる。
藤原氏3代は中尊寺金色堂でミイラになっている。「東夷之遠酋」や「俘囚之上頭」を自称する藤原氏のミイラの調査は注目された。調査の結果、このミイラには指紋には渦紋が多く頭は丸顔で歯のかみ合わせも日本人的であり、藤原氏の骨格は日本人の骨格であるとされた。また、ミイラには内臓や脳漿は全く無く、腹部は湾曲状に切られ後頭部に穴が開いていた。ただ、裂け目にネズミの歯形が付いており、長谷部言人はミイラは自然発生したと主張し藤原3代は日本人であったとした。それに対し、古畑種基はミイラの人工加工説を主張した。木棺3個とも後頭部と肛門にあたる板に穴が開けられていたが、切り口は綺麗で汚物が流出した跡は無く、また男性生殖器は切断されており、加工の跡は歴然だとした。これは極めてアイヌ的な慣行で、樺太アイヌは偉大な酋長が死ぬと近親者は遺体の脳漿と内臓を除去し、何度か塩水を付けて天日で乾かしウフイ(ミイラ)を作る。森嘉兵衛は、和人との何代かにわたる婚姻で骨格は日本人化していたが、精神や葬祭の慣行はアイヌ的なものが変わらず残っていたのではないかとしている[48]。
奥州藤原氏が源頼朝率いる関東地方の鎌倉政権によって滅ぼされると、幕府は東北地方各地に東国武士を派遣し、ここに蝦夷の系譜ではなく、朝廷の系譜による鎌倉幕府(関東政権)による支配がはじめて東北北端にまで及び、大和化が成ったことになる。相前後して蝦夷、俘囚などと言った民族的諸概念は文献から姿を消し、次項に述べる「エゾ」に置き換わる。
民族系統
[編集]東北地方の蝦夷(えみし)の民族系統については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から二種類の学説に分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を和人の一部とする蝦夷辺民説である。
蝦夷縄文人説
[編集]二重構造モデルでは日本列島の縄文人が朝鮮半島からの渡来人との混血が進み、北九州から始まり本州全域まで及んだ弥生文化を生んだのが、弥生人・和人だが、縄文人・縄文文化は、その後も日本列島に残った。弥生人・和人との混血の度合いも、北海道を除く日本列島内では地理的に連続的だった。
2020年の東京大学の都道府県遺伝子調査では、九州地方と東北地方が沖縄県に遺伝的に近く、近畿地方と四国地方が遺伝的に遠い(渡来人に近い)ことが分かった[49][50]。
弥生人は弥生時代に東北地方北部へ達したが、古墳時代の寒冷化に伴い南へ退き、そこへ、北海道の道央や道南地方を中心に栄えていた続縄文文化の担い手(のちのアイヌ民族)が東北地方北部を南下して仙台平野付近にまで達し[注 4]、西南日本から北上して来た古墳文化の担い手(和人)と接触・交流を行なったことが、考古学的に明らかとなっている。[要出典]なお、東北地方に到来した続縄文文化の担い手は、その後再び北海道へ退いたが、東北地方の和人との接触・交流自体は続いた。
蝦夷アイヌ説
[編集]蝦夷アイヌ説では、続縄文文化の担い手が東北地方に残り蝦夷(えみし)となったと考えられている。この理論は、考古学からする文化圏の検討と、北東北にアイヌ語で説明できる地名が集中していることから、少なくとも飛鳥時代(7世紀)以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である[51]。
蝦夷と日本の他の民族群との正確な民族関係については多くの学説が存在するが、そのうちの一つは蝦夷がアイヌ民族と関連しているとするものである。しかし、この理論は議論の的となっている。なぜなら、多くの蝦夷の部族は優れた騎馬弓兵や戦士として知られている一方で、アイヌもまた弓兵として知られているものの、彼らは馬を使用せず、戦闘スタイルは明らかに異なっていたためである。また、文化的な面でも彼らは異なっていた[52]。中央政府側に通訳がついていたことから夷語が日本語と相当異なっていたことが分かり、前述の通りアイヌ語系の地名が東北北部に数多く残っていることから、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定される[51]。
縄文人は歴史的変遷の中で蝦夷とアイヌの両方の祖先と考えられており、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)の名前は同じ漢字で表される。すでに、「蝦夷」の名前が中世初期に津軽半島の人々を指すために使われ、北海道の縄文人が直接アイヌの祖先であったことが知られているため、この理論によれば、これは論理的な進行である。北本州の恵山文化はこの人々と関連しており、後に北海道の現代アイヌ民族を形成する上で重要な役割を果たした擦文文化に発展した。蝦夷は馬に乗り、鉄を扱う人々であった(アイヌとは異なり)。農業(キビと米)の証拠がある一方で、彼らは主に馬に乗り、狩り、漁業、交易を行っていた[53]。
最近の研究では、アイヌ語を話す人々が地元の日本語を話す人々と連携してヤマト王権の拡大に抵抗したことを示唆している[54]。マタギは、これらのアイヌ語話者の子孫であり、彼らは地元の日本語話者に地理や彼らが狩猟した森や水の動物に関連した地名と借用語を提供したとされている[54][55]。
縄文文化の人々の骨格特徴の研究は、先住民族の間に非均質性を示し、複数の起源と多様な民族群を示唆している。2014年の人類学的・遺伝学的研究では、「この点で、縄文時代の人々の生物学的なアイデンティティは非均質であり、それは多様な人々が存在し、それらはおそらく共通の文化、縄文文化に所属していたことを示している」と結論付けている[56]。
二重構造モデルを提唱した埴原和郎は、「エミシはアイヌか和人か?」という議論はアイヌ異人種説を前提としており、共通の祖先をもつことが分かったためナンセンスであるとし、「中世以前に東北地方に住んでいたエミシは,アイヌと和人との分離の途上にあった集団であり,現代的な意味でのアイヌでも和人でもなく,その中間的特徴をもっていたと考えられる」とした[57]。
蝦夷辺民説
[編集]これに対し蝦夷辺民説では、上記の西南日本から北上して来て接触・交流を行なった古墳文化の担い手(和人)が東北地方に住み蝦夷(えみし)となったと考える。遺伝子特徴の研究では、蝦夷は、アイヌよりも和人(特に出雲地方の古代人)に近いとの研究もある。また日本語の「ズーズー弁」(現在の東北方言の始祖)を話す和人とする説もある[58] 。特に東北方言と出雲方言の類似性から、古代出雲系の民族のうち国譲り後も大和王権に従わなかった勢力が蝦夷となったとする見方もある[59]。最近の研究、例えばBoerらの2020年の研究では、蝦夷は主に出雲方言に密接に関連した日本語を話していたと結論付けている。さらに、蝦夷による稲作の証拠と馬の使用は、古代の出雲日本人と蝦夷との間の結びつきを強化している。この理論によれば、蝦夷は大和日本人から追い出された出雲日本人であり、彼らは天皇の統治に対して同調することを受け入れなかった[60]。
蝦夷ツングース説
[編集]出雲弁とツングース諸語の類似[61] などから、蝦夷はもともと日本にいなかった馬を引き連れて大陸から来た北方新モンゴロイドの騎馬民族とする説もある。アムール地域の騎馬遊牧民、特にツングース諸族と蝦夷との間に顕著な類似性を指摘している歴史学者もいる。蝦夷の起源はツングース系住民であり、後に日本語を話す出雲系住民と同化したと提唱されている[62]。 蝦夷を半遊牧の靺鞨と関連付ける説がある。また、本州の蝦夷と北海道の渡島蝦夷との間には区別があった。歴史的な証拠は、本州の蝦夷と渡島蝦夷との間の頻繁な戦闘を示している。渡島蝦夷は本州の蝦夷とプロトアイヌ語話者から成っていたと主張されている。蝦夷は主にツングース起源で、一部は同化した日本語群(出雲人)であったと結論付ける説がある[63]。 以前アイヌ語であると考えられていた地名は、アムール地域のツングースの基層によってプロトアイヌ語に説明できるとされている。また、マタギ猟師は実際には蝦夷の子孫であり、特定の狩猟語彙(マタギ言葉)はアイヌ語ではなくツングース語由来であるという説がある。菊池俊彦は、北本州と北海道の先住民族が形成した擦文文化とオホーツク文化と、ロシア極東のツングースと古アジア諸族との間には、特にアムール川流域や満州平原で多くの接触があったと主張している[53]。 しかし、蝦夷ツングース説は空想の域を出ないという批判もある[28]。
えぞ
[編集]中世以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとの意見が主流である[注 5]。鎌倉時代後期(13世紀から14世紀)頃には、現在アイヌと呼ばれる人々と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。アイヌの大部分が居住していた北海道は蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。「エゾ」の語源についてはアイヌ語で人を意味する「エンチュ (enchu, enchiu)」が東北方言式の発音により「Ezo」となったとする説がある[58]。
アイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化(担い手はシベリア大陸系民族の一つであるニヴフといわれる[64])と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い鎌倉時代後半(13世紀)と見られており、また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州や大陸など道外からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に和人との交渉の増大があると考えられている。具体的には奥州藤原氏政権の盛衰との関係が指摘されている。
鎌倉時代後期(14世紀)には、「渡党」[注 6]、「日の本」[注 7]、「唐子」[注 8]に分かれ、「日の本」と「唐子」は農耕をせず言葉も通じず、「渡党」は多毛だが姿は似ていて和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている[65]。また、鎌倉時代には陸奥国の豪族である安東氏が、幕府の執権北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。
室町時代(15世紀から16世紀にかけて)、和人とアイヌの抗争の時代を生き抜き、和人勢力を糾合して渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列した。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 高橋崇は蝦夷の自称とは言わないが、中国側が呼んだものとしてこの説に傾く[15]。
- ^ 工藤雅樹もこれを支持する[21]。
- ^ 下線部「「毗」は田へんに「比」の一文字、「儾」は「亻」(にんべん)に「囊(嚢)」の一文字。
- ^ この頃、オホーツク人が南下し、道北・道東へ居住した。
- ^ ただし中世の蝦夷に含まれる渡党という集団は、文化的には近世アイヌに酷似しているが、その実体については諸説あり、青苗文化人の後裔とも、和人が土着化したものとの説もある。渡党の出自が何であれ、かれらは道南で和人の支配体制に取り込まれ、次第に和人化していったとも言われる。
- ^ 北海道渡島半島の住民で、津軽海峡を往来する交易集団。
- ^ 北海道太平洋側(近世の東蝦夷)の住民で、千島方面の産物をもたらした交易集団と推定される。
- ^ 北海道日本海側(近世の西蝦夷)の住民で、樺太(唐太)とつながり、中国の産品をもたらした交易集団と推定される。
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- 金田一京助 著、工藤雅樹 編『古代蝦夷とアイヌ』平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2004年。ISBN 4582-76503-3。
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- 熊谷公男 著「阿倍比羅夫北征記事に関する基礎的考察」、高橋富雄 編『東北古代史の研究』吉川弘文館、1986年。ISBN 4642022074。
- 熊田亮介 著「蝦夷と蝦狄 古代の北方問題についての覚書」、高橋富雄 編『東北古代史の研究』吉川弘文館、1986年。ISBN 4642022074。
- 児島恭子『エミシ・エゾからアイヌへ』吉川弘文館[歴史文化ライブラリー]273、2009年。ISBN 9784642056731
- 高橋崇『蝦夷――古代東北人の歴史』中央公論社〈中公新書〉、1986年5月。ISBN 4121008049。 NCID BN00181986 。
- 高橋崇『蝦夷の末裔――前九年・後三年の役の実像』、中央公論新社[中公新書]、1991年。ISBN 4121010418
- 高橋富雄『県史シリーズ 4 : 宮城県の歴史』山川出版社、1969年。
- 高橋富雄『古代蝦夷』学生社、1974年。
- 新野直吉『古代東北の兵乱』、吉川弘文館、1989年、ISBN 4-642-06627-6
- Raphael Pumpelly (1870). Across America and Asia. Leypoldt & Holt - アメリカ人冒険家による1861-1863年の蝦夷調査記録収録
関連項目
[編集]- アラハバキ(荒覇吐)
- 雷神山古墳、遠見塚古墳、末期古墳、つぼのいしぶみ
- 応神天皇、仁徳天皇、光仁天皇、桓武天皇
- 鎮守府 (古代)、国府、郡山遺跡、紫波城
- 蝦夷征討、別所
- 熊襲、隼人
- 道南十二館
- 出羽柵、鼠ヶ関
- 東北熊襲発言
- 貞観地震
- もののけ姫 - 物語の主人公であるアシタカが蝦夷出身という設定。蝦夷特有の武器である蕨手刀を使用している。
- 砂沢遺跡 - 青森県弘前市にある弥生時代の遺跡。発見された水田の遺構は、紀元前5~4世紀における東北地方北部への稲作への伝播を示すが、縄文文化を特徴づける土偶も発見されているために、この遺跡を、弥生時代の遺跡の一つとみなす説と、弥生時代の遺跡に含めない説がある。
- 荒蝦夷 - 仙台市の出版社
- 坂上田村麻呂夷人説
- 日本の古代東北経営
外部リンク
[編集]- 蝦夷地ってなんのこと? - 日本史用語集
- 道南ミュージアム - 古代国家と蝦夷-文書庫 - ウェイバックマシン(2004年12月15日アーカイブ分) [リンク切れ]
- 蝦夷 陸奥 歌枕 - ウェイバックマシン(2002年6月11日アーカイブ分) [リンク切れ]
- 高橋崇「蝦夷」古代東北人の歴史松岡正剛の千夜千冊