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'''日本史'''('''にほんし''' |
'''日本史'''('''にほんし'''、History in Japan) |
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#[[日本]]の[[歴史]]。 |
#[[日本]]の[[歴史]]。本稿ではこれについて記述してある。 |
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#[[ルイス・フロイス]]作の歴史書。 |
#[[ルイス・フロイス]]作の歴史書「日本史(Historia de Iapan)」。 |
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== 概要 == |
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=== 日本の歴史とは === |
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[[日本]]並びにその周辺地域に関して、主に[[日本]]という地域を中心に、[[歴史学]]の観点から述べられたもの。 |
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[[古事記]]、[[日本書紀]]等による古代[[日本]]の歴史記述は[[神話]]の一部と考えられ、現在はこれに含まれない。一部戦前ではこれも「日本の歴史」であったという経緯もある。 |
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== 日本列島の形成 == |
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日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前のことである。その頃は、まだ大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には完全に大陸から離れ、現在の姿と環境の[[日本列島]]ができあがった。 |
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=== 日本と世界の歴史 === |
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== 旧石器時代 == |
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元々[[日本]]が島国であったことと、他国による支配が一切なかったことから「日本の歴史」はほとんど独立した流れを持つ。 |
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[[中国の歴史|中国]]、[[朝鮮の歴史|朝鮮]]において「日本の歴史」は度々関係は存在するが、[[日本]]という存在自体が東洋以外に知られるようになったのは、[[東方見聞録]]以降であると考えられている。そのため「東洋史」全体で語られることも少なく、[[世界の歴史]]と「日本の歴史」が関係する機会はほとんど現代になってからである。 |
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''詳細は、[[日本の旧石器時代]]を参照のこと。'' |
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世界各国の歴史で[[日本]]が登場する機会は[[日露戦争]]、[[第二次世界大戦]]等がある。 |
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[[日本列島]]への人類の居住は、[[旧石器時代]]のことと考えられている。最も古いと思われる遺物は、遺跡が多数あって人類の存在が疑いないといえるのは約3万年前からである。しかし、大陸と地続きだった[[氷河期]]には、人類がたやすく日本に入ってこれたはずで、もっと古く数十万年前まで遡る可能性がある。旧石器時代の人類は、[[打製石器]]を用い、大型哺乳類を狩って生活していた。 |
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== 縄文時代 == |
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''詳細は、[[縄文時代]]を参照のこと。'' |
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約1万2千年前から[[日本列島]]には[[縄文]]文化が広がった。[[縄文時代]]の人々は、[[竪穴式住居]]に住み、弓矢での狩猟、[[貝塚]]に見られる漁労、植物の採集と調理、後には栽培など、多様な手段で糧を得た。保存と煮炊きに[[縄文式土器]]を用い、様々な用途に[[打製石器]]・[[磨製石器]]と[[骨角器]]をあて、舟を用いた。人々の交流は広い範囲にわたり、時には[[環状石籬]] (環状列石) 、巨木工事のような大事業を起こした。 |
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== 弥生時代 == |
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''詳細は、[[弥生時代]]を参照のこと。'' |
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[[紀元前3世紀]]かそれ以前に水稲農耕が伝わり、[[九州]]、[[四国]]、[[本州]]に広がった。低地に[[水田]]を作った人々は、[[弥生式土器]]を作り、[[石器]]にかえて徐々に[[鉄器]]を使うようになり、祭祀にのみ[[青銅器]]を用いた。[[弥生時代]]には[[農業]]によって定住が可能になったことから村ができ、貧富や上下関係が生まれた。戦いが絶えなかった。やがて各地に小さな国が生まれ、1世紀に[[奴国]]の王が[[後漢]]に、[[3世紀]]にあったと言われる[[邪馬台国]]の女王が[[魏]]に、[[倭]]の王であることを意味する金印を授けられた。この頃以降の日本は、大陸からは[[倭]]と呼ばれた。 |
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なお、[[南西諸島]]と[[樺太]]・[[北海道]]には水田が作られず、[[南西諸島]]では[[貝塚時代]]、ついで[[グスク時代]]、樺太・北海道では[[続縄文時代]]、ついで[[擦文時代]]が続いた。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国のそれぞれ全域と、東北地方北部を欠く本州を指す。[[南西諸島]]の歴史については、[[沖縄県]]も参照。 |
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== 古墳時代 == |
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''詳細は、[[古墳時代]]を参照のこと。'' |
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[[3世紀]]末から[[6世紀]]末まで、[[前方後円墳]]という日本独自の形式の墳墓が日本全域に造られた。この時期に大和政権が倭の統一政権として確立し、5世紀に[[倭の五王]]が中国に使者を遣わした。倭人が[[朝鮮半島]]で得た鉄は、甲冑、武器、農具に用いられた。中国と朝鮮から、文字と[[仏教]]・[[儒教]]がもたらされた。この時代の人々は[[土師器]]と[[須恵器]]を用いた。 |
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== 飛鳥時代 == |
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''詳細は、[[飛鳥時代]]を参照のこと。'' |
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中央では6世紀末から[[645年]]の[[乙巳の変]]まで[[蘇我氏]]が、それ以後天皇と皇族が政治の実権を握った。この頃までに、日本は東北地方南部から九州までを領域にしていた。[[白村江の戦い]]で敗れてから、倭は朝鮮半島への進出を断念した。[[遣隋使]]、[[遣唐使]]を派遣し、中国を参考に官制を整え、[[701年]]に[[大宝律令]]を制定した。この時代に[[倭]]は「日本」と改称した。天皇と氏族が仏教寺院を建設し、これを中心に[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]が栄えた。 |
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== 奈良時代 == |
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''詳細は、[[奈良時代]]を参照のこと。'' |
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[[710年]]に都は奈良の[[平城京]]に遷った。この時期の[[律令国家]]は、[[戸籍]]と[[計帳]]で人民を把握し、[[租庸調]]と軍役を課した。[[遣唐使]]を度々送り、唐の文物を導入した。全国に[[国分寺]]を建て、仏教的な[[天平文化]]が栄えた。[[古事記]]、[[日本書紀]]、[[万葉集]]など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、西方は平和であったが、東北では[[蝦夷]]との戦争が絶えなかった。 |
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== 平安時代 == |
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''詳細は、[[平安時代]]の参照のこと。'' |
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[[桓武天皇]]が[[794年]]に都を[[平安京]]に遷し、蝦夷征服を中断してから、国力を傾ける大事業はなくなった。中央ではまず[[藤原氏]]が力を伸ばして[[摂関政治]]を行い、11世紀末には上皇が[[院政]]を敷いた。地方では[[荘園]]が全国に広がって、荘園と[[国衙領]]が混在する[[荘園公領制]]が出現した。平安時代の後半には[[武士]]が台頭し、末期には中央の政争に関与し、12世紀末に[[平氏政権]]を生んだ。文化面では、唐風の[[弘仁貞観文化]]から、日本的な[[国風文化]]に移り変わった。仏教界には個人救済の傾向が強まった。平安時代の末期に、日本の支配は本州北端まで及んだ。[[1019年]]に[[女真族]](現在の[[満州族]])による侵略[[刀伊の入寇]]があった。 |
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== 鎌倉時代 == |
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''詳細は、[[鎌倉時代]]を参照のこと。'' |
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12世紀末に、[[源頼朝]]が武士の頂点に立ち、全国に[[守護]]を置いて、[[鎌倉幕府]]を開いた。京都の朝廷と地方の荘園・公領はそのままで、地方支配に[[地頭]]等の形で武士が割り込む二元的な支配構造ができあがった。質実剛健な鎌倉文化が栄え、武士や庶民に鎌倉新仏教の諸宗が説かれた。西日本を中心に商品経済が広まり、各地に定期的な市が立つようになった。13世紀には[[1274年]]の[[文永の役]]と[[1281年]]の[[弘安の役]]の二度にわたる[[高麗王]]の[[王世子]]の[[椹]](後の忠烈王)による元のクビライ皇帝に、日本を属国化する事を執拗に奏上した事を起因とする[[元寇]](蒙古・漢族・女真族・高麗等の連合軍による侵略)があったが、いずれも撃退した。 |
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== 建武の新政 == |
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''詳細は、[[建武の新政]]を参照のこと。'' |
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鎌倉幕府は、[[1333年]]に[[後醍醐天皇]]の討幕運動によって倒れた。天皇は親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士の[[足利尊氏]]の反乱が起こった。 |
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== 室町時代 == |
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''詳細は、[[室町時代]]を参照のこと。'' |
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尊氏は後醍醐の南朝に対して北朝を擁立し、[[1336年]]に[[室町幕府]]を開いた。二つの朝廷が対立する[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]は[[1392年]]まで続き、北朝に統一された。ここで最終的に武家が優位に立ったが、幕府の財政軍事基盤は弱かった。[[応仁の乱]]をきっかけに[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入った。[[下克上]]が頻発し、様々な[[一揆]]が起こり、荘園制が消滅した。 |
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[[1419年]]に李氏朝鮮による侵略があった。[[応永の外寇]] |
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戦乱が続く時代だったが内外の通商は盛んで、農業・工業ともに技術が向上した。この頃、西方では[[倭寇]]が朝鮮や中国を襲った。 |
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== 安土桃山時代 == |
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''詳細は、[[安土桃山時代]]を参照のこと。'' |
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[[戦国大名]]の中で[[織田信長]]が強大になり、後継者の[[豊臣秀吉]]が[[1590年]]に日本を統一した。秀吉は、全国で[[検地]]と[[刀狩り]]を実施させ、[[明]]の征服をもくろんで[[文禄・慶長の役|朝鮮を攻めた]]が、敗れた。秀吉の死後、[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]に勝った[[徳川家康]]が政権を得た。この時代には豪奢絢爛な[[桃山文化]]が栄えた。 |
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== 江戸時代 == |
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''詳細は、[[江戸時代]]を参照のこと。'' |
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家康は[[1603年]]に[[江戸幕府]]を開いて、[[幕藩体制]]を固め、長く続く国内平和を実現した。17世紀に国内の農地開発が進み、その後商品経済が全国に浸透し、商品作物の栽培と商工業が発達した。[[儒教|儒学]]、[[国学]]、[[蘭学]]やさまざま実学など諸学問が繁茂し、[[元禄文化]]、[[化政文化]]のような町人による世俗的文化が栄えた。 |
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日本は[[1609年]]に[[琉球]]を攻撃して属国にした。北では[[アイヌ]]への支配をしだいに強め、今の北海道を領土にした。江戸幕府は、17世紀初めまで[[朱印船貿易]]を実施したが、やがて貿易相手を中国、オランダ、朝鮮に限って[[鎖国]]した。鎖国は200年以上続いたが、[[1855年]]にアメリカの軍事的圧力の下で[[開国]]した。これに反対する[[尊皇攘夷]]運動がおき、幕府は[[1867年]]に倒れた。 |
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(ここまで簡略化作業終了。作業についてはこのページの[[ノート:日本の歴史]]を参照) |
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== 明治時代 == |
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[[1854年]]に欧米列強の脅威に屈して幕府が[[開国]]すると、その政策に対する反発から[[尊皇攘夷]]運動が起こった。西国の諸藩の反乱を鎮圧できなかった江戸幕府は、1867年に天皇に政権を返還すると宣言した。この体制変革と直後の改革を[[明治維新]]と呼ぶ。新政府は、藩を廃止し、武士の特権をなくし、[[天皇]]と[[官僚]]を頂点にする中央集権国家を打ち立て、[[地租改正]]によって従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。また[[徴兵制]]を実施し、西欧列強を模範として富国強兵を推進した。[[戸主]]は徴兵を免除されたので、主に戸主以外の次三男層や貧農層の子弟が兵役を担った。政府は他方、[[文明開化]]として西洋文明を精力的に取り入れ、[[殖産興業]]政策によって産業の急速な育成を図った。政府部内に[[征韓論]]をめぐって対立が生じ、強硬派は下野して一方は[[西南戦争]]、[[佐賀の乱]]などの[[士族反乱]]を起こし、他方は[[自由民権運動]]を起こした。天皇制政府に対しては、[[自由民権運動]]が[[民選議会]]の開設を迫り、[[大日本帝国憲法]]と[[帝国議会]]が開設され、[[内閣]]が組織された。[[朝鮮]]の権益を巡って生じた[[日清戦争]]では、日本が勝利して清との二国間で[[下関条約]]を結び、朝鮮をこの時をもって清国の属国から独立させ、[[遼東半島]]、[[台湾]]、[[膨湖諸島]]を割譲させた。しかし[[遼東半島]]は[[三国干渉]]により返還を余儀なくさせられた。[[日露戦争]]では明確な戦勝ではなかったものの、革命前のロシア国内の不穏な状況も手伝って有利な講和に持ち込まれ、[[南樺太]]を割譲させた。さらに韓国の外交権を奪い、日本の監督下に置いた。1905年、[[韓国統監府]]初代統監には[[伊藤博文]]が任命されたが、1908年に辞任し、ロシアとの会談を行うため渡満し、[[ハルピン]]に到着した際、[[大韓帝国]]の独立運動家[[安重根]]に暗殺された。1909年に韓国の[[一進会]](自称100万人の会員を誇る)より、[[韓国合邦を要求する声明書]]を受け、1910年に[[韓国併合条約]]を結んで[[大韓帝国]]を併合した。朝鮮国民の間には対日独立運動が起こった。[[日露戦争]]は近代初の白色人種国家に対する有色人種国家の勝利であり、世界史上の意義も大きい。産業面では軽工業が発展し、20世紀に入ると重工業も伸びた。しかし農村部には、[[寄生地主制]]が確立し、地主層の代表者が議会に多く進出した。 |
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== 大正時代 == |
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大正年間には、2度に及ぶ[[護憲運動]]([[憲政擁護運動]]・[[大正政変]])が起こり、[[桂太郎]]を中心とする保守的な[[藩閥]]支配体制が揺らいで、[[政党]]勢力が進出した。それは[[大正デモクラシー]]と呼ばれ、[[尾崎行雄]]・[[犬養毅]]らがその指導層となった。[[大正デモクラシー]]時代は、大正7年の[[米騒動]]の前と後で分けられることが多いが、[[米騒動]]後、初めて爵位を持たず、衆議院に議席を持つ平民宰相として[[原敬]]内閣が成立した。しかし原はその登場期に期待された程の改革もなさないままに終わり、一青年により東京駅頭で暗殺された。大正期には、[[普選運動]]が活発化し、[[平塚雷鳥]]や[[市川房枝]]らの[[婦人参政権運動]]も活発となった。大正14年には、[[普通選挙法]]が成立したが、同時に[[治安維持法]]が制定された。言論界も活況を呈し、[[天皇制]]と[[民主主義]]を折衷しようとした[[吉野作造]]の[[民本主義]]などが現れた。大正12年に[[関東大震災]]が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、[[山本権兵衛]]内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、[[護憲三派]]内閣として[[加藤高明]]内閣が成立した。大正末期には、[[ベルサイユ]]・[[ワシントン体制]]に順応的な[[幣原外交]](加藤内閣)が展開され、[[中国]]への内政不干渉、[[ソビエト連邦|ソ連]]と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。また文学界には、[[芥川龍之介]]や[[白樺派]]の[[人道主義]]([[ヒューマニズム]])が台頭した。 |
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''詳細は、[[大正時代]]を参照のこと。'' |
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== 昭和時代 == |
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''詳細は、[[昭和時代]]を参照のこと。'' |
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===昭和前期=== |
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日本は国内的には[[立憲君主制]]の体裁をとり、当初の[[藩閥政治]]を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。1920年代末から軍部が独立性を強め、1930年以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事[[クーデター]]により、ついには政党政治を葬り去った。<br> |
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また[[第一次世界大戦]]によってまれに見る好景気で大きく急成長を遂げた日本経済も、[[1929年]][[10月24日]]、[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]で世界恐慌が引き起こされると大打撃を受け、敗戦国[[ドイツ]]や、[[植民地]]を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。日本はそれまでにも[[第一次世界大戦]]後しばしば[[恐慌]]に見舞われる恐慌頻発国であったが、[[世界恐慌]]の翌年、[[金解禁]]を契機とする[[昭和恐慌]]を生じ、日本経済は深刻な危機に陥った。日本は恐慌からの活路を侵略に求め、[[満州]]進出を押し進め、更には南方資源地帯の利権を巡り欧米諸国との対立を深めていく。 |
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[[1937年]]、[[日中戦争]](支那事変)がはじまると、中国では[[蒋介石]]と[[周恩来]]の間で[[国共合作]]が成立し、抗日闘争が進められた。アメリカは通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はドイツ・イタリアと[[日独伊三国軍事同盟]]を締結することで対処しようとしたが、かえって米の石油禁輸を招くにいたった。米・英・華・蘭の対日強硬策は、それぞれの国の英語の頭文字をとって[[ABCD包囲網]]と呼ばれる。日本政府及び[[大本営]]は、一方で対米戦争を準備しつつも、日米交渉は[[1941年]]晩秋まで続けられたが、[[コーデル・ハル]]国務長官の提案(いわゆる[[ハル・ノート]])を最後通牒に準ずるものと考えた日本は、 |
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[[12月8日]](現地時間[[12月7日]])、[[ハワイ]]の[[真珠湾]]を奇襲攻撃した。同日、東南アジアの英蘭植民地も攻撃し、ここに[[太平洋戦争]]が始まった。日本政府はこの戦争を[[大東亜戦争]]とした。 |
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日本軍は開戦当初、不意打ちを主作戦としたため一見連戦連勝であったが、[[ミッドウェー海戦|ミッドウェイ海戦]]での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。米英は[[大西洋憲章]]を制定し、自陣営を[[連合国]]と称し、日独伊の[[枢軸国]]と対抗した。日本はアジアにおける勢力の正当性を訴えるため、[[1943年]][[10月]]、東京で[[大東亜会議]]を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った[[大東亜共同宣言]]を発表した。<br> |
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翌[[1944年]][[7月]]には[[サイパン]]が陥落、日本本土も連日の空襲にさらされるようになると、物資は窮乏し、ようやく各種和平工作が企図されるようになる。翌[[1945年]][[7月26日]]、連合国は[[ポツダム宣言]]を発表するが、核の被害実験、ロシアへの軍事力の誇示、戦争早期終結など様々な理由から比較的被害の少ない[[広島市|広島]]と[[長崎市|長崎]]に[[原子爆弾]]が投下された。次いで[[ソビエト連邦|ソ連]]が対日参戦し、宣言受諾やむなしとの結論に達した日本政府は[[8月14日]]ポツダム宣言を受諾した。この事実は翌[[8月15日]]正午、天皇自らのラジオ放送([[玉音放送]]と呼ばれる)により日本国民に伝えられた。 |
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===昭和後期=== |
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[[太平洋戦争]]降伏後、[[1952年]]まで[[連合国軍最高司令官総司令部]]の軍事占領下におかれたが、軍政は布かれず、直接的な統治は[[沖縄]]・[[小笠原諸島]]・[[台湾]]・[[朝鮮]]・[[樺太]]、[[南洋諸島]]・[[千島列島]]を除き日本政府が行なう間接統治が行われた。連合国軍最高司令官総司令部[[ウォー・キルト・インフォメーション・プログラム]]を施した。沖縄・小笠原諸島ではアメリカ合衆国の軍政が布かれた。1946年に公布された[[日本国憲法]]は、[[主権]]は国民に存するとした「[[国民主権]](主権在民)」、[[平等権]]・[[自由権]]・[[社会権]]・[[参政権]]・[[請求権]]などの権利を保障する「[[基本的人権]]の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「[[平和主義]]」を三大原則とした。このため現在日本では[[徴兵制]]は[[憲法違反]]として実施されない。また、[[天皇]]を日本国および日本国民統合の象徴として、[[天皇]]の国政への関与は禁じられた。[[農地改革]]、[[財閥解体]]、[[労働改革]]、[[教育基本法]]制定などの社会改革が実施された。戦争によって著しく落ち込んだ経済は、復興の後、1960年から1970年代初めまで[[高度経済成長]]を遂げ、1980年代には[[アメリカ合衆国]]に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。[[農地改革]]や[[労働改革]]によってかつては貧しかった[[勤労者]]や[[農民]]が大[[消費者]]層として開放され、[[国内市場]]が戦前に比べて飛躍的に拡大したことも一因となっている。また一方、産業の高い技術開発力も大きく作用し、[[家電]]、[[自動車]]などは国際的にもトップを争う位置にまで達した。人々が豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだ。後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。日本は憲法で軍隊を持たないことを定めたが、1951年に[[日本国との平和条約]]と同時に[[日米安全保障条約]]を締結し、[[アメリカ合衆国軍]]の駐留をそのまま継続するとともに、事実上の再軍備を行なった。[[冷戦]]期には米国と同盟して[[ソビエト連邦|ソ連]]に対抗した。冷戦後には[[国際連合]]に協力して海外で[[PKO]]部隊を展開するようになった。しかし二度にわたるオイル・ショックを境に高度経済成長時代は終焉し、[[低成長]]時代、更には[[デフレ]](マイナス成長)時代に移行する。 |
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== 平成時代 == |
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''詳細は、[[平成時代]]を参照のこと。'' |
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終戦後60年を経て、30歳を超えても自分探しを求める未成熟さ、個人が家庭のあり方と対立してしまう不自然さ、日本人としてのアイデンティティーの喪失感は、占領体制下で財閥解体、農地改革などの社会構造の変革と併せて行われた、日本の教育制度の変革によってもたらしたものであるという声も聞かれるようになった。しかし、それは敗戦後の占領よりも、その後の[[高度経済成長]]によって極端な効率性、合理性が必然と求められるようになったせいであるとする考え方も少なくない。[[日本の政治]]を見た場合、[[戦後]]一貫して[[自民党]]政権が続いたことが最大の特徴であろう。確かに最近一時[[非自民]]政権の時期があったが、[[アメリカ]]・[[イギリス]]一辺倒の対外姿勢は変化がない。その点では、[[ヨーロッパ]]、特に[[フランス]]や[[ドイツ]]、[[スウェーデン]]のように、[[社会民主主義]]左派が有力な潮流として定着していないことも、[[先進資本主義国]]としてはやや特異であり、いわば[[国家]]が[[資本]]の自由な活動を優先する政治経済構造を保障する点では典型的な指導性を発揮した。しかし国や国民の経済力が大きくなったとは言っても、豊かな[[国民生活]]なるものの実態はささやかな[[消費財]]の[[消費]]の拡大に止まっており、日本の国民の[[個人資産]]は必ずしもそれ程大きくはなく、また[[労働条件]]・[[福祉]]水準などもヨーロッパ諸国に比べると未だ低水準である。従って表面的な繁栄にも関わらず、実感として[[国民]]一人一人の充実した生活が必ずしも十分満たされているとは言えない面もある。しかも戦後の[[日本経済]]の[[高度成長]]はもはや過去のものとなり、[[低成長時代]]に移行した。更に2000年になると、[[デフレ]](マイナス成長)時代が続くようになる。そのため一方では[[構造不況]]が指摘され、また他方では[[構造改革]]が主張される。いずれにせよ経済の構造が問題とされるようになっているところに時代の転換点が示されている。海外ではアジア諸国、[[中国]]・[[大韓民国|韓国]]・[[マレーシア]]・[[ベトナム]]などの経済発展が見られ、[[日本]]が[[アジア]]で唯一経済的繁栄を誇ってきた時代とは様変わりしつつある。そうした趨勢の下で、あらためて[[アジア]]の中の日本、[[世界]]の中の日本について考えさせる問題も多くなっている。</br> |
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韓国と[[2002 FIFAワールドカップ]]を共催した。また、[[北朝鮮]]との間で[[日本人拉致問題]]等を含めた問題が深刻化している。 |
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== 時代区分 == |
== 時代区分 == |
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「日本の歴史」の流れは以下のように区分されている。詳細については各時代の項目を参照。 |
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各時代の関係を対照するために、[[日本史時代区分表]]がある。 |
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*日本の先土器時代 |
*日本の先土器時代 |
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**[[旧石器時代]] |
**[[日本の旧石器時代|旧石器時代]] |
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**[[石器時代]] |
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*日本の古代 |
*日本の古代 |
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** [[縄文時代]] |
** [[縄文時代]] |
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*日本の中世 |
*日本の中世 |
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** [[鎌倉時代]]([[1192年]] - [[1334年]]) |
** [[鎌倉時代]]([[1192年]] - [[1334年]]) |
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** [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]([[1334年]] - [[1392年]]) |
** [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]([[1334年]] - [[1392年]])([[建武の新政]]) |
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** [[室町時代]]([[1392年]] - [[1573年]])([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]) |
** [[室町時代]]([[1392年]] - [[1573年]])([[戦国時代 (日本)|戦国時代]]) |
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*日本の近世 |
*日本の近世 |
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** [[平成]]([[1989年]] - ) |
** [[平成]]([[1989年]] - ) |
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== その他の時代区分 == |
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各時代の関係を対照するために、[[日本史時代区分表]]がある。 |
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=== 文化による時代区分 === |
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*縄文土器文化 |
*縄文土器文化 |
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*弥生土器文化 |
*弥生土器文化 |
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165行目: | 65行目: | ||
== 一覧 == |
== 一覧 == |
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*[[元号一覧 (日本)|元号の一覧]] |
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*[[日本史の出来事一覧]] |
*[[日本史の出来事一覧]] |
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*[[日本史の人物一覧]] |
*[[日本史の人物一覧]] |
2005年3月16日 (水) 06:01時点における版
{{記事統合|日本史詳説|日本の歴史]]、若しくは[[ノート:日本史詳説}} 日本史(にほんし、History in Japan)
概要
日本の歴史とは
日本並びにその周辺地域に関して、主に日本という地域を中心に、歴史学の観点から述べられたもの。
古事記、日本書紀等による古代日本の歴史記述は神話の一部と考えられ、現在はこれに含まれない。一部戦前ではこれも「日本の歴史」であったという経緯もある。
日本と世界の歴史
元々日本が島国であったことと、他国による支配が一切なかったことから「日本の歴史」はほとんど独立した流れを持つ。
中国、朝鮮において「日本の歴史」は度々関係は存在するが、日本という存在自体が東洋以外に知られるようになったのは、東方見聞録以降であると考えられている。そのため「東洋史」全体で語られることも少なく、世界の歴史と「日本の歴史」が関係する機会はほとんど現代になってからである。
世界各国の歴史で日本が登場する機会は日露戦争、第二次世界大戦等がある。
時代区分
「日本の歴史」の流れは以下のように区分されている。詳細については各時代の項目を参照。
- 日本の先土器時代
- 日本の古代
- 日本の中世
- 日本の近世
- 日本の近代・現代
その他の時代区分
各時代の関係を対照するために、日本史時代区分表がある。
文化による時代区分
首都、政治的中心都市による時代区分
- 京都時代
- 鎌倉時代
- 江戸・東京時代