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2007年8月23日 (木) 06:44時点における版
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附属池田小事件 (ふぞくいけだしょうじけん) とは、2001年6月8日に大阪府池田市で起こった小学校乱入無差別殺傷事件である。
概要
大阪教育大学附属池田小学校に侵入した当時37歳の男、宅間守(たくま まもる)が児童8名(1年生1名、2年生7名)を殺害し、児童13名・教諭2名に傷害を負わせた。その後、宅間は殺人罪などで逮捕・起訴され、2003年8月28日に大阪地方裁判所で死刑判決を言い渡された。同年9月10日に弁護団が控訴するも、9月26日に本人による控訴取り下げがあり、判決が確定した。なお、宅間は初公判でのみ反省と謝罪の弁を口にしたことがあるが、大阪地方検察庁の検事が週刊新潮のインタビューに対して「この反省と謝罪の弁は本物だった」との証言をしている。そして、2004年9月14日、大阪拘置所で死刑が執行された。死刑確定から1年ほどでの死刑執行は、1975年に北九州市で暴力団幹部ら4人を殺害し、1977年に死刑判決を受け、自ら控訴を取り下げて判決を確定させ、翌1978年に福岡拘置所で刑が執行された元暴力団員以来26年ぶりの2例目のことであり、戦後の混乱期を除けばこれらの2事例はおそらく史上最速とみられる。また、宅間は高校時代から自殺願望が強かったこともあり、死刑確定後は早期の死刑執行を望んでいた。
ちなみに刑事訴訟法では死刑確定後、6ヶ月以内に執行することが定められているが、実際には6ヶ月以内に執行された例はほとんどない(詳細については日本における死刑を参照)。中には死刑確定後も長年にわたり死刑執行を行わずに死刑囚が獄中で死亡した例もある。
宅間は逮捕後に複数の女性にプロポーズされ、熱心な支援活動を受けていた。死刑確定翌月には、自身の支援者である女性と獄中結婚した。彼女は、死刑廃止運動家の1人であった。
宅間は逮捕当初、精神障害者を装った言動を取っていたが、これは本人が複数回の刑事犯罪に於いて、自らの精神科通院歴を楯に不起訴処分(あるいは保護観察処分)という比較的軽い処分を経験したという経歴と無関係ではないと思われる。また、この事件は精神障害者の責任能力の問題が注目される契機の1つとなった(実際に宅間は障害者であり、書類上では「身体・精神」だったが、実際のところは、起訴前と公判中に2度行われたいずれも70日間の情状鑑定の結果によれば「身体・知的」だった)。
この事件で死亡した2年生7名は2006年に同級生と共に特別に卒業証書を授与され、「小学校を卒業」という形になった。さらに、翌2007年にはこれと同様に、死亡した1年生1名に卒業証書が授与された[1]。
犯人の略歴
この事件の被告人となり死刑に処せられた宅間 守(たくま まもる)は1963年11月23日、兵庫県伊丹市に生まれた。両親は共働きの為、4歳の頃まで祖父母の家で養育されるが、その後父母の実家に帰っている。以後、小学校、中学校と通うが、父からは厳しく接せられた。報道されるところによると、父と目を合わせることができなかったと言われている。時には父親がスパナを持って追い回し、子供の頃の宅間は母親の影に隠れる一面もあったという。宅間は、逮捕後に父から長年虐待を受けて性格が歪んだかのような発言をしており、検察側、弁護側もこれを否定しなかった。
ただし、大阪教育大学付属池田中学校に進学することを母親に頑なに断られたことが原因となったのか、こうした環境や前途に悲観したこともあってか、宅間は小学校卒業直前になってからうつ病を発症するようになり、それでいて徐々に自棄気味の行動が散見されるようになる。高校で教師に対して1度暴力事件を起こしたり、中学時から特に動物虐待を行ったり、という証言も見られた。こうしたことが災いしてか、17歳で高校を退学となる。また現実からの逃亡を図り、家出をするなど厭世的な行動も目立っていた。その後精神科にも通院するが、18歳で心機一転航空自衛隊に入隊し、浜松基地に配属されるが、19歳になる前後、家出した少女と寮で同棲したことにより、事情聴取を受け除隊(諭旨免職)処分になってしまう(ちなみに諭旨免職時のポストは空士長だった)。
以後は、運送業をしたり、不動産会社に就職したりと職を転々とした結果、28歳で伊丹市役所の非常勤職員となって、以後7年間勤務することになるが、家族との関係もうまくいかず、見つかるまで父に隠れて母親と同居し、それが発覚すると、父親とスコップでちゃんばらをするなど変わった生活もしている。性格は一層すさみ、女性宅に侵入して強姦したり、後述の3番目の妻に対してストーカー行為をしたり、運転手に対して暴行するなど、児童殺害をするまでに少なくとも14回の逮捕をされている。結果、強姦事件では3年の実刑判決を受け、父親からは勘当される。伊丹市職員となるのは刑期満了で出所してから1~2年後のことだった。
家庭面では、以後、4回の結婚を繰り返すが(うち最初の2回は自分より大幅に年上の45歳以上の中年の女性(うちひとりは小学校時代のクラスの担任)と、3回目は自分より2歳年上の女性と、4回目は3歳年下)、初回は結婚時の経歴詐称が原因で、2度目は逮捕が原因で、3度目は、その前後に養子縁組を解消した老女が乗り込んできて、妻に彼の負の一面を洗いざらい話し、妻自身も「同じような経験がある」と同意したことが原因で、4度目はできちゃった婚で結婚するも、彼自身の素行が原因で長くは続かず、後に離婚している。
そんな中、兄も弟からのいじめを苦にしたことはもとより、離婚したり事業が失敗したのが原因で自殺する。2001年6月6日には、自宅アパートに闇金融からの電話や滞納した家賃など諸々の取立てが来ており、その後父親に金を貸してくれと頼んだが冷たくあしらわれた。家庭的にも経済的にも全ての面で行き詰った彼は、小学校卒業直前以降四半世紀近く抱えていたうつ病の症状も相俟って「大量殺人をして死刑になろう」という絶望的で自暴自棄的な考えから、2日後の6月8日、大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校に侵入、児童8人を殺害、児童13名・教諭2名に傷害を負わせる凶悪事件を起こし、殺人罪などで逮捕・起訴された。少なくとも宅間は下関通り魔殺人事件の模倣犯になりたかった、ということが第2回公判以降の証言で明らかとなっている。
その後、第2回公判以降の裁判では裁判長や遺族に対して暴言を吐くなど悪態をつくが、2003年8月に死刑が確定し、2004年9月14日死刑が執行された。なお、彼について世論の大勢は犯罪行為への非難が圧倒的だったが、凶行の動機を知らされた中には同情者もいて、そのうちの1人の死刑廃止運動家の中年女性と、2003年に「5度目の」獄中結婚をし、「吉岡」と改姓している。宅間の最期の言葉は刑務官に向けて言った「ありがとうって、僕が言ってたって(妻と野沢元法務大臣に)伝えてください」という言葉だったと言われる。ちなみに遺書は1年前、つまり弁護側が控訴する直前に、その弁護側と、70日間の情状鑑定に立ち会った臨床心理士に宛てたものが本物とされている。なお、宅間は処刑の際、自ら1人だけの足で絞首台に向かったため、事実上首つり自殺したと言える。
学校側の対応不足
1999年(平成11年)12月の伏見区立日野小学校で発生した児童刺殺事件後に安全管理に関する通知を当時の文部省がしたが、附属学校を設置管理する文部省及び大阪教育大学では、各附属学校の安全措置の状況を把握していなかった。通知に関して、教職員に対して一度口頭で伝えたにとどまり、それ以外の格別の対応をとっておらなかった。事件当日も不審者に対して教職員の十分な対応がなされていなかったことが、被害生徒の救助の遅れ・犯人の確保の遅れとつながった。犯人を取り押さえてから犯人確保までの間、学校全体としての状況把握と組織的な対処行動ができなかったため、死亡した8名の児童は20分前後も放置されてしまった。つまり救命活動の遅れが死因であった。児童に対する組織的な避難誘導、救命活動、搬送処置が行えず、被害を最小限にくい止めることができなかった。管理職や教務主任は、混乱の中で事件の全容をつかめなかった。保護者への児童の搬送先病院の連絡が大きく遅れてしまっただけでなく事件直後、ある死亡児童の保護者は早い段階で来校したにもかかわらず、学校内で負傷していた児童に会うことも付き添うこともできなかった末、自力で探し回った病院で死亡した我が子と対面することとなった。さらに事件後において、学校からの説明や弔問が遅れ、教員の心ない表現、発言、行動が遺族の心を大きく傷つけた。
事件の影響
この余りにも残虐非道な事件は、多くの国民に非常に大きな衝撃をもたらした。この事件をきっかけに、部外者の学校への立ち入りを厳しく制限したり、警備体制を強化するなどの方策を主張する声も増えた。また防犯ブザーを携帯する生徒も増加した。この事件は、日本の学校がそれまでの「地域に開かれた学校」から安全対策重視の「閉ざされた学校」に方針転換するきっかけとなった。それまで小学校は、地域のコミュニティに重要な役割を果たし、校庭は子供たちの遊び場にもなっていた。この事件後は学校に監視カメラを設置したり、部外者の立ち入りを禁止したりする傾向が強まった。小学校への警備員配置、集団登校も行われるようになった。
被害に遭った附属池田小学校は校舎移転を余儀なくされ、自治体は「子供110番」、「学校安全ボランティア」、「学校安全対策委員会」などさまざまな対策を試みている。多くの学校がそれまで日中開放していた門扉を登下校時以外は閉ざし部外者の立ち入りを厳しく警戒するようになった。PTAの中には、保護者や地域住民有志に腕章を配り来校時に装着するよう求めるところもあった。
また心神喪失と認められ、無罪あるいは不起訴処分となった者に対する処遇のあり方について議論された。それまでは、精神障害者に対して司法機関が関与して処遇が行われることは、保安処分として極めて抵抗感が強かったが、この事件以降に「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律」が制定された。保護観察所に社会復帰調整官が置かれ、社会復帰調整官が中心となって医療観察が実施されることとなった。
生徒や教職員、保護者の中には心的外傷後ストレス障害(PTSD)に未だ罹っている人もいる。又、「あの時ああすればこの事件が起きなかったのに(または被害を抑えられたというのに)」というサバイバル・ギルト、いわゆる「見殺しにしたという自覚」ともとれる自責の念に駆られている教員もいる(一審の最終弁論で教員本人が明らかにした)。
注記
- 「大阪教育大学教育学部附属池田小学校」の所在地周辺では、「池田小」と言えば、別の学校である「池田市立池田小学校」を指すのが普通である。従って、事件のあった学校名を記載する際には、「大阪教育大学教育学部附属池田小学校」とフルネームを記載し、略する場合も「附属池田小」と呼称する場合が多い(2004年度に大阪教育大学附属池田小学校と改称)。地元では「池附(いけふ)」と呼ばれることが多い。
- マスコミなどの扱いでも、主要紙は記事本文では「附属池田小事件」と表記することが多いが、見出しなどでは依然「池田小事件」と表記されることがある。
- 事件以前から、「大阪教育大学教育学部附属池田小学校」は手塚治虫の出身校として知られていた。
- 事件発生2日後の6月10日、横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)で行われたサッカーFIFAコンフェデレーションズカップ、日本-フランス戦のキックオフ開始後に、両チーム選手がこの事件の被害者に1分間の黙祷を行っている。この時、字幕に「Pray for eight victims(8人の尊い命に対し、黙祷を捧げます)」というテロップが世界中に放送された。
- 一部では宅間守のことをカリスマ性のある犯罪者と見做す向きもあり、奈良小1女児殺害事件の犯人は「早く死刑判決を受け、第2の宮崎勤か宅間守として世間に名を残したい」と検察の供述調書で述べている。また、自殺サイト殺人事件の犯人も「出所後に宅間の死刑が執行されたということを知って凶行を思いついた」との動機を述べており、また手口としては宮崎の模倣犯となっており、死刑の早期執行を要求していた。
脚注
- ^ 通常死亡した場合は死亡日より除籍扱いとなる。
類似事件
- 津山事件(1938年5月21日)
- 新宿西口バス放火事件(1980年8月19日)
- 池袋通り魔殺人事件(1999年9月8日)
- 下関通り魔殺人事件(1999年9月29日)
- 大邱地下鉄放火事件(2003年2月18日、韓国・大邱広域市)
- 寝屋川市立中央小学校教員殺傷事件(2005年2月14日)
- アメリカ合衆国では銃の乱射による同様の事件がしばしば起こっている(バージニア工科大学銃乱射事件等)。
- パトリック・パーディー1989年、米国で起きた銃乱射による小学生5人殺害事件