「ハーン (称号)」の版間の差分
Dalaibaatur (会話 | 投稿記録) 「ハーン」の項より分離。 |
(相違点なし)
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2005年2月11日 (金) 06:04時点における版
ハーンは、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。ハーン(khān, хаан/khaan)と発音するのは現代モンゴル語や現代ペルシア語などで、ハン(han, 現代トルコ語)、カーン(khan)などとも発音・カナ表記される。「王者」を意味するペルシア語のハーカーン(khākān)、トルコ語のハカン(hakan)も語源は同じである。漢字では「汗」と書くことが多い。
古形はカガン(qaġan)で、突厥のテュルク語碑文にあらわれる。カガンは、漢文史料には可汗(かがん)と表記されて記録に残るほか、「皇帝」と漢訳する例が見られた。この称号の最古の用例は4世紀半ばの北魏の漢字碑文にみられる可寒(かがん)で、5世紀始めに柔然が君主の称号に採用して以来、テュルク・モンゴル系遊牧民の君主称号として広まった。7世紀にヴォルガ川流域で王国を形成したハザールや、ドナウ川流域に侵入したブルガールも、カガンを王の称号としていたことが知られる。
カガンの語源は明らかではないが、高句麗の王族の尊称「加」、百済の王族の尊称「瑕」、任那(加羅)の王の称号「旱岐」などと同じ語源と考え、アルタイ諸語系統の王族を示す古い語彙に由来し、韓国の「韓(han)」も同系統の名であるとする説がある。
やがてカガンはつづまって、テュルク語ではハン(khan)、モンゴル語ではカン(qan)と発音されるようになった。
モンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンも、彼の在世当時はチンギス・カン(Chinggis Qan)と称されていた。しかし、チンギス・ハーンを継いでモンゴル帝国第2代君主となったオゴデイは、おそらくモンゴル帝国の最高君主が他のハン・カンたちとは格の異なった「皇帝」であることを示すために、古のカガンを復活させたカアン(qa'an)という称号を採用し、のちにモンゴル帝国の最高君主が建てた元王朝もカアンの称号を受け継いだ。
これに対して、モンゴル帝国西部のチャガタイ・ハン国、キプチャク・ハン国、イル・ハン国の君主はモンゴル語でqanと名乗り、これがペルシア語では「khān」と表記・発音されたため、アラビア文字使用圏では最終的にハーン(khān)/ハン(khan)という形で定着した。なお、ペルシア語では、モンゴル帝国(元)のカアンを、カーン(qān)あるいはカーアーン(qā'ān)と表記しており、モンゴル語のカン(qan)に由来するハーン(khān)表記とははっきり区別されていた。ペルシア語のカーアーンは、のちに先述したハーカーン(khākān)に置き換わる。
一方、東の元・北元ではカアンの称号が最高君主の称号として広く用いられた結果、逆に本来一般の遊牧君主を指したカンの称号が廃れ、さらにやがてqの子音が変化してハーン(хаан/khaan)と発音されるようになった。
このような経緯の結果、モンゴル帝国時代のカアンとカンは現地の現代語によってカタカナ表記するとほとんど同じハーンという発音になる。このため、区別するためにモンゴル帝国のカアンを「大ハーン」と呼ぶこともある。
モンゴル高原では、元朝崩壊後もチンギス・ハーンの子孫でないものがハーン(カン、カアン)の位につくことはタブー視され、チンギス・ハーンの子孫ではない遊牧君主はたとえ実力でモンゴルを制覇したとしてもハーンとはなれない慣行が生まれた(チンギス統原理)。15世紀にこれを無視してハーンに即位したオイラトのエセンは、モンゴル高原をほぼ統一するほどの勢威を誇ったにもかかわらず、ハーン即位後すぐに内紛によって殺されてしまった。
チャガタイ・ハン国分裂後の中央アジア、キプチャク・ハン国分裂後のキプチャク草原でも同様の現象が起こったが、一方でモンゴル帝国の支配からはやや離れたアナトリア半島ではチンギス家の血を引かないオスマン家がハンの称号を帯び、イランやインドでは地方総督や小部族の首長などがハーンを名乗るようになっていた。さらに時代が下るとチンギス統原理も揺らぎ始め、チンギス・ハーンの血を引かないジュンガルやマンギトなどの部族長がハーンを名乗った。
東アジアでは、17世紀初頭に女直のヌルハチが満州(女直)のハンに即位して後金を立てていたが、後金はヌルハチの子ホンタイジのときモンゴルのチンギス裔のハーンを服属させ、満州だけではなくモンゴルに対してもハーンとして君臨することとなった。こうしてモンゴルのハーンとなった満州のハーンは、自らを元の大ハーン政権の後継王朝と位置付け、国号を清と改める。清の支配下では、ハーンは清朝皇帝の臣下である遊牧民の王侯が称する称号、爵位の一種としても使われた。