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「染谷源右衛門」の版間の差分

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江戸幕府も現地を調査しながら、[[下総台地]]の[[新田開発]]や[[利根川]]と[[江戸]]を結ぶ[[水運]]の便なども期待できるとしてこれを認め、源右衛門が工事を請け負うとともに幕府から約30万両が貸し与えられた。
江戸幕府も現地を調査しながら、[[下総台地]]の[[新田開発]]や[[利根川]]と[[江戸]]を結ぶ[[水運]]の便なども期待できるとしてこれを認め、源右衛門が工事を請け負うとともに幕府から約30万両が貸し与えられた。


しかし、工事は困難を極めて資金は底をついてしまい、全財産を工事に投じた源右衛門自身も破産してしまったため、工事は失敗に終わった。
しかし、工事はこんなんを極めて資金は底をついてしまい、全財産を工事に投じた源右衛門自身も破産してしまったため、工事は失敗に終わった。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2024年12月11日 (水) 03:07時点における版

染谷 源右衛門(そめや げんえもん、生没年不詳)は、江戸時代中期(18世紀前半)の下総国千葉郡平戸村(現在の八千代市平戸)の名主印旛沼干拓を最初に試みた人物として知られる。

享保9年(1724年)、江戸幕府に対して印旛沼の水害防止のために印旛沼のほとりにある平戸村から同郡検見川村(現在の千葉市花見川区検見川町)に向けて約4里12町(約17㎞)の水路を開いて印旛沼の水を内海へ流すことを願い出た。

江戸幕府も現地を調査しながら、下総台地新田開発利根川江戸を結ぶ水運の便なども期待できるとしてこれを認め、源右衛門が工事を請け負うとともに幕府から約30万両が貸し与えられた。

しかし、工事はこんなんを極めて資金は底をついてしまい、全財産を工事に投じた源右衛門自身も破産してしまったため、工事は失敗に終わった。

参考文献

  • 川村優「印旛沼干拓」(『国史大辞典 1』(吉川弘文館、1979年) ISBN 978-4-642-00501-2
  • 上田正昭 ほか監修『講談社日本人名大辞典』(講談社、2001年) ISBN 978-4-06-210800-3 「染谷源右衛門」P1070

外部リンク