「城戸三郎」の版間の差分
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その後も城戸は、同紙で「タイムリー・トピックス」と題したコラムの執筆を続けた。また、1930年代には『新世界新聞{{#tag:ref|1894年に創刊された『日本人キリスト教青年会(ヘイト青年会)』の機関紙である。|group=注釈}}』でも、同名の1面コラムの執筆を開始した。 |
その後も城戸は、同紙で「タイムリー・トピックス」と題したコラムの執筆を続けた。また、1930年代には『新世界新聞{{#tag:ref|1894年に創刊された『日本人キリスト教青年会(ヘイト青年会)』の機関紙である。|group=注釈}}』でも、同名の1面コラムの執筆を開始した。 |
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日米開戦が不可避となった[[1941年]]に、JACLの会長に就任した。それに伴い、当時山間地区評議会議長だった[[マイク正岡|マイク・マサオカ]]を、その自己主張の強い性格と、[[民主党 (アメリカ合衆国)|民主党]]の{{仮リンク|エルバート・D・トーマス|en|Elbert D. Thomas}}[[アメリカ合衆国上院|上院]]議員といった、白人の有力者と太いパイプを有している事を評価し、団体では初となる有給書記長に選出した<ref name="tak"/>。また、[[連邦捜査局|連邦捜査局(FBI)]]や[[アメリカ海軍情報局|海軍情報局(ONI)]]のほか、[[アメリカ合衆国国務省|国務省]]特任官であるカーティス・B・マンソン{{#tag:ref|1941年の初頭から、FBIやONIと連携して、[[アメリカ合衆国西海岸|西海岸]]に居住する日系人の調査を実施。同年11月7日に「90%以上の2世は、合衆国に対して忠誠であり、日系人より[[共産主義]]者の方が危険である」と結論付けた『マンソン報告書』を、[[ホワイトハウス]]に提出した。|group=注釈}}とも緊密な連携を図った。 |
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=== 戦時中 === |
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Saburo Kido 城戸 三郎 | |
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生誕 |
1902年10月8日 アメリカ合衆国 ハワイ準州 ヒロ |
死没 |
1977年4月1日(74歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州 サンフランシスコ |
国籍 | アメリカ合衆国 |
職業 | カリフォルニア州弁護士・新聞編集者 |
城戸 三郎(きど さぶろう、英語: Saburo Kido、1902年10月8日 - 1977年4月1日)は、アメリカ合衆国のロビイスト・カリフォルニア州弁護士・新聞編集者。日系アメリカ人市民同盟(JACL)の創設メンバーの一人でもある。
太平洋戦争下では、JACL会長を務め、強制収容をはじめとする、日系人を取り巻く様々な難局を乗り切った。戦後は、外国人土地法や学校隔離、漁業権をはじめとする、日系人を含めた非白人やアメリカ市民権を持たない住民の公民権に関わる、様々な訴訟に携わった。
生涯
[編集]前半生
[編集]1902年に当時のハワイ準州ヒロで、父・三之助と母・はるの間に、三男として生まれる。
19歳でカリフォルニア州へ渡り、1926年にカリフォルニア大学ヘイスティングス・ロー・スクールを修了。その後は、サンフランシスコに居を構え、法律実務を開始した。1928年には、原田みね[注釈 1]と結婚した。
父はヒロ酒造株式会社で、醸造と経理の仕事を担当していたが、禁酒法の煽りを受けて失業。三郎が本土へ渡った直後に、夫婦で日本へ帰国し、親子は今生の別れをする事となった。
多くの年長2世リーダー達と同様に、共和党員だった城戸は、日英両語に堪能だった事もあって、「2世は“日米の架け橋”としての役割を担うべき」という思想を提唱し続けた。
1929年には、JACLの創設メンバー[注釈 2]となると同時に、同団体の機関紙である『パシフィック・シチズン(P.C.)』の前身である『日系市民』の創刊にも携わる事となった。同年10月15日に発刊された創刊号の序文には、
と記した[2]。
その後も城戸は、同紙で「タイムリー・トピックス」と題したコラムの執筆を続けた。また、1930年代には『新世界新聞[注釈 3]』でも、同名の1面コラムの執筆を開始した。
日米開戦が不可避となった1941年に、JACLの会長に就任した。それに伴い、当時山間地区評議会議長だったマイク・マサオカを、その自己主張の強い性格と、民主党のエルバート・D・トーマス上院議員といった、白人の有力者と太いパイプを有している事を評価し、団体では初となる有給書記長に選出した[3]。また、連邦捜査局(FBI)や海軍情報局(ONI)のほか、国務省特任官であるカーティス・B・マンソン[注釈 4]とも緊密な連携を図った。
戦時中
[編集]1941年12月7日に真珠湾攻撃が起きた直後に、城戸はJACL会長としてフランクリン・ルーズベルト大統領に対して、
「この非常時に、我々は大統領閣下と母国に対して、最大限の協力を惜しまない事を約束します。日本が我が国への攻撃を開始した今、我々は同胞と共に、この侵略を撃退すべく、あらゆる努力を払う準備ができています」
と綴った電報を送った。
年が明けてすぐに城戸は、マサオカ書記長をはじめとしたJACLの指導部と共に、西海岸に居住する日系人に対する強制収容の執行にあたって、団体の総意として政府へ協力する決断を下した。1942年3月8日にサンフランシスコで催された、JACL緊急全米評議会会議において、城戸は代表者達に向けて、強制収容の執行にあたって「自らを奮起させつつ、喜んで協力させてもらう」事を訓示したうえで、連邦政府に対しては、「国家の被後見人となれる事への感謝の意」を表する旨を述べた[4]。
その後の城戸とマサオカは、収容所を管理するシステムの構築に関して、戦時転住局(WRA)と協議を重ねた。この様に、政府に協力する一方で、同胞に対しては「コミュニティの代弁者」としての顔を向けるという、JACLの風見鶏的な姿勢は、日系人間の分裂を露呈させる事となった。
そうした背景もあって、城戸は家族と共に収容されたポストン収容所において、他のJACL指導者達[注釈 5]と同様に、迫害の標的となった。城戸の場合は、1942年9月と1943年1月28日の2度に亘って、他の収容者から襲撃を受けている。特に2度目の暴行被害を受けた際は、棍棒を所持した者を含めた8名から、病院に搬送される程の重傷を負わされてしまった。この事を期に、城戸一家はWRAから収容所を離れる事を許可され、当時JACLの本部が一時移転していたユタ州ソルトレイクシティに、居を構える事となった。
その後は、フォート・ダグラスの陸軍基地で日本語教師を務める傍ら、P.C.紙における執筆を含めた、JACL会長としての仕事も再開する事となった。
1944年にハートマウンテン収容所で、組織的な徴兵抵抗運動が展開された際は、P.C.紙の紙面において、
「“徴兵拒否”が同情・容認される事は、決して有り得ない。これはアメリカ市民として、最も許されない犯罪の一つである」
と述べ、一連の動向を批判した[4]。
後半生
[編集]終戦後は、1945年末を以てJACLの会長を退任した。それと前後して、A・L・ウィリン[注釈 6]やフレッド・オークランドといった、戦時中から日系人の人権擁護に尽力していた白人弁護士と共同事務所を立ち上げ、数々の公民権訴訟に携わる事となった。
例としては、1世の漁師である高橋虎男が、市民権を持たない外国人による漁労を禁じた、カリフォルニア州における戦時法の撤廃を請求した『トラオ・タカハシ対漁業狩猟委員会事件』において、城戸達は原告側代理人となった。1948年6月7日に連邦最高裁は、原告側の請求を認める判決を下した。
それと平行して、1947年に城戸達の事務所は、『オーヤマ対カリフォルニア州事件』における原告による連邦最高裁への上訴を引き受け、1948年1月19日に、外国人土地法を事実上執行不能にする、画期的な判決を勝ち取る結果となった。
また、JACLが原告となり、人種差別による学校隔離や制限的不動産約款を否定する判決が下された裁判においても、城戸達は代理人としてアミカス・ブリーフを提出する役割を果たすなどした[8]。
1948年に共同事務所から独立し、ロサンゼルスに個人事務所を開設した。以降もP.C.紙の主筆を務める傍ら、1953年には新日米新聞社[注釈 7]の創業者である籾井一剣から、同社の経営を引き継ぐ形で、社長に就任した[9]。
1970年に健康上の問題から、個人事務所を閉鎖し、引退生活に入る[10]。1977年に、サンフランシスコで逝去した。
人物像
[編集]- 『カリフォルニア州合同移民委員会[注釈 8]』の指導者であったバレンタイン・S・マックラッチーとは、人種や思想的な立場を超えて、私的な面では友好関係を築いていた、と伝えられている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ ハラダハウスの所有者であった原田重吉の長女にあたる。
- ^ 城戸は、1928年10月19日に『新アメリカ市民協会』を立ち上げ、自らが代表に就任。翌1929年4月5日に、サンフランシスコで開催した同協会の大会において、シアトルの『シアトル革新市民連盟』とフレズノの『アメリカ忠誠協会』に対し、連合組織の結成を呼び掛け、これがJACL発足のきっかけとなった[1]。
- ^ 1894年に創刊された『日本人キリスト教青年会(ヘイト青年会)』の機関紙である。
- ^ 1941年の初頭から、FBIやONIと連携して、西海岸に居住する日系人の調査を実施。同年11月7日に「90%以上の2世は、合衆国に対して忠誠であり、日系人より共産主義者の方が危険である」と結論付けた『マンソン報告書』を、ホワイトハウスに提出した。
- ^ 城戸以外では、アメリカでは初となるカフェレストランのチェーンストアを、両親と共に創業したフレッド・タヤマが、マンザナー収容所で1942年12月5日に、フレズノの歯科医師だったトーマス・ヤタベと、ロサンゼルス聖公会の牧師だったジョン・ヤマザキが、ジェローム収容所で1943年3月6日に、各々暴行を受ける事態に見舞われている[1][5][6]。
- ^ 1900年にロシア帝国で出生し、8歳で家族と共にアメリカに亡命する。ハーバード大学・ボストン大学ロースクールを経て、1925年に法務博士号 (J.D.)を取得。アメリカ自由人権協会(ACLU)所属の弁護士として、法律実務を開始する。1942年11月にJACLの顧問弁護士に就任して以降は、コレマツ対アメリカ合衆国事件やヤスイ対アメリカ合衆国事件に、原告側代理人の一人として携わる。1949年末に同役職を退任した後も、ACLUの一員として、朝鮮戦争時におけるアメリカ軍による生物兵器の使用疑惑を報じ、扇動罪で起訴されたジャーナリストのジョン・ウィリアム・パウエル(余談ではあるが、彼の弁護活動にあたってウィリンは、中国へ渡航する為のビザ付きパスポートを、アメリカ国民としては初めて受領する事となった)のほか、ロバート・ケネディ暗殺事件の実行犯であるサーハン・ベシャラ・サーハンなどの弁護を担当した。1978年に逝去[7]。
- ^ 1947年に創業した当初から経営は苦しく、1967年に解散している。
- ^ 1907年12月に設立された『アジア排斥同盟』を母体として、1920年9月に『カリフォルニア排日同盟』に再編。更に、1924年7月1日に排日移民法が施行されると、排斥の対象をアジア系全般・メキシコ系住民にまで拡大したうえで、同名に変更された。
出典
[編集]- ^ a b 移民年譜 アメリカの場合
- ^ Nikkei Shimin , October 15, 1929, 2. Accessed on Jan. 11, 2018,
- ^ a b Jere Takahashi, Nisei/Sansei: Shifting Japanese American Identities and Politics (Philadelphia: Temple University Press, 1997)
- ^ a b Deborah K. Lim, \"Research Report Prepared for the Presidential Select Committee on JACL Resoluation #7 (aka 'The Lim Report'),\" 1990
- ^ Fred Tayama | Densho Encyclopedia
- ^ Buried But Not to be Forgotten – Little Tokyo’s Time Capsule | ディスカバー・ニッケイ
- ^ A.L. Wirin | Densho Encyclopedia
- ^ Greg Robinson, After Camp: Portraits in Midcentury Japanese American Life and Politics (Berkeley: University of California Press, 2012), 126–37, 200–11.
- ^ 第1回 日米修好100年を記念しまとめた1431ページ | Discover Nikkei
- ^ 『パシフィック・シチズン』1970年10月9日号より。
- ^ Bill Hosokawa, Nisei: The Quiet Americans (New York: William Morrow & Co., 1969), 195. Biographical sketch compiled from Bill Hosokawa, JACL in Quest of Justice: The History of the Japanese American Citizens League (New York: William Morrow, 1982)
- ^ Mark Rawitsch, The House on Lemon Street: Japanese Pioneers and the American Dream (Boulder: University Press of Colorado, 2012), 142
- ^ David Yoo, Growing Up Nisei: Race, Generation, and Culture among Japanese Americans of California, 1924-49 (Urbana: University of Illinois Press, 2000).