「ノート:真田守信」の版間の差分
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== 信尹の子 政信の件 == |
--[[特別:投稿記録/14.10.32.66|14.10.32.66]] 2024年6月30日 (日) 08:43 (UTC)== 信尹の子 政信の件 == |
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「信尹の次男に政信という人物は存在しない」と断言していますが何を根拠にしたのでしょうか。 |
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::::::::只、それなら もう ノートや会話で 回答していると思われます。 |
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::::::::以上、宜しくお願いします。--[[利用者:深谷藤原三能|深谷藤原三能]]([[利用者‐会話:深谷藤原三能|会話]]) 2024年6月30日 (日) 00:39 (UTC) |
::::::::以上、宜しくお願いします。--[[利用者:深谷藤原三能|深谷藤原三能]]([[利用者‐会話:深谷藤原三能|会話]]) 2024年6月30日 (日) 00:39 (UTC) |
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:::::::::えぇと、どうもこちらの文字を読めて無いようなので結論のみ。 |
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:::::::::①二説に増えたのは貴方が出展をある説を勝手に削除してたからです。その後、編集者に付きまといと個人攻撃を行ってブロックされている事が確認できます。 |
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:::::::::②[[利用者:深谷藤原三能|深谷藤原三能]]氏と[[利用者:深谷 三能|深谷 三能]]氏ですが、両方とも貴方のアカウントであるならしかるべき処置を取ってください。 |
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:::::::::③事有る事に自サイトのリンクを張って独自研究を展開しないでください。 |
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:::::::::④貴方が追加した二説目ですが、そのうち削除されます。 |
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:::::::::以上です。 |
2024年6月30日 (日) 08:43時点における版
--14.10.32.66 2024年6月30日 (日) 08:43 (UTC)== 信尹の子 政信の件 ==
「信尹の次男に政信という人物は存在しない」と断言していますが何を根拠にしたのでしょうか。
実は 幕府の系図には載っていませんが、信尹が若い頃 武田信玄の命により、加津野家に養子に行った時に出来た子がおります。
政信は この出羽(幼名)であり、政信の四男が守信と考えられる。
伊達世臣家譜には 阿梅が片倉小十郎の後妻になっているのを知り 守信が自分で白石に赴いたことが記されております。
尚、「伊達世臣家譜」や『真田家御事蹟稿』は、藩主の命で 漢文の知識や変体仮名などの知識を持った学者クラスの人が、結果として デタラメな内容なものになれば、切腹覚悟で引き受け、書き上げたものであるので 正確なものである。
さて、皆様方は この事に対して 何かコメントがあれば 返信ください。--深谷藤原三能(会話) 2024年6月18日 (火) 02:00 (UTC)
- 以前より興味深く拝見しております。さて、ご意見ですが「真田信尹(加津野昌春)に加津野出羽と称した子がいた記録はあるようですが、出羽=真田政信とはあなたの示した資料では読み取れません」
- 学者クラスの人とか、切腹覚悟とか、あなたの感想はどうでもいいです。あなた以外の人が書いた、私にも参照できる根拠資料を示してください--みやここんぶ(会話) 2024年6月24日 (月) 09:00 (UTC)
- お世話になります 深谷藤原です。
- その証拠は まだ ないです。しかし、状況証拠があります。
- 信尹の子 政信と記した機関誌(東京帝国大学 史料編纂掛編集)です。
- このページの5番目です。
- 幕府の系図に載っていなくても、伊達世臣家譜 及び 宮城県姓氏家系大辞典に政信の子 守信、
- とあるのだから 政信は 居たと言う事であり、政信には 親がいないと生まれるわけがありません。
- 取り急ぎ 以上です。 --深谷藤原三能(会話) 2024年6月24日 (月) 14:08 (UTC)
- 証拠がないとはビックリです。では長々と貴方が書かれた「真田政信=加津野出羽説」はあなたの想像ですね。他人の説をデタラメだと言う割に、ご自身は平気でデタラメを書かれるのは呆れるばかりです。
- また、「宮城県姓氏家系大辞典」は「伊達世臣家譜」の引用と本文中に書いてありますので、証拠足りえません。あなたは同じものを2回出してるだけです。また、その記事には政信は「信尹の数世孫」と書いてあります。次男ではありません。
- 「信尹の次男に政信という人物は存在しない」という記述は、「真田政信という人物がこの世に存在しない」という意味ではありません。他人を非難する前にちゃんと内容を読んでください。
- それを前提として、最後にあなたが示した片倉信光の寄稿(仙台郷土研究)は真田政信が信尹の子であると記した資料として一定の価値が認められますので、本件注釈は削除の余地があると私は思います--みやここんぶ(会話) 2024年6月25日 (火) 07:10 (UTC)
- お世話になります 深谷藤原です。
- コメント有難うございました。
- 信尹の子は 幕府の系図には 2人の名が載っており、幸政、信勝です。
- この2人が政信でなければ 他に男子がおれば、消去法で その子が出羽となるのです。
- その証拠に先ほど提示した片倉信光の寄稿(仙台郷土研究)には 信尹の子に政信が見えたでしょ。
- また、貴方が「同じものを2回出してるだけ」と言っている そのページの4項は まさに仙台真田家の「家の書置き」です。蔵王町が数万部 国民の税金で刷ったパンフレットの画像です。
- よく、ご覧ください、真田内記(政信)の親父は 隠岐守信尹となっているでしょ。
- そのページには 5項あるので 全部見ない人がいると思うので 2回 記したのですよ。
- 場合によっては 別のメールの時には 再度記すかもしれません。
- これでハッキリと 信尹と政信は 親子の関係がわかるでしょ。
- 尚、 伊達世臣家譜は どのように記されたかと言う事がわかれば 数世が理解できるものと思います。
- 即ち、伊達世臣家譜を記すに当たって 藩主の命を受けた儒学者 田辺 希文は 真田 信成(3代目)を呼び出して 話を聞いた時に 信成は曾祖父の政信まで わかっても信尹との関係が よく わらなかった。
- 或いは 出した書面に 信尹との関係が分からなかったので、数世の孫と記して、田辺 希文に提出した。
- 仙台に政信 信尹の墓があれば 確認できたが墓は甲州である。
- 尚、家系の件では 孫だか 子だか はっきりしない時は 無難にやりすごすために「数世の孫」と書くのです。
- 兎に角、宮城県姓氏家系大辞典には ハッキリと 「政信の子 守信」と記されていて、
- この辞典は 真田家の「家の書置き」等とも 合致しており、宮城県姓氏家系大辞典を否定する理由になりません。
- 尚、宮城県姓氏家系大辞典は 複数の家系の専門家が書いたので、歴史学者が書いた本より 正確度は 高いです。
- 尚、デタラメの件は、
- 私がデタラメと記したのは 仙台人名大辞書の真田の項で、ウイキペディアの真田家のページではないですよ。よく 当辞書のページをご覧ください。
- 仙台人名大辞書の真田の項を一字一句読めば デタラメな事が理解できるものと思います。
- 以上です、宜しくお願いします。--深谷藤原三能(会話) 2024年6月25日 (火) 13:13 (UTC)
- 何をおっしゃりたいのかがわかりません。あなたの感想や妄想を排して、他者に読ませることを前提に書いてください。--みやここんぶ(会話) 2024年6月26日 (水) 11:39 (UTC)
- お世話になります 深谷藤原です。
- だいぶ 長々と回答した思いですが、他者は これで理解できていると思いますが。
- 貴方に質問があれば 具体的に質問してください。
- 以上、宜しくお願いします。--深谷藤原三能(会話) 2024年6月26日 (水) 12:32 (UTC)
- 長々と本題に関係ないことを回答するから、誰にも理解をされないのです。少なくともウィキペディアという場において、この1年以上、あなたの意見に賛同した人はいませんでした。根本的にあなたは学術的な精査を行うという素養が欠如しています。50年勉強をしたんだか何だか知りませんが、全く資質がありません。
- もう一度言いますが、「信尹の次男に政信という人物は存在しない」という記述は、「真田政信という人物がこの世に存在しない」という意味ではありません。出羽=政信だという根拠を出せというのに、根拠はないと言い、政信という人物は存在したのですという頓珍漢な主張を続けるから、意味が分からないといわれるのです。
- 幕府の系図に出羽の名がないから、出羽は政信であるなどという珍説はその最たるものです。系図に残らない出羽と政信という二人の子供がいた可能性や、幸政や信勝が出羽を名乗った可能性も十分にあり得るのに、あなたはその検証を行った痕跡すらありません。初めに結果がありきで、その結果に当てはまるストーリーを勝手に作り出すからほかの可能性が考慮できないのです。あなたのしていることは小説です。ぜひご自慢の500万アクセスのあるサイトでご自由に公開していてください。
- あなたは『仙台人名大辞書』がよほど憎いのか知りませんが、『仙台人名大辞書』は闇雲にデタラメだといい、『宮城県姓氏家系大辞典』や『伊達世臣家譜』を妄信しているだけです。『伊達世臣家譜』が正しい根拠を示せと言われても、やれ家系の専門家が書いただの切腹覚悟だの意味不明の妄想を書き立てて他のユーザーからも顰蹙を買っています。
- 「数世の孫」の件についても、1から10まであなたの妄想ですよね?
- 『伊達世臣家譜』の執筆時に政信と信尹の関係が分からなかったのなら、なぜ書置きには政信は信尹の子であると書かれているのですか?なぜ幕府の旗本である真田信尹の系図について、幕府の系図よりも仙台藩の系譜を信用できるのですか?真田政信の墓は甲州にあると書かれましたが、その根拠は何ですか?あなたの常識などどうでもよいです。根拠となる資料を示してください。
- 私は最初に「あなた以外の人が書いた、私にも参照できる根拠資料を示してください」と言いました。その最低限の要求すら満たしていないから、あなたは不誠実だというのです。貴方の妄想は完全に破綻しています。
- いいですか、他のユーザーは『宮城県姓氏家系大辞典』や『伊達世臣家譜』の内容を誤っていると言っているのではありません。あなたがそこまでして『仙台人名大辞書』を否定する根拠を示せと言っているのです。二つの説が存在することは学説にはよくあることです。一方の学説を否定するのであれば、常識とか想像とかではなく、根拠を示してください。根拠が示せないのであれば、黙るべきです。
- デタラメと言われたことがよほど引っかかったようですが、「深谷藤原三能さんがウィキペディアの真田家の記事がデタラメと言った」などと私は一言も言っていません。『仙台人名大辞書』に記された説をデタラメだと言うのに、ご自身は何の根拠もなく平気でデタラメを書くから呆れかえったのです。あなたに他人をデタラメ呼ばわりする資格はありません。
- また、「宮城県姓氏家系大辞典は 複数の家系の専門家が書いたので、歴史学者が書いた本より 正確度は 高いです。」などと言っていますが、あなたに歴史学者と「家系の専門家」とやら(そもそも歴史学者ではない家系の専門家って何ですか?)の正確性を比較する資格もありません。あなたの妄想に合致するのが『宮城県姓氏家系大辞典』だから高く評価し、あなたの妄想から外れるから『仙台人名大辞書』を貶めているのです。それは非常に不誠実な態度です。
- あなたは1年以上前からウィキペディアの利用方法について多くの方から叱責を受けているにもかかわらず、投稿履歴の見方だのの枝葉末節ばかり固執して、根本的な独自研究への指摘については確信犯的に無視しています。この場にはふさわしくない人間だと考えます。--みやここんぶ(会話) 2024年6月26日 (水) 13:07 (UTC)
- お世話になります 深谷藤原です。
- * 私の意見に賛同したか どうかは わかりませんが 私が刺激になって 去年の夏、守信の頁に 二説あり、
- として、一説加えている 勇気ある人がいるでしょ。
- * 政信と言う人物 云々について、
- 当ページの前後の記述から 一般的にみると「信尹には 政信と言う子が居ない」と 解釈されますよ。
- * 幸政や信勝が出羽を名乗った可能性も十分にある云々について、
- 寬政重修諸家譜によれば
- 幸政は 1653年(承応2年)に亡くなっております。
- 信勝は、1677年(延宝5年)に亡くなっております。
- そうなると 守信が白石に赴いた(1633)理由として、父(政信)の死に落胆したことが 伊達世臣家譜に載っているので 政信は1632年頃 亡くなったことがわかります。
- そうなると、出羽が幸政や信勝でないことがわかる。
- 尚、信勝は 2人いるので注意が必要です。
- また、私は 幕府の系図に誤り有り、と言っているのでは 有りません。
- 出羽は 隠岐守が若い頃 養子(加津野家)に行った時に出来た子なので 真田家としては省いて
- 幕府に家譜を提出したものと思います。幸村も寛政系図に載っていても、寬永系図には 載ってないでしょ。
- それぞれの お家の都合ですよ。
- 尚、私のサイトは 概ね史実に基づいて記しています。単なる私の推測ではありません。
- *『伊達世臣家譜』の執筆時に政信と信尹の関係が分からなかったのなら、「なぜ書置きには政信は信尹の子であると書かれているのですか」の件。
- 書置きは 守信の子 辰信が作り、その後、信成が儒学者 田辺 希文に 数世の孫と、伝えた(口頭 あるいは 紙で)と言う事だと思います。
- 考えられることは 薄い紙一枚なので しまい込んでしまっていた為、見つからなかったものと思われます。
- 尚、数世の孫の件は 先ほど記しました。
- * 仙台人名大辞書の真田の項のデタラメの件
- 私は 仙台人名大辞書が全体的に 間違っていると言っているのでは ありません。
- 真田の項に関しては 複数の間違いが載っていると 申しているのです。
- 具体的には 幸村の娘や大八が片倉氏に大阪城で 駕籠で保護された件などについて。
- 伊達世臣家譜には「片倉小十郎重綱、幸村の女を虜にし」と 記されているし
- 片倉代々記には「大阪落城の時 これ(女)を得て」とかかれており、得てとは 乱取りであり、保護ではありません。
- 仙台叢書の中の老翁聞書には「重綱公、之を連れ帰り」と記されております。
- また、「真田氏を憚り 片倉久米之介を称し」と言う所も間違いで、守信は 真田の苗字で 伊達忠宗に仕え、晩年に 片倉に変えたのです。
- 尚、大八が保護された事実を記している古文書は 有りません。
- 皆さん 独自研究 独自研究と 仰るが 私は古文書や事典に記されていることを記しているだけですよ。
- とりあえず以上、他に質問があれば 何なりと どうぞ。--深谷藤原三能(会話) 2024年6月27日 (木) 05:38 (UTC)
- 何をおっしゃりたいのかがわかりません。あなたの感想や妄想を排して、他者に読ませることを前提に書いてください。--みやここんぶ(会話) 2024年6月26日 (水) 11:39 (UTC)
- 長々とした独自出展は上の方で無意味だと説明されておりますのでスルーしますが、数点だけ。
- 「* 私の意見に賛同したか どうかは わかりませんが 私が刺激になって 去年の夏、守信の頁に 二説あり、として、一説加えている 勇気ある人がいるでしょ。」
- との事ですが、履歴を見る限り居ません。深谷藤原三能氏と深谷 三能氏(よく似た名前の別アカウント)の二名だけです。
- Quark Logo氏、USSR-Slav氏、Mt.Asahidake氏の三名の編集は、貴方が出展のある説を消して独自研究の自説に差し替えた為に、仲裁として二説併記で貴方の強行を仲裁しようとしたのと、独自研究であることに気づいて差し戻したIP氏の対応もまたwikiの手法として問題があった為、編集合戦や論争仲裁の為に行われたものです。
- この3名は出展偽装に加担した訳ではありません。
- そもそも情報が合成された「出典偽装」で或る事まで調査されていませんし、気づいても居ないでしょう。
- 深谷氏が主張する説に出展や根拠が証明されていないと判明している現在では趣が違っています。
- 併記した事が間違いであった以上、議論を経ずして併記を削除する必要性すら在ります。(上でみやここんぶ氏が説明済みですね)--14.10.32.66 2024年6月29日 (土) 14:57 (UTC)
- お世話になります 深谷藤原です。
- 「勇気ある人がいるでしょ。 との事ですが、履歴を見る限り居ません。」の件
- * 6月頃までは 一説だけだったが 夏に一説増えて 「下記の二説ある」として。増えているのが
- 確認できないのでしょうか。
- 「深谷藤原三能氏と深谷 三能氏(よく似た名前の別アカウント」の件
- * これは 私の記憶喪失によるもので、悪意があれば 同じ文字をつかうはずはないでしょ。
- 9年前の真田丸放映の年に ウイキペディアの真田守信の頁を見て、これには 間違いがあると思い、ページの編集を試みたが 間違いの証拠不足やウイキの規則も殆ど把握していなかったので
- やめたのです。
- ところが 8年経った去年、ページが変わってないので アカウントを作って、修正しようと思ったがパソコンが3台目になっており、私の記憶も消えていたので 深谷藤原で作っただけです。
- 誤解を与えのは 私の不徳の致すところと ご理解ください。
- 「Quark Logo氏、USSR-Slav氏、Mt.Asahidake氏の三名は 出展偽装に加担した訳ではありません」の件
- 3名が出展偽装に加担した、とは 私は 何も記していませんが 他の人と勘違いしているのではないでしょうか。
- 「深谷氏が主張する説に出展や根拠が証明されていないと判明している」件
- * 今回 私が問題提起したのは 信尹の子の事ですので、私は ノートに信尹には 若い頃できた出羽と言う子の「武田勝頼判物」の証拠を出しております。
- 「議論を経ずして併記を削除する必要性すら在ります。」の件
- * これは 仙台真田家の事でしょうか。それなら真田家のノートに記してください。
- 只、それなら もう ノートや会話で 回答していると思われます。
- 以上、宜しくお願いします。--深谷藤原三能(会話) 2024年6月30日 (日) 00:39 (UTC)