「宮城県立視覚支援学校」の版間の差分
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|特別支援学校コード = 04451C |
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|郵便番号= 980-0011 |
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|所在地 = [[宮城県]][[仙台市]][[青葉区 (仙台市)|青葉区]][[上杉]]六丁目5番1号<br />{{Infobox mapframe|zoom=13|type=point|marker=school}} |
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| 緯度度 = 38| 緯度分 = 16| 緯度秒 = 39.1 |
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| 経度度 = 140| 経度分 = 52| 経度秒 = 41.4 |
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== 所在地 == |
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== 関連項目 == |
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2024年5月18日 (土) 22:13時点における版
宮城県立視覚支援学校 | |
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北緯38度16分39.1秒 東経140度52分41.4秒 / 北緯38.277528度 東経140.878167度座標: 北緯38度16分39.1秒 東経140度52分41.4秒 / 北緯38.277528度 東経140.878167度 | |
過去の名称 |
(宮城県立盲啞学校) 宮城県立盲学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 宮城県 |
設立年月日 | 1948年4月1日 |
創立記念日 | 1914年5月15日 |
共学・別学 | 男女共学 |
設置学部 | 幼稚部、小学部、中学部、高等部、専攻科 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | E104211010014 |
特別支援学校コード | 04451C |
所在地 | 〒980-0011 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
宮城県立視覚支援学校(みやぎけんりつ しかくしえんがっこう)は、宮城県仙台市青葉区にある県立特別支援学校。旧称「宮城県立盲学校」。視覚障害を教育対象としている。
概要
1903年5月に、折居松太郎がキリスト教会内に開設した盲人日曜学校と、1906年4月に、菅原通が自宅に開設した私立唖人学堂が前身となっている。
折居松太郎が市内東六番に開設した学校は、私立東北盲人学校となり東二番町、二十人町、小田原金剛院町、新町と移転を繰り返した。一方、菅原通の開設した唖人学堂は、北四番丁の自宅敷地内に隣接していた(現在の松尾神社向かい側)。
そして、1914年4月、外記町(現在の青葉区本町3)に宮城県立盲亜学校が開設され、これと折居松太郎の盲人日曜学校、菅原通の私立唖人学堂が合併する形で、学校経営がなされた。
創設者
- 折居松太郎
- 菅原通
教育目標
視覚等の障害を克服して調和のとれた人格の形成につとめ,社会の一員として自主的・積極的に生きる人間を育成する。
経営方針
- 明るく・楽しく・仲よく
- (1) 学校のすべての教育活動は法規にのっとり,社会の要請と児童・生徒の実態を重視して運営する。
- (2) 職員はそれぞれの立場で教育目標を指向し,全体との調和を図りながら慎重に計画し実践する。
- (3) 職員と児童・生徒の自主的・創造的活動を尊重する。
- (4) 学校の運営の基礎を職員と児童・生徒相互の敬愛に基づく和におく。
重点目標
- (1) 児童・生徒の実態理解をさらに深め・基礎学力の充実を図る。
- (個々の能力の伸長を目指す)
- (2) 重複児童・生徒の実態を踏まえた効果的指導のあり方を研究実践する。
- (3) 地域や他校との交流を推進する。
- (4) 適切な進路指導を推進する。
- (5) あはき法国家試験に対応した指導体制を確立し,理療師としての道を拓く。
- (6) 全国盲学校ネットワークの実施に伴い,情報機器の有効な活用を促進する。
- (7) 教育相談の充実を図り、地域の視覚障害児教育センター的役割をめざす。
ヘレン・ケラー
宮城県立盲学校には、1937年と1948年の二度にわたってヘレン・ケラーが訪れている。
その関係から、もともとは同一の学校であり、後に分離した宮城県立聾学校(宮城県立ろう学校を経て、現在の宮城県立聴覚支援学校)の校庭には、ヘレン・ケラーの来校を記念してその銅像が存在している。