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{{神社|名称=建功神社|所在地=台北市南門町六丁目2番地(現在の台北市中正区)|祭神=1895年後の在台戦死、殉職、殉難者|画像=[[File:建功神社神殿.jpg|250px]]|社格=無格社|例祭=4月30日|創建=昭和3年(1928年)}}{{tw monument |
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{{神社 |
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|name = 国立中央図書館跡地 |
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| 名称=建功神社 |
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|formername = |
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| 画像=[[File:Kenkou Shrine.JPG|250px]] |
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|image = National Taiwan Arts Education Center-exhibition room.jpg |
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| 所在地=台湾台北州台北市南門町 |
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|imagename = |
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| 祭神=台湾開拓功労者 |
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|othername = |
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| 社格=無格社 |
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|formalname = |
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| 創建=1928年(昭和3年) |
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|level = [[歴史建築(中華民国)|歴史建築]] |
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|class = 衙署 |
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|date = 2013年6月11日 |
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|location = {{ROC}}[[台北市]][[中正区 (台北市)|中正区]]南海路43号 |
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|reg_url = https://nchdb.boch.gov.tw/assets/advanceSearch/historicalBuilding/20130611000001 |
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'''建功神社'''(けんこうじんじゃ)は、[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]の[[台湾]][[台北州]][[台北市 (日本統治時代)|台北市]]に存在した[[神社]]。国家のために殉難した人の霊を祭祀する[[招魂社]]として、[[台湾総督府]]の主導により、[[昭和]]3年(1928年)に建立された。[[社格|無格社]]。 |
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[[File:Kenkou-Jinjya-Seal.jpg|thumb|150px|建功神社の[[朱印 (神社仏閣)|御朱印]](1932年7月25日)]] |
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'''建功神社'''(けんこうじんじゃ)は、[[日本統治時代の台湾|日本統治時代]]の[[台湾]][[台北州]][[台北市 (日本統治時代)|台北市]]南門町(現在の[[台北市]][[中正区 (台北市)|中正区]])にあった[[神社]]である。 |
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建功神社の建築様式は独特であり、[[牌坊]]風の鳥居や拝殿の半球状のドームなど、従来の神社建築とはかけ離れた和洋中混合の建築様式は建立当時議論を呼んだ。 |
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社殿は[[鉄筋コンクリート構造|鉄筋コンクリート造]]で、中央のドームが特徴的であった。鳥居は、中国の牌坊を模した様式であった。社殿前の池とあいまって、「台北のタージ・マハル」とも呼ばれている。<ref >[http://blog.goo.ne.jp/jinjya_taiwan/e/26eaa9bbb30c340d7a19929cc075b775]な〜るほど・ザ・台湾「建功神社(前)〜既成概念を打破した井手薫」</ref> 一部改築されているが、社殿の建物は現存している。 |
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[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後、[[中華民国]]当局は建功神社を接収し、社殿を改築して博物館や図書館などの教育施設に転用した。2013年には一帯が「国立中央図書館跡地」として、[[文化部文化資産局]]により台北市歴史建築に指定された。拝殿は現在、国立台湾芸術教育館として利用されている。 |
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== 沿革 == |
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建功神社は[[国家]]のために殉難した人の霊を祭祀する招魂社であり、その設立は官民から高く評され、台湾の靖国神社とも呼ばれる<ref name=":2" />。建功神社が設立される以前は、台湾には殉職者を祀る決まった場所がなかった。 第1回招魂祭は1902年に台南で行われ、第2回招魂祭は1908年に台北で行われた。<ref name=":0">{{Cite book|title=建功神社誌|last=建功神社社務所|first=|publisher=|year=1928-07-12|isbn=|location=|pages=}}</ref>以後、招魂祭は[[濁水渓]]を境に、北は台北(最初は[[円山公園 (台北市)|円山公園]]、後に[[二二八和平公園|新公園]]<ref name=":1">{{Cite book|title=臺灣警察四十年史話|last=鷲巢|first=敦哉|publisher=|year=1938-04-28|isbn=|location=|pages=}}</ref>)、南は台南で毎年開催されるようになった<ref name=":0" />。 |
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[[台湾神宮]]の[[宮司]]の山口透は、1913年に[[台湾総督府]]に招魂社の設立を提議したが、提議は採択されなかった。その後1925年、弁護士の簑和は再び神社の建立を提議し<ref name=":2">{{Cite journal|title=近代化進程中建功神社的容顏與活動|author=魏可欣|url=https://journal.nmh.gov.tw/Control/Download_Counter.aspx?Control=1&Url=2&Para=4200|journal=國立歷史博物館學報|issue=54|doi=|others=|year=2016-12|volume=|page=|pmid=}}</ref>、また当年が台湾始政三十周年でもあったため、台湾総督の[[伊沢多喜男]]は始政三十周年の紀念事業として招魂社を創立し<ref name=":10">{{Cite journal|title=官祭招魂社創立|author=臺灣神職會|url=|journal=敬慎|issue=1|doi=|others=|year=1928-01-01|volume=2|page=|pmid=}}</ref>、社殿を常設し神職を配置し、遺族や一般民衆がいつでも参拝できるようにすることを発表した<ref name=":1" />。この目的のために、伊沢総督は東京に赴き、[[加藤高明]]首相に国庫に9万円の予算を組むよう要請し<ref name=":2" />、その後、[[台北植物園]]内の約4000坪の土地を招魂社建設用地として選定した。 |
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大正15年(1926年)4月30日の靖国神社の例祭日に<ref name=":10" />、神社の地鎮祭が舉行され、昭和3年(1928年)1月12日に台湾総督府よりこの招魂社の「建功神社」という社号が公布された。この名称は、明代の詩人[[丘濬]]の「挽伏羌伯」にある「一代知名將,三邊屢建功」及び、中国三国時代の文人[[陸機]]の「豪士賦」の「立德之基有常,而建功之路不一」に因んだもの。同時に、祭祀される者の資格も公布された<ref>{{Cite news|url=|title=建功神社社號十二日告示で發表 植物園內に建設中のもの|author=|date=1928-01-12|work=臺灣日日新報|publisher=臺灣日日新報社|accessdate=|language=|format=}}</ref><ref>{{Cite web |title=軍人軍属を神社に合祀するの件 建功神社創設趣旨書 |url=https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?NO=20&DB_ID=G0000101EXTERNAL&ID=%24_ID&LANG=default&image_num=21&IS_STYLE=default&TYPE=PDF&DL_TYPE=pdf&REFCODE=C04016072600&CN=1 |accessdate=2023-1-6 |author= |date=1928 |format= |publisher=海軍省公文備考 |language= |archive-date=2021-04-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210406141759/https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/listPhoto?NO=20&DB_ID=G0000101EXTERNAL&ID=%24_ID&LANG=default&image_num=21&IS_STYLE=default&TYPE=PDF&DL_TYPE=pdf&REFCODE=C04016072600&CN=1}}</ref>。 |
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昭和3年(1928年)3月に上棟式を挙行し、同年7月14日に鎮座式を挙行、翌15日に臨時例祭が挙行された<ref name=":0" />。総事業費は約12万8000円<ref name=":6">{{Cite journal|author=臺灣建築會|year=1933-01-28|title=建功神社本殿其他新築工事概要|url=|journal=建功神社本殿其他新築工事概要|volume=|issue=1|page=|doi=|pmid=|others=}}</ref>。[[ファイル:1934 建功神社祭1.jpg|サムネイル|建功神社の祭時における[[幣帛]]供進(1934)]] |
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臨時例祭時の出席者は、台湾総督[[川村竹治]]、遺族総代表(日本人、台湾人、原住民各1人)、文官総代表([[台北帝国大学]]校長[[幣原坦]])、武官総代表([[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]]参謀長)、各州庁民総代表、各州知事及び庁長、各国領事(アメリカ、イギリス、オランダ)、[[台北市長|台北市尹]]<ref name=":7">{{Cite journal|title=建功神社臨時例祭記事|author=社團法人臺灣教育會|url=|journal=臺灣教育|issue=|doi=|others=|year=1928-08-01|volume=|page=|pmid=}}</ref>。奉献品については、[[日本統治時代の台湾行政区分|五州三庁]]、台北市、[[在郷軍人会|帝国在郷軍人会]]台北市連合分会、[[台湾日日新報|台湾日日新報社]]よりあわせて11基の石灯篭が寄贈され、[[大阪毎日新聞|大阪毎日新聞社]]からは春日灯籠1対が寄贈された<ref name=":7" />。 |
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[[ファイル:建功神社鳥居.jpg|サムネイル|[[大韓帝国]]最後の皇太子、[[李垠]]の訪台時の参拝(1935)]] |
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建功神社の社格は無格社とされ、日本が1895年に台湾を領有して以来の台湾の戦死者、準戦死者、殉職者、準殉職者、殉難者を祀っていた。日本人あるいは台湾人、地位の高低とは無関係に、総督府が組織する「建功神社合格者資格審査会」を通過した者のみが祀られた<ref name=":3">{{Cite book|title=建功神社誌|last=建功神社社務所|first=|publisher=|year=1940-02-11|isbn=|location=|pages=}}</ref>。建功神社の祭神の審査員は1939年時点で、台北:[[高木友枝]]、河村徹、三好德三郎、林熊徵;台中:[[坂本素魯哉]]、[[辜顯榮]]、松岡富雄;台南:富地近思、許廷光;高雄:[[古賀三千人]]、藍高川<ref>{{Cite book|title=慰靈塔建設顛末記|last=早川|first=直義|publisher=嘉義白齡會|year=1939-06-15|isbn=|location=|pages=}}</ref>。 |
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1945年の[[台北大空襲]]により、建功神社の神橋の南側が損毀した<ref name=":8">{{Cite web |title=台北中正區內的歷史記憶:建功神社遺跡、建中紅樓及其週邊 |url=https://www.geog-daily.org/diqiushangdehuoxingrenxiaba/1947703 |accessdate=2023-1-6 |author=地球上的火星人 - 下巴 |date=2017-08-02 |format= |publisher=GEOGDAILY.地理眼 |language= |archive-date=2021-01-19 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210119113039/https://www.geog-daily.org/diqiushangdehuoxingrenxiaba/1947703}}</ref>。 |
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建功神社は第二次大戦後、台湾省行政長官公署教育處に接収され<ref>{{Cite web |title=日治時期臺灣地區神社的空間特性研究 |url=http://rportal.lib.ntnu.edu.tw/bitstream/20.500.12235/94400/6/n088723001006.pdf |accessdate=2023-1-6 |author=陳鸞鳳 |date=2007 |format= |publisher= |language= |archive-date=2022-03-13 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220313013532/http://rportal.lib.ntnu.edu.tw/bitstream/20.500.12235/94400/6/n088723001006.pdf}}</ref>、日本を象徴する多くの物品は除かれ、参道大門、鳥居、参道両側の石灯篭などの施設はいずれも現存しない。 |
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1954年、[[教育部 (中華民国)|教育部]]はこの地に総称して「南海学園」と呼ばれる、博物館の群立する一連の文化施設を整備した<ref name=":4" />。今日の建功神社の史跡は1955年に改築されたもので、利群建築師事務所の陳濯と李寶鐸の設計により、国立中央図書館の総館として、南海学園で最も早期に完成した建物となった。外観は中国北方の宮殿様式を示し、ドーム状の屋根は黄色の[[釉薬瓦]]で覆われた[[宝形造]]の尖塔で覆われ、ドームの内部は[[中華民国の国章]]で装飾され、建物の外壁は[[四合院]]形式で増築された<ref name=":8" /><ref>{{Cite web |title=《紙上明治村2丁目》:神社——從萬物有靈的戀愛聖地到國族聖殿 |url=https://www.thenewslens.com/article/97988 |accessdate=2023-1-6 |author= |date=2018-06-25 |format= |publisher=關鍵評論網 |language= |archive-date=2022-01-21 |archive-url=https://web.archive.org/web/20220121112335/https://www.thenewslens.com/article/97988}}</ref>。日本統治時代の神社建築の外観は大幅に変更されたが、当初の配置はほぼ維持され、建功神社の主建築、神池及び玉垣は保存されており、2013年に「国立中央図書館跡地」の名称で台北市歴史建築に指定された<ref>{{Cite web |title=國立中央圖書館舊址 |url=https://nchdb.boch.gov.tw/assets/advanceSearch/historicalBuilding/20130611000001 |accessdate=2023-1-6 |author= |date= |format= |publisher=文化部文化資產局國家文戶資產網 |language= |archive-date=2021-04-06 |archive-url=https://web.archive.org/web/20210406141756/https://nchdb.boch.gov.tw/assets/advanceSearch/historicalBuilding/20130611000001}}</ref>。 |
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ファイル:南海書院圓頂.jpg|ドーム内面現況 |
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ファイル:建功神社玉垣.jpg|建功神社の瑞垣 |
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ファイル:The former headquarters of ROC National Central Library headquarters in Nanhai Academy 20070209.jpg|神橋と池の現況 |
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ファイル:臺灣藝術教育館南海書院.jpg|代替文=|拝殿遠景 |
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</gallery> |
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== 建築 == |
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=== 特色 === |
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[[ファイル:Kenkou Shrine.JPG|サムネイル|367x367ピクセル|参道から拝殿を望む]] |
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建功神社は台湾総督府営繕課技師の[[井手薫]]が設計し、本殿及び拝殿の施工は浦田永太郎が担当した。建功神社は全体がコンクリートとレンガ造りの建物で、主要設施として本殿、拝殿、鳥居、神橋及び神池がある。社殿の外壁は北投窯業会社で生産した小口四丁掛け煉瓦と洗石で造られており、本殿の屋根は銅板瓦、向拝と側廊及び鳥居の屋根瓦は[[鶯歌区|鶯歌]]で生産した中国風の青瓦、本殿の内部は[[阿里山]]のヒノキ、瑞垣と神橋から拜殿間までの地面には[[士林区|士林]]産の板石が乱張りされていた<ref name=":6" />。鳥居の高さは約6メートル<ref name=":3" />、頂部には屋根瓦があり、表面は洗石<ref name=":6" />。神橋の長さは約20メートル<ref name=":3" />、表面は洗石<ref name=":6" />。[[ファイル:建功神社平面圖.jpg|サムネイル|建功神社平面図(1933)]]1929年10月には瑞垣、西参集所、神職宿舎を増築し、1930年3月に竣工した。同年9月に東参集所、神池の南側の対の灯篭を増設した<ref name=":3" />。 |
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[[ファイル:建功神社拜殿立剖面圖.jpg|サムネイル|拝殿]] |
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神社の見取り図では、参道、鳥居、神橋、手水や、拝殿から最奥部の本殿に至るまで南北の方向に軸を置き、その他の付属空間である控室や社務所は拝殿の両側に広げられ、施設の配置は一般的な神社と差は無いものであった。 |
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建功神社の建築様式は極めて独特であり、本体の構造は日本式であったが、外観は和洋中混合の建築様式であった。ドーム及び[[牌坊]]風の[[鳥居]]はこれまでの伝統的な日本の神社の建築には見られなかったものであり、台湾本土の建築様式の変革に多少の影響を及ぼしたとされる<ref name=":4" />。 |
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=== 争議 === |
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建功神社の建設時、その日本の神社の伝統的な様式から逸脱した設計のため、少なくない争議があった。建功神社は神社建築で規範とされる神明造、流造などの様式から完全に逸脱していた。この特殊な造形が引き起こした争議について、井手薫は建功神社の様式をテーマとした文章を残した。<ref name=":4">{{Cite web |title=從建功神社看井手薰的設計理念 |url=http://www.bp.ntu.edu.tw/wp-content/uploads/2014/06/102-1_近代與台灣建築專題_從建功神社看井手薰的設計理念_藝史所_鍾雅薰.pdf |accessdate=2023-1-6 |author=鐘雅薰 |date=2014 |format= |publisher= |language= |archive-date=2018-10-27 |archive-url=https://web.archive.org/web/20181027142831/http://www.bp.ntu.edu.tw/wp-content/uploads/2014/06/102-1_%E8%BF%91%E4%BB%A3%E8%88%87%E5%8F%B0%E7%81%A3%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%B0%88%E9%A1%8C_%E5%BE%9E%E5%BB%BA%E5%8A%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E7%9C%8B%E4%BA%95%E6%89%8B%E8%96%B0%E7%9A%84%E8%A8%AD%E8%A8%88%E7%90%86%E5%BF%B5_%E8%97%9D%E5%8F%B2%E6%89%80_%E9%8D%BE%E9%9B%85%E8%96%B0.pdf}}</ref> |
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「日本国内の生活様式はすでにある程度の西洋化を経ており、たとえば洋服、洋食、父母の呼び名(パパ、ママ)など。神道建築も以前に仏教建築の影響を十分に受けている。なぜ民衆はこれらの外来文化を批判しないのに、私が建功神社に西洋建築の様式を織り込むことを批判するのか?」<ref name=":5"> 井手薰,〈永遠の芸術に対する無理解(下)〉,《台灣日日新報》,昭和 3 年 7 月 18 日 </ref> |
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「『和式」は簡素で雅、「台湾式」は重厚、「西洋式」はさらに重厚であり、この三者を調和させるのは簡単なことではなかった」<ref name=":5" /> |
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== 社紋 == |
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[[File:Kenkou-Jinjya-Seal.jpg|thumb|150px|建功神社の[[御朱印]](1932)]] |
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建功神社の社紋は[[八咫鏡]]の内側で[[鳳凰]]が向かい合い、中心上部に「台字紋」があるもの。八咫鏡は日本国体の精神を表し、鳳凰は台湾の伝説中で最も縁起の良い鳥であり、台の字の紋は台湾を表していた<ref name=":3" />。 |
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== 祭神 == |
== 祭神 == |
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建功神社の1928年の鎮座時には、15,350柱の在台戦死者、殉職者及び殉難者が合祀された。 |
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合祀者の例として、[[大島 (砲艦)]]転覆(1895年)、[[広丙 (防護巡洋艦)]]転覆(1895年)、[[六氏先生|芝山巌事件]](1896年)、[[海門 (スループ)]]転覆(1897年)、奈良丸転覆(1897年)、東西横貫鉄道線調査隊(1897年)、樸仔腳事件(1901年)、[[北埔事件]](1907年)、[[松島 (防護巡洋艦)]]転覆(1908年)、[[タイヤル族]]卡奧湾群討伐(1908年)、道路開鑿隊(1910年)、李棟山前進隊(1911年)、油羅山前進隊(1912年)、馬力光前進隊(1912年)、[[隘勇制度|隘勇]]線前進隊(1912年)、太魯閣戰役(1914年)、台東方面搜索行動隊(1914年)、[[西来庵事件]](1915年)、太田山事件(1920年)等の事件の死者があり、その後に合祀祭が毎年行われた<ref>{{Cite journal|title=建功神社に關する訓話資料|author=佐藤文窓|url=|journal=臺灣教育|issue=|doi=|others=|year=1934-05-01|volume=|page=|pmid=}}</ref>。 |
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== 歴史 == |
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* [[1928年]]([[昭和]]3年)7月14日、[[台北植物園]]内(現在の南海学園地域)に鎮座。<ref group="†">現在この建物の属する地区は、周囲の国公立の文教施設とあわせて南海學園と呼ばれている。 |
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1935年時点で総計16,805名が祀られていた。陸軍軍人の9,552人が最も多く、次いで警察職員2,789人、警察官2,434人、官公署傭人職工役夫等の656人、文官553人、海軍485人など。籍貫別では、本島人が3,620人、内地人が13,185人であり、その中では鹿児島県(640人)、東京府(609人)、福岡県(582人)、熊本県(544人)の出身者が比較的多かった。 |
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</ref> |
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* [[1955年]] 中央図書館の本館として使用開始。<ref >[http://www.wfps.tp.edu.tw/2013/sub3-3.html]誰的古蹟? 日本神社在臺北</ref> |
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「建功神社誌」には祭神の姓名、出身地、祭日、資格、遺族等の情報が記載されている<ref name=":3" />。 |
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* [[1960年]] 社殿のドーム部分が中国の天壇様式に改築されたほか、神道的な装飾が取り払われる。 |
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{| class="wikitable mw-collapsible" |
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* [[1986年]] 中央図書館の本館が新庁舎に移転。その後建物は國立教育資料館(現在の國家教育研究院教育資源及出版中心)として使用。 |
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|+建功神社歴年の合祀人数(~1935年)<ref name=":3" /> |
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!年度 |
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!人数(人) |
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!備考 |
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|- |
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|1928年 |
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|15,350 |
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| |
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|- |
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|1929年 |
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|142 |
|||
| |
|||
|- |
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|1930年 |
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|199 |
|||
| |
|||
|- |
|||
|1931年 |
|||
|141 |
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|[[霧社事件]]の77人を含む |
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|- |
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|1932年 |
|||
|788 |
|||
|澎湖千人塚から移祀された708人を含む |
|||
|- |
|||
|1933年 |
|||
|42 |
|||
| |
|||
|- |
|||
|1934年 |
|||
|140 |
|||
|基隆北方で沈没した[[早蕨 (駆逐艦)]]の104人を含む |
|||
|- |
|||
|1935年 |
|||
|3 |
|||
| |
|||
|} |
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{| class="wikitable sortable mw-collapsible" |
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|+建功神社祭祀人数(籍貫別)<ref name=":3" /> |
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!籍貫 |
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!人数(人) |
|||
|- |
|||
|北海道庁 |
|||
|44 |
|||
|- |
|||
|東京府 |
|||
|609 |
|||
|- |
|||
|京都府 |
|||
|161 |
|||
|- |
|||
|大阪府 |
|||
|223 |
|||
|- |
|||
|神奈川県 |
|||
|177 |
|||
|- |
|||
|兵庫県 |
|||
|288 |
|||
|- |
|||
|長崎県 |
|||
|161 |
|||
|- |
|||
|新潟県 |
|||
|269 |
|||
|- |
|||
|埼玉県 |
|||
|179 |
|||
|- |
|||
|群馬県 |
|||
|122 |
|||
|- |
|||
|千葉県 |
|||
|219 |
|||
|- |
|||
|茨城県 |
|||
|203 |
|||
|- |
|||
|栃木県 |
|||
|87 |
|||
|- |
|||
|奈良県 |
|||
|106 |
|||
|- |
|||
|三重県 |
|||
|198 |
|||
|- |
|||
|愛知県 |
|||
|320 |
|||
|- |
|||
|静岡県 |
|||
|185 |
|||
|- |
|||
|山梨県 |
|||
|113 |
|||
|- |
|||
|滋賀県 |
|||
|174 |
|||
|- |
|||
|岐阜県 |
|||
|208 |
|||
|- |
|||
|長野県 |
|||
|231 |
|||
|- |
|||
|宮城県 |
|||
|395 |
|||
|- |
|||
|福島県 |
|||
|200 |
|||
|- |
|||
|岩手県 |
|||
|194 |
|||
|- |
|||
|青森県 |
|||
|139 |
|||
|- |
|||
|山形県 |
|||
|189 |
|||
|- |
|||
|秋田県 |
|||
|208 |
|||
|- |
|||
|福井県 |
|||
|121 |
|||
|- |
|||
|石川県 |
|||
|171 |
|||
|- |
|||
|富山県 |
|||
|122 |
|||
|- |
|||
|鳥取県 |
|||
|92 |
|||
|- |
|||
|島根県 |
|||
|100 |
|||
|- |
|||
|岡山県 |
|||
|224 |
|||
|- |
|||
|広島県 |
|||
|274 |
|||
|- |
|||
|山口県 |
|||
|241 |
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== 神職 == |
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建功神社の初代社掌は佐藤文一郎。[[國學院大學]]の講師であった佐藤は1928年に建功神社の社掌に任命され<ref name=":9">{{Cite news|url=|title=數々功績遺し 建功神社佐藤社掌榮轉|author=|date=1941-02-23|work=臺灣日日新報|publisher=臺灣日日新報社|accessdate=|language=|format=}}</ref>、海山神社及び文山神社の社掌を兼任した後<ref name="#1">{{Cite web |title=臺灣總督府職員錄系統 |url=http://who.ith.sinica.edu.tw/mpView.action |accessdate=2023-1-6 |author= |date= |format= |publisher=中央研究院臺灣史研究所 |language= |archive-date=2019-07-13 |archive-url=https://web.archive.org/web/20190713180357/http://who.ith.sinica.edu.tw/mpView.action |dead-url=no}}</ref>、1941年2月に日本に戻り福島県の[[都々古別神社]]の宮司に任命された<ref name=":9" />。二代目の建功神社の社掌は豊福長人。任期は1941年から1945年までであった<ref name="#1"/>。 |
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== 関連項目 == |
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*[[台湾護国神社]](台湾に関連する英霊を祭祀、1940年設立) |
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*[[台湾の神社]] |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考文献 == |
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*[https://nchdb.boch.gov.tw/assets/advanceSearch/historicalBuilding/20130611000001 國立中央圖書館舊址—文化部文化資產局] {{Wayback|url=https://nchdb.boch.gov.tw/assets/advanceSearch/historicalBuilding/20130611000001 |date=20210406141756 }} |
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|title = 從建功神社看井手薰的設計理念 |
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2024年5月7日 (火) 07:51時点における最新版
建功神社 | |
---|---|
所在地 | 台北市南門町六丁目2番地(現在の台北市中正区) |
主祭神 | 1895年後の在台戦死、殉職、殉難者 |
社格等 | 無格社 |
創建 | 昭和3年(1928年) |
例祭 | 4月30日 |
国立中央図書館跡地 | |
---|---|
中華民国 文化資産 | |
種類 | 衙署 |
等級 | 歴史建築 |
文化資産登録 公告時期 | 2013年6月11日 |
位置 | 中華民国台北市中正区南海路43号 |
詳細登録資料 |
建功神社(けんこうじんじゃ)は、日本統治時代の台湾台北州台北市に存在した神社。国家のために殉難した人の霊を祭祀する招魂社として、台湾総督府の主導により、昭和3年(1928年)に建立された。無格社。
建功神社の建築様式は独特であり、牌坊風の鳥居や拝殿の半球状のドームなど、従来の神社建築とはかけ離れた和洋中混合の建築様式は建立当時議論を呼んだ。
第二次大戦後、中華民国当局は建功神社を接収し、社殿を改築して博物館や図書館などの教育施設に転用した。2013年には一帯が「国立中央図書館跡地」として、文化部文化資産局により台北市歴史建築に指定された。拝殿は現在、国立台湾芸術教育館として利用されている。
沿革
[編集]建功神社は国家のために殉難した人の霊を祭祀する招魂社であり、その設立は官民から高く評され、台湾の靖国神社とも呼ばれる[1]。建功神社が設立される以前は、台湾には殉職者を祀る決まった場所がなかった。 第1回招魂祭は1902年に台南で行われ、第2回招魂祭は1908年に台北で行われた。[2]以後、招魂祭は濁水渓を境に、北は台北(最初は円山公園、後に新公園[3])、南は台南で毎年開催されるようになった[2]。
台湾神宮の宮司の山口透は、1913年に台湾総督府に招魂社の設立を提議したが、提議は採択されなかった。その後1925年、弁護士の簑和は再び神社の建立を提議し[1]、また当年が台湾始政三十周年でもあったため、台湾総督の伊沢多喜男は始政三十周年の紀念事業として招魂社を創立し[4]、社殿を常設し神職を配置し、遺族や一般民衆がいつでも参拝できるようにすることを発表した[3]。この目的のために、伊沢総督は東京に赴き、加藤高明首相に国庫に9万円の予算を組むよう要請し[1]、その後、台北植物園内の約4000坪の土地を招魂社建設用地として選定した。
大正15年(1926年)4月30日の靖国神社の例祭日に[4]、神社の地鎮祭が舉行され、昭和3年(1928年)1月12日に台湾総督府よりこの招魂社の「建功神社」という社号が公布された。この名称は、明代の詩人丘濬の「挽伏羌伯」にある「一代知名將,三邊屢建功」及び、中国三国時代の文人陸機の「豪士賦」の「立德之基有常,而建功之路不一」に因んだもの。同時に、祭祀される者の資格も公布された[5][6]。
昭和3年(1928年)3月に上棟式を挙行し、同年7月14日に鎮座式を挙行、翌15日に臨時例祭が挙行された[2]。総事業費は約12万8000円[7]。
臨時例祭時の出席者は、台湾総督川村竹治、遺族総代表(日本人、台湾人、原住民各1人)、文官総代表(台北帝国大学校長幣原坦)、武官総代表(台湾軍参謀長)、各州庁民総代表、各州知事及び庁長、各国領事(アメリカ、イギリス、オランダ)、台北市尹[8]。奉献品については、五州三庁、台北市、帝国在郷軍人会台北市連合分会、台湾日日新報社よりあわせて11基の石灯篭が寄贈され、大阪毎日新聞社からは春日灯籠1対が寄贈された[8]。
建功神社の社格は無格社とされ、日本が1895年に台湾を領有して以来の台湾の戦死者、準戦死者、殉職者、準殉職者、殉難者を祀っていた。日本人あるいは台湾人、地位の高低とは無関係に、総督府が組織する「建功神社合格者資格審査会」を通過した者のみが祀られた[9]。建功神社の祭神の審査員は1939年時点で、台北:高木友枝、河村徹、三好德三郎、林熊徵;台中:坂本素魯哉、辜顯榮、松岡富雄;台南:富地近思、許廷光;高雄:古賀三千人、藍高川[10]。
1945年の台北大空襲により、建功神社の神橋の南側が損毀した[11]。
建功神社は第二次大戦後、台湾省行政長官公署教育處に接収され[12]、日本を象徴する多くの物品は除かれ、参道大門、鳥居、参道両側の石灯篭などの施設はいずれも現存しない。
1954年、教育部はこの地に総称して「南海学園」と呼ばれる、博物館の群立する一連の文化施設を整備した[13]。今日の建功神社の史跡は1955年に改築されたもので、利群建築師事務所の陳濯と李寶鐸の設計により、国立中央図書館の総館として、南海学園で最も早期に完成した建物となった。外観は中国北方の宮殿様式を示し、ドーム状の屋根は黄色の釉薬瓦で覆われた宝形造の尖塔で覆われ、ドームの内部は中華民国の国章で装飾され、建物の外壁は四合院形式で増築された[11][14]。日本統治時代の神社建築の外観は大幅に変更されたが、当初の配置はほぼ維持され、建功神社の主建築、神池及び玉垣は保存されており、2013年に「国立中央図書館跡地」の名称で台北市歴史建築に指定された[15]。
-
ドーム内面現況
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建功神社の瑞垣
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神橋と池の現況
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拝殿遠景
建築
[編集]特色
[編集]建功神社は台湾総督府営繕課技師の井手薫が設計し、本殿及び拝殿の施工は浦田永太郎が担当した。建功神社は全体がコンクリートとレンガ造りの建物で、主要設施として本殿、拝殿、鳥居、神橋及び神池がある。社殿の外壁は北投窯業会社で生産した小口四丁掛け煉瓦と洗石で造られており、本殿の屋根は銅板瓦、向拝と側廊及び鳥居の屋根瓦は鶯歌で生産した中国風の青瓦、本殿の内部は阿里山のヒノキ、瑞垣と神橋から拜殿間までの地面には士林産の板石が乱張りされていた[7]。鳥居の高さは約6メートル[9]、頂部には屋根瓦があり、表面は洗石[7]。神橋の長さは約20メートル[9]、表面は洗石[7]。
1929年10月には瑞垣、西参集所、神職宿舎を増築し、1930年3月に竣工した。同年9月に東参集所、神池の南側の対の灯篭を増設した[9]。
神社の見取り図では、参道、鳥居、神橋、手水や、拝殿から最奥部の本殿に至るまで南北の方向に軸を置き、その他の付属空間である控室や社務所は拝殿の両側に広げられ、施設の配置は一般的な神社と差は無いものであった。
建功神社の建築様式は極めて独特であり、本体の構造は日本式であったが、外観は和洋中混合の建築様式であった。ドーム及び牌坊風の鳥居はこれまでの伝統的な日本の神社の建築には見られなかったものであり、台湾本土の建築様式の変革に多少の影響を及ぼしたとされる[13]。
争議
[編集]建功神社の建設時、その日本の神社の伝統的な様式から逸脱した設計のため、少なくない争議があった。建功神社は神社建築で規範とされる神明造、流造などの様式から完全に逸脱していた。この特殊な造形が引き起こした争議について、井手薫は建功神社の様式をテーマとした文章を残した。[13]
「日本国内の生活様式はすでにある程度の西洋化を経ており、たとえば洋服、洋食、父母の呼び名(パパ、ママ)など。神道建築も以前に仏教建築の影響を十分に受けている。なぜ民衆はこれらの外来文化を批判しないのに、私が建功神社に西洋建築の様式を織り込むことを批判するのか?」[16]
「『和式」は簡素で雅、「台湾式」は重厚、「西洋式」はさらに重厚であり、この三者を調和させるのは簡単なことではなかった」[16]
社紋
[編集]建功神社の社紋は八咫鏡の内側で鳳凰が向かい合い、中心上部に「台字紋」があるもの。八咫鏡は日本国体の精神を表し、鳳凰は台湾の伝説中で最も縁起の良い鳥であり、台の字の紋は台湾を表していた[9]。
祭神
[編集]建功神社の1928年の鎮座時には、15,350柱の在台戦死者、殉職者及び殉難者が合祀された。
合祀者の例として、大島 (砲艦)転覆(1895年)、広丙 (防護巡洋艦)転覆(1895年)、芝山巌事件(1896年)、海門 (スループ)転覆(1897年)、奈良丸転覆(1897年)、東西横貫鉄道線調査隊(1897年)、樸仔腳事件(1901年)、北埔事件(1907年)、松島 (防護巡洋艦)転覆(1908年)、タイヤル族卡奧湾群討伐(1908年)、道路開鑿隊(1910年)、李棟山前進隊(1911年)、油羅山前進隊(1912年)、馬力光前進隊(1912年)、隘勇線前進隊(1912年)、太魯閣戰役(1914年)、台東方面搜索行動隊(1914年)、西来庵事件(1915年)、太田山事件(1920年)等の事件の死者があり、その後に合祀祭が毎年行われた[17]。
1935年時点で総計16,805名が祀られていた。陸軍軍人の9,552人が最も多く、次いで警察職員2,789人、警察官2,434人、官公署傭人職工役夫等の656人、文官553人、海軍485人など。籍貫別では、本島人が3,620人、内地人が13,185人であり、その中では鹿児島県(640人)、東京府(609人)、福岡県(582人)、熊本県(544人)の出身者が比較的多かった。
「建功神社誌」には祭神の姓名、出身地、祭日、資格、遺族等の情報が記載されている[9]。
年度 | 人数(人) | 備考 |
---|---|---|
1928年 | 15,350 | |
1929年 | 142 | |
1930年 | 199 | |
1931年 | 141 | 霧社事件の77人を含む |
1932年 | 788 | 澎湖千人塚から移祀された708人を含む |
1933年 | 42 | |
1934年 | 140 | 基隆北方で沈没した早蕨 (駆逐艦)の104人を含む |
1935年 | 3 |
籍貫 | 人数(人) |
---|---|
北海道庁 | 44 |
東京府 | 609 |
京都府 | 161 |
大阪府 | 223 |
神奈川県 | 177 |
兵庫県 | 288 |
長崎県 | 161 |
新潟県 | 269 |
埼玉県 | 179 |
群馬県 | 122 |
千葉県 | 219 |
茨城県 | 203 |
栃木県 | 87 |
奈良県 | 106 |
三重県 | 198 |
愛知県 | 320 |
静岡県 | 185 |
山梨県 | 113 |
滋賀県 | 174 |
岐阜県 | 208 |
長野県 | 231 |
宮城県 | 395 |
福島県 | 200 |
岩手県 | 194 |
青森県 | 139 |
山形県 | 189 |
秋田県 | 208 |
福井県 | 121 |
石川県 | 171 |
富山県 | 122 |
鳥取県 | 92 |
島根県 | 100 |
岡山県 | 224 |
広島県 | 274 |
山口県 | 241 |
和歌山県 | 142 |
徳島県 | 94 |
香川県 | 123 |
愛媛県 | 106 |
高知県 | 92 |
福岡県 | 582 |
大分県 | 187 |
佐賀県 | 320 |
熊本県 | 544 |
宮崎県 | 152 |
鹿児島県 | 640 |
沖縄県 | 29 |
内地出身地不明 | 3,227 |
台湾人 | 3,620 |
神職
[編集]建功神社の初代社掌は佐藤文一郎。國學院大學の講師であった佐藤は1928年に建功神社の社掌に任命され[18]、海山神社及び文山神社の社掌を兼任した後[19]、1941年2月に日本に戻り福島県の都々古別神社の宮司に任命された[18]。二代目の建功神社の社掌は豊福長人。任期は1941年から1945年までであった[19]。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- ^ a b c 魏可欣 (2016-12). “近代化進程中建功神社的容顏與活動”. 國立歷史博物館學報 (54) .
- ^ a b c 建功神社社務所 (1928-07-12). 建功神社誌
- ^ a b 鷲巢, 敦哉 (1938-04-28). 臺灣警察四十年史話
- ^ a b 臺灣神職會 (1928-01-01). “官祭招魂社創立”. 敬慎 2 (1).
- ^ “建功神社社號十二日告示で發表 植物園內に建設中のもの”. 臺灣日日新報 (臺灣日日新報社). (1928年1月12日)
- ^ “軍人軍属を神社に合祀するの件 建功神社創設趣旨書”. 海軍省公文備考 (1928年). 2021年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月6日閲覧。
- ^ a b c d 臺灣建築會 (1933-01-28). “建功神社本殿其他新築工事概要”. 建功神社本殿其他新築工事概要 (1).
- ^ a b 社團法人臺灣教育會 (1928-08-01). “建功神社臨時例祭記事”. 臺灣教育.
- ^ a b c d e f g h 建功神社社務所 (1940-02-11). 建功神社誌
- ^ 早川, 直義 (1939-06-15). 慰靈塔建設顛末記. 嘉義白齡會
- ^ a b 地球上的火星人 - 下巴 (2017年8月2日). “台北中正區內的歷史記憶:建功神社遺跡、建中紅樓及其週邊”. GEOGDAILY.地理眼. 2021年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月6日閲覧。
- ^ 陳鸞鳳 (2007年). “日治時期臺灣地區神社的空間特性研究”. 2022年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月6日閲覧。
- ^ a b c 鐘雅薰 (2014年). “從建功神社看井手薰的設計理念”. 2018年10月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月6日閲覧。
- ^ “《紙上明治村2丁目》:神社——從萬物有靈的戀愛聖地到國族聖殿”. 關鍵評論網 (2018年6月25日). 2022年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月6日閲覧。
- ^ “國立中央圖書館舊址”. 文化部文化資產局國家文戶資產網. 2021年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月6日閲覧。
- ^ a b 井手薰,〈永遠の芸術に対する無理解(下)〉,《台灣日日新報》,昭和 3 年 7 月 18 日
- ^ 佐藤文窓 (1934-05-01). “建功神社に關する訓話資料”. 臺灣教育.
- ^ a b “數々功績遺し 建功神社佐藤社掌榮轉”. 臺灣日日新報 (臺灣日日新報社). (1941年2月23日)
- ^ a b “臺灣總督府職員錄系統”. 中央研究院臺灣史研究所. 2019年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月6日閲覧。
外部リンク
[編集]- 國立中央圖書館舊址—文化部文化資產局 アーカイブ 2021年4月6日 - ウェイバックマシン