国鉄301系電車
国鉄301系・103系1200番台電車 | |||
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起動加速度 | 3.3km/h/s | ||
営業最高速度 | 100km/h | ||
設計最高速度 | 100km/h | ||
減速度 | 3.5km/h/s(通常) 5.0m/h/s(非常) | ||
定員 | 座席48・立席88(先頭車) 座席54・立席90(中間車) | ||
全長/全幅/全高 | 20000mm/2832mm/3935mm | ||
重量 | 22.8t(クハ301形) ~33.3t(モハ301形) | ||
軌間 | 1067mm(狭軌) | ||
電気方式 | 直流1500V | ||
モーター出力 | 110kW | ||
歯車比 | 1:6.07 | ||
制御装置 | 抵抗制御 | ||
駆動装置 | 中空軸平行カルダン駆動方式 | ||
ブレーキ方式 | 発電ブレーキ・電磁直通ブレーキ | ||
保安装置 | ATS-B.P ATC-3 |
国鉄301系電車(こくてつ301けいでんしゃ)とは、日本国有鉄道(国鉄)が設計・製造した地下鉄乗り入れ対応通勤形電車である。
※本項目では301系の増備車にあたる103系1200番台についても解説する。また、本項目で単に103系とある場合は0番台(地上型)を指す。
概要
1966年(昭和41年)から開始された中央緩行線と帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)東西線の相互乗り入れの開始に備え、これに対応すべく設計され、クモハ300-モハ301-モハ300-モハ301-モハ300-モハ301-モハ300-クハ301の7両編成8本が川崎車輛(現・川崎重工業)および日本車輌製造で製造された。
国鉄が初めて設計・製造した地下鉄対応の通勤形電車であるとともに、国鉄電車としては初めてアルミニウム合金車体を本格採用した車両でもある。
国鉄の分割・民営化後は全車が東日本旅客鉄道(JR東日本)に継承されたが、既に全車廃車済みである。
301系 仕様
車体
103系を踏襲し、片側に4ヶ所の1,300mm幅両開きドアを備え、ドア間に7人、車端部に3人掛けのロングシートがそれぞれ並ぶ、当時の国鉄通勤形電車の標準に従う。
ただし、本系列では、車両メーカーの川崎車輛の提案により、国鉄初のアルミ合金製車体が採用された(103系は普通鋼製車体)。
このため製造メーカーはアルミ合金製車体の製造実績がある企業に限られることとなり、1962年製造の山陽電気鉄道2000系電車を皮切りにアルミニウム合金車体の電車の製造ノウハウを蓄積しつつあった川崎車輛と、やはり1963年製造の北陸鉄道6010系電車以降アルミ製車両の製造実績を重ねつつあった日本車輌製造の2社が選定された。
1966年の段階では、鉄道車両に適した7000系アルミニウム合金が既に実用化されており、山陽電鉄2000系建造の時点ではやむを得ずリベット接合が使用されていた重要部の接合についても、1964年の山陽電気鉄道3000系電車第1次車で全溶接構造への改良が実施済みであった。このため、本系列の車体は最初の世代のアルミ製車体製造技術の完成形と言うべき、洗練された設計となり、103系と比較して各車5~6t程度の自重軽減が実現した。
アルミ車体の採用に伴い、その加工の困難さから、窓枠に別組立のユニットサッシが採用された。ユニットサッシ自体は153系急行電車で既に実用化済みであったが、廉価さが最重要視されていた通勤電車への採用は、当時としては異例のことであった。
雨樋の高さも車体を洗浄する際の利便性を配慮し、103系より若干高く、後に登場する201系と同等となっている。
アルミ合金製車体は耐食性が高いが、その反面鉄粉などの異種金属の付着による酸化には弱く(※)、このため頻繁かつ徹底した洗車作業の実施が求められる。この雨樋位置の変更は洗車頻度を上げるのが難しかった当時の国鉄において、1回の洗車で確実に外板の汚れを除去するために実施された、重要な変更点であった。
- (※)この酸化問題に関しては、表面を分厚い透明ラッカー樹脂塗装で覆うことによっても対応が図られていたが、アルミ車建造で先行した山陽電鉄においては、当初は本系列と同様にラッカー樹脂塗装を実施していたものの、洗車によって上記の問題を解決可能であることが判明してからは、塗装そのものを廃止している。以後同社のアルミ製電車群が特に腐食問題に遭遇していないことと、後年本系列の車体がラッカー層のひび割れや曇りによって通常塗装に変更せざるを得なかったことから判断する限り、この国鉄の対応には問題があったと言える。
側面方向幕はなく、その構体改造の困難さから、後年に改造で取り付けられることもなかった。また、原型となった103系では主電動機冷却風取入れ口を電動車の側面に片側2つずつ、初期車において前面下部に運転室への通風口を備えるが、301系の場合はこれらも設置されていない。
前照灯が従来の前面上部中央に白熱灯1灯を設置する方式から、前方視認性や営団との協定から、通勤形では初となるシールドビーム2灯を窓下に振り分けて設置する方式に変更された事も特徴である。これによって表示器が従来の2つからに3つに増えている。内訳は、中央が種別及び行き先表示、左が運行番号表示で、右は全く使われずに、後の分割・民営化後を含め常にコーポレートマークを掲出していた。
もっとも、これらの表示幕は汚れが酷く、1998年(平成10年)に運行番号表示をLED式に交換した程だった。中央はその後も幕式で残されたが、黒ずんで判読が困難になっていた車両も多数存在していた。対する103系1200番台は同じ路線を走るにもかかわらず、そういった車両は少なかったが、部品の共通化の為にLED化が行われている。
機器
駆動方式は、103系とほぼ同一の中空軸平行カルダン駆動方式を採用する。モーターも103系と共通のMT55(定格出力110kW/h)を搭載し、歯数比6.07を踏襲するが、主制御器については103系のCS20をベースに主抵抗器を自然通風式として抵抗器箱を増やした、抵抗制御による力行24段、ブレーキ24段のCS20Bが採用されている。これは強制送風式の場合、ブロアファンの音が大きく、乗り入れ先の地下線内で騒音問題となりかねなかったことに配慮したものであるが、自然通風式は抵抗器が貴重な床下面積を大きく占有し、しかもその周囲のエアフローに対する配慮も求められるため、その艤装は難しく、状況によっては抵抗器溶断事故を引き起こすことが少なからずあった。このため同じ自然通風式である103系1000/1200番台でも後に故障が多発している。また福岡市営地下鉄に乗入れる103系1500番台も騒音防止のため自然通風式を採用している。
これに対し、台車の枕バネは103系のDT33およびTR201ではなく、165系等に採用された大径心皿式インダイレクトマウント式空気バネ台車であるDT32を基本とするが、軸箱にオイルダンパを装着せず、ベローズ式空気バネを車体直結としてボルスタアンカを付加した、国鉄の在来線向け量産通勤形電車としては初のダイレクトマウント式空気バネ台車となるDT34形及びTR204形を装着しており、103系と比較して乗り心地が大幅に向上している。
東西線地下区間の架線は剛体架線であるため、パンタグラフは103系のPS16ではなくPS21を採用した。これは、PS16をベースに集電舟部分に小型のばねを追加して、集電舟自体を浮動構造とすることにより架線追随性を向上させたものである。
301系の大きな特徴として、ブレーキを作動・解除させた時に「カラーン」と甲高い音が響き渡ったが、これはブレーキ弁が震える音であった。電車が見えない位置からでもこの音を聞くだけでJR車、それも301系と一瞬で判るほどであった。
地下鉄対策
地下鉄での使用に際し、火災事故防止のために1953年(昭和28年)に制定された車両構造仕様「A-A基準」に従い発火防止・不燃化・乗客の避難対策などが盛り込まれている。
先頭部に非常用貫通扉を設置しているのが最も大きな変更点で、これにより、103系の前面窓ガラスを上方に向かって傾斜を付け内側に窪ませる方式が採用できず、301系では貫通扉左右の窓を車体外方に向かって内側に窪ませる方式とした。このアイデアはゴーグルを基にしたもので、運転時の視界確保に役立ったといわれている。客室のユニット窓(上段下降下段上昇式)も地下での怪我防止のために上段窓は全開するが、下段窓は75mmしか開かない構造となっていた。さらに、後の更新時に下段については固定化が実施されている。
また、効率の良い換気を行うため、屋根上通風器は換気調節が出来る角型押し込み式が採用されている。
このように、301系は当時の国鉄通勤形としては最先端かつ最高級の車両であったが、製造コストが非常に高かった事もまた事実であり、1969年(昭和44年)で製造は打ち切られた。それ以降の増備については103系1200番台へ移行したが、301系における数々の新機軸の大半は引き継がれなかった。
形式
当初は電動車比率が非常に高く取られ、電動車6両、制御車1両でMT比6M1Tの7両編成を構成していた。乗入れ先の営団5000系に編成を合わせたため、この時点の103系には存在しなかったM'c(クモハ300形)が起こされているのが特徴である。後の10両編成への組替えにともない、電動車の電装解除や制御車の運転台設備撤去などの改造が行なわれている。
新規製造形式
- クモハ300形(製造数:8両)
- モハ301形(製造数:24両)
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- クモハ300形またはモハ300形とユニットを組む中間電動車で、103系のモハ103形にあたる。パンタグラフと制御器を搭載していた。
- 下記編成表ではMと表記する。
- モハ300形(製造数:16両)
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- モハ301形とユニットを組む中間電動車で、103系のモハ102形にあたる。クモハ300形から運転台を廃した構造となっていた。
- 下記編成表ではM'と表記する。
改造形式
- サハ301形(改造数:3両)
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- 10両編成への組替えにともない、モハ301形を1両、モハ300形を2両電装解除して登場した付随車。改造車である事から100番台を付与し、0番台は存在しない。103系のサハ103形(厳密に言うならサハ103形800番台)にあたる。
- 下記編成表ではTと表記する。
※「ユニット」とはモハおよびクモハの300形と301形とで別々の機器を搭載し、2両を連結する事で1つの機構として完成する方式で、原則的にユニットを組む相手は新造から廃車まで変わることはない。
※機器類が103系とほぼ同じであるが、系列名が103系の派生番台や次番号の105系とならなかったのは、当時一般的でなかったアルミニウム車体を持つことなど試作色が強いためである。当時の国鉄はアルミなどを使用した特殊車体の系列に限って百位の数字「3」を使用しており、後の381系(アルミ製の振り子式車両)も同様である。しかし、その後は特殊車体での系列区分が廃止されたため、千代田線乗り入れ車はアルミで造られたにもかかわらず、系列ごとの関連性を重視して203系(201系の派生車)となった。また、逆にアルミ以外の車体を持つ車両が300番代を名乗るケースも出て来ている(例・303系)。
103系1200番台 仕様
車体
車体は普通鋼製であり、外観は103系1000番台とほぼ同一であるが、ATC機器は301系同様東西線のWS-ATCに対応する小型のものであるため、乗務員室直後の戸袋窓は1000番台と異なり埋められていない。機器配置も301系に合わせたため、蓄電池の搭載車などが異なっている。
雨樋、窓枠、通風器形状や座席寸法は他の103系編成と共通のものとされ、台車の枕バネも同様にコイルバネ式である。窓枠形状は103系地上型のマイナーチェンジに合わせ、第2編成以降はユニット構造を採用し、座席寸法も301系と同一に変更している。
形式
- クモハ102形1200番台(製造数:5両)
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- 基本的な内容はクモハ300形に準じる。
- モハ103形1200番台(製造数:15両)
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- クモハ102形1200番台またはモハ102形1200番台とユニットを組む中間電動車。基本的な内容はモハ301形に準じるが、制御器は301系の力行24段・ブレーキ24段から力行・ブレーキ共に40段のCS40形に変更された。
- モハ102形1200番台(製造数:10両)
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- モハ103形1200番台とユニットを組む中間電動車。基本的な内容はモハ300形に準じる。
- クハ103形1200番台(製造数:5両)
-
- 基本的な内容はクハ301形に準じる。
塗装
塗装は何回も変化している。301系登場時はアルミ金属地にクリアラッカーを塗布し、側面窓上に中央・総武緩行線のラインカラーである黄帯のホーロー式アルミテープ(JNRマークを片側2ヵ所に配置するため、その部分は斜めに途切れる)を巻くというものであったが、製造会社の日本車輌の提案で第5編成が側面窓下にも帯を巻いて登場したことから、他編成も順次追加され、銀色1色であった前面も、保線作業員から「電車の接近が判りにくくて危険」との指摘があったため、前面窓下全体に黄帯が巻かれた。第1~第4編成は川崎車輛製である。
黄色帯は最初に登場した5編成は前述のとおりアルミテープであったが、剥がれやすい欠点があったため、後に増備した第6~第8編成は営団車と同様に樹脂製の板をビスで止める方式に変更され、先の5編成も順次それに合わせて塗装に変更している。後に10両化の時に混成した編成もあり、帯に段差の有無が生じた車両も見られた。
103系1200番台は鋼製車で銀色ではないが、301系にイメージを合わせる為、ライトグレーに黄帯という塗装が施された。しかし、アルミの表面が次第にくすんできたことや、表面保護のために塗布したラッカーにひび割れが発生したことから、1978年になって、逆に301系の車体全体を103系1200番台と同様のライトグレーに塗装する工事が実施された。
ただし、営団5000系が銀色だったこともあり、駅の放送や案内板などで使われていた「銀色の電車」という案内は変えられなかった。なお、この時点では301系の2次車は黄色帯は樹脂製の板をビスで止める方式を継続しており、スカイブルーに変更後も、車体更新工事施工の時まで不変であった。
ところが、1989年に中央・総武緩行線の地上用として205系がステンレス地に黄帯で登場し、これを東西線への直通電車と間違える乗客が増えてきたため、誤乗防止のために全車帯色を東西線のラインカラーであるスカイブルーに変更した。この時点で駅の放送や案内板も「銀色に青帯の電車」に変更されている。この帯のスカイブルー化は301系の登場時より営団から依頼されていたが、国鉄側が拒んでいたために実現していなかったという。変更が完了するまでは、中央快速線からオレンジ色の101系や103系が中央・総武緩行線に転入した際に使用された「総武・中央線各駅停車」のシールを205系編成に貼付して急場を凌いだ。
1987年の国鉄分割・民営化後はJNRマークをラインカラーで塗りつぶし(灰色で塗りつぶしていた時期もある)、代わりに白色の巨大なJRマークを両先頭車の側面窓下に貼付するという小変化はあったが、廃車時まで大きな変化はなかった。
冷房装置搭載改造
JR東日本移行後の1989年(平成元年)には冷房搭載改造が施工された。この時は改造費を節約するために、車体補強が不要な集約分散式AU712形が2基搭載された。しかし、これは外のキセ(カバー)部に温度制御のマイコンがあるため、肝心の夏場に不調になる事が多く、利用客からは不評であった。
この事を受けてK3編成は2000年(平成12年)に屋根全体がパンタグラフを除いて白色に塗り変えられた。これはアメリカ航空宇宙局(NASA)が開発した耐熱塗料であり、スペースシャトルにも使用されているもので結果自体は良好だったが、塗料の価格が非常に高価だったことと、AU712搭載車が優先的に淘汰されたことから、その後は採用されていない。
冷房電源の確保は301系と103系1200番台で異なり、先に施工された103系1200番台は編成中1両のモハ102形のMGを電源供給のために10kVAから190kVAに容量強化、旧第5編成のみは編成中2両のモハ102形に容量160kVAのMGを搭載し、遅れて施工した301系は静止形インバータ(SIV)を新たに屋根に搭載する事で解決した。
同時に103系1200番台はクモハ102形を除く全形式の側面に行先表示器が設置され、前面方向幕も電動式に取り替えた。この時から「快速 中野」等の快速幕を導入した。前述したが301系ではこのような改造はされなかった。
ラインカラー変更と冷房装置搭載はほぼ同時期ながら冷房装置搭載の方が若干早かった為、103系1200番台については7両編成全体が冷房改造された黄帯車編成も存在した。しかし、301系は黄帯で冷房化された車両は中間車2両に留まり、逆に青帯の非冷房車も存在したがその期間は短かった。この塗装の変化の詳細は外部リンクを参照。
車歴
製造
301系は1966年に7両編成5本、1969年に7両編成3本(計8本56両)が製造され、三鷹電車区に配置された。しかし国鉄の財政難により製造コスト低減のため、以降は103系の派生番台である1200番台を増備することになり、実質的にサービスダウンとなった。
103系1200番台は1970年に1本、1972年と1978年にそれぞれ2本(計5本35両)が製造された。地上型が1970年からユニット窓を採用したマイナーチェンジに合わせ、第2編成からはユニット窓車となった。地上型は1974年以降高運転台構造となるが、乗り入れ先の取り扱いが変わることを極力避ける必要があったから、これは採用されなかった。
これらを合わせ、最終的に7両編成13本(91両)が揃っている。
輸送力増強のために7両編成6本が10両編成4本に組み替えられた。当初は3両の増結編成を製造する予定であったが、製造終了から10年以上経過し、国鉄の財政も逼迫していたために新製は実施されなかった。
組み換えは7両編成2本を3両編成に短縮の上、別の7両編成2本にそれぞれ連結して7+3の10両編成2本を組成し、その際に捻出された中間車を更に別の7両編成2本に増結して10両貫通編成2本を組成するという複雑なもので、この時、後者用に電動車ユニット1組(モハ301-4+モハ300-3)が電装解除されて順にサハ301-102、101となった。旧モハ301形はパンタグラフの撤去跡がそのまま残り、特異な形態となっていた。余った2両(モハ301-11+モハ300-8)は予備車となり通常は出番が無いので休車となっていた。組み替えられたのは全て301系で、103系1200番台は変化がなかった。
この時、編成の中間に入る先頭車となるクハ301形・クモハ300形のそれぞれ1・3号、計4両の中間封じ込め改造が行われ、運転機器が撤去されメーター類には蓋がされ(形式、車号変更なし)、前面が窓ガラスを含めてすべて灰色に塗りつぶされるなど、外観上異彩を放った。運転室跡は立ち入り禁止とされたため、定員は変化していない。
東西線の完全10両化により、残った7両編成(301系2本、103系5本)も全て10両編成に組み替えられることとなり、301系は1本から2両抜き取り、それとサハ301形をもう一方の編成に増結するという方法が取られた。再び電装解除車(サハ301-103)が発生したが、この時改造されたのは休車中の車両ではなく運用中のモハ300-9で、休車だった2両は運用に復帰している。また、今回は必要数が1両のみだったためにモハ300-9のユニット相手であるモハ301-13は走行不能となったが、他の車両に致命的な事故があった時の緊急予備車として残された。
103系1200番台の方は運用に対して余裕があったために2本がモハユニット1組(モハ103・102-1202)を残して常磐快速・成田線(松戸電車区)に転出した。これは、冷房化の予備車を確保するために松戸電車区から借入扱いで転入していた103系1000番台を本配置(後のK8編成)とし、代わりに余剰となった車両を転出させて返却扱いとしたためである。残りの車両の内、7両編成1本からモハユニット1組(モハ103-1207+モハ102-1205)を抜き取り、それぞれを7両編成2本に別々に増結して10両貫通編成2本を組成した。301系同様サハが1両ずつ計2両必要となったが、こちらは改造ではなく、京浜東北・根岸線(浦和電車区)からの転用(サハ103-429・430)で済ませている。元々A-A基準、冷房装備で製造された車両であり、軽微な改造で編入できたが、冷房装置が集中式1基であったために屋根の造作は異なっていた。
この常磐快速・成田線への転用では三鷹・松戸両電車区とも苦労があった。三鷹では冷房用の電源を装備していた車両は全部で6組と数が限られており、10両編成では2組必要であったため、第3~5編成が残り、常磐転出車の中にユニットサッシ車の第2編成が混ざっていたにも関わらず、非ユニットサッシ車で製造年も古いモハ103・102-1202(冷房電源装備車)が残された。これが三鷹電車区に唯一残った非ユニットサッシ車で、この2両は常磐快速・成田線転出車の廃車の後も運用を続け、2003年5月まで残存した。
松戸への転出車は、1200番台と川越電車区(現・川越車両センター)配置の3000番台にのみ計10両が存在する特異なクモハ102形が含まれ、しかも冷房用電源を持った車両が1組しか無かったために単純な編成を組めず、各車バラバラに編入された。旧第1編成は2両(モハ103・102-1201(冷房電源なし))を10両基本編成の中間に入れ、残り(モハ103・102-1202を三鷹区に残したので3両)とモハ103・102-1044とで5両の付属編成を組成。旧第2編成は、やはり2両(モハ103-1204・モハ102-1203)を別の編成に入れ、残りの5両で1200番台のみの5両編成を組成した。しかし、やはり奇数車両で編成を組むのが目的で建造されたクモハ102形の扱いが難しく、冷房電源のない車両ばかりで冷房化に支障があった事から、1993年~1994年にかけて全て廃車になり、製造年の古い1000番台より先に消滅した。モハ103・102-1044などの103系1000番台は2002年以降の廃車である。
加えて、301系と103系1200番台それぞれで余った5両同士で5+5の10両編成が組成され、初の混結編成が出現した。但し編成番号は分割を考慮して103系1200番台がK9、301系がK10と分けられていた。この編成は301系が空気バネ台車、通常制御器、103系1200番台が金属バネ台車、超多段制御器である事から来る乗り心地の差や性能の差があるため、運転が難しかったとされ、特に営団の乗務員からの評判はかなり悪かったという。これは後年のK9+K1~K5の際も同様だった。両編成は両方の先頭車に連結用の幌を付けていたため、編成の組み換えの自由度は確保されていた。
以後、この編成に合わせて残存車の編成内容が変更(7+3は5+5に、10両貫通はサハの連結位置を8号車から6号車に)され、全ての編成が5両編成2本に分割できるようになった。
車両更新
1990年から1992年にかけて、他の103系編成と同じく車両更新工事が施工された。内容は、車内化粧板の交換(淡緑→アイボリー)、床張り替え(中央部分を赤色とし、足を投げ出して座る事の防止を狙った)、機器類の耐久性向上(一部ステンレス化)などで、そして301系のみ窓サッシの下段固定化、側扉をステンレス製へ交換した。これは軽量なアルミ製扉が走行中に振動でカタカタと音を立てるのを防ぐ目的であり、腐食対策ではない。301系はアルミ車体であるうえ、塗装で車体が保護されていたので腐食が殆ど無く、車体関係では凹んだ部分をパテで整形し、帯色の樹脂製の板を装備した車両はこれを撤去して103系編成のような塗装とした以外の工事は行われなかった。
この時、側面乗務員扉も交換されたが、塗装されずにステンレス地のまま残された。また、大井工場で施工した103系1000・1200番台(常磐線配属車や東西線直通車を担当)には座席端部のパイプの中に仕切板が設置されたが、土崎工場など他工場で更新施工された301系には設置されなかった。逆に、103系1200番台で側面乗務員扉がステンレス地の車両は存在しなかった。
三鷹電車区では、301系K10編成と休車中のモハ301-13以外全車に、103系1200番台もK6編成とK7編成のサハ103-429以外全車(K8編成は常磐線配属時の1989年4月~6月に施工済み)に更新工事が行われた。
また、301系は1990年に従来115系が保持していた国鉄・JR新性能電車における単一系列の登場より初廃車発生までの記録23年を更新した。これは営業区間に踏切が1ヶ所も無いため踏切事故が発生しなかったことと、少量生産・特殊用途系列だったことによるものだが、これ以降は少量生産・特殊用途系列であるが故に廃車が急速に進むこととなった。
営業運転の終了
1996年に東西線と東葉高速鉄道東葉高速線との相互直通運転開始でJR車の東西線運用が大幅に削減された。平日は朝夕のみの運用が中心で日中の運用は2運用のみで東西線内の快速運用は激減した。さらに土曜・休日は日中の3運用のみで全て各駅停車、うち1運用は2往復の運行となったため、余った6両が予備車削減政策の一環で廃車対象になった。
対象となったのは前述のモハ301-13と混結編成の301系5両で、性能、更新工事にかかった費用を優先して103系1200番台であるK9編成の方が残された。実際は営業離脱後クハ301-6+モハ301-18+クモハ300-6の3両は大宮運転区で他の廃車予定車と共に留置された末、1997年7月2日に廃車。残り2両は三鷹電車区に残留し続け、モハ301-13と共に1998年1月5日に廃車された。
その後、103系1200番台の5両編成は他編成の検査時の代車としてのみ使用された。必要最低限の車両しか在籍していないので、東西線直通車は5両ずつ検査を受けるという事を利用し、残った5両とこの103系1200番台5両編成で臨時の編成を組んで対処していた。当然301系と連結されることもあり、末期である2003年2月からは新車導入を待たずに検査期限切れで廃車となった103系1200番台(K6編成の三鷹側5両)の代役として、再び平常営業に復帰していた。
1990年代も後半になると更新工事を施工したとはいえ老朽化がかなり進んでいたが、本格的な置換え実施は遅れた。これは、新車が度々入っていた千代田線乗り入れと異なり、東西線乗り入れの場合はJR線の区間が中野~三鷹間9.4km及び西船橋~津田沼間6.1kmの計15.5kmとあまりにも短く、しかも西船橋~津田沼間は平日ダイヤのラッシュ時しか乗り入れていないため(千代田線直通は綾瀬~取手間29.7km)、新車投入と比較すると割が合わないことと、当時計画中だった中央快速線の高架化・複々線化工事の完成後に列車の運行体系が激変し、東西線への直通そのものが廃止される可能性があって、新車投入が無駄になる可能性があったためである。
しかし、もはや103系1200番台自体が既に時代遅れの電車であり、故障が増えてきた上に、抵抗制御車は構造上熱を大量に発生させるために地下区間での長期運用は環境、車両共に悪影響が大きく、継続使用が困難になりつつあった。301系も103系が基本であるため機器が陳腐化しており、この時期には営団の主力となった05系に対して明らかに見劣りするようになっていた。そのため、冷房の不調もあって、特に夏場は301系・103系1200番台を「見送り」する乗客が少なからず存在したという。
JR東日本が103系を管内から一掃する方針を決定したことや、営団も東西線のATCを新型に更新することが発表されたことで、103系グループであった301系も2001年頃から置き換え計画が浮上し、2002年秋には正式に置き換えが発表された。この頃には、103系1200番台に発生した鉄板の腐食を修理せず、ラインカラー部分も含めて灰色のガムテープで隠すだけとなっており、新車投入に伴う運用離脱が近いことは誰の目にも明らかであった。このため、同年12月にJR車の東西線直通運用が削減されると、これに合わせて状態の悪かったK1編成が早速廃車となった。もっとも、その分地上運用が増加しており、代替車としてE231系0番台10両編成1本が新製投入されている。
その後、後継車となるE231系800番台が竣工するのと交代に、順次定期運用を離脱してゆき、2003年6月10日の09K運用のうち、朝の1往復の営業運転をもって定期運用を終了した。この運用は夕方以降はE231系で運行した。本来の予定では5月中に全車定期運用終了の予定であったが、E231系800番台のほとんどの編成に初期トラブルが多発し、特に営団の乗務員訓練に貸し出されていたミツ2編成が営業開始前に故障して、修理に時間がかかったため、6月に入ってからも本系列の運用が2回見られた。
JR東日本は103系以前の車両を今後使用しない方針のため、運用終了後は他線に転属することなく直ちに全車廃車となった。ただし、K4、K9編成については新車故障時の予備という意味もあってしばらく保留扱いにされ、拝島駅に疎開留置の手配が取られた(同様の例は鶴見線などでも見られた)。K4編成は2003年4月下旬に9-10号車ユニットが不調となったが、廃車間近であったため、これらは修理する必要はないとされ、5月1日に先に運用終了したK5編成の9-10号車ユニットと交換した上で運行を続けていた。
本系列は廃車後、車体のアルミ材をリサイクルする予定となっていたが、具体的なリサイクル状況については公表されていない。
さよなら運転
東西線直通運用からの離脱後、多くの編成はすぐに廃車となったが、前述の通り拝島駅に疎開していたK4、K9の両編成は夏まで車籍を有していた。このうち、K4編成を使用し2003年8月3日に快速「さよなら301系」号として三鷹~高尾間を走行するさよなら運転イベントを行った。記念列車は列車番号9567M(途中停車駅は立川・八王子のみ)として片道のみ運行(復路は回送)され、高尾駅では301系のほか、E231系800番台、165系、201系四季彩編成を電留線に留置した上での展示撮影会も行われた。
その他、当日には「地下鉄東西線直通電車さよなら記念オレンジカード」(台紙付・3枚セット3000円)が沿線15駅(中野~国分寺の各駅・高田馬場・立川・八王子・高尾)で販売されたが、発行総数合計4500組限定で当日中に完売した。同年秋に台紙なし、別デザインではあるが再び「さよなら301系オレンジカード」として販売された。
さよなら運転については、当初は定期列車として中央緩行線~東西線で運行する計画もあったが、営団との調整がまとまらなかったため、旅客営業運転では最初で最後の中央快速線での運行となった。塗装の特別な変更等はなされず、定期営業運転終了時の青帯にさよならマーク(シール)を貼付して運行された。
最後の103系1200番台となったK9編成については拝島留置のまま7月31日をもって大宮工場へ廃車回送された。その後、K4編成も8月6日に大宮へ廃車回送され、これをもって301系、103系1200番台共に系列・番台区分消滅となった。
保存車
現在、車両系列としての301系は消滅しているが、K2編成の10号車クモハ300-4は大宮総合車両センターで保管され、残存している。鉄道博物館への保存候補からは外れたが、状態は良い。
但し、破損や部品盗難などを危惧してか今のところ一般には公開されておらず、ユニットを組んでいたモハ(モハ301-7)は既に解体されているため、自走不能である。当初の大宮駅ホーム至近場所に置かれていたが、他の保管車両と共に解体線付近へ移動し、その後も構内の解体線内を転々としている。前面方向幕の表示は日焼け予防のため時折変わるという。
また、松戸に転属し1993年に廃車されたクモハ102-1201が中原電車区の南武線編成に組成されていたクモハ103-11と組んで鎌倉総合車両センター(現・鎌倉車両センター)で入換車として2005年まで使用されていたが、2006年の旧・大船工場部分の閉鎖時に施設と共に解体された。
この車両は、前面はライト増設によって301系の様になり、貫通扉下部には小窓が付けられ、黄に赤と緑のストライプというオリジナルの塗装が施されて異彩を放っていた。またクモハ103-11は建築限界の関係でパンタグラフが前部に移設され、こちらにもライトが増設されていた。末期は整備されていなかった様で退色、水垢の付着が激しく、工場公開時も特に整備されずに展示されていた。
その他、2003年5月の大宮工場一般公開で廃車直後のクハ301-7が展示されていたが、こちらも既に解体されている。
各編成の最終営業日
- K1 - 2002年11月29日(この編成のみ地上線用車両の投入(E231系0番台ミツ57編成)で置き換えられた)
- K2 - 2003年6月10日(最後に東西線を走行した編成・当初の予定では5月29日で終了であった)
- K3 - 2003年5月23日(屋根に耐熱塗料を使用)
- K4 - 2003年5月19日(9-10号車は4月30日運用後にK5と組替え。拝島疎開後、さよなら運転に使用した編成)
- K5 - 2003年4月25日(9-10号車は5月19日)
- K6 - 2003年4月30日(西船橋側5両のみ 三鷹側5両は2月で終了)
- K7 - 2003年5月15日(唯一非ユニット窓車を含んでいた編成)
- K8 - 2003年5月30日(千代田線乗り入れ用の1000番台を転用した編成。土曜・休日ダイヤである5月31日にも運用の予定があったが、中央線のダイヤが乱れたため結局3運用とも新車で運用された)
- K9 - 2003年4月30日(K6の西船橋側5両と同時に運用終了)
- K10 - 1996年xx月xx日(未更新車)
編成表(10両統一後)
※K9+K10は連結の順番が入れ替る事があった。
※営団車の小文字のcは簡易運転台装備車を意味する。
編成番号 | 1号車 | 2号車 | 3号車 | 4号車 | 5号車 | 6号車 | 7号車 | 8号車 | 9号車 | 10号車 |
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K1 | Tc301-5 | M301-1 | M'300-1 | M301-3 | M'o300-1 | To301-1 | M301-2 | M'300-2 | M301-15 | M'c300-5 |
K2 | Tc301-4 | M301-7 | M'300-5 | M301-9 | M'o300-3 | To301-3 | M301-8 | M'300-6 | M301-12 | M'c300-4 |
K3 | Tc301-8 | M301-22 | M'300-15 | M301-23 | M'300-16 | T301-101 | M301-20 | M'300-14 | M301-24 | M'c300-8 |
K4 | Tc301-7 | M301-19 | M'300-13 | M301-11 | M'300-8 | T301-102 | M301-10 | M'300-7 | M301-21 | M'c300-7 |
K5 | Tc301-2 | M301-14 | M'300-10 | M301-5 | M'300-4 | T301-103 | M301-17 | M'300-12 | M301-6 | M'c300-2 |
K6 | Tc103-1204 | M103-1211 | M'102-1208 | M103-1210 | M'102-1207 | T103-430 | M103-1214 | M'102-1210 | M103-1212 | M'c102-1204 |
K7 | Tc103-1205 | M103-1202 | M'102-1202 | M103-1207 | M'102-1205 | T103-429 | M103-1213 | M'102-1209 | M103-1219 | M'c102-1205 |
K9+K10 | Tc103-1203 | M103-1208 | M'102-1206 | M103-1209 | M'c102-1203 | Tc301-6 | M301-16 | M'301-11 | M301-18 | M'c300-6 |
←西船橋 三鷹→ | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
7両時 | CT (Tc) |
M₁ (M) |
M₂ (M') |
M₁ | M₂ | M₁ | CM₂ (M'c) |
|||
現在 | CT | M₁ | M₂ | M₁ | Mc₂ (M') |
Tc (T) |
M₁ | M₂ | M₁ | CM₂ |
鉄道模型
国鉄301系電車はNゲージ鉄道模型としてマイクロエースから発売されている。
関連項目
外部リンク
- 川崎重工業(旧川崎車両)公式ホームページ
- 国鉄・(JR)301系電車‐車体の詳細
- 301系の写真集‐各車毎の外観
- 国電とお友達‐塗色の詳細
- DT34台車
- TR204台車