西村祥治
西村 祥治 | |
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西村 祥治 | |
生誕 |
1889年11月30日 日本 秋田県南秋田郡船越村 |
死没 |
1944年10月25日(54歳没) フィリピン スリガオ海峡 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1911 - 1944 |
最終階級 | 海軍中将 |
西村 祥治(にしむら しょうじ、1889年(明治22年)11月30日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。秋田県出身。
生涯
旧制秋田中学校(秋田県立秋田高等学校の前身)から旧制横手中学校(秋田県立横手高等学校の前身)を経て、海軍兵学校入校(39期)。西村は水雷畑の提督であり敵を発見する水平線上の見張りが得意だった。見張りの神様の異名があり、コンテストで優勝した兵士達と勝負しても一度も負けなかったという。[1]。太平洋戦争の開戦を第四水雷戦隊司令官として迎え、南方作戦にともなう比島作戦に従事する。つづいて日本軍が発動した蘭印作戦では、ボルネオ島バリクパパンを攻略中に、夜間突入してきた連合軍水雷戦隊により、四水戦が護衛していた輸送船を4隻撃沈される被害を受けた(バリクパパン沖海戦)[2]。ミッドウェー海戦後は、最上型重巡洋艦で編制された第七戦隊司令官となる(前任は栗田健男中将)。西村は第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、ニュージョージア島の戦い、ラバウル空襲など、常に最前線でアメリカ軍と交戦した。
1944年(昭和19年)8月下旬、有馬馨少将(当時、南西方面艦隊司令部附)[3]は内地に帰投、軍令部および人事局より第二戦隊司令官の内示を受ける[4]。第二戦隊は扶桑型戦艦2隻(扶桑、山城)により新編され、第五艦隊(司令長官志摩清英中将)に編入予定であった[4]。ところが連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将)は、有馬少将を南西方面艦隊参謀長にする意向であったという[4]。軍令部と連合艦隊が対立した結果、有馬少将は第三十一根拠地隊司令官に補職[5](9月10日開設、同日附で発令)[6]。艦隊司令長官級の西村中将が9月10日附で第二戦隊司令官となった[5][6]。有馬少将は『同中将(西村)は志摩中将と同期であり海上の経験は数等上であり今更第二戦隊司令官でもなかったろうが何も運命である。これで余(有馬)は二度目の生命の代りとなって頂いたのであるが、この日の西村中将の風貌が忘れられない。』と回想している[5]。
第二戦隊(山城、扶桑)は編制と共に第二艦隊(司令長官栗田健男中将)に編入された[7]。大本営海軍部は第二戦隊に戦艦長門(当時、第一戦隊所属)を編入する予定であり、9月4日に昭和天皇へ上奏していた[8]。だが第二艦隊は「長門ノ第二戦隊編入ハ 次ノ事由ニヨリ当分延期シ今戦局一段落ノ機会ニ実施ノコトニ取計ラハレ度」(9月17日1047発電、第二艦隊参謀長小柳冨次少将)と意見具申し、長門は従来どおり第一戦隊(司令官宇垣纏中将。戦艦大和、武蔵、長門)として行動した[9]。
9月23日、第二戦隊は第17駆逐隊(雪風、浦風、磯風、浜風)に護衛されて呉を出撃、10月4日リンガ泊地に到着した[9]。10月中旬の捷一号作戦(レイテ沖海戦)において、西村は第一遊撃部隊第三部隊指揮官として戦艦山城に座乗、第三部隊を率いて参戦する。10月25日深夜、西村部隊は7隻のみでスリガオ海峡に突入したが、待ち受けたアメリカ軍に丁字戦法で迎え撃たれた[10]。魚雷とレーダー射撃による波状攻撃、さらに翌朝の追撃により西村部隊は駆逐艦時雨を除いて全滅した。西村も旗艦山城と運命を共にした。機動部隊指揮官(もしくは第一遊撃部隊指揮官)に宛てた最後の発信は「我、レイテ湾に向け突撃、玉砕す」であった[11]。享年56(満54歳没)。
死後
後続の第五艦隊司令長官志摩清英中将が率いる第二遊撃部隊も撤退を余儀なくされ、バリクパパン沖海戦での指揮と相俟ってアメリカからは辛辣な評価を受けることになった[2]。ただし、日本側では西村に好意的な評価があり、特に小沢治三郎中将は西村について「レイテで本当に真剣に戦ったのは西村だけだった」[12]、「西村は私心のない智勇兼備の指揮官である」とも語っている[2]。山城主計長として西村と共に戦った江崎寿人(海軍経理学校28期)は、大本営が西村部隊に与えた命令と使命は玉砕であり、西村司令官はその意図に添って行動したと述べた[11]。そして「日本海軍が米海軍に負けたのであって、西村司令官の責任ではない。当時の状況下においては、日本海軍のどの指揮官を持って来ても西村司令官以上の有効指揮は出来なかった」「天下の大勢から達観して西村司令官の指揮は最善であり、今でも西村司令官や山城艦長を尊敬している」と回想している[13]。靖国会理事・英霊にこたえる会委員で政治運動家の西村修平の大叔父でもある。
年譜
- 1911年(明治44年)
- 1940年(昭和15年)
- 11月1日 第四水雷戦隊司令官に就任。同15日に海軍少将に昇進。
- 1942年(昭和17年)
- 1月24日 バリクパパン沖海戦
- 2月27日 - 28日 スラバヤ沖海戦
- 3月末 クリスマス島攻略作戦
- 6月上旬 ミッドウェー作戦
- 6月25日 第七戦隊司令官に就任。
- 8月24日 第二次ソロモン海戦
- 10月26日 南太平洋海戦
- 11月13日 - 14日 ガダルカナル島飛行場砲撃。
- 1943年(昭和18年)
- 7月 ニュージョージア島の戦い生起によりブーゲンビル島へ進出、作戦に従事。
- 11月1日 海軍中将に昇進。
- 1944年(昭和19年)
人物像
- 旧制秋田中学校時代に、寄宿舎で舎監に不都合があり、正義感の強かった西村少年は見過ごすことができずに問責糾弾して一歩も引かなく、結局秋田中学校を退学させられた[14]。このことを、2クラス上の小沢治三郎に話したところ「おれも退学組だよ。君と同じように中学でナ。ガキ大将で手のつけられん暴れん坊だった。でも君のほうがえらいよ。おれは不良をブチのめして退学になったが、君は先生を問責したんだから」と笑って答えたという[14]。
- バリクパパン沖海戦での西村について、千早正隆は"彼一代の不覚"としている[2]。
- レイテ沖海戦での西村について吉田俊雄は「元々慎重派の武人であり、綿密に計算した故に飛び込み、後続の栗田艦隊に後を託すべく突き進んだ。」と評していた。
- レイテでの出陣前での寄り合いで、部下達に隔たり無く付き合い、明るく振る舞う姿に、小柳冨次は「西村は死ぬ気だ」と感じている[14]。
- 出撃前、西村は西野(時雨駆逐艦長)を山城に招いて懇談し、西野は西村の落ち着いて気負いのない態度に感銘を受けている[15]。
- 三人の男子があったが、西村は大尉時代に次男と三男を失い、長男(西村貞治海軍大尉、海兵65期)は1941年(昭和16年)12月23日航空機搭乗中に戦死した[16]。
出典
- ^ 『連合艦隊の栄光』第九章
- ^ a b c d 『日本海軍 失敗の本質』第三章
- ^ 「昭和19年8月16日(発令8月12日付)海軍辞令公報(部内限)第1565号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100600
- ^ a b c 有馬馨の遺稿319頁
- ^ a b c 有馬馨の遺稿320頁
- ^ a b 「昭和19年9月13日(発令9月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1592号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100900
- ^ 戦史叢書37 1970, p. 372.
- ^ 戦史叢書37 1970, pp. 568–569第二戦隊の編成
- ^ a b c d 戦史叢書37 1970, p. 569.
- ^ 『太平洋海戦史』第七章
- ^ a b 福田幸弘 1981, p. 239.
- ^ 半藤『指揮官と参謀』「小沢治三郎と栗田健男」
- ^ 福田幸弘 1981, p. 242.
- ^ a b c 吉田『指揮官と参謀』「7 責任感 西村祥治」
- ^ 佐藤、艦長たち 1993, pp. 241–242.
- ^ 福田幸弘 1981, p. 231.
参考文献
- 有馬馨『帝国海軍の伝統と教育 ― 付・比島作戦の思い出 ― 戦艦武蔵初代艦長 南西方面艦隊参謀長有馬馨の遺稿』五曜書房、2001年。ISBN 4-7952-5399-4。
- 伊藤正徳 『連合艦隊の栄光』 角川文庫、1973年
- 海軍歴史保存会 『日本海軍史』 第一法規出版
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年5月。ISBN 47698-2009-7。
- (232-249頁)空隙と盲点 <駆逐艦「時雨」艦長・西野繁中佐の証言>(レイテ沖海戦時の時雨駆逐艦長)
- 高木惣吉『太平洋海戦史』岩波新書 ISBN 4-00-413135-9
- 千早正隆 『日本海軍 失敗の本質』 PHP文庫 ISBN 978-4-569-67145-1
- 外山操 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』 芙蓉書房出版 ISBN 4-8295-0003-4
- 半藤一利『指揮官と参謀』文春文庫 ISBN 4-16-748302-5
- 秦郁彦編 『日本陸海軍総合事典』 東京大学出版会
- 福田幸弘(当時、羽黒乗組)『連合艦隊 ― サイパン・レイテ海戦記』時事通信社、1981年7月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍捷号作戦<1> 臺灣沖航空戦まで』 第37巻、朝雲新聞社、1970年8月。
- 吉田俊雄 『指揮官と参謀』 光人社NF文庫 ISBN 978-4-7698-2023-9