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シェイク・サイード

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シェイクサイード
現地名:
شبه جزيرة الشيخ سعيد
対岸のペリム島とシェイクサイードが位置するバブ・エル・マンデブ海峡の衛星写真。
シェイクサイードの位置(イエメン内)
シェイクサイード
シェイクサイード
イエメン、シェイクサイード
地理
場所 アラビア半島
座標 北緯12度44分04秒 東経43度30分19秒 / 北緯12.73444度 東経43.50528度 / 12.73444; 43.50528
隣接水域 バブ・エル・マンデブ海峡
タイズ県
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シェイクサイード(フランス語:Cheikh Saïd、Cheik-Saïd[注釈 1], Shaykh Sa'īd) イエメンの南西部の半島であり、対岸にはペリム島がある。シェイクサイードはバブ・エル・マンデブ海峡に面している。

1868年に地元のシェイクから国を購入したマルセイユのラボー・バザン社は1870年に貿易拠点を設立しようとしたが、当時、イエメンを支配していたオスマン帝国の反感を買い、1871年末に土地への権利を維持しながらも、この地から撤退した。その後のフランスではシェイクサイードが歴史や地理の地図帳、教科書、さらには辞書にフランスの植民地であるか、フランスの植民地であったと記述されていたが、実際には、併合したり占領したりすることはなく、この地を領土として主張することさえなかった。しかし、ブルーノ・フリニーフランス語版が著書のTour du monde des terres françaises oubliéesで言及しているように、ラボー・バザン社がフランスへ権利を譲渡したことは特筆に値する。

地名

シェイクサイードという地名は半島の岬に位置する、過去に崇拝されていたシェイクの、質素な墓[注釈 2]に由来する。 1870年、ラボー・バザン社がこの岬の近くに貿易拠点を設立しようと試みた時、以前は一般的にバブ・エル・マンデブ半島と呼ばれていた半島に、シェイクサイード半島と名付けた。現代のイエメンの地図にはこの半島がラス・メンヘリと書かれているが、他の2つの呼称も引続き使用されている。

地理的な特性

シェイクサイードの高台より望むペリム島

シェイクサイード半島の先端には火山性の6つの丘が存在し、その中で最も高いジェベル・メンヘリは海抜264メートルである。 これらの丘は不毛で地味な砂とサンゴを起源とする石灰質の堆積物が固まったもので形成されている。 海岸から離れると二つの山地があり、一つは19世紀の旅行者により説明されている。「険しい山々の頂点は鋭く、裂けている、又はギザギザで、ほっそりとした針のようなものもある。こうした針のような山々は時として様々なサイズの岩が点在する深い谷で隔てられている」[1] こうした概観はシェイクサイードの風景に月面のような印象を与える。 シェイクサイード半島は様々な距離の岬や岩に覆われた支脈で海へ突き出ている。 シェイクサイードの海岸はこうした突出により小さく浅い湾が形成されている。

歴史

古代

エリュトゥラー海案内記やその他の資料で言及されているオクリス(Océlis)という名の港は現在のバブ・エル・マンダブ海峡に位置していたとみられ、おそらく現在のシェイクサイードのコールゴレララグーン付近の村がオクリスであったと思われる。古代南アラビア語で綴られた碑文で言及されるマバダン(Maddabân)という地名もこの地域であると思われる。マバダンは貿易拠点というより、単なる停泊地や補給基地といったものであった。バブ・エル・マンダブ近海の貿易は主にシェイクサイードから近い現在ではモカと呼ばれている、ムーサ港で独占的に行われていた。1835年にこの地を訪れた測量士で探検家のジェームス・レイモンド・ウェルステッド英語版は、この地域が古代から居住されてきたという証拠を見つけなかった。[2]

近代

フランスの植民地建設への試み

1840年から1860年の間、フランスは紅海のアフリカ側、マッサワ以南のアンフィラ湾英語版イディズラを現地部族から購入し、植民地を作ることを試みてきたが、これらの購入は無意味だった。[3] 1860年には半公式の任務中であったスタニスラス・ラッセルフランス語版ティグレラス (エチオピア)英語版と、アドゥリス湾とデッシ島の購入に関する条約を締結したが、これも最終的にフランスは批准しなかった。

フランスは植民地の建設を紅海のアフリカ側に築き上げることを計画し続けてきたが、1868年3月にアデンバブ・エル・マンデブ海峡の間に居住する部族のシェイクであったアブドゥッラー・ビン・ムルシンが、フランスが地域を保護する見返りにアブドゥッラーの領地の中に位置するコール・アムラン港などにイギリスアデンに設立した拠点と同様の物を設置することを、アデンのフランス領事に提案する手紙を送った。 港を確認することを担当することとなったフリゲート艦ミネルヴァの指揮官であったシャイレは、この地の港は中規模の船舶でさえも接近が危険であり、さらにイギリスの影響下に置かれているアデンに隣接するこの地への保護領の設立は無数の争いの源となるにもかかわらず、なんの利益もないということを強調して報告した。そのため、フランスがこの提案を受けることはなかった。[4] · [5]

脚注

注釈

  1. ^ 20世紀後半に最もよく使われた綴りである
  2. ^ 1914年にこの地を立ち寄ったアンリ・ド・モンフレイは、航海日誌で「内部にムハンマドの旗が掛けられた、藁でできたあばら屋」と説明している。

出典

  1. ^ Jules Carrey, « La France et la mer Rouge », Revue scientifique, no 25, 1er semestre, 21 juin 1884, p. 771.
  2. ^ [[{{{1}}}]] - [[ノート:{{{1}}}|ノート]].
  3. ^ Simon Imbert-Vier, Frontières et limites à Djibouti durant la période coloniale (1884-1977), Université de Provence - Aix-Marseille I, 2008, p. 48-49.
  4. ^ Georges Douin, Histoire du règne du Khédive Ismaël, tome III, 2e partie, 1938, Le Caire, page 210.
  5. ^ Gérard Arboit, Aux sources de la politique arabe de la France. Le Second Empire au Machreck, Paris, L’Harmattan, 2000, p. 275.